「気の弱い女はいない」というはなしがあった。
「気の強い女性がちょっと・・・(苦手)」と発言した男性にたいし、
酒井さんは
「気が強くない女性」という生き物がこの世に存在すると思っている男性って、いるんだ!ということに感心した。
という。
酒井さんのまわりに「気の弱い女」はひとりもおらず、
たまたま自分のまわりに特別
「気の強い女性」ばかりいるのかもしれないと、
その友達にも
「あなたの知り合いで『気の弱い女』っている?」
とたずね、
それでもやっぱりいなかったそうだ
(「『気の弱い男』だったら知ってる」というこたえあり)。
「気が強くなさそうな女性と結婚してみたら、
実はものすごく気が強かった。
ああ、本当に気が強くない女はどこかにいるはずなのに、
俺はハズレくじを引いた・・・と思っている
男性もいるかもしれませんが、
ですからそれは間違った考えなのです。
『気が弱い女』という存在は、ユニコーンとか竜とかと同様、
想像上の生き物なのですから」
ほとんどの男はこのことをしらないのではないか。
わたしもまた、「気の強くない女性」がいるとおもっていた
おめでたい男のひとりだ。
わたしの配偶者もかっては・・・。
わたしは自分が本質的に気がよわいことをしっており、
たくさんの男もまた同類だとおもう。
まさか、「気の弱い女性」がいないなんて
(もしくは絶滅したなんて)。
もうひとつ、そのはなしのつづきで、
村山由佳の『ダブル・ファンタジー』について
「いやあ、あれはすごかった・・・・・。
あまりに生々しくて引いたな」
という男がおおかったそうで、
これにたいしても
確かに刺激的な表現はあるものの、「引く」のではなく『わかる』のです。(中略)
「だって、そうだものねぇ」という気持ちになる。
というのだから、「気の弱い女性」がいないのとおなじように、
ここでも「性欲の強い女」はいないことが、
当然のこととしてかたられている。
なぜなら、「性欲の弱い女」はいないから
「性欲の強い女」という形容は
状況を正確にあらわしていないことになる。
「つよい男なんてみたことがない。
よわい女なんてみたことがない」
というのがどこかにかいてあった。
つまりはすべてがそういうことなのだろう。