12月にはしったチェンマイマラソンのサイトに、
ゴールしたときの写真がアップされた。
年齢枠別に、エントリー順でならべられている。
タイムはレース後1週間でもう一覧表になっていた。
ゆるくて気らくに参加できた大会運営ながら、
こういうところはきちっとやってくれたのでありがたい。
わたしは50歳以上のクラスで、
65人中39位という成績だった。
1番はやいひとが3時間16分で、
おそいひとは6時間53分。平均は4時間44分だ。
日本人のランナーはわたしをふくめて3人のようだ。
わたしの写真は、すごく足がおもたかったにしては、
なんともない顔をしてゴールしている。
全然つかれているようにはみえない。
もう一回マラソンをはしれそうなくらい余裕がある。
この、ゴールのときの表情は、
タイムとあまり関係がないようだ。
どちらかというとおそいひとのほうがニッコリわらっている。
まあ、たいへんなおもいをしてながい時間はしってきたのだから、
ゴールをするときには自然と笑顔になるのかもしれない。
『BORN TO RUN』のなかで、
ニューヨークシティマラソンを材料に、
加齢による走力の変化がとりあげられている。
それぞれの年齢別に平均タイムをならべていくと、
19歳からだんだんはやくなってゆき、27歳でピークをむかえる。
それ以降は年齢とともに、当然しだいにおそくなっていく。
それでは、19歳とおなじタイムまでさがるのは、
何歳になったときか?というのが『BORN TO RUN』での質問だ。
19歳から8年かけてピークにたっしたのだから、
おそくなるのもおなじ年月として、27+8で35歳?
いやいやぜんぜん。
それがなんと64歳だというからすごい。
このことから、長距離ほど年齢がすすんでもちからがおちない競技はない、
と『BORN TO RUN』では強調している。
ほんとうだろうか。
レースによって平均タイムはずいぶんちがうので、
どのレースをとりあげるかで数字はいくらでも操作できる。
ホノルルマラソンの平均タイムはすごくおそいし、
制限タイムがきびしい大会では
当然それだけ平均タイムもはやくなる。
もしかしたら、この大会に出場した19歳のランナーが、
たまたま初心者がおおかったのかもしれない。
よく訓練された64歳と、
ぜんぜんはしりなれていない19歳をくらべても意味がない。
とはいえ64歳でも19歳とおなじ走力をたもてるといわれると
わるい気はしない。
それだけマラソンは、わかさよりも経験がものをいう場なのだろう。
2012年02月09日
2012年02月08日
「IT断食」というかんがえ方に賛成
今朝の朝日新聞に「IT断食」について
山本孝昭さんのかんがえ方が紹介されていた。
ITが便利すぎるので、
おおくのひとがITにたよりすぎているという意見だ。
で、山本さんの会社では「トップレス・ミーティング」をはじめられている。
「トップレス」は「ラップトップパソコンなし」の意味だ。
デジタル機器をもちこみまず、ガチンコで議論する。
ほんとうだ。
わたしも、会議中にパソコンを操作されるとすごくイライラする。
こっちが会に参加してるのに、
相手は自分ではなくパソコンにむかっているのはすごくいやだ。
これにもまったく賛成する。
エクセルやパワーポイントで、
「こんなことができるのがうれしくてしょうがない」
みたいな、かざりつけをされると
かっこわるいなーとおもう。
山本さんの会社では
「パソコンに拘束される時間を最小化する」
とうたったソフトを企業に提供しているという。
IT業界にいながらこういうかんがえ方ができるのはすごい。
パソコンにむかっていると、
たしかにあっという間に時間をつかってしまう。
かなりの禁欲的な精神がなければ
なんのためにパソコンをつかっているのかわからなくなる。
IT機器とどうつきあうか、以前から関心があった。
じっさいに必要かどうかに関係なく、
アップルの製品は物欲を刺激するのだ。
わたしはいまのところスマートフォンもタブレットももってないし、
ワードとパワーポイントはきらいでつかわない。
基本的なところで山本さんのかんがえ方にすごく共感できる。
IT依存・IT中毒におちいらないよう、
自分にも会社にも、それに社会にも、
ちょっとななめの視線をむけていこう。
山本孝昭さんのかんがえ方が紹介されていた。
ITが便利すぎるので、
おおくのひとがITにたよりすぎているという意見だ。
よくあるのが、会議に出席者みんながパソコンやタブレットを持ち込んで、ペーパーレスにしましょう、という動きです(中略)会議は顔を合わせ、意見や思いをぶつけあったり交換したりしながら、アイデアを見つけるとか行動への決定を導くとか、そのためにあります。
「報告書にこうあるけど、本当はどうなんだ」
「現場はこうでした」
などと出し合い、ガチンコで議論する場です。それなのにみんなが会議中、画面を見ていたら、集まった意味がありません。
で、山本さんの会社では「トップレス・ミーティング」をはじめられている。
「トップレス」は「ラップトップパソコンなし」の意味だ。
デジタル機器をもちこみまず、ガチンコで議論する。
ほんとうだ。
わたしも、会議中にパソコンを操作されるとすごくイライラする。
こっちが会に参加してるのに、
相手は自分ではなくパソコンにむかっているのはすごくいやだ。
もう一つ深刻なのが、プレゼンテーション資料です。不要なグラフ、念のためのグラフ。ちょっと見栄えをよくした矢印や影、アニメーション。膨大な時間をかけて資料を作っている社員が多い。何を訴えたいのか、共感してほしいのか、それを考え抜いてから作っていないんですね。いきなりパソコンの前に座って、ソフトの言うとおりに作っている。
これにもまったく賛成する。
エクセルやパワーポイントで、
「こんなことができるのがうれしくてしょうがない」
みたいな、かざりつけをされると
かっこわるいなーとおもう。
山本さんの会社では
「パソコンに拘束される時間を最小化する」
とうたったソフトを企業に提供しているという。
IT業界にいながらこういうかんがえ方ができるのはすごい。
パソコンにむかっていると、
たしかにあっという間に時間をつかってしまう。
かなりの禁欲的な精神がなければ
なんのためにパソコンをつかっているのかわからなくなる。
IT機器とどうつきあうか、以前から関心があった。
じっさいに必要かどうかに関係なく、
アップルの製品は物欲を刺激するのだ。
わたしはいまのところスマートフォンもタブレットももってないし、
ワードとパワーポイントはきらいでつかわない。
基本的なところで山本さんのかんがえ方にすごく共感できる。
IT依存・IT中毒におちいらないよう、
自分にも会社にも、それに社会にも、
ちょっとななめの視線をむけていこう。
2012年02月07日
生活介護でのもちつき
生活介護でもちつきをする。
理事長が何年かまえに個人的にかったうすときねをかりて、
毎年何回かのもちつきが恒例となっているのだ。
今年の冬はこれで2回目で、
きょうは1升のもち米をついた。
つきあがった半分のもちに黒豆をいれ、かきもちにする。
できたてのおもちを
大根おろしとしょうゆの味つけでいただいた。
いろいろ準備はたいへんだけど(わたしはやってないが)、
やればたのしいし、おいしい。
配偶者の実家が掛合にあり
(鷹の爪団の吉田くんのふるさと吉田村のとなり町)、
お正月にかえったとき、
「松江ではもちつきをする家があるか?」
と義父にたずねられた。
「ほとんどないけど、会社の代表が
毎年かならず家でもちつきをしています」とこたえる。
ほんとうに、いったいどれだけの家がもちつきをしてるのだろう。
理事長の家は、ものすごく少数派、
もしかしたら0.1%よりもすくない一家なのかもしれない。
もうすぐテレビ局からの取材があるはずだ。
掛合のもちつきをきくと、ずいぶん田舎町なのに、
いまではほとんどする家がないそうだ。
もちつきどころか、米つくりもしらない子がおおく、
義父たちのグループが学校にでかけて
「稲作体験」をさせているという。
町なかの学校じゃあるまいし、
そこらじゅうが田んぼだらけの掛合で
なぜそんなことをするのだろう。
家の田んぼを手つだわせればいいだけなのに。
稲作地帯にあるこの町で、米つくりの文化が
ガラガラとくずれている状況をしった。
掛合だけが特別なわけではなく、
にたようなおおくの町で、
こうやって子どもたちが
米つくりにふれないでそだっているのだろう。
都会のひとが Iターンとかいって
田舎ぐらしをはじめる例をよくきくけど、
ちがうみかたをすると、都会へむかうひとがおおいからこそ
そうした現象がなりたつのだ。
農村はこれからどうなっていくのだろう。
理事長が何年かまえに個人的にかったうすときねをかりて、
毎年何回かのもちつきが恒例となっているのだ。
今年の冬はこれで2回目で、
きょうは1升のもち米をついた。
つきあがった半分のもちに黒豆をいれ、かきもちにする。
できたてのおもちを
大根おろしとしょうゆの味つけでいただいた。
いろいろ準備はたいへんだけど(わたしはやってないが)、
やればたのしいし、おいしい。
配偶者の実家が掛合にあり
(鷹の爪団の吉田くんのふるさと吉田村のとなり町)、
お正月にかえったとき、
「松江ではもちつきをする家があるか?」
と義父にたずねられた。
「ほとんどないけど、会社の代表が
毎年かならず家でもちつきをしています」とこたえる。
ほんとうに、いったいどれだけの家がもちつきをしてるのだろう。
理事長の家は、ものすごく少数派、
もしかしたら0.1%よりもすくない一家なのかもしれない。
もうすぐテレビ局からの取材があるはずだ。
掛合のもちつきをきくと、ずいぶん田舎町なのに、
いまではほとんどする家がないそうだ。
もちつきどころか、米つくりもしらない子がおおく、
義父たちのグループが学校にでかけて
「稲作体験」をさせているという。
町なかの学校じゃあるまいし、
そこらじゅうが田んぼだらけの掛合で
なぜそんなことをするのだろう。
家の田んぼを手つだわせればいいだけなのに。
稲作地帯にあるこの町で、米つくりの文化が
ガラガラとくずれている状況をしった。
掛合だけが特別なわけではなく、
にたようなおおくの町で、
こうやって子どもたちが
米つくりにふれないでそだっているのだろう。
都会のひとが Iターンとかいって
田舎ぐらしをはじめる例をよくきくけど、
ちがうみかたをすると、都会へむかうひとがおおいからこそ
そうした現象がなりたつのだ。
農村はこれからどうなっていくのだろう。
2012年02月06日
オリンピック予選シリア戦
きのうおこなわれたオリンピック最終予選
対シリア戦は、2-1でやぶれてしまった。
前半18分にセットプレーから失点する。
負傷した山崎にかわって大迫がはいり、
その大迫が頭にあててのオウンゴール。
バウンドがきゅうにかわったこともあるけど
まったく運がない。
グランド状態がわるいためだろう、
日本はパスでつなぐよりロングボールがおおい。
それがまたぜんぜんつながらない。
なんだか相手にあわせておおざっぱにけりあってるかんじだ。
日本らしさがみられない。
それでも前半ロスタイムに
ワンチャンスをものにして同点においついた。
後半にはいってしばらくは日本の時間帯となり
ボールがおちつくようになる。
しかし、せっかくパスがつながりはじめたかとおもったのに、
軽率なプレーがなんどかでてしまい、
またシリアのペースになってしまう。
そして終了間際にまさかというミドルシュートがきまって
かちこされてしまった。
2点をいれられたキーパーの権田はすごくくやしそうだ。
自分のミスとしてとらえ、
しきりに「もうしわけない」をくりかえす。
1点目はグランドのわるさ、2点目は無回転ボールであり、
すべてが権田のせいだったわけではない。
劇的な時間帯に点がうごき、
サッカーの非常さをかみしめる試合となった。
レフリーはあきらかにシリアよりだ。
にっこりわらいながら日本にきびしい判定がつづく。
この主審はきょねんのアジアカップのヨルダン戦
(ロスタイムにやっと同点においついた試合)で
笛をふいたひとらしい。
こういうかたよった笛をふくめて
「アジアの戦い」とよくいうけど、
もういいかげんやめてほしい。
かちこし点をいれたあとのシリアもひどかった。
たおれるたびにおおげさにころげまわり、
露骨に時間をかせぐ。
試合をおくらせるきたないプレーとして
こういうときにこそイエローカードをだせばいいのに。
対シリア戦は、2-1でやぶれてしまった。
前半18分にセットプレーから失点する。
負傷した山崎にかわって大迫がはいり、
その大迫が頭にあててのオウンゴール。
バウンドがきゅうにかわったこともあるけど
まったく運がない。
グランド状態がわるいためだろう、
日本はパスでつなぐよりロングボールがおおい。
それがまたぜんぜんつながらない。
なんだか相手にあわせておおざっぱにけりあってるかんじだ。
日本らしさがみられない。
それでも前半ロスタイムに
ワンチャンスをものにして同点においついた。
後半にはいってしばらくは日本の時間帯となり
ボールがおちつくようになる。
しかし、せっかくパスがつながりはじめたかとおもったのに、
軽率なプレーがなんどかでてしまい、
またシリアのペースになってしまう。
そして終了間際にまさかというミドルシュートがきまって
かちこされてしまった。
2点をいれられたキーパーの権田はすごくくやしそうだ。
自分のミスとしてとらえ、
しきりに「もうしわけない」をくりかえす。
1点目はグランドのわるさ、2点目は無回転ボールであり、
すべてが権田のせいだったわけではない。
劇的な時間帯に点がうごき、
サッカーの非常さをかみしめる試合となった。
レフリーはあきらかにシリアよりだ。
にっこりわらいながら日本にきびしい判定がつづく。
この主審はきょねんのアジアカップのヨルダン戦
(ロスタイムにやっと同点においついた試合)で
笛をふいたひとらしい。
こういうかたよった笛をふくめて
「アジアの戦い」とよくいうけど、
もういいかげんやめてほしい。
かちこし点をいれたあとのシリアもひどかった。
たおれるたびにおおげさにころげまわり、
露骨に時間をかせぐ。
試合をおくらせるきたないプレーとして
こういうときにこそイエローカードをだせばいいのに。
2012年02月05日
気分はタラウマラ族
ひさしぶりに2時間はしる。
おだやかな天気だったこともあり、
たのしいジョギングとなった。
できれば2時間を、とおもってはしりだし、
1時間くらいからいいかんじになってきたので、
そのまま2時間になるようなコースをとりながらはしる。
たのしかったのはまんなかの30分ほどで、
さいごの30分はもう足がスムーズにまえにでない。
この2倍の距離であるフルマラソンを
よくはしれたもんだとおもう。
はしった、という体験をもてたことは
すごく自信になっている。
はしりおえて1時間たったころに、
左足がなんどもケイレンをおこす。
ケイレンぐらいどうってことない、
と足にいいきかせるけど、
すごい形相をしないとごらえられないぐらいいたい。
これから週に1回は2時間をはしり、
ながい距離を頭と足におしえていくつもりだ。
はしっていると、
自動車にのっているひとがよく目にはいる。
ふとった男性がいい自動車に
ふんぞりかえってのっていると、
お金をかけて寿命をちぢめているだけじゃん、とおもう、
よけいなお世話だけど。
『BORN TO RUN』に
「最高のシューズは最悪」ということがかかれている。
かんがえられるかぎりの手をつくして
足を保護する最高級のシューズは、
じつは足にとってもっともわるい環境、ということだ。
おなじような意味で、
最高の生活は最悪、といういい方もできる。
豪華な自動車にのり、
からだをうごかすことなくすごせる家や職場は、
人間のからだにとって最悪な環境だろう。
夜になってもいい気分がつづいている。
肺が、たくさん仕事をしたことをよろこんでいるかんじだ。
はしるために生まれたんだ、と
さりげなくいえるようになれるかな。
おだやかな天気だったこともあり、
たのしいジョギングとなった。
できれば2時間を、とおもってはしりだし、
1時間くらいからいいかんじになってきたので、
そのまま2時間になるようなコースをとりながらはしる。
たのしかったのはまんなかの30分ほどで、
さいごの30分はもう足がスムーズにまえにでない。
この2倍の距離であるフルマラソンを
よくはしれたもんだとおもう。
はしった、という体験をもてたことは
すごく自信になっている。
はしりおえて1時間たったころに、
左足がなんどもケイレンをおこす。
ケイレンぐらいどうってことない、
と足にいいきかせるけど、
すごい形相をしないとごらえられないぐらいいたい。
これから週に1回は2時間をはしり、
ながい距離を頭と足におしえていくつもりだ。
はしっていると、
自動車にのっているひとがよく目にはいる。
ふとった男性がいい自動車に
ふんぞりかえってのっていると、
お金をかけて寿命をちぢめているだけじゃん、とおもう、
よけいなお世話だけど。
『BORN TO RUN』に
「最高のシューズは最悪」ということがかかれている。
かんがえられるかぎりの手をつくして
足を保護する最高級のシューズは、
じつは足にとってもっともわるい環境、ということだ。
おなじような意味で、
最高の生活は最悪、といういい方もできる。
豪華な自動車にのり、
からだをうごかすことなくすごせる家や職場は、
人間のからだにとって最悪な環境だろう。
夜になってもいい気分がつづいている。
肺が、たくさん仕事をしたことをよろこんでいるかんじだ。
はしるために生まれたんだ、と
さりげなくいえるようになれるかな。
2012年02月04日
器具の充実より、すいてるほうがありがたい
体育館へトレーニングにでかけた。
土曜日なので、こまないうちにと
はやめにしたくをして9時半につく。
でも、bjリーグ「スサノオマジック」の試合がはいっていて、
トレーニングルームがつかえない日だった。
選手たちがウォーミングアップをするのだろうか。
しかたがないので県立プールのジムへむかう。
ここは各種トレーニングマシーンのほか、
フリーウェイトもできるし、冷暖房もととのっている。
体育館のトレーニングルームでは
まずみることのないわかい女性もおおく
はなやかな雰囲気のなかでからだをうごかせる。
トレーニングにのめりこんでるひとだけでなく、
いかにも健康づくりというひともおられるし、
ヨガなどの教室もひらいており、そちらの人気もたかい。
成功している施設といっていいだろう。
ただ、そのせいか利用者がいつもおおく、
ゆっくりトレーニングをすることができない。
ベンチプレスやスクワットは、
本格的にトレーニングをしてるひとがつかいだすと
なかなかあかない。
トレッドミルはひとりがながくつかうことがないよう
30分をすぎると、とまるようにセットされていて、
ながい時間はしることができない。
器具が充実していることはたしかながら、
わたしのこのみとしては
もっとさびれていてもいいから、
ひとのうごきを気にせずにトレーニングできたほうがいい。
ひさしぶりの県立プールでのトレーニングは、
わがままなわたしにはいごこちがわるかった。
土曜日なので、こまないうちにと
はやめにしたくをして9時半につく。
でも、bjリーグ「スサノオマジック」の試合がはいっていて、
トレーニングルームがつかえない日だった。
選手たちがウォーミングアップをするのだろうか。
しかたがないので県立プールのジムへむかう。
ここは各種トレーニングマシーンのほか、
フリーウェイトもできるし、冷暖房もととのっている。
体育館のトレーニングルームでは
まずみることのないわかい女性もおおく
はなやかな雰囲気のなかでからだをうごかせる。
トレーニングにのめりこんでるひとだけでなく、
いかにも健康づくりというひともおられるし、
ヨガなどの教室もひらいており、そちらの人気もたかい。
成功している施設といっていいだろう。
ただ、そのせいか利用者がいつもおおく、
ゆっくりトレーニングをすることができない。
ベンチプレスやスクワットは、
本格的にトレーニングをしてるひとがつかいだすと
なかなかあかない。
トレッドミルはひとりがながくつかうことがないよう
30分をすぎると、とまるようにセットされていて、
ながい時間はしることができない。
器具が充実していることはたしかながら、
わたしのこのみとしては
もっとさびれていてもいいから、
ひとのうごきを気にせずにトレーニングできたほうがいい。
ひさしぶりの県立プールでのトレーニングは、
わがままなわたしにはいごこちがわるかった。
2012年02月03日
地球温暖化って、ほんとなのか?
三寒四温ということばがあるのに、
1月23日からきょうまで、
ずっとさむい日がつづいている。
地球温暖化なんて、ほんとにおきているのだろうか。
夏はたしかに毎年のように記録的猛暑がやってくる。
冬は、それに全体としてはどうなのだろう。
こういうものは、どのデーターをえらんで過去の数値と比較するのかで
まったくちがう予想をみちびきだせるものだ。
異常気象や温暖化について、
北極の氷がとけ、シロクマが活動できる地域がせばまっているとか、
南太平洋にあるちいさな島国ツバルが消滅するなどときくと、
地球的な危機がヒタヒタとせまってくる不安をかんじ、
なんとかしなければという焦燥感をもつ。
しかし、温暖化などおきてはいない、
というかんがえ方もある。
地球はながい年月の周期で
あたたかくなったり、さむくなったりをくりかえしており、
1世紀、2世紀というながい目でみると、
温暖化といわれている現象も、
その周期の範囲で数値が上下しているにすぎないという説だ。
さむい日がつづくからいうわけではなく、
わたしは以前からこちらの説を指示している。
きのう(2月2日)の朝日新聞に、
「エコ暖房は器具組み合わせ」という記事がのっていた。
省エネ・節電をこころがけながらの暖房は、
器具の特徴をいかし、
くみあわせてつかうのが大切なのだそうだ。
それによると、ひろい部屋をあたためるには
石油ストーブは効率がわるく、
エアコンにしたほうがよいという。
いままでずっと石油ストーブのほうが
やすあがりだとおもっていたので、
これはおもいがけない指摘だった。
しかし、脱原発をめざそうかというときに、
エアコンのほうがよりエコ、
といわれてもなんだかしっくりこない。
石油をもやすことによる二酸化炭素の排出など、
かんがえなければならないことがたくさんあるにしても、
できるだけ電力にたよらない暖房を
えらんだ方がいいようにわたしはおもう。
省エネと節電とのバランスをどうとっていくかは、
それぞれの価値観で判断するしかないのだろう。
1月23日からきょうまで、
ずっとさむい日がつづいている。
地球温暖化なんて、ほんとにおきているのだろうか。
夏はたしかに毎年のように記録的猛暑がやってくる。
冬は、それに全体としてはどうなのだろう。
こういうものは、どのデーターをえらんで過去の数値と比較するのかで
まったくちがう予想をみちびきだせるものだ。
異常気象や温暖化について、
北極の氷がとけ、シロクマが活動できる地域がせばまっているとか、
南太平洋にあるちいさな島国ツバルが消滅するなどときくと、
地球的な危機がヒタヒタとせまってくる不安をかんじ、
なんとかしなければという焦燥感をもつ。
しかし、温暖化などおきてはいない、
というかんがえ方もある。
地球はながい年月の周期で
あたたかくなったり、さむくなったりをくりかえしており、
1世紀、2世紀というながい目でみると、
温暖化といわれている現象も、
その周期の範囲で数値が上下しているにすぎないという説だ。
さむい日がつづくからいうわけではなく、
わたしは以前からこちらの説を指示している。
きのう(2月2日)の朝日新聞に、
「エコ暖房は器具組み合わせ」という記事がのっていた。
省エネ・節電をこころがけながらの暖房は、
器具の特徴をいかし、
くみあわせてつかうのが大切なのだそうだ。
それによると、ひろい部屋をあたためるには
石油ストーブは効率がわるく、
エアコンにしたほうがよいという。
いままでずっと石油ストーブのほうが
やすあがりだとおもっていたので、
これはおもいがけない指摘だった。
しかし、脱原発をめざそうかというときに、
エアコンのほうがよりエコ、
といわれてもなんだかしっくりこない。
石油をもやすことによる二酸化炭素の排出など、
かんがえなければならないことがたくさんあるにしても、
できるだけ電力にたよらない暖房を
えらんだ方がいいようにわたしはおもう。
省エネと節電とのバランスをどうとっていくかは、
それぞれの価値観で判断するしかないのだろう。
2012年02月02日
3回目のタイ米料理はインドカレー
タイ米をつかった料理の3回目としてカレーをつくる。
あるひとがつくってくれたカレーがすごくおいしいので、
おねがいしてスパイスをわけてもらったとき、
コピーしたレシピもいっしょにいただいた。
クミン・コリアンダー・ターメリック、
それにできればシナモンとカルダモンがあると
おいしいインドカレーがかんたんにできる。
このカレーを、だれにたべてもらっても、
その本格的な味わいをほめてくれるのに、
家族だけはなにもいわないのがつらいところだ。
14歳になるむすこは、ちいさなころから日本風でない
カレー・スパゲティ・パエリャ・水餃子を
(いちどだけだけどクスクスも)あたりまえにたべてきた。
おおきくなって、どこかの国でたべた料理が
家でなじんできた味だった、なんてことがあったららうれしいけど。
むすこがこれからどんな食生活をおくるのかちょっと関心がある。
今回つくったのは、ミントボールカレーとヨーグルトカレーの2種類だ。
ミントボールカレーはともかく、
ヨーグルトカレーはみた目がしろく、
カレーのイメージからずいぶんはなれるのでめずらしがられる。
たべてみるとヨーグルトの酸味がそのままいかされたおいしさで、
これはこれでひとつのカレーであることを納得できる。
本格的なインドカレーというと、
何日もコトコト煮こんで、とおもうひとがおおい。
でも、スパイスをつかってカレーをつくってみると、
1時間あれば2種類のカレーができるほどお手軽な料理だ。
わたしの師匠は、インドにおけるカレーを
「日本でのみそ汁みたいなもの」と喝破されていた。
たしかに毎日つくるものなのだから、
何時間もかけるこったものでは
日常的な家庭料理にならない。
それに、油をそんなにつかわないので、
食器あらいがすごくらくなのも
意外なおすすめポイントだ。
このカレーがタイ米でよりひきたつか、
というのが今回のはなしでは肝となる。
その結果はというと、
残念ながらおもったほどではなかった。
もちろんタイ米がわるいわけではない。
理由をかんがえてみると、
つかったスパイスが市販のものだったので
あまりかおりがたかくなく、
そうした風味のよわいカレーには
日本のお米のほうがあっていたのだとおもう。
3キロもってかえったタイ米も、
のこりが600グラムとなってしまった。あと料理1回分だ。
いままでためしたなかでは
パエリャとの相性がいちばんよかったので
(日本米でつくるときよりおどろくほどうまくいった)、
最後はパエリャなりそうだ。
タイ米がどこかでやすく手にはいらないだろうか。
あるひとがつくってくれたカレーがすごくおいしいので、
おねがいしてスパイスをわけてもらったとき、
コピーしたレシピもいっしょにいただいた。
クミン・コリアンダー・ターメリック、
それにできればシナモンとカルダモンがあると
おいしいインドカレーがかんたんにできる。
このカレーを、だれにたべてもらっても、
その本格的な味わいをほめてくれるのに、
家族だけはなにもいわないのがつらいところだ。
14歳になるむすこは、ちいさなころから日本風でない
カレー・スパゲティ・パエリャ・水餃子を
(いちどだけだけどクスクスも)あたりまえにたべてきた。
おおきくなって、どこかの国でたべた料理が
家でなじんできた味だった、なんてことがあったららうれしいけど。
むすこがこれからどんな食生活をおくるのかちょっと関心がある。
今回つくったのは、ミントボールカレーとヨーグルトカレーの2種類だ。
ミントボールカレーはともかく、
ヨーグルトカレーはみた目がしろく、
カレーのイメージからずいぶんはなれるのでめずらしがられる。
たべてみるとヨーグルトの酸味がそのままいかされたおいしさで、
これはこれでひとつのカレーであることを納得できる。
本格的なインドカレーというと、
何日もコトコト煮こんで、とおもうひとがおおい。
でも、スパイスをつかってカレーをつくってみると、
1時間あれば2種類のカレーができるほどお手軽な料理だ。
わたしの師匠は、インドにおけるカレーを
「日本でのみそ汁みたいなもの」と喝破されていた。
たしかに毎日つくるものなのだから、
何時間もかけるこったものでは
日常的な家庭料理にならない。
それに、油をそんなにつかわないので、
食器あらいがすごくらくなのも
意外なおすすめポイントだ。
このカレーがタイ米でよりひきたつか、
というのが今回のはなしでは肝となる。
その結果はというと、
残念ながらおもったほどではなかった。
もちろんタイ米がわるいわけではない。
理由をかんがえてみると、
つかったスパイスが市販のものだったので
あまりかおりがたかくなく、
そうした風味のよわいカレーには
日本のお米のほうがあっていたのだとおもう。
3キロもってかえったタイ米も、
のこりが600グラムとなってしまった。あと料理1回分だ。
いままでためしたなかでは
パエリャとの相性がいちばんよかったので
(日本米でつくるときよりおどろくほどうまくいった)、
最後はパエリャなりそうだ。
タイ米がどこかでやすく手にはいらないだろうか。
2012年02月01日
『BORN TO RUN』「人類は走るために生まれた」
『BORN TO RUN』(クリストファー=マクドゥーガル・NHK出版・近藤隆文:訳)
メキシコのとざされた山岳地帯でくらす
タラウマラ族を紹介して話題になった本だ。
タラウマラ族は、タイヤからつくったサンダルをはき、
はしることを生活の一部としている神秘的な民族であり、
そこからこの本のタイトル「走るために生まれた」が
つけられたのだとおもっていた。
しかし、本の内容はそれだけにとどまらず、
人類の進化にでおよぶ壮大なものがたりがくりひろげられる。
はしることがすきなのに、
しょっちゅう足をいためている著者
(ほとんどすべてのランナーもおなじ状況だ)が、
はしることに驚異的にひいでているといわれる
タラウマラ族について、くわしくしりたくなったのがことの発端だ。
コロラド州レッドヴィルでおこなわれる100マイルのトレイルレースをとおして
著者はタラウマラ族のランナーたちの驚異的なはしりを紹介する。
そんなにすごいはしりなら、
なぜ国際競技にでないのだ、という反論があるかもしれない。
一時期タラウマラ族が公のトレイルマラソンにでてこともあったが、
興行する側との信頼関係をきずくことができず、
それ以降は自分たちの土地にひっそりとくらすようになった。
また、マラソンではしられる42.195キロという距離は
彼らにとってみじかすぎ、タラウマラ族の本質的なつよさを
あらわすにはじゅうぶんな舞台とならない、というのも
彼らのはしりがしられていないことの理由としてあげられる。
この本は、はだしではしることをひろめたことでもしられている。
いっぱんに、人類のよわい足をまもるためには
あつい底のシューズが必要であり、
初心者がランニングにとりくむときは、
なによりもシューズえらびに手をぬいてはならないとわれる。
しかし、事実は逆で、そうしたシューズをはくようになったから、
ランナーは足の故障になやまされるになったことを本書は紹介している。
たしかに野生動物で靴をはいているものは絶対にいないし、
そうであれば人間だけがくつを必要とすることも
かんがえてみればおかしなはなしだ。
そしてもうひとつ。
「走るために生まれた」は
タラウマラ族のことだけをさすのではなかった。
人類すべてが「走るために生まれ」てきたのだ。
本書では、人類と、それ以外の生物とのちがいのひとつに
呼吸のしかたをとりあげている。
たとえばチーターが一度のスライドで一呼吸しかできないのに対し、
人類はすきなだけ呼吸をし、それによって体温をさげることができる。
これがなにを意味するかといえば、
人類の祖先は、おいかけつづけることで獲物を
つかれてはしれなくなるまでおいこみ、
食糧として手にいれることができた。
この「持久狩猟」こそが、
人類が脳の発達に必要な栄養をじゅうぶんに確保することができ、
それによって進化をとげた、という仮説だ。
時代は氷河期から温暖な気候へとうつり、
おおくの土地がサバンナとなると、
おいかけて獲物をつかまえる「持久狩猟」はますます有効になった。
人類の祖先はやがて筋肉モリモリで、
腕力によって獲物をつかまえるネアデルタール人を駆逐してゆく。
わたしはいかれたトンデモ本に洗脳されたのだろうか。
著者がとなえるこの異端ともいうべき説をすんなりうけとめた。
なぜわけもなくはしりたくなるのかわかった。
わたしたちは「走るために生まれた」からだ。
マラソンよりもながい距離をはしるレースへの魅力をかんじる。
本書の魅力は、かろやかな著者のかたりくちにもある。
フセンをはりながらよんでいたら、
よくあることとして、
あまりにもいかした箇所がおおすぎて
フセンだらけになり、
フセンの意味がなくなってしまった。
それだけ本書をよむことはたのしい体験だった。
この自由自在なかたりのよさを、
翻訳の近藤隆文氏がみごとにいかしている。
あちこちにおもいっきり脱線し、
登場人物がとてもおおいこの本に
たいくつせずについていけたのは、
すぐれた翻訳のおかげでもある。
おおくのランナーのバイブルとして、
すくなくともわたしのバイブルとして、
本書にであえたことに感謝し、
「走るために生まれた」民として
これからのランニング人生をたのしみたい。
メキシコのとざされた山岳地帯でくらす
タラウマラ族を紹介して話題になった本だ。
タラウマラ族は、タイヤからつくったサンダルをはき、
はしることを生活の一部としている神秘的な民族であり、
そこからこの本のタイトル「走るために生まれた」が
つけられたのだとおもっていた。
しかし、本の内容はそれだけにとどまらず、
人類の進化にでおよぶ壮大なものがたりがくりひろげられる。
はしることがすきなのに、
しょっちゅう足をいためている著者
(ほとんどすべてのランナーもおなじ状況だ)が、
はしることに驚異的にひいでているといわれる
タラウマラ族について、くわしくしりたくなったのがことの発端だ。
コロラド州レッドヴィルでおこなわれる100マイルのトレイルレースをとおして
著者はタラウマラ族のランナーたちの驚異的なはしりを紹介する。
そんなにすごいはしりなら、
なぜ国際競技にでないのだ、という反論があるかもしれない。
一時期タラウマラ族が公のトレイルマラソンにでてこともあったが、
興行する側との信頼関係をきずくことができず、
それ以降は自分たちの土地にひっそりとくらすようになった。
また、マラソンではしられる42.195キロという距離は
彼らにとってみじかすぎ、タラウマラ族の本質的なつよさを
あらわすにはじゅうぶんな舞台とならない、というのも
彼らのはしりがしられていないことの理由としてあげられる。
この本は、はだしではしることをひろめたことでもしられている。
いっぱんに、人類のよわい足をまもるためには
あつい底のシューズが必要であり、
初心者がランニングにとりくむときは、
なによりもシューズえらびに手をぬいてはならないとわれる。
しかし、事実は逆で、そうしたシューズをはくようになったから、
ランナーは足の故障になやまされるになったことを本書は紹介している。
たしかに野生動物で靴をはいているものは絶対にいないし、
そうであれば人間だけがくつを必要とすることも
かんがえてみればおかしなはなしだ。
ランニング障害の蔓延を巨悪のナイキのせいにするのは安易すぎるように思えるーーが、気にしなくていい。大部分は彼らの責任だからだ。
そしてもうひとつ。
「走るために生まれた」は
タラウマラ族のことだけをさすのではなかった。
人類すべてが「走るために生まれ」てきたのだ。
本書では、人類と、それ以外の生物とのちがいのひとつに
呼吸のしかたをとりあげている。
たとえばチーターが一度のスライドで一呼吸しかできないのに対し、
人類はすきなだけ呼吸をし、それによって体温をさげることができる。
身体の熱の大部分を発汗によって発散させる哺乳類は、われわれしかいない。
これがなにを意味するかといえば、
人類の祖先は、おいかけつづけることで獲物を
つかれてはしれなくなるまでおいこみ、
食糧として手にいれることができた。
この「持久狩猟」こそが、
人類が脳の発達に必要な栄養をじゅうぶんに確保することができ、
それによって進化をとげた、という仮説だ。
時代は氷河期から温暖な気候へとうつり、
おおくの土地がサバンナとなると、
おいかけて獲物をつかまえる「持久狩猟」はますます有効になった。
人類の祖先はやがて筋肉モリモリで、
腕力によって獲物をつかまえるネアデルタール人を駆逐してゆく。
わたしはいかれたトンデモ本に洗脳されたのだろうか。
著者がとなえるこの異端ともいうべき説をすんなりうけとめた。
なぜわけもなくはしりたくなるのかわかった。
わたしたちは「走るために生まれた」からだ。
マラソンよりもながい距離をはしるレースへの魅力をかんじる。
本書の魅力は、かろやかな著者のかたりくちにもある。
アン・トレイソン。カリフォルニア州出身の33歳になるコミュニティカレッジの科学教師。
人ごみのなかで彼女を見つけられると言う人がいたら、それは彼女の夫か嘘つきのどちらかだ。
アンはどちらかというと小柄で、どちらかというと細身、どちらかというとぬけた感じで、どちらかというと、くすんだ茶色の前髪に顔が隠れている。
要するに、どちらかというと、いかにもコミュニティカレッジの科学教師風だ。誰かが号砲を放つまでは。( 95p)
偉大なアスリートになるには、
両親を慎重に選ばなければならない。物書きとして生きていく場合は、同じことが家族に対していえる。(406p)
フセンをはりながらよんでいたら、
よくあることとして、
あまりにもいかした箇所がおおすぎて
フセンだらけになり、
フセンの意味がなくなってしまった。
それだけ本書をよむことはたのしい体験だった。
この自由自在なかたりのよさを、
翻訳の近藤隆文氏がみごとにいかしている。
あちこちにおもいっきり脱線し、
登場人物がとてもおおいこの本に
たいくつせずについていけたのは、
すぐれた翻訳のおかげでもある。
おおくのランナーのバイブルとして、
すくなくともわたしのバイブルとして、
本書にであえたことに感謝し、
「走るために生まれた」民として
これからのランニング人生をたのしみたい。