『フットボールサミット』の第5回は、
「拝啓、浦和レッズ様
そのレッズ愛、本物ですか?」というすごい議題だ。
熱狂的な応援でしられる浦和レッズは、
あわや降格か、というきびしい状態で昨シーズンをおえた。
来シーズンはそのたてなおしができるのだろうか。
「本の雑誌社」の炎の営業マン、杉江由次さんが
「それでも、愛さずにはいられない」という記事をよせている。
杉江さんは、本の業界では有名な浦和サポーターであり、
べつのところに杉江さんがかいているものによると、
杉江さんの家ではレッズのはなしをするのはタブーなのだという。
なぜなら、親子といえでも
修復不可能な事態におちいることがありえるから。
サッカーの試合で、サポーターのあつい応援をみると、
その情熱がどこからくるのかわたしは不思議におもっていた。
わたしはサッカーをみるのがすきではあるけれど、
特定のひいきチームはなく、
代表チームに声援をおくるぐらいだ。
試合がもりあがり、奇跡的な勝利をおさめたりすると、
だれかれとなくだきあってよろこぶ心境が理解できないわけではない。
しかし、一般的なサポーターが自分のチームにおくる愛情は
そんななまやさしいものではない。
かてば選手をたたえ、まけそうなときには叱咤激励し、
まけがつづけば選手とスタッフにきびしい批判をくわえる。
あつい日もさむい日も、雨や雪がふっていても、
サポーターたちはずっとジャンプをくりかえし、
応援の歌をうたい、「カモーン、カモーン」と
ゴールをよびよせようとする。
いったいなんなのだ、この情熱は。
杉江さんは、
「どうして自分のことじゃないのに
そんなに真剣になれるんでしょうか?」
という同僚からの質問に対し、
「いや、自分のことなのだ。
私は試合中選手とともに戦っているし、
勝てばともに喜び、負ければ心底悲しむ(中略)。
まさに自分も浦和レッズの一員なのである」
とこたえる。しかし、同僚にはうまくつたわらない。
さらに自分の気もちを分析している。
「私と浦和レッズの関係は、
やはり恋愛に近いかもしれない。
ある日突然理由もなく恋に落ち、
想いを一心に伝えるがなかなか振り向いてくれない。
終始振り回され気味の片想いで、
でも振り回されればされるほど、
こちらの恋心はもえあがる(中略)。
そうやってすでに20年近く片想いが続いているのだ」
世界じゅうに、恋におちたひとたちがいる。
イタリアにもドイツにも、イギリスにも。
彼らにとっても自分の愛するチームは
とてもひとごとなどではない。
人生そのもの、という関係だ。
浦和レッズでプレーしたことのある選手は、
外国のチームにはいった経験があるひとでも、
浦和のサポーターは特別だという。
あんなサポーターはほかにはいない、という。
わたしには、そこまでおおくのひとを片想いにさせてしまう
レッズの魅力がわからない。
杉江さんの文章をよんでも、
「なぜそんなに?」という疑問が
きれいにはれるわけではない。
やはり、これは理屈ではない。
「恋におちる」とよぶしかないのだろうか。
サッカージャーナリストの西部謙司さんは
「ある日、突然サッカーに目覚めたというか、感染したというか、
中学1、2年のころはサッカーと名がついていれば何だっていいという状態だった」
という表現でサッカーとのであいを紹介している。
たしかに、感染というとらえ方もまた、
サッカーにのめりこむひとつの型をあらわしている。
サッカーはおそろしく感染力のつよい病気であり、
そのなかでも浦和型(インフルエンザにおける香港A型みたいなもの)にはとくに注意が必要、
という比喩だ。
恋愛もまた一種の病気ととらえることができる。
サッカーも病気も恋愛も、
本質はおなじようなものかもしれない。