「ノマドのためのタスク管理の技術」のなかで佐々木正美さんが
「『自然と行動に制限のかかる環境』は贅沢な環境」
とかいている。
どういうことかというと、
自分の書斎などは、なんでもできる環境なので
かえって特定の仕事にむかいにくい。
カフェにいくと原稿がかきやすいのは、
カフェでは自分のすきなことばかりをするわけにはいかず、
結果として原稿にむかいやすい環境となる、というものだ。
「自然と行動に制限がかかる」というのが大事で、
たとえば刑務所にはいれば行動に制限がかかるが、
不自然な制限はストレスとなる。
リラックスして仕事にむかえるというと、
いちばん手ごろなのがカフェ、ということになるのだろう。
ひとは、なんでもできるところではなにもできない、という
やっかいな傾向をもつ。
最近は、カフェでさえ「なんでもできる空間」になってきているので、
たとえばパソコンをネットにつながない、とかいう
自分なりの制限をかけて環境をととのえる必要がある。
佐々木さんは「ロボットのスイッチが入る」といういい方もしている。
自分の意思をはなれ、まるでロボットが仕事をしてくれるようなとらえ方で、
そうやって自分を機械にしてしまったほうが
自動的にスイッチをいれるためには好都合なのだろう。
Aという仕事のスイッチをいれるにはスタバへ、
Bの仕事にはマクドと、仕事によっていれるスイッチがちがうので、
むかう場所もちがってくる。
いろんなスイッチがはいってしまう場所よりも
たとえば執筆ロボットのスイッチだけがはいるためには
スタバへ、というつかい方だ。
作家のなかには、仕事場として自宅ではない場所を
執筆にあてるひとがいるのも、
執筆ロボットのスイッチがはいりやすくするためであるし、
いわゆる「カンヅメ」は「自然と行動に制限のかかる環境」を
さらに強制的に実現させたものだ
(宿泊先にともだちをよんであそぶような猛者もいたそうだけど)。
わたしの生活は「ノマド」的ではないため、
自分の部屋か職場の机だけで仕事にむかうことになる。
そこでスイッチをいれざるをえないので、
場所によって効率をたかめるわけにはいかない。
「行動に自然と制限のかかる環境」がほしいのは、
ちょっとかたい本をよむときだ。
すこしまえに新聞で萱野稔人さんがとりあげられていたので、
図書館で萱野さんの本を3冊かりてきた。
でも、家でこの本にむかうと、
ついもっとかるい本に手をのばしてしまう。
何時から何時まで、と時間をきめてマクドにでもこもれば、
なんとかかたい本むけのスイッチがはいるのではないか。
さいわいわたしはまだスマホをもっておらず、
本だけに集中するしかないので。
トレーニングジムも、ごくあたりまえに
「行動に自然と制限のかかる環境」となっている。
ジムにいけばトレーニングをするしかないので、
だれでもそこにいけばからだをうごかせる。
いちばんのハードルは「そこにいく」ということだろう。
つかれていてもお腹がすいていても、
とにかくいけばスイッチがはいって、トレーニングができる。
いかなければ、できない。
発達障害のひとには部屋にいろいろな機能をもたせないことが
常識となっている。
ひとつの場所で仕事をして、食事もして、休憩もそこ、となると、
いったいこの部屋はなにをするところなのかがわかりにくく、
混乱をまねきやすい。
機能をしぼることを物理的構造化とよび、
この場所は勉強をするところ、というふうに、
場所と活動を1対1でマッチングさせる。
これも「行動に自然と制限のかかる環境」に
なんだか関係がありそうだ。
自由は不自由、ということもよくいわれる。
ある程度の制約がないと、ひとはうごきにくい。
このややこしい性質は、いったいいつ獲得されたのだろう。
200万年前のわたしたちの祖先は、
「自然と行動に制限のかかる環境」なんてもとめなくても、
あるものでなんとかするしかなかったはずだ。
けっきょくややこしくなったのは
物質にめぐまれるようになってからのことで、
ものさえまわりになければ
よけいなことに気がちることもない。
断捨離がもてはやされるのも
こうした意味では理解できる。
仕事におうじてスイッチをいれるためには
場所をきりかえるのがいちばんてっとりばやい。
わたしのすむ町にもようやくスタバができるそうで、
かたい本にとりくむときの場所として利用してみたい。