『しあわせのねだん』(角田光代・新潮文庫)
「三十代も後半に近づいた今、思うのは、
二十代のとき使ったお金がその人の一部をつくるのではないか、
ということである」
なんておそろしいことがかいてある。
この手のことでよくいわれるのが、
(たとえば)40代をどうすごしたかで
そのひとの50代がきまる、
いうのがある。
そんなことをいわれると
わたしの50代はもうきまってしまっているので、
いまさらジタバタしてもしょうがない、
みたいにおもえる。
すんでしまったものはしょうがない。
ま、いいか、というかんじだ。
角田光代さんの説は、
それを「お金」に限定したものであり、
「すごしかた」よりももっとリアルだ。
20代の貧乏なときに、
お金をケチらないでつぎこんだことが、
30代以降の自分をきめる。
みかえりをもとめて投資をするのではなく、
結果としてそうだった、という場合がおおいのではないか。
あとからふりかえってみると、
自分はこのことにだけはケチらなかった、
ということが自分をつくっている。
『ほんとうは怖いグリム童話』
みたいに、ちょっと目にはわからないけれど、
ヒタヒタと、確実にそのひとを形づくってしまうこわさがある。
浪費に気をつけ、節約もし、
その結果としてつまらないおとなになったら
かなしいはなしだ。
「私がもっとも恐怖するのが、
なんにもお金を使わなくって、
貯金額だけが異様に高い、ということだ」
角田さんは、そういうひとにじっさいにあったのだそうだ。
中身がなんにもなかったという。
どうすごしたか、よりも
なににお金をつかったか、のほうがより具体的だ。
だれにでもこころあたりがあるだろう。
「節約は悪だ」とか、
「無駄なことはなにもない」とかいうと
だんだんぼやけてしまう。
あくまでも「なににお金をつかったか」に
限定したほうがすっきりするし、
さらに「20代」が
その後の人生全体に影響をあたえる大切な時期といわれると、説得力がある。
いまさら手おくれなことにはかわりないけど。
どこかで、
お金はもうけ方よりつかい方で
そのひとのひととなりがあらわれる、
というのをよんだことがある。
たしかに。
桂枝雀がマクラで
「お金はさみしがりやで
ほかの仲間とくっつきたがる」
というのもきいた。
わたしが20代のときにつかったお金は、
これからわたしをどこにみちびくだろうか。