2012年05月11日

MacBook Pro15インチの初期設定 10.7はありがたくない

MacBook Pro15インチがとどく。
さっそくいまメインでつかっているMacBookからのひっこしにとりかかった。
ところが、これがなかなかうまくいかない。
これまでだと、ファイヤーワイヤーで2台のパソコンをつないで転送していたのが、
いまは無線のネットワークですませようとする。
それが、なんどやってもとちゅうでとまってしまい、さきへすすまなかった。
けっきょく、いったん初期設定をすませてから、
あらためて転送アシスタントをつかってひっこしをすませる。
MacBook とおなじ画面があらわれたときにはホッとした。

問題はほかにもある。
システムが10.7になったので、
これまでつかっていたファイルメーカー8とエクセル2004、
それにフォトショップなどのふるいソフトは
ぜんぶひらけなくなってしまった。
10.6でぜんぜん問題なかったのに、
10.7になったばかりに、わざわざ不自由を手にいれたかんじだ。

ファイルメーカー11を100満ボルトにみにいくと、3万9900円もする。
さすがにたかすぎるので、アマゾンでさがすと、1万2000円でかうことができた。
エクセルはオープンオフィスですますことにする。
エディターは、さいわいJeditXがこれまでどおりつかえるし、
iWork'08もひらくことができた。
とりあえずはこれで、
これまでとおなじ環境でつかう準備がととのったことになる。
せっかくあたらしいパソコンがとどいたのに、
手ばなしでよろこべないのはつまらないことだ。
これまでのことは「なかったこと」にして、
うすくてかっこよくてスマートなMacBook Proをもてたしあわせにひたろう。

といっておきながらなんだけど、
こうしてみると、いまつかっているMacBook は
これはこれでよくできたパソコンだ。
Pagesで何枚ものおたよりをつくったり、
エクセルをいっぱいにひろげて仕事をするのでなければ
13インチというサイズでなにも不満はない。
このMacBookは、あたらしくはじめる事業所で活躍してもらう予定だ。
まだまだ現役ではたらくちからがあるので(人間でいえば35歳くらい)
ひろいモニターにつなぎ、
メインのパソコンとして再スタートをきってもらおう。

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2012年05月10日

シーズン終了間際のミラノダービー

206回目のミラノダービー。
これまで72勝72敗64分けと、
まったくのイーブンなのだそうだ。

前半終了間際に、インテルのゴールキーパー、
ジュリオ=セザールがファインセーブをみせる。
しかし、審判はこのプレイに対してイエローカードをしめし、PKとなった。
ジュリオ=セザールがはげしく抗議するものの、
もちろん判定がくつがえされることはない。
ここからのかけひきにみごたえがあった。
ジュリオ=セザールはなかなかゴールまえにたたないで、
おちつきをとりもどせる時間をかせぐ。
つぎにキッカーのイブラヒモヴィッチにあゆみよって
笑顔ではなしかけた。
表情は笑顔なわけだけど、内容はあきらかに挑発であり、
にっこりわらいながら、おおきく舌をだしてからかっている。
しかしイブラヒモヴィッチは完全に無視して集中をたもつ。
ゴール左すみにするどいキックをきめると、
こんどはそのイブラヒモヴィッチが
ジュリオ=セザールにむかって2倍にやりかえしていた。
味方選手が「まあまあ」と、とめにはいるぐらい
しつこく、はげしいいいあいだ。

後半がはじまると、発煙筒のけむりがピッチにおりてくる。
ボールのないところでも
ピッチのあちこちで選手たちははげしく衝突し、
ひとつひとつのプレイにサポーターがおおきくどよめく。
ダービーらしい異様な雰囲気だ。

後半開始早々の1分に、
ゴールまえでパスをうけたイブラヒモヴィッチが、
ダイレクトでボールを横にさばき、
それと同時に自分もその方向にダッシュして
インテルのディフェンダー2人をおきざりにする。
キーパーと1対1になり、おちついてシュートをきめた。
195センチのイブラヒモヴィッチがボールをもつと、
ふところがふかく、ボールさばきがたくみなため
まもる側にするとすごくやっかいな選手だ。
そして、すくないチャンスをこんなふうに
たかい確率でものにしてしまう。
メッシとはぜんぜんちがうタイプの、
ストライカーちゅうのストライカーといった風格がある。

この試合、長友はフル出場し、4−2の勝利に貢献した。
長友がインテルでプレイするようになって2シーズンがたち、
インテルのメンバーとしてあたりまえの存在になった。
とはいえ試合からはずれる時期もあったわけで、
はげしい競争のなかを生きぬくことができたのだろう。
ヨーロッパには38歳のサネッティみたいに、
ときどきとんでもなくベテランの選手がいるので、
長友にもずっと強豪リーグでプレイしてもらいたいものだ。

インテルは、この試合にかったことで、
チャンピオンズリーグへの出場に、最終戦までのぞみをつなぐ。
おなじ時間帯におこなわれていたユベントス対カリアリの試合で
ユベントスが2-0でかったため、ユベントスの28回目の優勝がきまった。
今シーズンの37試合を、まけなしの22勝15分でおえたことになる。
37試合でまけなしなのに、あまりそのことが評価されているふうではない。
セリエAではよくあることなのだろうか。
参加チームのレベルにあまり差がないJリーグではかんがえられない。

posted by カルピス at 22:28 | Comment(0) | TrackBack(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月09日

「中途半端力」

おれの体力って、ほんとつかいものにならないなー、とおもっていたとき、
ふと「特技:中途半端な体力」という自虐的なことばが頭にうかんだ。
どういう意味かというと、
どの競技についても、とくにスピードがあるわけではなく(ぜんぜんない)、
かといって持久力にすぐれているわけでもない。
『BORN TO RUN』でしられるタラウマラ族は、
マラソンの42.195キロくらいではみじかすぎて
長距離にひいでているかれらの特性をいかせないという。
わたしのはもっともっとひくいレベルのはなしだ。
才能よりも練習量がそのままあわられやすい長距離だと、
すこしはつけいるスキがでることを期待できる。
まったく体力がないわけではないけど、
客観的にいってその中身は特徴がなく、
ほとんど役にたたない中途半端なものでしかない。

かんがえてみると、中途半端なのは体力だけではない。
読書にしてもそうだし、パソコンついても、
さらにいえば本業の障害者介護についてもおなじことがいえる。
本はすきだけど、なにかのジャンルを
とりわけふかくほりさげているわけではない。
パソコンも、ひととおりのことはできるけど、
いっぽつっこんだ専門的な知識が必要なときにはまるで役にたたない。
どの対象についても、ただ、ひろく、あさく、
そこそこの知識と経験があるだけだ。

わたしはきっと、
この状況をこのんでまねいているのだ。
なにかをつきつめるより、ひろく・あさく、
目さきのたのしさにひかれてしまう。
それをくりかえし、つみかさねて、
できあがったのがわたしという人間だ。
ひらきなおるわけではなく、いまさらどうしようもない。
これでやっていくしかないのだ。

以前はやった力に「老人力」がある。
ほかにも「断る力」や、かわったところでは
「飽きる力」なんていうのもあった。
わたしは高野秀行さんが提唱する「間違う力」がすきで、
まちがわずにすませようとするよりも、
まちがったほうが人生をたのしくするとかんがえている。

というわけで、なにについても中途半端なわたしには
「中途半端力」をとなえることがゆるされるだろう。
一流であることや、突出した能力をめざすよりも、
「中途半端」ですますことこそが
平凡なしあわせにむすびつく。
バランスがだいじ、などという、
もっともらしいことばはつかいたくない。
どうしようもなく中途半端な状態にたどりついてしまうことを、
あまり役にたたないもののほこりとして肯定的にとらえたい。

posted by カルピス at 23:59 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月08日

ウィーンにネコカフェ。アルジェリアにはネコ大使館。わたしはネコによびとめられる

ウィーンに「ネコカフェ」ができたことを
今朝の朝日新聞がつたえている。
在住20年になる日本人女性がひらいたお店なのだという。
うちにいるチャコそっくりなトラネコを、
お客の女性がなでている写真がのっていた。
120508チャコ.jpg
「50席の店内で5匹の猫が思い思いに過ごす。
床に寝転がったり、客のひざの上に飛び乗ったり」

ということで、ネコとのコミュニケーションをもとめるひとは
日本だけでなくどこにでもいるようだ。

気になることがいくつかある。
スタッフとして店にいるネコたちは、
どういう経緯で採用されるのだろう。
ウィーンの店のネコたちは、

「地元の動物愛護協会で保護する数百匹の中から、
特に人なつこい猫を譲り受けた」

とある。
日本ではどうなのだろう。
ネコカフェは日本に150店あるそうなので、
すでにシステムがととのっているにちがいない。
目ききのスカウトがいて、
かわいいネコのいる家をたずね「商談」がおこなわれてたりして。
お店にかよう(あるいは「すむ」)ネコたちが、
同僚とうまくやっていけるかも心配だ。

わたしがもしネコカフェにはいったら、
ネコの気をひこうとサービスにつとめ
とてものんびりなんかしていられないだろう。
よくいくカフェにたまたまネコがいた、
という状況ならそう逆上しないだろうに、
これからネコカフェにいく、と
かんがえただけでそわそわしてしまう。
そうした客の気もちはほっといて、
ネコたちは気ままにふるまうのだろうか。

ひとの気もちはともかく、ネコのもとめることが
わたしはかなりわかるほうで、
自慢ではないが(自慢だけど)、
何日かまえにあるいてかいものにいくとちゅう、
ぜんぜんしらないネコによびとめられた。
玄関先にすわったそのネコは、
わたしにむかって「ニャゴニャゴ」はなしかけ、
自分のほうにくるようもとめる。
おなかがすいているのかとおもったけど、
毛の色つやはよく、ぜんぜんやせてなんかいない。
ひとなつっこいというか、あまえんぼうというか、
わたしの手をあまがみしたり、
ゴロンとよこになっておなかをなでるようにさそったりする。
いっしょにいるだけでゴロゴロとノドをならし、気もちよさそにしてくれる。
ついにネコによびとめられるようになったか、と感慨ぶかく、
正直いってうれしかった。
DSCN0945.jpg
カフェではなく、大使館にいたネコについて。
アルジェリアのビザをとろうと、
モロッコにあるアルジェリア大使館をたずねると、
そこにはすごくたくさんのネコがくつろいでいた。
机のうえにだらしなくねそべっているネコもいて、
職員のひとは書類をひろげることができない。
これはさすがにおこっておいだすのではないか、とみていたら
めんどくさそうにネコをむこうがわにおしやって(ネコはねころがったまま)
そのまま仕事をつづけていた。
あとで「斎藤夫妻」の漫画『バックパッカー・パラダイス』をみると、
アルジェリア大使館でのまったくおなじ体験がかいてあった。
月日がたっても、かわらないことはかわらない。

大使館がそうだから、アルジェリア本国でも当然ネコたちの地位はたかい。
まともなホテルがそこしかなかったので
しかたなく5つ星のホテルにとまると、
ロビーにおいてある植木の鉢でネコが堂々とおしっこをしていた。
注意するひとはだれもいない。
あの大使館にしてこの国あり。
みごとにネコの自由が保障されている、
ネコ天国の国だった。

わたしが以前つとめていた施設には
何匹かのネコがすみついていた。
全盛期(といっていいのか)には5匹いて、
視線をうつすたびにネコが目にはいってくるので
見学におとずれたひとたちに
「ずいぶんたくさんネコがいますね」と
ほめられた(たぶん)ことがある。
あのままネコたちにいごこちよくすごしてもらえたら、
そっちのほうで有名な施設になっていたのだろう。
いまはむかしのはなしだ。

posted by カルピス at 22:38 | Comment(0) | TrackBack(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月07日

お茶にご縁のある5月『お茶からお茶へ、旅から旅へ』(伊藤ユキ子・新潮OH!文庫)

『お茶からお茶へ、旅から旅へ』(伊藤ユキ子・新潮OH!文庫)

女性による旅行記はにがてなので
(たいしたことをしたわけでもないのに
大冒険をきどるひとがおおい)すこしまよったけど、
著者のプロフィールに「島根生まれ」とあったのでかうことにした。

出雲そだちということもあってか、
ほんとうにお茶がすきなひとだ。
お茶であるなら、紅茶・緑茶・中国茶をとわず、
とにかくどんなものにでも興味をしめすし、
その、のみかたまでが伊藤さんの関心をかきたてる。

『オール・アバウト・ティー』というお茶について権威のある本に

「ブハラの人は、茶葉を小さな袋に入れてもち歩く。
喉が渇いたら、無数になる茶店のなか、
最も近いところを探して、お茶をいれてもらう」

とかかれているのをよむと、
ウズベキスタンをたずねないわけにいかないし、

ひるごはんが「正餐」であったころのハイティーにこだわり、
正統なハイティーをもとめてスコットランドをおとずれたりしている。

どのお茶についてもすごくおいしそうにかいてあるので、
この本をよんでいると、まともな紅茶をのみたくなってくる。
ネットで伊藤さんについてしらべたら、
松江にあるお店でだされた本格的なクリームティー
(紅茶とスコーンのセットで、クロテッドクリームと
ジャムが添えられる※ウィキペディア)
のことをほめておられた。
近所だし、まえにもいちどいったことのある店だ。
ひとりでお店にはいるのはすこし抵抗があったけど、
伊藤さんも旅さきではひとりのこともおおかったにちがいない。
文庫本を用意して、ひとりで席につく。
クリームティーを注文すると、
おおぶりのティーポットに牛乳(つめたいもの)、
それにウィキペディアにあるとおり、
クリームとジャムがスコーンにそえられている。
おいしかったし、997円という値段も、
イギリスにいくことをおもえばたかくはない(といいきかす)。

5月はお茶にご縁がある時期のようで、
きょうはしりあいにさそわれて
お茶つみの手つだいをさせてもらった。
機械による新茶のかりとりで、
わたしの役割は、お茶の葉が袋にたまってくると、
それを運搬用の車まではこぶ、というものだ。
おおきくて白い袋をかついでいると、
どうしてもサンタクロースをおもいうかべる。
じっさいに自分がそうやって袋を背おってみると、
サンタさんがいかにちからもちなのかわかる。
おもたい袋を背にすると、
どうしても下をみながらトボトボあるく
しょぼい風景になりがちだ。
子どもたちのまつ家にむけて胸をはり、
機嫌よくあるきまわるのは、そうかんたんなことではない。
サンタさんになりたいひとは、熱意だけにたよるのでなく、
お茶つみが絶好の練習になることをしっておくべきである。

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2012年05月06日

父娘で加藤ミリヤって・・・すごい

生活介護での移動中、車のラジオから
太田広美の「木綿のハンカチーフ」がながれてきた。
わかい女性職員に、
「この歌しってる?」ときくと「しりません」という。
まあそうだろうな。もう30年もまえにヒットしていた歌謡曲だ。
かんたんな曲の説明と、だからこそ
わたしはこの曲がきらいなることをはなす。

きらいということはマイナスの感情であり、
ひとにむかってそう力説するものではない。
音楽の話題がでたついでに、
その女性職員がすきな歌手をたずねると、
「加藤ミリヤ」とおしえてくれた。
わたしのしらない歌手だ。

「じゃあ、お父さんは?」とたずねる。
彼女のお父さんは、たしかわたしよりわかい。
彼女が父親のすきな曲をしっているか、
また、それをどうとらえているかをしりたいとおもった。
それがなんと、お父さんも加藤ミリヤがすきなのだそうだ。
娘と母親がなかよしで、
おなじ歌手をすきなのはイメージできるけど、
21歳の娘と父親がそろって加藤ミリヤだなんて。
「父か娘の、どっちかがおかしいんじゃないの」と
とっさにネガティブな反応をしてしまった。
理由は・・・わからないけど
(なかのよい父娘をひがんでいるだけなのか)。

彼女が、お父さんのすきな歌手として
演歌歌手の名前なんかをあげてくれたら、
その年よりくささをわらおうとしたのに、
わたしよりずっとついていっている。

家にもどってから加藤ミリヤの曲をネットできいてみる。
たしかに耳にしたことはあるけど、
そう印象にのこる声ではない。
AKB48のメンバーのみわけがつかないように、
わたしにとって女性歌手がうたう曲のおおくは
おなじようにきこえてしまう。
わたしのよわいジャンルであり、そんな人間に
加藤ミリヤのことをどうこういえるわけがない。
「木綿のハンカチーフ」や演歌をくさす
ステレオタイプな思考ではなく、
柔軟にいろんな曲をきいておかないと、
脳が硬直してしまいそうだ。
AKB48はさすがにかんべんしてほしいけど。

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2012年05月05日

「ほぼ日手帳」をどういかしていくか

『シゴタノ!手帳術』(倉下忠憲・北真也 東洋経済新報社)

ほぼ日手帳を中心に、
クラウドとアナログツールをどういかしていくと、
仕事(そして人生)がたのしくなるかについてかかれている。

「セルフマネジメントの運用フローを構築する」
「5カ年計画リフィルで5年後のロードマップを描く」
「デイリーリフィルで日次計画」

など、もうほんとうにこまかい。
よくこんなに几帳面に予定をたてるものだと感心してしまう。
ありがたいことに、わたしには
それだけ綿密な計画をたてる必要がない(とおもう)。
いろいろなプロジェクトにとりくみ、
不定期な予定がはいり、もっと仕事がいそがしくなれば、
こうやってスケジュールを管理する必要がでてくるのだろう。
「デイリーリフィルで日次計画」をたてなければ、
仕事がすすまずに、自分にも、
まわりにもよくない状況になるかもしれない。
さいわい、いまは「倉下さん、たいへんだなー」と
ひとごとですませられる気ままな身分だ(のはず)。

とはいえ、この手の本をよむのはすきなので、
たいして実行もしないくせに
倉下さんのかかれた本はすべて本棚にならんでいる。
アナログ手帳をつかう本では
『クラウド時代のハイブリッド手帳術』という本もかっていた。
ひっぱりだしてみると、ずいぶんよさそうなことがかいてある。
こっちは「ほぼ日手帳」にそれほど焦点をあてず、
いろいろなタイプのアナログ手帳をどういかすかの本であり、
これはこれですぐれた内容だ
(まえにいちどよんでいることがしんじられない)。

倉下さんの本からかんじるのは、
人間というものの性質、そして自分という人間のことが
よくわかっていることからくるやわらかさだ。
「◯◯でなければならない」、
という硬直したかんがえは倉下さんにない。
そうしたいけどできないのが人間、という発想から
仕事術についてもかんがえておられる。

『シゴタノ!手帳術』では、
「ほぼ日手帳」のいかし方について、
いくつか参考になるつかい方をおしえてもらった。
基本的には自由さが特徴の手帳であり、
すきなようにかきこんで、
自分なりのつかい方をしなければ
この手帳のよさをいかすことができない。
来年もまた「ほぼ日手帳」をつかいたくなれば、
この本をかって正解だったことになる。

posted by カルピス at 22:09 | Comment(0) | TrackBack(0) | 仕事術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月04日

風間新体制でのフロンターレに期待する

ゆうべみていたJリーグ、浦和レッズ対横浜Fマリノスとの試合のあとで、
そのほかの試合をダイジェストで紹介していた。
成績不振から相馬監督を解任し、
かわって風間八宏氏が就任した川崎フロンターレが、
ジュビロ磐田を相手に4−3と「うちあい」をせいしている。
4点目となったのは中村憲剛が矢島にだした超ロングスルーパスで、
憲剛がけったボールは絶妙なコース・タイミングで相手選手の裏をかいくぐり、
ドンピシャで矢島選手にとどいた。
矢島選手はおちついてゴールをきめる。

試合後のインタビューで、憲剛がチームの状況をはなしてくれる。
練習でやったことがそのまま試合につながっていて、
フロンターレらしい攻撃的なサッカーが実現しつつあるのを
選手全員がかんじとっているという。
もともとサッカーがすきでしょうがないという
サッカー小僧の憲剛としては、
風間監督がもたらした変化がたのしくてしょうがないようだ。

風間新監督のデビュー戦となった前節の広島戦では、
4−1という点差でフロンターレがやぶれている。
しかし、攻撃的なサッカーの片鱗がみえたこと、
大敗したにもかかわらず、選手たちが
手ごたえをつかんだあかるい表情をみせたことなどで
風間新体制でのフロンターレが注目をあつめる。

どのチームもかちたいことはいっしょなので、
目さきの状況にとらわれてしまいがちだ。
まけがつづけばクビをきられるのは監督であり、
理想とするサッカーをかかげてばかりはいられない。
そうしたなかで、
風間新監督はまもりの練習はあとまわしにして、
ボール支配率のたかい
みていておもしろいサッカーをめざしている。
オシムさんがジェフ千葉にもちこんだサッカーで
Jリーグ全体に影響をあたえたように、
これからのフロンターレがもたらしてくれる、
刺激的なサッカーに期待している。

posted by カルピス at 22:12 | Comment(0) | TrackBack(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月03日

『アンジェリーナ』(小川洋子・角川文庫)

『佐野元春と10の短編』という企画からうまれた短編集だ。
佐野元春の曲をきいてイメージすることから、
小川洋子さんらしい独特の雰囲気をもったものがたりにしあげている。

こういう企画をうけられるぐらいだからあたりまえだけど、
小川さんは佐野元春のファンなのだそうで、
実際やり初めてみると、これほど楽しんで書けたことはありませんでした。毎月一曲を選び、それを繰り返し聴いているうちに、どんどん物語が湧き上がってくるのです。

とあとがきにある。

わたしにとっての佐野元春は、
ベストアルバムをひとつiPodにいれているだけにすぎず、
とくにすきなアーティストというわけではない。
『アンジェリーナ』におさめられたいくつかの曲は、
そのベストにもおさめられいたので
あらためてきいてみる。
歌詞と短編にはどこにもつながりがなく、
どうしたらこういうものがたりをイメージできるのか、
小川さんの想像力に感心するしかない。

小川さんはデビューするまえから
村上春樹の本をよくよまれていたそうで、
この本にもその影響がかなり色こくあらわれている。
とはいえ、それぞれに不思議な魅力のあるものがたりであり、
いかにも小川洋子、というものにしあがっていることもたしかだ。

きのう歯医者さんにいったときにも、待合室でこの本をひらいた。
8つ目の短編「クリスマスタイム・イン・ブルー」をよんでいると、
そこにでてくるすてきな女性が
歯科医院での治療中に、麻酔のショックで急死してしまった。
なんで、よりによってこれから歯の治療をうけるというときに
こういうものがたりにであったのだろう。
じっさいに診察がはじまると、
親しらず歯がとなりの歯にわるい影響をあたえていて、
麻酔をしての治療が必要、ということになった。
小川さんの短編をよんだばかりだったので、
麻酔にはあまり気がすすまない。
時間がなかったこともあり、治療は来週にまわしてもらった。

歯科医での診察のまえに
歯科医で急死する本をよむ確立はかなりひくいはずだ。
小川洋子さんとの不思議な縁がおかしかったので、
このはなしを看護婦さんにつたえると、
複雑な表情で、でもわらっておられた。

posted by カルピス at 23:59 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月02日

清志郎の曲といっしょにすごした3年間

清志郎の3回目の命日。
1994年に日比谷野音でおこなわれたコンサートのDVD
「GLAD ALL OVER」をみることにしよう。

まだあかるい会場に、麦わら帽子をかぶり、
タモと虫とりカゴをもった清志郎があらわれる。
いっしょにでてきたチャボとハイタッチをかわし、
「よそ者」からステージがはじまった。
最初から全開、というスペシャル感いっぱいのスタートではなく、
ながい夏の夜を、きょうはどうやっておもしろくすごそうか、
という、ちからがぬけ、余裕いっぱいのはじまりだ。

つぎは「ボス しけてるぜ」。
まだ「ようすみ」というかんじだ。
3曲目の「忙しすぎたから」になると、
だんだん陽がおちてきて、ライトがはいる。
清志郎の高音が気もちよくのびる。

第2部、というかんじで「よォーこそ」のあやしげな前奏がはじまる。
ド派手な衣装の清志郎がとびだしてきて、
ここからいよいよRCのコンサートらしくなってきた。

普段から車できくのは、
この30年間ほとんどRCだ(いまは『OK』)。
清志郎がいなくなって、もう3年もたつのか。
3年前の5月2日、いろんなひとがもっともらしく
清志郎のことをかたるのでヘキエキしたものだ。
わたしは、「当事者」という自覚があるので、
喪失感を声だかにうったえるのではなく、
ただ清志郎の曲をずっときいてすごそうとした。

この3年間も、それまでとおなじように平凡で
あたりまえのようにすごすことができた。
それがどれだけありがたいことなのか、
いまさらいうまでもない。
3年間、清志郎はいなかったけど、
清志郎の曲とずっといっしょだったおかげだ。

posted by カルピス at 22:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月01日

倉下忠憲さんが紹介するブログネタのみつけかた

倉下忠憲さんのブログがなかなか更新されないので
(きょねんの11月から更新なし)不思議におもっていたら、
わたしの受信がうまくいってなかっただけだった。
きのうひらくと、ずっと週1回のペースで更新されており、
5ヶ月ぶんをまとめてよむことができた。

ブログのネタにこまったら、という題で
いくつかのアイデアを紹介されている。
村上春樹さんが短編をかくときにつかう「三題噺方式」や、
おなじく村上さんの「カキフライ理論」、
また、「オズボーンのチェックリスト」を簡単につかえる
「アイデア生産工場」というサイトなど、
ネタにこまったときのアドバイスが
ひとつのテーマともいえるぐらい定期的にのっている。

わたしの場合、なんだかんだとネタをさがしながら、
これまでの8ヶ月間つづけることができた。
なにも材料がないときでも、
あんがいなにかをおもいつくものだ、というのが
いまのわたしの感想だ。
まっしろなエディターの画面にむかっていると、
夜中の12時までにはなにかがかけているから不思議な気もする。
これまでなんとかかけたから、
きっときょうもなにかかけるだろう、
という楽観主義がいいのかもしれない。

まあ、わたしのブログはたくさんのひとにみてもらって、
おこづかいをかせぐことが目的ではないので気らくなものだ。
だれにむけてかいているわけでもないので、
ときにはほとんど日記みたいな内容のこともある。
とにかく毎日かきつづけることが目的みたいなブログであり、
その意味では自分のための(つづけることができた、という実績づくり)
ブログといえる。
こうやってつづけてさえいれば、
あたらしくサイトをひらいたときに、
なにがしかのコンテンツにもなるし、
文章をかく感覚からもはなれずにいられる(かもしれない)。

どんなときでもラッパを口からはなしませんでした、
という兵隊さんのはなしみたいに、
内容はどうあれ、とにかく更新をおこたりませんでした、
というのが、いまのところ、このブログの基本方針となっている。

posted by カルピス at 20:56 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする