10月24日に北杜夫さんがなくなった。
新聞でもおおきくとりあげられたものの、
北杜夫とは、なにをかき、どういう人物だったのか、
という全体像がつたわるものではなかった。
朝日新聞では、きょうになって
なだいなださんによる追悼文がのったが、
あくまでも「追悼文」であり、
文学としてどう評価されるかについては
かんたんにふれてある程度だ。
なんだかこれではすこしさみしいので、
北杜夫(敬称略)についてのおもいでをかいておく。
北杜夫の小説とエッセイは、
わたしがいちばんはじめにふれた大人の本だった。
中学生のときにはほかの作家の本に
手をのばそうとせず、北杜夫だけよんでいた。
なにがわたしのこころをとらえたのだろう。
当時のわたしに(いまもだけど)
むつかしいことがわかるわけもなく、
事実『幽霊』や『夜と霧の隅で』などは
ただたいくつなだけだった。
わたしにおもしろかったのは、
北杜夫ならではのユーモアであり、
さらにいえば「立派でない」ところだったようだ。
『航海記』や『青春期』のおかしさは、
おとなの本は、むつかしいことがかいてあるもの、
というわたしの先入観をこわし、
本はおもしろくてもいい、
ということをおしえてくれた。
『楡家の人びと』は、
期末試験の勉強の最中についひらいてしまい、
あんまりおもしろいので、すこし勉強しては1章よみ、
やがてそれが2章になり、というかんじで
ぜんぜん勉強にならなかったことをおぼえている。
『怪盗ジバコ』はおもしろかったけど、
『さびしい王様』になってくると
むりしておもしろくかこうとしてるかんじがしてきた。
『輝ける碧き空の下で』にはけっきょく手をだしていない。
わたしにとっての北杜夫は、
けっきょく初期のいくつかの作品にかぎられる。
あとは再読することもなく、
あるいはかうことすらしないで、
読者としてのみじかい数年をおえた。
もしかしたら、
ほんの数年でピークをむかえてしまった作家なのかもしれない。
ではありながら、わたしにとって北杜夫は、
はじめておとなの本のたのしさをおしえてくれた作家として
とてもなつかしいひとだ。
2011年10月31日
2011年10月30日
「スポーツ見るもの語るものーフモフモコラムー」がすごい
サッカーについてのサイトをみていたら
「スポーツ見るもの語るものーフモフモコラムー」
というのにであった。
いろいろなスポーツについて(サッカーがおおいみたい)
軽口をたたきまくる。
そのセンスはただならぬものがあり、
とにかくふざけないと気がすまないというスタイルは、
スポーツコラム界の宮田珠己といってよい。
サッカーや野球にだけでなく、
芸能界についての知識もふかく、
3面記事的なブログとしてじょうずに料理されている。
どーでもいいようなできごとにもするどく目をくばり、
そのうえにたっぷりと冗談をふりかけて
ギリギリのラインでこねくりまわすところはもう名人芸だ。
きのうのブログでは川澄奈穂美さんついてふれてある。
「少し前まで一部で『女柏木』と呼ばれていた川澄ちゃんですが、今や浦和レッズ所属の柏木選手(誰?)のほうが川澄ちゃんを真似してピンクのヘアゴムをつけ てくるようになったほど。珍しく地上波で中継されるヤマザキナビスコカップの決勝では、ピンクのヘアゴムを身につけた「男川澄」が登場するらしいので、恐 縮ですがニセモノのほうにも「川澄ちゃんのように世界に羽ばたけよ」「ゴムよりも決定力を似せような」「なでしことナビスコが似てるとか、無駄にいいダ ジャレを考えるの禁止」といった声援を贈ってあげていただきたいものです。
そういえば柏木って川澄さんによくにている。
そして、女柏木ではなく、男川澄なのもよくわかる。
このたかいわらいのレベルをたもって
毎月20日の更新というのはただごとではない。
はてなブックマークに追加したけど、
更新のしらせをまつまでもなく、
こっちから毎日のぞきにいきそうだ。
きょうはなでしこリーグで
浦和レッズレディース対神戸レオネッサとの試合があり、
川澄さんは90分はつらつとうごきまわった。
自分のスピードとスタミナがたのしくてしょうがないみたいで、
左サイドをかけあがるときのキレがすごい。
余裕をもってプレーしており、
貫禄すらかんじるほどだ。
という、キレキレノのきょうの川澄さんを
フモ氏のブログにぜひまたとりあげてほしい。
http://blog.livedoor.jp/vitaminw/search?q=%A5%B5%A5%C3%A5%AB%A1%BC
「スポーツ見るもの語るものーフモフモコラムー」
というのにであった。
いろいろなスポーツについて(サッカーがおおいみたい)
軽口をたたきまくる。
そのセンスはただならぬものがあり、
とにかくふざけないと気がすまないというスタイルは、
スポーツコラム界の宮田珠己といってよい。
サッカーや野球にだけでなく、
芸能界についての知識もふかく、
3面記事的なブログとしてじょうずに料理されている。
どーでもいいようなできごとにもするどく目をくばり、
そのうえにたっぷりと冗談をふりかけて
ギリギリのラインでこねくりまわすところはもう名人芸だ。
きのうのブログでは川澄奈穂美さんついてふれてある。
「少し前まで一部で『女柏木』と呼ばれていた川澄ちゃんですが、今や浦和レッズ所属の柏木選手(誰?)のほうが川澄ちゃんを真似してピンクのヘアゴムをつけ てくるようになったほど。珍しく地上波で中継されるヤマザキナビスコカップの決勝では、ピンクのヘアゴムを身につけた「男川澄」が登場するらしいので、恐 縮ですがニセモノのほうにも「川澄ちゃんのように世界に羽ばたけよ」「ゴムよりも決定力を似せような」「なでしことナビスコが似てるとか、無駄にいいダ ジャレを考えるの禁止」といった声援を贈ってあげていただきたいものです。
そういえば柏木って川澄さんによくにている。
そして、女柏木ではなく、男川澄なのもよくわかる。
このたかいわらいのレベルをたもって
毎月20日の更新というのはただごとではない。
はてなブックマークに追加したけど、
更新のしらせをまつまでもなく、
こっちから毎日のぞきにいきそうだ。
きょうはなでしこリーグで
浦和レッズレディース対神戸レオネッサとの試合があり、
川澄さんは90分はつらつとうごきまわった。
自分のスピードとスタミナがたのしくてしょうがないみたいで、
左サイドをかけあがるときのキレがすごい。
余裕をもってプレーしており、
貫禄すらかんじるほどだ。
という、キレキレノのきょうの川澄さんを
フモ氏のブログにぜひまたとりあげてほしい。
http://blog.livedoor.jp/vitaminw/search?q=%A5%B5%A5%C3%A5%AB%A1%BC
2011年10月29日
ナビスコ杯決勝。よくやったレッズ。
ナビスコ杯決勝、鹿島対浦和の試合をみる。
リーグ戦では鹿島が6位で浦和は15位。
鹿島に優勝の可能性はなく、
とくに浦和は残留あらそいの最中だ。
そうした状況からか、
両者ともタイトルへの気迫にあふれ、
カップ戦の決勝にふさわしい、いい試合となった。
浦和は後半開始そうそう、
山田直輝が2枚目のカードをもらい退場となる。
そのまえのプレーで、かわいい顔をしてるけど、
山田はけっこうえげつないことするなー、と感心していたら、
そのあとすぐに2枚目をもらってしまった。
それからはずっと鹿島がせめつづけ、
浦和は防戦いっぽうとなる。
10人でまもるので、ときどきボールをもてても
なかなか攻めあがることができない。
鹿島になんどもくずされて決定的なピンチをむかえるが、
GK加藤のファインセーブ、それに運にもたすけられ、
0−0でなんとか90分をたたかいおえる。
ほんとにみんなよくまもったとおもう。
柏木も原口も、攻撃はおさえて守備に貢献していた。
圧倒的に試合をコントロールしているのは鹿島でも、
浦和の必死のプレイは気迫せまるものがあった。
鹿島はサッカーをよくしっている、とか
試合はこびがうまい(おなじことか)、とかよくいわれる。
たしかにそうなんだろうけど、
それよりもきょうの浦和のような
なりふりかまわない必死なプレイのほうが
見ているもののこころをとらえることがある。
試合は結局延長戦にもつれこみ、
前半に1点をいれた鹿島がそのままにげきった。
王者とよぶにふさわしい試合を展開した鹿島にたいし、
10月20日に就任したばかりの堀監督のもと、
120分を全力でたたかいぬいた浦和の選手たちに
最大限の賛辞をおくりたい。
リーグ戦をふくめても、
今シーズンのベストマッチだった。
蛇足ながら、
スポンサーのナビスコのCMをなんどもみることとなり、
あまりのできのわるさに辟易してしまった。
ぜんぜんあかぬけず、たのしくない。
20年くらいまえのCMをみてるようなかんじだ。
これじゃあ逆効果ではないか、という気がしてきた。
いまどきこんなCMをつくっている企業があったとは。
リーグ戦では鹿島が6位で浦和は15位。
鹿島に優勝の可能性はなく、
とくに浦和は残留あらそいの最中だ。
そうした状況からか、
両者ともタイトルへの気迫にあふれ、
カップ戦の決勝にふさわしい、いい試合となった。
浦和は後半開始そうそう、
山田直輝が2枚目のカードをもらい退場となる。
そのまえのプレーで、かわいい顔をしてるけど、
山田はけっこうえげつないことするなー、と感心していたら、
そのあとすぐに2枚目をもらってしまった。
それからはずっと鹿島がせめつづけ、
浦和は防戦いっぽうとなる。
10人でまもるので、ときどきボールをもてても
なかなか攻めあがることができない。
鹿島になんどもくずされて決定的なピンチをむかえるが、
GK加藤のファインセーブ、それに運にもたすけられ、
0−0でなんとか90分をたたかいおえる。
ほんとにみんなよくまもったとおもう。
柏木も原口も、攻撃はおさえて守備に貢献していた。
圧倒的に試合をコントロールしているのは鹿島でも、
浦和の必死のプレイは気迫せまるものがあった。
鹿島はサッカーをよくしっている、とか
試合はこびがうまい(おなじことか)、とかよくいわれる。
たしかにそうなんだろうけど、
それよりもきょうの浦和のような
なりふりかまわない必死なプレイのほうが
見ているもののこころをとらえることがある。
試合は結局延長戦にもつれこみ、
前半に1点をいれた鹿島がそのままにげきった。
王者とよぶにふさわしい試合を展開した鹿島にたいし、
10月20日に就任したばかりの堀監督のもと、
120分を全力でたたかいぬいた浦和の選手たちに
最大限の賛辞をおくりたい。
リーグ戦をふくめても、
今シーズンのベストマッチだった。
蛇足ながら、
スポンサーのナビスコのCMをなんどもみることとなり、
あまりのできのわるさに辟易してしまった。
ぜんぜんあかぬけず、たのしくない。
20年くらいまえのCMをみてるようなかんじだ。
これじゃあ逆効果ではないか、という気がしてきた。
いまどきこんなCMをつくっている企業があったとは。
2011年10月28日
『村上レシピ』でつくる鮭のマリネ
『村上レシピ』という本を図書館でかりた。
題名のとおり、村上さんの本にでてくる35品のレシピと、
その料理が登場する場面を簡単に紹介してある。
村上さんの本にはたしかに
音楽とともに料理についての記述がおおい。
「僕」がじつに簡単においしそうな料理をつくり、
それを図書館の女の子だったり五反田くんだったりが
感心しながらたべる。
わたしの気にいっているシーンは、
『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』のなかで
ふとった女の子がつくった
ハムとチーズとキュウリのサンドイッチだ。
「とかく見過ごされがちなことだけれど、
良いサンドウィッチを作るためには
良い包丁を用意することが絶対に不可欠なのだ」
とあり、パンのカットをほめ、
マスタードやレタスなどの材料のよさにもふれてある。
サンドイッチは自分でつくるより、こんなふうに
だれかにつくってもらったほうがおいしそうな気がしてくる。
おなじ本のなかで、「僕」が
胃拡張の女の子のために料理するところもすきだ。
「梅干しをすりばちですりつぶして、
それでサラダ・ドレッシングを作り、
鰯と油あげと山芋のフライをいくつか作り、
セロリと牛肉の煮物を用意した」
どれもおいしそうだし、
女の子がそれを「重機関銃で納屋をなぎ倒すような」
すさまじい食欲で全部たべてしまうのがたのしい。
このように、村上さんの本は
なにかと料理についてかいてあるのに、
ではそれをよんでじっさいにつくるかというと、
あんがいその気にはならない。
本にでてくる料理のおおくが
けっこう手間のかかるものだし、
材料が手にはいりにくかったり、たかいものがおおい。
それに、いかに料理についての記述があっても、
そのレシピがのせてあるわけではないので、
つくるには手がかりがたらない場合もある。
というわけで、『村上レシピ』のような本があると
たしかにたすかる。
きょうは「鮭のマリネ」をつくってみた。
『羊をめぐる冒険』のなかで、
「僕」が山小屋で鼠をまつ
不思議な何日かのあいだにつくる料理だ。
鮭をうすくきり、オリーブとパセリをちらして
ドレッシングをかける。
すこし塩気がたりなかったけど、
かんたんでおいしい一品となった。
白ワインとあいそうだ。
この本の編集は「台所でよむ村上春樹の会」となっている。
本にでてくる料理をなんにんかの会員がいっしょにつくり、
それをたべながら作品についてはなしあうのだろうか。
その支部をつくるほどの熱心さはないけど、
この本にでてくるいくつかはこれからためしてみたい。
わたしのマンネリ化したメニューを、
いくらかはゆたかにしてくれそうだ。
題名のとおり、村上さんの本にでてくる35品のレシピと、
その料理が登場する場面を簡単に紹介してある。
村上さんの本にはたしかに
音楽とともに料理についての記述がおおい。
「僕」がじつに簡単においしそうな料理をつくり、
それを図書館の女の子だったり五反田くんだったりが
感心しながらたべる。
わたしの気にいっているシーンは、
『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』のなかで
ふとった女の子がつくった
ハムとチーズとキュウリのサンドイッチだ。
「とかく見過ごされがちなことだけれど、
良いサンドウィッチを作るためには
良い包丁を用意することが絶対に不可欠なのだ」
とあり、パンのカットをほめ、
マスタードやレタスなどの材料のよさにもふれてある。
サンドイッチは自分でつくるより、こんなふうに
だれかにつくってもらったほうがおいしそうな気がしてくる。
おなじ本のなかで、「僕」が
胃拡張の女の子のために料理するところもすきだ。
「梅干しをすりばちですりつぶして、
それでサラダ・ドレッシングを作り、
鰯と油あげと山芋のフライをいくつか作り、
セロリと牛肉の煮物を用意した」
どれもおいしそうだし、
女の子がそれを「重機関銃で納屋をなぎ倒すような」
すさまじい食欲で全部たべてしまうのがたのしい。
このように、村上さんの本は
なにかと料理についてかいてあるのに、
ではそれをよんでじっさいにつくるかというと、
あんがいその気にはならない。
本にでてくる料理のおおくが
けっこう手間のかかるものだし、
材料が手にはいりにくかったり、たかいものがおおい。
それに、いかに料理についての記述があっても、
そのレシピがのせてあるわけではないので、
つくるには手がかりがたらない場合もある。
というわけで、『村上レシピ』のような本があると
たしかにたすかる。
きょうは「鮭のマリネ」をつくってみた。
『羊をめぐる冒険』のなかで、
「僕」が山小屋で鼠をまつ
不思議な何日かのあいだにつくる料理だ。
鮭をうすくきり、オリーブとパセリをちらして
ドレッシングをかける。
すこし塩気がたりなかったけど、
かんたんでおいしい一品となった。
白ワインとあいそうだ。
この本の編集は「台所でよむ村上春樹の会」となっている。
本にでてくる料理をなんにんかの会員がいっしょにつくり、
それをたべながら作品についてはなしあうのだろうか。
その支部をつくるほどの熱心さはないけど、
この本にでてくるいくつかはこれからためしてみたい。
わたしのマンネリ化したメニューを、
いくらかはゆたかにしてくれそうだ。
2011年10月27日
ときには寝こむことも
風邪をひき、2,3日ぼんやりくらす。
日記をしらべてみると、
3年ぶりにねこんだことになる。
38℃とたいした熱ではなく、
食欲もあったので、
病院へはゆかず家でおとなしくしている。
おかゆやウドンをつくってたべたり、
いつもはかかさない寝酒をのまずに
ふとんにはいったりと、
ときどき体調をくずしてやすむのも、
からだのためにはわるいことではない気がする。
枕もとによみかけの本をならべて
気のむくままにペラペラめくる。
熱のせいか、
まったりと不思議な時間をすごすことができる。
ネコたちも心配して(暖をもとめてか)、
2匹ともふとんにはいってくれた夜もある。
これはすごくしあわせな状態かも、
と彼らの気づかいに感謝した。
熱は2日ほどでさがり、
またおなじような生活をはじめる。
しばらくはからだがフワフワして
うごきがあぶなっかしい。
いかにも病みあがりふうで、
それもまたわるくない。
セキをするとかるくタンがからんだりして
風邪のなごりをなつかしむ。
食事をかかすこともなく、
わりとしっかりたべていたのに、
体重をはかると2キロへっていた。
いつ熱をだし、どうバランスをとって
体調をととのえたらいいのか、
からだはすべてを把握している。
体重がへるのもなにかの必然からだろう。
からだのしくみとはたらきにたすけられて、
日常と非日常の、それぞれのありがたさをかんじることができた。
日記をしらべてみると、
3年ぶりにねこんだことになる。
38℃とたいした熱ではなく、
食欲もあったので、
病院へはゆかず家でおとなしくしている。
おかゆやウドンをつくってたべたり、
いつもはかかさない寝酒をのまずに
ふとんにはいったりと、
ときどき体調をくずしてやすむのも、
からだのためにはわるいことではない気がする。
枕もとによみかけの本をならべて
気のむくままにペラペラめくる。
熱のせいか、
まったりと不思議な時間をすごすことができる。
ネコたちも心配して(暖をもとめてか)、
2匹ともふとんにはいってくれた夜もある。
これはすごくしあわせな状態かも、
と彼らの気づかいに感謝した。
熱は2日ほどでさがり、
またおなじような生活をはじめる。
しばらくはからだがフワフワして
うごきがあぶなっかしい。
いかにも病みあがりふうで、
それもまたわるくない。
セキをするとかるくタンがからんだりして
風邪のなごりをなつかしむ。
食事をかかすこともなく、
わりとしっかりたべていたのに、
体重をはかると2キロへっていた。
いつ熱をだし、どうバランスをとって
体調をととのえたらいいのか、
からだはすべてを把握している。
体重がへるのもなにかの必然からだろう。
からだのしくみとはたらきにたすけられて、
日常と非日常の、それぞれのありがたさをかんじることができた。
2011年10月26日
だいすきな栗原はるみさん登場 (「プロフェッショナル仕事の流儀」)
「プロフェッショナル仕事の流儀」に栗原はるみさんがでていた。
いつも笑顔をたやさないすてきな女性だ。
『ごちそうさまが、ききたくて。』ほか何冊かの本をかい、
ほとんど毎日お世話になっている。
65歳にはもとてもみえない。
じょうずな年のとりかたで、
不自然ではないし、それでいて
じゅうぶん魅力的だ。
いつもは「すっぴん」なのだそうで、
「この年になってあんまり
(お化粧をしたときとしないときの)
差があるとよくないとおもって」といわれていた。
料理研究家として人気がでてからしばらくあとに、
栗原さんは自分のやっていることがたのしめず、
もんもんとしていた時期があったのだそうだ。
どんなに成功し、はれやかにみえるひとでも、
自分の生きかたにまよいをもつのは
かんがえてみればあたりまえのことだ。
成功すればしたで、
またつぎのステップで
それまでとはちがうハードルがまっている。
栗原さんは「自分がやりたいことをやる」
という方向性を確認し、
まよいからぬけでていった。
わたしがいま、つぎへのスタートにためらっていることなんて、
おおくのひとが経験するごくあたりまえのことにすぎない。
ほんとうに、けっきょくは
「自分がやりたいことをやる」しかないのだ。
そうでなければ後悔するのは自分だし、
死ぬまえにニッコリわらうこともできない。
「リスクをおかしてせめる」とオシムさんはいった。
「そうでなければおもしろくないでしょ?」とも。
自分でかんがえ、自分でうごきをつくっていくしかない。
いつも笑顔をたやさないすてきな女性だ。
『ごちそうさまが、ききたくて。』ほか何冊かの本をかい、
ほとんど毎日お世話になっている。
65歳にはもとてもみえない。
じょうずな年のとりかたで、
不自然ではないし、それでいて
じゅうぶん魅力的だ。
いつもは「すっぴん」なのだそうで、
「この年になってあんまり
(お化粧をしたときとしないときの)
差があるとよくないとおもって」といわれていた。
料理研究家として人気がでてからしばらくあとに、
栗原さんは自分のやっていることがたのしめず、
もんもんとしていた時期があったのだそうだ。
どんなに成功し、はれやかにみえるひとでも、
自分の生きかたにまよいをもつのは
かんがえてみればあたりまえのことだ。
成功すればしたで、
またつぎのステップで
それまでとはちがうハードルがまっている。
栗原さんは「自分がやりたいことをやる」
という方向性を確認し、
まよいからぬけでていった。
わたしがいま、つぎへのスタートにためらっていることなんて、
おおくのひとが経験するごくあたりまえのことにすぎない。
ほんとうに、けっきょくは
「自分がやりたいことをやる」しかないのだ。
そうでなければ後悔するのは自分だし、
死ぬまえにニッコリわらうこともできない。
「リスクをおかしてせめる」とオシムさんはいった。
「そうでなければおもしろくないでしょ?」とも。
自分でかんがえ、自分でうごきをつくっていくしかない。
2011年10月25日
パクチーのかわりにベトナムコリアンダー
しりあいのハーブショップでベトナムコリアンダーをかう。315円。
まえにかった苗はぶじ冬をこしたのに、
夏になると雑草にうもれて消滅してしまった。
店長さんがいわれるには、
雑草につよい植物なのだそうだから、
わたしの管理がいいかげんだったのだろう。
コリアンダーはごぞんじタイ料理につかう「パクチー」だ。
1年草のセリ科で夏のあつさではそだたない。
タイでつかわれるハーブがなんで夏にないのか不思議だけど、
店長の説明をきくとなんとなく納得した
(だけどやっぱり不思議)。
夏にもパクチーがほしいので相談すると、
このベトナムコリアンダーをすすめられたのだ。
こちらは多年草で、ずっとたのしむことができる
(枯らしたらダメですね)。
パクチーはヨモギみたいな形をしているのにたいし、
ベトナムコリアンダーはもっと1枚1まいの葉がしっかりしていて
まるで木の葉みたいだ。タデ科の植物だという。
形は全然ちがうのに味はよく似ていて、
じゅうぶんパクチーのかわりをしてくれる。
スープやいためものにもいいし、
ためしに孟宗竹といっしょにナンプラーで煮てみたら
ただならぬおいしさだった。
ベトナム旅行のときたべたフォーに、
このベトナムコリアンダーはつかわれていただろうか。
フォーのつけあわせとして、
何種類かの香草がお皿にもってでてくるけど、
どれがなんなのかよくわからなかった。
わからなかったけど、パクチーの味はしてたような気がする。
あいまいな記憶、というか味覚で、
そこがまたパクチーのいいところだ(意味不明)。
ベトナムコリアンダーは50センチくらいのたかさまでそだつらしい。
いまはまだ葉があまりついてないので、
しばらくは料理につかわないで
おおきくそだつのをまとう。
もうすぐパクチーも販売されるそうで、
今年は両方のかおりをたのしみたい。
まえにかった苗はぶじ冬をこしたのに、
夏になると雑草にうもれて消滅してしまった。
店長さんがいわれるには、
雑草につよい植物なのだそうだから、
わたしの管理がいいかげんだったのだろう。
コリアンダーはごぞんじタイ料理につかう「パクチー」だ。
1年草のセリ科で夏のあつさではそだたない。
タイでつかわれるハーブがなんで夏にないのか不思議だけど、
店長の説明をきくとなんとなく納得した
(だけどやっぱり不思議)。
夏にもパクチーがほしいので相談すると、
このベトナムコリアンダーをすすめられたのだ。
こちらは多年草で、ずっとたのしむことができる
(枯らしたらダメですね)。
パクチーはヨモギみたいな形をしているのにたいし、
ベトナムコリアンダーはもっと1枚1まいの葉がしっかりしていて
まるで木の葉みたいだ。タデ科の植物だという。
形は全然ちがうのに味はよく似ていて、
じゅうぶんパクチーのかわりをしてくれる。
スープやいためものにもいいし、
ためしに孟宗竹といっしょにナンプラーで煮てみたら
ただならぬおいしさだった。
ベトナム旅行のときたべたフォーに、
このベトナムコリアンダーはつかわれていただろうか。
フォーのつけあわせとして、
何種類かの香草がお皿にもってでてくるけど、
どれがなんなのかよくわからなかった。
わからなかったけど、パクチーの味はしてたような気がする。
あいまいな記憶、というか味覚で、
そこがまたパクチーのいいところだ(意味不明)。
ベトナムコリアンダーは50センチくらいのたかさまでそだつらしい。
いまはまだ葉があまりついてないので、
しばらくは料理につかわないで
おおきくそだつのをまとう。
もうすぐパクチーも販売されるそうで、
今年は両方のかおりをたのしみたい。
2011年10月24日
『ホテル・ルワンダ』の狂気はどこからくるのか
『ホテル・ルワンダ』をみる。
ずいぶんまえから評判はきいていた。
これをかくまえに、なにかの参考にと、
高野秀行さんのブログをのぞいてみたら、
べたぼめで絶讃にちかい。
いちいち引用するより
そっちをよんでもらったほうがよさそうなので
リンクをはっておく。
とにかくツチ族をみなごろしにしなければならないという
フツ族の狂気は、わたしの感情からあまりにも異質だ。
しかしこの虐殺がおきたのは事実であり、
数ヶ月のあいだに何十万のルワンダ人が同国人にころされた。
それをわたしは正確にしろうとせずに
目をそむける、というよりも無関心でいた。
「無知は罪」ということが頭にうかぶ。
映画のなかでどんどんエスカレートしていく暴力をみながら、
ルワンダでの虐殺に無関心でいたことがうしろめたかった。
それにしても、なぜこんな虐殺がおきるのか。
なぜ民族紛争はなくならないのだろう。
世界各地でおきている虐殺は
民族間の対立であることがおおい。
暴力が人類の普遍的な特性であるわけがない。
経済的な格差でも説明はつかない。
とにかくにくくてたまらなくなってしまう感情は
脳のどこがつかさどっているのだろう。
この作品のまえでは神経質すぎる感想だけど、
ルワンダ人が全員英語をはなしているのが気になった。
これは映画であり、
映画はおおくのひとがみやすいように
いろいろな工夫がされる。
とはいえ、
ルワンダ人同士や、
ましてや家族ではなすときにも英語をつかわれると
いくら映画とはいえ「それはないよなー」
という気になってしまった。
もっとも、ウィキペディアによると
「公用語はルワンダ語、フランス語、英語である。
伝統的にフランス語圏であるが、
フランスとの関係悪化以降、
2008年には公用語に英語が追加され、
2009年にはイギリス連邦に加盟した。
教育言語もフランス語から英語へ変わり、
政府要人にも英語を学ぶように要求しているなど、
フランス語圏から英語圏への脱却を図っている」
とあるので
英語がよくつかわれていることは事実のようだ。
ずいぶんまえから評判はきいていた。
これをかくまえに、なにかの参考にと、
高野秀行さんのブログをのぞいてみたら、
べたぼめで絶讃にちかい。
いちいち引用するより
そっちをよんでもらったほうがよさそうなので
リンクをはっておく。
とにかくツチ族をみなごろしにしなければならないという
フツ族の狂気は、わたしの感情からあまりにも異質だ。
しかしこの虐殺がおきたのは事実であり、
数ヶ月のあいだに何十万のルワンダ人が同国人にころされた。
それをわたしは正確にしろうとせずに
目をそむける、というよりも無関心でいた。
「無知は罪」ということが頭にうかぶ。
映画のなかでどんどんエスカレートしていく暴力をみながら、
ルワンダでの虐殺に無関心でいたことがうしろめたかった。
それにしても、なぜこんな虐殺がおきるのか。
なぜ民族紛争はなくならないのだろう。
世界各地でおきている虐殺は
民族間の対立であることがおおい。
暴力が人類の普遍的な特性であるわけがない。
経済的な格差でも説明はつかない。
とにかくにくくてたまらなくなってしまう感情は
脳のどこがつかさどっているのだろう。
この作品のまえでは神経質すぎる感想だけど、
ルワンダ人が全員英語をはなしているのが気になった。
これは映画であり、
映画はおおくのひとがみやすいように
いろいろな工夫がされる。
とはいえ、
ルワンダ人同士や、
ましてや家族ではなすときにも英語をつかわれると
いくら映画とはいえ「それはないよなー」
という気になってしまった。
もっとも、ウィキペディアによると
「公用語はルワンダ語、フランス語、英語である。
伝統的にフランス語圏であるが、
フランスとの関係悪化以降、
2008年には公用語に英語が追加され、
2009年にはイギリス連邦に加盟した。
教育言語もフランス語から英語へ変わり、
政府要人にも英語を学ぶように要求しているなど、
フランス語圏から英語圏への脱却を図っている」
とあるので
英語がよくつかわれていることは事実のようだ。
2011年10月23日
『本へのとびら』(宮崎 駿・岩波新書)
2部構成になっていて、
167ページのうちの146ページまでが
宮崎さんがえらんだ50冊を中心とした児童文学のはなし。
それ以降の20ページほどが
第2部の「3月11日のあとに」となっている。
分量はこのようにわずかでも、
第2部の内容はとてもおもい。
1冊ずつに宮崎さんの紹介文がついていて、
そのどれもがたのしい。
まだよんでない本もいっぱいあるので、
何冊かをチェックした。
宮崎さんは挿絵や表紙についてのおもいいれがふかく、
本だけでなく絵についての魅力もおしえてくれる。
「借りぐらしのアリエッティ」の原作
『床下の小人たち』もでてくる。
宮崎さんがはじめてこの本をよんだのは
22,3歳ごろのことで、
「いい本だなあと思うけど、
今これをつくってはいけない」
という時代についての判断があった。
なぜいまごろこの本を映画化する気になったかについて、
「『床下の小人たち』を取り上げたのは、
今や大人たち、いや人間たちが、
まるで世界に対して無力な、
小人のような気分になっていると
思ったからです」
時代についての宮崎さん(それに高畑さんと鈴木さんも)の
感覚がするどくていつも感心している。
ジブリの作品はどれも、
それぞれが時代にたいして
どういう意味をもっているかの
判断のもとつくられている。
「みんなが小人になっちゃったんですよ。
世界にたいして無力になって、
1円でも安いほうがいい、
なんてつまんないことのために
右往左往している。
見ている範囲もほんとうに狭くなってきた。
歴史的視野とか人間のあるべき姿とかの大きな主題が、
健康とか年金の話にするかえられてしまいました。
煙草をやめるとか、メタボをどうとか、
どうでもいいことばかりです」
という発言が宮崎さんらしい。
宮崎さんのかかれたものにふれると、
ピュアな感覚をとりもどせそうで気もちいい。
第2部はものすごく悲惨な予言の書だ。
3月11日以降を
「風が吹き始めた時代」という世界観でとらえた、
すごくきびしい「これから」についてかかれている。
「生きていくのに困難な時代の幕が上がりました。
この国だけではありません。
破局は世界規模になっています。
おそらく大量消費文明のはっきりした終わりの
第一段階に入ったのだと思います。
そのなかで、自分たちは正気を失わずに
生活をしていかなければなりません」
以前から、宮崎さんはおなじようなことをかたっている。
こんな消費文明がいつまでもつづくわけがない、
いまの日本の繁栄も「たまたま」手にしただけにすぎず、
それにうかれておごるものたちを
にがにがしくおもっておられた。
その没落のときが、とうとうすぐそこまできてしまったのだ。
この時代にどう生きるか。
いろんな情報にながされおどらされ、
ぶざまな姿をさらしたくはない。
『ゲド戦記』みたいなしっかりした世界観の作品が
よみたくなってきた。
167ページのうちの146ページまでが
宮崎さんがえらんだ50冊を中心とした児童文学のはなし。
それ以降の20ページほどが
第2部の「3月11日のあとに」となっている。
分量はこのようにわずかでも、
第2部の内容はとてもおもい。
1冊ずつに宮崎さんの紹介文がついていて、
そのどれもがたのしい。
まだよんでない本もいっぱいあるので、
何冊かをチェックした。
宮崎さんは挿絵や表紙についてのおもいいれがふかく、
本だけでなく絵についての魅力もおしえてくれる。
「借りぐらしのアリエッティ」の原作
『床下の小人たち』もでてくる。
宮崎さんがはじめてこの本をよんだのは
22,3歳ごろのことで、
「いい本だなあと思うけど、
今これをつくってはいけない」
という時代についての判断があった。
なぜいまごろこの本を映画化する気になったかについて、
「『床下の小人たち』を取り上げたのは、
今や大人たち、いや人間たちが、
まるで世界に対して無力な、
小人のような気分になっていると
思ったからです」
時代についての宮崎さん(それに高畑さんと鈴木さんも)の
感覚がするどくていつも感心している。
ジブリの作品はどれも、
それぞれが時代にたいして
どういう意味をもっているかの
判断のもとつくられている。
「みんなが小人になっちゃったんですよ。
世界にたいして無力になって、
1円でも安いほうがいい、
なんてつまんないことのために
右往左往している。
見ている範囲もほんとうに狭くなってきた。
歴史的視野とか人間のあるべき姿とかの大きな主題が、
健康とか年金の話にするかえられてしまいました。
煙草をやめるとか、メタボをどうとか、
どうでもいいことばかりです」
という発言が宮崎さんらしい。
宮崎さんのかかれたものにふれると、
ピュアな感覚をとりもどせそうで気もちいい。
第2部はものすごく悲惨な予言の書だ。
3月11日以降を
「風が吹き始めた時代」という世界観でとらえた、
すごくきびしい「これから」についてかかれている。
「生きていくのに困難な時代の幕が上がりました。
この国だけではありません。
破局は世界規模になっています。
おそらく大量消費文明のはっきりした終わりの
第一段階に入ったのだと思います。
そのなかで、自分たちは正気を失わずに
生活をしていかなければなりません」
以前から、宮崎さんはおなじようなことをかたっている。
こんな消費文明がいつまでもつづくわけがない、
いまの日本の繁栄も「たまたま」手にしただけにすぎず、
それにうかれておごるものたちを
にがにがしくおもっておられた。
その没落のときが、とうとうすぐそこまできてしまったのだ。
この時代にどう生きるか。
いろんな情報にながされおどらされ、
ぶざまな姿をさらしたくはない。
『ゲド戦記』みたいなしっかりした世界観の作品が
よみたくなってきた。
2011年10月22日
64万6045人のうちのひとり
原発防災の重点区域が拡大されたと
新聞におおきくとりあげられている。
これまでの目安が最大で10キロ圏内だったのにたいし、
このみなおしでは30キロに拡大されている。
対象となる人口が一覧表になっていて、
島根は64万6045人が対象者だ。
このなかのひとりが自分であり、
まぎれもない当事者であることをしらされる。
原発の事故がおこれば、
どこにいたって「当事者」であることは
今回の事故で福島原発がよくおしえてくれたけど、
それにしても島根原発との距離は
わたしの家から11キロなので
ほんとうにリアルな存在だ。
テレビのニュースでとりあげられている
避難所での生活や放射能へのおびえが、
いつ現実のものになるかわからない。
現代を生きるということは
そうしたもろもろのリスクを
暗黙のうちにせおっていることでもある。
そして、わたしたちの生活をおびやかす問題は
原発だけではない。
現代文明は、そして人類は、
どんなかたちで最期のときをむかえるのだろう。
新聞におおきくとりあげられている。
これまでの目安が最大で10キロ圏内だったのにたいし、
このみなおしでは30キロに拡大されている。
対象となる人口が一覧表になっていて、
島根は64万6045人が対象者だ。
このなかのひとりが自分であり、
まぎれもない当事者であることをしらされる。
原発の事故がおこれば、
どこにいたって「当事者」であることは
今回の事故で福島原発がよくおしえてくれたけど、
それにしても島根原発との距離は
わたしの家から11キロなので
ほんとうにリアルな存在だ。
テレビのニュースでとりあげられている
避難所での生活や放射能へのおびえが、
いつ現実のものになるかわからない。
現代を生きるということは
そうしたもろもろのリスクを
暗黙のうちにせおっていることでもある。
そして、わたしたちの生活をおびやかす問題は
原発だけではない。
現代文明は、そして人類は、
どんなかたちで最期のときをむかえるのだろう。
2011年10月21日
はじめてスクリーンでみた『ゴッドファーザー』
サティ東宝での「午前10時の映画祭」で
『ゴッドファーザー』をみる。
この作品とのかかわりは、
中学生のとき、映画ずきな同級生の影響で
水曜ロードショーでみたのがはじまりだ。
背のびしたかったのだろう、
原作にも手をだした。
その後、テレビやビデオでは何回かみたことがあるけど、
スクリーンでははじめてなので、
今日の鑑賞をずっとたのしみにしていた。
オープニングがうまい。
葬儀屋が、娘に乱暴した若者への復讐を
ドン=コルレオーネに依頼する。
しかし、マフィアと関係をもつことをおそれ、
自分をさけてきたことを理由に
ドンはいったっんはことわった。
なぜ最初から自分に相談しなかったのだ、と葬儀屋たずねる。
金ではなく、ドンへの友情と敬意をしめすことが
なにより大切にされる世界であることが
この最初のシーンをみるだけでつたわってくる。
そのあいだ、ドンはネコをひざのうえにのせ
かわいがっている。
ネコは葬儀屋の依頼などまるで眼中になく、
ドンにあまえてからだをあずけている。
マフィアの親分=ネコをいじる、
というイメージをつくったのはこの作品だったのだ。
気になったのはジョニー=フォンテーン役のアル=マルティーノ。
全然さえない男なのに、
なんでフランク=シナトラがモデルといわれている
この役を手にできたのだろう。
声がいかによくても、
このひとにわかい女性が夢中になるという設定は無理がある。
ファミリーの相談役、
トム=ヘイゲンを演じるロバート=デュバルが
この作品のなかでいちばんすきだ。
彼の存在がなければ、この作品のリアリティは、
ずいぶんちがったものになっていただろう。
イタリア料理らしく、
テーブルにワインがならぶ場面がよくでてくる。
その影響からか、映画のあとでスパゲティがたべたくなった。
映画館のちかくにあるお店で
おひるのセットといっしょにワインも注文し、
映画の余韻をたのしんだ。
『ゴッドファーザー』をみる。
この作品とのかかわりは、
中学生のとき、映画ずきな同級生の影響で
水曜ロードショーでみたのがはじまりだ。
背のびしたかったのだろう、
原作にも手をだした。
その後、テレビやビデオでは何回かみたことがあるけど、
スクリーンでははじめてなので、
今日の鑑賞をずっとたのしみにしていた。
オープニングがうまい。
葬儀屋が、娘に乱暴した若者への復讐を
ドン=コルレオーネに依頼する。
しかし、マフィアと関係をもつことをおそれ、
自分をさけてきたことを理由に
ドンはいったっんはことわった。
なぜ最初から自分に相談しなかったのだ、と葬儀屋たずねる。
金ではなく、ドンへの友情と敬意をしめすことが
なにより大切にされる世界であることが
この最初のシーンをみるだけでつたわってくる。
そのあいだ、ドンはネコをひざのうえにのせ
かわいがっている。
ネコは葬儀屋の依頼などまるで眼中になく、
ドンにあまえてからだをあずけている。
マフィアの親分=ネコをいじる、
というイメージをつくったのはこの作品だったのだ。
気になったのはジョニー=フォンテーン役のアル=マルティーノ。
全然さえない男なのに、
なんでフランク=シナトラがモデルといわれている
この役を手にできたのだろう。
声がいかによくても、
このひとにわかい女性が夢中になるという設定は無理がある。
ファミリーの相談役、
トム=ヘイゲンを演じるロバート=デュバルが
この作品のなかでいちばんすきだ。
彼の存在がなければ、この作品のリアリティは、
ずいぶんちがったものになっていただろう。
イタリア料理らしく、
テーブルにワインがならぶ場面がよくでてくる。
その影響からか、映画のあとでスパゲティがたべたくなった。
映画館のちかくにあるお店で
おひるのセットといっしょにワインも注文し、
映画の余韻をたのしんだ。
2011年10月20日
なぜ食器をもちあげてはいけないのか(食事の作法の起源は?)
カンボジアとベトナムを旅行しているとき、
食器のあつかいが気になった。
カンボジアでもベトナムでも、
食事をするときに食器を手にもたないで、
テーブルにおいたままたべるのが作法だ。
たとえうどんをたべる場合でも、
おわんをもちあげることはせず、
ハシとさじをつかって口にはこぶ。
たしかタイでもこうだった。
この作法の起源はなんだろうか。
先日よんだ『食卓文明論』(石毛直道・中公業書)には、
それに関係したことがすこしかかれているが、
その起源についてはふれてない。
ほとんどの国では食器をもちあげることができない。
おわんをもって口にはこべるのは、
もしかしたら日本と中国だけかもしれない。
手をつかってたべることが大昔(原始時代)には
普通だったことはわかる。
近代になり、それがハシやフォークなどをつかうようになった文化と、
そのまま手をつかってたべる文化にわかれた。
手でたべる場合、自分用の器というのは基本的になく、
大皿にのった料理を手をだしてみんなでたべる。
食器をもちあげるということがそもそも存在しない。
ヨーロッパの国々だって、
いまでこそフォークとナイフをつかっているが、
つい最近までは手でたべていたそうだ。
彼らにとっても、食器を手にもつということは
ながいあいだ物理的にありえない行為だったので、
いまでもそれがつづいているのだろうか。
では、韓国ではなぜそれが無作法になるのだろう。
東南アジアの国々はなぜ
食器をもちあげない作法をえらんだのだろう。
市立図書館で参考になる本をさがしたけどみつからない。
ネットでも作法の起源まではかかれていない。
しばらくこのことを頭において、
日本と中国だけとおもわれる特殊事情についてしらべてみたい。
食器のあつかいが気になった。
カンボジアでもベトナムでも、
食事をするときに食器を手にもたないで、
テーブルにおいたままたべるのが作法だ。
たとえうどんをたべる場合でも、
おわんをもちあげることはせず、
ハシとさじをつかって口にはこぶ。
たしかタイでもこうだった。
この作法の起源はなんだろうか。
先日よんだ『食卓文明論』(石毛直道・中公業書)には、
それに関係したことがすこしかかれているが、
その起源についてはふれてない。
ほとんどの国では食器をもちあげることができない。
おわんをもって口にはこべるのは、
もしかしたら日本と中国だけかもしれない。
手をつかってたべることが大昔(原始時代)には
普通だったことはわかる。
近代になり、それがハシやフォークなどをつかうようになった文化と、
そのまま手をつかってたべる文化にわかれた。
手でたべる場合、自分用の器というのは基本的になく、
大皿にのった料理を手をだしてみんなでたべる。
食器をもちあげるということがそもそも存在しない。
ヨーロッパの国々だって、
いまでこそフォークとナイフをつかっているが、
つい最近までは手でたべていたそうだ。
彼らにとっても、食器を手にもつということは
ながいあいだ物理的にありえない行為だったので、
いまでもそれがつづいているのだろうか。
では、韓国ではなぜそれが無作法になるのだろう。
東南アジアの国々はなぜ
食器をもちあげない作法をえらんだのだろう。
市立図書館で参考になる本をさがしたけどみつからない。
ネットでも作法の起源まではかかれていない。
しばらくこのことを頭において、
日本と中国だけとおもわれる特殊事情についてしらべてみたい。
2011年10月19日
長友のほんとうの「日常」がはじまった
15日におこなわれたインテル対カターニア(録画放送)をみる。
インテルが前半6分に1点をいれる。
それ以降はなかなかチャンスがつくれない。
なんとかカターニアの攻撃をしのいで
前半は1−0のままきりぬける。
しかし、後半にはいりしな、
たてつづけに2点(後半1分と4分)をいれられて
あっけなく逆転をゆるした。
守備崩壊、といったかんじだ。
その直後、インテルのラニエリ監督は2人の選手を交代させ
攻撃をあつくしようとする。
しかし間のわるいことにその2分後、
サムエルが右腿のうらをいためてプレイできなくなり
3人目の交代をよぎなくされてしまった。
インテルはほんの短時間に3人の交代枠をつかいきり、
その後の試合のくみたてがむつかしくなる。
はげしい雨のせいもあるが、
イージーなミスがつづけてでる。
調子がもどらないインテルを象徴するような試合だ。
けっきょく試合はこのまま2−1でおわる。
インテルは勝ち点をのばせず
リーグ18位という位置にいる。
長友は左サイドバックで90分出場した。
なんどもかけあがるが、
いいところでパスをまわしてもらえない。
ボールをもってもパスミスもめだったし、
まもっては、もうすこしでぬかれそうになったり、
せめあがったあとにそのスペースをつかわれたりと、
いいところがない。
今シーズンからチームのメンバーがかわり
まだ信頼をえていないかんじだ。
まえのシーズンは、
突然のインテル加入でなにかと注目があつまった。
今シーズンは、ルーキーとしてではなく、
ひとりのサッカー選手として
きびしい目でみられるだろう。
それがサッカーの日常風景なのだ。
むつかしくて、あたりまえにきびしい世界で
長友のシーズンがはじまった。
これからがほんとうのたたかいといえるだろう。
インテルが前半6分に1点をいれる。
それ以降はなかなかチャンスがつくれない。
なんとかカターニアの攻撃をしのいで
前半は1−0のままきりぬける。
しかし、後半にはいりしな、
たてつづけに2点(後半1分と4分)をいれられて
あっけなく逆転をゆるした。
守備崩壊、といったかんじだ。
その直後、インテルのラニエリ監督は2人の選手を交代させ
攻撃をあつくしようとする。
しかし間のわるいことにその2分後、
サムエルが右腿のうらをいためてプレイできなくなり
3人目の交代をよぎなくされてしまった。
インテルはほんの短時間に3人の交代枠をつかいきり、
その後の試合のくみたてがむつかしくなる。
はげしい雨のせいもあるが、
イージーなミスがつづけてでる。
調子がもどらないインテルを象徴するような試合だ。
けっきょく試合はこのまま2−1でおわる。
インテルは勝ち点をのばせず
リーグ18位という位置にいる。
長友は左サイドバックで90分出場した。
なんどもかけあがるが、
いいところでパスをまわしてもらえない。
ボールをもってもパスミスもめだったし、
まもっては、もうすこしでぬかれそうになったり、
せめあがったあとにそのスペースをつかわれたりと、
いいところがない。
今シーズンからチームのメンバーがかわり
まだ信頼をえていないかんじだ。
まえのシーズンは、
突然のインテル加入でなにかと注目があつまった。
今シーズンは、ルーキーとしてではなく、
ひとりのサッカー選手として
きびしい目でみられるだろう。
それがサッカーの日常風景なのだ。
むつかしくて、あたりまえにきびしい世界で
長友のシーズンがはじまった。
これからがほんとうのたたかいといえるだろう。
2011年10月18日
広島県高野町・大坂リンゴ園へ
広島県の高野町にある大坂リンゴ園へでかける。
秋がだいぶふかまり、
お天気もよくてたのしいドライブとなる。
県境をこえて広島県にはいると
とたんに広々とした景色にかわる。
なにかが島根県側と決定的にちがうのだ。
空のひろがりだろうか。
山のおおきさだろうか。
リンゴ園にみのっているリンゴは、
とおくからみると、とても赤くてあざやかにみえる。
ちかづいて、手にとれば、
いつもみるあたりまえのリンゴにかわる。
木についているときのリンゴこそが
本来のすがたなのだろう。
入園料が600円で、
おみやげにもってかえるリンゴは
1キロが400円だ。
そうたくさんたべられるものではないので、
元をとろうとするとちょっとくるしい。
いいドライブをさせてもらったことと、
うつくしいリンゴをみられたことに感謝して
10個をおみやげにもってかえった。
いつもは「ふじ」リンゴになれているけど、
大坂リンゴ園のリンゴは
甘みよりも酸味がひきたつリンゴらしい味だ。
これはこれでとてもおいしい。
家族にも好評だった。
リンゴ園の販売所では
いろいろな種類のリンゴのほかに
ジャムもうられていた。
アップルパイがすきなわたしは、
ここにアップルパイがもしあれば
かなりこころをうごかされるだろう。
大坂リンゴ園だけではたいへんなので、
高津町としてのとりくみで
アップルパイを特産物にできないだろうか。
秋がだいぶふかまり、
お天気もよくてたのしいドライブとなる。
県境をこえて広島県にはいると
とたんに広々とした景色にかわる。
なにかが島根県側と決定的にちがうのだ。
空のひろがりだろうか。
山のおおきさだろうか。
リンゴ園にみのっているリンゴは、
とおくからみると、とても赤くてあざやかにみえる。
ちかづいて、手にとれば、
いつもみるあたりまえのリンゴにかわる。
木についているときのリンゴこそが
本来のすがたなのだろう。
入園料が600円で、
おみやげにもってかえるリンゴは
1キロが400円だ。
そうたくさんたべられるものではないので、
元をとろうとするとちょっとくるしい。
いいドライブをさせてもらったことと、
うつくしいリンゴをみられたことに感謝して
10個をおみやげにもってかえった。
いつもは「ふじ」リンゴになれているけど、
大坂リンゴ園のリンゴは
甘みよりも酸味がひきたつリンゴらしい味だ。
これはこれでとてもおいしい。
家族にも好評だった。
リンゴ園の販売所では
いろいろな種類のリンゴのほかに
ジャムもうられていた。
アップルパイがすきなわたしは、
ここにアップルパイがもしあれば
かなりこころをうごかされるだろう。
大坂リンゴ園だけではたいへんなので、
高津町としてのとりくみで
アップルパイを特産物にできないだろうか。
2011年10月17日
ランニングの先達にはなしをきく
体育館でトレーニング。
ときどきいっしょになる年配の男性が
ひとりで練習されていた。
その方もわたしも、
いつもはほとんど人となさないで
メニューにとりくんでいる。
以前から気になっていたので、
その方に年齢をたずねてみた。
65歳以上だとおもえるのに、
すばらしくきたえられた
典型的なランナーの脚をされているのだ。
ときどきはなすことによってしっていることは、
定年退職してからランニングにとりくんでいること、
マスターズその他のレースによく出場されていること、ぐらいだ。
71歳、とこたえられる。
71歳でこれだけのスタイルを維持できるのか。
もちろんスタイルだけでなく、
スピードと持久力もすごい。
トレッドミルでいっしょにはしっても、
わたしよりずっとはやいスピードにとりくんでおられる。
その方が同窓会にでたら、
まわりが年よりにみえてしょうがないだろう
(年齢的にはたしかにそうだけど)。
月に300キロはしるうえに、
こうして筋力トレーニングにもとりくんで
体調をととのえておられるそうだ。
「おかげでケガをしません」と
ご自分の練習スタイルに確信をもっておられる。
年をとった自分がイメージできなかったけれど、
この方にであってからは
ああいう年のとり方ができるのだと、
目標にさせてもらっている。
70になってもかっこいいプロポーション
というのもあり、なのだ。
練習のさいごに
いつものようにトレッドミルではしる。
きのうのサイクリングのつかれでからだがおもい。
ゆっくりでもとにかく練習にとりくもうと
はしりはじめる。
意外なことに、いつもとおなじことが
いつもよりずっと気もちよくできた。
スピードをかえて10キロはしったあとも
すごく気分がいい。
こんなかんじはひさしぶりだ。
なにかはしらないが、
いい脳内物質が分泌されたのだろう。
さきにあげた年配の男性とはなせたことで、
練習にむけた気もちがたかまったからだろうか。
ゆっくりはしるだけでなく、
スピード練習にもとりくんで、
はやいとこフルマラソンを体験しようという気になる。
以前かいたように、
脳がからだにあたえる影響はすくなくない。
いい気分で練習にとりくめるよう、
効果的な脳のだまし方を身につけたい。
ときどきいっしょになる年配の男性が
ひとりで練習されていた。
その方もわたしも、
いつもはほとんど人となさないで
メニューにとりくんでいる。
以前から気になっていたので、
その方に年齢をたずねてみた。
65歳以上だとおもえるのに、
すばらしくきたえられた
典型的なランナーの脚をされているのだ。
ときどきはなすことによってしっていることは、
定年退職してからランニングにとりくんでいること、
マスターズその他のレースによく出場されていること、ぐらいだ。
71歳、とこたえられる。
71歳でこれだけのスタイルを維持できるのか。
もちろんスタイルだけでなく、
スピードと持久力もすごい。
トレッドミルでいっしょにはしっても、
わたしよりずっとはやいスピードにとりくんでおられる。
その方が同窓会にでたら、
まわりが年よりにみえてしょうがないだろう
(年齢的にはたしかにそうだけど)。
月に300キロはしるうえに、
こうして筋力トレーニングにもとりくんで
体調をととのえておられるそうだ。
「おかげでケガをしません」と
ご自分の練習スタイルに確信をもっておられる。
年をとった自分がイメージできなかったけれど、
この方にであってからは
ああいう年のとり方ができるのだと、
目標にさせてもらっている。
70になってもかっこいいプロポーション
というのもあり、なのだ。
練習のさいごに
いつものようにトレッドミルではしる。
きのうのサイクリングのつかれでからだがおもい。
ゆっくりでもとにかく練習にとりくもうと
はしりはじめる。
意外なことに、いつもとおなじことが
いつもよりずっと気もちよくできた。
スピードをかえて10キロはしったあとも
すごく気分がいい。
こんなかんじはひさしぶりだ。
なにかはしらないが、
いい脳内物質が分泌されたのだろう。
さきにあげた年配の男性とはなせたことで、
練習にむけた気もちがたかまったからだろうか。
ゆっくりはしるだけでなく、
スピード練習にもとりくんで、
はやいとこフルマラソンを体験しようという気になる。
以前かいたように、
脳がからだにあたえる影響はすくなくない。
いい気分で練習にとりくめるよう、
効果的な脳のだまし方を身につけたい。
2011年10月16日
自転車で境水道大橋をわたる
ひさしぶりにあったしりあいに、
「このごろ自転車にのってますか?」
とたずねると、
このまえ中海を一周したという。
宍道湖一周はやったことがあるけど、
中海一周はかんがえたこともなかった。
先週2時間半のサイクリングをした手ごえたえから、
もうすこしながいおでかけがしたかったので、
わたしもやってみたくなった。
とはいえ、あんまり車がおおい道ははしりたくない。
米子への9号線はさけ、
八束町をとおるコースをかんがえる。
中海一周にくらべると、1/3ほどの距離でしかないだろう。
中海大橋をわたって八束町をぬけ、
江島大橋から境港へ。
そこから境水道大橋をとおって
中海の北側から松江にもどるコースだ。
水辺ばかりはしるので坂道はほとんどなく、
たいしてつかれるコースではない。
でも、3つの橋ともかなりたかさがあり、
風がつよいせいもあってとてもこわかった。
なかでも境水道大橋はすごい。
境港駅ちかくの公園から
境水道大橋をみあげると、
すごくたかいところを橋はとおっている。
まともな歩道なんてなさそうだけど、
あんなところをほんとうにわたれるのだろうか。
わたしのしりあいが「一周した」、
ということをしらなければ、
こわがりなわたしは
すぐにあきらめていたところだ。
「ひきかえす勇気」をいつでも決断するつもりで
おそるおそる橋へつづく道路にたどりつく。
たしかに自転車もとおれるけど、
「危険ですので歩道をとおってください」
という表示が冗談におもえるほど
ささやかな「歩道」でしかない(1mぐらいか)。
境港側は風をふせぐためのカバーがはってあるが、
松江市への境界をこえるとそれもなくなり
まともに風をうける。
なんでこんなにあぶない「歩道」が
みとめられているのか。
かえりはほとんどずっとつよいむかい風をうける。
多少のくだり坂は、
ペダルをふまないとすすめないぐらいの風だ。
でもまあ境水道大橋のこわさにくらべると、
地上でのくるしさなんてなんでもない。
5時間ほどでぶじ家にもどる。
なかなかたのしい、
でも、もう2どとまわりたくはないコースだ。
境水道大橋さえなければ
のんびりはしれ、景色もよく、
魅力のあるコースなのに。
以前は境水道にわたし船がとおっていたという。
ウィキペディアによると
「境水道渡船(さかいすいどうとせん)とは、
鳥取県境港市相生町の相生町岸壁と、
島根県松江市美保関町の宇井岸壁を結ぶ
定期旅客船航路(渡し船)である。
2007年3月末日から運行休止状態(事実上廃止))」
とある。
おもいつくのがすこしおそかった。
鬼太郎ブームに便乗して、
またわたし船が復活してくれないだろうか。
「このごろ自転車にのってますか?」
とたずねると、
このまえ中海を一周したという。
宍道湖一周はやったことがあるけど、
中海一周はかんがえたこともなかった。
先週2時間半のサイクリングをした手ごえたえから、
もうすこしながいおでかけがしたかったので、
わたしもやってみたくなった。
とはいえ、あんまり車がおおい道ははしりたくない。
米子への9号線はさけ、
八束町をとおるコースをかんがえる。
中海一周にくらべると、1/3ほどの距離でしかないだろう。
中海大橋をわたって八束町をぬけ、
江島大橋から境港へ。
そこから境水道大橋をとおって
中海の北側から松江にもどるコースだ。
水辺ばかりはしるので坂道はほとんどなく、
たいしてつかれるコースではない。
でも、3つの橋ともかなりたかさがあり、
風がつよいせいもあってとてもこわかった。
なかでも境水道大橋はすごい。
境港駅ちかくの公園から
境水道大橋をみあげると、
すごくたかいところを橋はとおっている。
まともな歩道なんてなさそうだけど、
あんなところをほんとうにわたれるのだろうか。
わたしのしりあいが「一周した」、
ということをしらなければ、
こわがりなわたしは
すぐにあきらめていたところだ。
「ひきかえす勇気」をいつでも決断するつもりで
おそるおそる橋へつづく道路にたどりつく。
たしかに自転車もとおれるけど、
「危険ですので歩道をとおってください」
という表示が冗談におもえるほど
ささやかな「歩道」でしかない(1mぐらいか)。
境港側は風をふせぐためのカバーがはってあるが、
松江市への境界をこえるとそれもなくなり
まともに風をうける。
なんでこんなにあぶない「歩道」が
みとめられているのか。
かえりはほとんどずっとつよいむかい風をうける。
多少のくだり坂は、
ペダルをふまないとすすめないぐらいの風だ。
でもまあ境水道大橋のこわさにくらべると、
地上でのくるしさなんてなんでもない。
5時間ほどでぶじ家にもどる。
なかなかたのしい、
でも、もう2どとまわりたくはないコースだ。
境水道大橋さえなければ
のんびりはしれ、景色もよく、
魅力のあるコースなのに。
以前は境水道にわたし船がとおっていたという。
ウィキペディアによると
「境水道渡船(さかいすいどうとせん)とは、
鳥取県境港市相生町の相生町岸壁と、
島根県松江市美保関町の宇井岸壁を結ぶ
定期旅客船航路(渡し船)である。
2007年3月末日から運行休止状態(事実上廃止))」
とある。
おもいつくのがすこしおそかった。
鬼太郎ブームに便乗して、
またわたし船が復活してくれないだろうか。
2011年10月15日
脳がジョギングのじゃまをする
ちかくの公園でジョギングをする。
いつものようにすごくくるしい。
59分で9キロほどしかはしれない。
きょうが特別というのではく、
毎回にたようなヘロヘロのはしりだ。
おかしい。あまりにもくるしすぎる。
脳がじゃまをしている、
と仮説してみた。
道路や公園では
とくにはやくはしる必要がない。
スピードをきめるのは
わたしのかんがえ、というか気分だ。
とくに目標のタイムを設定しての練習ではなく、
いくらでもゆっくりはしれるので、
こころのよわいわたしは
「からだにあわせて」ついながしてしまう。
からだのいうことをきいてはいけないのが
マラソンの常識だ。
足や心臓がいろいろいってくるけど、
そんなのをまともにきいていたらいいタイムではしれない。
それらの苦情を無視したり、なだめたりして
脳が主導権をにぎらないとランニングはできない。
わたしの脳は、道路や公園でのジョギングを
たのしめないようだ。
おなじことをながくやりすぎたので、
きっと別の刺激を必要としているのだろう。
じょうずな目標の設定か(ボストンマラソンにでるとか)
トレイルランニングをとりいれるなどがいいかもしれない。
はやくはしりたいとはあまりおもわないが、
気分よくはしりたい。
からだキレキレでうごく爽快感から
もうずいぶんながくとおざかっている。
いつものようにすごくくるしい。
59分で9キロほどしかはしれない。
きょうが特別というのではく、
毎回にたようなヘロヘロのはしりだ。
おかしい。あまりにもくるしすぎる。
脳がじゃまをしている、
と仮説してみた。
道路や公園では
とくにはやくはしる必要がない。
スピードをきめるのは
わたしのかんがえ、というか気分だ。
とくに目標のタイムを設定しての練習ではなく、
いくらでもゆっくりはしれるので、
こころのよわいわたしは
「からだにあわせて」ついながしてしまう。
からだのいうことをきいてはいけないのが
マラソンの常識だ。
足や心臓がいろいろいってくるけど、
そんなのをまともにきいていたらいいタイムではしれない。
それらの苦情を無視したり、なだめたりして
脳が主導権をにぎらないとランニングはできない。
わたしの脳は、道路や公園でのジョギングを
たのしめないようだ。
おなじことをながくやりすぎたので、
きっと別の刺激を必要としているのだろう。
じょうずな目標の設定か(ボストンマラソンにでるとか)
トレイルランニングをとりいれるなどがいいかもしれない。
はやくはしりたいとはあまりおもわないが、
気分よくはしりたい。
からだキレキレでうごく爽快感から
もうずいぶんながくとおざかっている。
2011年10月14日
『ぱいかじ南海作戦』意外にこまかいシーナワールド 意外にこまかいシーナワールド
『ぱいかじ南海作戦』(椎名誠・新潮文庫)をよむ。
会社の倒産(そして失業)と離婚がいちどにやってきた
36歳の「おれ」が主人公。
なんとなく西表島をめざし、
ついた浜辺で海浜生活をはじめる。
楽園のような生活、とおもったのもつかの間、
まえからそこにすみついていたグループにだまされ、
全財産と荷物をとられてしまった。
しかし「おれ」はくじけずにその浜にのこり、
まったくなにもないところからの
本格的なサバイバル生活がはじまる。
おもしろかった。
椎名誠の本はだいすきでこれまでにずいぶんよんでいる。
でも、そのほとんどがエッセイと旅行記であり、
ほんとうの意味での小説はこれがはじめてだった。
西表島でじっさいに
そういう生活をしているひとたちのはなしをきいたそうだし、
そもそも「わしらはあやしい探検隊」の
延長みたいなはなしなので、
気らくにかけたと椎名さんが
「椎名誠 旅する文学館」でかたっている。
ほとんどお金をつかわないで
衣食住をなんとかしたり、
たまにのむビールや泡盛が
とんでもないごちそうだったり、
いのししがワナにかかったりで、
なんだかほんとにたのしそうだ。
おもしろくなったところで
ものがたりはあっけなくおわってしまう。
もうすこしそのさきがよみたかったのに、
短編小説みたいに
あとは読者の想像力にまかされたかんじだ。
茂木健一郎さんの解説がよかった。
シーナワールドについて、
これだけ適切にまとめられたものはあまりない。
茂木さんはそうとうなシーナフリークみたいだ。
椎名さんはけっこうこまかい
(「女々しい」と『かつおぶしの時代なのだ』の解説で
佐野洋子さんが椎名誠の本質をするどくついている)。
「おれ」の心理描写には
椎名さんのこまかさがうまくいかされていて、
そしてはなしのおわりかたは
椎名さんのおおざっぱさがでている、
いかにも椎名さんらしい一冊といえる。
会社の倒産(そして失業)と離婚がいちどにやってきた
36歳の「おれ」が主人公。
なんとなく西表島をめざし、
ついた浜辺で海浜生活をはじめる。
楽園のような生活、とおもったのもつかの間、
まえからそこにすみついていたグループにだまされ、
全財産と荷物をとられてしまった。
しかし「おれ」はくじけずにその浜にのこり、
まったくなにもないところからの
本格的なサバイバル生活がはじまる。
おもしろかった。
椎名誠の本はだいすきでこれまでにずいぶんよんでいる。
でも、そのほとんどがエッセイと旅行記であり、
ほんとうの意味での小説はこれがはじめてだった。
西表島でじっさいに
そういう生活をしているひとたちのはなしをきいたそうだし、
そもそも「わしらはあやしい探検隊」の
延長みたいなはなしなので、
気らくにかけたと椎名さんが
「椎名誠 旅する文学館」でかたっている。
ほとんどお金をつかわないで
衣食住をなんとかしたり、
たまにのむビールや泡盛が
とんでもないごちそうだったり、
いのししがワナにかかったりで、
なんだかほんとにたのしそうだ。
おもしろくなったところで
ものがたりはあっけなくおわってしまう。
もうすこしそのさきがよみたかったのに、
短編小説みたいに
あとは読者の想像力にまかされたかんじだ。
茂木健一郎さんの解説がよかった。
シーナワールドについて、
これだけ適切にまとめられたものはあまりない。
茂木さんはそうとうなシーナフリークみたいだ。
椎名さんはけっこうこまかい
(「女々しい」と『かつおぶしの時代なのだ』の解説で
佐野洋子さんが椎名誠の本質をするどくついている)。
「おれ」の心理描写には
椎名さんのこまかさがうまくいかされていて、
そしてはなしのおわりかたは
椎名さんのおおざっぱさがでている、
いかにも椎名さんらしい一冊といえる。
2011年10月13日
『探偵はバーにいる』
『探偵はバーにいる』(東直己・ハヤカワ文庫)をよむ。
高野秀行さんがブログでほめていた本だ。
「チャンドラーの正当的な後継者がこんなところにいたのか」と
すごいほめようだ。
「『チャンドラーの正統な後継者』と思っていたが、
読み進めるうちに
『フロスト警部のほうにむしろ近いかも』と思い始めた」
ともある。
「フロスト警部」シリーズはまだよんだことがないけど、
ススキノ探偵は
カーター=ブラウンの雰囲気にちかいとわたしはおもった。
チャンドラーほどハードボイルドしていない、
いわゆる「軽ハードボイルド」というわけだ。
カーター=ブラウンにはいくつかのシリーズがあって、
わたしがすきなのはアル=ウィーラー警部ものだ。
正義感なんてぜんぜんなくて、女がだいすき。
軽口をたたいてばかりのいいかげんな警部だ。
酒をたのむときはいつも
「ソーダをちょっぴりいれたスコッチのオンザロック」
がおきまりだ。
『探偵はバーにいる』の「俺」も
いつもウィスキーをのんでいる。
12オンスのタンブラーに8分目、
とか、指4本分とかを
水わりでもオンザロックでもなく、
チェイサーもないストレート。
すきなのはジャック=ダニエルズとスーパーニッカみたいだ。
サンドイッチをたべるときもウィスキーのダブルを注文するので
彼のからだが心配になってくる。
1オンスは約30ccなので、
12オンスのタンブラーに8分目というと300ccほどになる。
ほかの店でのウィスキーとあわせると、
1日に2本ぐらいのんでいるみたいだ。
こんなことをつづけてるとどうなるかというと・・・
どうなるんだろう。
このススキノ探偵はシリーズが12作までつづいている。
10作目で「俺」は52歳になっているそうだから、
こんなにめちゃくちゃにウィスキーをのんでも
なんとか生きのびて中年になれたようだ。
52歳の「俺」が
どんなふうにハードボイルドをつづけているかしりたい。
高野秀行さんがブログでほめていた本だ。
「チャンドラーの正当的な後継者がこんなところにいたのか」と
すごいほめようだ。
「『チャンドラーの正統な後継者』と思っていたが、
読み進めるうちに
『フロスト警部のほうにむしろ近いかも』と思い始めた」
ともある。
「フロスト警部」シリーズはまだよんだことがないけど、
ススキノ探偵は
カーター=ブラウンの雰囲気にちかいとわたしはおもった。
チャンドラーほどハードボイルドしていない、
いわゆる「軽ハードボイルド」というわけだ。
カーター=ブラウンにはいくつかのシリーズがあって、
わたしがすきなのはアル=ウィーラー警部ものだ。
正義感なんてぜんぜんなくて、女がだいすき。
軽口をたたいてばかりのいいかげんな警部だ。
酒をたのむときはいつも
「ソーダをちょっぴりいれたスコッチのオンザロック」
がおきまりだ。
『探偵はバーにいる』の「俺」も
いつもウィスキーをのんでいる。
12オンスのタンブラーに8分目、
とか、指4本分とかを
水わりでもオンザロックでもなく、
チェイサーもないストレート。
すきなのはジャック=ダニエルズとスーパーニッカみたいだ。
サンドイッチをたべるときもウィスキーのダブルを注文するので
彼のからだが心配になってくる。
1オンスは約30ccなので、
12オンスのタンブラーに8分目というと300ccほどになる。
ほかの店でのウィスキーとあわせると、
1日に2本ぐらいのんでいるみたいだ。
こんなことをつづけてるとどうなるかというと・・・
どうなるんだろう。
このススキノ探偵はシリーズが12作までつづいている。
10作目で「俺」は52歳になっているそうだから、
こんなにめちゃくちゃにウィスキーをのんでも
なんとか生きのびて中年になれたようだ。
52歳の「俺」が
どんなふうにハードボイルドをつづけているかしりたい。
2011年10月12日
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入門書を何ヶ月まえにかっていたし、
マーク=ザッカーバーグについての映画をみた。
でも、ともだちがいないのに
フェイスブックをはじめてもおもしろくなさそうなので、
ずっとほったらかしてあった。
きゅうにその気になってアカウントをとり、
プロフィールを記入する。
写真はiMacについているカメラですました。
すこしためらってから登録をクリックする。
だれともつながりがなくても、
それがいまのおれなんだから
かっこつけてもしょうがないや、とおもったのだ。
ツイッターにはぜんぜん関心がないけど、
フェイスブックはいったいどんなものなのかを
体験しておきたい。
金も仕事も人脈もない人間に、
フェイスブックはどんなたのしみをもたらしてくれるだろう。
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