2012年07月16日

『独立国家のつくりかた』(坂口恭平・講談社現代新書) 放課後をどう位置づけるか

『TOKYO 0円ハウス』で坂口さんは
ホームレス(ほんとは「家」はあるのだ)のひとたちが
どんな家をつくり、そこにはどんな工夫があるかを紹介した。
既成概念にとらわれない坂口さんの発想はとても斬新で、
まったくあたらしいタイプの人間があらわれたことをかんじた。

今回の『独立国家のつくりかた』では、
さらに発想を飛躍させ、「レイヤー」というきりくちで
あたらしいしくみを日本につくろうとする。
「芸術」「態度」「交易」など、
それぞれのことばにあたらしい定義をあたえ、
ほんとうに存在する「独立国家」をつくってしまう。
僕は自分でつくった新政府の総理大臣であるかもしれないが、
僕は同時にあなたがつくった新政府のなんらかの大臣であるかもしれないとも伝えた。

ここらへんはファイスブックみたいだ。
それぞれが自分を中心にしたページをもちながら、
ほかのひとのページではひとりの「友だち」にすぎない。
優劣はなく、上下関係もない。
ひとりひとりが内閣をもっているようにもみえる。

この本のなかに「学校社会と放課後社会」という項目がある。
勉強はできないけれど、工作では
すごいものをつくる土井くんという友だちがいて、
その子は、学校での評価はひくくても、
放課後をしっかり生きていた。
著者の坂口さんは、土井くんをみていて、
この社会には2つの社会があることに気づく。
「みんなが同じことをやさられる『学校社会』と
土井くんが本領を発揮する『放課後社会』」だ。
そして「放課後社会」こそ自分が生活していたい社会という結論にたどりつく。

7月からはじめた事業が「放課後等デイサービス」ということで、
わたしは「放課後とはなにか」ということがこのごろ気になっていた。
事業所のなかで、あるいは職員の意識として、
放課後をどう位置づけたらいいのか。

この本をよんで、学校とおなじことを
放課後等デイサービスがやる必要はない、
放課後でなければできないことに意味があるのではないか、
とかんがえるようになった。

学校ではどんなことをしているのか、
わたしがくわしいわけではない。
ただ、なんとなくみんながおなじことにとりくんでいるというイメージがある。
それは学校がになうべきやくわりなので、
すべてがわるいわけではないし、しかたがないことでもある。
そうであればなおさら、わたしたちがとりくむ放課後等デイサービスでは
ここでしかできない機能をはたしたいとおもう。
学校での評価を放課後等デイサービスにもちこまず、
子どもたちが自分の居場所として自由にふるまえる場所。

はっきりといえることは、学校のあまりやおまけとして
放課後が存在するのではなく、
放課後こそメインの場であるという位置づけができるということだ。
そうとらえると、国のおもわくがどうあれ、
この事業にとりくむおもしろさがでてくる。

posted by カルピス at 23:09 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする