2011年10月31日

本のたのしさをおしえてくれた北杜夫

10月24日に北杜夫さんがなくなった。
新聞でもおおきくとりあげられたものの、
北杜夫とは、なにをかき、どういう人物だったのか、
という全体像がつたわるものではなかった。
朝日新聞では、きょうになって
なだいなださんによる追悼文がのったが、
あくまでも「追悼文」であり、
文学としてどう評価されるかについては
かんたんにふれてある程度だ。
なんだかこれではすこしさみしいので、
北杜夫(敬称略)についてのおもいでをかいておく。

北杜夫の小説とエッセイは、
わたしがいちばんはじめにふれた大人の本だった。
中学生のときにはほかの作家の本に
手をのばそうとせず、北杜夫だけよんでいた。
なにがわたしのこころをとらえたのだろう。
当時のわたしに(いまもだけど)
むつかしいことがわかるわけもなく、
事実『幽霊』や『夜と霧の隅で』などは
ただたいくつなだけだった。
わたしにおもしろかったのは、
北杜夫ならではのユーモアであり、
さらにいえば「立派でない」ところだったようだ。
『航海記』や『青春期』のおかしさは、
おとなの本は、むつかしいことがかいてあるもの、
というわたしの先入観をこわし、
本はおもしろくてもいい、
ということをおしえてくれた。

『楡家の人びと』は、
期末試験の勉強の最中についひらいてしまい、
あんまりおもしろいので、すこし勉強しては1章よみ、
やがてそれが2章になり、というかんじで
ぜんぜん勉強にならなかったことをおぼえている。
『怪盗ジバコ』はおもしろかったけど、
『さびしい王様』になってくると
むりしておもしろくかこうとしてるかんじがしてきた。
『輝ける碧き空の下で』にはけっきょく手をだしていない。

わたしにとっての北杜夫は、
けっきょく初期のいくつかの作品にかぎられる。
あとは再読することもなく、
あるいはかうことすらしないで、
読者としてのみじかい数年をおえた。
もしかしたら、
ほんの数年でピークをむかえてしまった作家なのかもしれない。
ではありながら、わたしにとって北杜夫は、
はじめておとなの本のたのしさをおしえてくれた作家として
とてもなつかしいひとだ。

posted by カルピス at 22:26 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする