2012年01月20日

『梅棹忠夫の「人類の未来」』ー暗黒のなかの光明とはなにかー

12月中旬に注文していた
『梅棹忠夫の「人類の未来」』(勉誠出版)がやっととどく。
「人類の未来」は、河出書房新社の「世界の歴史」シリーズ全25巻
(1968年〜1970年)の最終巻としてかかれるはずだった本だ。
資料をあつめ、「こざね」により構想をねり、
あとはかくだけ、という段階まですすんでいたのに、
けっきょくこの本はかかれることがなかった。
万博の開催をまえに、超多忙な時期をおくっていたという事情だけでなく、
梅棹さんは、かんがえればかんがえるほど、
人類に未来はないという結論にたどりつかざるをえず、
そんなお先まっくらなことを
かく気になれなかったのではないかといわれている。

梅棹さんがなくなったあとに出版された本でも
この企画の存在がかたられているし
(たとえば河出書房新社の文藝別冊
『梅棹忠夫ー地球時代の知の巨人』)、
2011年の6月に放映されたNHK・ETV特集
「暗黒のなかの光明ー文明学者梅棹忠夫がみた未来」
でもとりあげられていた。
番組のなかで、「暗黒のなかの光明」ということについて、
なんにんかのひとが想像をはたらかせている。

その未完の書が出版されるときいて、
すぐに予約をいれ、たのしみにまっていた。
幻の原稿がみつかったわけではないのに、
どうやって本にできたのだろう。
とどいた本をひらいてみると、
梅棹さんがこの企画の準備としておこなっていた
対談や座談会を中心にして編集されているのだった。
そうした場ではなしこむことにより、
梅棹さんは自分のかんがえをきたえていた。
想像によって編者がかってに「暗黒のなかの光明」を
ときあかすわけにはいかないので、
こうするよりほかに手がなかったともいえる。

「人間が幸福であることが、
果たしていいのかどうか(笑)
そういう幸福ということの意味を
尋ねていかんならん」(p101)

「ぼくはやはり、目的論が出てきたのは
人間の段階になってからだと思う。
サルに目的はないでしょうね」(p119)

よんでみると、けっきょくおおくのことは
『わたしの生きがい論』のなかで
すでにかたられていたことがわかる。
目的を設定し、それにむかって努力することをよしとする価値観で
人類はここまで文明を発展させてきた。
しかし、その発展こそが人類の首をしめている、というかんがえ方だ。
ふえすぎた人口、それによりたらなくなる食料・水・空気、それにエネルギー。
おおくの国がこれからまだまだ発展をもとめるけれど、
それをかなえるだけの資源が地球にはもはやない。
人類は業として頭をはたらかせることをやめることができず、
その結果、科学は文明をさらに発展させようとする。

こうしたうごきに、すこしでもブレーキをかけるには、
いっけん無駄のようにおもえることに
自分の人生を消費させるしかない。
エネルギーを発展とはちがう方向につかうことで
最悪の事態への衝突をおくらせることができる。
それが梅棹さんのかんがえていた「暗黒のなかの光明」のようだ。

印象にのこったのは、宇宙飛行士の毛利衛氏が
「まだ、間に合う」とかいていることだ。

「二本の足で立つことのできない
無重力の宇宙船のなかで浮かびながら、
数百回地球をまわり地表を見てきた私には、
人類の未来は暗くも明るくも『どちらにもなる』
と見えたのが率直な印象でした。
あるいは、すべては『まだ間に合う』と言い換えてもいいでしょう」(p168)

宇宙から地球をみた体験をもつ飛行士には、
楽観的にとらえるひとがおおいという。
「まだ、間に合う」ほど人間のできがいいかどうかは
これからわずか数10年したらこたえがでるだろう。
わたしには、科学をもって科学を制することは不可能におもえ、
あかるい未来を予想することができない。
絶望をかたるより希望をもちたいけれど、
100億の人口をかかえた人類が、
絶妙なバランスをたもって存続するとは
どうしてもかんがえられない。
できるだけ悲惨でないおわりをむかえられたらとねがっている。

編者の小長谷有紀氏は「おわりに」のなかで

「ここに再録された梅棹忠夫のことばを手がかりにして
読者ひとりひとりが人類の未来をかんがえてくだされば、さいわいである。
それこそはまさに、梅棹忠夫のいうところの、
知的なあそびであり、人類の未来を託した『光明』なのであるから」

としている。

わたしはどうだろうか。
きっと、これからも生産的なことにエネルギーをつかわずに、
できるだけたのしいことをえらびながら、
人生を浪費して生きていくだろう。
20代に梅棹さんのかんがえ方にであい、影響をうけたものとして、
そうやってたくさんあそび、
さいごに「あーおもしろかった」と機嫌よく死ねたらとおもう。

人類は、そして日本はどういう選択をするだろう。
福島原発での事故があったあとでも、
まだ原子力はコントロールが可能だとおもっているひとがいる。
人類にのこされた時間は、そうながくないはずだ。

posted by カルピス at 22:11 | Comment(0) | TrackBack(0) | 梅棹忠夫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする