『バビロンの陽光』
(2010年 イラク・イギリス・フランス
・オランダ・パレスチナ・UAE・エジプト合作
監督:モハメド・アルダラジー)
サダム=フセイン政権が崩壊してから3週間後の
2003年のイラクが舞台だ。
12歳の少年が、おばあさんといっしょに
とおい町の刑務所にいるという父親をたずねる。
草木がほとんどみられないかわききった土地を
2人はヒッチハイクしながら目的地のナシリアへむかう。
物語がすすむうちに、おばあさんはクルド人であり、
アラビア語がはなせないことがわかってくる。
少年の父親(そしておばあさんのむすこ)は、
クルド地区でフセインのバース党につれされたのだ。
クルド人がイラクやトルコで迫害をうけていることを
何冊かの本でよんだことがある。
この映画は、イラクでじっさいにおきた、
そして、いまなおおきている状況をきりとったものだ。
バスのなかでしたしくなった男性が、
以前クルド人の迫害にかかわったことをおばあさんがしると、
ひとがかわったようにはげしくののしる。
自分の同胞であるクルド人の村をおそった人間は、
たとえ命令だったからといってゆるせるわけがない。
しかしその男性は、いまわしくおもわれても
少年とおばあさんにつきそうことをやめない。
2人に手だすけすることで
罪ほろばしをしたかったわけではあるまい。
おばあさんとおなじく、地獄をみた人間のひとりとして
なんとかちからになりたかったのだとおもう。
刑務所をたずねても、父親のゆくえはわからない。
おしえられた集団墓地へいっても、
父親のなまえはどのリストにものっていない。
おばあさんはつかれきり、
だんだんと表情がなくなってくる。
少年は、それまで自分をまもってくれていたおばあさんを、
こんどは自分がまもっていかなければならないことをさとる。
少年もおばあさんも、そして映画にでてくるすべてのひとたちも、
演技をしているようにはぜんぜんみえない。
ドキュメンタリーのようにリアルだ。
つくられた場面を撮影したのではなく、
過酷な状況がだれにとっても「日常」であるからだろうか。
エンディングでしめされる情報によると、
イラクでは、この40年のあいだに
150万人もの行方不明者がでている。
そして、300もの集団墓地から
何十万人の身元不明の遺体が発見されているという。
この作品をみてわたしは
ただ呆然とするばかりだ。
アメリカとの戦争やテロ活動だけでなく、
イランはこんなかなしい歴史もかかえている。
アラビア語がはなせないクルド人のおばあさんを、
ひとびとはじゃけんにあつかっていなかった
(クルド語はわからない、とはいわれている)。
行方不明となっている父親をさがす2人に対し、
おなじ境遇にいるもののひとりとして
かなしみをわかちあおうとしていた。
おばあさんは、「むすこがいなくなることは、
自分の手足をとられるよりつらい」といってなげく。
このかなしみのふかさは、
民族によってかわるものではないことを、
イラクのひとびとはしっているのだ。