『コミュニケーションは、要らない』(押井守・幻冬舎新書)
あとあじのわるいものをよんでしまった。
奇をてらっているのは題名だけで、
じっさいは、コミュニケーションの
本質にせまっている本かもしれないと期待していた。
「原発は自然に生えてきたわけではない。
それは、誰かの意思によってそこに建設されたのだ。
それを認め、許した者がいたからこそ、
そこに存在しているのだ。
それが間違いだったと言うのなら、
前言を撤回するのではなく、
それを許した時点まで遡って非を認めるのでなくては、
言葉から責任というものが生まれるはずがない」
とある「まえがき」をよむと、
いかにもただしい論理をくりひろげていそうだ。
でも、ぜんぜんちがっていた。
前半はまだしも、後半は
村上龍の文体で石原慎太郎がいいそうなことを
おもいつくままにならべただけ。
西欧の国々はしっかりしている、
日本もむかしはもっとまともだった、
3.11の大震災をきりくちに、
そんなことをおもいつくままかきつらねただけの本だ。
著者の感想にすぎないことなのにきめつけがはげしい。
たとえば
「なぜ、日本人の言語能力は明治期を境に
低下したのだろうか?
まず、第一の原因は、漢語教育を縮小してしまったからだ」
「日本人の言語能力は間違いなく落ちている。
歴史を遡ると、その兆しが見え始めたのは昭和初期だ(中略)。
明治時代、日清戦争のころの命令書は素晴らしかった」
宮崎駿さんにもやたらに「とおぼえ」している。
「スタジオジブリは原発ぬきの電気で映画をつくりたい」
という横断幕をかかげたことにたいして
「正直がっかりした」らしい。
わたしはジブリが発行している『熱風』で、
その横断幕や、原発についての座談会もよんだ。
押井守よりも、宮崎さんのほうが、
よほどすじのとおった姿勢をつらぬいているとおもう。
押井守は、もちろん「コミュニケーションは、要らない」
とおもっているわけではない。
いまの日本にはほんとうの意味でのコミュニケーションがないことに
いらだっているのだ。
そのことを本書のなかで延々とうったえているわけで、
でもそれが、よっぱらったおやじのたわごと
ぐらいにしかきこえてこない。
かきすすめるうちにだんだん断定的なものいいになり、
自分と奥さん(奥さんには頭があがらないようだ)以外はみんなバカ、
みたいな、たちのわるい頑固おやじになる。
押井守はこんなアホだったのか。
こんな下品で内容のうすい本には、くちなおしが必要だ。