2012年12月31日

『増補版松田聖子論』松田聖子の歌にひめられた時代性

『増補版松田聖子論』(小倉知加子・朝日文庫)

「増補版」というのは、この本がいちばんはじめに出版されたのが
1989年とかなりむかしのことであり、
その最初の原稿に、50歳になった松田聖子、
3度目の結婚がどういう意味をもつのかについてなどを、
あらたにつけくわえられているからである。

「ある日、私の弟が何気なく私にはなした。
『子ども(当時二歳の男児)を車に乗せているときに、
松田聖子の歌が流れてくると、
喜んでおどりだすんだ。
松田聖子の歌には何かあるね・・・』

私語ばかりで講義をきかない短大の女子学生に、
小倉さんは「松田聖子論」のノートをつくって講義をはじめると、
教室がしずまりかえったという。

山口百恵と比較することにより、
松田聖子の本質をあきらかにしたこの本は、
しかし、そうわかりやすいものではない。
行間にこめられた意味を、これでもかとふかくよみとり、
時代のなかでどういう位置づけがあるかを
推察している。
これをきいて教室がしずまりかえるのは、
生徒たちがなんとなくかんじてきた
松田聖子というアイドルが
どんな存在なのかをはっきりとしめしているからだろう。

『両手で聖子』のなかで

「いま、当時の審査員の人に聞いてみると、
『非常に新鮮だった』って。
ほかの人って、オーディションに慣れてるしね、
同じような答えが多いんですよね。
ところが私ときたら、初めてだし、
なんとなく審査に残ってるって感じだから、
おかしかったんでしょうね。
ほんとは楽しんじゃったんですね」

と松田聖子はかたっている。
「私ときたら」なんて、そうとう自意識過剰なことがあらわれており、
よんでいてつよい反発をかんじてしまう。
わたしが絶対にすきにならないタイプの女性だ。
でも、彼女の歌がきらいだったこというと、
あんがい抵抗なく口づさんでもいた。

マレーシアのコタバルという町でなかよくなった
日本人男性の旅行者が、
「松田聖子が日本の歌謡曲にロックをもちこんだ」
とわたしにはなした。
雑多なことをはなしているなかで、
たまたまでてきた話題だったのだろう。
歌謡界にうといわたしには、その意味がよくわからなかったけど、
松田聖子が男の視線だけをかんがえている
ぶりっ子アイドルなのではなく、
それなりの方向性と戦略があることを意識する。

50歳になったいまでも脅威的なわかさをたもち、
女性ばかりではなく男性からの支持もあつめる松田聖子は、
これからもアイドルでありつづけ、
美空ひばりのような国民的歌手となっていくだろう、
と小倉さんは予想している。
1989年にかかれた本の内容のとおりに
その後の松田聖子は世間をおよいできた。
これからも松田聖子は
この本がしめした路線を着実にあゆむのだろう。
芸能人についての考察を
学問にすることに成功した小倉知加子さんの
画期的な一冊である。

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2012年12月30日

『NHKアーカイブス』でコナンの第1話がまるごと放送される

『NHKアーカイブス テレビ60年』で
『未来少年コナン』がとりあげられていた。
NHKがはじめて放送したアニメというわけだ。
この手の番組でよくやられるのが、
名場面を断片的にながして
「いや〜おもしろかったですね」という
ろくでもない構成だけど、
この番組ではコナンの第1話の29分を
そのままぜんぶみせるというやり方だった。

作画的にみるとこの第1話は
カリオストロ伯爵風にいえば「あまりよいできではな」く、
もっとはなしがすすんでからのほうが
コナンもラナも生き生きとうごきまわる。
宮崎さんは、
第1話でコナンがラナにはじめてであったときに、
この子のために生きよう、とつよくおもうほど
すてきな女の子として登場させたかったそうだ。
でも、このときのラナは、いかにも田舎そだちふうで
あかぬけておらず、あまり魅力的ではない。
その出来に不満だった宮崎さんは、
2話からはラナの作画をぜんぶチェックするようにしたという。
それ以降、ラナはどんどんかわいくなっていき、
8話でコナンをたすけるときなど、
わたしはジムシーのように「いいな、コナンのやつ、いいな」と
はげしい嫉妬をおぼえることになる。

1話をまるごと放送する、というのはいいやり方だった。
なんといっても第1話であり、ものがたりのスタートなのだ。
名場面ばかりより、ひとつの話をまるごと、がいいし、
その場合、最終回やまんなかのはなしよりも
第1話がふさわしい。

ハイハーバーのことをおもいだし、
おもわずしずみこんでしまったラナをみて、
コナンはなんとかラナの気もちをかるくしようと
「この島にも実があるんだよ」と
すっぱい実のなる木へとつれていく。
とにかくラナのためにつくそうとするコナンは、
このシーンからはじまっている。
わたしはコナンのように、
いつもラナのことをおもえるつよさがうらやましかった。
自分のことよりも、まずラナをおもう
コナンのようになりたかった。

『未来少年コナン』は、
環境破壊から人類が滅亡するのものがたりなのではなく、
コナンがラナのことを大切におもうはなしだ。
中年になったいまでも、わたしにはコナンのつよさがまぶしかった。

posted by カルピス at 09:55 | Comment(0) | TrackBack(0) | 宮ア駿 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月29日

天皇杯準決勝 ガンバついに決勝へ

サッカー天皇杯準決勝、
ガンバ対アントラーズ。
試合巧者のアントラーズは
ガンバにとっていやな相手だ。

でも、天皇杯予選にはいってからのガンバは、
シーズン中よりもいいチームにもちなおしていた。
まえのセレッソ戦とおなじように
今野がボランチで、遠藤はトップ下。
チームにいちばんフィットするフォーメーションを、
シーズン終了間際にやっとみつけたといのが
皮肉というか、サッカーのこわさというか。
前半はガンバらしいこまかいパスが小気味よくつながり、
アントラーズのプレッシャーがぜんぜんかからない。
前半23分に遠藤のクロスがそのままゴールにはいって先制点となる。

後半はずっとボールを支配され、
ガンバは枠外のロングシュートを
たった1本はなっただけだったけど、
なんとか猛攻をしのぎきった。
今シーズンのガンバは、
3点以上とらないとかてないことで有名だったから、
1−0というかちかたははじめてのはずだ。
それもアントラーズ相手というのだから、
ガンバの調子のよさはほんものかもしれない。
以前のアントラーズならもっと時間をじょうずにつかい、
じわじわと相手をおいつめておいて、
ロスタイムにゴール、という
いやらしい試合はこびをする場面だ。
きょうは攻撃が淡白で、ガンバはクリアー一辺倒ながら
なんとか失点せずに90分で決着をつけることができた。
あぶなかったのは大迫のヘディングシュートが
ポストにあたったときだけで、
最後のねばりもいまひとつ迫力がなかった。

これでガンバは2008年大会以来の決勝進出となり、
ACLへの参加にのぞみをつなぐことができた。
かってあたりまえ、ACLに参加して当然という
強豪チームのガンバが、
かつことのありがたさを身にしみてあじわっている。
いい薬というにはあまりにも劇薬だったけど、
生まれかわったガンバによる
元旦の決勝戦がたのしみになってきた。

posted by カルピス at 21:23 | Comment(0) | TrackBack(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月28日

ディープな掛合での、世界一さむかった葬儀

義理の母がなくなり、葬儀がおこなわれる。
配偶者の実家は掛合町で、
そこでは葬儀会館をつかわず
地域の「組」が協力しての自宅葬が一般的だ。
葬儀がおこなわれることがきまると、
組にはいっている家は
一軒から男女ひとりずつが手つだいにでむく。
もしどうしても都合がつかないときは、
ほかの組のひとにたのんで、
とにかくふたりずつがかならずかけつける。
実家が所属する自治会は、さらに3つの組にわかれており、
その組には6軒あるので
12人の方が手つだいにむかうことになる。

お手つだいにきてくれた方たちは、
葬儀をだす家のために食事やお茶を用意し、
葬式につかう部屋をととのえる。
家族は、組のひとにすべてをまかせて、
なにもせずにただ通夜や葬儀の参加者に
挨拶していればいいそうだ。
というか、なにもしてはいけないのだという。

通夜のあとで、さっそく夕食をお世話になる。
組のひとがお盆をもって脇ひかえていて、
わたしたちの給仕をしてくれる。
おわんのなかのご飯やお汁がすくなくなると、
「おかわりはいかがですか?」とすぐ声がかかる。
旅館でもないのにこんなもてなしをうけると
なれないわたしはなんだかおちつかない。
これがはなしにきいていた組の接待か。
異文化体験というか、
時代をさかのぼったみたいというか、
「ザ・掛合」の神髄にふれた気分だ。
葬儀屋さんにたのむという選択もありなのだそうで、
それでもこのシステムがつづけられていうのは
ちゃんとそれなりの理由があるのだろう。

葬式は、ふたつの部屋をあけはなっておこなわれた。
つめたい雨がときおりはげしくふる天気で、
参列にきてくれたひとたちは
縁側のそとにたてられたテントにならんでおられる。
部屋のなかのわれわれだけが
ストーブであたたまわるわけにいかないので、
縁側の戸があけはなたれた。
1℃か2℃くらいしかないさむさのなかで、
コートをきずに喪服ですわっているのは、
真冬にスーツだけで外にいるのとおなじようなものだから
ものすごくさむい。
『タイタニック』のラストシーンで
海上になげだされたディカプリオみたいに、
大量の白い息がはきだされる。
世界でいちばんさむい葬式ではないかとおもった。
これ以上さむければ、生死にかかわるので
こんな状態でほっとかれないだろうから、
あながちおおげさな表現ではないとおもう。

お坊さんの読経は、ほんの10分でおわり、
すぐに焼香にはいった。
「たすかったー」とよろこんでいたら、
そのあと初七日がつづいておこなわれ、
けっきょく1時間はさむい部屋にすわっていたことになる。
組のひとたちは、初七日のあと部屋をかつづけ昼ご飯に準備をし、
あとしまつをしてかえっていかれた。
これでもずいぶん簡素化されたそうで、以前は3日間以上
葬儀のある家にはりついていなければならなかったという。

ながく入院していた義母の葬儀にも、
50名以上の方がきてくださり、
香典や弔電もたくさんいただいた。
地域と親族によるかたい結束のおかげで、
にぎやかないいおわかれの式となった。
「組」を維持していくのは
たいへんなこともおおいだろうけど、
そのすごさのひとつをはじめて体験したことになる。
わかいころのわたしは、
こういうしきたりをはっきりと否定していた。
50をすぎたいまは、ずっと肯定的だ。
将来わたしはこの町でくらすことができるだろうか。

posted by カルピス at 21:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 家族 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月27日

吉行淳之介のファンだったころ

ふるい『おすすめ文庫王国』をみていたら、
坪内祐三氏が吉行淳之介のエッセイ本についてふれていた。
『なんのせいか』『樹に千ひきの毛蝨』とか
なつかしい名前がでてくる。
以前わたしは吉行淳之介のかなり熱心な読者だった。
北杜夫からおとなの本の世界にはいったわたしは、
そのなかにでてくる吉行淳之介や山口瞳といった
旧制麻生中学出身の作家にしたしみをかんじるようになる。
吉行淳之介の小説が、中学生のわたしに理解できるわけがなく、
小説はただの背のびで、それよりもエッセイにひかれ、
粋ということについて影響をうけたような気がする。

あるときわたしはほかにも数百冊あった本を、
手もとにほんのすこししかのこさないで整理した。
海外旅行にでかける資金づくりのつもりだったけど、
全部で3万円にもならなかった。
星新一や五木寛之、筒井康隆など、
古本屋さんでかった本が中心だから、
お金にならなくて当然なのに、
あまりにも小額なのにがっくりしたものだ。
手もとには、吉行淳之介の本は1冊ものこらなかった。
北杜夫は『楡家の人々』ほか数冊。
山口瞳は「男性自身」シリーズなど、
ほとんどぜんぶもっていたのに、
のこしたのは「江分利満氏」だけだ。
きっとわたしとしては、資金づくりだけではなく、
なにかの決別を意識していたのだろう。
処分した本を、いまかりにもっていたとしても
再読するほどの関心はもたなかったはずだ。
20代前半までは、いまあげた作家が中心で、
それ以降はべつのジャンルへの指向へとかわる。
旅行資金にはならなかったけど、
わかかった自分への決別という意味では
うなずける本の整理だった。

とはいえ、本がなくなったぐらいで、
かんたんにキリをつけれるわけはない。
吉行淳之介や山口瞳にうえつけられた価値観が
きっといまのわたしをつくっているのだろう。
あのころにもどりたいとはおもわないが、
あのころの本棚をもういちどながめてみたい。

posted by カルピス at 23:25 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月26日

ことしもチャリティーマッチをありがとう

チャリティーサッカー
東北ドリームス対ジャパンスターズ

きょねんのブログにもこのチャリティーマッチのことをかいた。
チャリティーマッチなのでもちろん真剣さはなく、
別段とりあげる内容の試合ではない、
とかくつもりだったけど、きょねんとおなじように
ついふれたくなった。
それほど選手たちの笑顔がすてきな試合だ。
サッカー選手って、きっとすごく仲がいいのだろう。
ふだんのリーグ戦ではすごい形相でボールをおいかけまわしているのに、
こういう舞台にたつと、
どの選手もこぼれでるような笑顔をみせてくれる。

お客さんにたのしんでもらおうとする気もちがつよくつたわってきた。
長友が明治大学以来というタイコでの応援をみせてくれたり、
ゴール後のパフォーマンスで「東北」のひともじをかいたり。
安田選手と播戸選手の実況中継コンビからは、
ひとのよさがそのまま画面からつたわってきた。

プロ野球とはそこらへんがちがうところだ。
なんだかんだいってプロ野球は
自分たちだけでもりあがろうとする。
被災地支援といっても、なんだか
うえから目線のおしつけがましさをかんじるし、
いっしょにやっていこう、というより、
こうしたらあなたがたは元気づけられるはずでしょ、という
当事者不在のアリバイづくり支援のにおいがプンプンだ。
サッカーからは自由を、
野球からは支配欲をわたしはイメージしてしまう。

きょうの試合が、完全にリラックスした内容かというと、
あんがいそうではなかった。
やはりサッカー選手は目のまえにボールをもった相手がいれば
自然にからだがうごいてしまうようで、
ついはげしくとめにいったりもする。
そのせいか中盤はあまり点がうごかず、
ふつうの試合をみているような時間帯もあった。
ほんとはそれではいけないわけで、
かたくなりかけたその雰囲気をほぐしてくれたのが
ゴン中山選手だ。
ボールにむかおうとしたとき、
相手チームの選手にユニフォームをひっぱられるという
ついマジの対応をされると、
その選手にヘッドロックをかけて「おしおき」していた。
そして最後の得点となる強引なシュート。
(「ゴールがボールをすいこむようなシュートでしたね」
と解説の早野宏史さんがうまいことをいっていた)。

試合中に選手たちがみせてくれた
たのしくてしかたがないという表情は
わたしをしあわせな気もちにしてくれた。
スタジアムにきていたお客さんのおおくも
きっとおなじことをかんじていたにちがいない。
震災後すぐにチャリティーマッチをひらいた選手会は、
2年ちかくなってもちゃんとまだわすれずに
こうやって東北支援をいいつづけてくれる。
それを笑顔でやってくれるから
みている側はこころからたのしめるし、
たのしめるから支援をつづけることができる。
きょねんとおなじたのしさを、
ことしもまたあじあわせてくれることが
どれだけありがたいかを被災地のひとたちは
つよくかんじていることだろう。
この試合を企画し、協力してくれたサッカー選手たちの
とびきり上質なスポーツマンシップをたたえたい。

posted by カルピス at 21:57 | Comment(0) | TrackBack(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月25日

女子サッカー皇后杯、点をとらないとサッカーはかてない

女子サッカー皇后杯、ジェフユナイテッド千葉レディース対アイナック神戸

試合開始は神戸がきれいにパスをつないで
圧倒的にゲームを支配する。
でも、ジェフがよくまもっているうちに
ようすがおかしくなってきた。
パスをまわすことにこだわりすぎて
攻撃がまえにすすまない。
ジェフは「いける!」と手ごたえをえたようで、
パスもつながり、カウンターもきまるようになる。
神戸は防戦一方になってきた。
自分たちのサッカーができないことに
あせりがでてきた神戸。

ジェフはなんどもシュートチャンスがありながら、
最後の精度がひくい。
神戸のキーパー海堀がスーパーセーブをしているわけではなく、
ひとりでずっこけているのだ。
ゴールの手まえまでせめても
みていて点がはいる気がしない。
これだけシュートをきめられないと、
試合にはかてない。

後半にはいってもジェフはよくまもり、よくせめる。
足がうごかなくなっても、
からだをなげだして攻撃をくいとめようとする。
気迫のあるプレーになんとかジェフにかってほしくなった。
なんといっても神戸にはなでしこのメンバーが
7人もいるのだ。
ただ、シュートがどうしてもきまらない。
ロスタイム2分にとうとう神戸の田中明日菜がかちこしゴールをきめた。
ジェフはずっとせめつづけていたのに、
これだけ得点のにおいがしない試合はめずらしかった。

神戸は自分たちのサッカーができなかったのに、
意外なほど素直に勝利をよろこんでいる。
かってあたりまえにみられるチームというのも
相当なプレッシャーなのだろう。

ジェフのはつらつとしたブレーが印象にのこるだけに
残念な結果だった。

posted by カルピス at 23:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 女子サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月24日

ノーラッドによるサンタ追跡をしっていますか?

きのうの新聞で、北米航空宇宙防衛司令部(NORAD)による
サンタ追跡が報道されていた。
NORAD(ノーラッド)は、クリスマスプレゼントを配るために
世界中を移動しているサンタを今年も追跡し、
その様子をNORADのウェブサイトで紹介するという。
今年は北朝鮮のミサイルも監視しなくてはならない。
ノーラッドにサンタを追跡する余力があるだろうか。
朝日新聞がノーラッドにたずねたところ、
私たちはいくつもの物体を同時に追跡できます。サンタはものすごい速さで移動するのですが、私たちの人工衛星は、トナカイの鼻から出る赤外線を探知して、サンタを追跡できるのです。

ということだ。

ウィキペディアによると、
ノーラッドは「ノーラッド・トラックス・サンタ」(NORAD Tracks Santa)として、毎年サンタクロースを追跡している。冷戦の真っ只中の1955年からコーナッド(CONAD、中央防衛航空軍基地)が開始したものを受け継ぎ、2004年で50周年を迎えている。きっかけは、コロラドにある大手スーパーのシアーズ (Sears) が子供向けにサンタクロース・ホットラインを開設したときの広告に、間違えた電話番号を載せてしまったことである。その番号は偶然にも当時のCONADの司令長官へのホットラインだった。子供からの電話に、ハリー・シャウプ大佐が「レーダーで調べた結果、サンタが北極から南に向かった形跡がある」と回答して以来の恒例行事になったと言われる。

しらなかった。こんな作戦がもう50年もつづけられていたなんて。

ノーラッドのサイトでビデオをみる。
整然と、すごいスピードで空をかけめぐるサンタさん。
そうか。サンタさんはこうやって世界中にプレゼントをくばっていたのか。
説得力のある映像に、わたしは数十年来のモヤモヤを解消することができた。
これならもしかしたらひとばんで
世界中の子どもたちにプレゼントをくばれるかもしれない。
不思議なのは、なぜわたしはこんな大切な情報を
これまでしらずにきたのだろう。
インターネットが一般的でなかった時代には、
あんがいノーラッドによるサンタ追跡は
あたたかい目でみられていなかったのではないか。
とくに日本では、すんなり理解されにくい作戦なのかもしれない。

今年はサンタさんがぶじにプレゼントをくばりおえるだろうか。
大丈夫。ノーラッドは偵察衛星と戦闘機により、
サンタさんの安全を確保してくれている。
わたしも、ひさしぶりにサンタさんからプレゼントをもらいたくなった。

posted by カルピス at 16:52 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月23日

天皇杯準々決勝、ガンバ対セレッソ。ACLにむけてのぞみをつなぐガンバ

J2への降格がきまったガンバは、
ACLへの出場をかけて、なんとしても天皇杯をとりたいところ。
例年だったらオマケみたいな天皇杯も、
今年のガンバにとってはのこされた唯一のチャンスだ。

今野がボランチ、遠藤がそのまえと、
ガンバはリーグ戦とちがったフォーメーションをくむ。
遠藤はいろんなところに顔をだし、
セレッソはつかまえきれない。
前半19分、二川のシュートがこぼれたところに遠藤がつめていて、
ヘディングがなんとかかすって先制点をうむ。
ダービーらしく、両チームともはげしいプレーをみせる。
リーグ戦ではセレッソの1勝1分で、ガンバにかちはない。
しかし、きょうは球際のつよさでガンバがうえをいっていた。
降格のかかったジュビロとの試合よりも
気もちのはいったプレーだ。
来シーズンは大阪ダービーがみられないことを、
アナウンサーがしきりに強調する。

前半はずっとボールを支配して、
なんども決定的なチャンスをうみだしている。
しかしきまらない。
きめるときにきめておかないと・・・と、
せめていながらいやな予感も同居する。
シュートが全部キーパーの正面にいってしまい、
前半はそのままセレッソにまもりきられてしまった。

後半からセレッソは柿谷をいれてきて、
みごとにそれがあたり4分に同点ゴール。
柿谷のうまさがめだったシーンだ。
そのままながれがセレッソにうつるかとおもったら、
きょうのガンバはさいごまでよくはしった。 
延長線の後半6分、遠藤のフリーキックに
家長が頭であわせる。
2-1とぶじにかちこし、ACLまであと2勝となる。

セレッソは監督と外国人選手が全員国にかえっている。
契約上、拘束する権利がないのだろう。
いっぽう、つぎの試合に出場したアルディージャとレイソルは、
両チームとも外国人監督だけど、
ふたりとも指揮をとっていた。
ACLにむけて、ガンバはどうしても杯がほしいところで、
きょうはリーグ戦よりもいい内容をみせている。
チーム事情によって大会の位置づけがさまざまなのが
天皇杯という大会のようだ。

元旦におこなわれる決勝戦で、
ガンバがいい結果をのこせることを期待している。

posted by カルピス at 20:49 | Comment(0) | TrackBack(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月22日

MacBook Airにはどんなカバンがふさわしいか

なにかの商品をかうことは、
必要だから、というのはもちろんおおきな理由ではあるけれど、
それだけでなく、なにかあこがれだったり、
イメージの具体化であることもおおいのではないか。

MacBook Airでわたしがやりたかったのは、
むかしの高校生がいきがってうすっぺらにしたカバンよりも
もっとうすいシンプルな書類カバンにいれて、
いくつかのファイルやノートといっしょにもちはこぶことだ。
もちはこんでどうつかうかよりも、
必要なものがほんのうすいカバンにおさまっていて、
それを軽々ともちはこびするという生きかたにあこがれていた。
荷物をいれることが目的のカバンではない。
ごくかぎられた必要な書類をおさめるためのもので、
型がくずれないようにある程度のかたさをもった
すっきりしたデザインの書類カバンだ。

これは、『羊たちの沈黙』のなかで、
レクター博士にあいにいくクラリスが
そんな書類ケースを肩にかけていたのに影響をうけてのことだ。
あの作品のなかでクラリスは
田舎そだちをコンプレックスにかんじていると、
レクター博士に推測されていた。
でもわたしには、あんなカバンがにあう
スマートなおとなになりたいとおもわせる、
印象にのこる場面だった。

家電量販店においてあるパソコン用のカバンは、
質実剛健であればいい、というかんじで、
たしかにパソコンをまもるかもしれないけど、
すごくかっこわるい。
あんなのにエアをいれるのは
アップルにたいする冒涜だろう。

ジョブズがエアのプレゼンテーションをやったときのように、
封筒にいれるのもわるくないかもしれない。
紙の封筒では耐久性がないので、材質とデザインは
それなりのものをえらぶ必要がある。
ただそれは、ソフトカバーのかわりとしてであり、
封筒をいれるカバンとしては
またべつの、はじめにかいたような
かるくてすっきりしたデザインのものがほしい。
具体的にはシンプルなトートバッグにおちつきそうだ。

わたしは自転車通勤をしているし、
やすみの日にも自転車でうごいている。
カフェでノマドという、エアらしいつかい方は、
わたしの仕事と生活スタイルからありえない。
それでもわたしにとってエアは、
うすい書類カバンにいれなければ
所有が完成しない特別なものだ。

posted by カルピス at 22:13 | Comment(0) | TrackBack(0) | パソコン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月21日

MacBook Air11インチをポチッとな。移行アシスタントをつかわなくても移行は簡単

最近なんだかMacBook Air11インチについて
しらべるようになったなー、といぶかしくおもっていた。
かうのはもうすこしさき、
つぎのモデルになってからのつもりだったので、
しらべるだけでかうつもりはなかった。
しかし、11.6インチ・128メガのエアが
7万2000円ほどででている。えー!とおもっているうちに
「ポチッと」してしまった。

エアがとどくとさっそくデーター移行にとりかかる。
でもこれが、おやくそくのようにうまくいかない。
これまですんなり移行できたためしがないのだ。
このエアもそうで、はじめはのこり10時間くらいの表示なのに、
それが一進一退するうちに30時間くらいにふえている。
夜に設定し、つぎの日の朝になってもおわってないばかりか、
のこり時間がふえている、ということをなんどかくりかえす。
とまるわけではないので、初期不良というわけではなく、
なにかのよみこみにエアがこまっているのだろう。
ランケーブルでつないだほうが確実だけど、
わざわざUSBとランケーブルの変換装置をかうのもくやしい。

よくかんがえてみると、移行しなくてはならないデーターは、
意外とすくない。
11インチのエアでやるのはネットとブログくらいだろうから、
シコシコと手作業で必要なソフトをいれることにする。
Dropboxとはてなブックマークさえあれば、
そんなにこまらないかもしれない。

まずUSBメモリーでJeditをうつす。
ライセンス番号をいれたらぶじにみとめてくれた。
つぎははてなブックマークとDropboxをインストールする。
パスワードをいれればログインできるので、
この2つがあればネット環境は万全だ。
こうなるとクラウド時代はほんとにありがたい。
まえよりもずっとシンプルにおなじ環境をととのえられる。
でどころがひとつなのだからあたりまえとはいえ
すごくありがたい。
あとはevernoteをいれたらできあがりだ。

データー移行はすごく便利だけど、
あまり重要でないファイルもひっこしてしまうので、
ごちゃごちゃになりやすい。
今回は必要なソフトだけをいれただけなので、
まだ100GBほどのあきがある。
すごく面倒にかんじていた移行が
クラウドでは簡単にできることがわかった。

MacBook Air11インチはつかっていてとても気もちがいい。
画面表示のちいささもそんなに気にならないし
(もうひとまわり画面がひろければすばらしい)、
なによりもこのかるさとちいささは、
もちはこびについて圧倒的に負担がすくない。
パソコンをひらいてこんなにわくわくするのは
初代iBook(貝型)以来だ。
どこにでももちはこびでき、すぐにたちあがる。
タブレット型はそんなにつかいやすいとはおもえないので、
しばらくはこのエアがいちばんの道具になってくれそうだ。

posted by カルピス at 11:43 | Comment(0) | TrackBack(0) | パソコン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月20日

『移民の宴』207万人の外国人の食卓からなにがみえるか

『移民の宴』(高野秀行・講談社)

日本にすむ外国人がどんな食事をしているか。
そして、食事をかたることは
そのままそのひとがどう日本でくらしているかにつながってくる。

日本には207万人の外国人がくらしているという。
島根県の人口の3倍だ。
それだけのひとが、旅行者ではなく、
日本で生活しているというのにまずおどろいた。
そういわれると、松江でも外国人の姿がとくにめずらしいものではなくなった。
スーパーでもみかけるし、
バスのなかでエクアドル人の女性にはなしかけられたこともある(日本語で)。
わたしだって、この町にすむ外国人に
関心がないわけではない。
おしゃべりをしてみたいし、
なにかできることがあればお手つだいもしたい。
でも、ふつうにくらしているぶんには、
ふつうにくらしている外国人と接点をもつのは
なかなかむつかしい。
たしかにこれは高野さんにピッタリの仕事だ。

高野さんは1年間の取材で
日本にすむ外国人の食事風景をみてまわる。

「訪問した建物の扉を開けた瞬間に、
別世界に連れて行かれたことも一度や二度ではない。
ドラえもんの『どこでもドア』のように、
一瞬で外国に行ってしまうのだ。
そして、ちょっと旅行をしたくらいでは
現地でもみることのできない場面にも出くわした」(中略)
そして、もはやそれが特殊な場所ではなく、
明らかに日本の一部となっているのだ」

本のなかで紹介されているひとたちは、
それぞれの理由で日本にくらすようになっている。
共通するのは、移動することへの抵抗のひくさだ。
ある町にうまれたからといって、
ずっとそこでくらさなければならないとはかんがえていない。
簡単に移動し、日本にだってうつりすんでしまう。

高野さんは豊富な体験から
ある現象がおこったときに、
一般的な解釈をうのみにすることなく、
そのうらにかくれている意味をかぎとることができる。
たとえば、東日本大震災の被災地支援で、
パキスタン人を中心にしたイスラム教徒のたきだしが
ニュースによくながれた。
これについて「イスラムの教えに従って」と説明するととおりやすいが、
高野さんは自分の体験と、
みたりきいたりしてあつめたデーターから仮説をたてる。

「『イスラムの教え』以前に
『人間として、あるいは同じ日本に住む者として、
困った人を助けるのは当然だ』という
強い意思と熱い気持ちを感じる。
この人情味と信義の篤さは
私がパキスタンや他のイスラム圏を旅したとき、
現地の人たちと接して感じた印象とほぼ同じだ」

いわれてみればそのとおりで、
ああいう場合には、宗教のおしえからうごく、というよりも、
おなじ人間として、という気もちがつよくはたらくのだろう。
それをメディアはついもっともらしい説明をくわえたがる。

高野さんらしいはなしとしては、
「イエティ(雪男)」さがしがおかしかった。
高野さんたちは支援物資をつんだ車をはしらせたものの、
被災地にはいっても、それらをわたす相手がみあたらない。
唯一おもいついたのが、
気仙沼でネパール料理店「イエティ」をいとなむひとのことだった。
これまでさんざん未知の動物をさがしもとめてきた高野さんが、
「まさかイエティを求めて気仙沼に行くとは思わなかった」

もうひとつは
「カレーたきだし説」だ。
被災地で外国人がおこなったたきだしのおおくはカレーだった。
カレーはたしかにたきだしにむいている。
というか、そもそもカレーはたきだしだったのではないか、
と高野さんはいうのだ。

「経済的で、環境にもローインパクトで、おいしく、
毎日食べても飽きず、大人数の分量を手早く作れる料理ー
それを追求していった結果がカレーなのではないか」

半分は冗談にしても、あんがい本質をついているかもしれない。

この本をよんでおもうのは、
世界はひろく、日本も多様であるということだ。
自由なひとたちにとって、
日本や世界はまだまだやれることがたくさんある。
自分や仕事のことを、せまい範囲でばかりでかんがえていると、
つまらないしみったれた人間になってしまう。
自分のすむところもいもの場所に限定する必要は全然ない。
自分がこれからどんな人生をゆむのかをきめるのは
自分であるし、運命であるともいえる。
たいていのことはその気になればはじめることができる。
はじめたら、あんがいそれがつづくかもしれない。
まじめになりすぎず、気おわないほうがたのしい人生になりそうだ。

posted by カルピス at 22:14 | Comment(0) | TrackBack(0) | 高野秀行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月19日

『男おひとりさま道』男のおひとりさまがしあわせな老後をおくるには

『男おひとりさま道』(上野千鶴子・文春文庫)

『おひとりさまの老後』の続編だ。
前作は女性の「おひとりさま」にむけたものであり、
そのあとがきのなかで上野さんは

「なに、男はどうすればいいか、ですって?
そんなこと、知ったこっちゃない。
せいぜい女に愛されるよう、かわいげのある男になることね」

とつきはなしている。
本書は、それから2年後に、
こんどは男性だけにまとをしぼってかかれた。

女性がおひとりさまになるということは、
男性にもとうぜんおひとりさまがうまれることになる。
一般的にいって男性は、
会社という特殊な世界でながいあいだはたらき、
そこに適応しすぎることがおおいので、
女性よりも老後のハードルがたかそうだ。
家事スキルがひくく、
あそぶことがへたで、
ともだちをつくりにくい。
この本でとりあげられている
しあわせなおひとりさまは、
会社や家族に依存しすぎず、
はたらいていたときは、どちらかというと
仕事ひとすじのタイプではなく、
友人をたくさんつくってきたひとだ。
「カネ持ちよりも人持ち」のほうが
老後にはちからになってくれる。
そこらへんのことに気をつければ、
男おひとりさまでも生きる道はある、と
上野さんはいう。
ただ、むかしの男性のように、
存在じたいがビョーキ、みたいなひと、
つまり家では自分のことをなんにもできないひとは
かなりの自己改革が必要みたいだ。

こういう本をよむとき、
ひとはいろんな具体的なモデルを頭にえがいて
(もちろん自分もふくめて)、
どれだけおひとりさまで老後の生活をおくれるかを
採点するのではないか。
わたしはそこそこいけてるほうだとおもう。
なんでも自分でやれるし、ひとりであそぶことができる。
いまのところ健康で、生活習慣病もない。
いちばんの弱点は経済力で、このさきわずかな年金で
どうやって生活していくかはなるべくみないようにしている。

この本でかんがえさせられたことが2つあり、
ひとつは

・デイサービスとショートステイはいらない、

という中西さん(上野さんと『当事者主権』を共著したひと)のことばだ。
ふたつのサービスとも、家族のニーズがたかいから人気があるのであり、
いかされる本人にとってはぜんぜんありがたいものではない、ということ。
わたしは、障害をもったかたの支援計画をたてるときに、
つい「ショートステイにいけばいい」という発想をしてしまいがちだ。
家族の負担をかるくするための制度なので、
家族が利用したがるのは当然だとしても、
いかされる当事者の気もちを
まったくかんがえてこなかった。
わたしだってデイサービスやショートステイにいくのはいやだ。
自分がいやなことは、ひとにもやってはいけない。

もうひとつが

・おひとりさまのほうが介護保険をつかって家でくらしやすい、ということ。

へたに子どもたちの家族と同居したばっかりに、
老化がすすむと邪魔者あつかいされて
デイサービスや特養ホームにおくりこまれる。
おひとりさまで、だれも家にいなければヘルパーにきてもらいやすい。
家族だっていっしょにくらしていると
どうしても介護にかかわることを
まわりからあてにされて不満がたまる。
いっしょにくらすのが当然という
おもいこみで同居にふみきると、おたがいに不幸だ。
ほとんどのひとが自分の家で老後もくらしたいとかんがえるのに、
それができなくなる原因は家族がいるから、
だなんて、まったくひどいはなしだ。

わたしも自分の母親と同居している。
母親はまだ元気だからいいけど、
これから老化がすすみ、うごけなくなったり、痴呆がすすんだときに、
どれだけ家での生活をつづけることができるだろう。
むすこたちの家族がいるからおいだされた、
なんてことのないように、ずっと家でくらしてもらおう。
そもそも、いますんでいる家は母親の家なのだから、
それが当然なのだけど。

posted by カルピス at 23:22 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月18日

『おすすめ文庫王国』ふたたび。「書店員匿名座談会」がとびきりのでき

『おすすめ文庫王国』で毎年ひらかれている
「書店員匿名座談会」がとびきりのできだ。
きょねんはAKB48風選抜総選挙、
そのまえは47都道府県パーソナリティ県民性分析表と、
いじっているわりにははずれの企画がづづいているので、
今年の座談会にも期待していなかった。
しかしよみはじめたらすごい。
これだけの情報をえるためにも、
『おすすめ文庫王国』をかう意味がじゅうぶんにある。

今年のスタイルは、Jリーグ20周年を記念しての
「文庫Bリーグを作ろう!」だ。
出版社をサッカーのJ1・J2・JFLみたいに
カテゴリーにわけ、順位をきめる。
チーム名とベストイレ文庫(ベストイレブン・文庫)もきめる。
もちろん昇格チームと降格チームも設定されてくるので、
降格圏あらそいはそれなりにきびしい。
すべてがおあそびとはいえ、
ここまでこると、ほんとうにカテゴリー別の順位が
出版社にあるような気がしてくる(わけはないけど)。

A 徳間はやっぱり落とせない。14位かな。
  単行本ではロングブレスダイエットが大ヒット。
C じゃあチーム名は「ロングブレス徳間」ですか。
B プロレスラーの名前みたい(笑)。
D ひっくり返して「徳間ロングブレスSC」にしましょう。


B まさかの2部は朝日文庫です。
  まるで今年のガンバみたいだけど、本当に良くないです。
D 良くない!
B 『相棒』が落ちついてから、迷走中ですね。
  時代物に行ったり、警察物に行ったり。
C ころころ監督が代わるチームみたいです。


A あとは昇格決定戦に出られる2部の5位と6位です。
  静山社文庫はどの辺でしょう。
D 2部以下に降格ですよ。「ハリーコケターFC」。
 (静山社文庫は「ハリーポッター」の文庫をだしたのに、
  みごとにコケたらしい)

ベストイレ文庫(ベストイレブン・文庫)もきれいにきまっていく。
ボランチに村上春樹を起用し、

C でも村上春樹は辞退しそうじゃない?(笑)
D 辞退した場合は宮部みゆきに頼みましょう。(中略)
A 最後の一人は繋ぐ人ですね。辻村深月かな。
D ピッタリですね。

いかにもありそうな状況分析が
参加者全員にいきわたっている。

総評もちゃんと実態にあっていて、どこまでもリアルだ。
新潮文庫(チーム名「ノーベル?FC」)については

「バルサ並の選手層ながら勝ちきれない試合が多かった。
昨年と比べ夏場(文庫フェアね)の失速もなかったものの、
最後は『1Q84』と『陽だまりの彼女』頼みで、
攻撃の厚みを感じなかった」

と、チームの特徴と有力選手(本)をからめて
きれいに説明されている。

戦術や気もちのもちかたなど、サッカーにおけるかんがえ方は、
人生にも、もちろんビジネスにも応用できるけど
(たとえば「リスクをおかしてせめる」など)、
まさかこれほどみごとに出版社がサッカー界におさまるとは。
かなりのサッカー通ばかりがこの座談会にあつまっただけでなく、
サッカーの有用性を顕著にしめしたものだろう。

文庫本だけをとりあげても
これだけたくさんの出版社があり、
その特徴を書店員の方がリアルに把握していることに感心した。
どれだけあそべるかが、そのひとのプロ魂をあらわす。
サッカー業界におとらず
出版会のレベルもそうとうたかい。
そういえば、出版もサッカーも、
おなじくらいながい歴史をもっている老舗同士だ。

posted by カルピス at 10:14 | Comment(0) | TrackBack(0) | 本の雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月17日

貧乏人にありがたい『おすすめ文庫王国』

本の雑誌増刊の『おすすめ文庫王国』がとどく。
新刊書をかうお金がなくても、
文庫本くらいはかってきたつもりなのに、
わたしがよんできた本はほとんどかすらない。

ランクいりした『卵をめぐる祖父の戦争』は、
高野秀行さんがブログでとりあげていた。
文庫になったのならさっそくかおう。
そういえば、ミステリーをもうながいあいだよんでない。
仕事もほどほどにしないと。

山田詠美の『学問』は

営A 親本のときも装丁がよかったんですけど、
   文庫もすごくかわいい装丁でおススメです。(中略)
   子ども時代の想像力の自由さを、
   これを読んで思い出すわけですよ!

営B 十年に一冊の小説だからね。

とべたぼめだ。
本の雑誌は山田詠美のうまさによわいようで、
よくとりあげられている。
「十年に一冊の小説」ならよまないわけにいかない。

サッカー本としては『フットボールの犬』(宇都宮徹壱)
の名前があがったけど、ランクいりはしなかった。
まったくいろんなジャンルがあるもので、
サッカーはりっぱにひとつのジャンルとなる実力がある。
『おすすめ文庫王国』でとりあげられているジャンルは

・現代文学
・恋愛小説
・SF
・時代小説
・エンターテインメント
・国内ミステリー
・海外ミステリー
・ノンフィクション
・エンタメ・ノンフ
・ライトノベル

とすごくひろい。
エンターテインメントでとりあげらえている
辻村深月の『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』は、
『1Q84』の2番せんじみたいな名前なのでさけていたら、
「地方の負け犬」の本だと紹介してある。
それだったらわたしのすきな世界だ。
『みんな邪魔』(真梨幸子)は
『更年期少女』を改題したものだという。
まえの名前のほうがずっと食指がうごくのに。

ほかにも、偏愛ベストテンとして

・愉快で怖い酒飲み本10冊
・おもしろすぎる生命科学の10冊
・新乙女クラシック10冊
・変わり続ける東京を歩く10冊

がある。

「酒飲み本」では、『のだめカンタービレ』の二ノ宮知子が
仲間たちとたちあげた「平成よっぱらい研究所」のことがでてくる。

「ヤクザのベンツにいたずらし、
飲み屋の店員を野球拳で全裸にし、
夜中の花火で公園のカップルを蹴散らす」というよっぱらいたち。

これもチェックをいれる。

かずあるベスト10にくわえて、今年から
「オリジナル文庫大賞」というのができた。
これは、単行本をへないで
いきなり文庫として出版される本を対象にしている。
本がうれないので、単行本としてだすリスクをさけて、
文庫かきおろし、というやり方がふえている現状をふまえての賞だ。

この大賞をえらぶのに、北上次郎が座長をつとめている。
このはなしあいをみると、本の雑誌社は、
本をよむことについては
さすがにきびしいことがうかがえる。

書A 最終候補八作の中から決めるんですね。
北上 みなさん、読んできましたか。(中略)
編B 『海翁伝』は?
北上 おお、それいこう。歴小説の代表だ。
編C すみません。それだけ読んでいません。
編A おれなんか、昨日夜の十二時に家に帰って、
   その時点で六作読んでなかったんだよ。
編C それを全部読んだの?
編A だから一睡もしてない。
編B おれは今日、会社に二十分しかいなかった(笑)
北上 みんな、そうして最終候補を読んできたと。
編C すみません。

すきな本をよんでいられていいなー、
という世界ではないようだ。

ひとがすすめる本はどれもおもしろそうで
すぐによんでみたくなる。
こうやってその年にだされたおもしろ本を紹介してくれる
『文庫王国』は、おこづかいのとぼしいわたしにとって、
とてもありがたい。
いろんなジャンルにランクインした本を
おとながいして(20冊かっても1万円ほどだ)
枕もとにつみあげるのが
わたしのささやかなねがいであり、
実現可能なしあわせだ。
リストアップしておき、
冬やすみにはいったら本屋さんにいこう。

posted by カルピス at 22:22 | Comment(0) | TrackBack(0) | 本の雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月16日

『戦術リストランテU』他数冊を本屋さんで

カゼぎみなので、
予定していたトレーニングをとりやめて本屋さんへ。
カゼをひいているときは、
脳のうごきがいつもとちがうかんじで、
ぼーっとしながらあんまりかんがえずに本をえらべる。
かったのは、

『戦術リストランテU』(西部謙司・ソル=メディア)
『映画道楽』(鈴木敏夫・角川文庫)
『増補版松田聖子論』(小倉千加子・朝日文庫)
『男おひとりさま道』(上野千鶴子・文春文庫)

鈴木敏夫さんの『映画道楽』は、
単行本を図書館でかりてすでによんでいるものだった。
鈴木さんは、いっていることがはっきりしてるのに、
「ほんとかいな」とすんなりは納得できない。
『踊る大捜査線』について、

「通常のアクション映画では、
動くシーンがあると汗をかきますよね。
でも、この映画では青島も室井も汗をかかない。
なぜそういうことが起きたのか。
これは日本だけの状況なのか」

自分があることをかんじたときに、
その材料をつごうのいいところからもってくるかんじだ。
いろんなひととわたりあって
映画の企画をすすめるときには、
こうやって口八丁手八丁で
相手をまるめこむことが必要なのだろう。
とかくとなんだか鈴木さんがまちがったことをかいてるみたいだけど、
そうではなくて、「わたしはこうおもう、なぜなら」と
自由自在に自説を展開するのに感心した。

『戦術リストランテU』は
海外サッカー週刊誌『footballista(フットボリスタ)』
に連載されている記事を書籍化したものだ。
前作が好評だったということで、その2冊目となる。
「21の疑問からサッカーのセオリーを読み解く」
というサブタイトルになっていて、
歴史的・戦術的にいまのサッカーはどういう位置づけができるか、
その方向性は、ということがわかりやすくまとめられている。
質問はバラバラの21個なのではなく、
たとえば第1章の「ヨーロッパ製先端の戦術」は
疑問1.バルセロナのコピーは実現可能か?
疑問2.モウリーニョが目指すサッカーの完成形とは?
と、それぞれの章でつたえたいことを
質問によってまとめるという形式となっている。

西部さんの戦術本は何冊ももっていながら、
なかなか戦術の本質をつかむまでの理解にいたらない。
それでもおもしろくよめるのだから、
よませるという技術について、西部さんの能力はたかいのだろう。
前作よりもとっつきやすいメニューになっているので、
現代サッカーを俯瞰するのにいいガイドブックになりそうだ。

レジには5人ほどの列ができており、
なかなかとぎれない。
本がうれない時代とよくきくのに、
地方都市では生活における活字文化の地位が
まだたかいのだろうか。
きょうだけでなく、土日はいつもレジには列ができるし、
開店すぐの時間でも、かなりのお客さんが店にはいっている。
アマゾンはたしかに便利だけど、
こうやって本棚をながめながらゆっくりすごせる店があることは
とてもありがたい。

posted by カルピス at 16:48 | Comment(0) | TrackBack(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月15日

『本の雑誌1月号』2012年のベスト10

『本の雑誌1月号』は
2012年のベスト10特集だ。
いつものように社員がお気にいりの本を推薦しあい、
あげられた本についてバランスをかんがえながら10位までをきめる。
ノミネート(というほどおおげさなものではないけど)された作品には
わたしがよんでいるものがなかった。
この1年間、いかに新刊書をよんでこなかったかがよくわかる。
それぞれの本のセールスポイントがあつくかたられており、
2冊をさっそくアマゾンで注文する。

『売れる作家の全技術』(大沢在昌)については

発人 これを読むと小説の読み方がかわるんだよね。
営A 明らかに変る。読んでいる小説がなぜつまらないのかという
   理由がよくわかる。
   視点がぶれているとかね、すごく具体的なの。

『ピダハン』(D=L=エヴェレット)は

営A オールタイムワンです。
   宣教師であり言語学者のようなひとが
   アマゾンの奥地に入っていくんですけど、 
   いろんな意味で驚きの連続。
   これがなければ2012年の読書界はないというくらいの本です。

なんてかかれると、すぐによみたくなる。

今年はあまり本をかわず、よむ量もへってしまった。
とても2012年のベストをかたる資格はないけど、
むりにベスト3のできごとをあげると

1 角田光代の本をよみはじめる
2 東直己の「ススキノ探偵」シリーズをしる
3 『BORN TO RUN』をよんだこと

ということになり、
いずれも今年発売された本ではない。
「よんだなかで」のベスト1は、
樋口毅宏の『さらば雑司ヶ谷』だった。

角田光代のおもしろさをなんでいままで
しらずにきたのだろう。
このひとの本は「はずれ」がない。
どの本もそれなりによませるし、
いいものはとびきりすごい。
「ススキノ探偵」をよむと、つい酒をのまずにおられなくなり、
きまって二日よいにくるしむということをくりかえした。
『BORN TO RUN』はよむおもしろさとともに、
自分でもはしってみようという気にさせてくれる本で、
おかげでいまも長距離のランニングをつづけるられている。
3つのあたらしいおもしろさにであえたのだから、
2012年はまあまあの年だったのかもしれない。
来年はいよいよ電子書籍をためしそうな予感がする。

posted by カルピス at 17:13 | Comment(0) | TrackBack(0) | 本の雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月14日

灯油がある安心感。備蓄ごっこをいつまでもつづけたい

家での暖房にエアコンと灯油ストーブをつかう。
最近のエアコンはあまり電気代がかからないそうで、
灯油ストーブよりも経済的だという。
でも、灯油が備蓄してある、という安心感は
わたしにとってかなり大切なことだ。
家にある6つの灯油缶がすべて満タンになっていること。
かいものはお金がなくなるからきらいなのに、
備蓄に関係するものにはいそいそとからだがうごく。

食料としてはお米が最低1袋(10キロいり)は
かいおきしてあるようにする。
ミレニアム問題や新型インフルエンザのために、
ある程度の備蓄をこころがけるようになったのがはじまりだ。
塩やスパゲッティはきらさないし、
うめぼしも毎年つけているので、
いざとなったら2〜3週間は家にたてこもることができる。

「年収300万円時代」でしられる森永卓郎さんが
家にある程度の備蓄がある安心感についてふれ、
断捨離を批判しているのをよんだことがある。
もちろんためこめばいいというものではないにしろ、
できるだけものをもたずに「すっきり」というだけでは
なにかがおこったときの対応がむつかしい。
東日本大震災のときに、コンビニの棚から
商品がすっかりきえたのも、
かいおきをしておかなかったからだ。

わたしの場合はたいして計画性があるわけではなく、
心理的な安心感をもとめての「灯油6缶」だ。
水は期限のきれたペットボトルが2ケースあるだけだし、
トイレ用の水を確保しているわけでもない。
トイレットペーパーにもあまり関心がなく、
いざとなったら東南アジアみたいに手と水でふけばいいや、と
デコボコでいいかげんな備蓄だ。

お金よりも現物に安心をかんじるのは、
じっさいに切実な飢えを体験したからではない。
うまれながらの性格であり、
とびきりの成長株や証券をもっているよりも
(もったことはないけど)、
1俵の米とか、ドラム缶にいっぱいの灯油のほうが
わたしには魅力的だ。
あえて起源をさぐれば、
子どものころに『ロビンソン漂流記』がすきで、
なかでも小麦やヤギをじゅうぶんにたくわえて、
たべることにこまらなくなった、
という場面がお気にいりだった。
もうおなかをすかさなくても大丈夫、という安心感が
おさなかったわたしに備蓄への意識をうえつけたのかもしれない。

新型インフルエンザや地震には
我が家の備蓄がやくにたつけれど、
原発事故がおこればどうしようもない。
原発から20キロ圏にしっかりおさまるので、
家にたてこもるよりは避難をせまられそうだ。
備蓄ごっこのたのしみがなくなり、
いっきょに深刻な難民となるのは
まったくありがたくない。
原発廃止が経済にあたえるという影響よりも、
このままげんきに生きつづけられるほうが
わたしにとってはるかに大切だ。

posted by カルピス at 11:33 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月13日

クラブW杯5位決定戦、サンフレッチェがドスコイのパフォーマンス

クラブW杯5位決定戦、サンフレッチェ広島対ウルサン・ヒョンデ(韓国)
3-2でサンフレッチェ

広島はまえの試合につづき、前半に先制点をゆるす。
なんということのないオウンゴール。
今シーズン、広島は先制されてかった試合はないそうで、
なんだかいやなかんじだ。

ウルサンもサンフレッチェも、
とくに日韓戦を特別に意識したはいりかたではなく、
そこそこはげしく、でもあんがいおちついて試合をすすめる。
いくらクラブW杯といっても、
5位決定戦では気もちをたかめるのがむつかしそうだ。
サンフレッチェは開催国枠という特別の参加で、
かちあがってアジアチャンピオンとなったウルサンとしては
格のちがいをみせたいところだろう。
ウルサンにはイ=グノ・ラフィーニャ・キム=スンヨンと
ガンバでおなじみだった選手がいる。
西野監督がいないのが不思議なくらいだ。

オークランド戦でほほを負傷した西川が
ゴールキーパーとして復活する。
なんどもあぶない場面をふせぎ、
さすがに段ちがいの安定感をみせてくれた。
ラフィーニャとの接触プレーで左手をけられた西川は、
そのあとべつのプレーで森崎をたおしたラフィーニャにたいし
うしろからはげしくどなりちらしていた。
ふたりのあいだにイ=グノが仲裁にはいる。
ラフィーニャを佐藤寿人がおさめる。
西川とラフィーニャの両方にイエローカードがだされた。
西川はけっこう根にもつタイプのようで、
試合後のインタビューでみせた
おだやかなお父さん的な笑顔とのギャップがおかしかった。

試合は佐藤が2得点をあげ、3-2でサンフレッチェの勝利でおわる。
ウルサンは何本かの決定的チャンスをのがしており、
内容からいうと、どちらにころんでもおかしくない試合だった。
サンフレッチェにとっては、
今シーズンの最後の試合ではじめて逆転がちに成功し、
しかも相手はアジアチャンピオンのウルサンと、
いいしめくくりとなる試合だった。
期待されていたゴールあとのパフォーマンスも
すもうのドスコイをきめている。
負傷欠場の森脇のところまで
ドスコイ、ドスコイとせまっていった。

来年のアジアチャンピオンズリーグのくみあわせがもうきまっている。
サンフレッチェはグループHで、
ウズベキスタンのプニョドコル(ウズベクリーグ2位)、
中国の北京国安(国内リーグ3位)、
韓国の浦項スティーラーズ(国内リーグ2位)
と予選をたたかうことになる。
Jリーグは、リーグとしてのレベルはたかくても、
突出した実力をしめすチームがなく、
2008年のガンバを最後に
アジアチャンピオンズリーグでかちのこれていない。
2013年はぜひ優勝し、
日本サッカーのイメージをたかめてもらいたい。

2013年と14年のクラブW杯はモロッコでひらかれということだ。
日本に開催国枠はないので、
本大会に参加するには予選をかちあがるしかない。
この時期のモロッコは、
あつくないだけ観光にも応援にも
わるくない時期だ。
日本のチームが参加することができ、
わたしの経済状況と職場の雰囲気をととのえて、
20年ぶりのモロッコにいってみたい。

posted by カルピス at 12:35 | Comment(0) | TrackBack(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月12日

横断歩道でのお辞儀をどうとらえるか

フェイスブックに
横断歩道をわたりおえた女の子が、
運転手にお辞儀をした、
というメッセージがのっていた。
その子の行為にたいし
地元のほこりであり宝だと評価し、
「本当に大事にしていかなくてはと思います」とかかれている。

このメッセージに85人のひとが「いいね!」といっており、
コメントもおおくついていた。
全部その内容に共感するもので、
おおくのひとが「こころあたたまるはなし」
というみかたをしていることがわかった。

わたしはぜんぜんいいとおもわない。
女の子がお辞儀してお礼するなんて、
なんというひどい状況だろう。
運転手はとまるのが当然で、
止まったことに対して女の子がお辞儀をしてくれたなら
もうしわけなくおもうべきである。
とまったことに対してお礼するのが
礼儀ただしいとおもいこまされている
貧困な日本の交通事情をはじるべきである。
とまった車に女の子がにっこりわらう、とか、
かるくて手をあげて感謝の意をしめすぐらいならまだしも、
なんでお辞儀をしなければならないのか。
そして、それをなぜほほえましい風景とうけとめるのか。
ほとんどの車がとまらないからこんなことになるのだ。

わたしも横断歩道で歩行者をみかけたら車をとめる。
もしちいさな子がおじぎをしてお礼をいってくれたら
こっちもおじぎをし、それとともに、
おじぎをするようにしつけられた子にもうしわけなくおもう。
横断歩道でとまらないのがあたりまえという
絶対にまちがった状況を子どもたちにおしつけ
反対にとまった車にお礼をつたえるよう
おしえている状況がはらだたしい。
権利とか義務とかではなく、
社会のマナーとして当然まもるべきことを
ないがしろにしてきた結果が
女の子のお辞儀ではなかったか。

自動車学校ではあれだけうるさく歩行者優先や
安全確認をおしえるのに、
免許をとって車をはしらせると全然まもられなくなる。
それがもうながいあいだずーっとつづいてきているのが現状だ。
いまの教習システムや、免許制度では解決できない
根本的な問題があるとかんがえるしかない。

とまるのが当然だからとまるのであり、
歩行者は車がとまってくれてあたりまえなので、
お辞儀をしてお礼をつたえる必要はない。
もし自発的にしたかったらもちろんかまわないけど、
しつけとしてとか、美徳でおしつけるのではなく、
ほんとうはすべての車がとまるべきことを
まずおさえなくてはならない。
道路は車だけのものではないし、
歩行者こそがまもられるべき存在である。

とまろうとしない車にむかって
アッカンベーをするくらいのかわいげのない子が
(とおもわれるのがそもそもまちがっているけど)わたしはすきだ。

posted by カルピス at 13:09 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする