録画しておいた『ETV特集 地球の裏側で”コシヒカリ”が実る』をみた。
番組は、ウルグアイでコシヒカリの栽培をはじめた
田牧一郎さんのとりくみをおいかけている。
田牧さんはこれまでアメリカ合衆国のカリフォルニア州で
短粒種のコメ、のちにはコシヒカリはつくった経験があり、
「日本のおいしいコメを、もっと世界にひろげる」ことをめざしておられる。
「日本のコメはおいしい」ことへの自信はゆるぎない。
そして、じっさいに田牧さんがつくったコメをたべたひとは、
台湾のコメ輸入業者や、ウルグアイの料理関係者にも、
そのおいしさはみとめられている。
ウルグアイでつくったコシヒカリを、
ハリウッドにあるフランス料理店にもっていき、
シェフがリゾットにして味見をすると、
ほかのコメにはないおいしさをすぐにみとめた。
ほんとうに、あきらかにちがうレベルの「おいしさ」があるのだ。
ただ、ご飯だけをお皿によそっての試食では賛否がわかれる。
コメのほんとうのおいしさは、だれもがわかるわけではなく
おいしいおコメなら、おかずなしでもおかわりができるという
日本人の嗜好と味覚は、世界的にみると特殊なものかもしれない。
田牧さんが日本のファーストフード店でだされているご飯をあじわうと、
表情をくもらせる。
コメがわれ、ひどい状態のものがだされているそうだ。
わるいコメの「まずさ」に気づかないひとがおおくなるということは、
おいしいコメをのぞみ、そのコメをそだてる技術をたかめてきた
日本のつよみがうしなわれることであると田牧さんは懸念されている。
しかし、日本のコシヒカリのおいしさを世界につたえるということは、
コメについて味覚オンチのひとたちにも
日本のコメをおいしいとおもってたべてもらうことでもある。
ちがういいかたをすると、だれにでもわかるおいしさだったから
田牧さんがカリフォルニアでつくったコシヒカリは
アメリカ合衆国のひとたちにうけいれられたのだ。
おいしいお米をつくれば、そのおいしさは
お米に不なれなひとにでも理解できるということが、
田牧さんがコメをうるうえでの前提条件となっている。
そうであるなら、日本にいながら食文化を完全に破壊され、
どんなお米でもちがいがわからなくなっているひとたちにも
田牧さんがつくるコメのよさはつたわるはずであり、
いまさらコメについての日本の状況を
なげかなくてもいいようにおもった。
もうひとつ疑問がある。
「日本のコメはおいしい」は、どれだけ普遍的なことだろうか。
わたしはタイでたべるタイ米をおいしいとおもうし、
ネパールのダルバートには、もちもちした日本のコメよりも、
インディカ種のほうがむいているとおもう。
きょねんたずねたカンボジアでは、
ボソボソしたカンボジア米があたりまえにたべられており、
カンボジア料理にはそっちのほうがあっているとおもった。
世界中のひとびとが、おにぎりや寿司に代表されるおコメのおいしさを
ほんとうにうけいれられるのか。
さらにいえば、人類の歴史において、
人々がなにをどうやってたべたかは
その土地の環境によってちがってくる。
そうやってひきつがれてきた食文化を
「日本のコメはおいしい」からと
ひろげていいものなのか。
新大陸のジャガイモやトマトが世界中にひろがったように、
日本の短粒種が世界の食生活をかえるようになるのだろうか。
それはしてもいいことなのか。
ちがうみかたもできる。
栽培植物をたべるようになってからの人類の歴史は、
それ以前の歴史からくらべれば、ほんのわずかな期間のことでしかない。
その意味からは、世界の食文化はまだまだ再編成されていくものであるし、
コシヒカリのおいしさを世界の人々がみとめれば、
人類の食文化がおおきくかわっていく可能性もある。
それは大改革かもしれないし、多様性というちいさな変化かもしれない。
世界のあちこちをまわって
コメづくりの夢をおいかける田牧さんはとてもたのしそうだ。
「日本のコメはおいしい」という信念が
これからの食文化をどうかえていくのだろう。