W杯アジア3次予選、ウズベキスタン戦がトヨタスタジアムでおこなわれる。
ウズベキスタンは累積カードで6人の中心選手をかいている。
ゲインリッヒやジェパロフという
心理戦にもたけたいやらしい選手がいないし、
両チームとも予選突破がきまっているし、
なによりもホームゲームなので
まず心配ないだろうとおもってたのに、
結果は1-0で、内容としては完敗だった。
日本は海外組8人が先発する。
この試合だけのためにザッケローニ監督は
ほかにも乾・宮市・李をよんでいる
(乾と李はとちゅうから交代で出場し、宮市はでばんなし)。
最終予選をまえに、
コンビネーションをチェックするための試合だったはずだ。
前半の日本はわるくなく、
なんども「もうすこし」というところまでおしこむ。
19分には香川のパスから岡崎がバーをたたくシュートをはなつ。
結果からみると、サッカーではよくあることで、
この時間帯を無失点におさえられたのがさいごまでひびいた。
ウズベキスタンははげしいプレッシャーをくわえてきてよくまもる。
解説の長谷川さんの
「けんっこうゴリゴリぎますからねー」というコメントどおり、
からだをあてられても軸がぶれず、
バランスをくずすのはたいてい日本側だ。
後半は圧倒的にウズベキスタンにせめられる。
香川をいかす選手がいない。
中村憲剛をだせ、憲剛を。
ときどき乾がゴールちかくまでせめるけれど、
最後のパスがとおらない。
けっきょく日本は不思議なくらいいいところがなく、
1-0のままゲーム終了となる。
ウズベキスタンはとくにひいてまもっていたわけではない。
せめるときはリスクをおかして人数をかけていたし、
試合終了間際でも露骨な時間かせぎをすることなく
フェアにたたかった。
6人をかいてもこんな試合はこびができるというのは、
まったく予想外のつよさだった。
日本はきれいにパスでくずそうとするので、
なんだかんだいってもはげしいプレッシャーによわい。
ほんの50センチのところでボールにとどかずパスをうばわれるし、
セカンドボールもひろえない。
ウズベキスタンは日本をおさえるときの
お手本のような試合はこびをしたのだろう。
ベストメンバーをそろえた日本がこんなによわいとは
いったいどうしたことだ。
公式戦では北朝鮮戦につづいて
2連敗となる。
海外組を代表チームにうまく融合させるのは
みじかい期間の場合かなりたいへんそうだ。
2012年02月29日
2012年02月28日
樫木裕実さんのやさしさとつよさ、そしてうつくしさはほんものだ
カーヴィーダンスでしられる樫木裕実さんの番組をみた。
48歳であのプロポーションはすごい。
そして、プロポーションもすごいけど、
からだのなかからわきでるような笑顔がまたすてきだ
(栗原はるみさんの笑顔をおもいだした)。
内面のうつくしさ、なんて
かんたんにはくちにしたくないけど、
樫木さんの笑顔からは
表面的ではなく、そのひとの人格すべてがあらわれているのをかんじる。
カーヴィーダンスでは、
ハードなうごきでなくても、
肩甲骨と骨盤を意識することで、
からだの自然なうごきをみちびいている。
トップアスリートや有名なタレントも
樫木さんの指導をあおぎにきている。
そういうひとたちに指導することは、
はなやかそうだけど、それだけに
わるい評判がたつと、
いっぺんに信用されなくなってしまうこわさもある。
「プレッシャーをかんじながら仕事をしないと」
といって自分をおいこむ樫木さんの仕事への姿勢がかっこいい。
そしてそれだけの結果をだしつづける。
福島のスパリゾートで一般のお客さんに
カーヴィーダンスを体験してもらうときは、
わたしなんかが「元気をだそう」なんて
かるがるしくいっていいのか、となやみながら
それでも自分にできることをするしかないと気もちをきめて
ステージにむかう。
やさしいし、つよいひとなのだ。
「自分は昔も今も、まったくおなじ。
生き方も、精神も、
これからさきも、いっさいかわることはない」
という自分のとらえかたが独特だ。
よほど自信がないといえないことばであり、
その自信は、たくさんのコンプレックスを克服することで
やしなわれてきた。
樫木さんのやさしさとつよさ、そして笑顔はほんものだ。
48歳であのプロポーションはすごい。
そして、プロポーションもすごいけど、
からだのなかからわきでるような笑顔がまたすてきだ
(栗原はるみさんの笑顔をおもいだした)。
内面のうつくしさ、なんて
かんたんにはくちにしたくないけど、
樫木さんの笑顔からは
表面的ではなく、そのひとの人格すべてがあらわれているのをかんじる。
カーヴィーダンスでは、
ハードなうごきでなくても、
肩甲骨と骨盤を意識することで、
からだの自然なうごきをみちびいている。
トップアスリートや有名なタレントも
樫木さんの指導をあおぎにきている。
そういうひとたちに指導することは、
はなやかそうだけど、それだけに
わるい評判がたつと、
いっぺんに信用されなくなってしまうこわさもある。
「プレッシャーをかんじながら仕事をしないと」
といって自分をおいこむ樫木さんの仕事への姿勢がかっこいい。
そしてそれだけの結果をだしつづける。
福島のスパリゾートで一般のお客さんに
カーヴィーダンスを体験してもらうときは、
わたしなんかが「元気をだそう」なんて
かるがるしくいっていいのか、となやみながら
それでも自分にできることをするしかないと気もちをきめて
ステージにむかう。
やさしいし、つよいひとなのだ。
「自分は昔も今も、まったくおなじ。
生き方も、精神も、
これからさきも、いっさいかわることはない」
という自分のとらえかたが独特だ。
よほど自信がないといえないことばであり、
その自信は、たくさんのコンプレックスを克服することで
やしなわれてきた。
樫木さんのやさしさとつよさ、そして笑顔はほんものだ。
2012年02月27日
放課後等デイサービスのたちあげ準備
7月1日をめどに、「放課後等デイサービス」の事業所をたちあげる。
今夜はそのための準備会がおこなわれた。
といっても、理事会メンバーによるごく内輪のあつまりだ。
法人名は「あゆみ」、事業所名は「ピピ」という。
ピピはわたしの家にいるネコの名前で、
この案をだしたらあっさりとおってしまったのでおどろいた。
反対とまではいかなくても、
「え〜〜」ぐらいの声はあがるだろうとおもっていたのに、
だれもぜんぜんひっかからなかった。
あとで気づいたのは、
電話の応対で「はい、ピピです」は
なかなかいいにくいかもしれない、ということだ。
ま、たいしたことじゃないか。
理事長夫妻は米子にすんでるのに、
この事業を松江ではじめることに賛成してくれた。
なんだかんだとわたしの希望がかなえられ、すごくありがたい。
事業申請は理事長がしてくれるので、
わたしは活動内容やスタートをどうきるかについて
準備をすすめることになる。
障害特性を考慮したとりくみを見学しながら、
ピピでないとできないような
たっぷりあそべる空間をつくっていきたい。
今夜はそのための準備会がおこなわれた。
といっても、理事会メンバーによるごく内輪のあつまりだ。
法人名は「あゆみ」、事業所名は「ピピ」という。
ピピはわたしの家にいるネコの名前で、
この案をだしたらあっさりとおってしまったのでおどろいた。
反対とまではいかなくても、
「え〜〜」ぐらいの声はあがるだろうとおもっていたのに、
だれもぜんぜんひっかからなかった。
あとで気づいたのは、
電話の応対で「はい、ピピです」は
なかなかいいにくいかもしれない、ということだ。
ま、たいしたことじゃないか。
理事長夫妻は米子にすんでるのに、
この事業を松江ではじめることに賛成してくれた。
なんだかんだとわたしの希望がかなえられ、すごくありがたい。
事業申請は理事長がしてくれるので、
わたしは活動内容やスタートをどうきるかについて
準備をすすめることになる。
障害特性を考慮したとりくみを見学しながら、
ピピでないとできないような
たっぷりあそべる空間をつくっていきたい。
2012年02月26日
自宅のMacをサーバーに
パソコンの師匠が
というメールをくれた。
なんのことかわからないので、
MAMPについてたずねると、
ということだ。
こまったことに、簡単にいってもらっても、やっぱりわからない。
でもまあ、とにかくインストールしてみることにした。
つかわなくなっていたG4世代のiBookが
サーバーとして復活してくれたらありがたい。
もうひとつ、
「MacOSXでサーバー稼業」というブログもおしえられた。
ブログの説明に
とある。
こっちはすこしわかる。
プロバイダにもうしこまなくても、
自分のパソコンをサーバーにつかおうというのだ。
「自分のMacでホームページを公開しよう」
をひらいてみると、自宅のMacが
簡単にWebページサーバーになるという。
「必要なもの」としてあげらえているのが
・Mac(Mac OS Xを搭載しているもの。10.3.x(Panther)で話は進みます)
・常時接続環境(ADSLとか光とか)
・Safari(またはShiira, Firefox, Mozilla, Omniweb, iCab, Camino, InternetExploreなど)
・やる気
・セキュリティーへの配慮
・インターネットを構築してくれた方々への畏敬の念
というからたのしくなってくる。
「やる気」があればいいんだ。
こういうやわらかいかんがえ方をしめされると
サーバーとかPHPとかMySQL、それにApacheなんていうことに
まったく知識のないわたしにとって
すごく敷居がひくくなる。
ひらいてみると、説明が的確でわかりやすい。
このブログにそってちょっといじるだけで、
じっさいに、iBookがすぐにサーバーとしてつかえるようになった。
ブログの環境も自分のMacにつくれるようで、
広告のはいってないブログがもてそうだ。
いろんなことが簡単にできるようなので、
このブログにそってしばらくMacをいじってみよう。
MAMPと言うソフトがあり、自分のMACのなかに簡単にサーバ環境が立ち上が ります。興味があれば試してみるのもよいかもしれません。
というメールをくれた。
なんのことかわからないので、
MAMPについてたずねると、
簡単に言うと、プロバイダの提供するホームページサービスは、
はじめか らhtmlファイルやcgi,php,rubyのファイルを
アップロードするだけで実行できる ようになりますが、
すでにそういった環境が作ってあるからで
自分のパソコンで はそれなりに設定しないとできません。
htmlを表示するApache、データベースを 提供するMySQL,そしてPHP。
これをMac上に準備してくれるので、頭文字を取って MAMP。Linux上だとLAMP。
ということだ。
こまったことに、簡単にいってもらっても、やっぱりわからない。
でもまあ、とにかくインストールしてみることにした。
つかわなくなっていたG4世代のiBookが
サーバーとして復活してくれたらありがたい。
もうひとつ、
「MacOSXでサーバー稼業」というブログもおしえられた。
ブログの説明に
このサイトはサーバー版ではないMac OS X(10.3.xや10.4.x)に
サーバー環境を作る方法を考えています。
とある。
こっちはすこしわかる。
プロバイダにもうしこまなくても、
自分のパソコンをサーバーにつかおうというのだ。
「自分のMacでホームページを公開しよう」
をひらいてみると、自宅のMacが
簡単にWebページサーバーになるという。
「必要なもの」としてあげらえているのが
・Mac(Mac OS Xを搭載しているもの。10.3.x(Panther)で話は進みます)
・常時接続環境(ADSLとか光とか)
・Safari(またはShiira, Firefox, Mozilla, Omniweb, iCab, Camino, InternetExploreなど)
・やる気
・セキュリティーへの配慮
・インターネットを構築してくれた方々への畏敬の念
というからたのしくなってくる。
「やる気」があればいいんだ。
こういうやわらかいかんがえ方をしめされると
サーバーとかPHPとかMySQL、それにApacheなんていうことに
まったく知識のないわたしにとって
すごく敷居がひくくなる。
ひらいてみると、説明が的確でわかりやすい。
このブログにそってちょっといじるだけで、
じっさいに、iBookがすぐにサーバーとしてつかえるようになった。
ブログの環境も自分のMacにつくれるようで、
広告のはいってないブログがもてそうだ。
いろんなことが簡単にできるようなので、
このブログにそってしばらくMacをいじってみよう。
2012年02月25日
国連のアフリカ支援はほんとうか
テレビのニュースで、国連がアフリカへの緊急支援をおこなっているとつたえていた。
東アフリカの飢餓が深刻で、
5億ドル必要なところ、まだその1/5の金額しかあつまっていないという。
ほんとうだろうか。
高野秀行さんがブログで
「ソマリア大飢饉の嘘」として
国連の発表がおかしいことを指摘している。
「ソマリ人ジャーナリストの間では、
モガディショや南部ソマリアにおける国連関係と
国際NGOの現地スタッフがいちばん腐敗していると有名だそうだ。
政治家やウォーロードや氏族のボスなどの利害を調整し、
セキュリティを確保するには
そういうことに長けたブローカーが不可欠で、
まさにそういうブローカーが現地スタッフを勤めているから、
援助物資やカネは流れ放題だという。
もちろん、国連やNGOは知っていてもそんなことはいわない。
ただ「かわいそうな難民がたくさんいる」と繰り返し訴えるだけだ。
国連やNGOのスタッフも難民がいてこそ食っていけるわけで、
ネガティブな情報は出さない」
こうしたものをよむと、
国連の支援がどれだけこまっているひとにまわっているのか
うたがわしくなってくる。
アシアナ航空にのると、機内のCMで
ユニセフへの支援に貢献していることを宣伝している。
日本のテレビでも、
国連や「国境なき医師団」への支援をうったえるCMがいくつもある。
難民への支援とか、大飢饉への援助といわれると、
すぐにしんじてしまいそうになるが、
じっさいにはこうした不正がはびこっているのだろう。
ODAでもそうだった。
お金がうごくところには、
それで利益をえようとするうごきがかならずでてくる。
国連が、「難民や飢餓でくるしむひとへの支援」といえば
大義名分があるのでとおりやすい。
アフリカへの支援をかたり、
どれだけあくどいことがおこなわれているかを
高野さんはおしえてくれている。
東アフリカの飢餓が深刻で、
5億ドル必要なところ、まだその1/5の金額しかあつまっていないという。
ほんとうだろうか。
高野秀行さんがブログで
「ソマリア大飢饉の嘘」として
国連の発表がおかしいことを指摘している。
「ソマリ人ジャーナリストの間では、
モガディショや南部ソマリアにおける国連関係と
国際NGOの現地スタッフがいちばん腐敗していると有名だそうだ。
政治家やウォーロードや氏族のボスなどの利害を調整し、
セキュリティを確保するには
そういうことに長けたブローカーが不可欠で、
まさにそういうブローカーが現地スタッフを勤めているから、
援助物資やカネは流れ放題だという。
もちろん、国連やNGOは知っていてもそんなことはいわない。
ただ「かわいそうな難民がたくさんいる」と繰り返し訴えるだけだ。
国連やNGOのスタッフも難民がいてこそ食っていけるわけで、
ネガティブな情報は出さない」
こうしたものをよむと、
国連の支援がどれだけこまっているひとにまわっているのか
うたがわしくなってくる。
アシアナ航空にのると、機内のCMで
ユニセフへの支援に貢献していることを宣伝している。
日本のテレビでも、
国連や「国境なき医師団」への支援をうったえるCMがいくつもある。
難民への支援とか、大飢饉への援助といわれると、
すぐにしんじてしまいそうになるが、
じっさいにはこうした不正がはびこっているのだろう。
ODAでもそうだった。
お金がうごくところには、
それで利益をえようとするうごきがかならずでてくる。
国連が、「難民や飢餓でくるしむひとへの支援」といえば
大義名分があるのでとおりやすい。
アフリカへの支援をかたり、
どれだけあくどいことがおこなわれているかを
高野さんはおしえてくれている。
2012年02月24日
ハンドスプリングスローって、すごい(アイスランド戦)
キリンチャレンジカップ、アイスランド戦、
試合開始2分に日本が前田のヘディングで先制する。
左サイドバックにはいった槙野が
うまくゴールちかくまでねばり、
うかせたボールに前田がもどりながらあわせる。
しばらくは圧倒的に日本のポゼッションだったけれど、
20分くらいからだんだんとアイスランドのボールがつながるようになる。
34分、相手におしいシュート。
後半にはいるとアイスランドは攻撃のやり方を整理し、
迫力のあるせめをみせるようになる。
しかし、前がかりになったところで
日本は中村憲剛のたてパスがとおり、
藤本がおちついてきめる。
後半34分には憲剛のフリーキックに槙野がボレー、
そのこぼれだまを、もういちど槙野がおしこみ3点目。
この試合でも憲剛がだすドンピシャのパスがなんどもとおり、
憲剛がはいった後半からはあきらかに攻撃があつくなった。
アイスランドの選手はスローインを前転してからなげる。
「ハンドスプリングスロー」というのだそうだ。
10年くらいまえにはやったなげ方らしく、
わたしははじめてみた。
長居競技場のお客さんもおおよろこびで、
7番の選手がスローインの準備をはじめると
大声援がとんでいた。
たしかにとおくにとぶかんじがするけど、
精度がおちるのではないか。
まあ、スローインは、ただでさえ
たいして味方のチャンスにつながらないことがおおいので、
あんまりこまかいことをいわなくていいのかもしれない。
こうやって派手な技をみせてくれると
それだけでもたのしめる。
アイスランドはFIFAのランキングで103位とされている。
たしかに、体格がよく、たくさんはしるわりには
得点のにおいがかんじられない。
ゴールまえにせまっても、
精度がたかくないのであまりこわさがない。
でも、ハンドスプリングスローのこともあって、
印象としてはさわやかないいチームだった。
自分たちのサッカーをやって、
それでまけてもしょーがない、みたいなかんじ。
憲剛が活躍したし、若手の選手にもチャンスがあたえられた。
アイスランドの正々堂々としたプレースタイルのおかげで、
ひさしぶりの代表戦をたのしむことができた。
試合開始2分に日本が前田のヘディングで先制する。
左サイドバックにはいった槙野が
うまくゴールちかくまでねばり、
うかせたボールに前田がもどりながらあわせる。
しばらくは圧倒的に日本のポゼッションだったけれど、
20分くらいからだんだんとアイスランドのボールがつながるようになる。
34分、相手におしいシュート。
後半にはいるとアイスランドは攻撃のやり方を整理し、
迫力のあるせめをみせるようになる。
しかし、前がかりになったところで
日本は中村憲剛のたてパスがとおり、
藤本がおちついてきめる。
後半34分には憲剛のフリーキックに槙野がボレー、
そのこぼれだまを、もういちど槙野がおしこみ3点目。
この試合でも憲剛がだすドンピシャのパスがなんどもとおり、
憲剛がはいった後半からはあきらかに攻撃があつくなった。
アイスランドの選手はスローインを前転してからなげる。
「ハンドスプリングスロー」というのだそうだ。
10年くらいまえにはやったなげ方らしく、
わたしははじめてみた。
長居競技場のお客さんもおおよろこびで、
7番の選手がスローインの準備をはじめると
大声援がとんでいた。
たしかにとおくにとぶかんじがするけど、
精度がおちるのではないか。
まあ、スローインは、ただでさえ
たいして味方のチャンスにつながらないことがおおいので、
あんまりこまかいことをいわなくていいのかもしれない。
こうやって派手な技をみせてくれると
それだけでもたのしめる。
アイスランドはFIFAのランキングで103位とされている。
たしかに、体格がよく、たくさんはしるわりには
得点のにおいがかんじられない。
ゴールまえにせまっても、
精度がたかくないのであまりこわさがない。
でも、ハンドスプリングスローのこともあって、
印象としてはさわやかないいチームだった。
自分たちのサッカーをやって、
それでまけてもしょーがない、みたいなかんじ。
憲剛が活躍したし、若手の選手にもチャンスがあたえられた。
アイスランドの正々堂々としたプレースタイルのおかげで、
ひさしぶりの代表戦をたのしむことができた。
2012年02月23日
ロンドンがちかくなったマレーシア戦
オリンピック最終予選マレーシア戦。
2月5日におこなわれたシリア戦でやぶれたため、
日本はシリアとかち点がならんでしまった。
のこる2試合は、両国ともかつことが予想され、
その場合は得失点差でグループCの順位がきまる。
日本がマレーシアにまけることはかんがえにくいが、
おなじかつにしても、できるだけたくさん点をとることが
もとめられる試合になった。
そのことが日本チームにはいい影響をあたえたようで、
前半から積極的に点をとりにゆき、
前後半に2点ずつをいれ、4-0でかつことができた。
ポゼッションは圧倒的に日本がたかく、
つまらないパスミスがときたまでるものの、
ほとんどすべての時間帯でせめつづけた。
とくに後半30分をすぎるとマレーシアの足がとまり、
シュート練習みたいな試合になった。
注目した選手は後半38分から原口にかわってはいった杉本で、
187センチのたかさがあるし、
ボールのあつかいもとても器用だ。
U-23のチームにいなかったタイプの選手なので、
もうすこし彼のプレーをみたかった。
ホームだけあってマレーシア側の応援がにぎやかだ。
どこかできいたことのある音だとおもったら、
ブブゼラだった。
日本の試合がおわったあとで、
シリア対バーレーン戦がおこなわれた
(バーレーンのホーム試合)。
当然かつとおもわれていたシリアが、
2-1でバーレーンにやぶれている。
日本が4点をとったことでせめいそいだのだろうか。
オリンピック出場があやぶまれていた日本は、
こうしてシリアがやぶれたことで
あっけなく圧倒的に優位な立場にたつことになった。
もしマレーシア戦で1点でも失点があれば、
シリアがうけるプレッシャーは
かなりよわくなっていただろう。
そうおもうと、失点ゼロでおさえた意味はおおきかった。
2月5日におこなわれたシリア戦でやぶれたため、
日本はシリアとかち点がならんでしまった。
のこる2試合は、両国ともかつことが予想され、
その場合は得失点差でグループCの順位がきまる。
日本がマレーシアにまけることはかんがえにくいが、
おなじかつにしても、できるだけたくさん点をとることが
もとめられる試合になった。
そのことが日本チームにはいい影響をあたえたようで、
前半から積極的に点をとりにゆき、
前後半に2点ずつをいれ、4-0でかつことができた。
ポゼッションは圧倒的に日本がたかく、
つまらないパスミスがときたまでるものの、
ほとんどすべての時間帯でせめつづけた。
とくに後半30分をすぎるとマレーシアの足がとまり、
シュート練習みたいな試合になった。
注目した選手は後半38分から原口にかわってはいった杉本で、
187センチのたかさがあるし、
ボールのあつかいもとても器用だ。
U-23のチームにいなかったタイプの選手なので、
もうすこし彼のプレーをみたかった。
ホームだけあってマレーシア側の応援がにぎやかだ。
どこかできいたことのある音だとおもったら、
ブブゼラだった。
日本の試合がおわったあとで、
シリア対バーレーン戦がおこなわれた
(バーレーンのホーム試合)。
当然かつとおもわれていたシリアが、
2-1でバーレーンにやぶれている。
日本が4点をとったことでせめいそいだのだろうか。
オリンピック出場があやぶまれていた日本は、
こうしてシリアがやぶれたことで
あっけなく圧倒的に優位な立場にたつことになった。
もしマレーシア戦で1点でも失点があれば、
シリアがうけるプレッシャーは
かなりよわくなっていただろう。
そうおもうと、失点ゼロでおさえた意味はおおきかった。
2012年02月22日
気の強くない女性はいない(もしくは絶滅した)
酒井順子さんの『こんなの、はじめて?』(講談社)をよんでいたら
「気の弱い女はいない」というはなしがあった。
「気の強い女性がちょっと・・・(苦手)」と発言した男性にたいし、
酒井さんは
という。
酒井さんのまわりに「気の弱い女」はひとりもおらず、
たまたま自分のまわりに特別
「気の強い女性」ばかりいるのかもしれないと、
その友達にも
「あなたの知り合いで『気の弱い女』っている?」
とたずね、
それでもやっぱりいなかったそうだ
(「『気の弱い男』だったら知ってる」というこたえあり)。
「気が強くなさそうな女性と結婚してみたら、
実はものすごく気が強かった。
ああ、本当に気が強くない女はどこかにいるはずなのに、
俺はハズレくじを引いた・・・と思っている
男性もいるかもしれませんが、
ですからそれは間違った考えなのです。
『気が弱い女』という存在は、ユニコーンとか竜とかと同様、
想像上の生き物なのですから」
ほとんどの男はこのことをしらないのではないか。
わたしもまた、「気の強くない女性」がいるとおもっていた
おめでたい男のひとりだ。
わたしの配偶者もかっては・・・。
わたしは自分が本質的に気がよわいことをしっており、
たくさんの男もまた同類だとおもう。
まさか、「気の弱い女性」がいないなんて
(もしくは絶滅したなんて)。
もうひとつ、そのはなしのつづきで、
村山由佳の『ダブル・ファンタジー』について
「いやあ、あれはすごかった・・・・・。
あまりに生々しくて引いたな」
という男がおおかったそうで、
これにたいしても
というのだから、「気の弱い女性」がいないのとおなじように、
ここでも「性欲の強い女」はいないことが、
当然のこととしてかたられている。
なぜなら、「性欲の弱い女」はいないから
「性欲の強い女」という形容は
状況を正確にあらわしていないことになる。
「つよい男なんてみたことがない。
よわい女なんてみたことがない」
というのがどこかにかいてあった。
つまりはすべてがそういうことなのだろう。
「気の弱い女はいない」というはなしがあった。
「気の強い女性がちょっと・・・(苦手)」と発言した男性にたいし、
酒井さんは
「気が強くない女性」という生き物がこの世に存在すると思っている男性って、いるんだ!ということに感心した。
という。
酒井さんのまわりに「気の弱い女」はひとりもおらず、
たまたま自分のまわりに特別
「気の強い女性」ばかりいるのかもしれないと、
その友達にも
「あなたの知り合いで『気の弱い女』っている?」
とたずね、
それでもやっぱりいなかったそうだ
(「『気の弱い男』だったら知ってる」というこたえあり)。
「気が強くなさそうな女性と結婚してみたら、
実はものすごく気が強かった。
ああ、本当に気が強くない女はどこかにいるはずなのに、
俺はハズレくじを引いた・・・と思っている
男性もいるかもしれませんが、
ですからそれは間違った考えなのです。
『気が弱い女』という存在は、ユニコーンとか竜とかと同様、
想像上の生き物なのですから」
ほとんどの男はこのことをしらないのではないか。
わたしもまた、「気の強くない女性」がいるとおもっていた
おめでたい男のひとりだ。
わたしの配偶者もかっては・・・。
わたしは自分が本質的に気がよわいことをしっており、
たくさんの男もまた同類だとおもう。
まさか、「気の弱い女性」がいないなんて
(もしくは絶滅したなんて)。
もうひとつ、そのはなしのつづきで、
村山由佳の『ダブル・ファンタジー』について
「いやあ、あれはすごかった・・・・・。
あまりに生々しくて引いたな」
という男がおおかったそうで、
これにたいしても
確かに刺激的な表現はあるものの、「引く」のではなく『わかる』のです。(中略)
「だって、そうだものねぇ」という気持ちになる。
というのだから、「気の弱い女性」がいないのとおなじように、
ここでも「性欲の強い女」はいないことが、
当然のこととしてかたられている。
なぜなら、「性欲の弱い女」はいないから
「性欲の強い女」という形容は
状況を正確にあらわしていないことになる。
「つよい男なんてみたことがない。
よわい女なんてみたことがない」
というのがどこかにかいてあった。
つまりはすべてがそういうことなのだろう。
2012年02月21日
『野宿もん』かとうちあきのまちがう力が全開に
『野宿もん』(かとうちあき・徳間書店)
『野宿入門』の作者による2作目だ。
なにかに連載されたものを本にまとめたもので、
野宿のたのしさをつたえてくれるものの、
前作ほどのインパクトはない。
ないけれど、かとうさんの魅力がよくつたわってきて、
自分でも野宿をしたくなってくる。
おもしろかったのは、高校3年生の夏やすみに
日本縦断をしようと
青森から下関をめざしてあるいたはなしだ。
和歌山県までたとりついたところで8月31日になった。
「下関までゆこうとしたら、
一日十時間歩いたって、あと一週間かかるだろう。
『もうしようがない、あきらめよう』
と、わたしは思った。
『学校のことはあきらめよう!』」
そして、ほんとうに10日かけて下関まであるいてしまった。
かとうさんのたのしさは、
日本縦断をめざしてはいても
悲壮感などぜんぜんないところだ。
あるいて野宿して、をくりかえせば、
いつかは下関につくだろう、というゆるさがスバラシイ。
高野秀行さん的なまちがう力全開ともいえる。
いろいろなものから自由でいられるかとうさんが
わたしはだいすきなのだ。
わたしは『野宿入門』に影響をうけて、
2回ほど野宿をした。
1度目は、福井県の美浜町で(たしか)、
公園の東屋に寝袋をしいてねた。
6月だったので、あついし蚊はいるし、
夕ご飯をたべるとすることがないし、
夜でもけっこうひとのでいりがあって
ゆっくりできなかったりで、
正直いってそんなにたのしい体験ではなかった。
あついのもさむいのも、
蚊がいるのも、お風呂にはいれないのも苦手なわたしにとって、
野宿とか、あてもなくさまようことにむいていないのかもしれない。
2度目はバンコクの空港で、
早朝のチェンマイゆきの飛行機にのるため
出発ターミナルでねたことだ。
たてもののなかなので、
正確には野宿とはいえないだろう。
ここもひとのうごきがおおく
荷物の心配もあったし、
そういう場所で堂々とマットと寝袋をひろげるのは
もうしわけないかんじだった。
そうしたことすべてをふくめて
かとうさんは「野宿がおもしろくてたまらない」という。
なんだかんだと物質にたよって快適にすごそうとするわたしは
われながら不自由に生きているとおもう。
いろんなものにとらわれないためには、
野宿をくりかえしてスキルをたかめるのことが
いちばん効果的な処方箋みたいだ。
『野宿入門』の作者による2作目だ。
なにかに連載されたものを本にまとめたもので、
野宿のたのしさをつたえてくれるものの、
前作ほどのインパクトはない。
ないけれど、かとうさんの魅力がよくつたわってきて、
自分でも野宿をしたくなってくる。
おもしろかったのは、高校3年生の夏やすみに
日本縦断をしようと
青森から下関をめざしてあるいたはなしだ。
和歌山県までたとりついたところで8月31日になった。
「下関までゆこうとしたら、
一日十時間歩いたって、あと一週間かかるだろう。
『もうしようがない、あきらめよう』
と、わたしは思った。
『学校のことはあきらめよう!』」
そして、ほんとうに10日かけて下関まであるいてしまった。
かとうさんのたのしさは、
日本縦断をめざしてはいても
悲壮感などぜんぜんないところだ。
あるいて野宿して、をくりかえせば、
いつかは下関につくだろう、というゆるさがスバラシイ。
高野秀行さん的なまちがう力全開ともいえる。
いろいろなものから自由でいられるかとうさんが
わたしはだいすきなのだ。
わたしは『野宿入門』に影響をうけて、
2回ほど野宿をした。
1度目は、福井県の美浜町で(たしか)、
公園の東屋に寝袋をしいてねた。
6月だったので、あついし蚊はいるし、
夕ご飯をたべるとすることがないし、
夜でもけっこうひとのでいりがあって
ゆっくりできなかったりで、
正直いってそんなにたのしい体験ではなかった。
あついのもさむいのも、
蚊がいるのも、お風呂にはいれないのも苦手なわたしにとって、
野宿とか、あてもなくさまようことにむいていないのかもしれない。
2度目はバンコクの空港で、
早朝のチェンマイゆきの飛行機にのるため
出発ターミナルでねたことだ。
たてもののなかなので、
正確には野宿とはいえないだろう。
ここもひとのうごきがおおく
荷物の心配もあったし、
そういう場所で堂々とマットと寝袋をひろげるのは
もうしわけないかんじだった。
そうしたことすべてをふくめて
かとうさんは「野宿がおもしろくてたまらない」という。
なんだかんだと物質にたよって快適にすごそうとするわたしは
われながら不自由に生きているとおもう。
いろんなものにとらわれないためには、
野宿をくりかえしてスキルをたかめるのことが
いちばん効果的な処方箋みたいだ。
2012年02月20日
愛車ポロの水もれがなおる
愛車のフォルクスワーゲン・ポロが修理からもどってきた。
水もれするようになり、
それが我慢できないぐらいひどくなっていた。
雨がふると、ぞうきんで何回もしぼりとるほど
シートに水がたまる。
水がたまるとどうなるかというと、
窓ガラスがいつもくもっていて、
ビショビショの状態で運転することになる。
ドアについているカバーをかえると
片側だけで5万円以上かかるといわれる。
そんなにお金をかけたくないので、
なんとか応急処置ですませてもらった。
それでもちゃんと水がもれなくなっている。
窓がくもらないということが、
こんなに快適なことかがよくわかった。
きれいな窓だと運転しているだけでたのしい。
このポロは、ポロ3代目の型で、1996年製だ。
中古でかい、のりはじめてから9年になる。
ちゃらちゃらしたところがまったくなく、
おちつきと上品さをかんじさせる。
ちいさな車体なのに1600ccの排気量で、
車重が1325kgもあってとてもおもい。
市内ではリッターあたり8キロもはしらない。
徳大寺有恒さんが『間違いだらけのクルマ選び』のなかで
「おもすぎてはしらない」とけちょんけちょんにけなしていた。
そもそも水もれがするなんて、
国産車ではまずかんがえられないし、
電気系統がよわく、へってないのにオイルランプがついたりする。
スピードメーターがぐるぐるまわりだしたときもあったし、
いまはロックがこわれていて、
助手席側から鍵をしないといけない。
きゅうにステレオの電源がきれることがあるし、
内装の布がよわっていて、
ベローンとところどころたれはじめた。
うしろの座席は足もとがすごくせまく、
軽自動車よりも窮屈にできている。
でもいいのだ。
9年ものっていると、愛着がわいてきて、
ほかの車にのりたいなんておもわないようになった。
代車につかわせてもらったヴィッツは
かるくてこまわりがきいてよくはしったけど、
のっていてたのしくはない。
小型車なのに、軽自動車の駐車スペースにじゅうぶんもぐりこめる。
クラクションをならすと、
国産車のかんだかい騒音ではなく、
「ボァボァ」とふるい田舎のバスみたいな
牧歌的な音をきかせてくれる。
おもたくて燃費がわるくて電気によわくても、
もうしばらくはこの車とすごしたい。
水もれするようになり、
それが我慢できないぐらいひどくなっていた。
雨がふると、ぞうきんで何回もしぼりとるほど
シートに水がたまる。
水がたまるとどうなるかというと、
窓ガラスがいつもくもっていて、
ビショビショの状態で運転することになる。
ドアについているカバーをかえると
片側だけで5万円以上かかるといわれる。
そんなにお金をかけたくないので、
なんとか応急処置ですませてもらった。
それでもちゃんと水がもれなくなっている。
窓がくもらないということが、
こんなに快適なことかがよくわかった。
きれいな窓だと運転しているだけでたのしい。
このポロは、ポロ3代目の型で、1996年製だ。
中古でかい、のりはじめてから9年になる。
ちゃらちゃらしたところがまったくなく、
おちつきと上品さをかんじさせる。
ちいさな車体なのに1600ccの排気量で、
車重が1325kgもあってとてもおもい。
市内ではリッターあたり8キロもはしらない。
徳大寺有恒さんが『間違いだらけのクルマ選び』のなかで
「おもすぎてはしらない」とけちょんけちょんにけなしていた。
そもそも水もれがするなんて、
国産車ではまずかんがえられないし、
電気系統がよわく、へってないのにオイルランプがついたりする。
スピードメーターがぐるぐるまわりだしたときもあったし、
いまはロックがこわれていて、
助手席側から鍵をしないといけない。
きゅうにステレオの電源がきれることがあるし、
内装の布がよわっていて、
ベローンとところどころたれはじめた。
うしろの座席は足もとがすごくせまく、
軽自動車よりも窮屈にできている。
でもいいのだ。
9年ものっていると、愛着がわいてきて、
ほかの車にのりたいなんておもわないようになった。
代車につかわせてもらったヴィッツは
かるくてこまわりがきいてよくはしったけど、
のっていてたのしくはない。
小型車なのに、軽自動車の駐車スペースにじゅうぶんもぐりこめる。
クラクションをならすと、
国産車のかんだかい騒音ではなく、
「ボァボァ」とふるい田舎のバスみたいな
牧歌的な音をきかせてくれる。
おもたくて燃費がわるくて電気によわくても、
もうしばらくはこの車とすごしたい。
2012年02月19日
酒をやめられないのでワインをのむ
ちょっとまえのブログに、
「酒とコーヒーをやめる」とかいた。
しばしばのみすぎてしまい、
そのたびにくるしいおもいをするのは
あまりにもばかげているのでもうやめる、
みたいなことをもっともらしく宣言したのだ。
しかし、当然のこととして、
しばらくのちにまた寝酒をはじめてしまった。
かいおきしてあるウィスキーと焼酎に手をつけなければ
とりきめをやぶったことにならない、と
めちゃくちゃな理屈をつけて、ワインばかりのんでいる。
まともなワインだとそう気やすく毎日はのめないので、
1.8ℓ980円のやすい箱いりワインだ。
まえはボトル半分ものめばつぎの日によいがのこっていたのに、
このごろは毎晩2/3本のむのがあたりまえで、
それでもあんがい平気になっている。
すごくおいしいわけではないが(980円だからあたりまえ)、
そうかといって、とびきりまずいわけではない。
赤ワインのポルフェノール効果に期待して、
薬をのむようなものだとうそぶいている。
梅棹忠夫さんが
「休肝日はいらない。心臓をやすめる必要がないように、
肝臓もまたはたらきつづけるようにできている」
とはなしておられた。
有名なお医者さんからきかれたはなしらしい。
酒ずきのものにとってうれしいはなしなので、
これもまた自分へのいいわけにつかっている。
宮崎駿さんはタバコをやめようとおもったことがいちどもないそうだ。
たいていのひとが、やめたくてもやめれない、とか、
やめたのにまたはじめてしまった、とかいうのに、
やめようとおもったことさえないなんて、すごくかっこいい。
わたしも酒をやめる、などとあたりまえのことをいわないで、
もっとひととちがうところをみられるようになろう。
「酒とコーヒーをやめる」とかいた。
しばしばのみすぎてしまい、
そのたびにくるしいおもいをするのは
あまりにもばかげているのでもうやめる、
みたいなことをもっともらしく宣言したのだ。
しかし、当然のこととして、
しばらくのちにまた寝酒をはじめてしまった。
かいおきしてあるウィスキーと焼酎に手をつけなければ
とりきめをやぶったことにならない、と
めちゃくちゃな理屈をつけて、ワインばかりのんでいる。
まともなワインだとそう気やすく毎日はのめないので、
1.8ℓ980円のやすい箱いりワインだ。
まえはボトル半分ものめばつぎの日によいがのこっていたのに、
このごろは毎晩2/3本のむのがあたりまえで、
それでもあんがい平気になっている。
すごくおいしいわけではないが(980円だからあたりまえ)、
そうかといって、とびきりまずいわけではない。
赤ワインのポルフェノール効果に期待して、
薬をのむようなものだとうそぶいている。
梅棹忠夫さんが
「休肝日はいらない。心臓をやすめる必要がないように、
肝臓もまたはたらきつづけるようにできている」
とはなしておられた。
有名なお医者さんからきかれたはなしらしい。
酒ずきのものにとってうれしいはなしなので、
これもまた自分へのいいわけにつかっている。
宮崎駿さんはタバコをやめようとおもったことがいちどもないそうだ。
たいていのひとが、やめたくてもやめれない、とか、
やめたのにまたはじめてしまった、とかいうのに、
やめようとおもったことさえないなんて、すごくかっこいい。
わたしも酒をやめる、などとあたりまえのことをいわないで、
もっとひととちがうところをみられるようになろう。
2012年02月18日
なぜラブソングがこんなにこのまれるのか
仕事で(移動支援)でカラオケにいくと
(プライベートでいったことはない)、
いまさならながら、歌のほとんとが
「愛」についてのものであることに気づく。
ラブソングとわざわざジャンルわけをしなくても、
だれもかれも、男も女も、演歌もポップスも、
手をかえ品をかえ、
みんな「あなたがすき」とうたっているのだ。
わたしが同行したときにうたわれたものが
たまたま愛の歌だったわけではないはずだ。
ヒット曲はラブソングだらけなのにはじめてしり、
愛をうたわないアニメソングにリクエストされるとホッとした。
ほかにうたうことはないのか、
愛以外のことについて歌をつくれ、
というのは無理ないいがかりだろう。
もともとの歌のなりたちは、
歌垣(うたがき)でしられるように
愛をつたえるためのものだったかもしれない。
そういう意味では、現代の歌謡曲も
みごとに歌の本質的な機能を継承している。
人類にとって、さらにいえば生物にとって、
求愛こそが繁殖のための最重要課題であり、
その目的を追求すれば「歌=ラブソング」となる。
その、基本的な前提条件のはずの
繁殖への欲求がたかくないといわれる現代において、
うたわれている曲の内容に変化はあるのだろうか。
「ヒット曲におけるラブソングのしめる割合」とか、
「紅白歌合戦でうたわれたラブソング」
なんて調査があれば(きっとあるはず)、
そのこんにち的傾向をしりたい。
草食系とか晩婚化の当事者であるわかものたちは、
どういう歌をこのむのだろうか。
歌と心理的な傾向がべつのはずはない。
恋愛に関心のないひとが
愛の歌をこのんではうたわないだろう。
個人的なことをかくと、
わたしはラブソングにまったく関心がない。
よくきく「RCサクセション」ですきな曲は
「あきれてものもいえない」
「ボスしけてるぜ」
「いい事ばかりはありゃしない」
「誰かがBedで眠ってる」
「うんざり」
であり、恋愛とはぜんぜん関係ない。
ラブソングらしいのは
「スローバラード」と
「君が僕を知ってる」
くらいだ。
どちらもストレートに愛をうたったものではない。
なぜこんなにラブソングがこのまれるのか、
わたしにはほんとうに理解できない。
これは世界的な傾向なのだろうか。
じっさいに求愛の意味をこめて歌をうたうひとはいないのに、
それでもこれだけ愛の歌がうたわれている不思議。
人類のもつ本能がそうさせるのだろうか。
(プライベートでいったことはない)、
いまさならながら、歌のほとんとが
「愛」についてのものであることに気づく。
ラブソングとわざわざジャンルわけをしなくても、
だれもかれも、男も女も、演歌もポップスも、
手をかえ品をかえ、
みんな「あなたがすき」とうたっているのだ。
わたしが同行したときにうたわれたものが
たまたま愛の歌だったわけではないはずだ。
ヒット曲はラブソングだらけなのにはじめてしり、
愛をうたわないアニメソングにリクエストされるとホッとした。
ほかにうたうことはないのか、
愛以外のことについて歌をつくれ、
というのは無理ないいがかりだろう。
もともとの歌のなりたちは、
歌垣(うたがき)でしられるように
愛をつたえるためのものだったかもしれない。
そういう意味では、現代の歌謡曲も
みごとに歌の本質的な機能を継承している。
人類にとって、さらにいえば生物にとって、
求愛こそが繁殖のための最重要課題であり、
その目的を追求すれば「歌=ラブソング」となる。
その、基本的な前提条件のはずの
繁殖への欲求がたかくないといわれる現代において、
うたわれている曲の内容に変化はあるのだろうか。
「ヒット曲におけるラブソングのしめる割合」とか、
「紅白歌合戦でうたわれたラブソング」
なんて調査があれば(きっとあるはず)、
そのこんにち的傾向をしりたい。
草食系とか晩婚化の当事者であるわかものたちは、
どういう歌をこのむのだろうか。
歌と心理的な傾向がべつのはずはない。
恋愛に関心のないひとが
愛の歌をこのんではうたわないだろう。
個人的なことをかくと、
わたしはラブソングにまったく関心がない。
よくきく「RCサクセション」ですきな曲は
「あきれてものもいえない」
「ボスしけてるぜ」
「いい事ばかりはありゃしない」
「誰かがBedで眠ってる」
「うんざり」
であり、恋愛とはぜんぜん関係ない。
ラブソングらしいのは
「スローバラード」と
「君が僕を知ってる」
くらいだ。
どちらもストレートに愛をうたったものではない。
なぜこんなにラブソングがこのまれるのか、
わたしにはほんとうに理解できない。
これは世界的な傾向なのだろうか。
じっさいに求愛の意味をこめて歌をうたうひとはいないのに、
それでもこれだけ愛の歌がうたわれている不思議。
人類のもつ本能がそうさせるのだろうか。
2012年02月17日
『傍聞き(かたえぎき)』たしかにうまいけど・・・
『傍聞き(かたえぎき)』(長岡弘樹・双葉文庫)
『2012年おすすめ文庫王国』の国内ミステリー部門で
1位となった作品だ。
1位といっても、いくつかのジャンルにわかれて
(「時代小説」とか「恋愛小説」とか)
担当者が自分ひとりでベスト10をきめるのだから、
そうおおさわぎするほどのことではないとおもうが、
帯に
「おすすめ文庫王国」2012国内ミステリー部門
ダントツの第1位
とかかれるとなんだか説得力がある。
宇田川拓也氏がつよくおすだけあって
たしかにうまい短編集だ。
ただ、短編ミステリーという性格から、
はなしのなかでかたられることすべてが
ものがたりの伏線となっており、
それがあまりきわだつと
みじかいページにたくさんつめこみすぎた
きゅうくつさをかんじてしまう。
さりげなくかいてある状況説明について、
どうせこれがさいごには意味をもってくるんだろ、と
うたぐってよんでしまうので
ものがたりの世界にここちよくひたることができなかった。
また、4つの短編のうち、「迷走」と「899」には
技巧をこらしすぎた「ありえなさ」をかんじた。
救急隊や消防の担当者が、
そんなリスクをおかしてまで
わずかな可能性にかけるだろうか。
東野圭吾の『容疑者Xの献身』についても
おなじような感想をもったので、
リアリティを重視するわたしは、
トリックをあつかった小説にむいてないのかもしれない。
おもしろくよめたけど、
この手の本にはとうぶん手をださないだろう。
『2012年おすすめ文庫王国』の国内ミステリー部門で
1位となった作品だ。
1位といっても、いくつかのジャンルにわかれて
(「時代小説」とか「恋愛小説」とか)
担当者が自分ひとりでベスト10をきめるのだから、
そうおおさわぎするほどのことではないとおもうが、
帯に
「おすすめ文庫王国」2012国内ミステリー部門
ダントツの第1位
とかかれるとなんだか説得力がある。
宇田川拓也氏がつよくおすだけあって
たしかにうまい短編集だ。
ただ、短編ミステリーという性格から、
はなしのなかでかたられることすべてが
ものがたりの伏線となっており、
それがあまりきわだつと
みじかいページにたくさんつめこみすぎた
きゅうくつさをかんじてしまう。
さりげなくかいてある状況説明について、
どうせこれがさいごには意味をもってくるんだろ、と
うたぐってよんでしまうので
ものがたりの世界にここちよくひたることができなかった。
また、4つの短編のうち、「迷走」と「899」には
技巧をこらしすぎた「ありえなさ」をかんじた。
救急隊や消防の担当者が、
そんなリスクをおかしてまで
わずかな可能性にかけるだろうか。
東野圭吾の『容疑者Xの献身』についても
おなじような感想をもったので、
リアリティを重視するわたしは、
トリックをあつかった小説にむいてないのかもしれない。
おもしろくよめたけど、
この手の本にはとうぶん手をださないだろう。
2012年02月16日
意気地のない「山陰中央新報」のコラム
山陰中央新報に「明窓」というコラムがある。
朝日新聞でいうと、天声人語にあたる場所だ。
公共施設のなかでまち時間があったので、
そこにおいてあった山陰中央新報をながめていた。
きょうづけの「明窓」に、朝日新聞から引用して
石原慎太郎氏のことがかいてある。
石原慎太郎氏はどうでもいいけど、
堂々と他社の記事から引用していたのでおどろいた。
なんて意気地のないコラムなのだろう。
石原慎太郎氏が芥川賞の選考委員を
辞任するにあたりおこなったインタビューが
朝日新聞にのっていたのだそうだ。
なにもわざわざ朝日新聞からもってこなくても、
ソースはいくらでもありそうだし、
そもそも小なりといえども
山陰地方では最大の発行部数の新聞なのに、
平気で「朝日新聞に載っていた」
とかく神経はどうしたものだろう。
こういうことは、柔軟性とはちがう性質のものだ。
プライドはないのだろうか。
逆のことを想定してみる。
朝日新聞が山陰中央新報から引用して天声人語をかく。
山陰地方についての情報をひろく紹介したいときは
そういうこともあるかもしれない。
しかし、石原慎太郎氏が芥川賞の選考委員を辞任することを
他社の記事から引用するはまずありえない。
引用が意気地なし、とおもっていたら、
引用だけではなかった。
全文が、いったいなんのことか意味がつたわってこない。
もっともらしいことばをつらねているけれど、
形をつくっているだけで
よむがわのこころにせまってくるものがまるでない。
きょうの文章が特別ひどいのかもしれないと、
最近のものをいくつかよんでみた。
まちがいない。どれもみなひどい内容だ。
いいたいことがないのに
無理をして、まともな新聞のコラムを気どろうとするからこうなるのだろう。
わたしたちは本気でかなしんだほうがいい。
これが山陰でいちばん部数をうっている新聞なのだ。
この文章をよんでどうおもうか、
いろいろなひとにきいてみたくなった。
朝日新聞でいうと、天声人語にあたる場所だ。
公共施設のなかでまち時間があったので、
そこにおいてあった山陰中央新報をながめていた。
きょうづけの「明窓」に、朝日新聞から引用して
石原慎太郎氏のことがかいてある。
石原慎太郎氏はどうでもいいけど、
堂々と他社の記事から引用していたのでおどろいた。
なんて意気地のないコラムなのだろう。
石原慎太郎氏が芥川賞の選考委員を
辞任するにあたりおこなったインタビューが
朝日新聞にのっていたのだそうだ。
なにもわざわざ朝日新聞からもってこなくても、
ソースはいくらでもありそうだし、
そもそも小なりといえども
山陰地方では最大の発行部数の新聞なのに、
平気で「朝日新聞に載っていた」
とかく神経はどうしたものだろう。
こういうことは、柔軟性とはちがう性質のものだ。
プライドはないのだろうか。
逆のことを想定してみる。
朝日新聞が山陰中央新報から引用して天声人語をかく。
山陰地方についての情報をひろく紹介したいときは
そういうこともあるかもしれない。
しかし、石原慎太郎氏が芥川賞の選考委員を辞任することを
他社の記事から引用するはまずありえない。
引用が意気地なし、とおもっていたら、
引用だけではなかった。
全文が、いったいなんのことか意味がつたわってこない。
もっともらしいことばをつらねているけれど、
形をつくっているだけで
よむがわのこころにせまってくるものがまるでない。
きょうの文章が特別ひどいのかもしれないと、
最近のものをいくつかよんでみた。
まちがいない。どれもみなひどい内容だ。
いいたいことがないのに
無理をして、まともな新聞のコラムを気どろうとするからこうなるのだろう。
わたしたちは本気でかなしんだほうがいい。
これが山陰でいちばん部数をうっている新聞なのだ。
この文章をよんでどうおもうか、
いろいろなひとにきいてみたくなった。
2012年02月15日
世界無形文化遺産的な夕ごはんだった
日本食をユネスコの世界無形文化遺産へ
登録しようといううごきがあるという。
どこがアピールできる点なのか、
ユネスコはなにを大切なポイントとかんがえているのか、
そもそも、なにをもって日本食とするかなど、
いくつかの疑問がすぐにおもいうかぶ。
ラーメン・カツ丼・肉じゃがなどは評価がわかれそうだし。
そうしたややこしいはなしはおいとくとして、
料理が文化遺産というのはかんがえ方は、
いわれてみれば、でてきて当然なのかもしれない。
これまでに「フランスの美食術」「地中海料理」
「メキシコの伝統料理」「トルコ料理」の
4つが登録されているそうだ。
文化に優劣はないはずだから、
手をあげる国は(地域は)
これからどんどんふえてくるのではないか。
どこも自分たちの料理には
つよい自信をもっているにちがいない。
わたしはいま週に5回夕ごはんをつくっている。
計画をたてるなんてめんどくさいので、
おもいついた料理をテキトーにくみあわせる。
でんぷんの料理ばかりならなんだり、
量がめちゃくちゃおおかったりはするけど、
基本的にはできるだけできあいのものはかわずに自分でつくる。
(ギョーザもカレーもスパゲティもピザも、
というはなしは先日かいた)。
きのうはいよいよ献立にこまってしまい、
なんの案もなくスーパーをあるいた。
材料をみて、おもいつくままにカゴにいれていく。
で、つくったのが
・ひじきの煮つけ
・切り干し大根の煮つけ
・小松菜と油あげのいため煮
・おから
・芽ゴンブのすのもの
・焼き魚(サバのみりん干し)
・みそ汁
と、みごとに純和風のおかずがならんだ。
たべたあとでおもったのが、
これはもしかして立派な文化遺産かも、ということだ。
肉はぜんぜんつかっておらず、
ダシをきかせたものばかりになった。
これをもってして典型的な日本食といっても
そうまちがいではないだろう。
そして、いいかげんにつくったわりには
自分でいうのはなんだけど、すごくおいしくできていた。
まさか文化遺産なんてかんがえなかったので
写真をとらなかったのが残念だ。
ユネスコがこれからどういう判断をくだすのか、たのしみにしている。
登録しようといううごきがあるという。
どこがアピールできる点なのか、
ユネスコはなにを大切なポイントとかんがえているのか、
そもそも、なにをもって日本食とするかなど、
いくつかの疑問がすぐにおもいうかぶ。
ラーメン・カツ丼・肉じゃがなどは評価がわかれそうだし。
そうしたややこしいはなしはおいとくとして、
料理が文化遺産というのはかんがえ方は、
いわれてみれば、でてきて当然なのかもしれない。
これまでに「フランスの美食術」「地中海料理」
「メキシコの伝統料理」「トルコ料理」の
4つが登録されているそうだ。
文化に優劣はないはずだから、
手をあげる国は(地域は)
これからどんどんふえてくるのではないか。
どこも自分たちの料理には
つよい自信をもっているにちがいない。
わたしはいま週に5回夕ごはんをつくっている。
計画をたてるなんてめんどくさいので、
おもいついた料理をテキトーにくみあわせる。
でんぷんの料理ばかりならなんだり、
量がめちゃくちゃおおかったりはするけど、
基本的にはできるだけできあいのものはかわずに自分でつくる。
(ギョーザもカレーもスパゲティもピザも、
というはなしは先日かいた)。
きのうはいよいよ献立にこまってしまい、
なんの案もなくスーパーをあるいた。
材料をみて、おもいつくままにカゴにいれていく。
で、つくったのが
・ひじきの煮つけ
・切り干し大根の煮つけ
・小松菜と油あげのいため煮
・おから
・芽ゴンブのすのもの
・焼き魚(サバのみりん干し)
・みそ汁
と、みごとに純和風のおかずがならんだ。
たべたあとでおもったのが、
これはもしかして立派な文化遺産かも、ということだ。
肉はぜんぜんつかっておらず、
ダシをきかせたものばかりになった。
これをもってして典型的な日本食といっても
そうまちがいではないだろう。
そして、いいかげんにつくったわりには
自分でいうのはなんだけど、すごくおいしくできていた。
まさか文化遺産なんてかんがえなかったので
写真をとらなかったのが残念だ。
ユネスコがこれからどういう判断をくだすのか、たのしみにしている。
2012年02月14日
そのレッズ愛、本物ですか?
『フットボールサミット』の第5回は、
「拝啓、浦和レッズ様
そのレッズ愛、本物ですか?」というすごい議題だ。
熱狂的な応援でしられる浦和レッズは、
あわや降格か、というきびしい状態で昨シーズンをおえた。
来シーズンはそのたてなおしができるのだろうか。
「本の雑誌社」の炎の営業マン、杉江由次さんが
「それでも、愛さずにはいられない」という記事をよせている。
杉江さんは、本の業界では有名な浦和サポーターであり、
べつのところに杉江さんがかいているものによると、
杉江さんの家ではレッズのはなしをするのはタブーなのだという。
なぜなら、親子といえでも
修復不可能な事態におちいることがありえるから。
サッカーの試合で、サポーターのあつい応援をみると、
その情熱がどこからくるのかわたしは不思議におもっていた。
わたしはサッカーをみるのがすきではあるけれど、
特定のひいきチームはなく、
代表チームに声援をおくるぐらいだ。
試合がもりあがり、奇跡的な勝利をおさめたりすると、
だれかれとなくだきあってよろこぶ心境が理解できないわけではない。
しかし、一般的なサポーターが自分のチームにおくる愛情は
そんななまやさしいものではない。
かてば選手をたたえ、まけそうなときには叱咤激励し、
まけがつづけば選手とスタッフにきびしい批判をくわえる。
あつい日もさむい日も、雨や雪がふっていても、
サポーターたちはずっとジャンプをくりかえし、
応援の歌をうたい、「カモーン、カモーン」と
ゴールをよびよせようとする。
いったいなんなのだ、この情熱は。
杉江さんは、
「どうして自分のことじゃないのに
そんなに真剣になれるんでしょうか?」
という同僚からの質問に対し、
「いや、自分のことなのだ。
私は試合中選手とともに戦っているし、
勝てばともに喜び、負ければ心底悲しむ(中略)。
まさに自分も浦和レッズの一員なのである」
とこたえる。しかし、同僚にはうまくつたわらない。
さらに自分の気もちを分析している。
「私と浦和レッズの関係は、
やはり恋愛に近いかもしれない。
ある日突然理由もなく恋に落ち、
想いを一心に伝えるがなかなか振り向いてくれない。
終始振り回され気味の片想いで、
でも振り回されればされるほど、
こちらの恋心はもえあがる(中略)。
そうやってすでに20年近く片想いが続いているのだ」
世界じゅうに、恋におちたひとたちがいる。
イタリアにもドイツにも、イギリスにも。
彼らにとっても自分の愛するチームは
とてもひとごとなどではない。
人生そのもの、という関係だ。
浦和レッズでプレーしたことのある選手は、
外国のチームにはいった経験があるひとでも、
浦和のサポーターは特別だという。
あんなサポーターはほかにはいない、という。
わたしには、そこまでおおくのひとを片想いにさせてしまう
レッズの魅力がわからない。
杉江さんの文章をよんでも、
「なぜそんなに?」という疑問が
きれいにはれるわけではない。
やはり、これは理屈ではない。
「恋におちる」とよぶしかないのだろうか。
サッカージャーナリストの西部謙司さんは
「ある日、突然サッカーに目覚めたというか、感染したというか、
中学1、2年のころはサッカーと名がついていれば何だっていいという状態だった」
という表現でサッカーとのであいを紹介している。
たしかに、感染というとらえ方もまた、
サッカーにのめりこむひとつの型をあらわしている。
サッカーはおそろしく感染力のつよい病気であり、
そのなかでも浦和型(インフルエンザにおける香港A型みたいなもの)にはとくに注意が必要、
という比喩だ。
恋愛もまた一種の病気ととらえることができる。
サッカーも病気も恋愛も、
本質はおなじようなものかもしれない。
「拝啓、浦和レッズ様
そのレッズ愛、本物ですか?」というすごい議題だ。
熱狂的な応援でしられる浦和レッズは、
あわや降格か、というきびしい状態で昨シーズンをおえた。
来シーズンはそのたてなおしができるのだろうか。
「本の雑誌社」の炎の営業マン、杉江由次さんが
「それでも、愛さずにはいられない」という記事をよせている。
杉江さんは、本の業界では有名な浦和サポーターであり、
べつのところに杉江さんがかいているものによると、
杉江さんの家ではレッズのはなしをするのはタブーなのだという。
なぜなら、親子といえでも
修復不可能な事態におちいることがありえるから。
サッカーの試合で、サポーターのあつい応援をみると、
その情熱がどこからくるのかわたしは不思議におもっていた。
わたしはサッカーをみるのがすきではあるけれど、
特定のひいきチームはなく、
代表チームに声援をおくるぐらいだ。
試合がもりあがり、奇跡的な勝利をおさめたりすると、
だれかれとなくだきあってよろこぶ心境が理解できないわけではない。
しかし、一般的なサポーターが自分のチームにおくる愛情は
そんななまやさしいものではない。
かてば選手をたたえ、まけそうなときには叱咤激励し、
まけがつづけば選手とスタッフにきびしい批判をくわえる。
あつい日もさむい日も、雨や雪がふっていても、
サポーターたちはずっとジャンプをくりかえし、
応援の歌をうたい、「カモーン、カモーン」と
ゴールをよびよせようとする。
いったいなんなのだ、この情熱は。
杉江さんは、
「どうして自分のことじゃないのに
そんなに真剣になれるんでしょうか?」
という同僚からの質問に対し、
「いや、自分のことなのだ。
私は試合中選手とともに戦っているし、
勝てばともに喜び、負ければ心底悲しむ(中略)。
まさに自分も浦和レッズの一員なのである」
とこたえる。しかし、同僚にはうまくつたわらない。
さらに自分の気もちを分析している。
「私と浦和レッズの関係は、
やはり恋愛に近いかもしれない。
ある日突然理由もなく恋に落ち、
想いを一心に伝えるがなかなか振り向いてくれない。
終始振り回され気味の片想いで、
でも振り回されればされるほど、
こちらの恋心はもえあがる(中略)。
そうやってすでに20年近く片想いが続いているのだ」
世界じゅうに、恋におちたひとたちがいる。
イタリアにもドイツにも、イギリスにも。
彼らにとっても自分の愛するチームは
とてもひとごとなどではない。
人生そのもの、という関係だ。
浦和レッズでプレーしたことのある選手は、
外国のチームにはいった経験があるひとでも、
浦和のサポーターは特別だという。
あんなサポーターはほかにはいない、という。
わたしには、そこまでおおくのひとを片想いにさせてしまう
レッズの魅力がわからない。
杉江さんの文章をよんでも、
「なぜそんなに?」という疑問が
きれいにはれるわけではない。
やはり、これは理屈ではない。
「恋におちる」とよぶしかないのだろうか。
サッカージャーナリストの西部謙司さんは
「ある日、突然サッカーに目覚めたというか、感染したというか、
中学1、2年のころはサッカーと名がついていれば何だっていいという状態だった」
という表現でサッカーとのであいを紹介している。
たしかに、感染というとらえ方もまた、
サッカーにのめりこむひとつの型をあらわしている。
サッカーはおそろしく感染力のつよい病気であり、
そのなかでも浦和型(インフルエンザにおける香港A型みたいなもの)にはとくに注意が必要、
という比喩だ。
恋愛もまた一種の病気ととらえることができる。
サッカーも病気も恋愛も、
本質はおなじようなものかもしれない。
2012年02月13日
児童福祉法改正に関する説明会
県主催の「児童福祉法等改正法施行に関する説明会」に参加する。
今年の4月から自立支援法がいくつかの点で改正となる。
おもな変更は
1 利用者負担が応益負担から応能負担に
2 発達障害が自立支援法の対象となることを明確化
3 相談支援の充実
4 障害児支援の強化
であり、
きょうのはなしはこのうちの「4」についてのものだ。
これまで自立支援法の対象であった18歳未満の通所サービスが
事業体系の変更にともなって児童福祉法へとかわることになる。
4月1日からかわるのに、
これまで詳細がなかなかしめされなかった。
あと1ヶ月半をのこすばかり、というときになって
やっと厚生労働省から基準が通達されたが、
まだ疑問点がおおくのこっている状態で、
県としてもその対応に苦労しているようだ。
事業者も、報酬や人員基準がはっきりみえなくては、
事業計画をたてられない。
今回にはじまったことでなく、
変更があるときは、おおかれすくなかれ
これまでもにたような状況だったけど。
報酬については、
10人以下の放課後等デイサービスは
478単位となりそうだ。
これに管理責任者の専任加算が205単位、
学校から事業所までの送迎に27単位という加算がある。
職員配置は管理責任者のほかに指導員が2人必要で、
だいたい予想していた金額とはいえ、
あまくない経営になりそうだ。
自立支援法と児童福祉法という2つの法律にまたがるということは
じつはたいへんなことのようで、
サービスを提供した事業所は、その請求を
これまでのように国保連にだすのか、
それとも市町村にだすのかがきまらないのだそうだ。
市町村が国保連に委託するかしないかによるちがいであり、
「事業者の請求において混乱が生じることのないよう、
国保連合会への委託及び事業者への周知等十分に配慮願いたい」
というのが県の説明だった。
いまでも移動支援は地域生活支援事業ということで、
市町村へは電子請求ではなく紙によっておこなっている。
今度の変更も、はじまってしまえば
事業者はそう混乱しないのかもしれない。
しかし、市町村はこれまでも
こまかい変更に毎年のようにふりまわされ、
今年もまたこうして改正に対応しなければならないのは、
おおきな負担だろう。
請求システムについても、
変更のたびにバージョンアップが必要になる。
なにかがかわることで、
厚労省も県も市町村も事業所もたいへんだけど、
ソフトをつくる側だけは
仕事がふえてよろこんでいるのではないか。
こうやって改正をかさねながら
自立支援法はすこしずついいしくみにそだってきた。
つなぎ法案のあと、2013年からは、
いよいよ総合福祉法への移行がおこなわれるわけで、
そのときにはどんな混乱がおこるだろう。
利用者と支援するがわの環境が
よくなるためなら変更は必要だけど、
せっかく自立支援法が
これだけつかえるものになってきたところに、
また抜本的な改正となると、
やりなおしというか、あともどりというか、
もったいない気がしてならない。
今年の4月から自立支援法がいくつかの点で改正となる。
おもな変更は
1 利用者負担が応益負担から応能負担に
2 発達障害が自立支援法の対象となることを明確化
3 相談支援の充実
4 障害児支援の強化
であり、
きょうのはなしはこのうちの「4」についてのものだ。
これまで自立支援法の対象であった18歳未満の通所サービスが
事業体系の変更にともなって児童福祉法へとかわることになる。
4月1日からかわるのに、
これまで詳細がなかなかしめされなかった。
あと1ヶ月半をのこすばかり、というときになって
やっと厚生労働省から基準が通達されたが、
まだ疑問点がおおくのこっている状態で、
県としてもその対応に苦労しているようだ。
事業者も、報酬や人員基準がはっきりみえなくては、
事業計画をたてられない。
今回にはじまったことでなく、
変更があるときは、おおかれすくなかれ
これまでもにたような状況だったけど。
報酬については、
10人以下の放課後等デイサービスは
478単位となりそうだ。
これに管理責任者の専任加算が205単位、
学校から事業所までの送迎に27単位という加算がある。
職員配置は管理責任者のほかに指導員が2人必要で、
だいたい予想していた金額とはいえ、
あまくない経営になりそうだ。
自立支援法と児童福祉法という2つの法律にまたがるということは
じつはたいへんなことのようで、
サービスを提供した事業所は、その請求を
これまでのように国保連にだすのか、
それとも市町村にだすのかがきまらないのだそうだ。
市町村が国保連に委託するかしないかによるちがいであり、
「事業者の請求において混乱が生じることのないよう、
国保連合会への委託及び事業者への周知等十分に配慮願いたい」
というのが県の説明だった。
いまでも移動支援は地域生活支援事業ということで、
市町村へは電子請求ではなく紙によっておこなっている。
今度の変更も、はじまってしまえば
事業者はそう混乱しないのかもしれない。
しかし、市町村はこれまでも
こまかい変更に毎年のようにふりまわされ、
今年もまたこうして改正に対応しなければならないのは、
おおきな負担だろう。
請求システムについても、
変更のたびにバージョンアップが必要になる。
なにかがかわることで、
厚労省も県も市町村も事業所もたいへんだけど、
ソフトをつくる側だけは
仕事がふえてよろこんでいるのではないか。
こうやって改正をかさねながら
自立支援法はすこしずついいしくみにそだってきた。
つなぎ法案のあと、2013年からは、
いよいよ総合福祉法への移行がおこなわれるわけで、
そのときにはどんな混乱がおこるだろう。
利用者と支援するがわの環境が
よくなるためなら変更は必要だけど、
せっかく自立支援法が
これだけつかえるものになってきたところに、
また抜本的な改正となると、
やりなおしというか、あともどりというか、
もったいない気がしてならない。
2012年02月12日
はじめての東野圭吾『容疑者Xの献身』
「ベストセラーテレビ」で東野圭吾特集をやっていた。
ずいぶんおもしろそうに紹介している。
よくよまれている作家ということをしりながら、
これまで手にしたことがなかったので、
どれどれというかんじでまえから本棚にあった
『容疑者Xの献身』をよんでみる気になった。
その年に発行された文庫本のなかから
いい作品を紹介する『おすすめ文庫王国』に
「文庫本売上げベスト100比較(ジュンク堂と丸善)」という企画があり、
毎年どういう本がうれたかについて
担当者の対談がくまれている。
それによると、ベスト100のなかにジュンク堂は11点、
丸善は6点も東野圭吾の本がはいっている。
ちなみに『容疑者Xの献身』は
2009年のジュンク堂ベスト1だ。
丸善のベスト100のなかで、東野圭吾のように
複数の本がはいっている作家は
ごくわずかしかいないし(6点というのは断トツ)、
ジュンク堂で東野圭吾のようにうれているのは
ほかに有川浩と伊坂幸太郎くらいだ。
で、『容疑者Xの献身』をよんだ感想はというと、
人気がしめすとおりに、たしかにうまくておもしろいとおもう。
この作品では、すきな女性をまもるために、
犯人(というか共犯者)がありえない手をつかうわけで、
そのありえないはなしに
どれだけリアリティをもたせるかが
この作品では重要だった。
トリックに納得がいっても、
犯行にいたった動機がよわければ
この作品は「ありえない」でおわってしまう。
天才数学者という設定もそのためだし、
人生に希望をうしない、命をたとうとしたときに、
その女性の出現によってすくわれた、
というのもリアリティのためだ。
ガリレオ博士とふかい次元で
おたがいの思考をさぐりあう記述から、
読者は「数学者ならありえるかも」、という気にさせられる。
しかし、複雑にいりくんだ状況をとっさに判断できる能力は、
ほんとうに数学と関係あるのだろうか。
数学の問題をつくることについて、
「思い込みによる盲点をついているだけです」
「盲点、ですか」
「たとえば幾何の問題に見せかけて、
じつは関数の問題であるとか」
と、この数学者はかたっている。
読者もまた、数学の天才ならこれぐらいのトリックをおもいつくのは不可能ではない、と「思い込」まされただけなのではないだろうか。
おもしろいし、トリックの意外性におどろいたけど、
動機のリアリティについて納得できたわけではない。
いくらその女性を愛していても、
だからといってあんなことができるだろうか。
ふかくかたりあい、おたがいをしりぬいてからの「献身」ならわかる。
そうではなくて、ひとめぼれにすぎない段階で
あれだけのことをするのは、
数学者の冷静で論理的な思考回路なのではなく、
ストーカーとしての一方的な「思い込み」ではないか。
ずいぶんおもしろそうに紹介している。
よくよまれている作家ということをしりながら、
これまで手にしたことがなかったので、
どれどれというかんじでまえから本棚にあった
『容疑者Xの献身』をよんでみる気になった。
その年に発行された文庫本のなかから
いい作品を紹介する『おすすめ文庫王国』に
「文庫本売上げベスト100比較(ジュンク堂と丸善)」という企画があり、
毎年どういう本がうれたかについて
担当者の対談がくまれている。
それによると、ベスト100のなかにジュンク堂は11点、
丸善は6点も東野圭吾の本がはいっている。
ちなみに『容疑者Xの献身』は
2009年のジュンク堂ベスト1だ。
丸善のベスト100のなかで、東野圭吾のように
複数の本がはいっている作家は
ごくわずかしかいないし(6点というのは断トツ)、
ジュンク堂で東野圭吾のようにうれているのは
ほかに有川浩と伊坂幸太郎くらいだ。
で、『容疑者Xの献身』をよんだ感想はというと、
人気がしめすとおりに、たしかにうまくておもしろいとおもう。
この作品では、すきな女性をまもるために、
犯人(というか共犯者)がありえない手をつかうわけで、
そのありえないはなしに
どれだけリアリティをもたせるかが
この作品では重要だった。
トリックに納得がいっても、
犯行にいたった動機がよわければ
この作品は「ありえない」でおわってしまう。
天才数学者という設定もそのためだし、
人生に希望をうしない、命をたとうとしたときに、
その女性の出現によってすくわれた、
というのもリアリティのためだ。
ガリレオ博士とふかい次元で
おたがいの思考をさぐりあう記述から、
読者は「数学者ならありえるかも」、という気にさせられる。
しかし、複雑にいりくんだ状況をとっさに判断できる能力は、
ほんとうに数学と関係あるのだろうか。
数学の問題をつくることについて、
「思い込みによる盲点をついているだけです」
「盲点、ですか」
「たとえば幾何の問題に見せかけて、
じつは関数の問題であるとか」
と、この数学者はかたっている。
読者もまた、数学の天才ならこれぐらいのトリックをおもいつくのは不可能ではない、と「思い込」まされただけなのではないだろうか。
おもしろいし、トリックの意外性におどろいたけど、
動機のリアリティについて納得できたわけではない。
いくらその女性を愛していても、
だからといってあんなことができるだろうか。
ふかくかたりあい、おたがいをしりぬいてからの「献身」ならわかる。
そうではなくて、ひとめぼれにすぎない段階で
あれだけのことをするのは、
数学者の冷静で論理的な思考回路なのではなく、
ストーカーとしての一方的な「思い込み」ではないか。
2012年02月11日
ややこしいけどかんがえさせられる『トスカーナの贋作』
監督は『友だちのうちはどこ』のアッパス=キアロスタミ。
そして主演はジュリエット=ビノシュだ。
講演におとずれたイギリス人作家を彼女が案内しながら、
日常生活のたまらなさに目をむけるようはなす。
はじめはおたがいに気をつかいながらのおしゃべりが、
だんだんと遠慮のない議論となっていく。
カフェの女主人がふたりを夫婦とかんちがいしたのをきっかけに
ほんとうの夫婦であるかのようにふりをはじめる。
最初のころは夫婦役と現実とがいりまじるが、
しだいに倦怠期の夫婦そのものといった会話となっていく。
英語しかはなせないはずのジェームスが、
フランス語でも議論をするようになり、
英語とフランス語、ときどきのイタリア語がいりまじって
みている側をなんだかわからない世界にひきこんでゆく。
コメディかとおもうぐらい、
そのやりとりは日常そのものであり、
ささいな気もちのすれちがいを本気でまくしたてる。
いったいこの2人はなんなんだと、
みているうちにわたしはだんだん混乱してきた。
ただ、なにがほんとうかわからなくても、
おもしろくみることができる不思議な作品だ。
ジェームズ役のウィリアム=シメルは
はじめは知的で魅力的な作家の顔だったのが、
だんだん日本のオヤジみたいにさえない男になりさがり、
おもっていることをそのままくちにだして相手をいいつのる。
見学さきでいっしょになった年配の男性から、
「あなたの奥さんがもとめているのは
議論ではなく、いっしょにならんであるき、
肩をだいてもらうことだ」
というアドバイスをうけ、
いったんはそのことばどおりに
彼女の肩をだいてレストランにはいるのに、
またどうでもいいようなこと(ワインがまずい)で
雰囲気をこわしてしまう。
上映時間の1時間46分のあいだ会話がとぎれることはなく、
ずっとなんだかんだといいあっていた。
おたがいに夫婦をえんじてはいるのだが、
はなしていることはほんとうの自分の気もちだ。
2人の関係になにをもとめるか。
お互いにちゃんとむかいあっているか。
わたしは配偶者をこの映画にさそったが、
ことわられてしまった。
ひとりでみてよかった、とはじめはおもい、
おわるころには、やっぱりみてほしかった、とおもった。
これだけ自分の感情をかくさずにことばにされると、
わたしたちの関係についてかんがえざるをえない。
ことばによる格闘になれていない日本人夫婦としても、
もうすこし本物にせまる関係をもとめたい。
わたしがえんじればいいだけなのだろうか。
そして主演はジュリエット=ビノシュだ。
講演におとずれたイギリス人作家を彼女が案内しながら、
日常生活のたまらなさに目をむけるようはなす。
はじめはおたがいに気をつかいながらのおしゃべりが、
だんだんと遠慮のない議論となっていく。
カフェの女主人がふたりを夫婦とかんちがいしたのをきっかけに
ほんとうの夫婦であるかのようにふりをはじめる。
最初のころは夫婦役と現実とがいりまじるが、
しだいに倦怠期の夫婦そのものといった会話となっていく。
英語しかはなせないはずのジェームスが、
フランス語でも議論をするようになり、
英語とフランス語、ときどきのイタリア語がいりまじって
みている側をなんだかわからない世界にひきこんでゆく。
コメディかとおもうぐらい、
そのやりとりは日常そのものであり、
ささいな気もちのすれちがいを本気でまくしたてる。
いったいこの2人はなんなんだと、
みているうちにわたしはだんだん混乱してきた。
ただ、なにがほんとうかわからなくても、
おもしろくみることができる不思議な作品だ。
ジェームズ役のウィリアム=シメルは
はじめは知的で魅力的な作家の顔だったのが、
だんだん日本のオヤジみたいにさえない男になりさがり、
おもっていることをそのままくちにだして相手をいいつのる。
見学さきでいっしょになった年配の男性から、
「あなたの奥さんがもとめているのは
議論ではなく、いっしょにならんであるき、
肩をだいてもらうことだ」
というアドバイスをうけ、
いったんはそのことばどおりに
彼女の肩をだいてレストランにはいるのに、
またどうでもいいようなこと(ワインがまずい)で
雰囲気をこわしてしまう。
上映時間の1時間46分のあいだ会話がとぎれることはなく、
ずっとなんだかんだといいあっていた。
おたがいに夫婦をえんじてはいるのだが、
はなしていることはほんとうの自分の気もちだ。
2人の関係になにをもとめるか。
お互いにちゃんとむかいあっているか。
わたしは配偶者をこの映画にさそったが、
ことわられてしまった。
ひとりでみてよかった、とはじめはおもい、
おわるころには、やっぱりみてほしかった、とおもった。
これだけ自分の感情をかくさずにことばにされると、
わたしたちの関係についてかんがえざるをえない。
ことばによる格闘になれていない日本人夫婦としても、
もうすこし本物にせまる関係をもとめたい。
わたしがえんじればいいだけなのだろうか。
2012年02月10日
高見浩訳の『羊たちの沈黙』を歓迎する
『羊たちの沈黙』(トマス=ハリス)の
新訳版が新潮文庫から発売された。
こんどの訳は高見浩。
菊池光による旧訳の日本語がきらいなわたしにとって
うれしいニュースだ。
トマス=ハリスのレクター博士ものは全部よんでいる。
どれもおもしろいけれど、
『羊たちの沈黙』だけは訳になじめずイライラした。
菊池光は、ミステリー本でよくみかける翻訳家だ。
手もとにないので具体的にはかけないが、
会話がすごくかたい口調で訳されていて違和感があったし、
すでに出版されている本で読者は「クリフォード」になれているのに
わざわざクローフォドとやったり、
日本語になっていることばを
へんなアクセントにかえたり。
菊池光の訳の不自然さに気づいたのは、
ディック=フランシスの競馬シリーズからだ。
はじめはふつうによんでいたのが、
女性のしゃべりかたが鼻についてたまらなくなった。
せっかくの『羊たちの沈黙』も
心配していたとおり訳にじゃまされて
(訳がないとよめないわけだけど)
素直にたのしむことができなかった。
新訳本の下巻に、訳を担当した高見浩が解説をかいている。
どういういきさつで新訳がでるようになったかしりたかったけど、
そういうことにはふれず、
ただ『羊たちの沈黙』が
いかにすばらしい本であるかの紹介にとどめられている。
ということは、ふれにくいなんらかの事情があったのだと
確信をふかめてしまった。
わたしがすきな『愛しい女』(ピート=ハミル・河出文庫)を訳したのも高見浩で、
この本は、出版された当初、
原作よりも翻訳本のほうがよくかけている、という
へんなほめられかたがされていた。
そこまでいわれると、翻訳家冥利につきるだろう。
高見浩訳の『羊たちの沈黙』で、
まえの訳への溜飲をさげたい。
新訳版が新潮文庫から発売された。
こんどの訳は高見浩。
菊池光による旧訳の日本語がきらいなわたしにとって
うれしいニュースだ。
トマス=ハリスのレクター博士ものは全部よんでいる。
どれもおもしろいけれど、
『羊たちの沈黙』だけは訳になじめずイライラした。
菊池光は、ミステリー本でよくみかける翻訳家だ。
手もとにないので具体的にはかけないが、
会話がすごくかたい口調で訳されていて違和感があったし、
すでに出版されている本で読者は「クリフォード」になれているのに
わざわざクローフォドとやったり、
日本語になっていることばを
へんなアクセントにかえたり。
菊池光の訳の不自然さに気づいたのは、
ディック=フランシスの競馬シリーズからだ。
はじめはふつうによんでいたのが、
女性のしゃべりかたが鼻についてたまらなくなった。
せっかくの『羊たちの沈黙』も
心配していたとおり訳にじゃまされて
(訳がないとよめないわけだけど)
素直にたのしむことができなかった。
新訳本の下巻に、訳を担当した高見浩が解説をかいている。
どういういきさつで新訳がでるようになったかしりたかったけど、
そういうことにはふれず、
ただ『羊たちの沈黙』が
いかにすばらしい本であるかの紹介にとどめられている。
ということは、ふれにくいなんらかの事情があったのだと
確信をふかめてしまった。
わたしがすきな『愛しい女』(ピート=ハミル・河出文庫)を訳したのも高見浩で、
この本は、出版された当初、
原作よりも翻訳本のほうがよくかけている、という
へんなほめられかたがされていた。
そこまでいわれると、翻訳家冥利につきるだろう。
高見浩訳の『羊たちの沈黙』で、
まえの訳への溜飲をさげたい。