『タクシードライバー』(1976年・アメリカ マーティン=スコセッシ監督)
印象にのこる場面がおおい作品だ。
これまでになんどもみていながら
しっかり筋をおってみるというよりも、
場面ばかりが記憶にのこっている。
ロバート=デ=ニーロのあるきかたと独特な笑顔、
ジョディ=フォスターにデ=ニーロが説教じみた忠告をするデート。
ハーヴェイ=カイテルが演じる調子のいいポンびき。
なによりも夜のニューヨークの町なみ。
まともそうなひとから、いかにもあぶなそうなのまで、
雑多なひとたちがすむ大都会。
バックにながれるサキソフォーンが耳からはなれない。
都会の無機質さをさらにきわだったものにしているのが、
タクシードライバーという職業なのだろう。
いろんな客をのせてどこへでもいくけど、
もちろんそれでふかい関係性がうまれるわけではない。
あいさつをかわす程度の顔なじみはいても、
気のゆるせる友だちはおらず、
仕事のあいまにドライバー仲間とはなす程度の人間関係だ。
なにをかんがえているのかわからないタクシードライバーのはなしが
なぜこんなにつよい印象をのこすのだろう。
いかれたベトナム帰還兵のトラビス(デ=ニーロ)が
社会をよくするという正義感にかられる。
大統領候補を狙撃しようとするが、事前にはばまれ、
12歳の少女をすくうことに目的をきりかえる。
少女のまわりにいるポンびきをころし、
自分もけがをするが、偶然がかさなり、
少女をすくった英雄と新聞でたたえられる。
あらすじを文字にすると、
すごくうすっぺらなものがたりでしかないのに、
映像となるとリアリティがすごい。
俳優たちの演技だけでなく、
1976年という時代背景が
決定的に影響をあたえている。
ベトナム戦争が泥沼化していること。
大統領選の運動がおこなわれている年であること。
おおくのひとが社会と人生にいきづまりをかんじている。
映画のラストでは、トラビスをいちどふったベッツィーが
客としてトラビスのタクシーにのる。
少女をすくってヒーローになったトラビスにたいし、
ベッツィーはなにかいいたそうだ。
自分のアパートの前でタクシーをとめたのだから、
そのさきにふくみももたせたのだろう。
でも、トラビスはなにもいわずに車をだし、
夜のまちにまぎれこむ。
トラビスはもう社会へのしかえしをおえ、
気がすんだのだろうか。
とびきりの笑顔だけど、いかにもつくったようにもみえる彼のほほえみからは、
トラビスの胸のうちをさぐることはできない。
2012年11月30日
2012年11月29日
島根県での行動援護研修に参加する
島根県の行動援護研修がきょうまでの3日間おこなわれた。
わたしのうけもちは、2日目の「アセスメントについて」のコマで、
それがなんとか無事おわりほっとしている。
アセスメントとはなにかについて、
いちにちかけておさえていくのですごく気をつかう。
カンや経験にたよるおもいつきの支援ではなく、
障害特性に配慮して支援計画をたてていく、という内容だ。
毎年この「アセスメントについて」を担当しているので、
いいかげんスラスラはなせるようになればいいのに、
いつも復習をよほど丁寧にやらないとおもったことがつたえられない。
5年前の中央セミナーで、わたしははじめてこの行動援護研修に参加した。
当時わたしがうけもっていた利用者の方への支援がうまくいかず、
頭をかかえていたときのことで、
ほんとうにありがたいタイミングだった。
全国ではこんな支援が標準でおこなわれているということにおどろき、
島根でもはやくこれをもちかえってひろめないと、と
興奮つづきの3日間だったことをおもいだす。
講師は行動援護研修のテキストをつくられた方々で、
当事者からじかにきくはなしはとても迫力があった。
いまおもえば最高に豪華な講師陣だ。
行動援護のこのテキストをつくったスタッフは、
よくあれだけ密度のこいものを
短期間にしあげたものだと、研修のたびに感心する。
こまかな点まで配慮がいきとどいており、
はじめて自閉症の方への支援にはいるヘルパーにとって
適切なマニュアルとなっている。
研修をいまの形までととのえたプロジェクトチームの方々に感謝したい。
そうはいっても、できあがってから5年以上たち、
本来なら手をくわえる時期にきているだろう。
チームの方々によって、つぎのうごきがとりはじめられているときく。
行動援護サービスがひるまっていけば、
地域移行のためにかかせないツールになっていくだろう。
島根県の場合、このサービスがあまり利用されておらず、
従業者研修に参加しても、
このサービスを提供しようとする事業所はそうおおくない。
自閉症の方々にいい支援をとどけることで
よろこびをかんじるような職員がそだたないと、
なかなか実用となるサービスにならないのだろう。
行動援護サービスがひろまっている町は、
あつい気もちでこのサービスにとりくんでいる事業所が
連携しながら切磋琢磨している。
今回島根の研修にかかわったインストラクターは、
5名のうち3名が50代だ。
もっとわかい支援者が中心となってこのサービスにかかわらないと、
いつまでも名目だけのサービスにとどまってしまう。
応援団としてはいくらでも旗をふるので、
じっさいの支援にたずさわりたいという
事業所と支援者がふえることをねがっている。
わたしのうけもちは、2日目の「アセスメントについて」のコマで、
それがなんとか無事おわりほっとしている。
アセスメントとはなにかについて、
いちにちかけておさえていくのですごく気をつかう。
カンや経験にたよるおもいつきの支援ではなく、
障害特性に配慮して支援計画をたてていく、という内容だ。
毎年この「アセスメントについて」を担当しているので、
いいかげんスラスラはなせるようになればいいのに、
いつも復習をよほど丁寧にやらないとおもったことがつたえられない。
5年前の中央セミナーで、わたしははじめてこの行動援護研修に参加した。
当時わたしがうけもっていた利用者の方への支援がうまくいかず、
頭をかかえていたときのことで、
ほんとうにありがたいタイミングだった。
全国ではこんな支援が標準でおこなわれているということにおどろき、
島根でもはやくこれをもちかえってひろめないと、と
興奮つづきの3日間だったことをおもいだす。
講師は行動援護研修のテキストをつくられた方々で、
当事者からじかにきくはなしはとても迫力があった。
いまおもえば最高に豪華な講師陣だ。
行動援護のこのテキストをつくったスタッフは、
よくあれだけ密度のこいものを
短期間にしあげたものだと、研修のたびに感心する。
こまかな点まで配慮がいきとどいており、
はじめて自閉症の方への支援にはいるヘルパーにとって
適切なマニュアルとなっている。
研修をいまの形までととのえたプロジェクトチームの方々に感謝したい。
そうはいっても、できあがってから5年以上たち、
本来なら手をくわえる時期にきているだろう。
チームの方々によって、つぎのうごきがとりはじめられているときく。
行動援護サービスがひるまっていけば、
地域移行のためにかかせないツールになっていくだろう。
島根県の場合、このサービスがあまり利用されておらず、
従業者研修に参加しても、
このサービスを提供しようとする事業所はそうおおくない。
自閉症の方々にいい支援をとどけることで
よろこびをかんじるような職員がそだたないと、
なかなか実用となるサービスにならないのだろう。
行動援護サービスがひろまっている町は、
あつい気もちでこのサービスにとりくんでいる事業所が
連携しながら切磋琢磨している。
今回島根の研修にかかわったインストラクターは、
5名のうち3名が50代だ。
もっとわかい支援者が中心となってこのサービスにかかわらないと、
いつまでも名目だけのサービスにとどまってしまう。
応援団としてはいくらでも旗をふるので、
じっさいの支援にたずさわりたいという
事業所と支援者がふえることをねがっている。
2012年11月28日
ひとの「たいしたことなさ」がうまい角田光代の『庭の桜、隣の犬』
『庭の桜、隣の犬』(角田光代・講談社文庫)
きゅうに角田光代の本がよみたくなって、
本棚にあったこの本を手にとる。
エッセイや短編ではなく、長編小説という気分だったのだ。
とくにどうというはなしではないけど、
角田光代はちゃんとよませてくれる。
でてくる男も女も生理まるだしで、
ずるいことや自分の都合ばかりいっている。
わたしは男なので、角田光代の本をよむことで
女性にへんな期待をもたなくなった。
女性に失望した、という意味ではなく、
男も女もみんないっしょだ、というのがわかったというかんじ。
女性の読者は男性の本音の部分をしるのではないだろうか。
それは相手がわるいのではなく、
人間なんてそもそもたいしたことないので、
それがあたりえなのだ。
そんなことをさりげなく気づかせてくれるところが
角田光代のうまさであり、こわさでもある。
「そうちゃん、私たち、離婚しても何もかわらないね」
橙に染まる自分の手を見て房子は言った。
「はあー? 結婚や離婚で何かがかわるとか期待するのが
おかしいんじゃないの。
女性誌のコピーじゃあるまいし」
「かわると期待してるんじゃなくて、
ゼロのものにゼロを足してもゼロじゃん?
何か、私たちが何をやってもゼロになる気がするんだよね」
「口から唾をとばして力説しながら、
自分の口をついて出るその言葉の、
どれをも信じていないことに房子はそのたび気づいたが、
けれど信じてもいない言葉はなめらかに飛び出してきた」
うそをつこうとしているわけではないのに、
口をついてでることばは自分がおもってもないことばかり。
それで「房子」に嫌悪感をもつかというと、そうではなく、
そんなたいしたことなさをかかえながら、
いっしょに生きていければいい、とおもえるのが角田光代だ。
すこしまえに村山由佳の『ダブルファンタジー』に手をだした。
スケベおやじとして「どれどれ」というかんじだったのに、
ぜんぜんおもしろくなくて、とちゅうでなげだしてしまった。
わたしにとってのリアリティがない。
この程度の作品が、なんで賞をとったのか不思議におもう。
角田光代や三浦しをんをよんだあとだったのが
よくなかったのだろうか。
うまい小説のあとではへたなはなしをうけつけない。
この本は、角田光代の作品のなかではたいしたできではないだろう。
でも、あえていえば、だからこそ、
角田光代のエッセンスがつまった角田光代らしい作品になっている。
角田光代の本に特別なひとはでてこない。
みんなそこらへんにいそうなふつうの男と女で、
そのひとたちが生理をさらけだすのにいやらしさがない。
どれをよんでも、「うまいなー」と感心し、
作中の人物を肯定的にみることになる。
わたしの「たいしたことなさ」が
角田光代のかく、人間のあたりまえなひくさと、
きっと相性がいいのだろう。
きゅうに角田光代の本がよみたくなって、
本棚にあったこの本を手にとる。
エッセイや短編ではなく、長編小説という気分だったのだ。
とくにどうというはなしではないけど、
角田光代はちゃんとよませてくれる。
でてくる男も女も生理まるだしで、
ずるいことや自分の都合ばかりいっている。
わたしは男なので、角田光代の本をよむことで
女性にへんな期待をもたなくなった。
女性に失望した、という意味ではなく、
男も女もみんないっしょだ、というのがわかったというかんじ。
女性の読者は男性の本音の部分をしるのではないだろうか。
それは相手がわるいのではなく、
人間なんてそもそもたいしたことないので、
それがあたりえなのだ。
そんなことをさりげなく気づかせてくれるところが
角田光代のうまさであり、こわさでもある。
「そうちゃん、私たち、離婚しても何もかわらないね」
橙に染まる自分の手を見て房子は言った。
「はあー? 結婚や離婚で何かがかわるとか期待するのが
おかしいんじゃないの。
女性誌のコピーじゃあるまいし」
「かわると期待してるんじゃなくて、
ゼロのものにゼロを足してもゼロじゃん?
何か、私たちが何をやってもゼロになる気がするんだよね」
「口から唾をとばして力説しながら、
自分の口をついて出るその言葉の、
どれをも信じていないことに房子はそのたび気づいたが、
けれど信じてもいない言葉はなめらかに飛び出してきた」
うそをつこうとしているわけではないのに、
口をついてでることばは自分がおもってもないことばかり。
それで「房子」に嫌悪感をもつかというと、そうではなく、
そんなたいしたことなさをかかえながら、
いっしょに生きていければいい、とおもえるのが角田光代だ。
すこしまえに村山由佳の『ダブルファンタジー』に手をだした。
スケベおやじとして「どれどれ」というかんじだったのに、
ぜんぜんおもしろくなくて、とちゅうでなげだしてしまった。
わたしにとってのリアリティがない。
この程度の作品が、なんで賞をとったのか不思議におもう。
角田光代や三浦しをんをよんだあとだったのが
よくなかったのだろうか。
うまい小説のあとではへたなはなしをうけつけない。
この本は、角田光代の作品のなかではたいしたできではないだろう。
でも、あえていえば、だからこそ、
角田光代のエッセンスがつまった角田光代らしい作品になっている。
角田光代の本に特別なひとはでてこない。
みんなそこらへんにいそうなふつうの男と女で、
そのひとたちが生理をさらけだすのにいやらしさがない。
どれをよんでも、「うまいなー」と感心し、
作中の人物を肯定的にみることになる。
わたしの「たいしたことなさ」が
角田光代のかく、人間のあたりまえなひくさと、
きっと相性がいいのだろう。
2012年11月27日
毎年かならず「わるくない」ボジョレーの評価
新酒のおいわいからすこしおくれて、
いただきもののボジョレーヌーボーをのんだ。
ああだこうだいえるほど、わたしはワインにくわしくない。
でも、このボジョレーはとてもおいしかった。
自分でかいておきながらなんだけど、
こういうきりだし方はよくみかける。
「くわしくない」なんていっておきながら、
けっきょくうるさいことをそのあとかきつらねる、イヤミな文章だ。
「わたしはグルメではないが、」というかきだしもいっしょで、
いろいろとエクスキューズしておいて、
そのさきでしっかりグルメなことをかく。
「みんなわたしはグルメではい、といいながら
かくけど、わたしはほんとうにグルメではない」
とさいげんなくおなじことをくりかえしている。
みんなグルメといわれるのはいやがるのに、
味についてなんだかんだいいたがるのはどうしてだろう。
これからわたしがかくのは、
ほんとうにワイン通やグルメなどと関係のない、
ただおいしいかおいしくないかだけのはなしだ。
今年のボジョレーはおいしかった。
なぜおいしいとわかったかというと、
そのあとにぜんぜんいただけない、
ものすごいできのワインをのんだからだ。
これは配偶者が出張のときにおみやげとしてかったもので、
商品名をだすのはきっとよくないだろうけど、
でもいいたくなるほどつくづくとまずかった。
のみこむのに気合が必要で、
寝酒に、とおもってコップ1/3くらいにいれたのが
なかなかのみほせない。
なぜこんなひどいものを商品、それもおみやげとして
うることができるのかほんとうに理解にくるしむ。
口なおしに、と料理用につかっている
チリ産赤ワイン1,8リットル紙パックいりをのむと、
これもまたおなじようにひどい味に顔をしかめる(比喩ではない)。
でも、1年くらいほったらかしにしてあった紙パックいりワインと、
なんとかという賞をとったらしいワイナリー産のビンいりワインが
おなじ味というのがほんとうはひどいはなしなのだ。
残念ながら料理用につかうしかないだろう。
料理用につかって料理がひどくならないか心配だけど。
島根には奥出雲ワイナリーという小規模ながら
ちゃんとしたワインをつくっている会社がある。
わたしがつぎに仕事をするとしたら、
そこのぶどう園かな、といまから目ぼしをつけてるくらい
しっかりとした味だ。
ちいさなワイナリーでも、
それなりの品質のワインをつくることは不可能ではない。
ゆうべのんだワインを商品としてうりだすということは、
すくなくともうるに値するワインとおもっているひとがいるわけで、
それがすでにまちがった認識といえる。
もちろんのみものなのだから、このみはわかれるだろう。
しかしこれはそんなデリケートなはなしではないのだ。
だれがどうみてもまずいものを、
どうせワインのよさなんか、だれもわからないだろうと、
たかをくくり、消費者をなめて商品として流通させる。
日本人には新米のコシヒカリをだすくせに、
外国人には三等米の古米をだして、
これがおいしい日本のごはんです、といってるかんじ。
つくり手がほんとうにおいしいとおもっているとしたら
それははっきりした事実としてまちがいだし、
おいしいとおもわないけど、仕事のためうっているとしたら
それは商売として、人間としてまちがっている。
ことしのボジョレーはあまりよいできではない、という
評価をきいていたのに、
おもいがけずおいしかった。
この評価というのがほんとうにあてにならない。
わるい年にもそれなりに、
いい年にはさらにおおげさに、
ボジョレーのできをもちあげる。
「今年は残念ながらよいできではありません」
なんて年はないのだ。
ボジョレーの評価をサイトでしらべると
どんな年でもそれなりのできとして
けしてわるくはいわれないことがわかる。
きょねんのブログにもかいたものをもういちどとりあげると、
95年「ここ数年で一番出来が良い」
96年「10年に1度の逸品」
97年「1976年以来の品質」
98年「10年に1度の当たり年」
99年「品質は昨年より良い」
00年「出来は上々で申し分の無い仕上がり」
01年「ここ10年で最高」
02年「過去10年で最高と言われた01年を上回る出来栄え」「1995年以来の出来」
03年「100年に1度の出来」「近年にない良い出来」
04年「香りが強く中々の出来栄え」
05年「ここ数年で最高」
06年「昨年同様良い出来栄え」
07年「柔らかく果実味が豊かで上質な味わい」
08年「豊かな果実味と程よい酸味が調和した味」
09年「50年に1度の出来」
おかげで毎年かならず今年のヌーボーはおいしいとおもいこませてもらい、
ボジョレーをたのしむことができる。
ことしは2003年についでほんとうにおいしかった。
ワイン通でもグルメでもないけど。
いただきもののボジョレーヌーボーをのんだ。
ああだこうだいえるほど、わたしはワインにくわしくない。
でも、このボジョレーはとてもおいしかった。
自分でかいておきながらなんだけど、
こういうきりだし方はよくみかける。
「くわしくない」なんていっておきながら、
けっきょくうるさいことをそのあとかきつらねる、イヤミな文章だ。
「わたしはグルメではないが、」というかきだしもいっしょで、
いろいろとエクスキューズしておいて、
そのさきでしっかりグルメなことをかく。
「みんなわたしはグルメではい、といいながら
かくけど、わたしはほんとうにグルメではない」
とさいげんなくおなじことをくりかえしている。
みんなグルメといわれるのはいやがるのに、
味についてなんだかんだいいたがるのはどうしてだろう。
これからわたしがかくのは、
ほんとうにワイン通やグルメなどと関係のない、
ただおいしいかおいしくないかだけのはなしだ。
今年のボジョレーはおいしかった。
なぜおいしいとわかったかというと、
そのあとにぜんぜんいただけない、
ものすごいできのワインをのんだからだ。
これは配偶者が出張のときにおみやげとしてかったもので、
商品名をだすのはきっとよくないだろうけど、
でもいいたくなるほどつくづくとまずかった。
のみこむのに気合が必要で、
寝酒に、とおもってコップ1/3くらいにいれたのが
なかなかのみほせない。
なぜこんなひどいものを商品、それもおみやげとして
うることができるのかほんとうに理解にくるしむ。
口なおしに、と料理用につかっている
チリ産赤ワイン1,8リットル紙パックいりをのむと、
これもまたおなじようにひどい味に顔をしかめる(比喩ではない)。
でも、1年くらいほったらかしにしてあった紙パックいりワインと、
なんとかという賞をとったらしいワイナリー産のビンいりワインが
おなじ味というのがほんとうはひどいはなしなのだ。
残念ながら料理用につかうしかないだろう。
料理用につかって料理がひどくならないか心配だけど。
島根には奥出雲ワイナリーという小規模ながら
ちゃんとしたワインをつくっている会社がある。
わたしがつぎに仕事をするとしたら、
そこのぶどう園かな、といまから目ぼしをつけてるくらい
しっかりとした味だ。
ちいさなワイナリーでも、
それなりの品質のワインをつくることは不可能ではない。
ゆうべのんだワインを商品としてうりだすということは、
すくなくともうるに値するワインとおもっているひとがいるわけで、
それがすでにまちがった認識といえる。
もちろんのみものなのだから、このみはわかれるだろう。
しかしこれはそんなデリケートなはなしではないのだ。
だれがどうみてもまずいものを、
どうせワインのよさなんか、だれもわからないだろうと、
たかをくくり、消費者をなめて商品として流通させる。
日本人には新米のコシヒカリをだすくせに、
外国人には三等米の古米をだして、
これがおいしい日本のごはんです、といってるかんじ。
つくり手がほんとうにおいしいとおもっているとしたら
それははっきりした事実としてまちがいだし、
おいしいとおもわないけど、仕事のためうっているとしたら
それは商売として、人間としてまちがっている。
ことしのボジョレーはあまりよいできではない、という
評価をきいていたのに、
おもいがけずおいしかった。
この評価というのがほんとうにあてにならない。
わるい年にもそれなりに、
いい年にはさらにおおげさに、
ボジョレーのできをもちあげる。
「今年は残念ながらよいできではありません」
なんて年はないのだ。
ボジョレーの評価をサイトでしらべると
どんな年でもそれなりのできとして
けしてわるくはいわれないことがわかる。
きょねんのブログにもかいたものをもういちどとりあげると、
95年「ここ数年で一番出来が良い」
96年「10年に1度の逸品」
97年「1976年以来の品質」
98年「10年に1度の当たり年」
99年「品質は昨年より良い」
00年「出来は上々で申し分の無い仕上がり」
01年「ここ10年で最高」
02年「過去10年で最高と言われた01年を上回る出来栄え」「1995年以来の出来」
03年「100年に1度の出来」「近年にない良い出来」
04年「香りが強く中々の出来栄え」
05年「ここ数年で最高」
06年「昨年同様良い出来栄え」
07年「柔らかく果実味が豊かで上質な味わい」
08年「豊かな果実味と程よい酸味が調和した味」
09年「50年に1度の出来」
おかげで毎年かならず今年のヌーボーはおいしいとおもいこませてもらい、
ボジョレーをたのしむことができる。
ことしは2003年についでほんとうにおいしかった。
ワイン通でもグルメでもないけど。
2012年11月26日
「自然と行動に制限がかかる」場所でスイッチをいれる
「ノマドのためのタスク管理の技術」のなかで佐々木正美さんが
「『自然と行動に制限のかかる環境』は贅沢な環境」
とかいている。
どういうことかというと、
自分の書斎などは、なんでもできる環境なので
かえって特定の仕事にむかいにくい。
カフェにいくと原稿がかきやすいのは、
カフェでは自分のすきなことばかりをするわけにはいかず、
結果として原稿にむかいやすい環境となる、というものだ。
「自然と行動に制限がかかる」というのが大事で、
たとえば刑務所にはいれば行動に制限がかかるが、
不自然な制限はストレスとなる。
リラックスして仕事にむかえるというと、
いちばん手ごろなのがカフェ、ということになるのだろう。
ひとは、なんでもできるところではなにもできない、という
やっかいな傾向をもつ。
最近は、カフェでさえ「なんでもできる空間」になってきているので、
たとえばパソコンをネットにつながない、とかいう
自分なりの制限をかけて環境をととのえる必要がある。
佐々木さんは「ロボットのスイッチが入る」といういい方もしている。
自分の意思をはなれ、まるでロボットが仕事をしてくれるようなとらえ方で、
そうやって自分を機械にしてしまったほうが
自動的にスイッチをいれるためには好都合なのだろう。
Aという仕事のスイッチをいれるにはスタバへ、
Bの仕事にはマクドと、仕事によっていれるスイッチがちがうので、
むかう場所もちがってくる。
いろんなスイッチがはいってしまう場所よりも
たとえば執筆ロボットのスイッチだけがはいるためには
スタバへ、というつかい方だ。
作家のなかには、仕事場として自宅ではない場所を
執筆にあてるひとがいるのも、
執筆ロボットのスイッチがはいりやすくするためであるし、
いわゆる「カンヅメ」は「自然と行動に制限のかかる環境」を
さらに強制的に実現させたものだ
(宿泊先にともだちをよんであそぶような猛者もいたそうだけど)。
わたしの生活は「ノマド」的ではないため、
自分の部屋か職場の机だけで仕事にむかうことになる。
そこでスイッチをいれざるをえないので、
場所によって効率をたかめるわけにはいかない。
「行動に自然と制限のかかる環境」がほしいのは、
ちょっとかたい本をよむときだ。
すこしまえに新聞で萱野稔人さんがとりあげられていたので、
図書館で萱野さんの本を3冊かりてきた。
でも、家でこの本にむかうと、
ついもっとかるい本に手をのばしてしまう。
何時から何時まで、と時間をきめてマクドにでもこもれば、
なんとかかたい本むけのスイッチがはいるのではないか。
さいわいわたしはまだスマホをもっておらず、
本だけに集中するしかないので。
トレーニングジムも、ごくあたりまえに
「行動に自然と制限のかかる環境」となっている。
ジムにいけばトレーニングをするしかないので、
だれでもそこにいけばからだをうごかせる。
いちばんのハードルは「そこにいく」ということだろう。
つかれていてもお腹がすいていても、
とにかくいけばスイッチがはいって、トレーニングができる。
いかなければ、できない。
発達障害のひとには部屋にいろいろな機能をもたせないことが
常識となっている。
ひとつの場所で仕事をして、食事もして、休憩もそこ、となると、
いったいこの部屋はなにをするところなのかがわかりにくく、
混乱をまねきやすい。
機能をしぼることを物理的構造化とよび、
この場所は勉強をするところ、というふうに、
場所と活動を1対1でマッチングさせる。
これも「行動に自然と制限のかかる環境」に
なんだか関係がありそうだ。
自由は不自由、ということもよくいわれる。
ある程度の制約がないと、ひとはうごきにくい。
このややこしい性質は、いったいいつ獲得されたのだろう。
200万年前のわたしたちの祖先は、
「自然と行動に制限のかかる環境」なんてもとめなくても、
あるものでなんとかするしかなかったはずだ。
けっきょくややこしくなったのは
物質にめぐまれるようになってからのことで、
ものさえまわりになければ
よけいなことに気がちることもない。
断捨離がもてはやされるのも
こうした意味では理解できる。
仕事におうじてスイッチをいれるためには
場所をきりかえるのがいちばんてっとりばやい。
わたしのすむ町にもようやくスタバができるそうで、
かたい本にとりくむときの場所として利用してみたい。
「『自然と行動に制限のかかる環境』は贅沢な環境」
とかいている。
どういうことかというと、
自分の書斎などは、なんでもできる環境なので
かえって特定の仕事にむかいにくい。
カフェにいくと原稿がかきやすいのは、
カフェでは自分のすきなことばかりをするわけにはいかず、
結果として原稿にむかいやすい環境となる、というものだ。
「自然と行動に制限がかかる」というのが大事で、
たとえば刑務所にはいれば行動に制限がかかるが、
不自然な制限はストレスとなる。
リラックスして仕事にむかえるというと、
いちばん手ごろなのがカフェ、ということになるのだろう。
ひとは、なんでもできるところではなにもできない、という
やっかいな傾向をもつ。
最近は、カフェでさえ「なんでもできる空間」になってきているので、
たとえばパソコンをネットにつながない、とかいう
自分なりの制限をかけて環境をととのえる必要がある。
佐々木さんは「ロボットのスイッチが入る」といういい方もしている。
自分の意思をはなれ、まるでロボットが仕事をしてくれるようなとらえ方で、
そうやって自分を機械にしてしまったほうが
自動的にスイッチをいれるためには好都合なのだろう。
Aという仕事のスイッチをいれるにはスタバへ、
Bの仕事にはマクドと、仕事によっていれるスイッチがちがうので、
むかう場所もちがってくる。
いろんなスイッチがはいってしまう場所よりも
たとえば執筆ロボットのスイッチだけがはいるためには
スタバへ、というつかい方だ。
作家のなかには、仕事場として自宅ではない場所を
執筆にあてるひとがいるのも、
執筆ロボットのスイッチがはいりやすくするためであるし、
いわゆる「カンヅメ」は「自然と行動に制限のかかる環境」を
さらに強制的に実現させたものだ
(宿泊先にともだちをよんであそぶような猛者もいたそうだけど)。
わたしの生活は「ノマド」的ではないため、
自分の部屋か職場の机だけで仕事にむかうことになる。
そこでスイッチをいれざるをえないので、
場所によって効率をたかめるわけにはいかない。
「行動に自然と制限のかかる環境」がほしいのは、
ちょっとかたい本をよむときだ。
すこしまえに新聞で萱野稔人さんがとりあげられていたので、
図書館で萱野さんの本を3冊かりてきた。
でも、家でこの本にむかうと、
ついもっとかるい本に手をのばしてしまう。
何時から何時まで、と時間をきめてマクドにでもこもれば、
なんとかかたい本むけのスイッチがはいるのではないか。
さいわいわたしはまだスマホをもっておらず、
本だけに集中するしかないので。
トレーニングジムも、ごくあたりまえに
「行動に自然と制限のかかる環境」となっている。
ジムにいけばトレーニングをするしかないので、
だれでもそこにいけばからだをうごかせる。
いちばんのハードルは「そこにいく」ということだろう。
つかれていてもお腹がすいていても、
とにかくいけばスイッチがはいって、トレーニングができる。
いかなければ、できない。
発達障害のひとには部屋にいろいろな機能をもたせないことが
常識となっている。
ひとつの場所で仕事をして、食事もして、休憩もそこ、となると、
いったいこの部屋はなにをするところなのかがわかりにくく、
混乱をまねきやすい。
機能をしぼることを物理的構造化とよび、
この場所は勉強をするところ、というふうに、
場所と活動を1対1でマッチングさせる。
これも「行動に自然と制限のかかる環境」に
なんだか関係がありそうだ。
自由は不自由、ということもよくいわれる。
ある程度の制約がないと、ひとはうごきにくい。
このややこしい性質は、いったいいつ獲得されたのだろう。
200万年前のわたしたちの祖先は、
「自然と行動に制限のかかる環境」なんてもとめなくても、
あるものでなんとかするしかなかったはずだ。
けっきょくややこしくなったのは
物質にめぐまれるようになってからのことで、
ものさえまわりになければ
よけいなことに気がちることもない。
断捨離がもてはやされるのも
こうした意味では理解できる。
仕事におうじてスイッチをいれるためには
場所をきりかえるのがいちばんてっとりばやい。
わたしのすむ町にもようやくスタバができるそうで、
かたい本にとりくむときの場所として利用してみたい。
2012年11月25日
Jリーグ第33節 広島が優勝、大宮が残留をきめる
Jリーグ第33節
大宮がとうとう残留をきめる。
リーグ戦10戦まけなし(5勝5分)というつよさ
(「残留力」というそうだ)を発揮して、
「あぶなげなく」降格をまぬがれている。
いっぽうのガンバは「2点しかとれない試合はかてない」という
今シーズンのお約束どうり、FC東京とひきわけてしまった。
これで降格は、アルビレックス・ガンバ・ヴィッセル、
それにセレッソの4チームであらそわれることになる。
おなじ日におこなわれたサンフレッチェとセレッソの試合で、
サンフレッチェが今シーズンの優勝をきめた。
この試合できまることはないだろうと、
なんとなくきめつけてしまい、観戦(テレビ)しそこねてしまった。
前節の浦和戦では、優勝へのプレッシャーから
いつものプレーができなくなっていたので、
優勝は最終節にもちこすだろう、とおもっていたのだ。
サンフレッチェにしたら、
きのうの試合できめたかったろうから
これで楽になっただろう。
23日におこなわれたJ1への昇格をめぐるプレーオフでは
大分が千葉にかって4年ぶりの昇格をきめた。
わたしはオシムさんの影をもとめて
どちらかというと千葉を応援しながらみていた。
この試合で、千葉はひきわけでも昇格できた。
後半41分まで0-0でひっぱったのに、
試合もそれまでずっとおしていたのに、
ほんのちょっとしたミスを最後につかれてしまった。
「ひきわけでもOK」というのは、
往々にして試合をむつかしくするみたいだ。
かったほうの大分は、
まるでリーグ優勝やカップ戦をきめたときみたいにもりあがっている。
J2で6位だったチームが、あたらしくできたプレーオフという制度によって
うかびあがることができたのだから、
スポーツがいかにルールによって左右されるかの教本みたいなかんじだ。
大分は3億円の借金をかかえるという経営危機を、
地域全体の協力をえて返済してここまでたどりついたというので、
この感激はひとしおだろう。
とはいえ、どのチームにもそれなりの事情がある。
千葉にしても4年ぶりのJ1復帰をめざして期するものがあっただろうに。
これでのこるはJ2への降格をめぐるあらそいだけになった。
わたしが応援するガンバは、もう自分たちがかつだけでは残留できない。
勝点3をあげ、なおかつヴィッセルがまけるかひきわけ、
もしくはセレッソがまけるという他力本願での結果まちだ。
次節(最終節)、ガンバは磐田と、ヴィッセルは
優勝をきめた広島との試合がくまれている。
調子をおとしている磐田と、
優勝をきめていっきにリラックスできた広島という
対照的なくみあわせが、
残留をめぐるあらそいにどう影響をあたえるか。
わたしとしては、西野氏を解任したヴィッセルにお灸をすえたいので、
いろんなものにすがってガンバの残留をねがう。
大宮の「おちなお守り」には、まだご利益がのこっているだろうか。
それにしても、大宮はほんとにすごい。
これからもファンが期待するのは、
残留にむけた大宮の神がかり的なラストスパートであって、
優勝あらそいに顔をだすことではないような気がする。
広島と大宮、それに大分におめでとうの週末だった。
大宮がとうとう残留をきめる。
リーグ戦10戦まけなし(5勝5分)というつよさ
(「残留力」というそうだ)を発揮して、
「あぶなげなく」降格をまぬがれている。
いっぽうのガンバは「2点しかとれない試合はかてない」という
今シーズンのお約束どうり、FC東京とひきわけてしまった。
これで降格は、アルビレックス・ガンバ・ヴィッセル、
それにセレッソの4チームであらそわれることになる。
おなじ日におこなわれたサンフレッチェとセレッソの試合で、
サンフレッチェが今シーズンの優勝をきめた。
この試合できまることはないだろうと、
なんとなくきめつけてしまい、観戦(テレビ)しそこねてしまった。
前節の浦和戦では、優勝へのプレッシャーから
いつものプレーができなくなっていたので、
優勝は最終節にもちこすだろう、とおもっていたのだ。
サンフレッチェにしたら、
きのうの試合できめたかったろうから
これで楽になっただろう。
23日におこなわれたJ1への昇格をめぐるプレーオフでは
大分が千葉にかって4年ぶりの昇格をきめた。
わたしはオシムさんの影をもとめて
どちらかというと千葉を応援しながらみていた。
この試合で、千葉はひきわけでも昇格できた。
後半41分まで0-0でひっぱったのに、
試合もそれまでずっとおしていたのに、
ほんのちょっとしたミスを最後につかれてしまった。
「ひきわけでもOK」というのは、
往々にして試合をむつかしくするみたいだ。
かったほうの大分は、
まるでリーグ優勝やカップ戦をきめたときみたいにもりあがっている。
J2で6位だったチームが、あたらしくできたプレーオフという制度によって
うかびあがることができたのだから、
スポーツがいかにルールによって左右されるかの教本みたいなかんじだ。
大分は3億円の借金をかかえるという経営危機を、
地域全体の協力をえて返済してここまでたどりついたというので、
この感激はひとしおだろう。
とはいえ、どのチームにもそれなりの事情がある。
千葉にしても4年ぶりのJ1復帰をめざして期するものがあっただろうに。
これでのこるはJ2への降格をめぐるあらそいだけになった。
わたしが応援するガンバは、もう自分たちがかつだけでは残留できない。
勝点3をあげ、なおかつヴィッセルがまけるかひきわけ、
もしくはセレッソがまけるという他力本願での結果まちだ。
次節(最終節)、ガンバは磐田と、ヴィッセルは
優勝をきめた広島との試合がくまれている。
調子をおとしている磐田と、
優勝をきめていっきにリラックスできた広島という
対照的なくみあわせが、
残留をめぐるあらそいにどう影響をあたえるか。
わたしとしては、西野氏を解任したヴィッセルにお灸をすえたいので、
いろんなものにすがってガンバの残留をねがう。
大宮の「おちなお守り」には、まだご利益がのこっているだろうか。
それにしても、大宮はほんとにすごい。
これからもファンが期待するのは、
残留にむけた大宮の神がかり的なラストスパートであって、
優勝あらそいに顔をだすことではないような気がする。
広島と大宮、それに大分におめでとうの週末だった。
2012年11月24日
『旧友は春に帰る』(東直己)だれもが歳をとる。モンローも、「俺」も。
『旧友は春に帰る』(東直己・ハヤカワ文庫)
ススキノ探偵シリーズの第10作目で、
「俺」は52歳になっている。
そのまえによんだ3作目の『消えた少年』(1994年)では
30歳くらいという設定だったので、
20年後のススキノに、いっぺんにとんでしまったかんじだ。
1作目に登場した「モンロー」が
25年ぶりに「俺」に連絡をとってくる。
「俺」が52歳になっているだけ彼女も当然歳をとる。51歳だ。
あいだを6冊とばしてよんだせいだけでなく、
この作品には老いがチラチラとみえかくれする。
年月がひとつのテーマだ。
モンローの51歳は、たまたまわたしとおなじ歳で、
25年まえのわたしはなにをしていたかをおもいかえす。
まだなにをして生きていくかもわからない、
頭のわるい若造だったことはたしかだ。
なんだかぜんぜんかわってないような気がするけど、
もちろんそんなことはなく、
25年分歳をとって立派な中年になってしまった。
25年たてば、いろんなことがかわる。
「俺」も「モンロー」も、ちゃんと25年分ふけた。
男の「俺」は当時からわかさでうりだしていたわけではない。
しかし、女性のモンローにとって年月は残酷だ。
「ほとんどの男を魅了して輝いていた顔には、
生活の年輪と荒廃がはっきりと現れていた。(中略)
とても信じられないような変貌ぶりだった」
「年月と苦労にまみれた、という雰囲気は濃厚で、
総ての表情を残骸のように見せてしまう」
「昔はキレイだったんでしょうね。
それは、はっきりわかる」
「そうなんだ」
「悲しい話ね。賞味期限を過ぎるってのは」
「・・・優しくしてやってくれ」
モンローはあいかわらず本能のようにでまかせばかり調子よくはなす。
わたしはいつのまにか女優のyouをイメージしてよんでいた。
おそろしく老けてしまった顔がyouをおもわせる、というわけではなく、
うっかりかかわるとヤバそうな女性、という意味だ。
モンローのむかしをしるひとだけでなく、
はじめてモンローとあうひとでも
かかわらないほうがいい、と忠告したくなるアブナイ女だけど、
「俺」はいきがかりじょうモンローをみすてるわけにいかず、
北海道からぬけだすのを手だすけすることになる。
「俺」についてのこまかな描写はなく、
文中で「デブ」とよばれているのがはじめは
だれのことかわからなかった。
以前にくらべてずいぶんふとったようだ。
毎晩かかさずかなりの酒をのみ、とくに節制をしなければ
当然デブになる。でも、スーバーニッカをのむ量はへり、
「ケラー」では自分がかんがえたという
サウダージ(カクテル)ばかりたのんでいた。
デブの中年になっても、やることは以前とおなじだ。
基本的に、ススキノで機嫌よく生きれたらそれでいい、みたいなひとで、
お金に換算してそろばんをはじくことはしない。
52歳まではむかしとおなじやり方が通用した。
これからますますからだがごかなくなる。
どうやって生きていくだろうか。
携帯電話はつかわないけど、ノートパソコンはもっていて、
メールのやりとりやサイトでの検索につかうようになった。
あんがいあたらしいことでもうけいれて、
なんとかやっていくのかもしれない。
ストーリーについてとくにかくことはない。
568ページの分量をおもしろくよませてくれた。
ところどころで軽口をたたきながら、
肝心なことはなにもしゃべらない。
オヤジになってもちゃんとハードボイルドしてるのだ。
最初にかいたように、この巻の影のテーマは「老い」「年月」で、
まえからのメンバーが、みんな25年歳をとって登場する。
いちばんおおきな変化は、脇役の相田におきたかもしれない。
桐原の右腕だった相田は、脊髄小脳変性症という病気で
まったくうごけなくなり介護をうけている。
ものがたりは、「俺」や桐原たちが相原のベッドをかこみ、
相原の誕生日をいわう場面からはじまった。
桐原がきりだしたのは、マルちゃんのカップ麺についてのむかしばなしだ。
タランティーノがよくやるみたいに、
どうでもいいことについて延々と真剣にはなす。
「そんなにしりたかったら見学にいったらどうだ?」という「俺」に、
「バッカ。そんなことできるか、極道が」と桐原がこたえる。
相田はおもわずわらってしまう。
相田が気がねなくすごせるようだれもが配慮する、
極道らしい、いい誕生いわいの会となる。
ススキノ探偵シリーズの第10作目で、
「俺」は52歳になっている。
そのまえによんだ3作目の『消えた少年』(1994年)では
30歳くらいという設定だったので、
20年後のススキノに、いっぺんにとんでしまったかんじだ。
1作目に登場した「モンロー」が
25年ぶりに「俺」に連絡をとってくる。
「俺」が52歳になっているだけ彼女も当然歳をとる。51歳だ。
あいだを6冊とばしてよんだせいだけでなく、
この作品には老いがチラチラとみえかくれする。
年月がひとつのテーマだ。
モンローの51歳は、たまたまわたしとおなじ歳で、
25年まえのわたしはなにをしていたかをおもいかえす。
まだなにをして生きていくかもわからない、
頭のわるい若造だったことはたしかだ。
なんだかぜんぜんかわってないような気がするけど、
もちろんそんなことはなく、
25年分歳をとって立派な中年になってしまった。
25年たてば、いろんなことがかわる。
「俺」も「モンロー」も、ちゃんと25年分ふけた。
男の「俺」は当時からわかさでうりだしていたわけではない。
しかし、女性のモンローにとって年月は残酷だ。
「ほとんどの男を魅了して輝いていた顔には、
生活の年輪と荒廃がはっきりと現れていた。(中略)
とても信じられないような変貌ぶりだった」
「年月と苦労にまみれた、という雰囲気は濃厚で、
総ての表情を残骸のように見せてしまう」
「昔はキレイだったんでしょうね。
それは、はっきりわかる」
「そうなんだ」
「悲しい話ね。賞味期限を過ぎるってのは」
「・・・優しくしてやってくれ」
モンローはあいかわらず本能のようにでまかせばかり調子よくはなす。
わたしはいつのまにか女優のyouをイメージしてよんでいた。
おそろしく老けてしまった顔がyouをおもわせる、というわけではなく、
うっかりかかわるとヤバそうな女性、という意味だ。
モンローのむかしをしるひとだけでなく、
はじめてモンローとあうひとでも
かかわらないほうがいい、と忠告したくなるアブナイ女だけど、
「俺」はいきがかりじょうモンローをみすてるわけにいかず、
北海道からぬけだすのを手だすけすることになる。
「俺」についてのこまかな描写はなく、
文中で「デブ」とよばれているのがはじめは
だれのことかわからなかった。
以前にくらべてずいぶんふとったようだ。
毎晩かかさずかなりの酒をのみ、とくに節制をしなければ
当然デブになる。でも、スーバーニッカをのむ量はへり、
「ケラー」では自分がかんがえたという
サウダージ(カクテル)ばかりたのんでいた。
デブの中年になっても、やることは以前とおなじだ。
基本的に、ススキノで機嫌よく生きれたらそれでいい、みたいなひとで、
お金に換算してそろばんをはじくことはしない。
52歳まではむかしとおなじやり方が通用した。
これからますますからだがごかなくなる。
どうやって生きていくだろうか。
携帯電話はつかわないけど、ノートパソコンはもっていて、
メールのやりとりやサイトでの検索につかうようになった。
あんがいあたらしいことでもうけいれて、
なんとかやっていくのかもしれない。
ストーリーについてとくにかくことはない。
568ページの分量をおもしろくよませてくれた。
ところどころで軽口をたたきながら、
肝心なことはなにもしゃべらない。
オヤジになってもちゃんとハードボイルドしてるのだ。
最初にかいたように、この巻の影のテーマは「老い」「年月」で、
まえからのメンバーが、みんな25年歳をとって登場する。
いちばんおおきな変化は、脇役の相田におきたかもしれない。
桐原の右腕だった相田は、脊髄小脳変性症という病気で
まったくうごけなくなり介護をうけている。
ものがたりは、「俺」や桐原たちが相原のベッドをかこみ、
相原の誕生日をいわう場面からはじまった。
桐原がきりだしたのは、マルちゃんのカップ麺についてのむかしばなしだ。
タランティーノがよくやるみたいに、
どうでもいいことについて延々と真剣にはなす。
「そんなにしりたかったら見学にいったらどうだ?」という「俺」に、
「バッカ。そんなことできるか、極道が」と桐原がこたえる。
相田はおもわずわらってしまう。
相田が気がねなくすごせるようだれもが配慮する、
極道らしい、いい誕生いわいの会となる。
2012年11月23日
「問題」はもういい。わたしはしあわせだ。
高野秀行さんへのインタビューが
東京弁護士会の会報誌「リブラ」10月号にとりあげられている。
高野さんがなぜ辺境にひかれるようになったかをていねいにききだしており、
高野さんの方向性をしるうえでも興味ぶかい。
このなかに、
という発言がのっていた。
「マイナス面にフォーカスする傾向がある」という指摘だ。
ほんとうだ。わたしもよく日本批判・日本人批判をしてしまう。
身内のことをたずねられたら
「ぜんぜんダメ、うまくいってない」みたいなことをついいいがちだ。
つまらなぬことだとおもう。
どうせすべてはたいしたことないのだから、とわりきって、
いつも機嫌よくすごしたほうがたのしいにきまっている。
仕事なんかうまくいかないのがあたりまえで、
それにたいしてむつかしい顔をしてかんがえこむのではなく、
まあいろいろあるけど、だいたいうまくいっているんじゃないか、
とおもったほうが気もちよさそうだと、
高野さんの発言をよんでいておもった。
問題はたくさんあるにきまっている。
それを問題とおもうから問題になってしまうのではないか。
高野さんはいま『移民の宴』という本を執筆しているといい、
日本にすむ外国人の生活を
「食」と「コミュニティ」からとりあげようとしている。
もうひとつ高野さんがとりあげているのは
「日本の風土病ともいうべき『仕事病』」だ。
おそろしい。この病気に感染しないためには、
よほどがんばってあそばないと。
東京弁護士会の会報誌「リブラ」10月号にとりあげられている。
高野さんがなぜ辺境にひかれるようになったかをていねいにききだしており、
高野さんの方向性をしるうえでも興味ぶかい。
このなかに、
日本人は不幸が好きで幸せが苦手なんじゃないか
という発言がのっていた。
「マイナス面にフォーカスする傾向がある」という指摘だ。
「大変だ」「忙しい」「しんどい」と言ってるほうが人間関係がうまくいく。「不幸ルート」に乗っていると落ち着くというのでしょうか。
日本は景気が低調とはいえ、世界有数の経済力と治安の良さがあり、水や自然が豊かで、60年以上戦争がない社会を実現している。なのに、みんな「日本はダメだ」と言っている。一方で日本に住む外国人の多くは「日本はいい国で、私は幸せ」と言っている。
ほんとうだ。わたしもよく日本批判・日本人批判をしてしまう。
身内のことをたずねられたら
「ぜんぜんダメ、うまくいってない」みたいなことをついいいがちだ。
つまらなぬことだとおもう。
どうせすべてはたいしたことないのだから、とわりきって、
いつも機嫌よくすごしたほうがたのしいにきまっている。
仕事なんかうまくいかないのがあたりまえで、
それにたいしてむつかしい顔をしてかんがえこむのではなく、
まあいろいろあるけど、だいたいうまくいっているんじゃないか、
とおもったほうが気もちよさそうだと、
高野さんの発言をよんでいておもった。
問題はたくさんあるにきまっている。
それを問題とおもうから問題になってしまうのではないか。
高野さんはいま『移民の宴』という本を執筆しているといい、
日本にすむ外国人の生活を
「食」と「コミュニティ」からとりあげようとしている。
「在日外国人」の本といえば、「問題」ばっかりです。在日外国人による犯罪とか在日外国人が受ける差別や偏見とか。でも実際に彼らと付き合ったり取材していると、様々な問題がありながらも、彼らにも普通の生活があって、そちらの比重の方が大きい。でもそっちの面を描いた本は少ないんですよ。日本に長い外国人自身が言ってますよ、「問題の話はもういい」って。どんなものを食べて、どんな恋愛をして、どんな家庭を築いているか、そういう普通の生活を描いて、日本に暮らす外国人を身近な存在にしていくという仕事がしたいですね。
もうひとつ高野さんがとりあげているのは
「日本の風土病ともいうべき『仕事病』」だ。
「仕事=その人の価値」という感覚があまりに強いので、楽しく幸せに暮らしていると、まるで「頑張って仕事をしていない=ダメな人間」みたいな気分に陥るし、周囲からもそう見られてしまう。在日外国人にもその病気にかかってしまう人がいます。
おそろしい。この病気に感染しないためには、
よほどがんばってあそばないと。
2012年11月22日
エンドラインはなぜ endとよぶのか
サッカーの試合をみていたら、エンドについて、
どっちをえらぶかというはなしがでた。
配偶者が「エンドって、なに?」ときいてくる。
「『おわり』の end となにか関係あるの?」ともいう。
そういえば、エンドって、なんだろう。
どっち側のピッチをとるか、の選択を、
なぜ「エンドをとる」とよぶのか。
わかっているつもりだったけど、きれいに説明はできない。
ネットでしらべてみると、
とある。
わたしは以前『オフサイドはなぜ反則か』(中村敏雄・三省堂選書)をよんだことがあり、
ネットの説明でこの本のことをおもいだした。
「長方形の短いラインに運ぶのが、元々の起源」という起源を、
さらにむかしにさかのぼると、
この「エンド」という概念がもっとすっきり理解できる。
『オフサイドはなぜ反則か』によると、
中世のヨーロッパでは村をあげてのおまつりとして
ストリート・フットボールがもよおされており、
その姿はいまの競技スポーツとしてのサッカーとはかけはなれたものだった。
という、すごい作戦があたりまえのようにとられている。
正式なグランドがあるわけではなく、
たとえばある村からとなりの村までの
公道や畑をふくむひろい土地が会場の場合、
村はずれのある線をこえると、
それが「ゴール」となって試合(おまつり)が終了する。
その線が「エンドライン」だったわけで、
当時はいまのようなネットをはったゴールはなく、
エンドをこえることがそのままゴールを意味した。
何百年ものあいだにしだいにルールがととのえられ、
サッカーはいまある姿にちかづいてくる。
ついでにいえば、『オフサイドはなぜ反則か』は
というサッカーのルールからかきはじめられている。
著者の説明では、
とある。
Jリーグ100年構想として
「あなたの町に、緑の芝生におおわれた広場やスポーツ施設をつくること」が
とりあげられている現在においても、
日本にあるおおくの学校では、
あいかわらず土のグランドでのサッカーが
当然のこととしておこなわれている。
そうした日本の常識では、「V字型のみぞ」というルールの意味を
理解するのはむつかしいだろう。
エンドラインから中世のストリート・フットボールをおもいおこし、
「V字型のみぞ」から、サッカーは芝生のグランドを
前提とした競技であることをしる。
「相手のゴールにボールをいれる」という
すごくシンプルにおもえるサッカーのルールには、
わたしのしらない意味がまだたくさんかくされていそうだ。
どっちをえらぶかというはなしがでた。
配偶者が「エンドって、なに?」ときいてくる。
「『おわり』の end となにか関係あるの?」ともいう。
そういえば、エンドって、なんだろう。
どっち側のピッチをとるか、の選択を、
なぜ「エンドをとる」とよぶのか。
わかっているつもりだったけど、きれいに説明はできない。
ネットでしらべてみると、
フットボールという競技サッカーやラグビーなどはボールをエンドライン(長方形の短いライン)に運ぶのが、元々の起源で、それが、より明確なエンドゾーンや、ゴールとして派生したものです。
とある。
わたしは以前『オフサイドはなぜ反則か』(中村敏雄・三省堂選書)をよんだことがあり、
ネットの説明でこの本のことをおもいだした。
「長方形の短いラインに運ぶのが、元々の起源」という起源を、
さらにむかしにさかのぼると、
この「エンド」という概念がもっとすっきり理解できる。
『オフサイドはなぜ反則か』によると、
中世のヨーロッパでは村をあげてのおまつりとして
ストリート・フットボールがもよおされており、
その姿はいまの競技スポーツとしてのサッカーとはかけはなれたものだった。
セント・ピータース側はボールをダーウェント川のなかに投げこんで、川の中を歩いてボールを運んでいく戦法をとった。(P56)
という、すごい作戦があたりまえのようにとられている。
正式なグランドがあるわけではなく、
たとえばある村からとなりの村までの
公道や畑をふくむひろい土地が会場の場合、
村はずれのある線をこえると、
それが「ゴール」となって試合(おまつり)が終了する。
その線が「エンドライン」だったわけで、
当時はいまのようなネットをはったゴールはなく、
エンドをこえることがそのままゴールを意味した。
何百年ものあいだにしだいにルールがととのえられ、
サッカーはいまある姿にちかづいてくる。
ついでにいえば、『オフサイドはなぜ反則か』は
競技場は幅5インチ以下の線をもって描き、V字型のみぞで区別してはならない。
というサッカーのルールからかきはじめられている。
著者の説明では、
「V字型のみぞ」は危険防止のための「芝の刈り方」を規定したものであった。視点を変えて言えば、このルールは芝を刈ってラインを引く方法を示していると同時に、サッカーが芝生のグランドで行われることも規定するものであった。
とある。
Jリーグ100年構想として
「あなたの町に、緑の芝生におおわれた広場やスポーツ施設をつくること」が
とりあげられている現在においても、
日本にあるおおくの学校では、
あいかわらず土のグランドでのサッカーが
当然のこととしておこなわれている。
そうした日本の常識では、「V字型のみぞ」というルールの意味を
理解するのはむつかしいだろう。
エンドラインから中世のストリート・フットボールをおもいおこし、
「V字型のみぞ」から、サッカーは芝生のグランドを
前提とした競技であることをしる。
「相手のゴールにボールをいれる」という
すごくシンプルにおもえるサッカーのルールには、
わたしのしらない意味がまだたくさんかくされていそうだ。
2012年11月21日
マラソン本と英語学習本がよくにていることについて
マラソンブームを反映しているようで、
本屋さんにいくとたくさんのトレーニング本がならんでいる。
わたしもこれまでに何冊かよみ、
自分にむいているとおもうところをためしてきた。
おそらくおおくのひとがのぞむのは、
できるだけ楽をして最大の効果をえようとすることで、
それぞれの本が主張するセールスポイントもここにある。
このトレーニング法は、こんなに簡単にタイムをのばすことができますよ、
とどの本もうったえる。
月に○○キロの練習でもサブ3(3時間をきる)は可能、とか、
これまでかかれた本はまちがっている、ほんとうは・・・、とか、
みなさんの練習はスピードがはやすぎる、とか、
ゆっくりはしるだけではだめだ、とか、
マラソン本はまったく魑魅魍魎の世界だ。
もちろん本によって目的がちがうわけで、
マラソンを完走するのめざしているひとにむけた本と、
3時間をきろうとするランナーとをいっしょにすることはできない。
しかし、おおくの本はだれにでも4時間とか3時間半をきることは可能で、
練習量も月に200キロ程度でじゅうぶんだという。
最小努力の最大効果をどの本もうたっているのだ。
マラソンにむけての3ヶ月、というプログラムも
たいていの本にとりあげられていて、
はじめの週はすごくかるい練習なのが、
だんだんと負荷がふえていき、
けっきょくはけっこうハードなメニューになる。
もっと楽なトレーニング法はないものかと、
わたしはまたべつの本をさがす。
わたしは、マラソン本の多様性は、
英会話の学習本というジャンルににているとおもう。
いろいろな学習法があり、それぞれの本が、
この本こそ決定版!と自信満々にうったえながらも、
どれをやったらまちがいない、という本はまだ存在しない。
ゴルフの石川遼選手がとりいれているというスピードラーニングは、
ききながすだけでOKというし、
ある本は、そんなことでは絶対に習得できない、と否定する。
単語が基本、という本があれば、
フレーズでおぼえないとつかえない、とか、
動詞のhaveとtakeをおさえたらまちがいない、とか
本の数だけ学習法があるようにおもえる。
結論じみたことをいうと、
マラソン本と英語学習本に共通するのは、
まったく努力しないで習得できるものはないということだ。
けっきょくは程度問題であって、
おおかれすくなかれ、コツコツと地道な努力をつみかさねていくよりない。
たとえ短期間のかぎったトレーニングをうちだしていても、
そのあいだはものすごく集中してとりくむことが前提となる。
いろいろなやり方があるなかで、
自分にあいそうな方法をきめて
しばらくつきあっていく。
すぐに効果はでないけど、最低3ヶ月はつづけてみる。
ランニングについていえば、
いくらはやくなることがわかっていても、
あまりくるしいトレーニングにむかう気はない。
ゆっくりながくはしるのがわたしにはたのしいので、
けっきょくこのやり方に、
多少のスピード練習をとりいれてお茶をにごす、
ということになりそうだ。
いまの練習では、マラソンで4時間をきれないけれど、
それでいいとおもっている。
達観というか、あきらめの境地だ。
あきらめはわたしの得意とするところで、
4時間をきる達成感よりも
ゆっくりとはしる気もちよさをえらぶ。
本屋さんにいくとたくさんのトレーニング本がならんでいる。
わたしもこれまでに何冊かよみ、
自分にむいているとおもうところをためしてきた。
おそらくおおくのひとがのぞむのは、
できるだけ楽をして最大の効果をえようとすることで、
それぞれの本が主張するセールスポイントもここにある。
このトレーニング法は、こんなに簡単にタイムをのばすことができますよ、
とどの本もうったえる。
月に○○キロの練習でもサブ3(3時間をきる)は可能、とか、
これまでかかれた本はまちがっている、ほんとうは・・・、とか、
みなさんの練習はスピードがはやすぎる、とか、
ゆっくりはしるだけではだめだ、とか、
マラソン本はまったく魑魅魍魎の世界だ。
もちろん本によって目的がちがうわけで、
マラソンを完走するのめざしているひとにむけた本と、
3時間をきろうとするランナーとをいっしょにすることはできない。
しかし、おおくの本はだれにでも4時間とか3時間半をきることは可能で、
練習量も月に200キロ程度でじゅうぶんだという。
最小努力の最大効果をどの本もうたっているのだ。
マラソンにむけての3ヶ月、というプログラムも
たいていの本にとりあげられていて、
はじめの週はすごくかるい練習なのが、
だんだんと負荷がふえていき、
けっきょくはけっこうハードなメニューになる。
もっと楽なトレーニング法はないものかと、
わたしはまたべつの本をさがす。
わたしは、マラソン本の多様性は、
英会話の学習本というジャンルににているとおもう。
いろいろな学習法があり、それぞれの本が、
この本こそ決定版!と自信満々にうったえながらも、
どれをやったらまちがいない、という本はまだ存在しない。
ゴルフの石川遼選手がとりいれているというスピードラーニングは、
ききながすだけでOKというし、
ある本は、そんなことでは絶対に習得できない、と否定する。
単語が基本、という本があれば、
フレーズでおぼえないとつかえない、とか、
動詞のhaveとtakeをおさえたらまちがいない、とか
本の数だけ学習法があるようにおもえる。
結論じみたことをいうと、
マラソン本と英語学習本に共通するのは、
まったく努力しないで習得できるものはないということだ。
けっきょくは程度問題であって、
おおかれすくなかれ、コツコツと地道な努力をつみかさねていくよりない。
たとえ短期間のかぎったトレーニングをうちだしていても、
そのあいだはものすごく集中してとりくむことが前提となる。
いろいろなやり方があるなかで、
自分にあいそうな方法をきめて
しばらくつきあっていく。
すぐに効果はでないけど、最低3ヶ月はつづけてみる。
ランニングについていえば、
いくらはやくなることがわかっていても、
あまりくるしいトレーニングにむかう気はない。
ゆっくりながくはしるのがわたしにはたのしいので、
けっきょくこのやり方に、
多少のスピード練習をとりいれてお茶をにごす、
ということになりそうだ。
いまの練習では、マラソンで4時間をきれないけれど、
それでいいとおもっている。
達観というか、あきらめの境地だ。
あきらめはわたしの得意とするところで、
4時間をきる達成感よりも
ゆっくりとはしる気もちよさをえらぶ。
2012年11月20日
オマーン戦でみせたザッケローニ采配の意図
先日のWカップアジア最終予選、対オマーン戦は、
あつさへの懸念がはやくから指摘されていた。
ザッケローニに監督も、試合まえの記者会見で、
「暑さが唯一の心配」とかたっている。
じっさい、試合時間のピッチは午後3時半とはいえ35℃の気温で、
日本の選手はコンディションをととのえることがむつかしかったはずだ。
「あつさ」について、どんな対応をとることができるだろう。
よくいわれるのは「試合中にこまめに水分補給をすること」だけど
そんなことはだれにでもおもいつくことで
わざわざ代表監督が指示するまでもないだろう。
試合数日まえに現地にはいってからだをならすのも
有効かもしれないけど、
ヨーロッパ組が合流できる日程をかんがえると
実行はむつかしい。
この試合でザッケローニ監督がだした指示は、
オマーンにたいしてというよりも、
あつさにどう対応するか、というものだった。
あつさのなかでどうやって体力を温存できるかを、
ポジションチェンジによって実現させている。
最初の交代は、後半15分にフォワードの前田にかえて
サイドバックの酒井高徳をいれる。
その意図することは、
ボールをキープでき、シュートもうてる
本田の負担をかるくすることだった。
本田をフォワードにあげるために、
本田のいたポジションに清武をいれ、
そこには岡崎がながれと、
ひとりの交代で球つきのように
5つのポジションが連動してうごいている。
その結果、チーム全体の運動量をおとさずに、
あつみのある攻撃をつづけることができた。
もうひとつの交代として、後半39分に清武にかえ細貝をいれている。
細貝をボランチにいれて守備をおさえ、
遠藤をまえにあげて攻撃にからめるようにする。
結果的にはこの采配があたり、
日本はかちこしとなる2点目を終了間際にあげることができた。
あつさ対策というと、2006年ドイツW杯での
対オーストラリア戦がおもいだされる。
このときもピッチ上は30℃をこえるあつさがあり、
そのための対応がもとめられる試合だった。
当時のジーコ監督は、後半34分に柳沢にかえて小野をいれている。
この交代は、ピッチ上の選手たちに明確な指示としてつたわらず、
ある選手はもっとせめようとし、
ある選手は中盤でボールをキープ、とうけとめたという。
その後オーストラリアにたてつづけに3点をいれられて
なんともあとあじのわるいまけ方をした。
選手交代は、ただ単にフレッシュな選手をいれればいいというものではなく、
その交代がどういう意図をもつかを
選手全員が意思統一でききなければ有効な指示とはならない。
いまの日本代表は監督の意図をうけとめ、
試合に反映させるだけの実力をつけていた。
ここまでにいたるには、20年をかけてさまざまな経験を
日本サッカー界全体でつみかさねることが必要だったのだろう。
はじめて中東でのアウェイの試合にいどんだというザッケローニ監督が、
こうして適切な対応をとり、
選手たちもそれにこたえる成熟さをみせてくれた。
わたし自身についていうと、いろいろな解説をよまなければ、
今回のザッケローニ監督のとった選手交代の意図を
わたしは理解することができなかった。
そんなこともわからない自分の未熟さをはじながら、
目のこえたファン・サッカー関係者が着実にそだっている
日本サッカーの状況をありがたくおもう。
あつさへの懸念がはやくから指摘されていた。
ザッケローニに監督も、試合まえの記者会見で、
「暑さが唯一の心配」とかたっている。
じっさい、試合時間のピッチは午後3時半とはいえ35℃の気温で、
日本の選手はコンディションをととのえることがむつかしかったはずだ。
「あつさ」について、どんな対応をとることができるだろう。
よくいわれるのは「試合中にこまめに水分補給をすること」だけど
そんなことはだれにでもおもいつくことで
わざわざ代表監督が指示するまでもないだろう。
試合数日まえに現地にはいってからだをならすのも
有効かもしれないけど、
ヨーロッパ組が合流できる日程をかんがえると
実行はむつかしい。
この試合でザッケローニ監督がだした指示は、
オマーンにたいしてというよりも、
あつさにどう対応するか、というものだった。
あつさのなかでどうやって体力を温存できるかを、
ポジションチェンジによって実現させている。
最初の交代は、後半15分にフォワードの前田にかえて
サイドバックの酒井高徳をいれる。
その意図することは、
ボールをキープでき、シュートもうてる
本田の負担をかるくすることだった。
本田をフォワードにあげるために、
本田のいたポジションに清武をいれ、
そこには岡崎がながれと、
ひとりの交代で球つきのように
5つのポジションが連動してうごいている。
その結果、チーム全体の運動量をおとさずに、
あつみのある攻撃をつづけることができた。
もうひとつの交代として、後半39分に清武にかえ細貝をいれている。
細貝をボランチにいれて守備をおさえ、
遠藤をまえにあげて攻撃にからめるようにする。
結果的にはこの采配があたり、
日本はかちこしとなる2点目を終了間際にあげることができた。
あつさ対策というと、2006年ドイツW杯での
対オーストラリア戦がおもいだされる。
このときもピッチ上は30℃をこえるあつさがあり、
そのための対応がもとめられる試合だった。
当時のジーコ監督は、後半34分に柳沢にかえて小野をいれている。
この交代は、ピッチ上の選手たちに明確な指示としてつたわらず、
ある選手はもっとせめようとし、
ある選手は中盤でボールをキープ、とうけとめたという。
その後オーストラリアにたてつづけに3点をいれられて
なんともあとあじのわるいまけ方をした。
選手交代は、ただ単にフレッシュな選手をいれればいいというものではなく、
その交代がどういう意図をもつかを
選手全員が意思統一でききなければ有効な指示とはならない。
いまの日本代表は監督の意図をうけとめ、
試合に反映させるだけの実力をつけていた。
ここまでにいたるには、20年をかけてさまざまな経験を
日本サッカー界全体でつみかさねることが必要だったのだろう。
はじめて中東でのアウェイの試合にいどんだというザッケローニ監督が、
こうして適切な対応をとり、
選手たちもそれにこたえる成熟さをみせてくれた。
わたし自身についていうと、いろいろな解説をよまなければ、
今回のザッケローニ監督のとった選手交代の意図を
わたしは理解することができなかった。
そんなこともわからない自分の未熟さをはじながら、
目のこえたファン・サッカー関係者が着実にそだっている
日本サッカーの状況をありがたくおもう。
2012年11月19日
1年間新刊を断食する生活は可能か
本屋さんで『本の雑誌』12月号をかおうとしたら、
いつもの棚においてない。
『本の雑誌』は雑誌ではなく書籍ということで、
何ヶ月前から新刊コーナーにならべられるようになった。
今回も、またなにかの変更で場所がうつったのかとおもい
店員さんにきいてみる。
「うりきれました」ということだ。
発売されてからまだ数日しかたっていないのにうれきれるとは、
なにかものすごく話題をあつめる特集がくまれていたのだろうか。
あるいはどこかのセミナーがテキストとしてつかったとか。
「今年のベスト10」は人気をあつめるかもしれないが、
それは来月号の特集だ。
発売すぐのうりきれははじめてで、
なにかの偶然がたまたまかさなったとおもうしかない。
「グループ店にあればおとりよせできます、
注文されますか?」といわれるのでおねがいした。
つぎの日に、店にとどいたという連絡がはいる。
たのしみにひらいてみると、
うりきれになるような記事はとくになかった。
今月の特集は「天下の暴論!」で、緊急鼎談として
「出版界に天皇賞を」などの提案がのっており、
いつもの号よりもすこしはましかもしれない。
しかしうりきれになるほどの話題性があるとはおもえない。
実現できっこない「案」をいきおいにまかせてだしあう
おきまりの悪のり座談会で、
アイデア自体もそうひねったものがなく、アブクみたいなものだ。
「編集者は40歳で定年にすること、
なぜならおっさんたちがつくるから
本がつまらないくなっているので」
という提案を
そのまま『本の雑誌』におかえししたくなる。
永江朗氏のかいた
「新刊を一年間ストップすべし!」
という記事がおもしろかった。
もう本は十分あるのだから、
当分は既刊の本だけでいい、という案だ。
わたしもよんでない本がまだたくさんあるのに
ついまたかってしまうクチなので、
永江さんのいわれることがすごくよくわかる。
この案は、自分に制限をかけるという意味だけでなく、
本をつくりすぎの出版界にたいしての異議もうしたてでもある。
「ここ二十年の出版界はというと、
ほとんど下痢状態ですよ。
本をどんどんつくっては、
未消化のまま排出、つまり返品している」
この下痢状態には絶食がきくのではないか、という内容だ。
たしかにつくりすぎている本は
資源の浪費という面からも問題があるし、
本のありがたさをしるという意味で
いい体験かもしれない。
ずっと出版できないわけではなく、
1年間というかぎられた期間なので、
出版社も作家も、1年後にそなえての
充電期間にすればいい、という永江さんはいう。
雑誌は出版してもいいのだそうだ。
絶食のときの水分補給みたいなものだから
すごく重要になるという。
絶食はあまりに劇薬すぎて
『本の雑誌』をとりまく活字中毒者たちが
いちばん影響をうけそうでおかしい。
永江さんも禁断症状にくるしめられるのではないか。
この案を、制度として強制的におこなうのではなく、
個人の禁欲的な読書生活のために実行するのはなんの問題もない。
本はだめだけど、雑誌ならOKというゆるさなら、
1年間をなんとかたえらえるかもしれない。
そのあいだ、再読したかった本や、
まえからよもうとおもっていた古典への時間にあてるのは
いい体験になるだろう。
財布にもずいぶんありがたい企画だ。
高野秀行さんが「新刊ラマダン」という表現で
しばらく断食(新刊をかわない)する生活についてかいていた。
1ヶ月なら大げさな決心がなくてもできそうだ。
でも、ラマダンあけに反動で大量の本をかいこみ・・・
ということにならないといいけど。
いつもの棚においてない。
『本の雑誌』は雑誌ではなく書籍ということで、
何ヶ月前から新刊コーナーにならべられるようになった。
今回も、またなにかの変更で場所がうつったのかとおもい
店員さんにきいてみる。
「うりきれました」ということだ。
発売されてからまだ数日しかたっていないのにうれきれるとは、
なにかものすごく話題をあつめる特集がくまれていたのだろうか。
あるいはどこかのセミナーがテキストとしてつかったとか。
「今年のベスト10」は人気をあつめるかもしれないが、
それは来月号の特集だ。
発売すぐのうりきれははじめてで、
なにかの偶然がたまたまかさなったとおもうしかない。
「グループ店にあればおとりよせできます、
注文されますか?」といわれるのでおねがいした。
つぎの日に、店にとどいたという連絡がはいる。
たのしみにひらいてみると、
うりきれになるような記事はとくになかった。
今月の特集は「天下の暴論!」で、緊急鼎談として
「出版界に天皇賞を」などの提案がのっており、
いつもの号よりもすこしはましかもしれない。
しかしうりきれになるほどの話題性があるとはおもえない。
実現できっこない「案」をいきおいにまかせてだしあう
おきまりの悪のり座談会で、
アイデア自体もそうひねったものがなく、アブクみたいなものだ。
「編集者は40歳で定年にすること、
なぜならおっさんたちがつくるから
本がつまらないくなっているので」
という提案を
そのまま『本の雑誌』におかえししたくなる。
永江朗氏のかいた
「新刊を一年間ストップすべし!」
という記事がおもしろかった。
もう本は十分あるのだから、
当分は既刊の本だけでいい、という案だ。
わたしもよんでない本がまだたくさんあるのに
ついまたかってしまうクチなので、
永江さんのいわれることがすごくよくわかる。
この案は、自分に制限をかけるという意味だけでなく、
本をつくりすぎの出版界にたいしての異議もうしたてでもある。
「ここ二十年の出版界はというと、
ほとんど下痢状態ですよ。
本をどんどんつくっては、
未消化のまま排出、つまり返品している」
この下痢状態には絶食がきくのではないか、という内容だ。
たしかにつくりすぎている本は
資源の浪費という面からも問題があるし、
本のありがたさをしるという意味で
いい体験かもしれない。
ずっと出版できないわけではなく、
1年間というかぎられた期間なので、
出版社も作家も、1年後にそなえての
充電期間にすればいい、という永江さんはいう。
雑誌は出版してもいいのだそうだ。
絶食のときの水分補給みたいなものだから
すごく重要になるという。
絶食はあまりに劇薬すぎて
『本の雑誌』をとりまく活字中毒者たちが
いちばん影響をうけそうでおかしい。
永江さんも禁断症状にくるしめられるのではないか。
この案を、制度として強制的におこなうのではなく、
個人の禁欲的な読書生活のために実行するのはなんの問題もない。
本はだめだけど、雑誌ならOKというゆるさなら、
1年間をなんとかたえらえるかもしれない。
そのあいだ、再読したかった本や、
まえからよもうとおもっていた古典への時間にあてるのは
いい体験になるだろう。
財布にもずいぶんありがたい企画だ。
高野秀行さんが「新刊ラマダン」という表現で
しばらく断食(新刊をかわない)する生活についてかいていた。
1ヶ月なら大げさな決心がなくてもできそうだ。
でも、ラマダンあけに反動で大量の本をかいこみ・・・
ということにならないといいけど。
2012年11月18日
J1残留あらそいがいよいよ最後のデッドヒート
Jリーグ第32節。きのうはテレビで3試合を放送していた。
広島対浦和は2-0で浦和。
おなじシステムをつかうチームどうしの試合として注目されていた。
きょねんまで広島をひきいていたべトロビッチ氏が、
ことしは浦和の監督で、両チームとも
優勝あらそいにのこっている。
この反対のケースがガンバ大阪とヴィッセル神戸で、
ガンバをさった西野氏が、ヴィッセルにとちゅうから就任するも、
両チームとも残留あらそいのまっただなかだ。
ことしのJ1をおもしろくしたのは
この両氏といえるだろうか。
今月8日に西野氏の解任を発表したヴィッセルは
FC東京とたたかっている。
ものすごい雨のなかでの試合で、
ドリブルではボールをまえにはこべない。
後半になるとFC東京が一方的にせめまくるのに、
神戸はなんどもピンチをきりぬける。
とにかくあぶなくないようにと、
神戸ははっきりしたクリアーをねらうが、
水たまりでボールがとまるので、そのクリアーができない。
なんだか別のスポーツをみてるかんじだ。
J2への崖っぷちにあるチームの執念はすさまじく、
とうとう1-0のまま試合がおわり、神戸は勝点3を手にした。
ただ、神戸にとっていやな材料は、
最終節に広島との試合がくまれていることだろう。
このまま優勝あらそいがもつれたままだとすると、
優勝と残留をめざすチームのたたかいということになり、
どちらがいいコンディション(精神状態もふくめて)で
試合にのぞめるかをかんがえると
広島に有利な状況のような気がする。
16位と降格圏にいるガンバは3点をとって清水にかった。
今年のガンバは3点とればかてるが、2点ではかてないというチームだ。
得点数はリーグ1位なのに、失点は札幌についで下から2番目というのが
さすがというか、それだから、というか。
次節がFC東京、最終節が磐田と、
優勝と残留にからまないという意味でめぐまれた対戦相手だ。
大宮は、ここ数年の絶対的な実績があるので
まける気がしないのではないか。
毎年この時期にきてみせる大宮の神がかりてきなつよさは、
「残留の魔術師」というのだそうだ。
それに、受験にもつかわれるという「おちない」おまもりもある。
残留あらそいから大宮と新潟をぬかしてかんがえると
ガンバ・ヴィッセル・アントラーズ、それにセレッソが
のこり2試合でしのぎをけずることになる
(というのはほんとうは失礼なはなしで、
新潟も数字上はまだ可能性がのこっているし、
大宮の「おまもり」だってきかないかもしれない。
でもまあ、いまのいきおいをかんがえると、
この2チームはこのまま順位をたもつとみたほうがいいだろう)。
鹿島はきのうの試合で仙台に2点先制されているのを、
驚異的なねばりをみせて3-3のドローにもちこんでいる。
おしりに火がついたチームはほんとうにすごいちからを発揮する。
32節は下位の4チームがぜんぶ勝点3をあげるという「さすが」な節となり、
がんばった分、順位はうごかなかった。
もっとはやいうちに・・・なんて野暮なことはいわず、
あと2試合のゆくえをみまもりたい。
なんだか優勝がどこかよりも、
残留あらそいばかりに関心がいくようになってしまった。
広島対浦和は2-0で浦和。
おなじシステムをつかうチームどうしの試合として注目されていた。
きょねんまで広島をひきいていたべトロビッチ氏が、
ことしは浦和の監督で、両チームとも
優勝あらそいにのこっている。
この反対のケースがガンバ大阪とヴィッセル神戸で、
ガンバをさった西野氏が、ヴィッセルにとちゅうから就任するも、
両チームとも残留あらそいのまっただなかだ。
ことしのJ1をおもしろくしたのは
この両氏といえるだろうか。
今月8日に西野氏の解任を発表したヴィッセルは
FC東京とたたかっている。
ものすごい雨のなかでの試合で、
ドリブルではボールをまえにはこべない。
後半になるとFC東京が一方的にせめまくるのに、
神戸はなんどもピンチをきりぬける。
とにかくあぶなくないようにと、
神戸ははっきりしたクリアーをねらうが、
水たまりでボールがとまるので、そのクリアーができない。
なんだか別のスポーツをみてるかんじだ。
J2への崖っぷちにあるチームの執念はすさまじく、
とうとう1-0のまま試合がおわり、神戸は勝点3を手にした。
ただ、神戸にとっていやな材料は、
最終節に広島との試合がくまれていることだろう。
このまま優勝あらそいがもつれたままだとすると、
優勝と残留をめざすチームのたたかいということになり、
どちらがいいコンディション(精神状態もふくめて)で
試合にのぞめるかをかんがえると
広島に有利な状況のような気がする。
16位と降格圏にいるガンバは3点をとって清水にかった。
今年のガンバは3点とればかてるが、2点ではかてないというチームだ。
得点数はリーグ1位なのに、失点は札幌についで下から2番目というのが
さすがというか、それだから、というか。
次節がFC東京、最終節が磐田と、
優勝と残留にからまないという意味でめぐまれた対戦相手だ。
大宮は、ここ数年の絶対的な実績があるので
まける気がしないのではないか。
毎年この時期にきてみせる大宮の神がかりてきなつよさは、
「残留の魔術師」というのだそうだ。
それに、受験にもつかわれるという「おちない」おまもりもある。
残留あらそいから大宮と新潟をぬかしてかんがえると
ガンバ・ヴィッセル・アントラーズ、それにセレッソが
のこり2試合でしのぎをけずることになる
(というのはほんとうは失礼なはなしで、
新潟も数字上はまだ可能性がのこっているし、
大宮の「おまもり」だってきかないかもしれない。
でもまあ、いまのいきおいをかんがえると、
この2チームはこのまま順位をたもつとみたほうがいいだろう)。
鹿島はきのうの試合で仙台に2点先制されているのを、
驚異的なねばりをみせて3-3のドローにもちこんでいる。
おしりに火がついたチームはほんとうにすごいちからを発揮する。
32節は下位の4チームがぜんぶ勝点3をあげるという「さすが」な節となり、
がんばった分、順位はうごかなかった。
もっとはやいうちに・・・なんて野暮なことはいわず、
あと2試合のゆくえをみまもりたい。
なんだか優勝がどこかよりも、
残留あらそいばかりに関心がいくようになってしまった。
2012年11月17日
おもしろいけどあまりにも異質なユーモア『M★A★S★H マッシュ』
『M★A★S★H マッシュ』(1970年・アメリカ)ロバート=アルトマン監督作品
先週の『ディーバ』につづいて「午前10時の映画祭」にでかける。
今週の上映は、はじめてみる『M★A★S★H マッシュ』だ。
本をよんでいると、ときどきこの作品の名前がでてくる。
いろいろなところに影響をあたえた作品のようなので、
上映されるのをたのしみにしていた。
朝鮮戦争が背景になっている作品ははじめてだ。
とはいえ朝鮮戦争についてはひとことも説明がなく、戦闘シーンもない。
「MASH」(野戦病院)がずっと舞台になっていて、
韓国の町がでるのは1どだけだ。
「MASH」にあたらしく赴任してきた2人の軍医(のちに3人)が
めちゃくちゃにふざけるのだけど、
その軍医たちだけでなく、野戦病院そのものが
そうしたわるふざけをよしとする雰囲気をもっている。
軍隊の規律など、あってないように表現された作品を、
公開当時のアメリカ社会はどううけとめたのだろう。
作品としてはたのしくみれたし、
なんどもわらう場面があったけど(とくにアメフトの試合)、
全体のノリはあまりにも軽々しくて、
わたしの価値観では共感できないものだ。
ベトナム戦争とちがい、朝鮮戦争はアメリカ人にとって
こうやってただふざけてればいいだけの
気楽な戦争だったのだろうか。
登場人物の名前と階級がなかなか頭にはいらず、
はじめはストーリーについていけなかった。
だんだんと状況がわかるようになったものの、
わたしはこの作品をおそらくよく理解できていない。
1970年という、すでにベトナム戦争もはじまっているときに、
この作品をつくるということで、
どんなアピールがしたかったのだろう。
映画の内容が、どこまで軍隊の生態を
正確にあらわしているかをしりたくなった。
たとえば、なにかというと聖書をひっぱりだしておいのりをする少佐(ロバート=デュアル)が
みんなからバカにされているけど、
大尉である彼らが上官や聖書を
あんなにからかっても問題にならないのだろうか。
軍医は腕がよければなにをやってもとおってしまうのか。
軍隊にたいしてわたしがイメージするものから
「MASH」はおおきくはずれている。
かといって、自由でいいじゃないか、ともおもえない。
いかれたアメリカの白人が、
すき勝手なことをしてる、というかんじだ。
基地にでいりする18歳の韓国人青年は
完全に植民地の召使あつあつかいだし、
手術でおとずれる日本のえがき方もへんだ。
さんざんからかわれたホットリップスが
アメフトの試合では気のいいチアガールになっている。
それらをぜんぶ冗談としてうけいれるだけの柔軟性が
わたしにはない。
わたしはふざけることがすきだし、
できればバカバカしく生きたいとおもっている。
そうした意味で「MASH」の世界はおもしろくみることができるけど、
彼らの精神はわたしにとってあまりにも異質だ。
「気のいいやつら」というだけではすますことのできない
思考のおおきな差をかんじる「コメディー」だった。
先週の『ディーバ』につづいて「午前10時の映画祭」にでかける。
今週の上映は、はじめてみる『M★A★S★H マッシュ』だ。
本をよんでいると、ときどきこの作品の名前がでてくる。
いろいろなところに影響をあたえた作品のようなので、
上映されるのをたのしみにしていた。
朝鮮戦争が背景になっている作品ははじめてだ。
とはいえ朝鮮戦争についてはひとことも説明がなく、戦闘シーンもない。
「MASH」(野戦病院)がずっと舞台になっていて、
韓国の町がでるのは1どだけだ。
「MASH」にあたらしく赴任してきた2人の軍医(のちに3人)が
めちゃくちゃにふざけるのだけど、
その軍医たちだけでなく、野戦病院そのものが
そうしたわるふざけをよしとする雰囲気をもっている。
軍隊の規律など、あってないように表現された作品を、
公開当時のアメリカ社会はどううけとめたのだろう。
作品としてはたのしくみれたし、
なんどもわらう場面があったけど(とくにアメフトの試合)、
全体のノリはあまりにも軽々しくて、
わたしの価値観では共感できないものだ。
ベトナム戦争とちがい、朝鮮戦争はアメリカ人にとって
こうやってただふざけてればいいだけの
気楽な戦争だったのだろうか。
登場人物の名前と階級がなかなか頭にはいらず、
はじめはストーリーについていけなかった。
だんだんと状況がわかるようになったものの、
わたしはこの作品をおそらくよく理解できていない。
1970年という、すでにベトナム戦争もはじまっているときに、
この作品をつくるということで、
どんなアピールがしたかったのだろう。
映画の内容が、どこまで軍隊の生態を
正確にあらわしているかをしりたくなった。
たとえば、なにかというと聖書をひっぱりだしておいのりをする少佐(ロバート=デュアル)が
みんなからバカにされているけど、
大尉である彼らが上官や聖書を
あんなにからかっても問題にならないのだろうか。
軍医は腕がよければなにをやってもとおってしまうのか。
軍隊にたいしてわたしがイメージするものから
「MASH」はおおきくはずれている。
かといって、自由でいいじゃないか、ともおもえない。
いかれたアメリカの白人が、
すき勝手なことをしてる、というかんじだ。
基地にでいりする18歳の韓国人青年は
完全に植民地の召使あつあつかいだし、
手術でおとずれる日本のえがき方もへんだ。
さんざんからかわれたホットリップスが
アメフトの試合では気のいいチアガールになっている。
それらをぜんぶ冗談としてうけいれるだけの柔軟性が
わたしにはない。
わたしはふざけることがすきだし、
できればバカバカしく生きたいとおもっている。
そうした意味で「MASH」の世界はおもしろくみることができるけど、
彼らの精神はわたしにとってあまりにも異質だ。
「気のいいやつら」というだけではすますことのできない
思考のおおきな差をかんじる「コメディー」だった。
2012年11月16日
ハーフを1時間37分ではしる72歳のおじさん
トレーニングジムでときどきいっしょになる
72歳のランナーおじさんが、
めずらしくはなしかけてこられた
(72歳というと、ふつうならもちろん「おじいさん」だけど、
その方は現役のランナーで、からだつき、とくに足の筋肉など、
とても「おじいさん」のものではない)。
いつもはそれぞれ自分のメニューを淡々とこなし、
おしゃべりするのはほんのときたまのことだ。
「安来マラソン(なかうみマラソン)はいいコースでしたわ」
といわれる。
先週おこなわれたレースに参加されたのだ。
この大会があるのはしっていたけど、
ハーフマラソンなので
わたしはこれまで参加したことがない。
でるからには2時間をきりたいけれど、
いまのわたしのちからでは
まず手のとどかないタイムなのでみおくっている。
ランナーおじさんのタイムをきくと、
1時間37分といわれた。
5年前のタイムとおなじだったそうで、
「たまたま調子がよかったから」といいながらも
かなり満足そうだ。
1時間37分というと、
1キロ4分40秒のペースで、21キロをはしりつづけたことになる。
わたしは1キロ6〜7分というスピードを
自分にてきしたペースとしており、
ラストスパートと称して
500メートルだけやっとこのおじさんのスピードではしっている。
それをこのひとは21キロずっとつづけられたのだ。
そんなことが72歳でできるのかと、ほんとうにおどろいてしまった。
もちろんうえのレベルをみればきりがないし、
ランニングにおいてひとのタイムにとらわれる必要はぜんぜんない。
それにしても72歳の肺と心臓、それに全身の筋肉が、
そんな過酷な使用にたえられるなんて。
はやすぎるぞ、おじさん!
わたしが歳をとったときのモデルとして、
いい存在だとそのおじさんに敬意をはらってきたけど、
もしかしたらまったく次元のちがうひとを
モデルに設定していたのかもしれない。
このさきわたしがいまのトレーニングをつづけても、
おじさんのレベルにたっすることは絶対にない。
それはわたしのトレーニング法がよくないのかもしれないけど、
たのしくはしる、という意味において
距離はともかく、いまさらスピードをめざしたトレーニングにとりくむつもりはないし、できない。
そのおじさんのはしりをうらやましくおもうというより、
あまりにも突出したおじさんの記録に、
わたしはただおどろくよりなかった。
72歳のランナーおじさんが、
めずらしくはなしかけてこられた
(72歳というと、ふつうならもちろん「おじいさん」だけど、
その方は現役のランナーで、からだつき、とくに足の筋肉など、
とても「おじいさん」のものではない)。
いつもはそれぞれ自分のメニューを淡々とこなし、
おしゃべりするのはほんのときたまのことだ。
「安来マラソン(なかうみマラソン)はいいコースでしたわ」
といわれる。
先週おこなわれたレースに参加されたのだ。
この大会があるのはしっていたけど、
ハーフマラソンなので
わたしはこれまで参加したことがない。
でるからには2時間をきりたいけれど、
いまのわたしのちからでは
まず手のとどかないタイムなのでみおくっている。
ランナーおじさんのタイムをきくと、
1時間37分といわれた。
5年前のタイムとおなじだったそうで、
「たまたま調子がよかったから」といいながらも
かなり満足そうだ。
1時間37分というと、
1キロ4分40秒のペースで、21キロをはしりつづけたことになる。
わたしは1キロ6〜7分というスピードを
自分にてきしたペースとしており、
ラストスパートと称して
500メートルだけやっとこのおじさんのスピードではしっている。
それをこのひとは21キロずっとつづけられたのだ。
そんなことが72歳でできるのかと、ほんとうにおどろいてしまった。
もちろんうえのレベルをみればきりがないし、
ランニングにおいてひとのタイムにとらわれる必要はぜんぜんない。
それにしても72歳の肺と心臓、それに全身の筋肉が、
そんな過酷な使用にたえられるなんて。
はやすぎるぞ、おじさん!
わたしが歳をとったときのモデルとして、
いい存在だとそのおじさんに敬意をはらってきたけど、
もしかしたらまったく次元のちがうひとを
モデルに設定していたのかもしれない。
このさきわたしがいまのトレーニングをつづけても、
おじさんのレベルにたっすることは絶対にない。
それはわたしのトレーニング法がよくないのかもしれないけど、
たのしくはしる、という意味において
距離はともかく、いまさらスピードをめざしたトレーニングにとりくむつもりはないし、できない。
そのおじさんのはしりをうらやましくおもうというより、
あまりにも突出したおじさんの記録に、
わたしはただおどろくよりなかった。
2012年11月15日
Wカップアジア最終予選、オマーン戦に2-1
Wカップアジア最終予選、対オマーン戦。
オマーンはWカップ予選をつうじて
ホームでの試合ではまけたことがないそうだ。
勝点3をねらって選手たちはよくうごくし、観客からの応援もすごい。
午後3時半開始でもピッチは30℃以上あり、
日本の選手たちのうごきがよくない。
90分ということをかんがえて、慎重に試合にはいったのだろう。
あつさがどれだけ試合に影響するのかをおもいしらされる。
これは当初から懸念されていたことで、
ヨーロッパでプレーしている選手たちにとって、
気候にからだをなれさせるのはたいへんなのだろう。
とくに本田のうごきにはキレがなく、ボールをキープできないし、
かんたんなミスもめだつ。
わたしとしてははやめに中村憲剛をだしてもらいたかった。
日本はサイドからのくずしがおおく、
たてへのボールがなかなかとおらない。
そんなときこそ憲剛のスルーパスなのに。
オマーンの選手たちはただひいてまもるのではなく、
よくせめつづけていた。
1対1にもつよいし、何人かでプレスをかけてたくみにボールをうばう。
ロングボールも精度がたかく、
日本は意外なほど手をやいている。
前半20分に日本が先制してからは一進一退で、
あまり試合がうごかなくなった。
日本のポゼッションはたかくなく、
内容にはあまりみるべきものがなかった。
結果をだすことがもとめられていた試合なので、
これでぜんぜんわるいわけではない。
でも、なんとなくものたりない。
後半32分にオマーンがセットプレーで同点においつくと
場内がものすごくもりあがってきた。
オマーンがボールをもつあいだずっと大声援だし、
日本に有利な判定があるとブーイングがおこる。
放送の解説によると、審判の笛がまったくきこえなくなっていたそうだ。
そのおせおせ状況が、終了間際に岡崎がかちこしとなる2点目をきめると、
いっぺんにしずかになった。
会場をあとにする観客もめだちはじめたそうだ。
なにがおこったか、というほどのかわりようで
(たしかに点がはいったのだけど)、
まだ数分をのこしているし、ロスタイムもあるのに
このあきらめのはやさはまさに「中東」だ。
中東のチームと試合していることをわすれる内容だったのに、
最後になって異文化を体験できた。
オマーンはWカップ予選をつうじて
ホームでの試合ではまけたことがないそうだ。
勝点3をねらって選手たちはよくうごくし、観客からの応援もすごい。
午後3時半開始でもピッチは30℃以上あり、
日本の選手たちのうごきがよくない。
90分ということをかんがえて、慎重に試合にはいったのだろう。
あつさがどれだけ試合に影響するのかをおもいしらされる。
これは当初から懸念されていたことで、
ヨーロッパでプレーしている選手たちにとって、
気候にからだをなれさせるのはたいへんなのだろう。
とくに本田のうごきにはキレがなく、ボールをキープできないし、
かんたんなミスもめだつ。
わたしとしてははやめに中村憲剛をだしてもらいたかった。
日本はサイドからのくずしがおおく、
たてへのボールがなかなかとおらない。
そんなときこそ憲剛のスルーパスなのに。
オマーンの選手たちはただひいてまもるのではなく、
よくせめつづけていた。
1対1にもつよいし、何人かでプレスをかけてたくみにボールをうばう。
ロングボールも精度がたかく、
日本は意外なほど手をやいている。
前半20分に日本が先制してからは一進一退で、
あまり試合がうごかなくなった。
日本のポゼッションはたかくなく、
内容にはあまりみるべきものがなかった。
結果をだすことがもとめられていた試合なので、
これでぜんぜんわるいわけではない。
でも、なんとなくものたりない。
後半32分にオマーンがセットプレーで同点においつくと
場内がものすごくもりあがってきた。
オマーンがボールをもつあいだずっと大声援だし、
日本に有利な判定があるとブーイングがおこる。
放送の解説によると、審判の笛がまったくきこえなくなっていたそうだ。
そのおせおせ状況が、終了間際に岡崎がかちこしとなる2点目をきめると、
いっぺんにしずかになった。
会場をあとにする観客もめだちはじめたそうだ。
なにがおこったか、というほどのかわりようで
(たしかに点がはいったのだけど)、
まだ数分をのこしているし、ロスタイムもあるのに
このあきらめのはやさはまさに「中東」だ。
中東のチームと試合していることをわすれる内容だったのに、
最後になって異文化を体験できた。
2012年11月14日
むすこ(15歳)の誕生日になにをプレゼントするか
以前は両親から、というかたちでプレゼントしていたのに、
いつの間にか、父親と母親がそれぞれにわたすようになった。
きょねんはスケボーのムック本でなんとかしのいでいる。
いつものことながら、今回はどうしようかとかなりこまった。
すこしまえにiPadミニが発売され、
ちょっと気がうごきもした。
いちばんやすい28,800円なら、
奮発したプレゼントとしてわるくないかもしれない。
でも、あんなのをもって自分の部屋にこもり
自由にネットにつなげられては、
青少年の健全な発育にはよろしくないような気がする。
いまのむすこのネット環境は、
わたしのiMacに別のアカウントではいる、というものだ。
自分がやりたいときにかってにたちあげ、メールやゲームにつかっている。
デスクトップパソコンの共有というやり方なら、
そうすきかってにはできないだろうと、
いちおうしばりをつけているつもりだ。
何歳になったら専用パソコンを、
というのはとくにきめてないけれど、
自分でひとりぐらしをするようになったらどうぞご自由に、
というのでいいんじゃないかとおもっている。
というわけでiPadミニはやめ、
けっきょくネットでスケボーのテクニック集(DVD)を注文した。
「最近スケボーをしてないようだけど、
スケボーのDVDでいい?」ときくと、
「あつい夏のあいだスケボーにのらなくなったら、
なんとなくそのままやらなくなった」という気のない返事で、
でもスケボーのDVDでいいそうだ。
『大草原の小さな家』シリーズのように、
ほんのささやかな、たとえば一生懸命にかいた絵をプレゼントして、
おくられたほうも本気でおおよろこび、というわけにはなかなかいかない。
我が家らしく、あいかわらずパッとしない「おいわい」になってしまった。
15歳の誕生日をぶじにむかえられたことは、
ものすごくありがたいことだよ、という意味のことをつたえたいけど、
けっきょくなにもつけたすことなく
宅急便でおくられてきたDVDを手わたした。
配偶者は本をおくる、といっていた。
なににしたのかあとできくと『海底二万海里』なのだそうだ。
自分が子どもだったときに『15少年漂流記』がすきだったので、
おなじ作者(ジュール=ヴェルヌ)のものにしたという。
女の子としてあのはなしがすきだったなんて、
当時めずらしかったのではないだろうか。
わたしも『15少年漂流記』はだいすきだった。
でもそんなはなしをこれまでに配偶者としたことがない。
夫婦のかかえる闇はふかい。
中3の少年にそんな古典をよくえらぶものだ。
わたしはちょっとおどろいたけど、
おくられたむすこはあんがいよろこんで、
すぐに上巻をよみおえた、というから
なにがあたるかわからない。
むすこはハリポタ(本)にいっときのめりこんでいたし、
わたしがたまにすすめる本
(最近では高野秀行さんの『ワセダ三畳青春記』)を
すんなりよんだりして、母親よりもずっと本にしたしんでるのに。
いまどきの15歳に『海底二万海里』をおくる母親はきっとあまりいない。
でも、彼女はまちがいなくむすこのことをおもってこの本をえらんでいる。
本の内容だけでなく、プレゼントしてくれた愛をうけとめたとしたら、
むすこの反応はなかなかあなどりがたい。
わたしよりひとのこころ(もしかしたら女心)を
よく理解しているのかもしれない。
いつの間にか、父親と母親がそれぞれにわたすようになった。
きょねんはスケボーのムック本でなんとかしのいでいる。
いつものことながら、今回はどうしようかとかなりこまった。
すこしまえにiPadミニが発売され、
ちょっと気がうごきもした。
いちばんやすい28,800円なら、
奮発したプレゼントとしてわるくないかもしれない。
でも、あんなのをもって自分の部屋にこもり
自由にネットにつなげられては、
青少年の健全な発育にはよろしくないような気がする。
いまのむすこのネット環境は、
わたしのiMacに別のアカウントではいる、というものだ。
自分がやりたいときにかってにたちあげ、メールやゲームにつかっている。
デスクトップパソコンの共有というやり方なら、
そうすきかってにはできないだろうと、
いちおうしばりをつけているつもりだ。
何歳になったら専用パソコンを、
というのはとくにきめてないけれど、
自分でひとりぐらしをするようになったらどうぞご自由に、
というのでいいんじゃないかとおもっている。
というわけでiPadミニはやめ、
けっきょくネットでスケボーのテクニック集(DVD)を注文した。
「最近スケボーをしてないようだけど、
スケボーのDVDでいい?」ときくと、
「あつい夏のあいだスケボーにのらなくなったら、
なんとなくそのままやらなくなった」という気のない返事で、
でもスケボーのDVDでいいそうだ。
『大草原の小さな家』シリーズのように、
ほんのささやかな、たとえば一生懸命にかいた絵をプレゼントして、
おくられたほうも本気でおおよろこび、というわけにはなかなかいかない。
我が家らしく、あいかわらずパッとしない「おいわい」になってしまった。
15歳の誕生日をぶじにむかえられたことは、
ものすごくありがたいことだよ、という意味のことをつたえたいけど、
けっきょくなにもつけたすことなく
宅急便でおくられてきたDVDを手わたした。
配偶者は本をおくる、といっていた。
なににしたのかあとできくと『海底二万海里』なのだそうだ。
自分が子どもだったときに『15少年漂流記』がすきだったので、
おなじ作者(ジュール=ヴェルヌ)のものにしたという。
女の子としてあのはなしがすきだったなんて、
当時めずらしかったのではないだろうか。
わたしも『15少年漂流記』はだいすきだった。
でもそんなはなしをこれまでに配偶者としたことがない。
夫婦のかかえる闇はふかい。
中3の少年にそんな古典をよくえらぶものだ。
わたしはちょっとおどろいたけど、
おくられたむすこはあんがいよろこんで、
すぐに上巻をよみおえた、というから
なにがあたるかわからない。
むすこはハリポタ(本)にいっときのめりこんでいたし、
わたしがたまにすすめる本
(最近では高野秀行さんの『ワセダ三畳青春記』)を
すんなりよんだりして、母親よりもずっと本にしたしんでるのに。
いまどきの15歳に『海底二万海里』をおくる母親はきっとあまりいない。
でも、彼女はまちがいなくむすこのことをおもってこの本をえらんでいる。
本の内容だけでなく、プレゼントしてくれた愛をうけとめたとしたら、
むすこの反応はなかなかあなどりがたい。
わたしよりひとのこころ(もしかしたら女心)を
よく理解しているのかもしれない。
2012年11月13日
『まほろ駅前多田便利軒』(三浦しをん)さえないハードボイルドが気もちいい
『まほろ駅前多田便利軒』(三浦しをん・文春文庫)
これはハードボイルドだ。
わたしのすきなススキノ探偵シリーズ(東直己)をおもいだした。
「おれ」と高田をぐっと庶民的にしたら
多田と行天のコンビができあがる。
ススキノ探偵よりも金まわりがわるく、
依頼される仕事は、ネコをあずかったり納屋のかたづけという、
みみっちい仕事がおおい。
お金も腕力もないわたしには、
こっちのほうが自分のすんでいる世界にちかい。
ただ、これほどかっこいい生き方はできない。
まほろ駅前で便利屋の事務所をかまえる多田のところに、
高校のときの同級生、行天(ぎょうてん)がころがりこむ。
行天は、仕事をやめ、ためていたお金を全部「奥さんだったひと」におくり、
ほぼ一文なし、という状況だ。
多田は迷惑がりながらも行天をおいだすことができない。
うけおった仕事をからませて、
2人はだんだんいいコンビになっていく。
行天は常識的な発想をしないひとで、
ぜんぜんこわがらずにチンピラとやりあったり、
中学生や高校生とはなしができたりする。
2人とも一般的な価値観やお金にしばられない生き方をしてる。
この本がすがすがしいのは、
多田も行天も、自分がまもらなければならない価値観を
もっともらしくいいたてることなしに大切にしているからだろう。
その価値観のなかには、自分がかかわるひとたちを
尊重する姿勢もふくまれている。
便利軒でえた数百円のお金まで
「奥さんだったひと」におくる行天が
わたしにはすごくかっこいい。
多田便利軒は1時間2000円で仕事をうけおっている。
わたしも、まえにつとめていた事業所で、
おなじ金額のサービスを提供していたことがある。
介護保険などの福祉サービスは、
おおやけのお金でまかなわれているので、
そのつかい方にはいろいろな制限がついてまわる。
庭の草とりや犬の散歩はだめ、とか、そういうことだ。
それじゃあ福祉サービスをはなれて、
利用者と事業者とのあいだで私的な契約をむすび、
どんな内容の仕事でも、自由に利用できるようにしよう、
という発想でのサービスだ。
ほんとうに多田便利軒みたいな仕事、
たとえばベランダの花への水やり、
ということもやったことがある。
1時間2000円というとたかいような気がするけど、
それくらいいただかないと
サービスをつづけることができない。
かといって、時給3000円とか5000円では
うけおう仕事の内容がちがってくるだろう。
多田便利軒の2000円という金額は、
事業所のスタイルをきめている。
2000円だからいまみたいにろくでもない仕事がはいってくるし、
でも、なんとかくいつないでいけるだけの依頼がある。
この作品は続編として『まほろ駅前番外地』が出版されている。
『ビブリオ古書堂』は1冊でいいか、とおもったのに、
この作品はつづきがよみたくなる。
ハードボイルドのかっこよさにひかれるのだろうか。
多田も行天も、タバコのすいすぎだ。
行天は酒ばかりのんで固形物をたべないのはよくない。
2人とも健康に気をくばって
ちゃんといまの仕事をつづけるように。
なんて、ぜったい無理なことをおもいながら
2人のものがたりのつづきをたのしみにしている。
これはハードボイルドだ。
わたしのすきなススキノ探偵シリーズ(東直己)をおもいだした。
「おれ」と高田をぐっと庶民的にしたら
多田と行天のコンビができあがる。
ススキノ探偵よりも金まわりがわるく、
依頼される仕事は、ネコをあずかったり納屋のかたづけという、
みみっちい仕事がおおい。
お金も腕力もないわたしには、
こっちのほうが自分のすんでいる世界にちかい。
ただ、これほどかっこいい生き方はできない。
まほろ駅前で便利屋の事務所をかまえる多田のところに、
高校のときの同級生、行天(ぎょうてん)がころがりこむ。
行天は、仕事をやめ、ためていたお金を全部「奥さんだったひと」におくり、
ほぼ一文なし、という状況だ。
多田は迷惑がりながらも行天をおいだすことができない。
うけおった仕事をからませて、
2人はだんだんいいコンビになっていく。
行天は常識的な発想をしないひとで、
ぜんぜんこわがらずにチンピラとやりあったり、
中学生や高校生とはなしができたりする。
2人とも一般的な価値観やお金にしばられない生き方をしてる。
この本がすがすがしいのは、
多田も行天も、自分がまもらなければならない価値観を
もっともらしくいいたてることなしに大切にしているからだろう。
その価値観のなかには、自分がかかわるひとたちを
尊重する姿勢もふくまれている。
便利軒でえた数百円のお金まで
「奥さんだったひと」におくる行天が
わたしにはすごくかっこいい。
多田便利軒は1時間2000円で仕事をうけおっている。
わたしも、まえにつとめていた事業所で、
おなじ金額のサービスを提供していたことがある。
介護保険などの福祉サービスは、
おおやけのお金でまかなわれているので、
そのつかい方にはいろいろな制限がついてまわる。
庭の草とりや犬の散歩はだめ、とか、そういうことだ。
それじゃあ福祉サービスをはなれて、
利用者と事業者とのあいだで私的な契約をむすび、
どんな内容の仕事でも、自由に利用できるようにしよう、
という発想でのサービスだ。
ほんとうに多田便利軒みたいな仕事、
たとえばベランダの花への水やり、
ということもやったことがある。
1時間2000円というとたかいような気がするけど、
それくらいいただかないと
サービスをつづけることができない。
かといって、時給3000円とか5000円では
うけおう仕事の内容がちがってくるだろう。
多田便利軒の2000円という金額は、
事業所のスタイルをきめている。
2000円だからいまみたいにろくでもない仕事がはいってくるし、
でも、なんとかくいつないでいけるだけの依頼がある。
この作品は続編として『まほろ駅前番外地』が出版されている。
『ビブリオ古書堂』は1冊でいいか、とおもったのに、
この作品はつづきがよみたくなる。
ハードボイルドのかっこよさにひかれるのだろうか。
多田も行天も、タバコのすいすぎだ。
行天は酒ばかりのんで固形物をたべないのはよくない。
2人とも健康に気をくばって
ちゃんといまの仕事をつづけるように。
なんて、ぜったい無理なことをおもいながら
2人のものがたりのつづきをたのしみにしている。
2012年11月12日
朝のジョギングは10・11月からはじめるのがおすすめです
朝のジョギングをはじめて1ヶ月がたつ。
たった1ヶ月とはいえ、いまのところいいかんじでつづいている。
はしる回数がふえるとからだもなれ、
足と頭がつながってないような
ヘロヘロ状態のはしりにならなくなった。
以前はよく、なんでこんなに
いつまでたってもたのしくはしれないのだろう、
と不思議におもっていたけれど、
けっきょくたんなる練習不足だったのだ。
夜の酒は1杯できりあげるようになったし、
夕食後のコーヒーもやめた。
ねる時間がはやくなったので、
よふかししなくなり、
日中に、ねむくてたまらないことがなくなった。
なにかの都合ではしらない日がつづいたときは、
すこしの時間でもいいからからだをうごかしたいという気になる。
こういうの要求をかんじるのは何十年ぶりのことだ。
イメージとしては、ときはなたれた猟犬のように、
ちからづよく、タフにはしりつづける
(じっさいは・・・)。
10月からはじめたのがよかったとおもう。
10月・11月の朝はまださむくないので、
おきだすのはそうつらくないし、
ひんやりとした空気がはしるのにちょうどいい。
朝日がのぼると、なんともいえない色となる
夜あけの空をたのしむことができる。
はしっているくせに、このうつくしい時間に
景色をみながらゆっくり散歩したいなー、
なんてわけのわからないことをかんがえながらはしる。
もうひとつ、なによりも重要なのは、
10月から「あつくない」ということだ。
夏の朝は、たとえ朝でも「爽快」というわけにはいかない。
10月にはいるとやっと夏がおわり、はしってたのしい季節となる。
1ヶ月まえの初日は、うえがTシャツ、下が短パンだった。
2日目は上がながそでになり、
3日目は下も長ズボンになる。
そのうちそれに手ぶくろがくわわった。
これくらいのさむさが、はしるにはちょうどいいのだ。
顔なじみのひともできた。
はしりながら会釈をしたり「おはようございます」といったり。
自分の健康づくりというかんじの散歩ちゅうのひとや、
犬をつれているひとがおおく、
ランナーにはほとんであわない。
土日はメンバーがふえ、
ウェアーをきめた女性もたまにみかける。
ジョギングをしていてこまるのは、
ジョガーよりもはやくあるくひとで、
通勤中の女性においつけないときはがっくりくる。
はしっていていいことはもちろんある。
はしりおえると、もうはしらなくてもいいことだ。
もうはしらなくてもいいためにはしる、なんて、
なにかの禅問答みたいだけど、
おおかれすくなかれ、たいていのランナーに
共通の心理なのではないだろうか。
はしりおえ、シャワーをあびてから
ゆっくり朝ごはんをたべているときが
いまのわたしにとっていちばんしあわせなときで、
なんだかもうそれでいちにちの仕事が
おわったような気になる。
こんなかんじで、いちにちいちにちを、
なんとかやりくりしながら1ヶ月がたった。
このまま1年、そして3年と、
朝のジョギングを定着させたい。
たった1ヶ月とはいえ、いまのところいいかんじでつづいている。
はしる回数がふえるとからだもなれ、
足と頭がつながってないような
ヘロヘロ状態のはしりにならなくなった。
以前はよく、なんでこんなに
いつまでたってもたのしくはしれないのだろう、
と不思議におもっていたけれど、
けっきょくたんなる練習不足だったのだ。
夜の酒は1杯できりあげるようになったし、
夕食後のコーヒーもやめた。
ねる時間がはやくなったので、
よふかししなくなり、
日中に、ねむくてたまらないことがなくなった。
なにかの都合ではしらない日がつづいたときは、
すこしの時間でもいいからからだをうごかしたいという気になる。
こういうの要求をかんじるのは何十年ぶりのことだ。
イメージとしては、ときはなたれた猟犬のように、
ちからづよく、タフにはしりつづける
(じっさいは・・・)。
10月からはじめたのがよかったとおもう。
10月・11月の朝はまださむくないので、
おきだすのはそうつらくないし、
ひんやりとした空気がはしるのにちょうどいい。
朝日がのぼると、なんともいえない色となる
夜あけの空をたのしむことができる。
はしっているくせに、このうつくしい時間に
景色をみながらゆっくり散歩したいなー、
なんてわけのわからないことをかんがえながらはしる。
もうひとつ、なによりも重要なのは、
10月から「あつくない」ということだ。
夏の朝は、たとえ朝でも「爽快」というわけにはいかない。
10月にはいるとやっと夏がおわり、はしってたのしい季節となる。
1ヶ月まえの初日は、うえがTシャツ、下が短パンだった。
2日目は上がながそでになり、
3日目は下も長ズボンになる。
そのうちそれに手ぶくろがくわわった。
これくらいのさむさが、はしるにはちょうどいいのだ。
顔なじみのひともできた。
はしりながら会釈をしたり「おはようございます」といったり。
自分の健康づくりというかんじの散歩ちゅうのひとや、
犬をつれているひとがおおく、
ランナーにはほとんであわない。
土日はメンバーがふえ、
ウェアーをきめた女性もたまにみかける。
ジョギングをしていてこまるのは、
ジョガーよりもはやくあるくひとで、
通勤中の女性においつけないときはがっくりくる。
はしっていていいことはもちろんある。
はしりおえると、もうはしらなくてもいいことだ。
もうはしらなくてもいいためにはしる、なんて、
なにかの禅問答みたいだけど、
おおかれすくなかれ、たいていのランナーに
共通の心理なのではないだろうか。
はしりおえ、シャワーをあびてから
ゆっくり朝ごはんをたべているときが
いまのわたしにとっていちばんしあわせなときで、
なんだかもうそれでいちにちの仕事が
おわったような気になる。
こんなかんじで、いちにちいちにちを、
なんとかやりくりしながら1ヶ月がたった。
このまま1年、そして3年と、
朝のジョギングを定着させたい。
2012年11月11日
『サッカー批評』でヨーロッパ遠征が特集された
『サッカー批評』(59号)は、
表紙に【総力特集】として
「ザッケローニを超える日本代表へ」
とある。
なんだかザッケローニ監督を批判してるみたいだけど、
その意図するところは、
(日本代表がさらなる進化を遂げるために必要なことは)
「いい意味で、ザッケローニの発想、規律を
選手たちが超えていくことではないか」
ということなのだそうで、
けしてザッケローニ監督は必要ないといっているわけではない。
この号では、先日おこなわれたヨーロッパ遠征での
フランス戦とブラジル戦におおくのページをさき、
この2戦であきらかになった課題についてかいてある。
とくに、正面から勝負にいどんだブラジル戦は、
この敗戦からなにをまなび、2014年のWカップにどうむすびつけるかという
格好のテストマッチとなった。
わたしがいつもブログで引用する西部謙司さんは
「『無謀な挑戦』の光明」として記事をよせている。
「日本は自分たちの現在地を測るための戦い方をした」
「その結果、通用すること、しないことが、
かなり明確に確認できた」
と試合を位置づけ、
「相手陣内までボールを運ぶことができた」
(しかし、最後の一線が突破できない)
など、いくつかのポイントをチェックしている。
そのなかにあった
「遠藤・長谷部の2人では中央は守れない」
という指摘はこれまで耳にしたことがない。
日本のほこる鉄壁のダブルボランチといわれていた2人の守備が、
強豪相手にはつうじなかったことは
これからのチームづくりにおおきな影響をあたえるだろう。
よせられた記事のおおくは代表の方向性を支持し、
ザッケローニ監督のマネージメントを評価している。
4-0という大敗にもかかわらず、
このブラジル戦は非常に有意義な体験だった。
本誌には『僕らはへなちょこフーリガン』という連載コラムがあり、
「欧州遠征をマッチメイクした人は、
スポーツ功労賞、いやノーベル賞ものですよねえ」
というジョークがかたられている。
『サッカー批評』の本号は、けっきょくこのひとことにつきる。
国内でのキリンチャレンジカップだけでなく、
もっとこうした機会をもつことの必要性を
おおくのひとがかんじたことだろう。
この「ノーベル賞」発言は、
「あの2試合が本当に幸運だったかどうかは、
今後のザック・ジャパンの行く末を見守ってみなきゃ
まだわからんだろうが」
「確かにこれまでだって『貴重な経験』と言われたものは
山ほどあったわけで、それがどこまで、
どんな血となり肉となっているのかは、
食べ物といっしょで目に見えないのは当然です」
とつづいている。
ほんとうだ。
よくいわれるように、サッカーのカレンダーはとまることがない。
いつもなにかをめざしてうごきつづけており、
そのなかで「貴重な経験」をどう生かしていくかは
どの時点でもチームにとわれている。
Wカップアジア予選はのこり4試合となり、
オマーン戦(11/14)・ヨルダン戦(3/26)と
アウェイでの試合がつづく。
2試合でえた「貴重な経験」が日本代表にどんな変化をもたらすのか、
たのしみにみまもりたい。
表紙に【総力特集】として
「ザッケローニを超える日本代表へ」
とある。
なんだかザッケローニ監督を批判してるみたいだけど、
その意図するところは、
(日本代表がさらなる進化を遂げるために必要なことは)
「いい意味で、ザッケローニの発想、規律を
選手たちが超えていくことではないか」
ということなのだそうで、
けしてザッケローニ監督は必要ないといっているわけではない。
この号では、先日おこなわれたヨーロッパ遠征での
フランス戦とブラジル戦におおくのページをさき、
この2戦であきらかになった課題についてかいてある。
とくに、正面から勝負にいどんだブラジル戦は、
この敗戦からなにをまなび、2014年のWカップにどうむすびつけるかという
格好のテストマッチとなった。
わたしがいつもブログで引用する西部謙司さんは
「『無謀な挑戦』の光明」として記事をよせている。
「日本は自分たちの現在地を測るための戦い方をした」
「その結果、通用すること、しないことが、
かなり明確に確認できた」
と試合を位置づけ、
「相手陣内までボールを運ぶことができた」
(しかし、最後の一線が突破できない)
など、いくつかのポイントをチェックしている。
そのなかにあった
「遠藤・長谷部の2人では中央は守れない」
という指摘はこれまで耳にしたことがない。
日本のほこる鉄壁のダブルボランチといわれていた2人の守備が、
強豪相手にはつうじなかったことは
これからのチームづくりにおおきな影響をあたえるだろう。
よせられた記事のおおくは代表の方向性を支持し、
ザッケローニ監督のマネージメントを評価している。
4-0という大敗にもかかわらず、
このブラジル戦は非常に有意義な体験だった。
本誌には『僕らはへなちょこフーリガン』という連載コラムがあり、
「欧州遠征をマッチメイクした人は、
スポーツ功労賞、いやノーベル賞ものですよねえ」
というジョークがかたられている。
『サッカー批評』の本号は、けっきょくこのひとことにつきる。
国内でのキリンチャレンジカップだけでなく、
もっとこうした機会をもつことの必要性を
おおくのひとがかんじたことだろう。
この「ノーベル賞」発言は、
「あの2試合が本当に幸運だったかどうかは、
今後のザック・ジャパンの行く末を見守ってみなきゃ
まだわからんだろうが」
「確かにこれまでだって『貴重な経験』と言われたものは
山ほどあったわけで、それがどこまで、
どんな血となり肉となっているのかは、
食べ物といっしょで目に見えないのは当然です」
とつづいている。
ほんとうだ。
よくいわれるように、サッカーのカレンダーはとまることがない。
いつもなにかをめざしてうごきつづけており、
そのなかで「貴重な経験」をどう生かしていくかは
どの時点でもチームにとわれている。
Wカップアジア予選はのこり4試合となり、
オマーン戦(11/14)・ヨルダン戦(3/26)と
アウェイでの試合がつづく。
2試合でえた「貴重な経験」が日本代表にどんな変化をもたらすのか、
たのしみにみまもりたい。