『アンコール遺跡を楽しむ』(波田野直樹・連合出版)がおもしろかったので、
おなじ著者がかいた『アンコール文明への旅』と
『キリング・フィールドへの旅』の2冊を
図書館でかりてよみすすめる。
『アンコール文明への旅』のプロローグには、
波田野さんが20代のころ、南インドからヨーロッパへとさまよい、
そしてパリでアンコール遺跡の写真集にであったことがかかれている。
『キリング・フィールドへの旅』は
ポル・ポト政権下でのジェノサイドが
なぜ、どのようにおこったか、についてのものだ。
カンボジアについてなにかをかくときに、
そして、カンボジアという国と誠実にむかいあおうとしたとき、
まだ完全にはあきらかにされていないこの大虐殺について
ふれないですますわけにはいかない。
波田野さんは虐殺博物館や
カンボジアの国じゅうに点在する虐殺の現場
(キリング・フィールド)をめぐり、虐殺の背景をさぐる。
「戦場カメラマン」という章では
「私にとって最も興味があったのは沢田教一だった」とし
「沢田の写真からは
冷静沈着なプロの目撃者としての雰囲気が感じられた」とある。
青森県弘前市に未亡人の沢田サタさんをたずね、
カンボジアでの沢田教一についてしろうとする。
一ノ瀬泰造もとりあげている。
タイゾーさんはわたしにとって格別の存在で、
知識も経験もほとんどないままに世界にとびだした行動力に
20代のころからつよくひかれてきた。
きょねんの9月にアンコール遺跡をたずねたとき、
ずっとタイゾーさんのことがわたしのあたまにあったし、
その「墓」にもたずねている。
しかし波田野さんは、沢田教一にくらべ、
タイゾーさんへの視線はあきらかに批判的だ。
タイゾーさんへの批判というよりも、
映画『地雷を踏んだらサヨウナラ』をみて
タイゾーさんファンになった若者たちへの
にがにがしいおもい、というべきか。
「未完成で死んだ泰造を見る人々の目は
感傷的で情緒的である。
彼が死んでしまったために
時の流れの中で伝説化と偶像化の作用が起き、
それが今も進行していて」
波田野さんは、タイゾーさんの死について、
「彼の情報収集能力が低かったのは
何の組織的な後ろ盾もなく戦場に飛び込んでいったからで、
更に情報そのものに興味がなく感性で動いていた。
こういう人間が戦場に行けばその結果は明らかだ」
プロとしてあるまじき軽々しく未熟なおこないの結果、
死ぬべきして死んでいったおろかな若者、といいたそうだ。
そこまで批判的になる心理的な背景を分析もしている。
「私は沢田に対して感じたことのない反発を
泰造に感じていた」とし、
「その理由のひとつに私と泰造が年齢的に近かったということがある」
「私が二十歳を過ぎてどう生きてゆくか迷っていた頃、
泰造のような若者はいくらでもいて特殊でも象徴的でもなかった。
泰造は私の隣にいたのだ」
大人からみればタイゾーさんの生きかたは
「情報そのものに興味がなく感性で動いていた」
ようにおもえるかもしれない。
しかし、自分がやりたいことにむかって
(まよいながらも)つきすすむタイゾーさんの行為は
若者だけにおとずれる、いかんともしがたい情熱の発露であり、
もうすこしかしこくやれば、という批判と相容れるものではない。
タイゾーさんは、金や名誉のために
アンコール遺跡をめざしたのではなかった。
クメール・ルージュの支配下にあった
アンコール遺跡だからこそとりたかったのであり、
なぜそれが必要だったかは
「やりたかったから」としかいいようがない。
タイゾーさんについての波田野さんの指摘は理解できる。
でも、あの時代・あの状況でのタイゾーさんの行為は、
タイゾーさん本人にとっても、そしてだれにとっても
とめられるものではなかった。
死をうつくしく、神聖なものにたてまつるつもりはない。
タイゾーさんの生きかたにひかれたものとして、
わかさゆえのどうしようもない情熱を
否定的にとらえられたくなかった。