2012年08月31日

自炊をするのが、かならずしもただしいわけではない

きのうにつづいてテレビの番組ネタだ。
きょうは『めざせ!会社の星』でやっていた「自炊」について。
自炊をしないひとがおおく、その理由として
「めんどくさい」「材料があまる」
「お金がたかくつく」「自分ひとりのためにつくる気がしない」
があげられていた。
理由なんでどんなことにもつけられるので、
それぞれは事実であっても、
それが自炊をしない本当の理由かどうかはわからない。
理由よりも、自炊をしないひとがおおい、という現象が
わたしには不思議におもえた。

わたしは完全に自炊派で、
ひとりで外食をしたり、コンビニでかったお弁当を家でたべるよりも、
とにかく自分でつくったものをたべようとする。
そのほうがほしいものをすきなだけたべられるからで、
栄養や効率の問題はぜんぜん関係がない。

簡単につくるための工夫として、包丁ではなくハサミをつかったり、
野菜を煮こむかわりに野菜ジュースとケチャップを材料につかい、
2分ちょっとでおいしいカレーをつくる方法が紹介されていた。
でも、このやり方をしったからといって、自炊をするひとがふえるだろうか。
自炊をしないひとは、したくないからしないのであり、
裏ワザに感心はしても、きっと改宗はしないだろう。
自炊と善悪は関係がなく、
純粋に個人のこのみの問題だ。

わたしがよくやるのは、

・ゆでたてのスパゲティにバターとお茶づけ
(サケなんかはいってない、できるだけやすいやつ)をかける
・バターごはん
 たきたてのご飯にバターとしょうゆをかける
どちらもあついうちにまぜるのがポイントだ。

なので、料理とよぶのも気がひけるほど簡単にできる。
こんなのをたべるくらいなら、自炊にこだわるより
お金をはらって外食やコンビニにたよったほうが
よっぽど健康にいいといわれるかもしれない。

番組のなかで、いつもは自炊をしないけれど、
やればできる、という女性がキンピラゴボウをつくった。
それをたべた会社の先輩(女性)が
「キンピラではないな。ゴボウのしょうゆ煮」といったのがおかしい。
成功ではないけど、
キンピラとは別の料理としてOKともいえるので、
いわれたほうはビミョーな表情だった。
自炊なんてそれでじゅうぶんだとおもう。

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2012年08月30日

「寝床」にみるブッダのおしえ 「落語でブッダ」

「落語でブッダ」という番組をやっていた。
落語の「寝床」をとりあげて、
そこでかたられているはなしと、
ブッダのおしえとの類似性をさぐっている。

「寝床」は、浄瑠璃ずきの旦那が、
店や長屋のひとにきかせようと「浄瑠璃の会」をひらこうとし、
まねかれる側は、なんとか理由をつけてことわろうとするはなしだ。
わたしは、桂枝雀がえんじた「寝床」を以前ビデオでみたことがある。
店子たちがめちゃくちゃな理由をつけて
浄瑠璃の会からにげようとするのがすごくおかしかった。
「寝床」といえば枝雀、枝雀といえば「寝床」を連想するぐらい、
この演目がわたしはすきで、
この日の番組では笑福亭たまが演じていた。

へたな浄瑠璃につきあわされるのは、
まわりのものにとってそれほど迷惑だったわけで、
番組によると、こうしたやりとりは
ブッダのおしえをそのままあらわしているという。
浄瑠璃をきかせたい旦那と、
ききたくないけど長屋にすみたい店子たち。
ひとはみんな、「自分の都合」でものごとをかんがえてしまう。

「自分にとらわれるとまわりがみえない」ともいっていた。
自分の都合ばかりでものごとをかんがえていると、
ひとにはそれぞれ、そのひとなりの都合があることをわすれてしまいがちだ。
◯◯したいと自分はのぞんでいても、
相手はべつの観点から
△△がいいとかんがえているかもしれない。
ちょうどこの日はおもいあたることがあり、
このことばがすんなりとお腹におちた。
ひとにはひとの都合とかんがえがある。
そうおもってすこしたかいところから全体をみれば、
「わたしが、わたしが」の旦那にならずにすむ。

番組の後半は「寝床」をはなれ、
ブッダのおしえについて説明をふかめていく。

「手にはいらないのがくるしいのではなく、
手にいれたいとおもうこころがくるしみを生みだす」

「『自分の都合』が『苦悩』をうみだす、のであり、
自分の都合をちいさくすることで、
なやみやくるしみもちいさくなる」

ブッダは、あんまり「自分」をつよくすると、
くるしみもつよくなるとかんがえていたそうだ。

いわれてみるとそのとおりだけど、
どうやったらそのおしえをいかすことができるのか。
自分からはなれるのはすごくむつかしそうだ。

posted by カルピス at 23:23 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月29日

自画自賛ではない自画自賛

8月もおわりにちかづき、
ピピを利用する子どもたちは
きのう・きょうと、「きょうがさいご」という日をむかえている。
このごろは8月から2学期をはじめる学校がおおく、
市内の中学校はきょう、小学校はあすが始業式になっている。
1ヶ月ちょっとのつきあいで、ずいぶん仲よくなれたし、
子どもたちもピピですごすことにすっかりなじんできた。
これでしばらくあえなくなるとおもうと、なんだか感慨ぶかい。

いくらわたしたちがピピの活動をみとめてもらいたくても、
利用する子どもたちが「おもしろくない」とおもえば
ぜんぜんはなしにならない。
子どもたちの反応はストレートなので、
おもしろくないところに義理だてしていくことはないし、
つまらないとなれば、すぐにそのことを保護者につたえる。
内容を得意がるのは、たんなる事業所のひとりよがりということになる。

さいわいなことにそうはならなかった。
朝、ピピについた子どもたちは
玄関にはいると自分のスケジュールを確認し、
いちにちのながれを把握する。
そのあとは活動を職員にたしかめることはなく、
自分でそれぞれの部屋へ移動して目的をはたす。
スケジュールカードをつかってすいすいうごく子どもたちをみると、
ほんとうにこのしくみをとりいれてよかったとおもうし、
自分たちのとりくみに自信をもつことができた。
自分のたべたお弁当箱を、当然のこととしてあらう姿や、
やりたい活動を自分から提案してたのしくしているところを
保護者や学校の先生にぜひみてもらいたかった。

9月からは、放課後の利用になるので、
ピピですごす時間はほんの2〜3時間となる。
そんななかで、送迎だけをうりものにするのではなく、
学校とはちがった活動やあそびのできるたのしい場所として、
子どもたちのこころをつかんでいきたい。

posted by カルピス at 21:18 | Comment(0) | TrackBack(0) | 児童デイサービス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月28日

自宅サーバーをつかってのサイト公開がうまくいかない

自宅サーバーをつかってピピのサイトを管理しようと
半月ほどまえからパソコンをいじっている。
簡単にかんがえていたのに、これがなかなかうまくいかない。

法人格をえたあと、わりとはやい段階で「guriguripipi」
(ぐりぐりピピ)というドメインを手にいれ、
ちかい将来にひらくであろう「ぐりぐり」のサイトにそなえた。
まえの職場でサイトをひらいたときには、
サーバーとして有料のものを利用したので、
ドメインさえおさえてあれば、
簡単にそのアドレスでサイトを公開できた。

しかし、今回はつかわなくなったiBookをサーバーにするため、
いろいろな設定をぜんぶ自分でしなければならない。
それでもまあ、ふつうにパソコンをあつかえる技術があれば、
サイトの公開ぐらいそうむつかしくはないだろうと楽観していた。
しかし、やりはじめてみると、
わたしにはなんのことかさっぱり理解できないことばかりだ。
きっと、よくわかったひとには造作もないことなのだろうに、
わたしにとってはなにが問題なのかさえわからないという、
こまった状況におちいっている。

いくつかのおたすけサイトをのぞいてみても、
わたしが苦労しているところなど
あまりにも基本的な前提条件らしく、
まったくふれられていないことがおおい。
ある程度プログラムをかけることが
あたりまえのこととしてもとめられている。
わたしはほんとうにおどろいてしまった。
こんなにも複雑なことを理解しているひとが
じっさいにたくさんいて、
ネット上で活発な情報交換をおこなっている。
わたしにとって別の世界でしかないプログラミングが
そこでは当然の共通言語だ。

いろいろやってみて、よくいわれるように、
世界はふたとおりのひとにわけられることがわかった。

・ひとりはプログラムを理解するひと
・もうひとりは理解しないひと、だ。

たとえば料理のつくり方を説明するときに、
コメのとぎ方や野菜のあらい方からはじめる本はすくない。
わたしがつまずいているところなど、
パソコンをある程度あつかえる人にとって、
無意識のうちにスルーしてしまうぐらい
ごく簡単な茶飯事のようだ。

それでも時間をかければいつかはうまくいくだろうと、
すこしずつパソコンをいじってきた。
うまくできたよろこびを、
このブログにかこうとたのしみにしていたのに、
しかし、当分そうした朗報を発信できるみこみがないことをようやくさとる。
完全にサジをなげてしまうまえに、
いくらかはたたかってみた証明と、
若干のいいわけをかねて、
ざんねんな中間報告をしておく。

posted by カルピス at 22:37 | Comment(0) | TrackBack(0) | パソコン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月27日

外にでたがるネコをとめることはできない

ピピのしっぽのつけねがひろい範囲でただれ、
肉がみえていることに気づいた。
ネコのけがによくあることで、
ケンカでできたキズがウミをもち、
でも外からみてもわからない状態が1〜2週間つづく。
やがてウミがやぶれてまわりの毛がずるむけになり、
ひろい範囲で肉が露出する、というタイプだ。
気づいたときは、ケガをしてから
すでにかなりの日数がすぎていることがおおく、
ひろい部分がいたんでいるので、キズのなおりもわるい。
オロナインなどの気やすめはつうじそうになく、
やすみの日だった配偶者に、病院へつれていってもらう。

手術し、ひとばん病院ですごしたピピは、
しっぽのつけねの毛をそられ、
キズ口のまわりにある健康な皮膚を、
あつめるようにぬわれてかえってきた。
写真をアップするのもためらわれるような
むごい状態だ。
主治医から状況の説明をうけ、
外にださないようクギをさされた。

外にでることになれたネコの外出をとめるのは
かんたんなことではない。
マンションのようなつくるならまだしも、
うちはふるい一軒家なので、
でいりする場所がたくさんある。
その全部に鍵をかけ、あついさなか部屋にとじこもると、
人間のほうもおかしくなりそうだ。

ネコたちはあたまがいいので、応用行動分析の成果から、
人間のする行動にはかならずまえぶれがあることをしっている。
洗濯物をほすときに人はおおきなカゴを用意するし、
わたしが出勤するまえには、リュックを玄関におく。
これらのうごきがあれば、そのあとで戸があけられることをしっていて、
どこかでじっとチャンスをうかがっている。

3日間の傷病生活で、ピピはすでに2回
外出に成功した。注意してるようでも
本気で外にでたがっているピピからみれば
人間のやることにはどこかスキがあるようで、
根気よくチャレンジをくりかえす。
でも不思議なことに、あんなにでたがっていたのだから、
これで当分かえってこないかも、と心配していると、
2回とも、ほんの10分ほどでピピはかえってきた。
そしてまたしばらくすると、
ドアの外にたって不満そうな声をあげる。
まったく、いったいピピはなにをかんがえているのだろうか。

いっしょにくらしている動物の病気やケガほど
気がめいるものはない。
いちばん大切なものは、なんといっても健康で、
それ以外はとるにたらないことなのがわかる。

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2012年08月26日

スイスのユニフォームがすてきだったU20女子W杯

U20女子W杯サッカー対スイス戦をみる。
A代表よりも、もっとパスをつないでいくサッカーだ。
ロングボールをつかわずにせめあがっていく。
テクニックはあきらかに日本がうえで、
ほとんどすべての時間帯でせめつづけ、
4-0とスイスに圧勝した。
攻撃的なサッカーはみていてたのしく、
選手の名前と顔がだんだん頭にはいってくる。

しかしミスもおおかったし、決定的な場面でも
きめきれないことがなんどもあった。
監督のはなしでは「3点とられても5点とるサッカー」
をめざしているそうだから、ミスをなくしていくよりも、
いまの年代ではどんどん攻撃すればいいという判断があるのかもしれない。

赤のシャツに白いズボンという
スイスのユニフォームがかっこよかった。
日本は男子のユニフォームをそのまま身につけているのに対し、
スイスのズボンはちょっとみじかく、そしてスリムで、
足のながいスイスの選手がはくとすごくきまっている。
日本は、A代表の選手たちの、
あのダボダボのきこなしが板につきすぎてしまい、
それ以外のユニフォームをかんがえたことがなかった。
しかし、女子のユニフォームが男子とおなじである必要はないはずだ。
せっかく世界的に日本の「かわいい」が人気をあつめているのだから、
これまでとはちがった発想からのデザインがみたくなった。

女性だから色気やかわいさを、といっているのではなく、
女子チームならではのかっこいいユニフォームがほしい。
男子とちがうデザインがなぜみられないのかを
きょうはじめて不思議におもった。

posted by カルピス at 22:02 | Comment(2) | TrackBack(0) | 女子サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月25日

『はやぶさ 遥かなる帰還』(瀧本智行監督・2012年)をみる

「はやぶさ」について、わたしは具体的なことをしらずにいた。
かんたんに紹介すると、はやぶさという惑星探査機をとばし、
3億キロはなれた「小惑星いとかわ」から
微粒子のサンプルを地球にもちかえるというプロジェクトだ。

はやぶさは、なんどもトラブルにみまわれ、
そのたびにスタッフが知恵をしぼって難局をのりこえる。
わたしは、事実としてはやぶさが無事にもどってきたことをしっている。
それでも、つぎつぎにおこる想定外のアクシデントと、
それを回避しようとするスタッフの仕事ぶりはみごたえがあった。
あたらしくプログラムをかき、
可能性とリスクをはかりにかけ、
それをしなかったとき、どれだけ後悔するかにおもいをはせる。
プログラミングの知識がないわたしにとって、
とにかくすべてをプログラムからはじまることが目あたらしかった。
どんな複雑な式をかいたら、
とおくはなれた宇宙船をあやつることができるのだろう。

アメリカ映画の『アポロ13号』をみてるみたいだったし、
スタジオジブリがさいごのおいこみをかけている状況にもにていた。
ひとつの目的にむかって、たくさんのひとが本気でかかわっている風景は、
みている側にふかい共感をもたらす。
プロジェクトをなしとげた彼らの充実感がうらやましくおもえたし、
衝突や、極限状況の疲労でさえ、自分も現場にいて体験したくなる。

「はやぶさ」をめぐって3つの映画がつくられたのだそうで、
『はやぶさ 遥かなる帰還』は、そのうち2番めに公開されている。
渡辺謙の演じる山口先生のリーダーぶりはとても立派だったし、
それぞれの担当者がみせるプロとしての仕事もよくえがかれていた。
エンディングでながれる実写は、
映画にでてくるスタッフよりもずっとじみなひとたちで、
それだけに、こういうひとたちが
日本の宇宙研究をささえてきたのだというリアリティがあった。

わたしがこの映画をみた会場は、
もとプラネタリウムだったというドーム型の部屋だ。
みあげるように画面をながめる席にすわる。
スクリーンもなく、曲線の壁にうつされのですごくみにくい。
宇宙についての作品だったからまだ我慢できたものの、
それ以外だったらおことわりしたい環境だ。

なんどかのアクシデントをのりこえ、
はやぶさは地球にかえってくる。
サンプルをのせたカプセルは
ぶじにオーストラリアの砂漠にたどりついたものの、
はやぶさ本体は大気圏突入の摩擦熱によって
ばらばらにとけてしまった。
みている側としては、
貴重な資料としてカプセルを回収できたよろこびよりも、
役目をはたしたはやぶさが
ながれ星となってきえたことにかなしくなる。

サンプルのはいったカプセルは、
ほんとにちいさなものだった。
これがどんな役にたつのか、
たしかなことはなにもわからない。
それでもこの「はやぶさ」というプロジェクトにとりくもうとするうごきは、
実利よりも夢をかんじさせる。
成功までねばりづよくかかわった
関係者の熱意がつたわるいい作品だった。

posted by カルピス at 22:07 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月24日

ピピの職員会で9月からの方針を確認する

ピピの常勤職員であつまり、8月の職員会をひらく。
利用状況と会計報告をうけ、夏やすみがおわってからの
とりくみについて方向を確認した。

営業をはじめてから1ヶ月半がすぎ、
スケジュールをいかした活動に手ごたえをかんじているものの、
客観的にはまだ無名の事業所でしかない。
はじめたばかりなのだからあたりまえのことで、
すこしずつ実力をしめして信用をかちとっていくしかない。
発達障害の特性に配慮しているピピのつよみを、
こまっている子どもたちと家族に
ひろくしってもらいたいとおもう。

わたしたちがやりたいのは
子どもたちの生活全体を視野にいれた支援であるのにたいし、
じっさいにくる依頼は
いきさきのつじつまあわせでしかないことがおおい。
せっかく相談による個別支援計画が必須になったのだから、
ピピの特徴をいかしてかかわっていきたい。
これもまた実績がなければなにもいえないわけで、
ひとつひとつのケースを大切にしながら、
事業所としての実力をたかめていく必要がある。

安定した経営のためには、
夏やすみあけの9月に、
どういう再スタートをきれるかが重要になってくる。
ピピのとりくみをしってもらえるよう
宣伝をつづけなければならないし、
おたよりをだして、ピピの特徴についても発信していくことになった。
ブログはすでにはじめているし、
サイトもちかぢかアップする(はず)。
零細企業ならではの自由をたのしみながら、
今週もはりきって世界征服をめざしたい。

posted by カルピス at 23:55 | Comment(0) | TrackBack(0) | 児童デイサービス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月23日

西部流「アメリカに勝つ方法」

オリンピックがおわったら、
こんどはU20女子W杯がはじまった。
「ヤングなでしこ」という愛称がつけられ、
テレビでもいい時間帯に試合が放映されている。
これまでU20(しかも女子)の大会が
こんなに注目をあつめたことはなかったのではないか。
「なでしこ」人気にあやかろうとして、
人気タレントを動員してのおまつりさわぎをみると、
あまりにもみえすいたもちあげ方にうんざりしてくる。
とはいえ、こうやって女子サッカーが人気をあつめることは、
宮間さんたちのねがいであることもまたたしかだ。
ニュージーランド戦からまじめにみるようになった。

わたしがもっとも信頼しているサッカージャーナリストの西部謙司が、
オリンピックでの決勝戦のあと、
「アメリカに勝つ方法」として下記の内容をメルマガにのせている。

アメリカがとってきた
これまでの戦術について整理しておくと、

・きょねんのW杯で日本にまけたことで
 日本のパスサッカーをお手本にしはじめる
・しかしなかなか成果をだすことができず、
 日本との試合でも機能しなかった
・それでまたもとにもどし、パワーを全面にだすようになる
・オリンピックまえにスウェーデンおこなわれた親善試合で
 日本に1-4と圧勝する

具体的には、アメリカは2人のフォワードと、
サイドにはる2人がたかい位置からプレッシャーにくるので、
日本がパスをまわせなくなっていたのが
オリンピックまえの状況だった。

西部さんがかんがえる「アメリカに勝つ方法」は
センターバックの間にボランチの阪口がおりるというものだ。
そうすれば5バックのようになり、
4人のアメリカにたいして数的優位をたもてる。
もしアメリカがもうひとりくわえてきたら、
日本は宮間か川澄がおりてくればよく、
さらにアメリカが人数をかけてくるなら、
最終的には日本はセンターフォワードをゼロにし、
2トップはサイドにはる。

これはバルセロナ方式なのだそうで、
ほかにもうしろでパスをまわしきるやり方が
男子ではすでにいくつもあるという。

西部さんは「やり方は簡単」とかかれているが、
ほんとにそんなにうまくいくものなのだろうか。
理論的にはつじつまがあっていても、
じっさいに日本にあった戦術かというと
わたしにはよくわからない。
どのチームでもこうした戦術をとれるわけではなく、
日本がパスサッカーを自分たちのスタイルとしているから
西部さんはこういう案をかんがえたのだろう。

アメリカとの決勝戦についての西部さんの評価は、
(うしろでパスをまわすことが)そこまで出来なかった。やろうとしている感じも見えましたけど、中途半端でしたね。
決勝では、アメリカが元気だった前半は中盤を飛ばしてロングボールを使っていました。低い位置で奪われたくないというリスクマネージメントです。戦術的には正解なんですけど、これでは進歩したとはいえないでしょう。アメリカの圧力に対して逃げているだけですから。

というもので、互角以上にわたりあった、と
一般にはおもわれているのに対し
かなり手きびしい評価だ。

日本的なサッカーを全面にだしながら、アメリカを相手に、
ほんとうにかちをねらえるようなチームがそだってくることを
たのしみにまちたい。

posted by カルピス at 22:54 | Comment(0) | TrackBack(0) | 女子サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月22日

自由についてむりやりかんがえる

あつい日がつづくと家のネコたちはたいへんそうだ。
そもそも冬とおなじ毛皮を夏もまとっているし、
ソーメンや冷やし中華などの伝統食に
すくいをもとめることもない。
アイスクリームやビールにたよることもできない。
スイカもたべない。
うち水や風鈴など、先祖からつたわる知恵で
すこしでもすごしやすくあつさとつきあったり、
「あつささむさも彼岸まで」と
これからさきの展開に希望をもつこともない。
これでよく史上もっともあついといわれる
ここ数年のあつさをしのげるものだとおもう。
120822熱い日のピピ.jpg
「雨の日のネコはとことんねむい」
という有名な格言があるように、
おなじことがあつい日についてもいえる。
ネコたちはいつもよりも切実に
からだをやすめたがっているようだ。
お腹が熱をもつのか、だいじな部分をまもることを放棄して
ぐったりねそべっているピピをみると
自由の象徴みたいにいわれるネコも、
生きることはけして簡単ではないことがわかる。

ネコのエネルギー消費量は
冬も夏もかわらない(はずだ)。
ぐったりねそべっている夏は
すこしは生産性がおちているだろうが、
そもそもエコや省エネが必要ない生活スタイルを
ずっとまえからきずいているので
電力ぶそくも関係がない。
ネコのように生きられたら、
あるいはネコにちかいスタイルでいきているひとは、
地球全体からみると
もっともほめられる生活といえるだろう。

もちろん、ひとは動物とちがうから
これだけの文明をつくりあげてきたわけだけど、
ずっとむかしにあった分岐点で、
ネコ的にいくか、自然を敵にまわして
人間の繁栄をもとめるかの選択があったはずだ。
そのことを映画にしたのが『もののけ姫』で、
「俺はタタラ場で生きる」と
森での生活からはなれることを
アシタカは決意する。

わたしは、できれば動物たちのように生きたいとおもいながら、
わたしのからだと頭は、どうしてもぬくぬくとすごせる環境をもとめてしまう。
廊下にだらしなくねそべるピピは、
それしかやりようがないからしているとはいえ、
わたしにはまねのできないレベルで自由な生活をおくっている。
よくいわれるように、自由は
お腹をすかして死ぬことをふくめての自由だ。
わたしがいちばん大切なのは自由であり、
その自由とはどれだけのことを意味するかをよくかんがえる。

posted by カルピス at 22:40 | Comment(0) | TrackBack(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月21日

14歳のむすこにどんな本をすすめるか

『消えた少年』(東直己・ハヤカワ文庫)をよんでいる途中、
あんまりおもしろいので中3のむすこにもすすめてみた。
かなりヤバイことがかいてあるけど、
そういう情報はおそかれはやかれ
少年たちの耳にはいってくるわけで、
父親がその橋わたしをしたとしても
たいした問題ではないだろうとかんがえた。

お盆で配偶者の実家にいったとき、
たいくつそうだったむすこに
たまたまもってきていた『ワセダ三畳青春記』(高野秀行・集英社文庫)を
「よかったら、よんでみる?」とわたしたら、
ほんの3時間ほどでよみおえてしまった。
この本は、高野さんが22歳から33歳にかけて
野々村荘というアパートでくらしていたときの
どうでもいいような、でもすごくおもしろいできごとをあつめた本だ。
教訓めいたはなしはひとつもなく、
唯一心配したのは、こんなお気楽な生活をおくれるのなら
大学にいきたくなった、なんていいだすことぐらいだ。

それまでにもむすこに本をすすめたことはなんどかある。
金城一紀の『フライ、ダディ、フライ』にはじまるゾンビシリーズや、
日本でいちばん最初に熱気球をとばした
『熱気球イカロス5号』(梅棹エリオ・中公文庫)がそれで、
とくに意味があるわけではなく、
ただわたしがおもしろかったから紹介しただけのことだ。
むすこは活字をよむことに抵抗はないようで、
わたされるとすぐにとりかかり、
かなりのスピードでよみおえてしまう。
これは、マンガをすすめたときもおなじで、
『フットボール・ネーション』や『まりかセヴン』など、
すすめられるとなんでもすぐにとりかかる。
ただ、おもしろかったから、そのさきもよんでみよう、
という気にはならないようで(ゾンビシリーズだけは別)、
高野さんの本も『ワセダ三畳青春記』でおわってしまった。

『消えた少年』をむすこにすすめると、
その日は友だちが家にきてあそぶ予定なのだそうだ。
べつにその日によんでほしいなんておもってなかったけれど、
なんとなくわたしそこね、
「それじゃ、ま」とあいまいなはなしにおわってしまった。
そのあとこの本をよみすすめるにつれ、
かなりグロテスクな世界に足をふみいれていることがわかった。
14歳の少年(しかもむすこ)にすすめるのは、
かなりためらわれる内容だ。
はじめにかいたことと矛盾してしまうけど、
寝た子をおこしたくない、というのではなく、
親子の関係ではしないほうがいいこともある、と判断し、
このはなしは「なかったこと」になった。
わたしはすきな本を紹介したいだけとはいえ、
親子の関係では簡単にわりきれないこともある。
もしむすこがすんなりこの本にとりかかっていたら、
わたしはどんなことばを彼にかけただろう。

posted by カルピス at 23:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | 家族 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月20日

「島根は鳥取の左側です」Tシャツをもらう

姉の家族が帰省してきたとき、
録画しておいた「鷹の爪」をみせる。
なにがしかのインパクトをあたえたようで、
東京にかえるとき、わたしに
「島根は鳥取の左」Tシャツをプレゼントしてくれた。
もちろんほんとうは逆で、
わたしがおみやげにもたせるべきところだ。
なにかものほしそうな目つきをわたしが
してしまったのかもしれない。
120820島根は鳥取の左Tシャツ.jpg
このTシャツにはいくつかのバージョンがある。
どれも吉田くんがついていることと、
「島根は鳥取の左側です」とかかれていることは
共通するものの、絵のおおきさと値段はまちまちで、
絵がちいさいほど値段がたかい傾向にある(初期のものは2600円)。
わたしが今回もらったTシャツは、
これまでみたデザインではいちばん絵がおおきく、
そして値段はやすい(1900円)。
夏はあつくてきれないほど生地がしっかりしている。
いちばんの問題点は、
いくら吉田くんが「島根は鳥取の左側です」といったところで、
おおくのひとはその鳥取県の場所すら正確に
把握していないので、島根県だけをアピールしても
県外のひとにこの情報がとどかないことだ。
初期のTシャツは、ちゃんと島根県が赤くそめられた
ちいさな日本地図がかいてあったので、
「島根はこんなところにあったのか」と
根源的な問題解決につながっていた。

そして、あたらしいTシャツの絵をよくみると、
隠岐諸島の北西に、ちいさな点がかかれている。
吉田くんがとばす汗にみえなくもないが、
きっとこれは竹島だろう。
もしかしたら、世界的には
ものすごく問題のあるTシャツなのかもしれない。

姉がこのTシャツをかったのはカラコロ工房の2階にある
「せれんでぃっぷ百々」というお店で、
わたしもなんどかいったことがある。
女主人はフロッグマンの奥さんのおばさんにあたるそうで、
かなり情熱をこめて「鷹の爪」のことをわたしにはなしてくれた。
彼女によると、島根で人気があるのは吉田くんだけど、
東京ではレオナルド博士なのだそうだ
(どんな人気投票があったのだろう?)。
姉も、中央線のつり革広告に「鷹の爪団」がつかわれていることから
吉田くんの存在はしっていた。
自己紹介のときに「島根県出身の人?」と挙手をもとめるときなど、
あんがい「かくれ島根」のひとが
東京にもおおいことを実感しているようだ。
こうやって島根を応援してくれる吉田くんは
姉にとってもちからづよい味方となるだろう。

あるサイトでは、
県の所在地がしられていない県のワースト1だった島根県が、
ワースト1を脱出したというニュースをながしている。
おめでたいようだけど、でもほんとうのところどうなのだろう。
島根のひとはこの自虐ネタにすっかりなじんでしまい、
いつまでもワースト1でいたいとおもっているのではないだろうか。

朗報としては、ややこしいことに、このごろ鳥取県が
「鳥取は島根の右側です!」Tシャツをつくっているのだそうで、
にかよったイメージをもたれている両県が、
ますますこんがらがって認識されていきそうだ。
鳥取県は島根のワースト1保持に
かげながら声援をおくってくれたのかもしれない。

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2012年08月19日

『風の帰る場所ーナウシカから千尋までの軌跡ー』(宮崎駿・rockin'on)

別の本にのっていた宮崎さんへのインタビューをよんでいたら
質問者がただあいづちをうっているだけの
あまりにもつまらない内容だったので
よみつづける気をなくしてしまった。
あたりまえながら、インタビューが生きるか死ぬかは、
インタビューをするひとにかかっている。
口なおしに歯ごたえのあるものがよみたくなり、
『風の帰る場所』をひっぱりだした。

『風の帰る場所』はrockin'on社がだしている雑誌の
『Cut』と『SIGHT』にのったもので、
インタビューは渋谷陽一さんがおこなっている。
渋谷さんは、宮崎さんのはなしを
ありがたくきくだけのつもりはなく、
インタビューというより対談にちかい内容となっている。

はなしがいのある相手にたいして
宮崎さんはとてもよくしゃべる。
はなすことを文字におこせば、
そのまましっかりとした文章になってしまうほど
はじめからととのった内容が、
宮崎さん一流の、自分のことばでかたられる。
この本は、『魔女の宅急便』から
『千と千尋の神隠し』まで、
12年間にわたっておこなわれた
5回のインタビューが1冊にまとめられている。

宮崎さんは、インタビューのなかで、
大人むけの作品はつくらない、とか、
東京での生活を応援するような映画はつくれっこない、
とはなしていながら、
のちに『紅の豚』や『耳をすませば』という作品がうまれている。
渋谷さんは、そこらへんの事情をひきだすのがとてもうまく、
なぜつくる気になったのかということ、
また、作品の構造とか図式について、
宮崎さんがなかなかこたえてくれないようなことについて、
おおくのはなしをひきだすことに成功している。
『ラピュタ』をエロチックな作品と指摘したりして、
渋谷さんならではの意外なきりくちがおもしろい。

宮崎さんについては、あまりにも有名な表現者となってしまい、
ヒューマニストとか、自然にやさしいジブリなど、
現実とはちがうことが観念的にひとりあるきしている面がある。
渋谷さんは、宮崎さんの資質にある
ヒューマニストでない部分をはやくからよみとり、
作品がちがう場所におしこまれることを懸念していた。
実は宮崎作品の持つテーマは暗く重い。子供向けの作品にもかかわらず、いや子供向けの作品であるからこそ、宮崎駿は自分の思想のすべてを懸けて作っている。(「はじめに」より)

宮崎駿とその作品について、
本人からおおくの分析をひきだしているめずらしい本だ。

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2012年08月18日

『サラの鍵』(ジル・パケ=ブレネール監督・2010年フランス)

ドイツによるユダヤ人虐殺はよくしあれているが、
本質的におなじ罪を当時のフランス政府もおかしていた。
1942年にパリでユダヤ人の一斉検挙がおこなわれ、
女性・子どもをふくむ13,000人が
食料もトイレもない屋内競技場にあつめられる(ヴェルディブ事件)。

サラは警察がアパートにやってきたときに
危険をかんじて弟をタンスにかくし、鍵をかける。
サラはこのあと両親とともに
屋内競技場につれていかれ、
やがて臨時収容所、そしてそこから男女別・年齢別にわけられて
家にかえれるみこみのない最終地点におくりこまれていく。

ナチスドイツだけでなく、フランスでもこうした事実
があったことをわたしははじめてしる。
ナチスに協力した一部のひとが「犯人」なのではなく、
それらに暗黙のうちに加担したおおくのフランス市民が
おなじ罪をせおっていまも生きている。

場面は現在にうつり、
主人公の女性がつとめる雑誌の編集会議で
パリでの事件が話題にのぼる。
これまでそのことをしらなかったわかい男性記者が、
屋内競技場の写真がのこされていないことをいぶかしがる。

「でもおかしいな、
ナチは完璧に記録をのこすのに」

一瞬の沈黙のあと、ヴェルディブ事件をおこしたのは、
ナチではなくフランス政府なのだと女性がつげる。

サラは仮収容所から脱出し、
運よくちかくの村にすむ夫婦にかくまわれる。
しばらくして、夫婦とともにパリにいくことができ、
自分たちのすんでいたアパートにかけつけ
タンスの戸をあける。

おおくの民族が負の歴史をもつ(もちろん日本も)。
この作品は、フランス国民を糾弾しているのではなく、
民族として、家族として、そして個人として、
その歴史とどうむきあうかについて  
わたしたちにといかけるところに
この作品のおくゆきがある。

歴史とどうむきあうか。
わたしの平凡な日常生活と、
ヴェルディブ事件はもちろんなんの関係もない。
しかし、わたしの責任から
まったくはなれたところであったとしても、
国や祖先がかかわった負の歴史にたいし、
どういう態度をとっていくのかは
自分の問題としてのこる。

事件をしらべるうちに、
主人公の女性はサラのむすこにたどりつき、
彼がしらなかった家族の過去についてつたえようとする。
彼は不快感をしめし、女性もまた傷つくが、
しかし、2年後に彼のほうから連絡をとってきた。
女性にはそのあいだに子どもがうまれ、
サラと名をつけている。
レストランでの再会で彼がそのことをがしると、
一瞬ことばをうしない、やがて母親の名をつけることで
母の一生を無にせずに、つないでくれたことに感謝する。

自分の、そして家族の歴史とどうむきあうかについて
それぞれがこたえをさがす。
すてきなラストシーンだった。

posted by カルピス at 23:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月17日

『消えた少年』(東直己・ハヤカワ文庫)

東直己のススキノ探偵シリーズ
『消えた少年』(ハヤカワ文庫)をよみだす。

このシリーズにははずれがない。
安心して手にとることができるありがたい本で、
ただこまるのは、
主人公の「俺」が、かっこいいセリフをはきながら
やたらとつよい酒をのむことだ。
その雰囲気にながされてわたしもつきあうと、
ぜんぜん酒につよくないわたしは
たいてい二日よいにくるしむことになる。

で、今回は環境をととのえた。
まず、ジンやウィスキーのボトルがないときによみはじめる。
そして、いちにちに2杯ときめている水わり(焼酎)の
1杯めはごくうすめにつくる。
そうすれば、2杯めをつくるときおおめにそそいでも
全体の量はいつもとかわらないことになる。
3点めとして、いつもはのまないビールをかっておいた。
もし3杯めがほしくなったときは、
焼酎ではなくビールをのめば摂取するアルコール量は
そうおおくないはずだ。だんだんつよい酒をのむから
2日よいになるのであり、
反対におわりをよわい酒にすれば
邪悪なよい方はしない、という仮説をたてる。

これだけの準備でのぞんだにもかかわらず、
そして予定どおりのコースをすすんだのに、
自分できめている適量をこえて、つぎの日は
ウィークデーとしてはつらい朝をむかえてしまった。

でも、ほんとうは、そんなことは想定内であり、
それらをふくむ全部が「ススキノ探偵シリーズ」をよむたのしさだ。
シリーズ最新作では「俺」も50代にはいるそうで、
あんなめちゃくちゃな生活をつづけた人間が、
どんな健康状態と体型で中年期をむかえているか
すごく興味ぶかい。
ひとは、ばかげたことを、ばかげているとしりつつも
やならくてはならないときがある。
軽口をたたきながら、ハードボイルドな生き方をかえない「俺」をみていると
よわい酒でもあえてつきあって
「ススキノ」の気分をあじわいたくなる。

posted by カルピス at 22:57 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月16日

ベネズエラ戦の1-1をどうとらえるか

夕べはキリンチャレンジカップとして
日本対ベネズエラ戦がおこなわれた。
わたしは後半からライブでの放送にまにあったものの、
あまりにも低調な内容に、録画した前半をみる気がしなくなった。
この試合をどうとらえるかは
みるひとによっていくぶんちがってくる。
ネットでよむことができたコラムとブログを紹介すると、

・パススピード。パスコースを作るための周囲の動き。
 パスの出し手と受け手の呼吸。
「史上最強」との呼び声まである現在の日本代表は、
 どれを取ってもさらに一段高いレベルへと
 押し上げられている印象を受けた。(浅田真樹・web Sportiva)

・久々に集まっての試合でしたが内容的には悪くなかった。
 この試合の第一の目的は最終予選イラク戦の
 「吉田の相棒探し」だったと思いますが、
 その点については目処が立たなかった。(球マニアのBLOG)

・いつでも崩せるし、何度でもやり直せる。
 正直、現在のチームは代表史上でも最高だと思います。
 W杯でベスト16は当たり前、
 8や4も狙えるチームではないでしょうか。
 難を言えば、いますぐW杯でプレーできないことでしょうか。(西部謙司)

・全体的なゲームのイニシアチブは完全に日本代表が握っていた。
 そして、これが大事なコトなんだけれど、
 我らが強者たちは、何度も、実際に追加ゴールや
 勝ち越しゴールをブチ込めるチャンスを作り出した。
 先制ゴールはホントに素晴らしかったけれど、
 それ以外にも何本も、強者ぞろいのベネズエラ守備ブロックを崩して
 (ウラの決定的スペースを攻略して)
 可能性の高いチャンスを演出したんだよ。(湯浅誠)

低調だときりすてる論調のひとはだれもおらず、
この時期や、試合の目的などをかんがえて
みんな肯定的に評価している。
選手交代にたいするみかたもそうで、
本田が1トップにはいると
わたしには攻撃がきゅうにとまったようにみえたのにたいし、
専門家たちには効果的な選択肢としてうつったようだ。
まあ、にわかファンのわたしと、
何年もサッカーにかかわってきたひとのとらえ方が
おなじほうがおかしいわけで、
小学校の授業で、できる生徒たち数人とわたしの解答が
対照的だったときの「なんだかよくないかざむき」をおもいだした。

とはいえ彼らがぜったいにただしいときまっているわけではないし、
識者の顔色をうかがってものをいうのもつまらないことなので、
W杯の予選、さらには本大会がおわるまでは
おもったことをそのままかいていこうとおもう。

トップ下にはいった中村憲剛がきゅうくつそうだった今回の選手交代は、
攻撃のオプションとなりえないことを
ザッケローニ氏にわたしはつよく指摘しておく
(いまのところはまだえらそうにかたりたい)。

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2012年08月15日

『走ることについて語るときに僕の語ること』(村上春樹・文藝春秋)

先日のスイムランがあまりにも不本意なレースだったので、
長距離をはしるということをもういちど整理したくなった。
村上春樹の『走ることについて語るときに僕の語ること』を
もういちどよんでみる。
この本は、ランナーとしてもしられる村上春樹が
マラソンやトライアスロンにテーマをしぼって本にしたものだ。
かいているときの年齢がちょうどいまのわたしにかさなり、
まえによんだときよりも自分のこととして理解できる。

40代の後半にさしかかると、
どんなに念いりな準備をしても
タイムがだんだんおちていったそうで、
それでも自分はしるしかないんだという諦観を
村上さんはかたっている。
週に300キロ以上はしりこんでも
そうした状況がおこりえるのだから、
わたしがテキトーな準備でレースにのぞみ、
なさけない結果になったとしても
あまりにも当然の結果だ。

この本をよむと、またからだをうごかしたくなった。
ひさしぶりに体育館のジムにでかける。
ちょっとまえまではあたりまえにはしれていたスピードなのに、
たった6キロしかつづかない。
スイムランで、いったいおれの心臓と肺になにがおこったのか、と
愕然とするほどからだがうごかなかったのは、
単なる練習不足だったようだ。
ちょっと練習からとおざかると、
からだはてきめんにいうことをきかなくなる。
おそくても、ヘロヘロでも、
才能もわかさもないわたしは、
すこしずつ練習をつみあげていくしかない。
諦観だけは村上さんと共有できた。

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2012年08月14日

しつこいけど女子サッカー「銀メダルおめでとう!」

NHKスペシャル
「なでしこジャパン涙と笑顔の初メダル」をみる。
彼女たちのすばらしさについて
もうなんどもかいてきたのに、
こういう番組をみるとまた胸があつくなって
ひとことふれたくなる。

アメリカに1-2でやぶれ、ロッカールームにひきあげてからも
くやしさからたちなおれない選手たちに、
「銀メダルおめでとう!」と
宮間と大野が大声でいいはじめたという。
それは、選手全員の気もちを代弁するものでもあった。
まけて残念ではあるけれど、
自分たちがこれまでにしてきたことを
ほこりにおもうというものだ。
そして、選手たちは笑顔で表彰式にのぞむことができ、
わたしは彼女たちのつよさに
またおどろかされることになる。

もちろん、どの競技の、どのメダルでも、
それぞれのおもいと価値があるわけだけど、
彼女たちの銀メダルほど「おめでとう」がふさわしいものはない。
W杯での優勝から、ずっとプレッシャーにさらされるなかで
オリンピックでの金メダルをめざし、
そしてアメリカを相手に最後まで自分たちのサッカーをみせつづけた。

選手たちが口にする
「最高の仲間と最高の舞台でプレーできてしあわせだった」を、
彼女たちの魅力にひきこまれた
おおくのひとがおなじようにかんじている。
仲間のためにプレーし、相手への気くばりもわすれない。
サッカーにおいて、笑顔とフェアプレーがどんなにすばらしいかを
おしえてくれたのも彼女たちだ。
彼女たちのサッカーをみることができ、
わたしはどれだけしあわせだったか。
「銀メダルおめでとう!」

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2012年08月13日

『フレンチ・コネクション』意味もわからず、ただたのしむ

『フレンチ・コネクション』(1971年・アメリカ)

ひさしぶりに「午前10時の映画祭」にでかける。
今週は『フレンチ・コネクション』で、
名前だけはきいたことがあるけれど、
これまでみたことがなかった。

なんの説明もなく映画は淡々とすすみ、
まるでドキュメンタリーをみてるみたいだ。
マルセイユからはじまり、
いつのまにか場面はブルックリンにうつっている。
捜査の日常がさりげなく画面におりこまれ、
暴力があたりまえの、
やわな世界ではないことがつたわってくる。

ジーン=ハックマンが演じる刑事(ポパイ)がすごい迫力だ。
マンチェスター=ユナイテッドのルーニーにそっくりで、
やることもまさにルーニーみたいにこわいものしらずの
いけいけどんどんなのがおかしかった。
タフで正義感がつよく行動力がある。
いかにもアメリカ人がすきそうなキャラクターだ。
こんな刑事においかけまわされたらそりゃおおかないだろう。
捜査ちゅうにバーにはいり、
客の黒人たちを威嚇して情報をひきだす場面がある。
そのやり方がめちゃくちゃで、
暴力をふるいながら、まったくためらわず
ながれるように捜査をすすめる。

映画のおわり方が唐突で、正直なところわたしには、
いったいなにがおこったのかよく理解できていない。
フランスから麻薬がはいることはふせげたが、
最後のところで捜査が失敗したようにもおもえる。
そもそもこの作品はなにがえがきたかったのだろう。

わたしが映画にもとめることのひとつはリアリティで、
その意味でこの作品はたかい水準にある。
いかにも現場でおこなわれていそうな「ガサいれ」や、
犯人がレストランで優雅に昼食をとるあいだ
外でさむさをこらえながら、ただまつしかない、
というシーンもよかった。
まずそうなコーヒーをとちゅうでのむのをやめ、路上にこぼす。
こうした細部にこだわっているから、
みるほうは安心して作品の世界にひたれるのだろう。
意味もわからずたのしめた不思議な作品だった。

posted by カルピス at 22:32 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月12日

『カフーを待ちわびて』よりも『楽園のカンヴァス』からがいいかもしれない

『カフーを待ちわびて』(原田マハ・宝島社)

原田マハのデビュー作で、
第1回日本ラブストーリー大賞を受賞している。
サッカーずきにとって「カフー」といえば
もとブラジル代表の選手であり、
この作品が発売されたときからタイトルが気になっていた。
「カフー」とは沖縄のことばで「果報」のことなのだそうで、
はなしのなかでしょっちゅうこのことばがでてくる。

率直にいって、そうたいしたはなしではなかった。
与那喜島で雑貨屋をいとなむ青年のもとに、
幸といううつくしい女性が
「お嫁さんにしてくださいますか」とあわられる。
島のリゾート開発、青年のおいたちがからんできて、
それなりによませるものの、
いまひとつはいりこめない。
あったこともない、わかくてうつくしい女性が
「お嫁さんにしてくださいますか」なんてありえないはなしで
(そのわけはさいごにはあかされるものの)、
もうすこしじょうずな設定でないと
おとぎばなしについていくことができない。

主人公の明青(あきお)という青年にイライラさせられた。
右手に麻痺のある明青は、カッとなったときには「1,2,3」と
みっつかぞえることを子どものころにお母さんからおしえられる。
たいていのことは、これでやりすごすことができるといい、
明青はおとなになったいまもそれをやりつづける。
幸にたいする態度がにえきらず、肝心なことをなにもはなせなのも、
こういう「まち」の姿勢が関係するわけで、
しだいに自分にとって幸が大切な存在であることに気づき、
こんどあったらかならず気もちをつたえると
なんどもちかいながら、けっきょく最後まで口にできない。
まるで『北の国から』で、純がおなじあやまちを
延々とくりかえしているみたいだ。
もう、いいかげんにしろと、わたしはサジをなげた。

明青がいっしょにくらしている犬(ラブラドール犬)の名前もカフーで、
こちらはまあ脇役といったところだ。
気になるのは、明青たちがたべのこした
(おおめにつくった)夕ごはんがカフーの食事になっていることで、
沖縄料理の残飯をたべるシーンがなんでもでてくる。
ラブラドール犬の食事としてこれはありなのか。

さいごまでよめたのは、
与那喜島のうつくしさや、
沖縄の伝統的な文化がものがたりのなかに
うまくはいっていたからかもしれない。
ストーリー自体よりも、与那喜島そのものが主役ともいえ、
この島へいってみたくなった。

『読むのが怖い!Z』によると、
最新作の『楽園のカンヴァス』で
原田マハはおおきくばけたのだそうだ。
なんのまえぶれもなしに
いきなりこの作品がよくなっているのに
2人の書評家(北上次郎・大森望)がおどろいている。

『カフーを待ちわびて』だけなら
そのさきつづけてよもうとはおもわないけれど、
2人がこれだけいうのなら、とリストにのせた。
原田マハの作品にとりかかるなら、
『楽園のカンヴァス』からはじめるほうがいいかもしれない。

posted by カルピス at 22:30 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする