1月から12月まで、なんだかんだと行事をいわって
お酒をのむ口実にしている歌があった。
「1月は正月で酒がのめるぞ」という、あれだ。
こんなふうに、たしかにいろんなことを理由に
お酒をのむことができる。
1年は記念日だらけともいえるし、
もっと個人的なこと、たとえば
日本代表がかったといってはのみ、
ネコのケガがなおったといってはおいわいすることも
あたりまえのこととして可能だ。
理由はなんだっていいわけで、
自分の誕生日だけでなく、家族の誕生日、
大切なひとの命日とか、残念なことがあったときも
お酒をのむ口実になりやすい。
禁酒やダイエットをしたことのあるひとは、
いかにおおくの、のみ・たべる口実があふれているかを実感しているだろう。
けっきょく、すべては習慣の問題かもしれない。
こういう場合はお酒をのむ、というパターンを脳がおぼえてしまうと、
以前体験したことをおなじようになぞろうとする。
角田光代の短篇集『太陽と毒ぐも』には、
記念日フェチの女性がでてくる。
出会った記念日、キスした記念日、○○記念日、交際決定記念日、おどろいたことに、このあいだ話を聞いていたら「ディズニーランド記念日」というものまでクマコのなかにはあるらしかった。
それらの日を、クマコさんはいちいち記念日としておいわいするために、
レストランを予約し、パートナーにも当然それにつきあうことをもとめる。
クマコさんが記念日にこだわるのは、
そうすることで自分の気がすむからであり、
ひとの気がすむということは、
習慣としているとりきめを、
つづけられるかどうかということにかかっている。
習慣にこだわると、ろくなことがない。
ひとは習慣から自由に生きることはできないのだろうか。