2012年02月11日

ややこしいけどかんがえさせられる『トスカーナの贋作』

監督は『友だちのうちはどこ』のアッパス=キアロスタミ。
そして主演はジュリエット=ビノシュだ。
講演におとずれたイギリス人作家を彼女が案内しながら、
日常生活のたまらなさに目をむけるようはなす。
はじめはおたがいに気をつかいながらのおしゃべりが、
だんだんと遠慮のない議論となっていく。
カフェの女主人がふたりを夫婦とかんちがいしたのをきっかけに
ほんとうの夫婦であるかのようにふりをはじめる。
最初のころは夫婦役と現実とがいりまじるが、
しだいに倦怠期の夫婦そのものといった会話となっていく。
英語しかはなせないはずのジェームスが、
フランス語でも議論をするようになり、
英語とフランス語、ときどきのイタリア語がいりまじって
みている側をなんだかわからない世界にひきこんでゆく。
コメディかとおもうぐらい、
そのやりとりは日常そのものであり、
ささいな気もちのすれちがいを本気でまくしたてる。
いったいこの2人はなんなんだと、
みているうちにわたしはだんだん混乱してきた。
ただ、なにがほんとうかわからなくても、
おもしろくみることができる不思議な作品だ。

ジェームズ役のウィリアム=シメルは
はじめは知的で魅力的な作家の顔だったのが、
だんだん日本のオヤジみたいにさえない男になりさがり、
おもっていることをそのままくちにだして相手をいいつのる。
見学さきでいっしょになった年配の男性から、

「あなたの奥さんがもとめているのは
議論ではなく、いっしょにならんであるき、
肩をだいてもらうことだ」

というアドバイスをうけ、
いったんはそのことばどおりに
彼女の肩をだいてレストランにはいるのに、
またどうでもいいようなこと(ワインがまずい)で
雰囲気をこわしてしまう。
上映時間の1時間46分のあいだ会話がとぎれることはなく、
ずっとなんだかんだといいあっていた。
おたがいに夫婦をえんじてはいるのだが、
はなしていることはほんとうの自分の気もちだ。
2人の関係になにをもとめるか。
お互いにちゃんとむかいあっているか。

わたしは配偶者をこの映画にさそったが、
ことわられてしまった。
ひとりでみてよかった、とはじめはおもい、
おわるころには、やっぱりみてほしかった、とおもった。
これだけ自分の感情をかくさずにことばにされると、
わたしたちの関係についてかんがえざるをえない。
ことばによる格闘になれていない日本人夫婦としても、
もうすこし本物にせまる関係をもとめたい。
わたしがえんじればいいだけなのだろうか。

posted by カルピス at 20:12 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする