『麗しのサブリナ』(1954年・アメリカ)
「午前10時の映画祭」は、先週の『シャレード』につづき
ヘプバーン主演のものだった。
この作品についてもわたしはなんの知識がなく、
上映がはじまってもヘプバーン以外はだれがえんじているかもわからない。
ライナスはハンフリー=ボガートで、
デイヴィッドはウィリアム=ホールデンだったなんて。
しかし、みおわったときの感想は、
「なんだかなー」とすっきりしないものだ。
なんなんだこの作品は。
ひとの気もちというものは、
こんなにうわっつらだけの、かるいものなのか。
こんなどうでもいいような、コメディですらない作品に
わざわざハンフリー=ボガートがでなくてもよさそうなのに
(ボガートというと『カサブランカ』のしぶさをおもってしまう)。
ヘプバーンはたしかにすてきだったけど、
ただそれだけで映画をつくろうとしたみたいだ。
彼女がなぜ人間的にからっぽそうなデイヴィッドにそんなにひかれるのか。
そして、そんなにすきだったデイヴィッドから
簡単にライナスへこころがわりするものだろうか。
おもいつめていたにせよ、父親をおいて自殺をこころみるサブリナに全然はいりこめなかったし、
パリでの料理教室風景もすこしもおもしろくない。
ビリー=ワイルダーの演出とは、この程度のものなのか。
パリで2年間をすごし、うつくしい女性に成長したサブリナがふるさとにかえってくる。
人間的にもおおくのことをまなんだ彼女が、
あいかわらずからっぽのままのデイヴィッドを
「人生はあなたがおもっているほど簡単ではないの」と、
かるくいなす展開かとおもったのに、
じつは彼女もまったくかわっていなかった。
以前とおなじようにデイヴィッドにひかれ、
以前あこがれていた舞踏会でのダンスにうっとりする。
これではうつくしいだけで、頭がからっぽの残念な女性でしかない。
ヘプバーンはたしかに魅力的だけど、
作品もまたそれだけのものにしあがっているかというと
全然そうではない。
この作品への評価のたかさはなにかのまちがいではないのか。
しばらくは映画のなかでながれていた『バラ色の人生』が頭のなかでなりやまない。
でも作品全体への印象はあまりよくない。