2012年05月31日

民族学博物館(みんぱく)へ

大阪の民族学博物館(みんぱく)へ。
わたしは、初代館長である梅棹忠夫さんのファンなので、
ときどきここの見学がしたくなり、
これまでに10回ちかくおとずれている。

みんぱくは、オセアニア・ヨーロッパなど、12の地域にわけて
世界中の民族の生活様式が紹介されている。
農具や衣服のほかに、
おおきいものでは実物の船や自動車もあるし、
以前つかわれていたものだけでなく、
いまも現役の生活用具がならべられている。
よくかんがえると、ある民族がつかっているものを
すべて展示するということはたいへんなことだ。
できるだけその民族の特徴的な文化を
コンパクトに、ときにはぶあつく紹介できるのは、
蓄積された研究の成果なのだろう。

みんぱくの魅力は、民族の多様性を
じっさいに目にできることであり、
それぞれの民族の価値観によって、
なんといろいろな生活様式があることかと、
おとずれるたびに呆然となる。
夜空の星をながめておのれの矮小さをしるように、
膨大な展示物をまえにすると、
自分の存在を客観的にとらえられるようになる。

みんぱくの出口にある「ミュージーアム・ショップ」で
『梅棹忠夫、世界のあるきかた』ほか数点をかう。
2010年に梅棹さんが亡くなられてからも、
梅棹さんの名を冠するおおくの本が出版されつづけている。
本書は梅棹さんがとった写真と、
それをもとにかいた文章とをくみあわせ、
梅棹流の思考のプロセスを追体験したものだ。

梅棹さんは「日本探検」というシリーズのなかで
1960年に出雲大社をおとずれている。
よくしられているのは
出雲大社と東南アジアとのつながりの指摘だ。
北ラオスの村にある、たかい床の家と
出雲大社のつくりがいっしょだという。
イネつくりという共通の文化を
出雲大社の建築様式の背景にみる。

もうひとつ、考察のするどさにおどろくのは、
大和と出雲という二元的対立を、
日本に特徴的なものであるという指摘だ。

「二重構造のあらわれる原因は、
わたしは破壊の不徹底にあるとおもう。
日本においては、ふるい体制は、
根底的に破壊さえることはなく、
無害な、やや形式的な機能をあたえられて、
そのままどこかに温存されるのである。
それが、はやくも神話の時代にはじまっている」

さらに、神前結婚や地鎮祭などが、
近代化の過程で普及していることをあげ、

「科学と民主主義が、
神がみを放逐するであろうなどとかんがえるのは、
太古以来の日本文明の二元的構成を
理解しないもののかんがえといわねばならない」

とむすんでいる。
くりかえすが、これらの考察が、
いまから50年もまえにされていたことに
おどろくほかはない。
二重構造の指摘は、日本的な現象のおおくをときあかしてくれる。
おおくの土地をじっさいにおとずれ、
自分でみて、体験したことを比較検証する。
そうしたプロセスが梅棹流の思考をささえている。

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2012年05月30日

『マスタード・チョコレート』 つぐみはなぜかわれたのか

『マスタード・チョコレート』(冬川智子 イースト・プレス)

ぜんぜんわらわずに、
かたい殻をかぶって自分をまもっているつぐみが
すこしずつかわっていくものがたり。
作者のあとがきがいい。

「孤独な女の子が描きたかったのです。
ちょっと傷を抱えた、
まわりになじめなくて
いつもひとりでいる女の子」

この「女の子」(つぐみ)が作者の手をはなれて
ひとをすきになり、笑顔をうかべられるようになる。

「はじめてのストーリーものの連載は、
手探りでしたが、
お話を考えるのが
楽しくてしょうがなかったです」

「楽しくてしょうがなかった」という時間をもち、
ひとつの作品にしあげることができた冬川さんの
充実感をおもう。
自分のちからをだしきり、
自分のやりたい表現方法で、
ひとつの世界をつくっていくのは
どれだけしあわせな体験だったことだろう。
作中の人物が自由にうごきはじめ、
つぐみも、まわりのひとたちも、
すこしずつかわっていく。

「ひとりきりの居場所」をつくるつもりで
美大にはいったつぐみは、
「いつの間にか わたしの世界は
色で溢れていた」ことをしる。

つぐみはなぜかわることができたのだろう。

posted by カルピス at 11:42 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月29日

『対岸の彼女』(角田光代)もおすすめ

2冊目の角田光代は『対岸の彼女』(文春文庫)。
この作品は2005年に直木賞を受賞している。
直木賞に特別な敬意をはらうわけではないけど、
この作品はまちがいなく傑作だ。
『八日目の蝉』とおなじように、
わたしには「すごい」ということしかかけない。
角田光代はわたしにとって特別な作家となる。

仕事小説かとおもってよむと、
いじめ小説でもある。
現代と過去の、2つのものがたりが交互におりこまれる。
現代は、35歳の小夜子が
ちいさな会社にはいって仕事をはじめるはなし。
過去は、そこの社長である葵の、中高生時代のはなし。

葵は中学生のときにいじめにあい、
ひっこしをした町で高校生活をスタートする。
そこで葵にはなしかけてきたのがナナコだ。

ナナコは親からなんの愛情をうけず、
物質も精神も、がらんどうのような家でそだつ。
食事なんかだれもつくってくれない。
ナナコはおかしをご飯がわりにたべる。
親子関係も、妹との関係も、
徹底的に希薄な彼女の家族を、
はたして家族とよべるのだろうか。
いぜんいっしょにくらしていたおばあさんがナナコの名づけ親で、
このおばあさんが亡くなったとき、
家族のだれもかなしまない。
あいた部屋をとりあい、
おばあさんの荷物をすぐにすててしまう。
そんな家族のなかで、ナナコは
どうやったら「ふつう」にそだつことができるのだ。

「かってナナコに対して抱いた印象を葵は思い出す。
この子はきれいなものばかりを見てきたんだろう。
汚いことや醜いものを見ることなく、
大事に守られて生きてきたのだろうと、そう思ったのだ。
なんてことだ。まったく正反対じゃないか。
この子はだれにも守られず、
見る必要のないものまできっと見て、
ここでひとりで成長してきたのだ」

そんなナナコと葵は、おたがいを必要とし、
ふたりでつくる世界がだんだん強固なものとなってゆく。

そして小夜子もまた、場所ははなれているものの、
彼女たちとおなじ意識のなかで高校生活をおくっていた。
「対岸の彼女」とは、
2人だけの世界でたのしげにすごすナナコと葵が、
川の対岸にいる小夜子に気づき、
すぐ先にある橋で3人がいっしょになろうとするものがたりだ。

「なぜ私たちは年齢を重ねるのか」も、
この小説のもうひとつのテーマとなっている。

「生活に逃げこんでドアを閉めるためじゃない、
また出会うためだ。
出会うことを選ぶためだ。
選んだ場所に自分の足で歩いていくためだ」

葵の会社はいったんつぶれ、
小夜子もはなれていったものの、
この2人もまだおたがいを必要としていた。
葵と小夜子はふたりであたらしい事業にとりかかる。

ナナコはどうしているだろう。
ナナコにもいいであいがあり、
しあわせになっただろうか。
葵と小夜子のものがたりをよみながら、
気になるのはナナコのことだ。

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2012年05月28日

「NPOぐりぐり」受付文章第1号はアスクル

法人事務所としているわたしの自宅に
アスクルからはがきがとどいた。
宛名は
「特定非営利活動法人ぐりぐり
事務用品購入後担当者様」
となっている。
これがぐりぐり初の受付文章であり、
アスクルはこんなできたてのNPOにも
コンタクトをとっているのかと感心する。
はがきが法人の事務所にとどくのは当然とはいえ、
はじめての受付文章はうれしかった。
記念すべき第1号として
さっそくオープンフォルダーに「アスクル」の名前をつけ、
丁重にファイルしておいた。

アスクルには、もともとお世話になろうとしていた。
こんなかたちで一人前のNPOあつかいしてくれたので、
こちらも仁義をつくしてこたえようとおもう(意味不明)。

posted by カルピス at 21:18 | Comment(0) | TrackBack(0) | 児童デイサービス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月27日

あらたくんにどこまでよりそえるか

きのうは竹内先生に2回目の講義をおねがいする。
内容は構造化について。
スケジュールをいれることは、
ルールをまもるはじまり、というはなしに納得する。
ルールをまもればたのしい活動がまっている、
という体験をもつことで、
そのひとの生活はひろがりをもつし、
それを手がかりに、つぎの段階へとすすむことができる。

スケジュールにそってうごく自閉症のひとをみて、
「ロボットみたい」「かわいそう」という
とらえかたをするひとがいる。
スケジュールをいれるのは、
だれにとってもスケジュールがあったほうがうごきやすいからだ。
メガネの度がひとによってちがうように、
スケジュールのかたちもまちまちで、
「そのひとにあった」スケジュールが、
自閉症のひとにとっては写真やカードをつかったものになる(ことがおおい)。

かえりぎわに
『100%あらたくん』(茂木和美・朝日新聞厚生文化事業団)
という本を竹内先生からおかりする。
自分の子はどこかほかの子とちがう、
とかんじたときの親の不安な気もち。
自閉症の子をそだてるときに親がなにをおもうか。
成長とともに体験するいろいろなできごとが

「大変な事も沢山あるけど
嬉しい事もてんこ盛り」

という視点であかるくかかれている。

自閉症の特性である「こだわり」にとまどいながらも
だんだんとつきあい方になれ、
たいへんなできごとも、
たのしいエピソードとして紹介される。
当事者のあらたくんやお母さんにとっては
なきたくなるような状況も、
こうやってマンガにされるとわらえるはなしだ。

しかし、思春期をむかえた「あらたくん」とのあたらしいステージを
マンガそのままのほのぼの感で、
余裕をもってむかえておられるのかとおもっていたら
そうではなかった。

あらたくんは、中学部を卒業したあとの生活をイメージすることができず、
おちつきをうしなって行動障害をおこすようになる。
服薬を決意するものの、のみはじめた薬があわず
状況はさらに悪化する。
服薬調整の入院をしてようやくおちつきをとりもどすが、
退院した直後は表情がかたく、別人のようだったという。
しばらくして薬になれると、すこしずつ動作もなめらかになり、
笑顔が復活する。

「入院前
何が一番辛かったかというと・・・
笑顔が一切なくなってしまったこと・・・
日像の生活に戻りつつある今
その笑顔がまた戻ってきたようです
これからもあらた度100%
全開で笑って欲しいな」

と著者の茂木さんはむすんでいる。

だれがわるいわけでもなく、どんなに環境を調整しても
おもいもよらぬハードルがまっていることがある。
それでも親はあらたくんのかかえる困難さによりそい、
学校もすこしずつ高等部の教室にいけるよう支援している。
なかなかかんたんにはいかないなー、というのが率直な感想だ。
かんたんにはいかないけれど、
そうやってまえをむいてうごいていくしかない。
うまくいくことをしんじて
あらたくんやお母さんによりそうのがわたしの仕事だ。

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2012年05月26日

今シーズンのベストマッチ、浦和レッズ対FC東京

Jリーグ第13節、浦和レッズ対FC東京。
どちらも好調をたもったまま、いい順位につけている。
今節がおわると、W杯最終予選のため
3週間の中断がスケジュールされていることもあり、
どちらも全力をだしてかちをとりにきた。
攻守のきりかえがはやく、ミスもすくなかったので
なかなかボールがとまらない。
審判もあまり笛をふかないので(いい試合さばきだった)、
いったりきたりのはげしい試合展開だ。
後半終了間際まで点がはいらず、
このままドローか、とおもわれたときに試合がうごいた。
まずはレッズがゴール前でこまかくパスをつないできれいにくずす。
柏木のキープも、原口のヒールも効果的で、
マルシオ=リシャルデスがさいごにダイレクトできめる。
それまでファインセーブを連発していたキーパーの権田も
さすがにとめられなかった。

しかし、点をとられてもFC東京はぜんぜんあきらめていない。
直後のロスタイム1分に、石川のコーナーキックを
森重がヘディングできめて同点。
そのあともFC東京におしいチャンスがあったが、
そのままロスタイムの5分をおえる。

試合がおわったとたん、
解説の山本昌邦さんが
「いや〜、みごたえがありました」といわれたとおり、
みていておもしろく、迫力のある内容だった。
わたしが今シーズンみたなかでのベストマッチだ。

注目の選手はFC東京の高橋秀人選手。
やわらかそうな顔をしてるのに、
あたるときはゴンゴンいく。
からだのいれかたがうまく、
はやめに相手の攻撃の芽をつんで守備にも貢献していた。
先日おこなわれたA代表のアゼルバイジャン戦では
先発で出場している。
はじめて代表に招集され、ひとかわむけたみたいだ。

他会場の結果では、
西野監督がはじめて采配をふるった神戸は
鹿島に1−2とせりまける。
磐田は大宮に4−0の快勝。
磐田のつよさはほんものみたいだ。
川崎は首位の仙台に3−2と逆転がち。
仙台の独走がとまり、上位あらそいがはげしくなってきた。
中断期間どうチームをたてなおすのか、
3週間後がたのしみな今シーズンのJリーグだ。

posted by カルピス at 22:34 | Comment(0) | TrackBack(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月25日

『謎の独立国家ソマリランド』(高野秀行)暑さを別にすれば「寒村」

本をよむたのしみのひとつに
比喩のたくみさに感心することがある。
辺境作家の高野秀行さんが「WEB本の雑誌」で
ソマリランドについて連載されており、
5回目となる今回は、世界一あつい町としてしられる
ベルベラをたずねている。

「食堂に行くと、毒ガスを浴びたかのように
七、八匹の猫がテーブルの下でバタバタと倒れており、
私たちが入っても動こうとしない」

写真をみると、まさに毒ガスにやられたようなかっこうで
ネコたちがあつさにのびている。

もうひとつ、これは比喩ではないけど
おもわず「うまい!」とわらったのが

「ベルベラはソマリランド経済の要をなす貿易港だと聞いていたが、
町は暑さを別にすれば『寒村』と呼ぶにふさわしい」

漢字ならではのことばあそびだ。

以前よんだ筒井康隆さんの本には、

「蜘蛛の子を散らすように
蜘蛛の子が散った」

みたいなことがかかれていた。
たしかに。
クモの子のむれがにげるさまを、
これ以外の、そしてこれ以上の表現はできないのではないか。

比喩がおもしろい作家といえば村上春樹で、

「2モデル前の中古のボルボのサイド・ブレーキを引いたまま
坂道を登っているような」(『遠い太鼓』)

なんてすごい比喩がある。
なにをそんなボルボにたとえたかというと、
フィンランドできいたモーツァルトのコンチェルトなのだから、
いったいどんな演奏だったのだろう。

「ウェイターがやってきて
宮廷の専属接骨医が皇太子の脱臼をなおすときのような格好で
うやうやしくワインの栓をぬき、グラスにそそいでくれた」
(『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』)

もすきなたとえだ。
ぜんぜんちがったことをかきながら本質をあらわすという、
比喩の役割をみごとにはたしている。

うろおぼえだけど、
「雪の上で昼寝をしている
カラスをかぞえるようなものだ」

なんていうのもなにかでよんだ。
雪のうえで昼寝をするカラスを想像するとたのしい。

児童デイをはじめようとするいまの気もちをたとえると、

「アウェーでのW杯アジア最終予選の準備をするときみたいに」

ではどうだろう。
慎重に、でもリスクをおそれず、
自分たちらしいサッカーをしよう。

posted by カルピス at 22:29 | Comment(0) | TrackBack(0) | 高野秀行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月24日

VISAのトラベラーズチェックはやくにたたない

トラベラーズチェック(T/C)を米ドル現金にかえる。
しばらくは児童デイサービスに専念するために
T/Cを手ばなすことにした。

というのはうそで、
きょねんベトナムへいったとき、
VISAのT/Cをどの銀行もうけつけてくれず、
ほんとうにこまってしまった。
でもまあベトナムだけがそうなのかもしれないと、
つづいてタイでもT/Cをためしたけど、ここもいっしょだ。
「アメリカンエキスプレスのものしかあつかわない」といわれる。
空港の銀行でも、まちなかにある両替所でも、
VISAのマークをみただけでことわられる。
T/Cは、盗難にあったときでも再発行されるのがつよみだ。
しかし、お金にかえられないのではもっている意味がない。
しかたがないので現金にかえたのだ。

銀行の方に事情をはなすと
「う〜ん、おかしいですねえ。
観光で有名な国ならうけつけてもらえるはずですが」
といったんはいわれたものの、
手つづきをすすめるうちに、
「じつはうちの銀行でも
いまはアメリカンエキスプレスのT/Cしかあつかっていません」
といわれる。「流通の関係でなにかあるんでしょうね」、ということだ。
ひどいはなしだとおもう。
こっち信用してVISAのT/Cをかったのであり、
それが現金にかえられないのではだまされたようなものだ。
T/Cを現金にかえるには1ドルにつき2円の手数料がかかった。
T/CがT/Cのやくをはたしていたら、必要のない出費なのに。

以前は海外旅行というとT/Cだったのに、
なにかがかわったのだ。
ベトナムとタイだけの特殊事情ではないだろう。
わたしのしらないあいだに、
T/Cは役割をおえたのかもしれない。
盗難は心配だけど、T/Cにはこりた。
わたしがつぎの旅行にでるときには、
どんなかたちでお金をもっていくか、
信用できる情報をあつめよう。

posted by カルピス at 22:14 | Comment(0) | TrackBack(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月23日

ひさしぶりの代表戦、日本対アゼルバイジャン

キリンチャレンジカップ、日本対アゼルバイジャン
ひさしぶりの代表選だ。
2月29日にホームでのウズベキスタン戦に
0-1でやぶれて以来なので、
ほぼ3ヶ月ぶりということになる。
なでしこジャパンやオリンピック代表に話題があつまり、
このところA代表は影がうすくなっていた。
6月3日からはじまるワールドカップアジア最終予選にむけて
どういうしあがりをみせてくれるだろう。

対戦相手のアゼルバイジャンについては、
カスピ海のちかくにある国、ぐらいしかしらなかった。
ネットでしらべると、
FIFAランキングでは日本の30位にたいしてアゼルバイジャンは109位。
人口916万人で、1991年にソビエトから独立している。
試合内容は、ランキングの差がそのままあらわれたかたちで、
ほとんどせめられることはなく、
ときどきカウンターをくらってヒヤリとさせられたものの、
2-0であぶなげなくかつことができた。

この試合は、最終予選にむけて最後の確認をするために、
ザッケローニ監督があえて希望したといわれている。
中東か中央アジアの国で、さほどつよくないところとやりたかったはずで、
その意味では絶好の対戦相手だったのではないか。

きょねんの8月以来、9ヶ月ぶりとなる本田が存在感をみせたし、
宮市が代表選のデビューもはたした。
遠藤と今野がいないチームを体験することもできたし、
バックアップとなる選手たちをためすこともできた。
みていて興奮する内容ではなかったが、
いよいよ最終予選がはじまることを
はだでかんじる試合となった。

わたしのひいきとする中村憲剛は
後半とちゅうから出場し、
何本かのアシストと、1本のミドルシュートをはなっている。
ほかの選手へのパスコースがないと、
すぐに自分でのシュートを選択できるのが
憲剛のいいところだ。
本田圭佑のバックアッパーとしてではなく、
スタメンでの中心選手として活躍してほしい。

posted by カルピス at 22:20 | Comment(0) | TrackBack(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月22日

『チャイルド44』もし1933年のロシアの寒村でチャコがみつけられたら

「このミステリーがすごい!」2009年版海外編の1位となった
『チャイルド44』(トム=ロブ=スミス・新潮文庫)は、
1933年の冬、ロシアの寒村を舞台に絶望的な描写からはじまっている。
この年、村は極限状態におちいっていた。
ひとびとは徹底的に腹をへらし、
村のすべての動物はくいつくされている。
家畜やペットはおろか、
野ねずみさえみんなたべられてひさしい。

「もう革のブーツも細長く切って、
イラクサとビートの種と一緒に煮てしまっていた。
ミミズも掘り尽くしていた。
樹液も吸い尽くしていた。
今朝は熱にうかされ、歯茎にとげが刺さるまで、
台所の椅子の脚を噛りつづけた」

そんななか、10歳の少年が
森ににげこむ1匹のネコを目にとめる。

「たいていの者がもはや食べものを探すことさえあきらめていた。
そのような状況下で猫を見かけるというのは、
奇跡としかほかに言いようがなかった。(中略)
バーヴェルは眼を閉じ、最後に肉を食べたのがいつだったか
思い出そうとした。
眼を開けると、唾が口の中に溜まっていた。
それは涎となって顎を伝った」

少年はいそいで母親にネコのことを報告する。
母親は、こおった池の底にかくしておいたネズミの骨とりだして、
それをエサにネコをつかまえてくるよう少年をおくりだす。

ながながと引用したのは、
もし1933年当時のこの村で、
わたしの家のチャコ(8歳のオスネコ)が発見されたら
人々はどのように反応するだろうと、
彼のおなかをなでるたびにおもうからだ。
以前からふとっていたチャコは、
この半年でさらに脂肪をたくわえ、
いまや7.5キロの体重となった。
これがどれくらいのおもさかというと、
ひとことでいえば野生のタヌキとおなじ体重であり、
ふとったネコとよぶ域をはるかにこえている。
おでかけからかえってきたとき、
外の塀からジャンプして着地すると
ネコとはとてもおもえないおおきな音がする。
足の骨がおれてしまわないかと心配だし、
そもそも極度の肥満がからだにいいわけがない。
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お腹だけでなく、いまや背中にもあつく肉がつき、
あの寒村でなくても「食用なのでは」という気がしてくる。
わたしはチャコの脂肪をまさぐりながらはなしかける。
このかたまりはなんとかしたほうがいいんじゃない?
ここがあの、1933年のロシアの村でなくて
あんたほんとによかったね。

posted by カルピス at 21:45 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月21日

『カンボジア自転車旅行』(平戸平人)自転車旅行にでかけたくなる

『カンボジア自転車旅行』(平戸平人・連合出版)

いい旅をしたひとのはなしをきくと(よむと)
うらやましくなり、自分でもそんな旅がしたくなってくる。
わたしにとっての「いい旅」とはなにか。
自分の能力を最大限につかって
旅さきの土地にどっぷりつかることだ。

著者は55歳で退職し、翌年の2007年に、
1ヶ月をカンボジア、そのあとさらに1ヶ月をタイとラオスを自転車でまわっている。
それまでそうした旅行をしたことがなかったひとが、
56歳という年齢で、なんでこんなにいい旅行ができたのだろう。

わたしがきょねんアンコール遺跡をたずねたときは、
トゥクトゥクやバイクタクシーによる移動がほとんどで、
自転車はレンタサイクルを半日利用しただけだ。
このひろい国を自転車でまわろうなんて、かんんがえもしなかった。
平戸さんはしかし、カンボジアはちいさな国と紹介し、
バイクタクシーもいかないような奥地への移動もためらいがない。
車のとおりがすくなく、たいらな土地がおおいカンボジアは、
自転車旅行にむいた場所かもしれない。
でも、人がすくないということは
それはそれでこわいこともあるはずだけど。

平戸さんのすごさを紹介すると、
カンボジアでの1ヶ月のあいだにはしった距離は2000キロ。
いちにち平均85キロから90キロで、
最長の走行距離は150キロとなっている。
わたしの不名誉な数字をひきあいにだすと、
33歳のときに自転車旅行をしたマレーシアで、
いちにちに157キロはしってヘロヘロになった。
たいらな行程だったにもかかわらず、
そのあとの5日間はつかいものにならず、
ほとんどゲストハウスでねてすごしたことをおぼえている。
56歳ではじめて自転車旅行をされたということなのに、
体力も判断力も、ベテランの旅行者のようだ。

文章もこなれている。
19世紀のイギリス人がかく旅行記のように、
旅行先でのできごとがものすごくこまかくかいてある。
ルポルタージュのように、大切なところだけに焦点をあて、
あとはかるくながされると、よんでいるほうは欲求不満になる。
旅行ずきな自転車のりとしては、
どうでもいいようなこまかいところもしりたいのだ
(ものの値段とか、町のようすとか)。
はじめてとはおもえないかきなれたふではこびだし、
旅行のすすめ方から平戸さんの誠実さがつたわってくる。

すぐ音をあげるのがわかっていながら、
わたしもまたこんな旅行をしてみたくなった。
平戸さんのつぎの著作がたのしみだ。

posted by カルピス at 21:23 | Comment(0) | TrackBack(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月20日

『八日目の蝉』いまさならがら角田光代をはじめてよむ

いやーすごかったわ。
『八日目の蝉』。
はじめてよむ角田光代の本。
よんでいるうちに、これはたいへんな本だということがわかってくる。
うちのめされた、なんてうすっぺらなことはいいたくないけど、
わたしの貧弱な語彙ではとてもいいあわらせられない。

魂のふかいところをかきこんでいるので、
よんだあとは、もうなんだっていいような気になってくる。
不倫相手の子を誘拐しようが、
家族の気もちがばらばらになってようが
すべてがたいしたことではない、みたいな。
たいしたことではない、とおもわせておいて、
あとでぜんぶ救済してしまうから角田光代はすごいのだけど。

魂、なんてもっともらしいことをいいながら、
希和子が薫をつれて逃亡するときにかんがえたのは、
わたしだったら4000万円をどうつかってにげるか、という俗なことだ。
希和子が新興宗教のグループに寄付してしまったことは
かえすがえすも残念だった。
わたしなら・・・、どうしただろう。

おなじ逃亡をあつかった本でも、
主演(助演?)の深津絵里にひかれてよんだ『悪人』よりずっとふかい。
これまで角田光代をよまなかったのはもったいなかった。
しばらく角田光代の本にひたっていこう。

posted by カルピス at 21:41 | Comment(0) | TrackBack(0) | 角田光代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月19日

陽なたでの勉強会

陽なたの竹内さんが、
放課後等デイサービス開設の準備をすすめるわたしたち2人に
自閉症の障害特性について講義をしてくださる。
7月までの数週間で、
芯となるかんがえ方をおさえなければならない。
きょうのテーマは、自閉症のひとは学習するときに
どういう特徴をもっているか。
これまでいろいろな研修に参加してきたものの、
そこでえた知識が整理されていないわたしにとってありがたい機会だ。

竹内さんのおはなしをきいていると、
わたしたちがあたりまえとおもって理解していることが
よくかんがえてみると、すごいことなのがわかる。

あらかじめつみきをひとつ手のひらにおいたひとが、
「わたしの手のひらに、3つのつみきをおいてください」
といったとき、
なぜわたしたちはそのことばの意味を理解し、
2つだけつみきをくわえるのだろう。
自閉症のひとはこうしたことばがけがにが手で、
字義どおりに3つおいてしまう。
でも、ほんとうはそっちのほうが自然な理解ともいえる。

自閉症は脳の認知の領域の機能障害といわれていて、
支援するわたしたちは、
そうした特徴を理解したうえで、
ひとりひとりにあったつたえ方をすることがもとめられる。
よく、みせるとつたわるといわれているけれど、
ただカードをみせればいいというものではなく、
そのひとにあったみせ方を工夫しないとつたわらないのだ。

2時間の講義がおわり、陽なたをはなれるとき、
竹内さんは「吉田さん、がんばってね〜」と
手をふってみおくってくださった。
わかれの挨拶というよりも、
児童デイの開設を準備しながら
安心しておくりだすことができないわたしに対して
「もっとしっかりね」という激励だった。
激励だと、わたしの脳は処理した。

posted by カルピス at 22:19 | Comment(0) | TrackBack(0) | 児童デイサービス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月18日

いい家はありませんか? 事務所さがしのいちにち目

放課後等デイサービスとしてつかう家をさがしに、
パートナーと不動産屋さんをたずねる。
開所するのは7月からだけど、
事業申請をするには拠点となる場所がきまっていないといけないので、
これからの日程にあまり余裕はない。

こちらの条件としては、
あたらしからずふるからず、
あまり交通量のある地域ではなくて、
駐車場に余裕があるところ。
もちろん家賃とのおりあいも必要だ。
不動産屋さんのパソコンに、
候補となる家がいくつかあがってくる。
あんがい対象となる物件があるものだと安心し、
そのいくつかについて相手側の不動産屋に確認してもらう。

「こんな家もあります」と、
はなしのついでに紹介された家は、
いろいろな点でわたしたちがさがしている条件をみたさなかったものの、
5万円とやすいうえにおもしろそうな外見だった。
児童デイを成功させて、その家をかくれがとして採用したくなる。
家さがしはたいへんだけど、不動産屋さんに足をはこぶと、
おもってもない場所に雰囲気のある物件があることがわかる。
そんな家をかりるだけで、
かんたんにこれまでとちがう生活をはじめられるような気がしてたのしい。

午後からは、外からだけでもみてみようと、
不動産屋でもらった地図をみながら現地にでかける。
じっさいにおとずれてみると、
家のある地域の雰囲気がわかるし、
子どもたちがつかうのに適切な建物であるかどうか、
なにがしかの印象をえることができる。
きょうみた家は、1軒はつかいがってがわるそうだったし、
もう1軒はあたらしすぎてつかうのがためらわれるような家だった
(心配しなくても、相手側からことわられたけど)。
簡単にはみつからないかも、という気がだんだんしてくる。

不動産屋さんに案内してもらい、
1軒の家は建物のなかもみせてもらった。
1階にダイニングと6畳間、
2階にも2部屋と、わるくはないけど
もうひとつこちらの胸にせまってくるものがない。
せっかくつれていってくれた不動産屋さんにもうしわけなくて、
「なにかこう〜」とわけがわからないことをモゴモゴいってことわる。

いまはパソコンに物件が登録されているので、
あちこちの不動産屋をまわらなくても
おなじ情報を手にすることができる。
いい物件がでてきたら連絡してもらえるようおねがした。
また、「不動産ナビ」のサイトでしらべることができので、
自分たちのパソコンでもチェックすることをすすめられる。
いいであいがありますように。

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2012年05月17日

転職本というジャンル

『本の雑誌6月号』の特集は「華麗なる転職」だ。

巻頭特集は座談会による出版社求人広告のよみくらべで、
「徹底調査!」などとおもしろがっているものの、
そうよませる内容ではない。
紹介されている求人広告をみると、
斜陽産業といわれる出版業界でも、
介護職よりも条件ははるかによさそうで、
やっぱり、というか、うらやましいというか。

じっさいに転職を体験したひとの感想ものっている。
1つが出版社をやめて漁師になったひとのもので、
もうひとつは銀行をやめて編集者になったひとがかんじていることだ。
漁師になったひとは、隠岐の海士町に移住されているので、
島根県民としてすごく興味ぶかい。
わたしは船よいするので漁師になろうとおもったことはないが、
いい職場だったら(どの仕事でもいえることだけど)漁師もおもしろそうだ。
いい面をみれば早寝はやおきで、
からだをよくうごかすからごはんもおいしいだろう。
わるい面をあんまりかんがえると転職なんてできない。

転職をあつかったおもしろ本の紹介は、
大矢博子さんの
「覆面介護師からスパイまで
転職小説は気持ちいい」がある。
大矢さんにいわれてみると、
本のおおくは転職をあつかっていることに気づく。
本棚をみると、転職本だらけだ。
たとえば、村上春樹だけをとっても、『羊をめぐる冒険』と
それにつづく『ダンス・ダンス・ダンス』、そして『ねじまき鳥クロニクル』では「僕」が仕事をやめてあたらしい仕事をはじめる立派な転職小説といえる。
仕事をかえるということは、
そのひとの人生におけるおおきな転機であることがおおく、
本のなかで主要なできごととなりやすい。
おおくの転職は、たいへんだけどやりがいのあることとしてかかれており、
わたしがこれまでになんどか転職しているのは、
そうした本の影響があるのかもしれない。
おもしろいほうに人生をころがそうとするときの、
具体的な第一歩は転職なのだろうか。

posted by カルピス at 22:25 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月16日

ラジオから藤圭子の声がながれてきた

車のラジオからスローテンポでかすれた、
でもつやのある声がながれてきた。
「15、16、17と・・・」。
藤圭子だった。
何十年ぶりにきく「圭子の夢は夜ひらく」は、
なんともいえないすごみがあって
おもわずききほれてしまう。
ねっとりとたたみかけてきて、彼女の世界にとりこまれる。
演歌にはきこえない。こういうのをブルースというのだ、と
とっさにおもう。

しらべてみると、藤圭子が19歳のときにうたった曲だ。
19歳でこんな声でうたい、こんな歌詞をこなしてしまうなんて。
目的地までついても車からおりれずに、そのままききいってしまう。
ほかの曲がどうなっているのかしりたくなって、
ツタヤでベストアルバムをかりてきた。
残念ながら、「圭子の夢は夜ひらく」以外はどまんなかをゆく演歌だ。
この曲だけが突然変異でうまれたように異彩をはなっている。

この曲と、うたわれた1970年という時代とは関係がない。
藤圭子がこの曲にであい、あの声でうたったことがすべてだ。

posted by カルピス at 22:06 | Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月15日

又村あおい流、攻略講座。児童デイサービスをどうするか

先月の講演会ではなしをきくことができた又村あおいさんのサイトから、
「自立支援法攻略講座」をダウンロードする。
講座の1つに「どうなる?児童デイサービス」というのがある。
よんでみると、わたしがつとめていた事業所が、
制度の変更とともにたどってきた道について、
そっくりそのままかかれていた。

・それまでの制度(支援費制度)では
 ひとりあたり1日5400円だったのが、
・自立支援法にかわると児童デイUというわくぐみにいれられ、
 おなじサービスをしても4070円しかもらえなくなった(1330円の減額)。
・それでは児童デイをつづけられないので、
 日中一時支援という別のサービスにきりかえる事業所がでてくる。
・しかし、日中一時支援はただあづかるだけしかできない単価設定になっており、
 満足のいくサービスをうけることができない。
・「荒技」としてガイドヘルプを60時間だしてもらう手もあるかも。

どれも必然のながれとして、
制度がみなおされるたびに
わたしたちがやってきたことだ。

児童デイサービスをやっている事業所が、
いかにたいへんな条件でつづけているか、
又村さんは具体的に数字をあげて説明されている。

身もふたもないはなしながら、
障害者福祉はいるお金がきまっており、
10人定員なら、
4,070円 × 10人 × 20日 = 814,000円 
1ヶ月に814,000円以上のお金がはいることはない。
そのお金で家をかり、光熱水費をはらい、
送迎車をもち、その他の必要経費をしはらう。
のこりのわずかな金額で職員をやとわなくてはならない。
手どり15万円という給料でつづけられる職員はすくないので、
サービスを提供する事業所へっていく。
子どもたちが放課後や夏やすみにすごせる場所を確保するためには、
だまっていないで行動をおこさなければならない。

今年の4月からの制度改正で、
単価設定がみなおされている。
だからこそわたしたちはこの事業をはじめることができるのだが、
それにしてもまだじゅうぶんな額とはいえない。
くるしい状況にかわりはなく、
そのなかで、どう児童デイサービス(いまは放課後等デイサービス)
にしかできないサービスを提供するかを
わたしたちはあきらかにする必要がある。

この攻略講座は、利用者や事業者が、
行政のいいなりにならないで、
自分たちの要望をとおすためのテクニックがかかれている。
また、障害者サービスについての
基本的なかんがえ方がよくまとめられており、
わたしたちが事業をはじめるにあたって
論理的な武装をたすけてくれるだろう。

posted by カルピス at 23:57 | Comment(0) | TrackBack(0) | 児童デイサービス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月14日

むすことのトレーニングで『初秋』を体験する。カフカ少年もすこし

中3のむすこを体育館でのトレーニングにさそう。
土曜日が参観日だったため、きょうが振替休日なのだ。
たいして期待せずさそったのに、
意外にもむすこは「いいよ」とこたえた。

一般的にいって、むすこができたときに男親は、
いっしょになにをしたいとおもうものだろう。
わたしにとって父親になるということは、
むすこといっしょにキャッチボールをすることだった。
むすこが5歳くらいになり、
じっさいにキャッチボールをする機会をもてたときは
わたしがイメージしていた父親に
なんとかほんとうになれたことがうれしかったものだ。

トレーニングについては、
とくにイメージやねがいがあったわけではない。
とはいえ、15歳のむすこといっしょにからだをうごかせたのは、
わたしにとって、得がたいできごととだったとおもう。

わたしの頭をかすめたのは
「スペンサー」シリーズの『初秋』
(ロバート=B=パーカー・ハヤカワ文庫)だ。
なにかの事情でスペンサーが15歳の少年をあづかることになり
ログハウスをつくったり、料理をすることを体験させる。
そのなかで、バーベルをつかったトレーニングもおこなわれたのだ。
はじめはかるいバーベルでもあげられなかった少年が、
しばらくするとあつかうウェートがふえ、からだつきもかわってくる。

むすこはベンチプレスがはじめてだったようで、
30キロをあつかうのがやっとだった。
まさしく『初秋』にでてくる少年のレベルだ。
ベンチにねころがった姿勢で
バーをもちあげるこの種目は、
なれないとちからのだし方がわからずやりづらい。
はじめてのときは、わたしもこんなものだったかもしれない。
ベンチプレスにかぎらずウェートトレーニングはフォームが大切で、
それにもちろんつづけなくては効果がでない。
きょうは、こういうトレーニングがあることを
むすこに紹介できたことでよしとしよう。
それに、このさき彼がトレーニングをつづけるときは、
親ではなく、だれか他人とのかかわりのなかで
(スペンサーとまではいわないが)
体験するべきことだろう。

ひととおりウェートトレーニングをしてから、
トレッドミルにのって10キロはしる。
これもなれないとはしりにくいので、
おわったらモスバーガーへいこうとニンジンをちらつかせる。
これはわたしにもいい目標となり、
ヘロヘロになってなんとかはしりおえる。

家にかえってモスチーズバーガーをたべ、ひといきつく。
モスの店でたべなかったのは
すぐにからだをやすめたかったからだ。
つかれをかんじながら昼寝をたのしみにコーヒーをのんでいると、
むすこはすぐにあそびにでかけていってしまった。
すぐにうごけるわかさに感心し、ぐったりしながらわたしはみおくる。

もうひとつ頭にうかんだのは、少年カフカ君だ。
『海辺のカフカ』のなかで、
家をでた15歳のカフカ少年は
四国の高松でトレーニングジムにかよいながらしばらくすごす。
カフカ少年は、むすこよりずっと成熟してるけど、
あいつはあいつなりにいろんな問題をかかえているのだろう。
むすこがこれからどんな人間にそだっていくのか、
わたしはそれをどこまでみとどけられるのか。
15歳のむすこといっしょにトレーニングをする父親の頭のなかは、
雑念でいっぱいだ。

posted by カルピス at 21:42 | Comment(0) | TrackBack(0) | 家族 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月13日

「しりしり」はBプラスで、「ラーメンサラダ」はCマイナス

「作家の口福」というコラムで(朝日新聞土曜日版)、
円城塔さんが「しりしり」という料理を紹介されていた。
ほんとうは「しりしり」が料理名かどうかわからないそうだ。
「しりしり器」という、いわゆるスライサーをつかってつくるので
こうよんでいるという。

円城さんはこの料理を大絶賛だ。
下手に手をかけたおかずよりうまいところが問題だ。(中略)
宇宙人が地球侵略のためにつくりだした兵器なのかもと少し疑っている。

と、たいしておもしろくもない冗談をかきたくなるほどおいしらしい。

で、さっそくつくってみた。

・スライサーで2本分のニンジンをおろし、
・それをツナ缶の油でいため、
・火がとおったらツナをいれてさらにいため、
・塩コショウとダシ、それにしょうゆで味つけをする。
・しあげに卵を2ついれてかきまぜる。

これでできあがり。とても簡単だ。
そして、絶賛するほどおいしいかというと・・・、
わるくはない、という程度だろうか。
きょうつくったのは、味つけがうすかったので、
もうすこしこゆくすればご飯にあうかもしれない。
ただ、円城さんのおうちのように常備菜として、
それも主菜の地位をねらおうかというキラーおかずとして
冷蔵庫に常駐させるほどのできではなかった。

このまえは「ラーメンサラダ」をつくってみた。
料理とは全然関係ない本のなかに、
たまたまつくり方がでていた。
クックパッドでもしらべてみると、
アメリカではあんがいポピュラーな存在のようだ。
これもつくり方はすごく簡単で、

・インスタントラーメンをこまかくくだき、
・それにツナと生野菜をまぜる。
・味つけはマヨネーズで、
・やわらかくなるまで全体をかきまぜる。これだけ。

インスタントラーメンをつかうところがおもしろそうなので
すぐにためしてみた。
しかし、これはかなり問題のある料理だった。
家族にもまったく不評で、冷蔵庫にいつまでものこっている。
むりにすすめるわけにもいかず、
わたしひとりがさいごまで責任をとってたべなければならなかった。
ツナと生野菜が材料なので、たべられないことはもちろんないが、
やわらかくなったメンとのくみあわせがよくない。
インスタントラーメンがパリパリいっているうちにたべれば、
もうすこし食感がいいのかもしれない。
これがサラダとしてポピュラーなのは、
いかにもアメリカというかんじだ。
そして、日本でこれがはやらないのも当然だとおもった。

2つの料理に共通するのはツナ缶だ。
だれの口にもあい、まぜればできるので
簡単な料理には重宝するのかもしれない。
『奇跡の自転車』(ロン=マクラーティ・新潮社)には、
ツナサンドばかりたべる主人公がでてくる。
彼がすすめるつくり方をためしてみると、
ほんとうに、ぜんぜん別物のおいしいツナサンドができあがった。
ポイントは、

・セロリをいれること
・レモンをしぼること
・マヨネーズをかけすぎないこと

という3点だ。
「しりしり」より、それに「ラーメンサラダ」より、
こっちのツナサンドがずっとおいしい。
さきにあげた2つの料理でがっかりしたら、
このツナサンドをためしてみてください。

posted by カルピス at 21:40 | Comment(2) | TrackBack(0) | 料理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月12日

ベタな純愛作品だけど、でもみせる『サンザシの樹の下で』

『サンザシの樹の下で』(チャン=イーモウ監督・2010年中国映画)

毎月第2土曜日におこなわれる「名画上映会」にでかけた。
『初恋のきた道』のチャン=イーモウ監督の作品だ。

文化大革命下の中国が舞台の恋愛映画。
町からやってきたわかい2人が農村でであい、恋におちる。
党にしられぬようひとめに気をつけ、
親に反対されながらもじわじわと愛をあたためる。
しかしなんということか、男は白血病に。

あらすじをかいていると、
はずかしくなってくるようなベタなストーリーなことに気づく。
実話がしたじきということで、
そうでなければありきたりすぎて、
企画の段階で却下されそうだ。
でも、そのベタさがぜんぜん気にならないのだから、
チャン=イーモウ監督の演出がすぐれているのだろう。

主役のジンチュウがとにかく初々しい。
手をつなぐのもはずかしくて、
木の枝をかいしてつながっていたのに、
自分から相手の手をもとめたり、
病院へおみまいにたずねとき、
規則だからとおいだされても、
門のところで一夜をあかしたり。
相手をおもうつよい気もちが
みかけによらぬ行動力をうみだしていく。

自分のことよりも相手をつよくおもう気もちが愛だ、
なんてことを、映画ではひさしぶりにかんじた。
わたしはこういう愛によわく、
イチコロで感情移入してしまう。
自分でもそうしたいし、そうされたいという中年男のねがいが
このさきかなうことがあるだろうか。

ドルトムントの香川によくにた相手役、スンの演技もいやみがない。
ジンチュウのお母さん役もすごくリアルだったし、
でてくる子どもたちのふるまいも自然で、演技にみえない。
これはほかの中国映画をみていてもかんじることで、
役者のちからをひきだすうまさについては、
中国映画のレベルはかなりたかいのではないか。

毎月の名画上映会には、
よほど自分にあわないとおもわれる作品以外
だいたいでかけている。
きいたこともないタイトルの作品に2時間をあけ、
日常からはなれて劇場の椅子にすわるのは、
できそうでいて、なかなかできないありがたい時間だ。

posted by カルピス at 18:49 | Comment(1) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする