『タクシードライバー』(1976年・アメリカ マーティン=スコセッシ監督)
印象にのこる場面がおおい作品だ。
これまでになんどもみていながら
しっかり筋をおってみるというよりも、
場面ばかりが記憶にのこっている。
ロバート=デ=ニーロのあるきかたと独特な笑顔、
ジョディ=フォスターにデ=ニーロが説教じみた忠告をするデート。
ハーヴェイ=カイテルが演じる調子のいいポンびき。
なによりも夜のニューヨークの町なみ。
まともそうなひとから、いかにもあぶなそうなのまで、
雑多なひとたちがすむ大都会。
バックにながれるサキソフォーンが耳からはなれない。
都会の無機質さをさらにきわだったものにしているのが、
タクシードライバーという職業なのだろう。
いろんな客をのせてどこへでもいくけど、
もちろんそれでふかい関係性がうまれるわけではない。
あいさつをかわす程度の顔なじみはいても、
気のゆるせる友だちはおらず、
仕事のあいまにドライバー仲間とはなす程度の人間関係だ。
なにをかんがえているのかわからないタクシードライバーのはなしが
なぜこんなにつよい印象をのこすのだろう。
いかれたベトナム帰還兵のトラビス(デ=ニーロ)が
社会をよくするという正義感にかられる。
大統領候補を狙撃しようとするが、事前にはばまれ、
12歳の少女をすくうことに目的をきりかえる。
少女のまわりにいるポンびきをころし、
自分もけがをするが、偶然がかさなり、
少女をすくった英雄と新聞でたたえられる。
あらすじを文字にすると、
すごくうすっぺらなものがたりでしかないのに、
映像となるとリアリティがすごい。
俳優たちの演技だけでなく、
1976年という時代背景が
決定的に影響をあたえている。
ベトナム戦争が泥沼化していること。
大統領選の運動がおこなわれている年であること。
おおくのひとが社会と人生にいきづまりをかんじている。
映画のラストでは、トラビスをいちどふったベッツィーが
客としてトラビスのタクシーにのる。
少女をすくってヒーローになったトラビスにたいし、
ベッツィーはなにかいいたそうだ。
自分のアパートの前でタクシーをとめたのだから、
そのさきにふくみももたせたのだろう。
でも、トラビスはなにもいわずに車をだし、
夜のまちにまぎれこむ。
トラビスはもう社会へのしかえしをおえ、
気がすんだのだろうか。
とびきりの笑顔だけど、いかにもつくったようにもみえる彼のほほえみからは、
トラビスの胸のうちをさぐることはできない。