ピピの調子がわるいので病院へ。
3日ほどまえからねている時間
(いまおもえば「うごけない」時間)がながくなり、
きのうからはご飯もあまりたべない。
ただ、ほんの1ヶ月ほどまえにしっぽのケガをしたとき、
カラーをまいてケージにいれるようにいわれたのに、
そとにでたがるピピにまけて先生の指示をまもれなかった。
さいわいキズがきれいになおったけど、
本来なら病院で抜糸をしてもらうところを、
なんだかいきにくくて、わたしが自分で糸をぬいた、という経緯がある。
なにもなかったような顔をして病院をたずね、
「このまえの抜糸はどうされましたか?」
ときかれたときに、
「自分でやりました」
とはちょっといいにくい。
病院にいきにくい、というのは、こんな、
ほんのささいなことでも理由になるもので、
たとえば虐待をした保護者は、なかなか外部の人間に相談しにくいだろう、
なんてことも、ふと頭にうかんできた。心境としては理解できる。
ケガの原因をたずねれば嘘をかさねることになるだろうし、
いちどついた嘘は、さらにほかのいいわけをまねく。
病院へいきにくい心理として、
ピピのしっぽのときのように、あきらかにこっちがわるいけど
なんとなくいきにくくなることのほかに、
先生になにか不本意ないい方をされたり(一方的にきめつけられたり)、
むこうがただしいことはわかっていても(生活習慣病なんかそうだろう)、
なかなかいわれたことをまもりにくいこともある。
病院・先生とのつきあい方は、一筋縄にはいかないことがおおい。
ピピについては、わたしの面子がどうこうよりも、
ピピにげんきになってもらわないと
わたしがつぶれてしまいそうだ。
わたしのためにもピピはずっとげんきでいてもらわないとこまる。
いろいろなことをおもいながらピピをつれて病院へいくと、
受付でさっそく「この子は抜糸がまだでしたね?」と確認される。
「なんとなくとれました」とモゴモゴいうと、
それ以上の追求はなく、第一関門突破というかんじだ。
じっさいの診察では、さすがに先生は大人の対応で、
抜糸をわたしが自分でやったことへのおとがめはまったくなく、
さっとしっぽのなおり具合をみて
「きれいになおりましたね。
まだ一糸のこっているのでとっておきましょうね」
とピピがよくなおったことを率直によろこんでくださった。
ちゃんとケージにいれないと、とか、
抜糸を自分でやるなんて、と
とがめられると、これからさきかよいにくくなるけど、
先生の意識にあるのはいつも目のまえの動物のことであり、
わたしの面子ではない。
わたしがよくない対応をして動物がくるしむことになれば
先生は本気でおこるし、
症状がよくなると、自分のことのようによろこんでくださる。
ピピの様子をみて先生は、
「腎不全かもしれないので、保水をして様子をみましょう」
といわれる。
表情や口のなかの状態、それにくしゃみなどがないことから、
いわゆる「感染症」ではなく、
あるき方にへんなところもないので、ケガでもなさそうだ。
腎臓の病気はネコがよくかかるもので、
以前かっていたネコ(カルピス)も腎不全といわれてから
定期的な保水(点滴で水分をおぎなう)にかよったことがある。
保水をして家にかえるとピピはすこし元気がもどり、
毛づくろいをしたり、家の点検をはじめた。
でも、まだ本調子ではないことはあきらかで、
みている側にとって心配な状態だ。
いまはしずかにみまもるよりなく、
なんとかいつものピピにもどってくれることをねがってからだをなでる。