2012年06月30日

清武のラストゲーム つぎは柿谷

Jリーグ第16節、セレッソ大阪対浦和レッズ。

ドイツのニュルンベルクへの移籍がきまっている
清武のラストゲームだ。

試合にかって清武をおくりだしたい、
なんてセレッソの選手がいってるけど、
ほんとかいな、とおもっていたら、ほんとだった。

これまでの試合では、
後半30分から足がとまるセレッソが、
きょうはその時間から怒涛のせめをみせる。
0−1と、先行されてはいるものの、
後半はずっとセレッソの時間がつづく。
90分ではきめきれなかったが、
ロスタイム(4分)に柿谷がついにおしこんで同点。
ベンチにさがっていた清武は
顔をあかくして柿谷にかけよっていた。

浦和もチャンスがなかったわけではない。
後半はセレッソにボールを支配されながらも
なんどかカウンターをしかける。
でも、デスポトビッチがいつものようにきめきれなかった。
ジャン=レノみたいな顔をしたデスポトビッチは、
泥くさく、いっしょうけんめいにボールをおいかける。
しつこくプレッシャーをかけるので、
ラッキーチャンスがうまれることもあるが、
たいていは決定的チャンスをみごとにはずす。
きょうもこのパターンだった。
ほかの選手がお膳だてしたチャンスを
2回つづけて失敗する。
そのすぐあとに、おなじような場面を
セレッソの柿谷がおちついてきめたのと対照的だ。

試合後のインタビューで清武は、

「まけなくてよかった」
「いつものようにかつことだけをかんがえてプレーした」
「(ラストゲームなので)期待されていることはわかっていたが
なにもできなかった」

と、なんだか煮えきらないはなし方をする。
最後の試合がドローだったこと、
そしてあすにはドイツに出発するということから、
どういう表情をしたらいいのか
ビミョーな立場だったのかもしれない。

きょう同点シュートをきめた柿谷は
それまでになんども枠ないシュートをはなちながら、
浦和の加藤にスーパーセーブされていた。
そうしたときの柿谷がかっこよかった。
「あれをふせがれたらしょうがない」
みたいなかんじでぜんぜんくやしがらず、
淡々とすぐにプレーにもどる。
シュートをはずしたあとで頭をかかえたり、
口もとに手をやったりする選手のおおいなか、
彼のしぐさはすごく印象的だ。
セレッソからつぎに海外にいくのは柿谷だろう。

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2012年06月29日

「放課後等デイサービス開設準備」事務室の機材をととのえる メインのパソコンはMacBook

ピピの事務室をととのえる。
請求事務用に、エプソンのデスクトップパソコンを、
その他の用途には、家からもっていったMacBook13インチをつかうことにする。
これに21.5インチのモニターをつなぎ、
個別支援計画のようにおおきな画面が必要な仕事にそなえる
(というのはこじつけで、じっさいは老眼対策)。

なんやかやの手つづきで役所や事業所をおとずれると、
このごろはどこもノートパソコンばかりをつかっている。
場所や電源など、物理的なあつかいやすさをかんがえると、
セパレート型のパソコンなんかおいてられないのだろう。
おおきなモニターのほうが気もちいいとおもうけど、
何10台ものパソコンを導入するとなると、
ノートパソコンになるのはしかたのないことかもしれない。
じっさい、15インチあればたいていのことにはこまらない。
21.5インチのモニターをふつうの事務でつかえるのは、
いまやぜいたくな環境なのだろう。

コピー機は複合機をリースでかりることにした。
プリンター兼ファックス兼スキャナーとしてはたらいてもらう。
プリンターはもう1台、100満ボルトで
6000円のインクジェット機(キャノン)をかう。
コピー機がくるまでのコピー機として、
またこれから大量に必要になる
視覚支援のカードづくりにやくだってくれるはずだ。

わたしはとくにウィンドウズ機に偏見をもたないつもりだけど(ほんとか?)、
エプソンのパソコンを箱からだして机においたとき、
ほんとうに、なんのときめきもなかった。
ペラペラのキーボードとやすっぽいマウス。
いくら「ものは大切に」とおもっても、
あんまり愛着がわいてきそうにない。
(それにひきかえ)MacBookのデスクトップをおおきな画面でみると、
みなれている安心感と、ひろくてきれいという目あたらしさが同居して、
なれない場所での仕事にもすんなりとけこめそうだ。
気分よく仕事にむかえる環境って、すごくだいじなことが、
机のうえの2台のパソコンをみてるとよくわかる。

ピピにMacBookをもっていったことにともない、
家のメインマシンはMacBookPro15インチになる。
これまではMacBookばかりをつかっていたので、
やっとこのパソコンをいかすことできる。
必要だからかった、というより
ほしかったからかったという、
ただしい道をへてこの家にきた。
ネコのピピも気にいってくれ、
というよりなんの違和感もないようで、
いつものようにテーブルの上でくつろいでいた。
DSCN1138.jpg

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2012年06月28日

『フットボールネーション』(大武ユキ)草サッカーチームが天皇杯で優勝したら

『フットボールネーション』(大武ユキ・小学館)

無名の草サッカーチームが
天皇杯で優勝したら。
だれでもおもいつくが、
あまりにもありえないことなので、
リアリティをもたせるのがむつかしい。

サッカーはJ1リーグを頂点に、
こまかなカテゴリーからなるピラミッドがつくられていて、
ひとつうえにあがるのもたいへんな構造になっている。
しかし天皇杯はオープントーナメントの特殊な大会だ。
高校生のチームがJ1に所属するプロのチームとたたかうことも
大会規定上はありえる。

海外でもプレーした経験をもつ元プロ選手の高橋が、
東京都社会人リーグ3部の「東京クルセイド」をひきいて
天皇杯の優勝をめざす。
目的は、日本のサッカーをかえ、
ほんとうの意味での「フットボールネーション」
(サッカー先進国)にするためだ。

草サッカーチームをどうやって天皇杯優勝までもっていくか。
「東京クルセイド」の監督、高橋は、
「脚のきれいな選手求む」という応募条件で選考会をひらく。
「脚のきれいな選手」は、ももの裏(ハムストリング)が
発達しているから脚がすっきりみえるのであり、
ももの裏をつかっているということは、
インナーマッスルがきたえられており、
体幹がつよい、というのがその理由だ。

野球だったら、とびぬけたちからをもつバッテリーと、
中心となるなんにんかの選手がいたら、
そこそこの活躍はできるだろう。
でも、サッカーでは11人がそれぞれに機能しないようなチームが
天皇杯をかちすすむことはありえない。
「東京クルセイド」は、それなりに経験をつんだ、
そしてわかい選手(22歳以下)をあつめる。
そこに中心となる天才プレーヤーをくわえて・・・と、
だんだん脇がかためられて「ありえる」はなしになってきた。
もっとも、サッカーをやってるひとにとったら、
あいかわらず荒唐無稽の夢ものがたりなのだろう。
これからさきの展開がたのしみだ。

いまは3巻まで出版されており、
「東京クルセイド」は東京代表となって
天皇杯の2回戦で埼玉県代表チームと対戦している。
おそらくこのままかちすすんで、
「東京クルセイド」はJ1のチームと対戦していくのだろう。
「ももの裏」ではなく、「ももの表」が発達した選手のおおいJ1のチームに、
「東京クルセイド」のサッカーがどれだけ通用するのか。
日本が真のフットボールネーションになるときがくるのだろうか。

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2012年06月27日

「放課後等デイサービス開設準備」あいさつまわり

放課後等デイサービスをはじめるにあたって、
学校や支援センター、そしてご近所へあいさつにまわる。

養護学校では教頭先生が対応してくださった。
こちらのはなしをよく理解していただけたし、
「ぐりぐり」や「ピピ」という名前にも
肯定的な姿勢をしめされる(ネコがおすきなのかもしれない)。
教頭先生のはなしでは、
このごろわたしたちのように
あいさつにおとずれる事業所がおおいそうで、
同業の方がおおくてたいへんですなー、みたいなことをいわれた。
橋南にはデイサービスがないときいていたのに、
これはいったいどういうことなのだろう。
まあ、こちらは内容に自信があるので、
じわじわと特色をしめしていけば
評判はおのずとくちこみでつたわっていくだろうと
わりに楽観的だ。
もっとも、くちこみというのはこわい面もあり、
わたしたちの意図が正確に理解されないと、
みょうな誤解をまねくことになる。
保護者の気もちにを大切にした
誠実な対応をこころがけたいとおもう。

ご近所にもひっこしのあいさつにうかがう。
ながくあきやだったところへ
荷物のもちこみや、ひとのでいりがおおくなっているので、
ご近所の方は、いつもとちがううごきを気にされているはずだ。
となり近所の4軒と、町内会長さんに
あいさつとともに、児童デイの説明をしておきたいとおもう。
お仕事からまだかえっておられない家もあり、
きょうだけではぜんぶをまわれなかった。
わたしたちの活動が、町内の方々から
あたたかくうけいれられることをねがっている。

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2012年06月26日

おもしろいけど、英語は興ざめ『ジャッカルの日』

『ジャッカルの日』(1973年・アメリカ)

とりためていた映画のなかから『ジャッカルの日』をみる。
ド=ゴールを暗殺するためにやとわれたジャッカル(コードネーム)が
慎重に準備をかさね(偽のパスポートだけでも3つ用意している)、
厳重な警備をかいくぐってフランスに潜入する。
ジャッカルのうごきをかぎつけたフランス当局は、
ベテラン警視のルペルに全権をあずけ、
総力をあげて暗殺をふせごうとする。
当時はもちろんコンピューターなどなく、
うたがわしい人物の調査などは
全部ひとの手ですすめるしかない。
どれだけのひとが入国したか、
パスポートをなくしたひとはだれか、など
いまだったらパソコンですぐに検索できることを、
時間をかけてひとつひとつ確認していく。
ルベル警視はかすかな手がかりをみのがさず、
ちゃくじつにジャッカルをおいこんでいく。
プロフェッショナル同士のかけひきが、
この作品をスリリングなものにしている。

中学校のときの同級生が
この作品と『ダラスの暑い日』を比較した作文をかき、
それがなにかの賞をとって会報に全文が紹介された。
おなじ暗殺をあつかった作品でありながら、
いっぽうは超大作、もういっぽうの『ジャッカルの日』は
B級作品としてつくられていること。
しかし、作品としては無名の役者をつかった
『ジャッカルの日』のほうがよくできており、
フレッド=ジンネマン監督ならではの演出がみごとだ、など。

007やチャップリンくらいしか
洋画をみたことがなかったわたしには、
中学生ながら映画を論評する同級生が
すごくかっこよくおもえた。
背のびをして映画の話題についていこうと
『ダグラスの暑い日』なんていってしまい
「『ダグラス』じゃなくて『ダラス」』」(テキサスの町の名前)、
と訂正された。

『ジャッカルの日』の魅力のひとつは
ヨーロッパのふるい町なみと、
そこをはしっている自動車だ。
当時の政府高官は、高級車としてシトロエンDSをつかっていたようで、
官邸にはナメクジみたいなシトロエンDSずらっとならんでいる。
サスペンションがよくきいていて(ききすぎて)、
なんだかソファにタイヤをつけてるみたいなはしりだ。
フィアットやシトロエン2cvなど、
ルパン三世(旧)でおなじみの車もヨタヨタはしる。
ジャッカルがのっていたのはしろのアルファロメオで、
町の景色にぴったりだった。

ジャッカルは解放記念式典を決行の日ときめる。
式がすすみ、警備の緊張がとぎれるころ、
傷痍軍人に変装したジャッカルは
たちいり禁止地区にはいりこみ、
狙撃しやすい場所を確保する。
ド=ゴールの頭に照準をあわせ、ひき金をひく・・・。

興ざめなのは、ハリウッド映画なので例によって
役者がみんな英語をはなしていることだ。
フランスが舞台で、登場人物のおおくがフランス人なのに、
どうしてこういうことになるのだろう。
外国を舞台にした映画で
自分の国のことばをはなさせようとするのは
アメリカ人くらいじゃないだろうか。

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2012年06月25日

『マザコン』(角田光代)マザコンといわれたら

『マザコン』(角田光代・集英社文庫)

角田光代の短編集。
あんまりおもしろくないなーとよみすすめていると、きたきた。
5編目の「マザコン」がいかにも角田光代だった。

妻に「あなたはマザコンよ、正真正銘の」といわれた「ぼく」は
そんなことをいわれるのは心外なので
なんとか反論をこころみる。でも、ぜんぜん歯がたたない。
あのね、そうやってぜんぶ言葉にしようとするところ。そこがマザコンだって言ってんの。
だいたいさあ、さっきの話、コーヒーを買い忘れた理由をなんでいちいち説明すんのよ。私はあなたの母親じゃないの。あらまあ、そうだったの、それならコーヒー忘れてもしょうがないわねえ、って言ってほしいわけえ?

男はだれでもマザコンといわれるのは不本意であり、
そうでないことをなんとかみとめさせようとするだろう。
でも、そうやって、やっきになるのがマザコンの証拠だとか、
とにかくあなたはマザコンなの、とか、
いったんいわれると、それをくつがえすのはなかなか大変そうだ。
男にとってのがれようのない「殺し文句」であり
いわれたらもうそれでおわり。勝ち目はない。

「WEB本の雑誌」で杉江さんが
女性の書店員さんと角田さんの著作の話をしていると「女子の嫌な部分が描かれるからキツイ時もあるのよ」と言われることもあるが、私はそのキツイところが大好きだ。女子に限らず、人間なんてそんなもんだろう。

とかいている。
「あなたはマザコンよ」といいつのるときの角田光代は
女のいやらしさ全開で、そしてすごくたのしそうだ。
わたしはこれまで角田光代のかく
「女子の嫌な部分」がどこかわからなかったけど、
「マザコン」をよんで納得がいった。
これはそうとうきつそうだ。
でも、杉江さんとおなじように、
そういうところもふくめて
角田光代のかく本はどれもたのしくよめる。

posted by カルピス at 19:01 | Comment(0) | TrackBack(0) | 角田光代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月24日

FCバルセロナ(西部謙司)バルセロナのつよさの秘密

FCバルセロナ(西部謙司・ちくま新書)

バルセロナはなぜあんなにつよいのか。
西部さんはバルセロナのサッカーの特徴を
以下の点にまとめている。

・数的優位をつくるために、2人のフォワードが、
 4人の相手ディフェンダーをくぎづけにしている
・正確な技術
・前線からのはやいプレッシング
・たかいボールポゼッション

整理してしまうとたったこれだけなので、
それでは、なぜバルセロナだけがそれをできるなか、と
もうひとつ別の疑問もわいてくる。
世界じゅうがバルセロナのスタイルをめざしながらも
コピーはなかなか本家にかつことができない。
バルセロナのサッカーは、かつための方程式が
非常に論理的にくみたてられており
(ボールを70%支配できたら80%の試合にかつことができる等)、
まねできそうでできないのが、バルセロナのサッカーといえる。

タイトルがしめすとおり、
この本はバルセロナというチームについて、
その戦術・歴史・地域性など、
さまざまな点からみた特徴がまとめられている。

・カタルーニャ人のほこりであるバルセロナというチーム
・なぜバルセロナのパスはおもしろいようにつながるか
・バルセロナの歴史
・バルセロナの対抗勢力

と、この1冊をよめばバルセロナのサッカーが
だれにでも(わたしにでも)理解できるよう構成されている。
ゆるぎないつよさにみえるバルセロナに対抗するために、
対戦するチームはどういう戦略をとってきたか。
それに対し、バルセロナはどう対応したのか。
バルセロナのとる戦術は、基本的には統一されていながら、
どこにだれをつかうかで微妙な変化がうまれてくる。
相手のフォーメーションにあわせて柔軟にポジションをかえ、
自分たちのサッカーの長所がけされないように対応する。
そのせめぎあいが、西部さんの手によって
論理的に説明されているので、
わたしのようなサッカー初心者には
戦術を理解するうえでとてもわかりやすいテキストだった。

おかしかったのは、日本でも人気のある(あった)ロナウジーニョについて。
ロナウジーニョは2003年から2008年までバルセロナでプレーしている。
はじめはチームにフィットしたロナウジーニョも、
後年になると運動量がおち、
しだいにデメリットのほうがおおくなっていた。
ロナウジーニョはパリ時代から夜遊びで有名でしたが、バルセロナでも夜を徹して遊ぶ姿がよく目撃されていました。サッカー選手が遊んでいるというより、遊び人がサッカーをしている、と解釈したほうがいいのかもしれません。

西部さんは皮肉ってこうかいているのではない。
事実をありのままに表現すると
こういうかき方になってしまうのがいかにもロナウジーニョだ。

史上最強ともいわれるバルセロナを、
どのチームがくずすのに成功するのだろう。
日本のサッカーはどこまでバルセロナにちかづけるのか。
バルセロナのつよさの秘密を理解できたので、
もうしばらく、圧倒的につよいバルセロナのサッカーをたのしみたい。

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2012年06月23日

「放課後等デイサービス開設準備」ぽけっと見学2

「ぽけっと」の支援でかわっているのは、
子どもたちが対象の事業所なのに、
活動のなかに「仕事」をとりいれていることだ。
ペットボトルのラベルをはがしたり、
アルミ缶をつぶしたりの仕事をすると、
ポイントがたまってすきな活動
(たとえばパソコンでユーチューブをみる)の権利をえる。
機械がすき、という子には、その特性をいかして
シュレッダーやコピー機をつかう仕事が用意されている。
やりたいことをするには
なにごとにも交渉がひつようで、
ただ「パソコンをつかいたい」といってもだめだ。
「なら仕事をがんばりなさいね」ということになる。
そうしたやりとりをしながら
コミュニケーションのちからがやしなわれていく。

「えらぶ」ことも大切にされている。
毎日のおやつは4種類のおかしからえらべ、
おかわりもできるようになっている。
おかわりは3種類からえらべるし、
えらぶとともに、おかわりがほしいことをつたえる練習でもある。

これらはすべて、そうしたちからを身につけたほうが
生活がたのしくなるからだ。
学校を卒業したらはたらかなければならないし、
要求をつたえることができたら
自分も、まわりのひともすごくらくになる。
また、あそぶちからをもってないと、
いちにちのリズムがつくりにくく、
きびしい生活になるので、
子どものときにいろいろなあそびを体験しておく。

自立にむけて、なんてよくいうけど、
かけ声だけにおわっているものがおおい。
「ぽけっと」ではすべての支援がほんとにそうなっていた。

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2012年06月22日

「放課後等デイサービス開設準備」スケジュールがしっかりはいった「ぽけっと」を見学する

下関にある「放課後等デイサービス・ぽけっと」を見学させてもらう。
去年の行動援護研修で講師をされた沖村さんがおられる事業所だ。
沖村さんのスパッといいきる大胆な発言と
柔軟かつ現実的な発想に感心し、
自分たちがデイサービスをはじめるまえに
ぜひ参考にさせてもらおうとおもっていた。

ぽけっとは、いまは午前中に児童発達支援事業を、
午後に放課後等デイサービス事業をされており、
利用者のおおくは発達障害の子どもたちだ。
わたしたちは、はじめに沖村さんから
支援の概要についての説明をうけ、
そのあと子どもたちがじっさいに
どういう活動にとりくんでいるのかをみせてもらった。
ロッカーに荷物をしまった子どもたちは
自分のスケジュールがはってあるところで
その日のながれを確認する。
そして、トランジションションカードをもって
とりくむ活動の場所に移動し、
それがおわるとまたスケジュールのある場所にいって
つぎの活動のカードを手にし・・・、と
みとおしをもってその日の活動にとりくんでいる。
きょうは9名の利用者のうち8名が自閉症の子どもたちで、
子どもたちがスケージュールにそってスムーズにうごくようすは
衝撃的だった。

ぽけっとのうごきをマネージメントしているのが沖村さんだ。
じっさいの支援だけでなく、
保護者への啓発にもちからをいれておられる。
ぽけっとのサービスが、保護者の就労支援ではなく、
子どもたちへの療育であることを理解してもらい、
事業所としてしなければらないことと、
保護者にも協力してもらわなければならないことを
しっかりおさえておられることが印象にのこる。

たとえば、定員数がきまっているので、
たくさんのひとが利用できるように
利用回数を週1〜2回にしてもらったり、
送迎はほんとうに必要なひとだけにかぎったりと、
あづけっぱなしにならないよう
利用する側にも協力をおねがいする。
大人になったときにゆたかな生活がおくれることを
支援の目的として位置づけるとき、
事業所が「なんでもできますよ」とやってしまうより、
保護者にも負担してもらったほうが、
ながい目でみると、けっきょくは親と子の自立をうながしていく。

支援の方法も保護者への協力のもとめ方も、
わたしたちがはじめるピピでいかせることばかりだ。
沖村さんになんどもお礼をいいながら、
じっさいに形としていかすことでしか
ほんとうの意味でのおかえしはできないことを肝にめいずる。

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2012年06月21日

角田光代の軽エッセイ『恋をしよう。夢をみよう。旅にでよう。』

『恋をしよう。夢をみよう。旅にでよう。』(角田光代・角川文庫)

角田光代のエッセイ集。
この本では、角田光代が日ごろ気にしている日常の茶飯事を
読者にかたりかける。
題がいつも
「あなたのおうちは散らかっている?」
「今日のお昼、何食べた?」
というスタイルになっていて、
読者に質問をなげかけるまえには、
自分の生活や体験がかくさずに(たぶん)かいてある。

「あなたのおうちは散らかっている?」のときには
いかに自分の仕事部屋がちらかっていて、
その解決のために仕事場をあたらしくかりたことや、
「今日のお昼、何食べた?」では
その仕事場で、昼ごはんをどうとっているかの報告と感想がかたられる。
角田光代のファンでなければ、どうでもいいようなはなしとはいえ、
エッセイにでてくる角田光代が
あまりにも「ふつうのひと」で、
自分のおろかさを全面にだして日常生活をかたるので、
よんでいる側は角田光代がさしだす
「どうでもいいけどちょっと気になる話題」に
安心して身をまかせ、あたまをやすませることができる。

じょうずにこちらの関心をひく題がつけられていて、
よみだすとなかなかおわれない。

「あなたの真理はなんですか?」
「聞き耳たてることありますか?」
「できないこととできることはなんですか?」

なんてかいてあると、なんだかすごくおもしろそうなので、
つい反応してページをめくってしまう。
じつは、よんでみると、わりとあたりまえのことがかいてあり、
「なーんだ」ということになるのだけど、
つぎの題もまたおもしろそうなので、
どうしてもまたページをめくってしまう、
ということがつづいてしまうのだ。
質問すればいいというものではなく、
こちらのふところにはいるのが角田光代はうまいのだろう。

「あなたは角田光代のエッセイをよんだことがありますか?」

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2012年06月20日

「放課後等デイサービス開設準備」ものの存在意義とは

事業所の仕事はじめにむけて準備がつづく。
きのうはホームセンターにでかけ、
必要とおもわれる品々をかった。
かならずつかうものと、
多分つかうんじゃないか、
というものをかっていくと
ワゴン3台分の量になる。
お金がたりなかったらどうしようと
心配になってきた。
さいわい、予想していたのとぴったりおなじ5万円ほどにおさまる。

きょうはまたべつのホームセンターで、
カラーボックスや机、それに時計をかう。
こんなにたくさんかいものをしてほんとに大丈夫なのか。
かいものをしてストレス解消ということをよくきくけど、
日用品をいくら山のようにかってもつかれるだけだ。
ぜんぜん気分はよくならないし、
むしろかったあとに必要な作業が頭をかすめ
ため息がでてくる。

これまではたらいていた事業所も、
そして自分の家も、
その気になってみるとじつにたくさんのものがおいてある。
ものがあふれている光景をわたしはきらっていたけど、
ゴミ屋敷は論外として、ある程度のものにかこまれていることは
精神衛生のうえで、おちつきをあたえてくれていることに気づいた。
ひっこししたての家と、
年期のはいった家とのちがいは、
ものがいごこちよくおさまっていることと
関係しているのではないか。
人生においてむだなことはなにもないのとおなじように、
家にあるすべてのものも
存在しているだけでそれぞれのやくわりをはたしているというかんがえ方が
わたしにはしっくりくる。
こういうのもアニミズムというのだろうか。
かならずしも必要でないものが
なんとなくころがっていることは、
こころがみだされる風景ではなく、
多様性を保障しているともいえる。
断捨離ってほんとにえらいのか。

posted by カルピス at 20:49 | Comment(0) | TrackBack(0) | 児童デイサービス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月19日

『ラヂオの時間』(三谷幸喜)ま、いいか、の世界観がここちいい

『ラヂオの時間』(1997年・三谷幸喜監督作品)

山田洋次がえらんだ「日本映画の100本シリーズ」として
『ラヂオの時間』をとりあげていた。

出演者がわがままいいほうだいに
台本のかきかえを要求し、
都合のわるいところを修正していくうちに
めちゃくちゃなはなしになってくる。
台本では熱海のパチンコ屋ではたらくリツコのはずが
ニューヨークの弁護士メアリー=ジェーンに、
漁師の虎造がパイロットのドナルド=マクドナルドに、というぐあい。
どこかをいじるたびに、
その無理がほかの箇所に影響をあたえ、
それをまたつくろわなければならなくなる。

飛行機が行方不明になったことにすると、
スポンサーからすぐにクレームがきた。
飛行機でなきゃいいんだろう、
というむりやりのこちつけで
ロケットだったことにしてしまうとか、
生放送なのでスタジオじゅうがめちゃくちゃになっていく。
わがままをいいあい、本音をぶつけ、
ドタバタつじつまをあわせるうちに
だんだんと番組の完成にむけて関係者が
気もちをあわせるようになる。
その場しのぎのごまかし、つくろいをかさね、
なんとかぶじにおわりまでたどりつくと、
出演者全員がすがすがしい笑顔をみせる。

信念をまげてごりおしをゆるすと
ろくなことがない、といっているのか、
初期設定をへたにいじるとたいへんだけど、
最終的におもしろくなればいいじゃないか、
といっているのか。
教訓があるようでないようなすばらしい作品だ。

気のきいたセリフは、
こんどこまったことがあったら
2どとよばないよ。

「(続編では)ハインリッヒが
メアリー=ジェーンにあいにくることにしたら?」
「ハインリッヒは
ミシガン湖に車でつっこんじゃったよ」
「水陸両用車ってことにしよう。
陸上専用車とはいってなかった」

もうめちゃくちゃだ。
とりあえずつながればいいという
テキトーさがここちよかった。

posted by カルピス at 23:21 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月18日

アメリカに完敗の女子サッカー スェーデン遠征

女子サッカースウェーデン遠征アメリカ戦

なにかの大会ではなく、いってみればたかだか練習試合だ。
スタジオに「いきものがかり」なんかよんだりして、
「オリンピックまえ」をさわぎたてるのもおもしろくない。
わざわざみるまでもないだろう、とおもっていたのに、
でも、チャンレルをあわせると、そのままついみてしまった。
みてよかった。
まったくふがいない内容で、アメリカに1−4と完敗する。

前半開始そうそうの3分、そして10分に
たてつづけにアメリカが日本のまもりをくずしてゴールをきめる。
ほとんどの時間帯でアメリカはずっとボールを支配する。
ワンバクをねらったロングボールもおおいけど、
それだけではなくパスもつないでくる。
なによりもプレッシャーがはやく、つよい。
ラインをたかくあげ、コンパクトな陣形なので、
プレッシャーがかかりやすい。
ゴールまえまでボールをおいかけてくる。
日本がやりたいサッカーをアメリカにされてしまった。

選手たちはひさしぶりの実践なので、
試合感がもどらなかったのだろうか。
なんということのないパスを相手にカットされ、
自分たちでピンチをまねいているかんじだ。
アメリカも、日本のサッカーをよくしらべ、
うごきをうまくよんでいた。

きょうの試合をやっておいてよかっただろう。
いまの状態ではぜんぜんだめなことを
選手もスタッフも、全員がかんじたことだろう。
オリンピックの本番までにどう修正してくるか。
佐々木監督と、選手たちは
きっといいこたえをしめしてくれるはずだ。

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2012年06月17日

『くまちゃん』(角田光代)主人公全員がふられる連作短編集

『くまちゃん』(角田光代・新潮文庫)

連作短編集で、1話で主人公をふったひとが、
2話では主人公になってこんどはふられ、
そのふったひとが3話でふられるというつくりになっている。
1冊につめられた7つのはなしをよむと、
すべての主人公がふられるので、
こういうのを「ふられ小説」というのだそうだ。

ふられるのはだれにだってつらい体験だ。
でも、相手をふって自分のすきな生き方を手にいれたはずのひとも、
つぎのはなしでしあわせになったかというと、
そうはうまくはいかない。
自分がすきなひとのまえではまたちがう自分になり、
相手もまた自分のおもうようにはうごかない。
自分が以前ふった相手は、
いかに自分のことをおもってくれていたのかを、あとになって理解する。
いやー、恋愛ってむつかしいわ。

ふられるまでのあいだに、
それぞれのはなしでかたられるのは、
いったい人生における成功とはなんなのか、
しあわせとはなんなのか、ということだ。
まわりのひとにとってはりっぱに成功した人生でも、
本人にとってははじめにのぞんでいた手ごたえと
だんだんずれていくことがおおい。

どのはなしもそれぞれにうまくできていて、
いつもながら角田光代の才能に感心しながらの読書となった。
わたしがいちばんひかれたのは

「私はもう知ってるんだもの、
地味とかみみっちいとか、キャリアとかお給料とか、
人生にはなーんにも関係ないんだって。
なりたいものになるにはさ、
自分で、目の前の一個一個、自分で選んで、
やっつけてかなきゃならないと思うの」

という苑子の言葉だ。
彼女は1話で20代のときに「くまちゃん」にふられ、
6話でふたたび30代のぱっとしない女性として登場する。
このセリフをかたったあと、
いちじはマスコミにもてはやされながら、
いまはおちぶれてしまった(世間的には)料理人と
海辺の町でくらすことをえらび、子どもをうみ、そだてる。
苑子はしあわせになっただろうか。たぶん。

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2012年06月16日

放課後等デイサービス・ピピには、テレビもゲームもありません

ぐりぐりの設立メンバーであつまって、
ピピ(放課後等デイサービス)の部屋わりと、
備品としてそろえるものについて確認する。
ひとりひとりの子にたいし
机と棚を用意して、自分の空間をもってもらうこと。
食事やおやつは台所でたべること。
いちばん重要な確認は、
ピピにはテレビもビデオもゲームもおかないことだ。
時間をくぎって、というつかい方はせず、
ピピでは最初からまったくおかないことにきめた
(CDプレーヤーはあり)。
そのぶんおもちゃでうんとあそぼう。

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2012年06月15日

放課後等デイサービス・ピピ「あかずの間」つきの事業所がきまる。

事業所としてかりる家がきまる。
契約をおえ、きょう鍵をうけとった。
築40年くらいのふるい家で、
かなりのお金もちがすんでいたかんじだ。

部屋が1階に3つと台所、
2階にも2つと、全部で5つあり、
ひろい庭と倉庫もついている。
ふるくておおきすぎるので、
かり手がなかなかつかなかったのかもしれない。
家族ですむにはつかいづらくても、
デイサービスとしてはもうしぶんない。

なによりもこの家には
「あかずの間」がある。2つも。
大家さんがつかわないものをしまっているらしく、
戸があかないようにネジでとめられている。
ひるまはいいけど、夜になると不思議な声が・・・
ということになるとちょっとなやましい。

電気・ガス・水道の手つづきをすませ、
電話も来週にはつくことになった。
ハードはととのいつつある。
あとはソフトだ。
どんなふうに支援を提供するかという、
いちばん大切なことを整理しておかなければ。

posted by カルピス at 21:05 | Comment(0) | TrackBack(0) | 児童デイサービス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月14日

『愛してるなんていうわけないだろ』(角田光代)

『愛してるなんていうわけないだろ』(角田光代・中公文庫)

角田光代が23歳のときにかいたはじめてのエッセイ。
技術的にはきっといまのほうがうえなのだろう。
でも、わかくて、お金がなくて、かんがえがたりず、
いつでもだれかをだいすきになっていて、
すぐキズついて、さきのことがぜんぜん心配でなく、
そんな23歳の角田光代でないとこの本はかけない。

真夜中に大すきなひとにきゅうにあいたくなり、
タクシーをつかまえて
「どこそこまで、おっちゃんぶっ飛ばしてよ」
というのが角田光代の理想とする恋愛だ。
しかし「恋愛はどうしたって勝負」だから
まけずぎらいの角田光代は
いつだってつまらない勝負をしてしまい、
素直に白旗をあげることができない。

これが角田光代だ。この真剣さ、
勝負としてのかけひき、
でもほんとは相手に「タクシーをぶっ飛ばして」
きてもらおうとするよわさとずるさ。
角田光代はこういうふうにできているんだ、
とストンとふにおちる。
「愛してるなんていうわけないだろ」って
すごくいいタイトルだ。

ものわすれがひどい、
というはなしがおもしろかった。

「約束したのを忘れて、
同じ日に三つも四つも約束を入れてしまうことは日常茶飯事」
「欲しかった本を買おうと本屋に行くと、
何が欲しかったのかまるで分からなくなる」
「電話で打ち合わせ時間を決め、
受話器をおいたらもう何時に約束していたか忘れていた」

なんだか『博士の愛した数式』にでてくる
80分しか記憶がもたない博士みたいだ。

「最近はポストイットを身の回りに置き、
何か約束したらすぐ書き留める」

というところまでいっしょ。

わたしだったら認知症の恐怖におののくところを、
しかし角田光代は
「忘れることは幸せの一つである」
という。

「恐ろしいほどお金がないときも、
預金通帳の数字を私はすぐ忘れてしまうから、
へらへらと笑っていられるのである」
「歯医者の恐怖すら忘れてしまうから、
歯医者に通えるのである」

きっと角田光代は恋愛にエネルギーをかたむけすぎてしまうため、
ほかのことまで気がまわらないのだ。
ほんのちょっとさきのことを
調子よくやりくりするなんて
恋愛にくらべたらどうでもいい問題にすぎない。

もうひとつよかったのは
「すべてが無駄じゃない」というはなし。
映画のなかで、かなりなさけないシチュエーションにおちいってしまった男の子が、
おもいをよせる年上の女性にたいし
「僕はみっともないね」という。
彼女は「こんなことも、無駄じゃないわ」といったのだそうだ。

「すべてが無駄じゃない。
みっともないことも、
負けず嫌いも、でもやっぱり負けちゃうことも、
行き場のない思いも、無駄じゃない」

こういうことは、なさけなさのまっただなかにいないと、
ついわすれてしまい、
かっこつけたことをいってしまいがちだ。
わかいころしか体験できないことは
どうしたってたくさんあり、
そしてそのすべてが無駄じゃない、
というのが胸にせまる。
そういうふうに角田光代はつくられてきた。

posted by カルピス at 21:46 | Comment(0) | TrackBack(0) | 角田光代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月13日

ホラーかとおもったら上質のコメディ『ダークシャドー』

この作品について、なんの知識ももたないまま映画館にはいる。
『メン・イン・ブラック3』とどっちにしようかとまよいながら
『ダークシャドー』をえらぶ。
正解だった。これは傑作だ。

オープニングでは、ながながと紙芝居みたいな説明がつづき、
おどろおどろしい雰囲気いっぱいで、
こりゃしんどい作品かも、とはやくもぐったりしてしまう。
ポスターにはおしろいをぬったへんな男がのってたし、
時代は中世で、おもく、くらそうだし。

もちろんそれはティム=バートンの演出であり、
しだいにこれはコメディでもあることがしらされる。
ホラーっぽい映像に、あかるいカーペンターズの曲がかぶさると、
とたんにわるふざけをたのしむ
ドタバタコメディにおもむきをかえるのだ。
200年ねむっていたバンパイアが現代社会にあらわれたら、
そりゃたしかに不適応をおこすだろう。
自分にちかづいてくる自動車を「2つ目の妖怪か」ときめつけ、
きどって道路のまんなかでまちうけるバンパイア(ジョニー=ディップ)に
ドライバーが「バーロー!」とただばかにしてすぎさるのが
この作品の上品なわらいを象徴している。
ジョニー=ディップがお城の使用人に催眠術をかけると
完全に寝いってしまい、そのをまた「寝るな!」とあらためておこすのも
すごくばかばかしくてすきなシーンだ。

オープニングで紹介された200年まえとおなじような関係者が
1972年でもおなじような顔で登場するので、
だれがなんの役かさいごまでよくわからない。
でも、あんまりむつかしくかんがえなくても、
ジョニー=ディップと魔女役のエヴァ=グリーンが
ティム=バートン的なものがたりの世界につれていってくれる。
家庭教師役のかわいい女の子や、
すみこみの精神科医のおねえさんなど
せっかくいい味をだしてるのに
あんまりふかめられないままラストをむかえるひともいて、
もったいないといえばもったいない。
そういえば、お屋敷にいたおばあさんも
さいごまでけっきょくたいした出番がなかった。
ま、いいけど、
とおもえてしまうのがこの作品の世界観だ(ほんとか!)。

魔女役のエヴァ=グリーンがいかしていた。
彼女とジョニー=ディップによる
バンパイアと魔女ならではの超はげしいからみは、
この作品のかずあるみせ場のひとつだ。
部屋をめちゃくちゃにこわしておいて
「不覚にも残念な展開であった」はないだろうとおもう。
あんなにエネルギーにみちた妖艶な魔女がいたら、
そりゃバンパイアでなくても手をやくだろう。
ジョニー=ディップも200年もとじこめられたわりには
彼女のことを心底にくんでいるわけではなく、
好敵手というより「おともだち」風な、
気のいい仲間みたいなかんじ。

大わらいもいいけど、おもわずクスクスしたくなるのもすてきだ。
この作品みたいに。

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2012年06月12日

アウェイのきびしさ。W杯アジア最終予選対オーストラリア戦は1−1

W杯アジア最終予選対オーストラリア戦。

オマーンとヨルダンに圧勝した日本が、
オーストラリアを相手にどんな試合をみせてくれるか
とてもたのしみにしていた。
結果は1−1。先制したけどPKでおいつかれた。
応援につかれてさいごにはヘロヘロになる。
解説の山本さんは、おとくいの「これが最終予選ですよ」
をくりかえしていた。
まあ、冷静にかんがえれば、
アウェイでかち点1ならわるくない。

試合まえの映像から、ピッチの状態がよくないことがわかる。
これだからオーストラリアはやりにくい。
ラグビーとサッカーをおなじようにかんがえている。
それはプレーにもあらわれている。
人種的な偏見をかんじるほど
強烈にぶつかったり、足もとをねらってくる。
けが人がでなくてさいわいだった。

試合がはじまると、オーストラリアは
たかさとフィジカルのつよさをいかして
ロングボールをけりこんでいる。
中盤をとばし、すぐにゴール前のあらそいになるので
いくら想定ずみの攻撃とはいえ、日本はやりにくそうだ。
前半は相手に決定的なチャンスを2どつくられる。
アウェイであり、サウジアラビアの審判が笛をふき、
ピッチコンディションはわるかったけど、
運はついていた(後半にもポストにすくわれる)。
アウェイのきびしさを体験する
いい機会だったととらえよう。
3連戦を2勝1わけならぜんぜんわるくない。

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2012年06月11日

はじまりの用意は、はじまりじゃない「今日のダーリン」のすてきなことば

ほぼ日の「今日のダーリン」に
「ぼくらは『はじまりを、はじめよう』な人たちです」
というのがのっていた。
どういうことかというと、
「ほぼ日」というやつも、
 よたよたとスタートして、へたくそで、でたらめで、
 恥ずかしいような歩み方をしてきたものでした。
 「ほぼ日」というものが、いまも欠点だらけなのです。
 それは知っているのですが、欠点を見つめていても、
 なんにもはじまりはしません。
 それは、はじまりの用意にしかならないですし、
 はじまりの用意は、はじまりじゃないですからね。
 はじまりの用意ばかりしていると、
 はじまらないくせがついてしまいます。

そして、「ぼくらは『はじまりを、はじめよう』な人たちです」
むすんである。

ほんとは、これよりももっとまえの文にひかれて
エバーノートにクリップしていた。

「『ほぼ日』の乗組員たち、欠点だらけの人々です」

と自分たちの不完全さについてかかれたもので、
「でも、欠点山盛りでも、いろいろできる」とつづく。
クリップしたあとでそのさきをよんでみると、
そこにも、冒頭に引用したような、
すてきなことがかかれていた。
この日(6月7日)の「今日のダーリン」は
なんだかわたしのためにかかれたみたいな気がする。
引用していたらきりがないほど全文が意味ぶかい。

「やったからできた」
というのもすきだ。
あたりまえながら、やらないと絶対にできない。
まず欠点をなおしてからと、
「はじまりの準備」ばかりしていたら、
けっきょくはうごきだせない。

posted by カルピス at 21:14 | Comment(0) | TrackBack(0) | ほぼ日 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする