2012年09月08日

『エンディングノート』どこまでもとりつづける砂田監督のカメラがすごい

『エンディングノート』(砂田麻美監督・2011年)

きょうから島根映画祭がはじまる。
県民会館で上映された『エンディングノート』をみる。

定年後の生活をはじめて2年たったとき、
69歳の砂田知昭さんは胃ガンを宣告される。
ガンはステージ4で、手術ができない状態だった。
この作品は、次女である砂田麻美監督がそれからずっとカメラをまわし、
亡くなるまでの8ヶ月間、そして葬儀がおわるまで、
父親をとりつづけたドキュメンタリーだ。

砂田知昭さんのキャラクターがよかった。
69歳であれだけおしゃべりができる男性は
あまりいないのではないか。
カメラをむけられても笑顔をみせ、
ごくふつうにふるまう砂田さんでなければ
この作品は成立しなかった。
末期のガンがみつかってもとりみださずに、
自分の葬式までに必要なさまざまな段どりをとろうとする。
音楽もナレーションもあかるいし、
なによりも砂田さんが深刻ぶってしずみこまないので、
みている側はかなしみにおしつぶされることがない。
死をむかえる8ヶ月のあいだにたくさん家族とおしゃべりをし、
亡くなる直前まで家族にかこまれて、
砂田さんはしあわせだったのではないか。

なによりも、ずっとカメラをまわしつづけた砂田麻美監督の存在がおかしい。
カメラを意識しないでみんながはなしているので、
よほどじょうずに自分をけしているのか、
あまりのしつこさにまわりがあきらめているのか。
「ここはとらないで」とお父さんがオフレコをもとめても、
監督はちゃっかりカメラをまわしている。
亡くなる直前に、お母さんがお父さんだけにはなしをしようと、
「席をはずして」と部屋にいるひとたちにたのんでも
病室にのこって撮影をつづけている。
まあ、ちょっと配慮が必要かな、というときに
いちいちカメラをさげていたのでは、
あたりまえの作品にしかならないだろう。
そういえば、ひとが亡くなるまでを
こういう形で記録した映画は、
ありそうだけど、これまでみたことがない。
家族間の信頼関係がなければ、
あそこまでカメラをむけられないだろう。

5月にガンを宣告されてから、
すこしずつ知昭さんはやせていき、
12月にはいるといっきに体力をうばわれる。
それでも人間はなかなか死なないもので、
「このまま意識がもどらなくてもおかしくない」
といわれてもなお、しっかりした意識をたもっている。
ベッドにねながら携帯電話で実のお母さんにお礼をいったり、
長男と葬儀の段どりをする場面がおかしくて、
場内からたびたびわらいがおこる。
孫たちにあいたい気もちや、家族にかこまれているという安心感が
知昭さんの気もちをささえているのだろう。
お医者さんが「なんであれくらい元気でいられるかが不思議」
というほど死の直前までしっかりしている。

12月29日に知昭さんは亡くなる。
それでも映画はおわらない。
葬儀のうちあわせや式場の様子も、
砂田麻美監督はずっとカメラにおさめている。
知昭さんがエンディングノートにかいたことばが
葬儀の映像のあいだ家族にむけてかたられる。
かなしさよりも、すべてがみたされた印象のつよい、いい亡くなりかただ。
死をうけいれていた知昭と、
そしてそれをささえた家族の両方がすばらしい
(カメラをまわしつづけた監督も)。

posted by カルピス at 22:02 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする