2012年06月17日

『くまちゃん』(角田光代)主人公全員がふられる連作短編集

『くまちゃん』(角田光代・新潮文庫)

連作短編集で、1話で主人公をふったひとが、
2話では主人公になってこんどはふられ、
そのふったひとが3話でふられるというつくりになっている。
1冊につめられた7つのはなしをよむと、
すべての主人公がふられるので、
こういうのを「ふられ小説」というのだそうだ。

ふられるのはだれにだってつらい体験だ。
でも、相手をふって自分のすきな生き方を手にいれたはずのひとも、
つぎのはなしでしあわせになったかというと、
そうはうまくはいかない。
自分がすきなひとのまえではまたちがう自分になり、
相手もまた自分のおもうようにはうごかない。
自分が以前ふった相手は、
いかに自分のことをおもってくれていたのかを、あとになって理解する。
いやー、恋愛ってむつかしいわ。

ふられるまでのあいだに、
それぞれのはなしでかたられるのは、
いったい人生における成功とはなんなのか、
しあわせとはなんなのか、ということだ。
まわりのひとにとってはりっぱに成功した人生でも、
本人にとってははじめにのぞんでいた手ごたえと
だんだんずれていくことがおおい。

どのはなしもそれぞれにうまくできていて、
いつもながら角田光代の才能に感心しながらの読書となった。
わたしがいちばんひかれたのは

「私はもう知ってるんだもの、
地味とかみみっちいとか、キャリアとかお給料とか、
人生にはなーんにも関係ないんだって。
なりたいものになるにはさ、
自分で、目の前の一個一個、自分で選んで、
やっつけてかなきゃならないと思うの」

という苑子の言葉だ。
彼女は1話で20代のときに「くまちゃん」にふられ、
6話でふたたび30代のぱっとしない女性として登場する。
このセリフをかたったあと、
いちじはマスコミにもてはやされながら、
いまはおちぶれてしまった(世間的には)料理人と
海辺の町でくらすことをえらび、子どもをうみ、そだてる。
苑子はしあわせになっただろうか。たぶん。

posted by カルピス at 22:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | 角田光代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする