『旧友は春に帰る』(東直己・ハヤカワ文庫)
ススキノ探偵シリーズの第10作目で、
「俺」は52歳になっている。
そのまえによんだ3作目の『消えた少年』(1994年)では
30歳くらいという設定だったので、
20年後のススキノに、いっぺんにとんでしまったかんじだ。
1作目に登場した「モンロー」が
25年ぶりに「俺」に連絡をとってくる。
「俺」が52歳になっているだけ彼女も当然歳をとる。51歳だ。
あいだを6冊とばしてよんだせいだけでなく、
この作品には老いがチラチラとみえかくれする。
年月がひとつのテーマだ。
モンローの51歳は、たまたまわたしとおなじ歳で、
25年まえのわたしはなにをしていたかをおもいかえす。
まだなにをして生きていくかもわからない、
頭のわるい若造だったことはたしかだ。
なんだかぜんぜんかわってないような気がするけど、
もちろんそんなことはなく、
25年分歳をとって立派な中年になってしまった。
25年たてば、いろんなことがかわる。
「俺」も「モンロー」も、ちゃんと25年分ふけた。
男の「俺」は当時からわかさでうりだしていたわけではない。
しかし、女性のモンローにとって年月は残酷だ。
「ほとんどの男を魅了して輝いていた顔には、
生活の年輪と荒廃がはっきりと現れていた。(中略)
とても信じられないような変貌ぶりだった」
「年月と苦労にまみれた、という雰囲気は濃厚で、
総ての表情を残骸のように見せてしまう」
「昔はキレイだったんでしょうね。
それは、はっきりわかる」
「そうなんだ」
「悲しい話ね。賞味期限を過ぎるってのは」
「・・・優しくしてやってくれ」
モンローはあいかわらず本能のようにでまかせばかり調子よくはなす。
わたしはいつのまにか女優のyouをイメージしてよんでいた。
おそろしく老けてしまった顔がyouをおもわせる、というわけではなく、
うっかりかかわるとヤバそうな女性、という意味だ。
モンローのむかしをしるひとだけでなく、
はじめてモンローとあうひとでも
かかわらないほうがいい、と忠告したくなるアブナイ女だけど、
「俺」はいきがかりじょうモンローをみすてるわけにいかず、
北海道からぬけだすのを手だすけすることになる。
「俺」についてのこまかな描写はなく、
文中で「デブ」とよばれているのがはじめは
だれのことかわからなかった。
以前にくらべてずいぶんふとったようだ。
毎晩かかさずかなりの酒をのみ、とくに節制をしなければ
当然デブになる。でも、スーバーニッカをのむ量はへり、
「ケラー」では自分がかんがえたという
サウダージ(カクテル)ばかりたのんでいた。
デブの中年になっても、やることは以前とおなじだ。
基本的に、ススキノで機嫌よく生きれたらそれでいい、みたいなひとで、
お金に換算してそろばんをはじくことはしない。
52歳まではむかしとおなじやり方が通用した。
これからますますからだがごかなくなる。
どうやって生きていくだろうか。
携帯電話はつかわないけど、ノートパソコンはもっていて、
メールのやりとりやサイトでの検索につかうようになった。
あんがいあたらしいことでもうけいれて、
なんとかやっていくのかもしれない。
ストーリーについてとくにかくことはない。
568ページの分量をおもしろくよませてくれた。
ところどころで軽口をたたきながら、
肝心なことはなにもしゃべらない。
オヤジになってもちゃんとハードボイルドしてるのだ。
最初にかいたように、この巻の影のテーマは「老い」「年月」で、
まえからのメンバーが、みんな25年歳をとって登場する。
いちばんおおきな変化は、脇役の相田におきたかもしれない。
桐原の右腕だった相田は、脊髄小脳変性症という病気で
まったくうごけなくなり介護をうけている。
ものがたりは、「俺」や桐原たちが相原のベッドをかこみ、
相原の誕生日をいわう場面からはじまった。
桐原がきりだしたのは、マルちゃんのカップ麺についてのむかしばなしだ。
タランティーノがよくやるみたいに、
どうでもいいことについて延々と真剣にはなす。
「そんなにしりたかったら見学にいったらどうだ?」という「俺」に、
「バッカ。そんなことできるか、極道が」と桐原がこたえる。
相田はおもわずわらってしまう。
相田が気がねなくすごせるようだれもが配慮する、
極道らしい、いい誕生いわいの会となる。