2012年11月10日

ヴィッセル神戸の西野監督解任を残念におもう

ヴィッセル神戸の西野監督が解任された。
西野氏は、おもうような結果のだせなかった前任の和田昌裕氏にかわり、
5月19日からヴィッセル神戸に就任している。
しかし、西野氏が指揮をとってからもパッとしない状況がつづき、
11月7日におこなわれた横浜F・マリノス戦で1-2とやぶれたことで
降格圏まですぐそこという15位となった。
翌8日にクラブ側が西野氏の解任を発表し、
のこり3試合はヘッドコーチの安達亮氏がひきつぐことになる。

今回の監督交代にあたって、ヴィッセル神戸の叶屋宏一社長がかたった

「9戦勝ちなしは交代に値するという判断」

についてフモフモ氏がくわしく分析している。
フモフモ氏が「9戦勝ちなし」という例を
2011年のシーズンについてしらべてみると、
J1・J2をつうじ7回しかおこってないのだそうだ。
それほど「あまりない状況」であり、
たしかに「交代に値するという判断」があっても
不自然ではないかもしれない。
のこり3試合で15位というあとのない位置においこまれ、
どうにかして残留をはたそうというのがクラブ側の判断だ。

しかし、なんといっても実績のある西野氏である。
せっかく監督にかつぎだすことに成功したのに、
この時期での解任はもったいなくはないか。
神戸は毎年中位から下位という位置に
安定してとどまってきたチームであり、
ここらで優勝やACLへの参加をあらそえる力をつけたい、という
クラブ側のおもいがあったはずだ。

今シーズンのヴィッセル神戸は
ガンバから橋下と高木、鹿島から田代と野沢を獲得し、
新体制がはじまってからも日本代表の伊野波がくわわっている。
ザッケローニ代表監督も、今シーズン注目するチームとして
ヴィッセル神戸の名前をあげていた。
しかし開幕から3勝5敗とつまづいたことで
西野氏が監督としてまねかれたという経緯がある。

この解任について西野氏は、クラブハウスでの取材
非常に誠実なうけこたえをしており、
人としてしっかりしたかんがえをもつ、
貴重な監督だったことがうかがえる。
すべての責任を自分でおい、
けしてクラブや選手のせいにしてにげようとはしない。

「クラブとしては残留という目標があったとはいえ、
監督が就任された際は、ある程度、
長期的にクラブを見てほしいという話だったと思います」
という質問にたいし、

「それは契約ですからね。確かに、時間はいただきましたし、
自分もそういう中でチームを作れればなと思っていました。
ただ現実的に始まってみると、
自分が思っているような猶予はないんだな、と思いました」


別の質問には
「1年に2回退団するとは思わなかったですね。
10年やっていながら1年で2回というのは」

と、いまの状況に呆然となっている。

クラブをさるくやしさについても
「それはもちろん…ちょっとあり得ないですからね。
ただ、どうにもできないという…。だから、とにかく今は、
今回のクラブの決断がチームにプラスになってくれれば本当にいいなと思っています」

この交代が、ヴィッセル神戸にとって、
またJ1の残留あらそいにたいして、どんな影響をもたらすかみまもりたい。
西野氏をきったガンバ大阪は、現在16位と低迷し、
その西野氏をまねいたヴィッセル神戸が15位と、
西野氏にとってたいへんなシーズンとなってしまった。
西野氏の能力が、今後ともサッカーの発展のためにいかされていくことをねがっている。

posted by カルピス at 20:05 | Comment(0) | TrackBack(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月09日

『アド・バード』はじめてよむ椎名誠のSF

椎名誠の本は何十冊もをよんでいるのに、
SFはこれがはじめてだ。
いつかはよもうとおもいながら、SFはなんとなく敷居がたかい。
web上の「椎名誠旅する文学館」でこの作品がとりあげられたのをきっかけに、
ようやく本棚からとりだした。

集英社から発売されたのは1990年でも、
オリジナルのアイデアは1972年に
目黒さんの個人誌に発表されているので、
椎名さんは20年ちかくこの作品をあたためていたことになる。

第1章を書き上げたところで椎名さんはいきづまってしまい、
どうしたらいいのか目黒考二さんに相談したのだそうだ。
目黒さんは
「そんなの簡単だよ、これまでのことを全部忘れて、
全然関係ない話を書けばいいんだよ」
というすごいアドバイスをしている。
結果的に内容はうまくつながり、
この作品の構造をふかめることになった。

よんでいると、『地球の長い午後』
・『ブレードランナー』・『風の谷のナウシカ』がおもいうかんだ。
椎名さんは『地球の長い午後』のファンであることが
目黒さんがかいた解説でも紹介されている。
かわった名前の虫や動物がぞろぞろでてきておぞましいうごきをすると、
はじめてよむ椎名誠のSFなのに、
おなじみのシーナワールドにはいった気がしてくる。
そのおかげか、SFになれないわたしでも、
違和感なくよみつづけることができた。
これだけの社会を、リアリティのある世界としてつくりあげた
椎名誠の筆力がすばらしい。

作品の世界がどうつくられたかがしだいにあかされてくると、
複雑にいりくんだ未来社会が、きゅうにスポッとつきぬけて、
はれやかでかわいた世界におもえてきた。
広告が極端に発達したそうぞうしい未来社会は、
かなりちかい形で現代社会に再現されているといえる。

SF3部作といわれるあとの『武装島田倉庫』と『水域』もよんでみたくなった。

posted by カルピス at 10:45 | Comment(0) | TrackBack(0) | 椎名誠 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月08日

ピピのサービスをよろこんでくれるお客はどこにいるのか

自社サイトのうりあげをどうすればふやせるのか、
という5回シリーズの勉強会に先日から参加している。
講師はカンドウコーポレーションの福原勘二さんだ。
「本気は伝染する」をかかげての、
ものすごく内容のこゆい講座で、
はなしをきくたびにあたらしい刺激で頭がクタクタになる。
本気が伝染し、今回の参加が複数回になる方も数名おられる。

こういう会に参加されるぐらいなので、
どの会社もネット販売をなんとかしなければ、というなやみを
共通にもっておられる。
どうやってお客に商品をクリックしてもらうかは
いつもわたしたちにつきつけられている切実な問題だ。
この自分たちのおもいを、どうネットショップで表現するか。

福原さんが講座のはじめからずっといわれるのは、
自分たちのつよみをどうとらえるか、であり、
そのつよみを、いいとおもってくれるお客さんは
どこにいるのか、ということだ。
これらについて延々とほりさげ、
自社の商品をとらえなおす。
自分たちのつよみはあんがい気づかないもので、
福原さんはそれが「お客さまのほめことば」にかくされているという。
お店やネットでお客さまがほめてくれたコメントをかきあげていくと、
どんな点を評価し、よろこんでもらえたかがわかる。

もうひとつわたしがひかれるのは
「1点集中主義」という手法だ。
「しぼりこむ勇気」ともいわれる。
商品をかぎることで自分たちの特徴をお客につたえやすくなる。
あれもできます、これもある、というショップではなく、
うちの看板商品はこれです、とドーンとうちだす。

ピピのサービスをよろこんでくれるお客さまはどこにいるのか。
そして、わたしたちはどのサービスを
ピピの看板商品としてうちだすのか。
ものをうるショップではないけれど、
福原さんの講義をきっかけに、
自分たちのサービスについて
あたらしい視点でかんがえられるようになった。

福原さん流の商売において、
前提にあるのはお客さまがだいいち、というかんがえ方だ。
「お客さま」ばかりいうのは、
いっけんいやらしいことにきこえやすいけど、
福原さんは本気なのでいやみがない。
戦略の底にながれているのが
「お客さまがだいいち」であるからこそ
お客は信頼し、安心してそのサービスをうける。
自分のためにやっているのではないからこそ、
福原さんの発言、生きかたには迫力がある。

posted by カルピス at 10:21 | Comment(0) | TrackBack(0) | 児童デイサービス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月07日

人型寝袋という世界

きのうの新聞の通販ページに
「歩ける寝袋!トイレも読書もそのままで!」
という商品がのっていた。
「NEW動けるあったか寝袋」というもので
「着るタイプの人型寝袋」とある。
『野宿野郎』のサイトをみて、こういう寝袋があることはしっていた。
しかし、この新聞広告は、きっとなにかの冗談なのだろう。
6104_250.jpg
「着たまま歩ける寝袋です」
はいいとしても、
「夜中のトイレも、読書や作業もそのままでOK!」
「地震や火事でもすぐに避難することができます」
「専用の収納袋に入れれば、布団では考えられないほどコンパクトに」
となると、いろいろつっこんでみたくなる。

だれが寝袋をきたまま作業をするのだろう。
それはもう寝袋というよりも、寝袋の機能をもった、
つまりすごくあたたかい「つなぎ」ではないのか。
それに、寝袋にはいったまま避難する必要なんか絶対にない。
緊急のときには寝袋からでて、
すばやくうごいたほうがいいにきまっている。
こうしたきめつけは、往々にして思考をまずしくするので、
わたしはできるだけ「絶対に」といわないようにしている。
でも、寝袋ほど「避難」となじみにくいものはおもいうかばなかった。
また、寝袋の収納サイズを布団とくらべられてもこまる。
寝袋が布団ほどかさばるのなら、寝袋の意味がない。

いっぽう、ちょっと気もちがうごくのは、
寝袋のままトイレにいける、という情報だ。
「男性のみ」とはなっていないので、
おしりをだすための特殊なファスナーがついていて、
きゅうな尿意・便意に対応してくれるのだろう。
さむい夜に、せっかくあたたかくなっている寝袋からぬけださずに
おしっこができるのはとてもありがたい
(チャックまわりがよごれそうだけど)。

ネットで検索してみると、
ほかにも人型寝袋がいくつかヒットした。
いかによい商品であるかのルポものっていて、
いまではひとつのジャンルとなっていることをしる。
『野宿野郎』の、社員のようなものになろうという
わたしがみすごしていたのは不覚だった。
需要があるから供給されるわけであり、
おおくのひとが人型の寝袋を必要とする理由はなんなのだろう。
冬のさむさ対策ということは、
アウトドアよりも部屋での利用を前提とした商品のようだ。
ミノムシのように、ただ袋にもぐりこんだままよりも、
おなじ機能をはたしながらうごけたほうが便利というのは
だれでも発想しそうなアイデアだ。
ほんとに便利なのか、なんちゃって便利なのかは
つかってみないとわからない。
これからのさらなる発展に期待したい。

posted by カルピス at 10:32 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月06日

「島根は日本の領土です」鷹の爪カレンダーを手にいれる

鷹の爪のポスターが発売される。
これまではあまり数が用意されなかったのですぐうれきれたけど、
今年は8000部すったので大丈夫なのだそうだ。

物産館にいくと、どこにもカレンダーがはってないので、
カウンターにたずねる。
こまったことをきかれた、という対応で、
申込書をかくようにと紙をわたされた。
きたひとにどんどんうるのではなく、
申込書によっていったん希望者数を整理してから連絡するという。
「いつ連絡をいただけますか」ときくと
「今夜じゅうには」ということだ。
ぜんたいにヒソヒソ声でのやりとりで、
あまりおおっぴらにできないもの、
たとえばイスラム圏の国で、非合法な酒をもとめてるみたいだ。
せっかくかいにきてるのに、そして目のまえにものがあるのにうけとれず、
べつの日にあらためてくるなんてひどいはなしだ。
でもまあ、それが島根か、と自虐的に納得し、
予約をしてかえる。
秘密結社なのだから、当然ともいえるやりとりかもしれない。
連絡は、その日の夜にではなく、つぎの日のひるまえにはいり、
さっそく午後にうけとりにいった。

カレンダーは卓上版と壁かけ版の2種類あり、
それぞれ1470円と840円になっている。
わたしはもちろん両方を注文した。
「スーパーデラックス卓上カレンダー」の表紙は
「島根は日本の領土です」だから
いきなりすごくおかしい。
どの月のコメントも「そういわえると、たしかに」的で、
わたしのお気にいりは7月の「時差、ありません」だ。
キャラクターとコメントがほとんどのスペースをしめるので、
肝心のカレンダーとしての機能はあまりよくないが、
鷹の爪カレンダーにそんなことをもとめるひとはいないだろう。
ファンにとっては最良のレイアウトといえる。

壁かけ版は、2ヶ月分が1枚になっており、
表紙とあわせて7枚の構成だ。
こちらも実用的であるよりも
鷹の爪的であることをめざしているので、
ファン以外の需要はすくないはずだ。
すくないはずなのに、こうやって事前予約が必要なのだから、
全体としては大ヒットといっていい状況だろう(島根的には)。

わたしがカレンダーをうけとったとき、
カウンターでたずねていた男性は
「11月の中旬には次のがはいります」といわれていた。
初日に注文しなければ中旬までまたされるというのは、
島根としてはありえない事態だ。
鷹の爪のおかげで、島根の知名度はかなりあがったはずで、
そうなると

「島根って、鳥取のどのへん?てきかれた」
「いいえ、砂丘はありません」

という島根ならではの自虐ネタがつかえなくなってくる。
カレンダーの各月にかかれている
「負けるな!島根県」は、じつは
あまり実現してほしくないエールともいえる。

posted by カルピス at 08:26 | Comment(0) | TrackBack(0) | 鷹の爪 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月05日

『アマデウス』きれいな映像という印象だけのこる

島根映画祭として上映された
『アマデウス』(1984年・アメリカ)をみる。
アンケートの結果、
人気がたかかったから上映されたはずなのに、
3割程度しかお客さんがはいっていない。
3時間の作品で、アクビが2回でた。
作品のなかでかたられたオペラのガイドラインによると、
これはあまりよい評価ではない。

映像はとてもリアルだ。
みたことはないけど、きっと
1780年代のヨーロッパって、
こんなかんじだったのだろうとおもわせる。
うすぐらくてさむそうで、
かといって効果的な暖房があるわけがなく、
人々は服をきこんでしのぐよりない
(というより、かなりうすぎだ)。
冬の場面がおおく、みているだけで陰鬱な気分になってくる。
雪がぐしゃぐしゃになったとおりを馬車がゆききして、
ひとは足もとがぬれるのをいとわずにあるく。

あかりは当然ローソクだけ。どの場面でも、
たくさんのふとくてながいローソクが目につく。
きらびやかな舞踏会も、ものすごい数のローソクによって
ささえられていたことがわかる。
冬の中世には、絶対にいきたくない。
そんな時代だからこそ、
音楽がもつ意味はおおきかったのだろうか。

観客であるわたしは、かずあるモーツァルト象の
ひとつの解釈としてこの作品をみる。
耳につくたかわらいでモーツァルトが登場する。
音楽では突出したちからをしめしながらも、
音楽の価値観だけですべてを判断し、
世間の常識をかんだかい声であざわらう。
あの調子でやれば、
まわりからみはなされていくのは当然で、
仕事のくちはなく浪費はかさみ、
しだいにおちぶれた生活となる。

それぞれの人物が、
そんなにふかくほりさげられていたとはおもわない。
階級や職業によって、
その役割の範囲内での発言に終始する。
宮廷音楽家は宮廷音楽家としての、
妻は妻としての常識的なふるまいをする。
そこからはずれるのがモーツァルトだけなので、
どうしても彼だけ異端にみえる。

この作品は、いったいなんだったのだとふりかえる。
ある分野については天才でも、処世術にうとく、
生活力がないのはことはよくあることだ。
モーツァルトについて仮設をつみあげ
リアルにそれを再現すると、
たしかにこの作品のようになるのだろう。
そこにとくにおどろきはなく、
共同墓地になげこまれる悲運な最後を
残念におもうしかない。
映像はうつくしくリアルだった。
でも、それだけだった。

posted by カルピス at 10:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月04日

11月からでも「足りなさの中で成果を残す」というかんがえ方

11月にはいり、今年もあと2ヶ月をのこすだけとなった。
毎年この時期になると、日常のあいさつや、ラジオ番組のマクラで
ときのうつりかわりのはやさにおどろくことばをよく耳にする。
気分はもう「今年もほとんどおわったな」であり、
「来年こそは◯◯をしよう」とはやくも次の年におもいをはせる。
あいさつとしてはいいとしても、
このままおなじことをつづけていていいのだろうか。

シゴタノ!では「スピードハック総決算2012前編」を11月11日にひらくという。
「足りない中で確実に成果を残していく方法を2ヶ月で実践する」
というもので、
基本的なかんがえ方は以下のとおりだ。
11月と12月のたった2ヶ月では何もできない。だから来年に期待しよう。多くの人はそう考えがちです。しかしいつでも時間は不足しているのです。ですからむしろ、その足りなさの中で成果を残すべきです。そうすることができるようになって初めて「来年1年」で大きな仕事を成し遂げることができるのです。

なるほどな、とおもう。
いつだって、なにもかも不足しているのだ。
やりたいことはたくさんあって、
それをする時間や気力という条件がととのわない。
それは、いまにはじまったことではなく、
これまでも、そしてこれからもかわらないとおもったほうがいい。
1年は1ヶ月のつみかさねであり、
1ヶ月は1日のつみかさんでしかない。
一日いちにちを、ていねいに生きていくしかないのだ。

わたしはもともと「今年の目標」をたてていない。
「今年」というくくり方はせずに、
そのときどきにやらなければならないことをこなしているだけだ。
目標をたてながらうまくいかない、というなやみではなく、
もともとの目標がないのだからおはなしにならない。
ふりかえることはできても、それはなりゆきでしかないので、
つぎの計画への参考につながらない。

目標をたてて、それにしばられることをさけてきたわけだ。
でもまあ、自分のやりたいことのために、
無理のない目標をもつことは
のこり時間がかぎられてきたわたしにとって
有益なかんがえ方だろう。
いまわたしが目ざしている生活は、

・老後のとりくみとしてコメ・野菜づくりがしたい
・いちねんに1回はマラソン大会にでたい
・すきな本をたくさんよみたい

というものなので、
それにむけた具体的なうごきをかんがえる。
11月と12月にできれば、
そのさきもつづけられるかもしれない。
11月から、というのは
期限がかぎられていて、あんがいいスタートかもしれない。

posted by カルピス at 12:32 | Comment(0) | TrackBack(0) | 仕事術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月03日

『フットボールネーション4』脳のはたらきが選手の体型に影響をあたえる

『フットボールネーション』(大武ユキ・小学館)
の4巻が発売された。

沖千尋のいる「東京クルセイド」は
天皇杯予選で埼玉代表の「埼玉RSユース」と対戦する。

この巻のテーマは「脳」だ。
筋肉をどううごかすかは脳にかかっている。

「大脳が担っているのは、テクニックの部分」
「そのテクニックがスムーズに繰り広げられるかは、
小脳の働きにかかっている」
    ↓
「身体に持っているポテンシャルを最大限に発揮できるのは
小脳が発達しているから」
「小脳は頭で働かせようとしても
働いてくれない」
    ↓
「身体の使い方のクセで、
筋肉の付く場所・形・量が違ってくる」
    ↓
サッカーのやり方によって
選手の姿勢や体型までがかわってくる

なんとなく、そうか、とおもってよむものの、
ほんとのところ、よく理解できたわけではない。
ヨーロッパサッカーにちかづかないと、
日本のサッカーの未来はない、と
いわれているようで、あまりいい気はしなかった。
まあ、いまの日本人チームにない特色をいかして
天皇杯をかちとろうというのだから、
こうした論理武装が必要なのだろう。

『フットボールネーション』にはフィジカルのこともよくでてくる。
3巻では
「プロとアマとの一番大きな差は
テクニックでもセンスでもなく、フィジカルだ」
とかかれている。
そして、おおくの日本人選手は
「フィジカルという才能にめぐまれているにもかかわらず、
そのポテンシャルを生かしきっていない」
という指摘だ。

ほんとにそうなのだろうか。
宮間あや選手は、西部謙司さんのインタビューで
あまりフィジカルのことを意識していない、とはなしている。

「女子は男子以上に国際試合での体格の違いがありますが、
そこはどう考えていますか?」
ときかれたとき、

「結局、相手が強いから速いからミスするんじゃなくて、
技術の問題ですから」とこたえている。

西部さんも
「本当はそうだと思います。
当たられると思ってミスするのはフィジカルのせいじゃない。
まだ当たられてないんですからね」
と、この意見に同感している(『サッカー批評・57号』

外国選手にくらべフィジカルにめぐまれない日本人が
どうやって自分たちならではのサッカーをつくりあげていくかということも
真のフットボールネーションとなるためには必要となってくる。
読者として興味がわくのは、
天皇杯を獲得したあと、「東京クルセイド」が
どう世界とたたかえるチームになったかだ。
ヨーロッパサッカーのコピーでは、オリジナルにかてない。
この作品で日本サッカーのこたえがみえてくるだろうか。

posted by カルピス at 22:25 | Comment(0) | TrackBack(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月02日

「人生のロスタイム」というかんがえ方

「本の雑誌」の杉江由次さんが、
白水社のWeb版に「蹴球暮らし」というエッセイを連載している。
浦和レッズや、子どもたちが所属するサッカーチームでのできごと、
つまりサッカーをめぐって杉江さん・杉江さんの家族が
どんな日常生活をおくっているかがかかれている。

第31回の「関東大会」というはなしでは、
杉江さんのお父さんがきゅうにたおれ、
約束していた試合の応援にいけなくなる。
杉江さんがおみまいにいくと、お父さんが、

「俺、来年70歳だろう。人生ももうロスタイムなんだな」

というのが、さすがにサッカーずきの一族だ。

いいセリフだな、とおもうとともに、
おれはいまどの時間帯でプレーしてるのかが頭にうかんだ。
後半であることはまちがいない。
いちばん試合のうごく、後半の30分すぎ、なのか、
あるいはもっとぎりぎりの終盤なのか。

ひとは、何年生きるかわわからない、というのが
いちばんむつかしいところであるとともに、
ありがたいことでもある。
でもまあ、これはべつのはなしだ。
サッカーのおわりは90分ときまっている。
ただ、それがきっちりきまった時間かというとそうではなく、
ロスタイム(アディショナルタイム)として
プレーが中断された時間が追加される。
そして、おおくの劇的なプレーが
この時間におこる。
「ドーハの悲劇」や「ジョホールバルの歓喜」といった
有名な幕ぎれだけでなく、
たまたま「はいってしまった」
不思議なゴールが生まれるのもこの時間だ。

「人生ももうロスタイムなんだな」

というセリフは、もうあとすこしでおわり、
という意味でもあるし、
まだなにがあるかわからない、という意味でもある。
偶然としかおもえない、ふつうではありえないことがおきても、
それをだまってうけいれるしかない運命的な時間だ。

さいわい杉江さんのお父さんの症状はよくなり、
ぶじに退院し、それまでどおりの生活もできそうだという。
杉江さんはお父さんにこういったそうだ。

「あんまりロスタイムが長いとブーイングされるよ」

posted by カルピス at 11:41 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月01日

ついまじめに『野宿入門』をよんでしまう

きのうにつづき、『野宿野郎』のかとうさんについて。

このごろねるまえに『野宿入門』(かとうちあき・草思社)をよくめくる。
布団にもぐりこみ、ヌクヌクと野宿のはなしをよむなんて
悪趣味な態度だ。
気にいったところをなんどもよみかえし、
大切とおもえる箇所にはえんぴつで線もひいている。
まさかこの本がそんなよまれ方をするなんて、
著者のかとうさんはおもってもなかっただろう。

この本がわたしの気もちをとらえるのは、
かとうさんの自由なスタイルにひかれるからだ。
できるだけ快適に野宿しようと工夫するけど、
なければないでなんとかすませようという
精神のバランスがすばらしい。

さむかったり、あつかったり、
蚊になやまされたり、雨にぬれたり、
とまるところがなかなかみつからなくてこころぼそかったり、
かとうさんは、それでもなぜだか野宿がたのしくて、
ほかのひともきっとこころのそこでは
野宿をしたいにちがいないと、
なやめる羊たちに野宿の魅力をひろめようとする。

ひとりで、あるいは仲間と数人で野宿をたのしむというひとは
いくらでもいるだろう。
でも、かとうさんは、1人でもやるけど、
不特定多数のひとによびかかけて、
集団での野宿をやろうとする。
無意識のうちに野宿のエバンジェリストとなっているのが
かとうさんのスバラシイところだ。
そして、野宿によってひとは自由に気づき、
なんだかんだでほんとうにしあわせにしてしまう。

『野宿入門』のなかで、春さきの四国をあるいているときに、
さむさがきびしくてたいへんだったことがかいてある。
かとうさんは、たまたまであったお遍路さんが
野宿スキルのたかいことをみやぶり、
いっしょにバス停での夜をすごす。
そのひとは、ブルーシートをからだにまくことで、
ぺらぺらの寝袋でもあたたかくすごす術を身につけていたそうだ。
シュラフカバーをかえばいいのに、とわたしはおもった。
でも、かとうさんは、お金をかけないでさむさをしのぐ
そのお遍路さんに素直に感心し、
つぎの日から自分もおなじやり方をまねている。
なにもかもお金で解決していてはつまらない、という野宿観、
ひいてはかとうちあき的野宿道がそこにあらわれている。

などということを
だらだらかかれることは
かとうさんにとってどうでもいいことだろう。
そんなことやってないで、
さっさと野宿をすればいい、が正解だ。
ちかい将来かくじつにやってくるまずしい老後生活をみすえ、
野宿スキルをたかめておくことが
わたし個人の人生にとっても正解みたいだ。
寝袋だけでニッコリわらって生きることができれば、
こわいことはなにもない。

posted by カルピス at 10:06 | Comment(0) | TrackBack(0) | かとうちあき | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする