2017年11月24日

2どめのコンフィを、保温調理法でためしてみる

豚バラ軟骨をつかい、2どめのコンフィをつくる。
豚バラ軟骨とはなにか。
こまかなことはわからないけど、
軟骨まじりの肉が、スペアリブみたいなおおきさでうられている。
30分ほど煮れば、じゅうぶんやわらかくなるし、
時間がなければ、圧力なべに5分かければいい。
何時間も煮こむとか、アクをすくって、とかの
こまかな下処理は必要なく、
牛すじが、気やすくかえない値段になったいま、
100グラム50円の豚バラ軟骨はすごくありがたい。
おでんだけでなく、野菜との煮こみにもよくつかう。
おおきなお皿に山もりの豚バラ軟骨をみかけると、
わたしは うれしくなってすぐカゴにいれる。
ファンがおおいのか、いつもうり場にあるとはかぎらない。

前回のコンフィは、鶏の胸肉をつかい、
炊飯器で保温したけど、
おもったほど脂がまわらなかったし、
やわらかくもなかった。
今回は、鍋を新聞紙にくるんでの保温調理法でためしてみる。
塩コショウとスパイスを適当にまぶした豚バラ軟骨を、
冷蔵庫でひとばんねかせる。
つぎの日に、豚バラ軟骨を鍋にうつし、
ラードをしぼりだして火にかけた。
ラードがたりなくて、肉全体が脂につからなかったので、
たりない分はオリーブオイルをかける。
豚バラ軟骨コンフィ.jpg
加熱しすぎると、よいコンフィにならないそうなので、
脂がグツグツいいだすまえに火からおろし、
1日分の新聞紙を2枚ずつ、すこしずらしてならべ、鍋をくるむ。
新聞紙の保温力は、かなりすぐれており、
ひとばんたっても、まだじゅうぶんにあたたかいほどだ。
つぎの日の朝、鍋を新聞紙からとりだして、
常温でほっておくと、すぐに脂がかたまりはじめる。
脂がかたくなりすぎると、あつかいにくいので
適当なところで容器にうつし、冷蔵庫で保存する。

豚バラ軟骨は、もともとが脂肪分たっぷりの肉であり、
それをコンフィにすることで、
どれだけ脂のうまみがひきだされるか たのしみにしていた。
たしかに、脂が肉ぜんたいにまわり、
フライパンでやいてみると、脂がどっととけだしてくる。
でも、肉がおいしくなったかどうかは微妙なところで、
脂たっぷりのハムみたいになるのを期待していたけど、
そんな上等な加工品にはならなかった。
しばらく保存できる、というのが最大のメリットのようだ。
低温による調理がコツ、とあるけど、
新聞紙での保温調理は、条件をクリアしていないのかもしれない。
ラードにまみれた肉や容器のあつかいになれていないので、
あまりのギトギトさに手をやいてしまった。
ほんものの肉食文化になじみのないわたしは、
脂のうまみとおくぶかさが よくわかってないのだろう。
コンフィを2回つくってみて、
ラードとのつきあいは、しばらくおやすみしたいとおもった。

posted by カルピス at 20:29 | Comment(0) | 料理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月23日

「いい夫婦」がなんだかんだ

きのうはクッキー班のメンバーといっしょにイオンへ。
クッキーの材料をかうためだ。
11月22日は「いい夫婦の日」として
カーネーションのプレゼントがすすめてあった。
11月22日なので、「いいふうふ」というゴロあわせだ。
いろんなことをかんがえるものだ、と感心し、
でも、まえにみたことがあるような気もする。
それにしても、なんでカーネーションなのだろう。

いっしょにあるいていたメンバーから、
わたしの家、というか夫婦は、いい夫婦ですか?と、
ストレートにたずねられた。
いまさら、この手の質問にドギマギしたりはしない。
ひらきなおりというか、よけいなお世話というか、
問題の所存はそんなところにはない、と喝破しているからだ。
というのはウソで、
わたしたちは、まったく議論の対象にならない
いきづまったカップルなので、
こうした質問は そもそも成立しない。
もうずいぶんまえに、いいか わるいかは、つきぬけたようだ。

「いい夫婦の日」と、いいだした側にしても、
なにかの冗談だったのではないか。
そして、ちいさな親切と。
「いい夫婦の日」なんてありえない問題に、
あえて あなたたちはいい夫婦ですかと、
すでにわすれさった概念があるのをおもいださせてくれる。

わたしと配偶者は、おなじ家にくらしているけれど、
おたがいの配慮による精密な連携プレーにより、
ほとんど顔をあわせることもなく、
まるで2世帯住宅にくらしているかのようだ。
何年も行動パターンを観察しあってきた成果として、
朝のいそがしい時間も、おたがいがじょうずにすれちがい、
出勤への準備をしゅくしゅくとすすめる様式が確立されている。
であいのないところに、問題はうまれず、ストレスも生じない。
「いい夫婦」であろうとすれば、
それなりのプレッシャーもあるだろうが、
そこは20年以上のつきあいにより、暗黙の了解がいつしかうまれ、
いくつもの難問を、なんなくスルーしている。
無理してすれちがうのではなく、
自由にふるまっていながら、なおかつ別の世界、というのがミソだ。

問題ありすぎ、とつっこみたいひともいるかもしれないけど、
100%うまくいっていると、本気でひらきなおっている。
ここらへんは、いま話題になっている加計学園や
森友学園の問題とよくにている。
安倍さんは、もしかしたら本気で「問題ない」とおもっているのに、
世間一般的には問題だらけだったりして。

まえは、もうすこしジタバタしていたけど、
いつしか このままいくしかないのだろうな、と
さとりをひらくまでにいたっている。
ひとには寿命があり、いつまでも30代ではいられない。
歳をとれば、それなりの達観があるので、
わかい夫婦のみなさんは、心配しなくても大丈夫だ。
何万年もの人類の歴史や、宇宙が誕生した奇跡をおもうと、
わたしたちがいい夫婦かどうかなんて、
まったくとるにたらない問題でしかない。
「わたし」を大切にしすぎないのがコツなのかも。

posted by カルピス at 10:57 | Comment(0) | 配偶者 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月22日

紅白にSHISHAMOが出場

紅白歌合戦に出場するひとたちが発表された。
例によって、わたしのしらない名前のほうがおおく、
わたしがいかに芸能オンチかをおもいしらされる。
複数回目の出場となるひとでも、
おぼえのない名前がいくつもあるのだから、
ひらきなおるしかない。
それに、だれがでて、だれがでないのかは、
おおくのひとにとって すぐにはこたえられない難問だ。
たとえばAIが3回目の出場なのに、
aikoはなぜえらばれないのかなんて、
わたしにはむつかしすぎる。

ただ、初出場でもSHISHAMOだけはしっていた。
送迎のとき、ラジオでよくきく「ゆうがたパラダイス」で
SHISHAMOの「明日も」がかかり、
この曲のよさはわたしにもすぐわかった。
ことしを代表する歌になる予感があり、
むすこやしりあいにきかせると、だれもがいいという。
きっと、紅白にもでるだろうと、わたしはおごそかに宣言し、
そしてじっさいそのとおりとなった。
べつにわたしがえらいわけではなく、
反対に、いかにわたしがミーハーかの証拠ともいえる。
だれもがいいとおもう曲を、
わたしもまたいいとおもってしまう。
わたしのこのみがみんなよりもさきをいき、
あとからブームになったら得意だろうけど、
そんな体験はしたことがない。
あとをおいかけるのは、いつもわたしのほうだ。

ことし一年は、ガールズバンドについていこうとしてみた。
ヒャダインさんのラジオ番組”ガルポプ!”と、
月曜から木曜までのゆうがたパラダイス(NHKーFM)により、
これまでさけてきたガールズポップに、
意識して頭をなじませようとした。
アイドルの曲にだって耳をかたむけている。
紅白に2年つづけての出場がきまった欅坂46が、
ゆうがたパラダイスの月曜日を担当しており、
メンバーがふたりずつ順番にでている。
ほかの曜日をうけもつ女性たちとくらべ、
欅坂の女の子たちは、いかにもアイドルで、
舌たらずのしゃべりかたと、はなしの貧弱さがきわだち、
わたしにとって、ききつづけるのは そう楽ではない。
なかには自分のことばではなせるひともいるけど、
自立した女性をアイドルにもとめる
わたしのほうに無理があるのだろう。
アイドルとは、こういうひとたちのことをいうのだと、
ふなれなわたしに「アイドル」をおしえてくれたのが欅坂46だ。

一年の集大成として、ことしの大みそかは
しっかりと紅白をみてみよう。
すくなくとも、SHISHAMOと欅坂46だけは
どんな舞台となるかみとどけたい。
一年にわたるわたしのささやかなガールズポップ体験は、
どんな実をみのらせるだろうか。

posted by カルピス at 22:17 | Comment(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月21日

残留あらそいにまきこまれているサポーターの心理

今年のJ1も、のこすところ あと2試合となり、
優勝と残留をめざしていくつものチームが
きびしいあらそいをくりひろげている。
優勝をほぼ手中におさめた鹿島、
でもまだあきらめてない2位の川崎、
ACL(アジアチャンピオンズリーグ)の出場権をめぐり、
3位あらそいのセレッソと柏、
ギリギリの残留あらそいで、
もはやかつしかなくなった清水・広島・甲府・大宮。

今年は3シーズンぶりに1シーズン制へともどっている。
どこかのチームがぶっちぎりで優勝したら
この時期の試合はおもしろみにかけるけど、
さいわいさいごまで優勝と残留のゆくえに
目がはなせない一年となった。
シーズンのはじめに波にのれなかった広島は、
けっきょくさいごまで残留あらそいにまきこまれてしまった。
とちゅうで監督が交代し、選手の補強もありながら、
きょねんまで優勝をあらそっていたチームが、
さいごまでピリッとしない。
優勝目前の鹿島にしても、石井監督がとちゅうで解任されたし、
ほかにも浦和・神戸・大宮・新潟と、
ぜんぶで6チームの監督が交代する異例のシーズンとなった。

朝日新聞の日曜日に連載ちゅうの
『ディス・イズ・ザ・デイ』(津村記久子)に、
応援するチームが残留するかどうかで
やきもきするサポーターの心情がえがかれており、胸にせまる。
忍は、ヴェーレ浜松が一部から二部に降格した試合をテレビで観る前、自分はどうだったかを思い出そうとする。試合の後にどうなってもいいように家事と仕事をすべて済ませ、部屋の掃除をして、お茶を淹れて、寒かったり暑かったりしないように部屋の空調を念入りに調整した。もちろん、忍も夫の和敏も一切予定は入れなかった。前日は二人で呑みながらだらだら別のチームのことを話し込んで、昼前に起きて、近所のレストランへ昼ごはんを食べに行って、キックオフの一時間前には買い物を済ませて自宅に帰った。

残留あらそいが意味する修羅場をしらないひとには、
いったいなにがどうしたので、こんなわかりにくい儀式が
えんえんとくりひろげられるのか 理解にくるしむだろう。
なにかをめざしているようで、なにかをさけているようでもある。
いったい、このふたりは、なにをもとめて
こんなややこしいうごきをするのか。
すごく念いりというか、集中というか、
逆に集中しないように気をそらすというか、
大切な試合まえのソワソワ感がすごい。
正面きって、おもいっきり応援するのではなく、
目のまえにせまった試合を、
ぜんぜん気にとめないようなふりをする。
でもほんとうは、そのことばかりをかんがえながら、
試合を意識しすぎないよう 最大限に気をくばる。
ふたりの息がぴったりなのも
夫婦というよりは、筋金いりのサポーターどうしであり、
こまやかな配慮がすさまじいまでにうかがえる。

自分のことなら だれもここまでしない。
個人の努力・がんばりでは、どうにもならないから、
はれものにさわるような、慎重きわわりない対応となる。
もはや、やれることはすべて手をつくした。のこるは神だのみだ。
自然界の秩序とバランスを、ほんのちょっとした不注意により
くずしてしまわないように、超人的な配慮のもと、
試合のなりゆきを、人知のおよばない、なにものかにゆだねる。
サッカーの神さまにほほえんでもらうには、
気をそらして、なにごともないようによそおうしかない。
愛にあふれたサポーターといえども、それしかできない。
でなければ、気まぐれな神さまは、
するっとむこうへとおりぬけてしまうのだ。

いまの時期、残留をめぐってあらそうチームとサポーターは、
忍と和敏の夫婦のように、最善をつくしたのち、
息をひそめながら さいごの試合をむかえるしかない。

posted by カルピス at 06:40 | Comment(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月20日

よくいくスーパーが休業になっただけで、世紀末のおとずれをかんじ、はげしく動揺する

プールからのかえり、いつものスーパーへ。
店内のあかりがくらい。駐車場の車がすくない。
いつもとちがうようすに、お店ぜんたいをよくみると、
ガラスに「休業中」とおおきくかかれた紙がはってある。
清掃業者がはいり、おおがかりなかたづけがはじまっている。

夕方だし、プールでおよいでいたせいもあり、
なんだか目にはいる景色がぼんやりしている。
歳のせいもあって、このごろ夕方がすごくくらいのだ。
かいものができないので、しかたなく車で家にむかうと、
とおりすがりにみえるほかのお店も、
なんだかあかりがくらくしてあるようにみえる。
わたしのしらないうちに、なにか異変がおこり、
お店が次々に閉鎖しているのでは。
こんなふうに、いつもいく店がバタバタと閉店したら、
どんなに不自由だろう。不自由だし、さみしい。
人口がへりつづけたら、いまにわたしがすむ町は、
こんな風景になるのだろうか。

『ザ・ロード』(コーマック=マッカーシー)をおもいだす。
世紀末は、もはや太陽がかがやくことはなく、
つめたい雨がふりつづけ、将来に希望をもてない。
ひとびとは、生存をかけて食糧をうばいあう。
人口がへりつづけると、こんな状況がおとずれるのだろう。
空想ではなく、現実になにか異変がおきたのではないか。
うすぐらく、ぼやっとしたかえり道の風景は、
ただごとでない事態がおとずれている気配をかんじさせる。
もっと灯油や食糧を備蓄しておけばよかったとくやむ。

家にもどって、スーパーのチラシをみると、
改装中でのため休業、とあり、
11月下旬にリニューアル・オープンする予定だという。
ほんとうに、一時的な休業のようだ。
さいわい、世界はなにもかわっていなかった。
よくいくスーパーが休業になっただけで、
こんなに動揺するとはおもわなかった。

posted by カルピス at 06:38 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月19日

「夜回り猫」(深谷かほる)になけた

「夜回り猫」(深谷かほる)の第324回になけた。
http://www.moae.jp/comic/yomawarineco
お腹をすかせながら夜回りをしている遠藤さんに、
「猫さん よかったら 食べものあるよ」
と犬が声をかけてくる。
「犬殿これは?」とたずねると、
「撲のだよ 父さんにもらった」という。
でも、じつは、そのフードをおきみやげに、
この犬はすてられたのだ。
それをしりつつ、犬は父さん・母さんをうらまないで、
ふたりをみおくっている。
うらむどころか、のこりすくなくなったフードを、
「僕のだよ」と、遠藤さんにすすめたところだった。

遠藤さん(夜回り猫)はいう。
おまいさん 心で泣きながら
黙って見送ったのか 偉かったな・・・

すてられながら、犬(ラブ)は、
さっていった父さん・母さんの無事をねがっている
きっと よほどのことだ
父さん 母さん 無事かな・・・
どこかで楽しく暮らしてくれればいいんだけど

遠藤さんはラブをちからづける。
「大丈夫・・・大丈夫! きっと大丈夫だ」

わたしは、この手のはなしにすごくよわい。
「心で泣きながら 黙って見送った」ラブの心情をさっすると、
なんとかしあわせに生きてと、ねがわずにおれない。
そんなラブを、「大丈夫だ」とはげます遠藤さん。
ことばえらびが的確で、ひとこと ひとことがツボをおさえている。
「犬殿 一緒にゴミでもあさらないか?」
とさそえるようなひとに わたしはなりたい。

posted by カルピス at 06:28 | Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月18日

津村記久子さんのコラムに松江市の循環バスがでてきた

ブログをかいているとき、
ひとの文章を引用してばかりいるので、
あまりにもオリジナリティがない内容にいじけがちだ。
でも、かんがえてみると、
朝日新聞の第一面にのっている「折々のことば」にしたって、
ぜんぶひとのアイデアを紹介しているだけともいえる。
えらいひとが、堂々と とりあげれば有名なコラムとなり、
これまであまり陽のあたらなかったことばに再評価をあたえる。
わたしの引用も、それはそれで、意味があるかもしれない。
というわけで、引用についてのひらきなおり。

朝日新聞に連載されている
津村記久子さんのコラム「となりの乗客」に、
わたしがすむ町の循環バスがでてきた。
島根の松江市の循環バスからの眺めは、最近よく動画サイトで視聴しているテキサスの市街地の車道からの風景に似ていたりもする。(「となりの乗客」〜世界の中の点〜より)

まさか、ひごろよくのっている循環バスからのながめが、
テキサスと似ているとはおもわなかった。
わたしは、毎週かならずこの循環バスにのっており、
窓からの景色をかなりよくしっているつもりだ。
地元の人間にとって、かわりばえのしないながめでしかない。
謙遜ではなく、ほんとうに、どこの町でもみかけそうな景色だ。
そんな日常風景を、いきなり津村さんに、
テキサスと松江市の車窓が似ているといわれておどろいた。
テキサスというと、サボテンがまばらにはえている砂漠で、
ところどころにおおきな看板がたっている
だだっぴろい空間を想像するけど、
市街地についていえば、松江市とかわらないらしい。

津村さんのコラムは、
遠く離れたある場所とある場所の類似のことを考えていると、どこにいようと人はおなじなのではないかと思えてくる。結局、それぞれが立っている場所が世界の中心なのだ。

とむすばれている。
似ているからつまらない、ではなく、
似ているのがあたりまえであり、
だからこそ いまたっている場所を
世界の中心と とらえられる。

似ているのだから、旅行なんかにでかけなくても、
自分のいる町で満足すればよさそうなものだけど、
それはまた、べつのはなし。
似ていると確信するには、でかけなければわからない。
そして、いまたっている場所が世界の中心に位置づける。
世界の中心は、ニューヨークでも渋谷でもなく、
自分がすむ町であり、テキサスの市街地なのだ。

posted by カルピス at 09:59 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月17日

回覧板をまわす近所のおじさんに仮装してのボジョレー配達

ゆうべは お得意さま宅へ、ボジョレー=ヌーボーをとどける。
職員ふたりがペアをくみ、10コースにわかれて市内をまわるのだけど、
なんねんもまえから、仮装しての配達がお約束になってしまった。
はじめは100均でかったサンタさんの服をきる程度だったのが、
だんだんとエスカレートして、
いまではまるでハロウィンみたいだ。

わたしは、デイリーポータルZの
「地味な仮装」というコンセプトに共感しており、
ふつうなら仮装しないであろう、
たとえばスタバの定員とか、交通誘導のひとを参考に、
きょねんはクロネコヤマトの配達員に「仮装」して、
それなりの評価をえた。

それから一年。
ことしはなにをしようかと、
ずっと頭にひっかかったまますごしていた。
で、最終的にきめたのが、
「回覧板をまわしている近所のおじさん」だ。
回覧の内容は、近所にボジョレーの配達をよそおった
家出ヤンキー少女が出没し、おしうりの被害がでているので、
みかけたときは、ご注意ください、にする。
わたしがおうちのひとに説明していると、
そこへヤンキー本人があらわれて おしうりをはじめる・・・、
というストーリーだ。
わたしは、普段着でいいし、
ペアをくんだ女性職員も、ヤンキーの仮装はやりたかったようで、
高1のむすめさんから制服をかり、シナイをかついで
迫力あるヤンキーを演出してくれた。

玄関のチャイムをならし、
「回覧板で〜す」と声をかけると、
「そこへおいといてください」と、
しごくもっともな返答をされるおうちがあった。
みたことのないヤンキーに、
冗談としりつつ、こわがってくれたひとがいた。
ボジョレーを1万円でかってくれ、
でないと家にかえれないとすごむのだから、
プレゼントをとどけにきた、というよりも、
子どもをなかす ナマハゲみたいだ。
さいごにたずねたお宅では、
ひとりさみしくすごしていたところに
わたしたちがやってきたので、大歓迎をうけた。
砂漠でたすけをまつところにあわれた 救助隊みたいだ。
おしゃべりをしたくて たまらなかったそうで、
おしうりをしようと、ボジョレーに1万円をふっかけても
「かいます かいます」と よろこんでくれる。
むこうのほうがはるかに役者がうえだった。

事業所にもどると、まだ仮装のままの職員が記念撮影をしていた。
男性職員の女装は定番ともいえ、
かわいい女子高生がいて、おもわず写真をとった。
かくれていたチャームポイントがひきだされ、
みんなが おもいがけないかわいさをみとめていた。
芸能界にくらいわたしは、なにに仮装しているのか
わからないペアもあったけど、
職員たちは、ボジョレー配達の仮装をたのしんでいるようだ。
普段着でのぞんだのはわたしだけで、
みんなの熱意になんだか水をさしている。
来年は変化球にたよらず、本格的な仮装をして、
究極の地味おじさんになりきろうとおもった。
171116ボジョレー配達.jpg

posted by カルピス at 09:54 | Comment(0) | 介護 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月16日

『ライオン〜25年目のただいま〜』

『ライオン〜25年目のただいま〜』
(ガース=デイヴィス:監督・2016年・オーストラリア他)

インドのいなか町でくらす5歳のサルー。
スラムよりもちょっとまし程度のまずしい集落だけど、
兄と母親からたっぷりの愛情をそそがれ、しあわせにくらしている。
といっても、母親は石はこびのきびしい仕事につき、
兄とサルーにしても、はしっている汽車にとびのって
石炭をちょろまかして小銭をかせがなければ、
くらせないような最低限のくらしだ。
(以下、ネタバレあり)

兄が仕事にでかけるというので、サルーもついていきたくなった。
自分は子どもではなく、ちゃんと仕事ができるとダダをこねるので、
兄のグドゥはしかたなくつれていく。
ねむくなったサルーは、駅のホームのベンチでよこになり、
グドゥひとりが仕事をさがしにいく。
目をさましたサルーは、
だれもいないホームにひとりだけになっていた。
さみしさと混乱から、兄をさがしまわるうちに、
のっていた列車がうごきだしてしまう。
まっくらな駅のぶきみさとこころぼそさ。
あとにしてきた町でさえ、さきのみえない最低なくらしにみえるのに、
兄とわかれたサルーは 完全なひとりぼっちとなる。
回送列車だったので、駅でののりおりがないまま2.3日はしりつづけ、
サルーがすんでいた町から
1600キロもはなれた カルカッタについた。

大都会、カルカッタのものすごいひとごみと、よるべのない絶望感。
駅でくらす孤児たちのちかくですごしていると、
ひとさらいが子どもたちをつかまえにくる。
ホームレスとして町をさまよい、数ヶ月をすごすうちに、
孤児院へとながれついた。
ここまでが前半部分。

そこからの第2部は、場面をオーストラリアにうつす。
孤児たちにそだての親を斡旋する慈善事業で、
サルーはオーストリアにわたり、
養子としてそだてられることになる。
サルーのあたらしい人生が、インドからはるかとおく、
オーストラリアのタスマニアではじまる。

時計の針は一気に20年すすみ、サルーは大学生となった。
オーストラリア人の両親としあわせにくらしながらも、
おさないころをすごしたインドをわすれられない。
兄や母親との生活が、しきりにサルーの脳裏をかすめる。
仲間とはなしているときに、グーグルアースをつかえば、
かすかな記憶から、自分がすんでいた町を
かなりのていど推測できるのでは、とおもいつく。
兄と母に、愛情ぶかくそだてられた記憶から、
自分が家族のことを気にとめるとおなじように、
ふたりもまた 自分のことを心配しているとサルーは確信している。
パソコンにむかううちに、インドにのこしてきた家族を
自分がどれだけふかくもとめているかに気づく。
仕事をやめ、部屋にこもり、ルーツさがしにのめりこんでいく。

生みの親と、そだての親。
パソコンでの検索は、そだての母親であるスーを、
うらぎりっているようにおもえ、サルーはなやむ。
あるときスーがサルーに、
「子どもはもてた」とうちあける。
子どもはもてた。でも、いまの時代に
自分の子どもをうむことに、なにか意味があるだろうか。
それよりも、そだてる親をうしなった子どもたちに
あたらしい愛をあたえるほうが、
自分には意味があるとスーはかんがえた。
スーのふかい愛をしったサルーは、
感謝しつつも、インドへの旅だちをきめる。
いまをしあわせにくらしていても、
自分がどこからきたのか はっきりしらないことが、
こんなにもひとを不安定な気もちにさせるものなのか。

サルーのねがいどおり、
母親はいまもおなじ町にすみ、
サルーを気にとめながら生きていた。
25年目の、奇跡的な再会だ。
タイトルのライオンがなにを意味するかは、
じっさいに映画をみていただきたい。

インドのスラムで、5歳の子が みよりをうしなったときの絶望感。
自分の子をもてたのに、養母となる道をえらんだスー。
このふたつがあまりにも圧倒的で、強烈な印象をのこす。
「ライオン」をみたあとでは、謙虚な気もちになる。
夕ごはんのしたくをしながら、
ここにはすべてがある、天国みたいだと、ふとおもった。
きっと、これもライオン効果だ。

posted by カルピス at 23:09 | Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月15日

佐々木正悟さんの「コーヒーを飲みながら仕事しない」におどろく

シゴタノの佐々木正悟さんは、
コーヒーをのむときでさえ、
同時になにかをしないそうだ。
「コーヒーを飲みながら仕事しない」
https://cyblog.jp/29073
なぜなら、マルチタスクをさけたいから。
時間によほど追われていると自分で判断するのでない限り、マルチタスクは極端なまでに避けています。べつにできないわけではありませんが、マルチタスクに よる時間の節約というのは、思うほど効果がなく、しばしば時間がかえってムダになり、しかも経験が薄められてしまうと思うからです。

同時にふたつ以上のタスクをすすめないほうが、
目のまえの仕事に集中できるだろう。
とはいえ、それは原則であって、
いくらシングルタスクがいいといっても、
コーヒーぐらい、仕事をしながらのんでもいいのに、
とあまりの徹底ぶりにわたしはおどろいた。

ここまで徹底してシングルタスクにこだわると、
ひとつのスタイルとしてかっこよくみえる。
わたしはこのごろあるくのがたのしくて、
2時間くらいあるくのに集中していると、
頭もからだもリフレッシュされて気もちがいい。
まさに「あるくためにあるく」のであり、
なにかをめざしてではなく、ただあるくのがたのしくてあるく。
メモとボールペンも もっているけど、
かなりのスピードであるくと、
あんがいものごとはかんがえられない。
アイデアが空からおりてきたりもしない。
ただひたすらあるいており、それだけでたのしい。
これなんかも、シングルタスクとしてのここちよさだ。

カニグズバーグさんの『13歳の沈黙』(岩波書店)をよんでいたら、
いちどにひとつのことしかしない
家政婦のヨランダさんがでてきた。
彼女はいちどにひとつのことしかしない。
しずかに、ていねいに、ひとつずつ仕事をすすめていく。
このおちついた態度こそを、依頼主の女性は必要としていた。
仕事ははやいけどあわただしい、というのではなく
ヨランダさんのしずかな仕事ぶりが
まわりから信頼されのはとてもよくわかる。

この本をよんでから、わたしもまた
できるだけいちどにひとつのことしかしないよう
こころがけるようになった。
たとえば、冷蔵庫にバターをしまおうとたちあがったとき、
テーブルにあったよごれたお皿が目にはいり、
バターといっしょに手にする、
ということがよくあるわけだけど、
そんなときにも、まずバターをしまい、
その動作が完全におわってからお皿をながしにもっていく。
とにかくひとつずつしかしないこと。
簡単なようで、これがなかなかできない。
どうじにふたつ以上の仕事をすすめると、
効率はいいかもしれないけど、
雑な生き方となり、うつくしくない。
「いちどにひとつ」は、生活におちつきをもたらす。

posted by カルピス at 22:02 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする