2017年09月24日

『ラオスにいったい何があるというんですか?』(村上春樹)

『ラオスにいったい何があるというんですか?』
(村上春樹・文藝春秋)

村上さんが20年のあいだにかいた、いくつかの紀行文をまとめたもの。
この本が出版されたのは2年前だけど、タイトルにひっかかってしまい
これまでほったらかしてきた。
「ラオスにいったい何があるというんですか」って、
ラオスにすごく失礼ないいかたではないか。
でも、よんでみると、
べつにラオスをひくくみているわけではなかった。
これからラオスのルアンプラバンにむかおうとするとき、
のりつぎをしたハノイで、
ベトナムのひとが村上さんにいったことばだ。
なんでもベトナムにあるのだから、
わざわざラオスになんていかなくてもいいのに。
でも、それが旅行というものなのでは。

20年もの期間にわたるのだから、いきさきはあちこちだ。
ボストンやアイルランド、それに日本の熊本もふくめ、
村上さんがたずねた10ヶ所の旅行記がまとめられている。
なかには『遠い太鼓』にでてきたミコノス島とスペッツェス島、
それにトスカーナ地方のように、再訪の記録もあり、
それはそれでなつかしい。
ありきたりないいかただけど、
とりあげられている町にいきたくなるは村上さんのうまさだろう。
なかでも、フィンランドのはなしがいちばんおもしろかった。

ヘルシンキで村上さんは、
カウリスマキ監督の兄弟が経営するバー
「カフェ・モスクワ」をたずねている。
基本的経営方針が「冷たいサービスと、暖かいビール」というから
かなりかわっている。
暗くけばい もろ60年代風の内装から、ジュークボックスの表に貼られた偏執的な選曲リストから、すべてが見事なまでにカウリスマキ趣味で成り立っている。

店にはいり、椅子にすわっても、従業員がだれも注文をききにこない。
店には、カップルの客が一組だけ。
この二人はフィンランド人の三十代初めくらいの男と、エストニア人の二十歳過ぎのちょっと色っぽい女の子のカップルで、かなりダウン・トゥ・アースな、みっちり下心に満ちた、濃い雰囲気を漂わせていた。このへんの客層もいかにもカウリスマキっぽい。本当に「内装の一部」といっても違和感のないようなお二人だった。

村上さんの比喩に いつも関心するけど、
この「内装の一部」もきまっている。
いくらまっても従業員がこないので、
村上さんはけっきょく「暖かいビール」すらのめなかったそうだ。

ボストンでの
そして言うまでもないことだけれど、あなたがボストンに来るなら、新鮮な魚介料理を食べに行くことは、チェックリストのかなり上段に置かれるべき項目になる。

もいい。
翻訳っぽい文章にすることで、
いかにも外国のガイドブックをみている気がしてくる。

そして、タイトルになっている
ラオスのルアンプラバンにはなにがあったのか。
率直にいって、あまり魅力のある記事とはいえなかった
(ホテルできいた民族音楽についてかたるときだけさえている)。
村上さんとアジアは、あまり相性がよくないのかもしれない。

posted by カルピス at 22:11 | Comment(0) | 村上春樹 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月23日

「カール」ロスにそなえたヨシダプロ氏の記事がすばらしい

わたしのだいすきなモモちゃんシリーズ
(デイリーポータルZ・ヨシダプロ氏)。
今回は、柴犬のモモちゃんのしっぽが
スナック菓子のカールににているというこじつけだ。
「カール」ロスにそなえて、ももちゃんのしっぽが
どれだけカールっぽくなるかの検証である。
http://portal.nifty.com/kiji/170921200729_1.htm
この秋以降、東日本からカールが無くなるらしい。まずい。そこで、来たるべきカールロスに備えて、事実上のカールとも言える、柴犬のシッポでなんとか乗り越えたいと思う。

いつものように、めちゃくちゃな問題提起だ。
いや、これまでにいちばん無理がある設定だろう。
シリーズちゅう、最大で最高のこじつけだ。

そりゃ、たしかに犬のしっぽはクルンとまるまっているけど、
だからといっておかしのカールをおもいおこすほどでもない。
しかし、ヨシダプロは
「ほぼカール」なことが明らかになった柴犬だが、たしかにカールっぽいけど ただデフォルトのままでは、カールカタルシスはやや足りないであろう。そこで今回は、カールロスを乗り越えるべく、さらなるカール化を柴犬に施したいと思う。

ももちゃんの、さらなる「カール化」が、
今回のテーマなのだ。
100均でかってきた布をはりあわせ、
カールの袋っぽい絵を布にかく。
ヨシダプロ氏にとって、カールといえばチーズ味なのだそうで、
カールならではの「それにつけても」とともに、
「チーズ味」がかきこまれる。
これで、ももちゃんの、カール化が完成した。

デイリーポータルZにのった記事には、
たくさんの写真と説明文がのっており、
ももちゃんの無理やりカール化をたすけている。
もし説明文がなければ、いったいなんの記事か
ほとんどのひとは理解できないだろう。

とにかく、しっぽがクルンとまるまった犬がいたら、
もしカールが発売されなくなっても、
なんとか「カール」ロスはさけられるみとおしがたった。
まことにめでたいと いわねばなるまい。

posted by カルピス at 13:33 | Comment(0) | デイリーポータルZ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月22日

『裏が、幸せ』(酒井順子)

『裏が、幸せ』(酒井順子・小学館)

裏日本って、じつは魅力的な場所なんじゃないの、という、
酒井さんによる裏日本の再発見が一冊にまとめられている。
「表」の繁栄にかくれ、ひっそりとくらい印象のある裏日本だけど、
これからはその後進性こそをひとびとがもとめるかもしれない。
冒頭には、酒井さんがはじめて山陰本線にのったときのおどろきが
のべられている。
「鄙びている」を通り越して、日本海はあくまで澄んだ青、山々は緑、海山の間に建てられた家並みは統一感があって・・・と、ほとんど絶景の連続です。「こんな場所が日本にあったとは」と、私は思いました。

島根にすんでいるわたしは、日常的にこうした風景にせっしている。
あたりまえすぎて、なんともおもわない景色が、
「表」にすんでいるひとにとって、
おどろくべきうつくしさにうつるとは。
これこそが、すんでいるものには気づきにくい、
「裏」の魅力なのだろう。

酒井さんが石川県の旅館「加賀屋」をたずねると、
三代目の会長がこうはなしている。
裏日本が、表のようになったってしょうがないんです。かつて、明るく華やかな観光地を人びとは目指したけれど、これからはそうじゃないでしょう

今はもう消えてしまったもの、たとえば五右衛門風呂とか蚊帳とかね、そんなものを揃えて、その名も「裏日本」なんていう旅館をつくったら面白いだろうなぁと、これは商売人としても思いますね

ついでに、風呂にいれる水もじぶんで井戸からくみ、
マキをたきつけて湯をわかす体験もくみこんだら
人気がでるのではないか。
やったことのないひとには、マキに火はつけられないだろうから、
そこは旅館のスタッフが手だすけをする。
自分で「不便」のたのしさを体験できれば、
そうしたくらしが けして不便だけではないと気づくのでは。

酒井さんは、「日本海側美人一県おき説」を検証するために、
かつて青森から福井までの県庁所在地を調査している。
町をあるく女性が、美人か、そうでないかをカウントしてみると、
「一県おき説」がみごとに立証され、
なかでも秋田美人の健闘がめだった。
その3年後に、そのつづきとして、こんどは京都から福岡までの
日本海側の県における美人率をしらべている。
結果としては
はっきりした『一県おき』傾向は、西日本では見られませんでした。

島根は、とりあげられた6県のなかでは、
比較的たかいポイントをあげているものの(6.5%)、
平凡な数字にとどまっている(第3位)。
島根にすむものとしては、すこし残念な結果だ。
とはいえ、京都の4.5%よりも美人率がたかく、
東京でさえ、京都なみというから、
島根には美人がおおいと、いいきっておく。

表でなくてもいいではないか、と
いまをいきるひとびとがかんじるようになった。
光あるところばかりが魅力なのではない。
裏であるからこそのよさが裏日本にはあり、
これからは裏日本の時代、というよりも、
これからも裏ならではの魅力をうしなわないでほしいと、
酒井さんはねがっている。
わたしもまた、島根は島根でいいと おもうようになった。

posted by カルピス at 11:56 | Comment(0) | 酒井順子 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月21日

マッサージをうけるしわわせ

床屋さんや美容院は、たいていのところで
総しあげみたいなかんじのマッサージをしてくれるけど、
もうひとつものたりなさがのこることがおおい。
気もちよくないわけではないけど、いいところで うちきられる。
テクニックとしても、中途半端で いまひとつなかんじ。
理容学校では、マッサージの基本技術をおしえているのだろうか。
マッサージと散髪とは、ほんらい まったく関係ないのに、
タダでやってくれるのだから、ありがたいといえば ありがたい。
ありがたいけど、どうせするなら、もうちょっと、
とかんじるのが床屋さんのマッサージだ。

わたしの職場には、なにかにつけて
運転ちゅうのわたしに マッサージをしてくれる利用者さんがいる。
運転席のうしろから手をのばし、わたしの肩をたたくのは、
かなりやりにくい体勢となるはずなのに、
ひじょうにしばしばたたいたり、もんだりしてくれる。
ありがたいことに、床屋さんでのマッサージよりも、
ずっとていねいで、時間もながい。
職員としては、利用者に肩をもんでもらうなんて、
まわりのひとから、どんなうけとめかたをされるかわからないので、
やめるようにはたらきかけないといけない場面だ。
でもまあ、車のなかなら、すこしぐらはいいいいだろうと、
つい そのままもんでくれるにまかせてしまう。

そのひととしては、サービスとしてのマッサージではなく、
あそんでくれるようにと、わたしにちょっかいをかけているのだ。
でも、そのマッサージが 妙に気もちいい。
あそびとしてわたしの肩をたたいているのだから、
ときどきめちゃくちゃちからをこめてたたくこともある。
それでも、わたしの肩はガチガチにこっているのか、
我慢できないほどのちからではなく、
ほかでは味わえないサービスとして ありがたく頂戴している。

たいていのことがらがそうであるように、
マッサージも、かなりのていどセンスできまる。
へたなひとは、どんなに気もちをこめても
相手が満足するマッサージはできない。
利用者さんは、どうやってこれだけの技術を身につけたのだろう。
とにかくそのひとは、わるくないテクニックをもって
わたしの肩をもむのが なぜかすきなようだ。
たのみもしないのに、肩をもんでくれるなんて、
かんがえてみると ものすごくしあわせな状況だ。
すぐれたセンスと、マッサージずきなわたしとを、
神さまがアレンジしてくれたとしかおもえない。

みかたをかえると、マッサージは
ひとつのスキンシップでもある。
ひとの肩をもんでしたしみをあらわし、
うける側のわたしは 気もちよさを相手につたえる。
からだをさわられると いやがるひともいるけど、
わたしは抵抗がないので、わるい気はぜんぜんしない。
床屋さんのマッサージは、ながい時間 じっとすわってもらい、
おつかれさまでした、という意味がこめられているのだろう。
あるいは、スキンシップ効果をねらって、
リピーターをふやそうとしているのか。
ハグや、ラテン系のひとがよくやる ほほをあててのキスのかわりに、
日本でも、なにか身ぢかなスキンシップがひろまらないだろうか。

posted by カルピス at 21:35 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月20日

これからどんな老いがまっているのか

ときどきのぞいてみるブログに、
55歳をむかえた感想がかきこんであった。
いちねんまえの誕生日とくらべても、
つかれがとれにくく、無理がきかなくなったという。
なによりも、将来の不安がかかれていた。
計画的な人生設計のもとにくらしてきたわけではないので、
貯金はわずかしかないらしく、
年金がどうなるか、うけとれるまで健康でいられるかなど、
歳がちかいせいか、わたしとおなじような不安をかかえておられる。
ものすごく共感しながら 老いをむかえつつある心境をよんだ。

わたしのこころずもりとしては、
年金をうけとれる65歳まで、なんとか仕事をつづけ、
それからはアルバイト程度の仕事と年金で
ささやかにくらしていけたらありがたい。
ただ、それも「このままいけば」というはなしであり、
健康に問題をかかえたり、家族への介護が必要になった場合、
わたしが絵にかいてるような生活は
たちどころになりたたなくなる。
歳をとればとるほど、リスクはたかまるわけで、
けっきょくは、いつまで生きるつもりなのかが 鍵をにぎっている。
ピンピンコロリをだれもがねがうように、
わたしの予定も 死ぬまでげんきにくらし、
そこからバタバタっとみじかい期間の「さいご」をむかえるという
虫のいいねがいのもとになりたっている。
具体的には、75歳まで生きられたら、それでじゅうぶんだ。
とすれば、あと20年。
予定どおり、75歳の誕生日をむかえたときに、
わたしのからだと精神は、どんな状況をむかえているだろう。

このまえ利用者のおでかけにつきそったとき、
バッティングセンターであそぶ機会があった。
わたしといっしょにいったひとが、コインをいれすぎてしまい、
いつまでも いつまでもボールがとんでくる。
バッティングにあきたそのひとが、わたしにバットをわたしたので、
かつて野球少年だったわたしは、どれどれと打席にたつ。
バッティングマシーンに設定されているスピードは、時速80キロ。
プロ野球でしめされるスピードの半分ていどだ。
プロだったら、超スローボールであるそのスピードでさえ、
わたしはまったくバットにあてられなかった。
ほんとうに、かすりもしない。
なれたら そのうちあたるようになるともおもえない。

いまのわたしは、おそらくキャッチボールもむつかしいのではないか。
ノックをうけても、ボールのスピードに
からだがついていきそうにない。
歳をとるとは、こういうことなのかと しみじみおもいしらされる。
わかいころのイメージがあたまにのこっているのに、
からだはそのとおりにうごいてくれない。
むかしよくあそんだテニスやバドミントンも、
きっとおなじように残念なうごきしかできないだろう。
脳がからだに命令しても、からだがうごかない事実に
自分のことながらとまどってしまう。

75歳まであと20年。
これからどんな現実がわたしをまっているのか。
そうした老いを、どうしたらしずかにうけいれられるのか。
だれもが老いをむかえるのに、
なんでこんなにこころがまえが さだまらないのだろう。
はじめてむかえる老いは、わからないことばかりだ。

posted by カルピス at 22:20 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月19日

いまさらながら『ニュー・シネマ・パラダイス』

『ニュー・シネマ・パラダイス』
(ジュゼッペ=トルナトーレ:監督・1988年・イタリア)

まえにいちどみたことがあるけど、
このごろたびたびこの作品の名前や音楽が耳にはいるので、
なんとなく気になっていた。
図書館でかりて、もういちどみてみる。
(以下、ネタバレあり)

おもしろいけど、こんな内容だったっけ。
とくに、さいごのほうは、まったく記憶にない。
とおもっていたら、どうもこの作品には、
劇場公開版と、完全オリジナル版があるようで、
まえにわたしがみたのはおそらく劇場公開版だったのだろう。

有名なラストをみても、わたしにはピンとこなかった。
自主規制していたキスシーンをあつめただけじゃないか。
そんな程度にしか行間をよみとれないわたしは、
いかに映画オンチかをおもいしらされる。

そうか。ふたりの愛をじゃましたのは、
アルフレードのしわざだったのか。
いまさらどうしようもないけど、
もしわたしがそんなことをされたら 納得できそうにない。
有名になるより、すきな女性とむすばれたいにきまっている。
劇場公開版と完全オリジナル版とのちがいは、
テーマを映画への愛にするか、
女性への愛にするかのちがいかもしれない。

それにしても、キスシーンがこれだけあつまると
キスというのがじつに自然な行為なのだとわかる。
はずかしがらずに、せいいっぱいキスしておかなくては。

なきながらスクリーンをみて、
おもわずつぎのセリフをくちにする男性。
完全にこころをときはなち、おおわらいしている男性。
映画には、みているひとのこころを浄化するちからがある。
映画はかつて、こんなにもひとびとが必要とし、
くらしのなかにしっかりと根づいていた。
ないたり わらったりの娯楽というよりも、
生きていくうえで、なくてはならない存在だった。

映画そのものをあつかった作品がたくさんあるなかで、
なんだかんだいっても、けっきょくは
『ニュー・シネマ・パラダイス』にとどめをさす。
映画へのおもいに、いまも むかしもない。
作品の理解にちがいがあっても、
映画がすきなひとには、たまらない作品だ。

posted by カルピス at 21:28 | Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月18日

『イコライザー』必殺仕掛人みたいなデンゼル=ワシントンの格闘術

『イコライザー』(アントワーン=フークア監督・2014年・アメリカ)

ストーリーはいたって簡単だ。
元CIAの諜報部員だったマッコール(デンゼル=ワシントン)は、
いまは平凡な中年男性として、町のホームセンターではたらいている。
いきつけの食堂でしりあった まだおさない娼婦が、
ある日、元じめのマフィアにひどくキズつけられる。
マッコールは、マフィアの事務所をたずね、
少女をひきとる交渉にのぞむが、まったくあいてにされない。
諜報部員だった自分のちからをふうじてきたマッコールだが、
いまや忍耐の限界をこえてしまった。
その場にいたマフィア5人を、一連のはやわざでみなごろしにする。
その間、わずか19秒。

このマフィアは、ロシアのマフィアとつながっていた。
自分をころすまであいてはあきらめないとしったマッコールは、
ロシアンマフィアのトップであるプーシキンをたおすまで
たたかいつづけるときめる。

イマジカBSをつけたら たまたまやっていた作品で、
そのままズルズルとさいごまでみてしまった。
ありがちなストーリーで、ウソみたいにつよい主役の活躍も、
じょうずにつくってあり気にならない。
これだけの圧倒的なヒーローをえんじながら、
いやみをかんじさせないデンゼル=ワシントンはたいしたものだ。

マッコールの格闘術がすごい。
状況を観察したうえで、何秒であいてをたおすかをきめ、
時計のストップウォッチをおしてから 仕事にかかる。
はじめに5人のマフィアとたたかったときは、
16秒を予測し、実際は19秒だったので、
自分の仕事に満足していない。
『ザ・ウォーカー』みたいだなー、とおもっていたら、
あの作品も、デンゼル=ワシントンだった。

復讐の鬼とかしたマッコールは、
職場であるホームセンターにきたチンピラも
もはやゆるしておけない。
レジのお金と、レジ係の指輪をうばい、車でたちさるチンピラ。
マッコールは、じっと車の特徴をおぼえ、
やおら店にひきかえすと、うり場にあったハンマーを手にとって、
なにかを決意したようにみえる。
つぎのシーンで、血まみれになったハンマーを、
マッコールがタオルでぬぐっている。
いちどきれてしまうと、ロシアンマフィアだろうが、
町のチンピラだろうが、マッコールは容赦しないのだ。
この作品ちゅう、いちばんのみどころといっていいだろう。

posted by カルピス at 13:17 | Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月17日

『私はダニエル・ブレイク』ひとりの市民としての尊厳を

『私はダニエル・ブレイク』(ケン=ローチ監督・2016年・イギリス)

すごい映画をみてしまった。
ダニエルのまっすぐな生き方に、最後まで圧倒される。
(以下、ネタバレあり)

59歳のダニエルは、心臓の病気をかかえ、
医者からはたらくことをとめられている。
これまで国からの手当をうけてくらしてきたが、
支援手当の継続検査では、はたらけるので 手当は中止、
という結果がつたえられた。
不服審査にうったえようとしても、手つづきがあまりにも複雑だし、
制度そのものが、こまっているひとをたすけるようにできていない。
求職者手当を申請するために職安へいっても、
手つづきはネットによってのみうけつけられ、
パソコンにうといダニエルは、
申請書をダウンロードするのさえむつかしい。

ダニエルは腹をたてながらも、
あきらめずに手つづきをすすめようとする。
はたらけないのに、行政からは求職活動の実績をもとめられ、
履歴書をもって仕事をさがすけど、
申請のきまりとして、求職活動を証明するものがないと、
うけつけてもらえない。
こまっているものをたすけるのが行政の役割なのに、
どの窓口へいっても彼らの仕事は
よわいものたちをはじきだす方向でしか機能していない。

行政からは、はたらけるのに なまけているとほのめかされ、
ダニエルがどの窓口をたずねても、
とうてい納得できない理屈でおしきろうとされる。
行政のいうとおりに申請をだそうとしても、
オンラインサービスはわかりにくいし、
電話では、担当者になかなかつながらない。
行政の窓口をおとずれるたびに、
みじめな気もちにさせられるばかりだ。
無能で問題のある人間として、さげすまされたあつかいをうける。
良心的な職員がいても、制度じたいに問題があるため、
こまっているはどんどんきりすてられてしまう。

病気でたおれたりして、いったん歯車がくるうと、
ずるずるとセーフティーネットからこぼれてしまう硬直した社会制度。
歳をとり、病気やアクシデントでからだの自由がきかなくなったとき、
まずしいものは、どうやってくらしていけばいいのか。
ダニエルの設定年齢は59歳なので、わたしとあまりかわらない。
わたしだってからだをこわせば、すぐに生活がなりたたなくなる。
なんとか仕事についているけど、ほんのちょっとしたできごとで、
どちらにころぶかわからない 不安定なところにたっている。
だれだってそうしたリスクをかかえながらくらしており、
だからこそ正直に生きるものが、
つらいおもいをするような社会であってはならない。
ダニエルのかなしみとやるせなさが、
自分のことののように身につまされる。

それでもくじけずに、毅然として生きるダニエルは、
胸をはり、はやあしで堂々とあるく。
いいことはいい、ダメなものはだめ。
人間としての尊厳を、いつも大切に生きてきた。
ながいものにまかれず、できるだけただしくあろうとするし、
自分の生活だっておさきまっくらなのに、
こまっているひとをほっておけない。
行政にたいして正当ないかりをつたえ、
たすけが必要なひとには手をさしだす。
それらをあたりまえなこととして、行動にうつせるがダニエルだ。

映画のおわりのほうで、
ダニエルが、手当の審査に不服をもうしたてるとき、
行政にうったえようと、自分のかんがえを紙にまとめていた。
ひとりの市民として、まじめにはたらき、税金をおさめ、
それをほこりにおもって生きてきたのに、
自分のような人間をずっとないがしろにしてきた行政へのいかり。
ほどこしをうけようとはおもわない。
自分は番号ではなく、ひとりの人間であり、
市民として尊厳をもってせっしてほしい。
しかし このうったえが、
ダニエルの口から直接つたえられることはなく、
映画はかなしみのラストをむかえる。

posted by カルピス at 21:57 | Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月16日

ネコの行動原理

江國香織さんの短篇集
『号泣する準備はできていた』をよんでいたら、
かいぬしになつかないネコがでてきた。
弥生にも夫にもなつこうとしなかった。ベッドの中や、洗いたての衣類の山の上に粗相をした。

ピピといっしょだ。
ピピとはいい関係だとおもいこんできたけど、
もしかして、いやがらせをしてるだけだったりして。
いやいやそんなわけはない。
人間がかんじている関係性とは、
まったくべつの原則でネコたちは生きているのだ。
人間が、かってにかわいいだの、
ひねくれているだのと、きめつけているだけで、
ネコたちの行動原理はつねにかわらない。
夏はすずしいところ、冬はあたたかいところをもとめ、
やわらかてもりあがったところでおしっこしたい。
よごれているトイレはつかいたくないので、
うごくのがめんどくさいときはベッドのうえで粗相もする。

ナ月さんのブログに、「菌を飼う」という作品がある。
http://nekokaenu.tumblr.com/post/158887465728/%E8%8F%8C%E3%82%92%E9%A3%BC%E3%81%86-%E7%B7%8F%E9%9B%86%E7%B7%A8
ネコをかえないアパートぐらしなので、
かわりにのらネコのツメからとった菌をかう、というはなしだ。
ベランダによくくるので、そのネコをベラと名づけた、
というのがさえている。いかにも菌的な名前だ。
ネコでさえ、人間の対応とはべつの原理でうごいているのだから、
菌にいたっては、人間のおもわくとは関係なしに
繁殖したり、活動をとめたりする。
ナ月さんのかかわり方も、熱心に世話をしたかとおもうと、
あきたので、ほったらかしにしたり、すごくムラがある。
はじめのころはかわいがっておきながら、
さいごには非情にも
「でも飽きたもんは飽きたので捨てた」
なのがすごくおかしい。
ネコをすてたりしたら、ひどい人間ととがめられるけど、
さすがにあいてが菌となると、すてても良心はいたまない。
ネコ的なものとのつきあいは、さまざまだ。
かわりに菌をそだててしまうほど、ネコはかわいい。

posted by カルピス at 12:03 | Comment(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月15日

職場の事業所がひらいた実践報告会

わたしの職場である介護事業所が、
関係者をまねいて実践報告会をひらいた。
5人の職員が、それぞれ自分のとりくみを発表している。
保護者や養護学校の先生、また、ほかの事業所からなど、
60名の方が参加される。

外部のひとたちにきいてもらう報告会は、
これがはじめての機会だ。
開所してから15年になるので、
これまでひらかなかったのが不思議といえるだろう。
発表になれないせいか、ひとり20分の発表がながくかんじられたけど、
職員たちの熱意がつたわってきて、好感をもつ。
介護職員のなれのはてとなったわたしは、
その仕事愛に感心するしかない。

「医療的ケアの必要な利用者をむかえての実践」の発表では、
気管切開や胃ろうをしている方のうけいれが報告されている。
重度障害の方が、ブルーベリーがりや海水浴、
それに、ゆかたをきて花火大会におでかけされているようすが
じっさいに写真で紹介されると、説得力がある。
医療的ケアが必要な方は、
養護学校を卒業すると、いく場がなくなって、
ずっと家ですごさなければならないケースがおおい。
そんな方たちにとって、今夜のような報告は、
つよい関心をあつめるにちがいない。
医療設備のととのった、おおきな施設でないと
利用できないとおもっていたのが、
身ぢかにあるちいさな事業所が実践しているのだから、
もっとこうしたとりくみがひろがってほしい。

今夜くばられた資料に、事業をはじめてからのうつりかわりが
表にまとめられていた。
2003年の4月、6名の正職員と4人のパート職員ではじまったのが、
15年後の2017年には、正職員24人・パート職員16人にもふえている。
わたしは、事業所のたちあげにかかわり、8年間つとめたものの、
もういいや、という気になって、いちど事業所をはなれている。
5年後に、頭をかきながら、またもどってきたわけで、
いまは、職場にわるい影響をあたえないよう 気をつけながら、
わかい職員たちにすべてをまかせ、
いわれるがまま、しゅくしゅくとはたらくだけの存在だ。
今夜の報告会にも、完全にお客さんとして顔をだした。
いまさらわたしがいえた義理ではないけど、
いい職員集団がそだちつつあり、こころづよくおもった。

posted by カルピス at 23:13 | Comment(0) | 介護 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする