2017年08月16日

『騎士団長殺し』と散歩にひたった夏やすみ

お盆やすみ、つまり会社づとめの人間にとっての
実質的な夏やすみがきのうでおわった。
8月11日から15日まで、5日間をぜんぶ自分のためにつかえたので、
客観的にいえばわるくはないかもしれないけど、
このていどでよろこんではならない、ともおもう。

たった5日間とはいえ、ぜんぶ自由にしていいよ、といわれると、
あんがいリズムがつくりにくいものだ。
ことしは
・リハビリみたいなトレーニング
・散歩
・読書
の3つが、ぴったりはまる休暇となった。
リハビリみたいな、というのは、
ことしいちばんの目玉であるスイムランをおえ、
身体的にも精神的にも一段落ついた。
いわばオフの時期として、まったくからだをやすめるのではなく、
負担のない範囲で すこしからだをうごかし、
しかるべき再スタートにつなげるすごしかただ。
具体的にいえば、プールで1500メートルをゆっくりおよいだり、
ひさしぶりに体幹トレーニングにとりくんだり。

散歩は、いつもいくスーパーへ、たまたまあるいていったら、
あんがい気もちよくて、もっとつづけてあるきたくなった。
つぎの日から とおまわりのコースをえらび、
1時間半から2時間あるいている。
ふだんから これぐらいの時間をはしることはあっても、
散歩としてはめずらしい体験となる。
はやあるきしていると、だんだんリズムよく足がうごくようになる。
老後の生活をさきどりしたような ながい距離の散歩だ。

読書は『ロング・グッドバイ』(レイモンド=チャンドラー)と、
いまさらながらの『騎士団長殺し』(村上春樹)にとりくむ。
夏やすみのメインイベントとして、この時期の「騎士団長」を
まえからねらっていた。
第一部と第二部、それと、『みみずくは黄昏に飛びたつ』
(村上春樹・川上未映子)もいっしょにかいこみ、
いまは第一部がおわったところ。
期待していたとおりおもしろい。
かきたいことを、かきたいように表現できる
村上さんのテクニックがすばらしい。
村上さんは自由自在にことばをあやつり、
おもうぞんぶんものがたりをうごかしている。

意外だったのは、「騎士団長」の奥付をみると、
発行された日づけが2月25日になっていたこと。
増版をなんどもくりかえしているとおもっていたのに、
発売されてから半年後にかった本が、
まだ初版なのは、あまりうれていない、ということだろう。
わたしみたいな、いまさらながらの読者がいうのもなんだけど、
これだけすぐれた本が、なぜもっと評判にならないのか不思議だ。
それとも、おまつりにうかれた新潮社が、
ありえないほどの数をはじめに印刷したのだろうか。

たのしい5日間のあと、きょうの出勤は心理的にかなりおもたかった。
バカンスをここちよくすごすリズムができたところで
また仕事がはじまるのはいつものお約束だ。

posted by カルピス at 19:09 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月15日

20年後のA子さんは、いまどうしているだろう

えくぼさんのブログに、「別荘は負動産に」という記事がのっていた。
http://blog.goo.ne.jp/matsui04/e/3951787c95ee4176c1081678ec7851f6
土地は財産ではなく、もはや負動産とでもいうべき存在なのだ。
朝日朝刊の一面トップ記事は「別荘地投げ売り10万円、バブル期の価格の130分の1になってしまった例が取りあげられている。「この夏も軽井沢の別荘で過ごしますの」と言っていたA子は今どうしているだろうか。
海外旅行が盛んになり別荘への魅力が下がりはじめていたとき、A子は貯金をはたき更に銀行から借りて軽井沢の別荘を買った。(中略)
あれから20数年過ぎた。彼女の消息は全くわからない。友だちを別荘に招き親交を深めたかったとしたら、彼女は計算を間違ったことになる。しかも暴落していたら、などと心配するのはやめよう。とっくの昔に手放して儲けて高級なケアホ一ムで楽しく過ごしているかもしれない。

そういえば、しばらくまえの新聞に
『宝くじで1億円当たった人の末路』(鈴木信行・日経BP社)
という本の広告がのっていた。

・海辺の町でのんびり暮らしたひとの末路
・子供を作らなかった人の末路
・教育費貧乏な家庭の末路
・賃貸派の末路

などがとりあげてあるようだ。
たしかに いろんなケースごとの「末路」が気になる。
宝くじほどハデなできごとでなくても、
人生におけるおおきな転機をむかえたひとはおおいだろうし、
わかいころから はっきりとした方針のもとに生きていたひとが、
その後どんな生活をおくっているのかしりたい。
ただし、「教育費貧乏」とか「賃貸派」などのような、
おおざっぱなくくりでは、
あまりはっきりした傾向をつかめないような気がする。
ひととなりについて、ある程度しっているひとであれば、
どんな末路がまっていたのかを、より客観的に分析できるのでは。

A子さんは、いまどうしているだろう。
20年まえはこうだったひとが、
いまはこうなっている、とかけるのは、70歳よりも年配のひとだ。
50代のわたしが、50代のしりあいの「いま」をかいたところで、
このさきまだどうなるかはわからない。
オシムさんがいうように、人生はトータルであり、
さいごになにがまっているかはだれにもわからない。

でも、70歳のひとが、わかいころの友人の言動をおもいだし、
それと「いま」をくらべるのは、だれにでもできる。
コツコツはたらいたひとがどうなったか、
おおきな病気を体験したひとがどうなったか、
じゅうぶんな貯金をもたずに老後をすごしているひとが
どうなっているか。
20年でどうなったかの情報がもっとほしい。
団塊の世代の方たちが、まわりをよくみわたして、
しりあいたちのその後をこまかく報告してくれないだろうか。

posted by カルピス at 09:05 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月14日

宮田珠己さんの「たのしい47都道府県正直観光案内」に島根が登場

宮田珠己さんが『本の雑誌』で連載ちゅうの
「たのしい47都道府県正直観光案内」は、
毎回どこかの都道府県をとりあげて、
その土地ならではの観光スポットを紹介している。
こういう企画は、とかく耳ざわりのいいことばが ならびやすく、
おおくの観光案内がにたような内容になりがちだ。
そうならないために、宮田さんが担当しているわけで、
この連載では、宮田さんぐらいしか関心をもたないのでは、という
きいたことのない地名やたのしみかたが紹介されている。
各都道府県のかくされた特徴をあぶりだし、
実用性はあまりないけど、よみものとして興味ぶかい
「正直」な観光案内が特徴となっている。

その連載に、ようやく島根と鳥取がとりあげられた。
毎回ふたつの都道府県が紹介されており、よくにた県として、
島根と鳥取がセットであつかわれるのは、
いたしかたのないところだろう。
でも、ますますよむひとの誤解をまねかないだろうか。

島根と鳥取は、ほかの都道府県にすむひとからみると、
地理的な関係がおぼえにくいそうで、
どっちが島根でどっちが鳥取なのかがわからないという。
それを逆手にとって「島根は鳥取の左側です」と
鷹の爪団の吉田くんが自虐的にいうのだけど、
こうやってひとくくりにあつかわれると、
ますます「どっちが左側だっけ?」となりそうだ。
どっちがどっちでも、世界情勢にはたいして影響がないので、
いつまでたっても、あいかわらず「島根はどっち?」となる。
おなじような人口で、おなじように地味な県が
たまたまふたつならんでるのだから、
まちがわれてもしかたがないと、
地元の人間はほとんどあきらめている。

かんじんの記事のほうは、島根・鳥取とも
いまひとつきれあじがよくない。
宮田さんらしさがあまりかんじられず、
したがって、どこかの観光案内とたいしてかわりがない。
宮田さんをもってしても、島根と鳥取は
にたような印象しかのこせなかった。

島根と北朝鮮の財政規模はいっしょ、と
だれかがいっていたけど、ほんとうだろうか。
島根みたいな小規模の予算でまわしている国が、
あんなにたくさんのロケットをうちあげても大丈夫なのか。
やってることの是非はともかくとして、
島根とおなじような貧弱な財政規模の国が
一生懸命わるあがきをしているようで、いたましくおもえてくる。

posted by カルピス at 10:41 | Comment(0) | 本の雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月13日

ながい積んどくのはてに やっと手にした村上春樹訳の『ロング・グッドバイ』

『ロング・グッドバイ』(レイモンド=チャンドラー・早川文庫)

清水俊二氏の訳による『長いお別れ』は、
大学生のころにいちどよんだことがある。
なにがかいてあったか、内容をすっかりわすれたけど、
ミステリーにおける「必読書」として手にとった。
村上春樹が訳したこの新版は、本文だけで594ページと、
『長いお別れ』よりもおよそ100ページながい。
ストーリーとしてはさほど複雑ではないけど、
なにしろいろんなことがおこるし、
登場人物のおおくがおしゃべりなので、
あるていどのながさがなければ、
こまかな設定のすみずみまでえがけない。
よみだしてすぐに、本のぶあつさをたのもしくかんじ、
600ページをよみおえたときには、
小説の世界にどっぷりとひたれた充実感を味わえる。

『村上春樹翻訳(ほとんど)全仕事』によると、
村上さんはチャンドラーの文体をモデルにしながら、
「一段一段、階段をのぼっていくような感じ」で
自分の世界にふみこんでいったという。
チャンドラーの文体は撲の原点でもある。そういう小説を自分の手で翻訳できるのは、実に小説家(翻訳家)冥利につきるというか。
村上さんにとってレイモンド=チャンドラーは、
そしてとりわけ『ロング・グッドバイ』は、
特別な意味をもつ小説として 位置づけられている。

おかしかったのは、にくからずおもっていた女性と
いよいよベッドへ、という場面。
「君にはどれくらい財産がある?」
「全部で、どれくらいかしら。たぶん800万ドル前後ね」
「君とベッドに行くことにした」
「金のためなら何でもやる」と彼女は言った。
「シャンパンは自腹を切ったぜ」
「シャンパンくらい何よ」と彼女は言った。

こんなときに
「君にはどれくらい財産がある?」
なんてたずねる男がいるだろうか。
「たぶん800万ドル前後ね」
と即答する女性も息がよくあっていて、いいかんじだ。
この場面でのマーロウは、シャンパンにからめた軽口がさえている。
酒がやたらとでてくる小説でり、
ついわたしもつきあってしまい、
のみすぎる日がなんどかあった。
それもまた、この小説をよむときの
大切な一部分かもしれない。

本書をよんでいると、村上さんの存在をしばしばかんじた。
こんなことをいわれたら、村上さんとしては不本意だろうけど、
まるで村上さんがかいた本みたいだ。
文庫版が発売されてからすぐにかっていたものの、
ずっと本棚にならべるだけになっていた本書を、
なぜきゅうによんでみる気になったのだろう。
チャンドラーによばれて、というよりも、
村上さんにおいでおいでをされたような気がする。

posted by カルピス at 10:23 | Comment(0) | 村上春樹 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月12日

うまくいかない自然農法による米つくり

お盆がちかづき、道路わきにひろがる田んぼには、
イネの穂がみのりつつある。
梅雨にあまり雨がふらなかったけど、
その後なんとかもちなおしたし、
気温もたかく、米つくりには もうしぶんのない年だろう。
でも、わたしの田んぼでは、イネがあまりおおきくそだってない。
このままいくと、とてもよその田んぼのようには
穂をつけてくれないだろう。
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何年もお米をつくってない田んぼをかりたのだから、
栄養がたりないわけではないとおもう。
きょねんの秋にはレンゲの種もまいており、
根粒菌がバッチリ繁殖しているはずだ。
いまは水をかけながし しているけど、
低温障害をまねく春さきには 水をとめていた。
自然農法による米つくりは、ことしが3年めで、
なにがよくて、なにがわるいのかが いまだによくわからない。

わたしの職場では、庭さきや、
市民農園でそだてている野菜が
あんがいおおきくそだっている。
コンポストには、トマトがしっかりと実をつけているし、
おどろいたことに、スイカもりっぱなのができて、
わたしもおすそわけにあずかった。
しろうとがつくったスイカなんて、
どうせたいしたことないだろう、とおもっていたのに、
じゅうぶんあまくて おいしい。
なんだか、自然農法でイネや野菜をそだてるのが
つまらなくおもえてきた。
土をたがやさなくても、肥料をやらなくても 米や野菜はできる。
収穫はすくないだろうけど、できただけでいいのだ、
なんてえらそうにいっていたけど、
できなければ やる気がおきない。
職場でたべたおいしいスイカは、
その満足のいく味とはうらはらに、
わたしにはかなりショックなできばえだった。
まだ3年めとはいえ、自然農法はそれほどかんたんに
ゆたかな収穫をむかえさせてくれない。

posted by カルピス at 14:09 | Comment(0) | 農的生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月11日

ひとり上手で あまえ上手

ほぼ日の「今日のダーリン」に、
あまえ上手なネコが紹介されている。
深谷かほるさんの『夜廻り猫』のなかに、
老夫婦に飼われている猫が、
なにかとわがままを言って甘えるという回があった。
ところが、それは、おじいさんとおばあさんへの、
サービスとして猫がやっていることだったのだった。
あれしてくれ、これはいやだ‥‥というわがままに、
懸命に応えようとしている老夫婦のほうに、
うれしそうな微笑みがもたらされているのだ。

あまえているようで、じつは あまえさせてくれている、という
ちょっとひねった関係だ。
わたしはまだ、「うれしそうな微笑み」
をうかべられるほど できた人間ではないけど、
あまえるのはネコからのサービス、というのはよくわかる。
理不尽な時間にわたしをおこし、食事の世話をさせるのは、
ピピから同居人たちへのごほうびだ。
すべてを自分ひとりで しゅくしゅくとすすめられては、
家族としていっしょにすごすよろこびがない。
ネコはひとり上手でもあり、あまえ上手でもある。
いちにちのほとんどを、まるまってすごしているのに、
自分がなにかをもとめるときには
根気よくつきまとって世話をやかせる。

ピピの得意技は、わたしのからだによじのぼってきて、
じっと目をみつめながら胸にだかれること。
ネコがこんなふうにしてくれる経験をもつひとは、
そうはいないぞ、と そのたびに自慢したくなる。
赤ちゃんだっこも、あんがい難易度がたかい。
お腹がまるだしになるこのポーズは、
あつい信頼関係がきずかれてないと成立しない。
ピピは、わたしに全体重をあずけ、
ニャゴニャゴはなしかけたり、目をしょぼしょぼさせて
リラックスしているとつたえてくれる。
わたしに全幅の信頼をおき、安心しきってねむりこけているピピ。
そうおもわせてくれるピピ。

中島みゆきの「ひとり上手」は、
みかけほど ひとり上手なわけではない、とうたっているけど、
ピピはひとり上手とあまえ上手を、苦もなく両立させている。
口内炎をわずらってから3年がたち、
生きているのが不思議におもえるのに、
ますますわたしたちにサービスの機会をあたえてくれる。
ときどきまわりをこまらせながら じょうずにあまえるので、
「ひくく安定」の状態を ながくつづけられるのだろう。

posted by カルピス at 13:35 | Comment(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月10日

林雄司さんの「いま口内炎できてない!最高!」がおもしろい

林雄司さんの「いま口内炎できてない!」がおもしろかった。
http://yaginome.jp/?p=1645 
口内炎ができてないときに「口内炎できてない!最高!」と思わないのは損

という論理から、口内炎以外の
「できてない!」にも ふだんから気づきたいという。
たとえば、

・痔
・親が病気
・期限をとっくに過ぎてるレンタルDVDがある
・借金がある
・確定申告しなければならない

を林さんは例にあげている。
そして、
「いま痔じゃないし、確定申告の季節じゃない、最高!」と考えるのだ。

たしかに、そうとらえると、
「生きてるだけでまるもうけ」を実感できる。
「〜であるしあわせ」はよくかたられるけど、
「〜でないしあわせ」は、とかくわすれがちだ。
ほぼ日が提唱する「なんでもない日、おめでとう」も、
かんがえ方としてはおなじだろう。
しあわせはスペシャルなイベントだけではない。
平凡な日常こそがしあわせなのだ。
自分と家族が健康にくらしている「いま」が
どれだけ貴重な時間であるか、
なにかあったとき おもいしらされる。
ただ、それらをしんみりかきつらねても
ただしすぎて おもしろくない。
口内炎まではなしをおろし、
「最高!」とおまつりにするかるさが 林さんのうまさだ。

ぱっとおもいついた わたしの「最高!」は、

・片頭痛をもってない
・腰やひざのいたみになやまされていない。
・痛風じゃない
・交通事故をおこしてない
・車のなかにだれかをおきわすれてない

などで、歳のせいか、健康についての項目がおおくなる。
おわりのふたつは、仕事をしてるとき、
こんなミスをした「エヘヘ」ではすまされないだろうから、
想像しただけで ものすごくおっかない。
ただ、これらはじっさいになやまされた体験とはちがう。
もっと身ぢかで切実なのは、仕事じょうのノルマや、
すすめなければならない企画などの
プレッシャーではないだろうか。
さいわい いまのわたしはどちらも免除されており、
健康面でも、仕事についても、
おおむね「最高!」な生活をおくっているのではないか。
もっといまのしあわせをかみしめておかないと。

口内炎よりずっとおおきなはなしとして
核兵器の利用がある。
北朝鮮の金正恩氏、アメリカのトランプ大統領と、
これまでにないタイプがふたりそろい、
世界はいま ものすごくあぶなっかしい。
まだいまは戦争になってないから最高!、とはとてもおもえない。

posted by カルピス at 18:38 | Comment(0) | 林雄司 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月09日

自由につかえるお金でなにをするか

朝のおむかえにでかけるまえ 事務所によると、
理事長から相談をもちかけられた。
みこんでいたよりも おおくのうりあげがあり、
このままいくと、年度末にお金がのこりそうだという。
赤字よりもちろんいいわけだけど、
あんまりたくさんのこると、税金をおさめなければならない。
健全な事業所として、税金をおさめるのは当然の義務ながら、
国がこれだけいいかげんなのをしると、
できるだけ税金をはらわずにすませたくなる。
これまで お金に余裕があった年は、ボーナスをふやしたり、
年度末手あてとして職員に還元され、
おもいがけない臨時収入として よろこんだものだ。
理事長からの相談は、お金をあまりのこさないよう、
なにかいいつかい道はないだろうか、というもので、
職員への手あてや旅行などを候補にあげられた。
わたしのふところにはいるわけではないけど、
すきにつかっていいといわれると、
具体的な企画をとっさにおもいつかない。

わたしにこんな相談がもちかけられたのは、
いまの事業所をはじめたときに、
4人が10万円ずつだしあってたちあげた、という経緯があるからだ。
そんな事業所が、パートをふくめると
いまでは30人がはたらくほどに発展し、
適切なサービスを提供するげんきな事業所として
まわりからもみとめられている。
その後わたしは無責任になげだしてしまったけど、
理事長はずっと代表として、
利用者と職員のことをかんがえつづけてきた。

おむかえの運転ちゅうに、ずっとお金のつかい道をかんがえる。
東日本大震災の被災地をたずねるとか、
おもいきって外国旅行にでかけるとか、
事業所の本をつくるなど、
いくつかのアイデアがうかんできた。
でも、だんだん頭のなかでかたまってきたのは、
理事長がおもしろいとおもったことに つかってほしい、というものだ。

つかい道のきまってないお金が、おもいがけずのこりそうなのは、
15年間、ずっと自分や家族を二の次にして、
事業所のことをかんがえてきた理事長に、
神さまがごほうびをくれようとしているにちがいない。
これまでおおきな問題もなく事業が展開してきたけど、
これからはいろんなうごきがありそうだし、
理事長だってこのさき歳をとれば、
いつまでもわかいころとおなじようには からだがうごかない。
これからの15年は、これまでの15年と、
まったくちがう姿をえがくにちがいない。
ひとくぎりついたいまだから、
自由になるお金を、理事長がやりたかったことにつかってほしい。
理事長がいいとおもうのなら、
やる気のある団体に寄付をしてもいいし、
職員の旅行につかってもいい。
15年間がんばってよかったとおもえる
たのしいつかい道をえらんでほしい。

わたしのかんがえを理事長につたえる。
どんな方向性でのぞむかは、理事長が判断をくだすだろう。
わたしとしては、自由につかえるお金を
突然プレゼントされた気になり、それだけで興奮してしまった。
自由にお金をつかってもいい、といわれると、
あんがいなにもできないものだ。
ずっと節約と貧乏のはざまで生きてきたわたしが、
ひとときでも大金もちになり、
おもってもみなかったいい夢をみさせてもらった。
理事長は、このさき どんなお金のつかい道をえらぶだろう。

posted by カルピス at 21:39 | Comment(0) | 介護 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月08日

島根における 人口のすくないメリット

デイリーポータルZにのった さくらいみかさんの
「田舎と都会で『何人で1空港使ってるか』をくらべた」
http://portal.nifty.com/kiji/170807200343_1.htm
に便乗して、島根の事情を紹介したい。

さくらいさんの記事によると、
28万の人口である鳥取県には2つの空港があり、
この比率を東京の人口にわりあてると
48の空港をつかっているようなものなのだという。

このまえ関西国際空港にあるコンビニにはいったとき、
レジをまつお客さんの列が、
ぐるっとまわってお店を1周ちかくしてるのにおどろいた。
これだけながい列だと、ぜんぜん「コンビニ」じゃない、と
ならぶ気にならず、しばらく行列をながめていた。
絶望的におもえたながい列は、みるまにお客がさばかれていき、
そんなにまたなくても かいものができているようだ。
おおければおおいなりのシステムができあがっているのだろう。
それにしても、店内を1周する行列など、
島根では よほどのアクシデントがかさならなければ ありえない。
関空という特殊事情もあるのだろうけど、
これでは店員さんと挨拶や世間ばなしができない
(店員さんとのおしゃべりが島根ではあたりまえ)。

このまえ家のちかく(車で5分)にある県立プールにいくと、
よいお天気で、土曜日の10時なのに、
お客さんがわたしをふくめて3人しかいなかった。
50メートルプールを、3人でかしきったわけで、
わたしが1500メートルをおよぐあいだ、この数はふえず、
とうぜんながら1コースを占領して ゆっくりおよげた。
選手が練習する時間帯には、プールの半分がかしきられたりするので、
いつもお客さんが3人というわけではないけど、
それでもひとりで1コースをつかえるのは
島根では あたりまえなので おどろかない。

さくらいさんは、空港に車を無料でとめておけるのも紹介している。
家から空港まで車で30分のちかさ。
旅行ちゅう、そこに車をずっととめていても 料金はかからない。
めちゃくちゃ気がるに旅行できるので、
わたしは米子空港から韓国の仁川国際空港にとび、
そこからアジアの各都市へ、というフライトをできるだけえらぶ。
島根から4時間かけて 関空にでることをおもえば、
ものすごく楽に外国へいける。

このごろ島根はIターンやUターンのかたがふえたり、
過疎を逆手にとった施策がうまくすすみ、
活気のある町づくりでしられるようになった。
それらのとりくみだけでなく、
人口がすくないメリットだって いくつもあるのだ。
人口ボーナスといって、人口がおおければ
それだけ経済成長が促進される、といわれるけど、
島根や鳥取のように、人口がすくなければ、
都市部にすむ方には しんじられないような状況が
ごくふつうの光景となる。
もちろん、すくないゆえのデメリットもあるのだろうし、
過疎問題が深刻な地域もおおいだろうけど、
わたしがすむ松江の人口20万人は、ふつうにくらしていると、
すごくいごこちのいいおおきさだ。

posted by カルピス at 06:53 | Comment(0) | デイリーポータルZ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月07日

悪口にもいろいろありそう

わたしがはたらく事業所で、ひとりの利用者さんから、
「吉田さんの顔は はずかしいね〜」と、ときどきいわれる。
とくにふかい意味はなく、きっとまえにウケた体験がわすれられず、
いつのまにかきまり文句になったのではないか。
だって、ニコニコしながら そういってくるのだから。
面とむかって「はずかしいね〜」といわれると
ばかにされて頭にくるというよりも、
ヒザ裏カックンをされたかんじになる。
はずかしくなんかないよ、とつっぱねるのもへんだし、
あんがいわたしの顔のどこかに
はずかしい部分がほんとうにあるのかもしれないし。

「吉田さんはウンコだね〜」も おなじひとから よくいわれる。
いまウンコにいっている、という意味ではなく、
あのひとはウンコでできている、または、
あのひとの存在はウンコのようなものだ、にきこえる。
「はずかし〜ね〜」とおなじで、
ふかい意味はなく、 ついついいってしまうのではないかと想像する。

ふつう、たとえ冗談でも、ひとにむかって
これだけストレートにわるぐちはいわないので、
いい体験をさせてもらってる、とうけとめたい。
いわれたわたしは ショックをうけるより、
「そうか、おれの顔ははずかしいのか」と
じっくりかんがえる機会となる。というのはウソで、
面とむかって「はずかし〜ね〜」といわれても
じっさいはなにもかんじない。
腹がたつよりも、ただおもしろい表現だとおもう。
いってる側に、わるぐちという意識はなく、
あくまでもウケねらいの冗談だからだ。

冗談と差別のちがいって、どこらへんにあるのか。
差別かどうかは、うけた側がきめる。
いったほうが、冗談だとおもっていても、
いわれた側が差別だとうけとれば、それは差別だ。
このケースの場合、いっているひとが
悪意をもっているとはおもわないので
ただの冗談とうけとめられる。
顔がはずかしいも、ウンコだね〜も、
どちらともかなりの表現だけど、悪意はこもっていない。
ウンコとまで、面とむかっていわれたひとは すくないのではないか。
そんなことをいっても、なにごともおこらないのだから、
いうひとの人徳なのかもしれない。
いくら悪意がないからといって、悪口にきこえないのは、
かなりめずらしいケースではないか。

サッカーでは、差別表現がなかなかなくならないので、
試合まえに「差別なしのフェアプレーをします」みたいな
宣言をよみあげることがある。
あえてそこまでしないと、人種差別をといただせない。
そんな宣言をしたからといって、差別はなくならないけれど、
サッカー界全体の方針として、
差別へのきっぱりとした態度が必要となっている。
すこしまえまでは、日本と関係ないはなしかとおもっていたのに、
国内での試合・外国のチームとの試合の両方で、
いまでは人種差別がおおきな問題となってしまった。
「顔がはずかしい」「ウンコ」を、
冗談としてききながせる世界は平和だ。

posted by カルピス at 06:47 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする