2018年04月21日

自然農法による4年目の米づくり

1年目20キロ、2年目ゼロ、
3年目は950グラム(キロではない、グラムだ)と、
自然農法による米づくりが さっぱりうまくいかない。
きょねんはかなりていねいに泥団子をつくり、
ひとつひとつ間隔をはかって田んぼにおとしていったのに、
たいして改善はみられなかった。
いちばんうまくいった1年目は、花さかじいさんみたいに、
泥だんごをバラリとまいたら あんがいうまくいった。
ていねいにやってもうまくいかないのだったら、
楽なほうがいいので、ことしは花さかじいさん方式にもどした。
泥団子もつくらない。
種もみを田んぼの土とまぜ、
団子というほどのかたまりになってない状態で、
そのまま田んぼにまいていった。

泥団子づくりは、けっこうめんどくさい。
種もみを土とまぜたのち、
まずウンコみたいなヒモ状の団子をつくっていく。
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それをかわかしてから、こまかくくだき、
ウサギのえさみたいなペレットにする。
田うえにくらべたら はるかに楽なものの、
できるだけかんたんなほうがいいわたしとしては、
団子づくりの手間もはぶきたかったので、
ただ土とまぜるだけにとどめてみた。
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種もみと土をまぜてブルーシートにひろげ、
すこしかわかしてからバケツにいれてまく。
あわせて1時間あればすべておわる。
ふつうの米づくりでは、田うえと稲かりの時期がいそがしい。
どうしても春と秋に仕事のピークがふたつできる。
春は、田うえの準備として、トラクターで土をあらくおこしたのち、
田んぼに水をはって、またトラクターのロータリーで
土をこまかくしてから、ようやく田うえができる。
自然農法による直まき栽培は、それをぜんぶ省略する。
土をたがやさないし、田うえもせず、
田んぼにちょくせつ種もみをまく。
ただ、もみのまままくと、鳥にたべられてしまうので、
土とからめた団子にしてまくのが特徴だ。
その、唯一の「仕事」である泥だんごづくりさえ、
こんかいはかんたんにすませたので、種まきが1時間でおわった。
まわりの田んぼをみると、この時期は
トラクターで田うえの準備をすすめている。
わたしは きょうだけで、田うえに該当する すべての仕事をおえた。
ものすごく楽だったけど、はじめにかいたとおり、
なかなかおもうように稲がそだたない。
かといって、ふつうの米つくりには興味がわかないので、
自然農法をことしもまたためしている。
ことしは何キロの収穫があるだろうか。

posted by カルピス at 20:54 | Comment(0) | 農的生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月20日

そういえば、ためいきをつかなくなっていた

ピピがいなくなったさみしさから、
このごろふかいためいきをつくようになった。
ためいきしつつ、そういえば、
ためいきをつくのが ひさしぶりなのに気づいた。
何年かまえのわたしは、やたらとためいきしては、
まわりのひとにいやなおもいをさせていた。
ただでさえ、ためいきはネガティブな印象をあたえる。
わたしのためいきは、自分ではそんなつもりはなくても、
もう生きるのがいやでいやでしょうがない、
という意思表明としてうけとめられるほど、
たちのよくないためいきだった。

そうしたためいきを、なぜわたしはつかなくなっていたのだろう。
仕事や私生活が順調だった、というのはあたらない。
わたしは、人生をほとんどおりた人間としてすごしており、
なにかを工夫したり、改善したりというのをなげだしている。
なるべくかんがえずに生きようと、にげまくっている人間がわたしだ。
家では、家族との会話はほとんどなく、
私生活の充実には こころあたりがない。

あるいは、そういうなげやりな方針が
ストレスをとおざけ、ためいきをつかなくても
すごせるようになっていたのかもしれない。
まえは、職場での立場じょう、
やる気のなさを露骨には あらわさなかったけど、
嘱託になってからは、職員会や勉強会には参加せず、
残業もまったくしないで、きっちりと勤務時間だけ職場にいる。
50代なかばということもあり、
よくいえば、すべてわかい職員にバトンをわたしたつもりで、
自分にできるのは、サポートていどだとわりきっている。
まわりもわたしを そんな人間だと認識してくれ、
じゃまものあつかいせず、丁重にあつかってくれる。
わたしが気らくにすごしている分、
だれかがその荷物をせおっているのかもしれないけど、
いつまでもふるいおじさんが幅をきかせるより、
組織全体のことをおもえば、わかい職員が活躍したほうがいい。
さっさと半隠居の立場を確保するのが
年長者のやくわりかもしれない。

なにかをしなければならない、という義務的な仕事がなくなり、
純粋に歯車としてのやくわりにじゅんずる。
そんな仕事にやりがいがあるのか、
というひとにはむかないかもしれないけど、
やりがいとか目標を否定しているわたしにとって、
いつのまにか いごこちのいいポジションをえて、
ぬくぬくとくらしていたようだ。
こんな仕事ぶりなのだから、ためいきをつく必要などない。
あんがいはたらき方改革をさきどりしていたのかも。
ピピがいなくなり、さみしさからためいきをつくことはあっても、
仕事を重荷にかんじてのためいきは、いまでもついてない。
はたらき方改革がうまくすすめば、
仕事にはげんでも、ためいきなしですごせるのだろうか。

posted by カルピス at 20:29 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月19日

すぐれた曲のおおくは、あんがいだれがうたってもヒットしたのでは

運転しながらラジオをきいていると、
ときどきものすごく有名で、こころをとらえる曲がかかる。
あんまりいい曲なので、これぐらい圧倒的にとびぬけていたら、
もしかりに たいへん歌がにがてなわたしがうたったとしても、
それなりにヒットしたんじゃないか、なんておもえてくる。
たとえば
ボブ=マーリーの「ワンラブ」、
ベッド=ミドラーの「ローズ」、
ルイ=アームストロング「この素晴らしき世界」。

もちろんこれ以外にも、すばらしい曲はたくさんある。
しかし、ほんとうに胸にひびいてくる曲は、
あんがいすくないもので、
それ以外のほとんどは人畜無害な曲だ。

おおざっぱにいってしまえば、
世の中には3種類の曲しかない。
ものすごくいい曲か、
そこそこな曲か、
どうでもいい曲。

ものすごくいい曲は、
乱暴ないいかたをあえてすれば、
だれがうたっても きくひとの胸に
なにがしかのメッセージをとどけられる曲。
さきにあげた「ワンラブ」などがこれにあたる。

そこそこな曲は、
すでに名がしられているひとがうたっているから、
なんとなくヒット曲あつかいされているけど、
どうしてもその曲でないと、
というほどの存在感はない。
ある意味で、親の七光り的な曲といえる。
とはいえ、ちゃんと歌で勝負しようとしている態度は評価できる。
自民党の世襲議員みたいに、
本人はなんのとりえもないのに、
親の地盤をそっくりゆずりうけるほど悪質ではない。

そして、それ以外の圧倒的多数は、
どうでもいい曲だ。
ほとんどの曲は、このカテゴリーにはいる。

がんばってヒットさせようとおもった時点で、
その曲はすでにまちがっている。
いい曲は、もっとまえの段階できまっており、
努力してどうこうなるものではない。
どうこうなるような曲は、そもそも名曲ではない。

小説などは、たとえー作しかうれなかったとしても、
だれでもかける本ではない。
その作家らしいなにかがあったからヒットしたり、
名のしれた賞をもらえたりする。
それにひきかえ、歌の場合は、
だれがうたっても あるていどはうれたのでは、
という曲があんがいおおくはないか。

だれがうたってもヒットする曲かどうかは、
だれかがわたしにすぐれた曲をプレゼントしてくれて、
その曲が楽々と大ヒットを記録すれば、
この仮説がただしいかどうかわかる。
でも、それほどすぐれた曲だったら、
無名のわたしにプレゼントするよりも、
つくったひとがさっさとうたってしまうだろうから、
永遠にこの仮説のただしさは証明されない。

posted by カルピス at 22:17 | Comment(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月18日

「お店のようなもの」のお店は、「となりのお店」にきまりました

かとうちあきさんがやっている
「お店のようなもの」みたいなお店をやろうとしている。
カチッと形がととのったお店ではないので、
ぼんやりしながらすこしずつ形がととのってきた。
ならべる品は、わたしたちがつくっているクッキーと、
しりあいからもらってきた雑貨、というかふるい食器と、
わたしの家にあるいらなくなった本。
お店のなまえは、クッキー工房のとなりにあるので
「となりのお店」にきまった。
「となりのトトロ」みたいだし、
「お店のようなもの」にすこし似ているし、
どんなお店なのかよくわからないところが気にいっている。
まえの記事にかいたとおり、
http://parupisupipi.seesaa.net/article/458610795.html?1524053603
お店のコンセプトとは、かとうちあきさんの
「お店のようなもの」をそのままいただく。

きのうは、わたしの職場が、あたらしくカフェをひらいた。
介護事業所なので、ふつうなら障害をもったひとたちが
はたらく場としてのカフェになるけれど、
こんどできたカフェは、職員だけがお客さんの対応をしている。
そんなので、どうやって採算がとれるのかわからないけど、
なかなか社会に居場所がないひとたちを視野にいれ、
気やすくあつまれるお店になれば、というねらいがあるという。
まったくソロバンを度外視してのカフェを
あたりまえのようにひらくところがすばらしい。

「となりのお店」も、障害をもったひとたちが、
ストレートに利用しなくても、
わけのわからないへんてこな場所として
クッキー工房のとなり近所に定着したらうれしい。
世のなかは、お金だけでまわっているわけではないと、
わたしが人生相談にのってもいいよ。
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きょうは、2どめのこころみとして、
駐車場のスペースに机をもちだして
クッキーをうってみた。
すこし雨がふりだしてきたので、
クッキーの袋がぬれないようにタオルをかける。
いつもはもうすこし活気のあるとおりなのに、
こういうときにかぎって ひとがとおらない。
ときどきの自転車と、あとは自動車だけだ。
20分ほどすわっていたけど、
声をかけられるタイミングでとおるひとはいなかった。
前回はそれでも3人に声をかけたので、それよりわるい。
なんだか自主制作映画のいち場面みたいだ。

posted by カルピス at 21:30 | Comment(0) | 介護 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月17日

人生におけるクライマックスは?

web本の雑誌で松井ゆかりさんが、
『マザリング・サンデー』(グレアム=スウィフト・新潮社)
という本を紹介している。
http://www.webdoku.jp/newshz/matsui/2018/04/11/155023.html
 自分が90歳まで生きたとして、人生のどの日のことをいちばんはっきり思い出すだろう? 結婚した日? 息子たちが生まれた日? ジェーンにとっては、 それが1942年のマザリング・サンデーだった。

本の内容はともかくとして、
「人生のどの日のことをいちばんはっきり思い出すだろう?」
というといかけに興味がわいた。
わたしにおける人生のクライマックスはいつだったのか。

『キッズ・リターン』のふたりなら
「まだはじまってもいない」とうそぶくかもしれないけど、
50をはるかにすぎたわたしがいうには
さすがにずうずうしすぎる。
しかし、あんがいこれからクライマックスをむかえるかも、
というねがいをたしかにもっている。
具体的には、ちかい将来に予定している
サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼は、
強烈なおもいでをのこしてくれだろうと期待している。
歳をとり、おもうようにならないからだをかかえての巡礼は、
必然的にわたしの全力をもとめるような気がするからだ。

あるいは、人生にクライマックスなんていらない、
というかんがえ方もある。
わたしは、どちらかというと そんなスタンスで生きてきた。
人生に目標はなく、なんとなくおわりをむかえる、
というながれに価値をおいている。

とはいえ、そんな人生をおくったひとでも、
死をむかえたときに ふとおもいうかべる日がきっとある。
ジェーンにとってそれがマザリングサンデーだったように、
わたしの過去に、恋愛がらみで そんな日があっただろうか。
あるいは水泳の大会で、
目標にしていた1位がとれたときだろうか。
いまのわたしは、はっきりと
あれがクライマックスだった、とおもいうかべられない。
だとしたら、きっと、わたしのクライマックスは
これからおとずれるのだろう。
なにもないまま、ぼんやり死ぬのもわるくないけど、
さいごにもうひとやまあるとおもえば なんだかたのしい。

posted by カルピス at 22:06 | Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月16日

本をかいたくなるとき

『本の雑誌 5月号』の「新刊めったくたガイド」で、
akira 氏が『サイレント・スクリーム』
(アンジェラ=マーソンズ)を紹介している。
また魅力的な女警部が登場した。(中略)第二、第三の事件が続く中、キムは件の施設の記録を掘り起こし、怒りを募らせる。それは彼女の凄惨な過去を思い出させるものなのだ。キムの推理とチームの努力で驚くべき真相が発覚し、追い詰められた犯人が牙をむく。

すごくおもしろそう。
まだよんだことのない作家で、文庫ながら1200円はたかいけど、
これぐらい熱をいれて紹介されるとよみたくなる。
きっとわたしはこの本をかう。

おなじakira 氏がべつのミステリーもとりあげている。
発行されるやいなやネット上で絶賛の嵐に迎えられたサスペンス、ピーター・スワンソン『そしてミランダを殺す』(務台夏子訳/創元推理文庫1100円)は、これから読む人の期待をぜったいに裏切らないはずだ。

これもまたおもしろそう。

本をかうときには、どんな本であれ、
それなりに背中をおされる理由がある。

・すきなひと(小説家など)がすすめていた
・すきなひとがかいた本だから
・書評をよんで興味をもった
・評判をきいて(ラジオなど)
・しりあいからすすめられて
・関心のある分野だったので
・本屋さんや図書館でみかけてピンときた

わたしが信頼する書評家、というか読書家は、
斎藤美奈子さん・目黒考二(北上次郎)さん・
大森望さん・杉江由次(「本の雑誌社」)さん。

すきなひとがかいたものや、そのひとの本のなかで
とりあげられたものは、どうしてもよみたくなるし、
杉江さんみたいに、この本のために今年はあった、
みたいな熱のいれようで紹介されると、
それだけいうのなら、と手にとりたくなる。

こんかいとりあげたakira 氏がすすめる本を
わたしはまだよんだことがない。
こんなふうにあつくかたられると、
しらないひとの推薦でも、よんでたくなるみたいだ。
ネットのレビューには、
いまひとつ気もちをうごかされないのは、
あまりこなれた文章にであわないせいなのだろう。
こんげつの「新刊めったくたガイド」は、
いつになく収穫がおおかった。
『本の雑誌』のおかげで、
よみたい本にこまったことがない。

posted by カルピス at 21:31 | Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月15日

朝日新聞の土曜日版beに、佐藤正午さんがとりあげられた

朝日新聞の土曜日版beに、佐藤正午さんがとりあげられた。
記事によると、佐藤さんは、
佐世保からでないことでしられる小説家らしい。
本人が日本の首都を最後に訪れたのは、四半世紀以前だと公言している。

とはいえ、『ハトの撃退法』には、リアルな中野が登場する。
なんだかんだいって、東京にくわしいんじゃないか、
とおもっていたら、あのいかにもありそうな中野ふれあいロードは、
編集者が情報をあつめ、
パソコンのイメージ編集ソフトからつくったという。
津田伸一がはたらくスナック「オリビア」は、
編集者がいきつけとする実在の店なのだそうだ。
佐藤さんが中野にくわしいのではなく、
編集者のアシストがあっての『ハトの撃退法』だった。
編集者は、そんなことまでしなくてはならないのかとおどろく。

佐世保といえば村上龍さんの『69』の舞台だ。
高校生がはしりまわる佐世保と、
中年の津田伸一がグダグダ生きている佐世保は
まるでちがう町にみえる。
わたしは津田伸一みたいなダメ男が気になる。
津田伸一は、まったくはたらかないわけではないけど、
どこかふかいところがまともではないようで、
まわりのひとをだんだんとうんざりさせてしまう。
佐世保(とおもわれる町)にすめなくなっても、
東京の中野にあるスナックでちゃんと仕事をするのだから
そんなにわるくいわれる筋ではないのに、
ぜんたいとしてはやる気のないダメ男の烙印をおされている。
ドーナツやハンバーガーのチェーン店にいりびたり、
生産的なことはかんがえず、店員をからかったりして
ダラダラとヒマをつぶしている津田伸一がわたしはすきだ。

朝日新聞の記事によると、『ハトの撃退法』は
1月に文庫化されてからよくうれているそうだ。
わたしは、この小説で佐藤正午をはじめてしった。
これまでポツポツと本をよんできたものの、
そんなに熱心な本よみではない。
そんなわたしにも『ハトの撃退法』のおもしろさは格別だった。 
この小説のよさがわかってよかったとおもった。
おもしろいとしか、いいようがない。
文学的にどうこうという評論よりも、
今回の記事のように、作品の舞台裏みたいなはなしに興味がわく。

それにしても、「四半世紀以上」
東京へいかない小説家というのもすごい。
直木賞の贈呈式にも、なんだかんだと理由をつけて欠席している。
それでいて、編集者にたすけてもらいながら、
小説では東京を舞台にするのだからよくわからない。
「佐世保を出ない小説家」は、
佐藤さん流のあそびみたいなものだろうか。

posted by カルピス at 21:17 | Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月14日

いまなおハリルホジッチ代表監督の解任が 残念でならない

ハリルホジッチ代表監督の解任が、
どうかんがえてもふにおちず、残念でならない。
田嶋幸三会長は、
「信頼関係が逆転した」のを解任の理由にあげている。
ハリルホジッチ監督の方針に、反対する選手もいただろうけど、
なぜ協会側が、監督をたすけず、選手のいいぶんに耳をかたむけ、
それをもって解任の理由にまでまつりあげたのか。

サッカー協会への不信感ばかりがつのる。
内容はまったく関連がないけれど、森友学園問題で、
テキトーな理由をたてに、ごまかしつづけようとする
一連の政治家たちへの不信感とおなじだ。
日本の組織は、理屈がとおらないことを
こんなふうに 平気でごりおししようとする。
めちゃくちゃな論理で解任を正当化し、
それによってWカップでかつ可能性がたかまった、などとのたまう。
あらたに代表監督となった西野さんは、
ガンバでの攻撃サッカーの印象がつよく、
けしてきらいな監督ではなかったけど、
こんな無理を平気でとおそうとする
ねじれた感覚のもちぬしだったのかと がっかりした。

2007年に、オシムさんがたおれたときも残念だった。
このときは、オシムさんが目ざしていた日本のサッカーが、
どんな完成形をみせるのかをたのしみにしていたのに、
脳梗塞によって監督をつづけられなくなってしまった。
ハリルホジッチ監督には、
Wカップブラジル大会でさっぱりだった日本のサッカーを、
どう軌道修正して世界にいどむのかに期待していた。
Wカップへの出場をきめ、東アジア杯や、親善試合で、
戦術と選手のくみあわせをためしている最中に、
いまのサッカーでは、Wカップ本番でかてないと結論づけられたのは、
非情に不本意で、ありえない通達だったろう。

西野さんに監督がかわり、日本代表は、どんな戦術のもとに、
どんな23人をえらぶのだろう。
西野さんは、ハリルホジッチ監督のサッカーを反面教師としてとらえ、
それ以前の日本的なパスサッカーを意識しているようだ。
監督の交代について、選手たちは、協会の判断なので、と、
おちついた反応がつたえられているけど、
代表への競争が、またいちからやりなおしなのはたまらない。
のこり60日しかないWカップ本番にむけ、すべてをチャラにして、
また4年前のサッカーにもどるのは、あまりにももったいない。
これまで代表にえらばれなかった選手により、
あたらしいチームがつくられるのなら、
いったいこれまでつみあげてきた3年間はなんだったのかとおもう。

Wカップにむけ、ギリギリまで選手をえらんできた
ハリルホジッチ氏の采配をたのしみにしていたのに、
いまとなっては もとにもどらない夢だ。
お盆をひっくりかえしたのが日本サッカー協会なのだから、
もうこれからの日本代表に、なにも期待できなくなった。

posted by カルピス at 21:01 | Comment(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月13日

MacBookProを、iiyama製 23インチのモニターにつなぐ

いまおもにつかっているパソコンは2011年にかったiMacで、
安定してうごくのだけど、OS10.6.8と、さすがにふるく、
ドロップボックスとはてなブックマークがつかえなくなった。
いいかげんシステム環境をととのえておくかと、iMacを注文した。

そのすぐあとに、いま手もとにある
MacBookProをメインにつかえばいいと気づいた。
2012年にかったもので、つい最近、
システムを最新のOS10.13.3にあげたばかりだ。
MacBookProへのあこがれから、たいして必要でないのにかったら、
みごとにつかわないままほったらかしてきた。
パソコンは、ほしいからかうのではなく、
必要なときにかうようにしないと、もったいないかいものになる。
ふるいけど、メモリーを8ギガつんでいるので、
しばらくは役にたってくれるだろう。

MacBookProは15インチなので、そのままでもいいけど、
モニターにつなげば、iMacとおなじ、
あるいはそれ以上のおおきな画面で快適につかえる。
いそいでiMacの注文をキャンセルし、よさそうなモニターをさがした。
23インチの非光沢で検索すると、iiyamaのモニターがひっかかる。
中古品しかなく、1万800で手にはいる。
iMacをかえば、税こみ13万円のところだったので、
ずいぶん安あがりな環境整備となった。
これからパソコンをかうときは、マックブックエアーか、
マックブックにすれば、今回かったモニターでしばらく対応できる。
iMacのキャンセルが間にあって、ほんとうによかった。
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モニターにつないだMacBookProを、
すぐにメインのパソコンとしてつかえばいいけど、
これまでお世話になってきたiMacとおなじ状態にするには、
いくつかファイルをひっこしする必要がある。
しばらくは、MacBookProとiMacをふたつならべ、
MacBookProを快適につかえるようにしてから
完全にきりかえようとおもう。
机に2つのモニターがあるとさすがにじゃまだし、
断捨離の時代に いかにも頭がわるそうだ。

iiyamaのモニターは、中古品にもかかわらず、とてもきれいな画面だ。
23インチにしたのは、それ以上おおきなモニターでは
目がつかれそうだから。
ネットをみたり、ブログをかくていどしか
わたしはパソコンをつかわないので、23インチあればじゅうぶんだ。
iMacとならべてみると、iMacのくろいふちにごまかされ、
23インチのモニターが、iMacの21.5インチよりちいさくみえるけど、
当然ながら、iiyamaのモニターのほうが、
わずかながらiMacよりおおきい。
23インチの非光沢は、われながらしぶい選択だったと、
今回のかいものが気にいっている。

posted by カルピス at 21:01 | Comment(0) | パソコン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月12日

ピピがいない生活は、楽だけど スカスカ

ピピがいなくなると、なにもしなくていいのですごく楽だ。
朝おきたとき、トイレのあとしまつや、
トイレシートのかたづけの必要がない。
なによりも、ふとんをベッドにそのままのこせる。
ピピがいたころは、ふとんのうえでおしっこをされないよう、
かけ布団と毛布をかたづけたうえで、
ベッドにトイレシートをしきつめていた。
ピピはとくに枕のうえでおしっこをするのがすきだったので、
枕もおしいれにしまう。
せっかくベッドでねているのに、
毎朝ふとんをかたづけるのは ずいぶんめんどうだ。

すこしまえまでは、ねていても、2時間ごとにおこされた。
パジャマにおしっこしたり、ごはんをもとめたり。
冬の夜中におきて、カンヅメをあけるのはたいへんだった。
夜、わたしがこれからねようとするときに
トイレでうんこをして、ズルズルとペッドにはいるのをじゃまされた。
うんこのにおいをかぎながらねたくはないので、
すぐにトイレをかたづけたのち、
マッチをすってにおいをけす儀式が必要なのだ。

いちにちがシンプルで、楽になったけれど、
その楽は、生活をたのしくしてくれるわけではない。
生活全体がスカスカになったかんじで、
これまでピピの、お世話をさせてもらっていたのがわかる。
自分ひとりでは なにもできないピピは、
当然のようにまわりの人間をうごかして用をたす。
お世話してくれてありがとう、なんて、
ピピはぜったいにいわないし、態度でもしめさない。
わたしはブツブツ文句をいいながらも
ピピのしもべとなってお世話をつとめる。

いや、わたしはそんなによくできた人間ではないので、
しらんぷりしてふとんをかぶって ねたふりもよくした。
ピピは「ふとんのうえでおしっこ」という技をもつので、
ねむけと、おしっこされるリスクを天秤にかけながら
ピピがむこうへいってくれるのをまった。
そんなグダグダの生活さえ なつかしいおもいでだ。

糸井重里さんが「今日のダーリン」に、
ブイヨンがいなくなったいま、できること、
たとえば海外旅行などをかんがえたとき、
でも、行きたいという意欲がそれほどでもなくて、
逆に犬がいるから海外は無理、という暮らしのほうが、
ほしいような気になっています。

とかいている。
ピピのお世話を、もうすこしさせてほしかった。

posted by カルピス at 21:33 | Comment(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする