2012年01月11日

『雪男は向こうからやって来た』(角幡唯介・集英社)

『雪男は向こうからやって来た』(角幡唯介・集英社)

『空白の五マイル』でチベットのツァンボー峡谷を探検した角幡さんが、
この本ではまきこまれるかたちでヒマラヤの雪男の捜索隊にくわわる。
1ヶ月半にわたる現地での捜索のほか、
雪男をめぐるこれまでの経緯や、
6回も雪男をさがしにネパールをおとずれた鈴木紀夫さんについても、
その背景にこまかくふれている。

でも、ほんのみじかいあいだ雪男をさがしただけのことなのに、
みょうに深刻ぶったかきかたと、
効果をねらったいりくんだ構成が
「なにもここまで」という気をひきおこす。
おおまじめに雪男をさがすのがわるいのではない。
対象がちがうのに、表現のしかたが
『空白の五マイル』とまったくおなじなのに違和感があるのだ。
それは、角幡さんの主体性がどこまであるか、
という点でのちがいかもしれない。
『空白の五マイル』は角幡さんがながねん
おいもとめてきたことであったのにたいし、
「雪男」はたまたま探索隊のメンバーに
くわわることになってしまったという「まきこまれ型」だ。
だんだんと真剣に雪男をおいもとめるようになったとはいえ、
「なにがなんでも自分が」というおもいはそうたかくない。
それでも本にするにはもっともらしい体裁が必要だったから、
みたいな舞台裏を想像してしまった。

UMA(未知動物)といえば辺境探検家の
高野秀行さんの出番みたいだけど、
高野さんは雪男みたいによくしられているUMAには
関心がないのだそうだ。

「私にとって重要なのは『未知の未知動物』であり、
『既知の未知動物』はどうでもいい」

のだそうだ。
なぜなら、

「ネッシーを見ればわかるように、
メジャーな未知動物はすでに多くの人が大規模に探しているからだ。
それでも見つかっていないということは存在する可能性が低く、
存在していたとしても、徒手空拳に近い私が見つけられる可能性は
さらに低い」

からだという。

高野さんのスタンスは、それはそれでひとつの見識である。
そうではなくて、なんとなく雪男さがしに
「まきこまれてしまった」角幡さんは
自分よりももっと熱中しているひとたちの心情に
ふれないわけにいかなかった。
そして、それでもなお、
自分はあくまでも雪男の存在に中立であろうとする。
そこにこの本の二面性というか、
あらかじめ予想することができた限界をかんじてしまう。

雪男はいったいいるのか、いないのか。
「発見」されるのは、それらしい足あとや
シカなどの野生動物をみあやまったものばかりだ。
337ページの本書のうち
310ページまでよみすすめて、
ようやく捜索が失敗し、現地をはなれれることがわかる。

角幡さんは

「芳野や鈴木が見たような雪男は、
最後までわたしの前には現れなかった(中略)
おそらくわたしは彼らほど雪男に対して誠実でなかったのだ(中略)。
わたしの前でも何かが起きていたのかもしれないが、
わたしはそれを雪男と受け止めなかったのではあるまいか」

と最後の最後にかいている。
なんだかまるで映画『ステキな金縛り』ではないか。
みえるひとにはみえて、
みえないひとにはみえない。

角幡さんはほんとうにこの本をかきたかったのだろうか。
それなりにおもしろくよめたとはいえ、
最後までこの違和感がきえなかった。

posted by カルピス at 23:16 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする