12月8日の朝日新聞土曜日版に
「イライラするカタカナ語は?」という記事があった。
このなかで、いらいらさせるカタカナ語は
2つの種類があると分析してある。
「わからないカタカナ語」と「わざとらしいカタカナ語」だ。
ランキングの上位にあがったのは、
いずれも「わからないカタカナ語」で、
わたしもベスト20のうちわかったのが1つ、
なんとなく、というのが1つという「イライラする」結果だった。
1位から10位までをあげてみると、
コンピテンシー
インスタレーション
インキュベーション
コモディティー
ダイバーシティー
サステイナブル
コンソーシアム
オルタナティブ
ステークボルダー
リテラシー
と、これはもう外国語であり、
わかるほうがどうかしてるのだ。
1位の「コンピテンシー」が720票、
10位の「リテラシー」が536票とあまり差がなく、
わからないことばがとにかくもうたくさんある、
という状況をあらわしている。
べつに若者言葉というわけではないから、
年代別の理解度はそうかわらないのではないか。
だれもが、どのことばも、おなじようにわからない。
日本語にないあたらしい概念は
そのままおぼえるしかないとおもう。
へんに漢字をたくさんつかった熟語になおされるより、
カタカナのほうがまだおぼえやすい。
たとえば「高い業績を持つ人間特有の行動の特徴」という意味の
「コンピテンシー」は、
日本語にいいかえるより、そのままおぼえたほうがいいだろう。
そんなにつかう場面はおおくないだろうから、
日本語に定着するとはおもえない。
いまだけの我慢だ。
イライラする「わざとらしいカタカナ語」としては
「リスペクト」や「マスト」があがっている。
意味はわかるけど、あえてカタカナで(つまり外国語で)
いう必要はないだろう!というイライラだ。
わたしも「コラボ」や「フューチャリング」にイライラする。
あえてこのカタカナをつかうだけの理由があるのだろうか。
ないからイライラするわけだけど。
「リテラシー」だって、「読み書き能力」でいいではないか。
「リテラシー」という外国語をいれるまでは、
「読み書き能力」をどうあらわしていたのか
つっこみたくなってくる
(つっこみたくなるのは、イライラするからだ)。
カタカナがどんどんふえているかというと、
どうもそうではないらしい。
国立国語研究所が2001年から2005年の新聞の記事を対象に
外来語の比率をしらべたところ、
13.4%にとどまっており、
「一般の人が読む新聞ではほぼこのくらいで頭打ちでしょう」
というみかたが紹介されている。
「アカウンタビリティー」(説明責任)のように、
しだいに日本語のほうがよくつかわれて淘汰される言葉もあり、
いまの状況がますますエスカレート(これも外来語か)
することはないだろうということだ。
アンケートがしめすように、
これだけおおくのひとがこまっているのだから、
消費者に不便なままほっておいては
活字をあつかう新聞・雑誌がますますうれなくなってしまう。
なんといっても中年や高齢者の数がわかものよりもおおいのだ。
政治・経済・社会が地球的な規模で影響しあう時代であることと、
情報技術(IT)がどの分野でも不可欠になってきていることから、
あたらしい概念や外来語がはいってきやすい状況なのだろう。
ユニクロや楽天が英語を社内公用語にし、
意味のわからないカタカナ語がはばをきかせる。
このさきの日本語がどうなっていくのか、
おちつくさきをみてみたい。
逆説みたいだけど、ローマ字表記をとりいれると、
外国語そのままの外来語はへるだろう。
コンピテンシーを「konpitensii」とかくには、
かんぜんに日本語になじんでなければ無理だし、
「comppetensy 」という英語を
ローマ字表記の日本語にまぜるのもへんなだ。
わかりやすいことばにいいかえないと、
「konpitensii」では生きのこることができない。
2012年12月11日
2012年12月10日
ゴール後のパフォーマンスがみたかった サンフレッチェ広島対アルアハリ戦
クラブワールドカップ、サンフレッチェ広島対アルアハリ戦。
1-2で広島がやぶれる。
中東のチームというと、
ひいてまもってカウンター、というイメージをもっていたら、
アルアハリは全然ちがっていた。
カウンターはすごくはやいけど、
それ以外でもよくはしり、パスもつないでくる。
はじめだけだろうとたかをくくっていたら、
90分間集中がとぎれることがなかった。
広島のサッカーは、世界でも類のない
特殊な戦術らしいのに、
広島の攻撃をよくしらべ、
佐藤寿人にわたるボールをうまくカットしていく。
それでも広島の攻撃はなんども決定的なチャンスをつくった。
得点にむすびつかなかったのは残念だけど、
広島らしさはでていたのではないか。
ミキッチから佐藤寿人へのクロスが微妙にあわず、
おしい場面がなんどかあった。
この試合では広島がゴールをきめたあとにみせる
パフォーマンスも注目されていた。
先日のアデレード戦では、「魚つり」が披露されたのに、
カメラの反対側でえんじられたため、
「世界をおどろかす」ことができなかったからだ。
試合後にはおおくの選手が反省点をあげ、
つぎの試合での再演がまたれていた。
アルアハリ戦では佐藤寿人が同点ゴールをきめたけど、
まだ同点ということでパフォーマンスにはいたらなかった。
そのあとも、佐藤寿人がゴールキーパーと1対1になる
決定的な場面があったのに、
ゴール脇にわずかにそれて得点にならなかった。
広島としては、いろいろな意味で残念な敗北だった。
この大会では、ゴールを正確に判定するという
チップをうみこまれたボールがつかわれている。
来年おこなわれるフォンフェデレーションズ杯の
公式ボールということだ。
中世のストリートフットボールでは、
豚のぼうこうをボールとしてつかったといわれている。
それがついにチップいりのボールへ進化するとは、
まさに想像をぜっする変化だ。
いまやフットボールはビッグビジネスとなり、
社交とかおまつりといった面はうすれてきた。
おおきな金額がうごく世界では
どれだけ正確にジャッジするかがもとめられる。
これからも機械をつかった判定が導入されていくだろう。
90分間たたかってもひきわけることが
当然のこととしてありえるサッカーのルールは、
かちまけだけにこだわらない精神があらわれている。
いろいろあることすべてを
「サッカー」としてうけいれるほうが
がわたしはすきだ。
1-2で広島がやぶれる。
中東のチームというと、
ひいてまもってカウンター、というイメージをもっていたら、
アルアハリは全然ちがっていた。
カウンターはすごくはやいけど、
それ以外でもよくはしり、パスもつないでくる。
はじめだけだろうとたかをくくっていたら、
90分間集中がとぎれることがなかった。
広島のサッカーは、世界でも類のない
特殊な戦術らしいのに、
広島の攻撃をよくしらべ、
佐藤寿人にわたるボールをうまくカットしていく。
それでも広島の攻撃はなんども決定的なチャンスをつくった。
得点にむすびつかなかったのは残念だけど、
広島らしさはでていたのではないか。
ミキッチから佐藤寿人へのクロスが微妙にあわず、
おしい場面がなんどかあった。
この試合では広島がゴールをきめたあとにみせる
パフォーマンスも注目されていた。
先日のアデレード戦では、「魚つり」が披露されたのに、
カメラの反対側でえんじられたため、
「世界をおどろかす」ことができなかったからだ。
試合後にはおおくの選手が反省点をあげ、
つぎの試合での再演がまたれていた。
アルアハリ戦では佐藤寿人が同点ゴールをきめたけど、
まだ同点ということでパフォーマンスにはいたらなかった。
そのあとも、佐藤寿人がゴールキーパーと1対1になる
決定的な場面があったのに、
ゴール脇にわずかにそれて得点にならなかった。
広島としては、いろいろな意味で残念な敗北だった。
この大会では、ゴールを正確に判定するという
チップをうみこまれたボールがつかわれている。
来年おこなわれるフォンフェデレーションズ杯の
公式ボールということだ。
中世のストリートフットボールでは、
豚のぼうこうをボールとしてつかったといわれている。
それがついにチップいりのボールへ進化するとは、
まさに想像をぜっする変化だ。
いまやフットボールはビッグビジネスとなり、
社交とかおまつりといった面はうすれてきた。
おおきな金額がうごく世界では
どれだけ正確にジャッジするかがもとめられる。
これからも機械をつかった判定が導入されていくだろう。
90分間たたかってもひきわけることが
当然のこととしてありえるサッカーのルールは、
かちまけだけにこだわらない精神があらわれている。
いろいろあることすべてを
「サッカー」としてうけいれるほうが
がわたしはすきだ。
2012年12月09日
よわかったから降格するガンバ
ガンバ降格その後
ガンバのJ2降格についておどろきの声をよくきく。
いろいろな分析がされており、
そのひとつに
「後半ロスタイムの失点はリーグワーストの8で、
結果的に4試合を落とした」(12月8日・朝日新聞)
というのがある。
その記事では、試合終盤に運動量がおちた、という仮説から
その伏線としてかんがえられる
キャンプでのはしりこみ不足を指摘していた。
なんでもかんでも「キャンプでのはしこみ不足」にするのは
野球の評論でもよく耳にする。
春さきにはしったからといって、
その貯金にどれだけ期待できるだろうか。
なんだか精神論的な意味あいがつよくかんじらて、
「キャンプでのはしりこみ不足説」は
まえからすきではなかった。
リーグ後半のガンバは多少なりとももちなおしている。
前半戦が3勝10敗4分なのにくらべ、
後半戦は6勝4敗7分だ。
とくに6月から9月のあつい時期に
5勝5敗5分だったのだから、
キャンプでのはしりこみ不足
だけのせいにはできないだろう。
まず指摘できるのはスタートのつまづきだ。
新監督にむかえたセホーン氏とそのスタッフが
チームにあわなかった。
リーグ戦で3敗した段階で松波氏に監督がかわったものの、
いちどくずれたチームをたてなおすのは容易ではなく、
最後まで安定したつよさをとりもどすことはできなかった。
また、なんといっても失点がおおすぎた。
リーグ1の67得点していても、失点が65もある。
これはリーグ17位(18位は札幌)であり、
3点以上あげないとかてないという
異常な結果をまねいた。
なぜ失点がおおかったのかについては、
前述したとおり、キャンプでのはしりこみ不足だけとはおもえない。
来季のガンバは、失点の原因を分析することからはじめる必要があるだろう。
最終戦のジュビロ磐田戦は、
この試合にかてば残留の可能性があったのに、
1-2でやぶれている。
試合開始から積極的にボールにからんでいったのは
むしろジュビロの選手たちで、
どうしてもかちが必要なガンバなのに、
前半5分というはやい段階に失点してる。
結果論だけど、どうしてもまけてはいけない試合に
ゆるいはいり方しかできなかったガンバは、
おちるべくしてJ2におちるのであり、
ガンバという顔で判断せずに
シーズをとおしての試合内容からふりかえれば、
よわいからおちたとしかいえないのだ。
J2におちるガンバが、ダントツにつよさを発揮できるかというと、
否定的なみかたがつよいようだ。
J2はまもりを基本にしているチームがおおいこと、
よくはしるチームがおおいこと、
そしてチームの高齢化、というとらえかたからだ。
J2からあがりたてのチームが
J1でいい成績をのこすことからわかるとおり、
J2のレベルはけしてひくくはない。
なによりも、どんなメンバーで
ガンバは開幕にのぞめるかがはっきりしていない。
年俸のたかい選手が
この先の交渉でどういう判断をするだろうか。
ガンバ側も経営的にくるしいと、
これまでのような補強はむつかしくなる。
とはいえ降格がきまってしまったのだから
ピンチはチャンスとかんがえて
あたらしいチームをつくりあげるしかない。
あんなことがあった、となつかしく2012年をおもいかえせるときが
かならずくる。
ガンバのJ2降格についておどろきの声をよくきく。
いろいろな分析がされており、
そのひとつに
「後半ロスタイムの失点はリーグワーストの8で、
結果的に4試合を落とした」(12月8日・朝日新聞)
というのがある。
その記事では、試合終盤に運動量がおちた、という仮説から
その伏線としてかんがえられる
キャンプでのはしりこみ不足を指摘していた。
なんでもかんでも「キャンプでのはしこみ不足」にするのは
野球の評論でもよく耳にする。
春さきにはしったからといって、
その貯金にどれだけ期待できるだろうか。
なんだか精神論的な意味あいがつよくかんじらて、
「キャンプでのはしりこみ不足説」は
まえからすきではなかった。
リーグ後半のガンバは多少なりとももちなおしている。
前半戦が3勝10敗4分なのにくらべ、
後半戦は6勝4敗7分だ。
とくに6月から9月のあつい時期に
5勝5敗5分だったのだから、
キャンプでのはしりこみ不足
だけのせいにはできないだろう。
まず指摘できるのはスタートのつまづきだ。
新監督にむかえたセホーン氏とそのスタッフが
チームにあわなかった。
リーグ戦で3敗した段階で松波氏に監督がかわったものの、
いちどくずれたチームをたてなおすのは容易ではなく、
最後まで安定したつよさをとりもどすことはできなかった。
また、なんといっても失点がおおすぎた。
リーグ1の67得点していても、失点が65もある。
これはリーグ17位(18位は札幌)であり、
3点以上あげないとかてないという
異常な結果をまねいた。
なぜ失点がおおかったのかについては、
前述したとおり、キャンプでのはしりこみ不足だけとはおもえない。
来季のガンバは、失点の原因を分析することからはじめる必要があるだろう。
最終戦のジュビロ磐田戦は、
この試合にかてば残留の可能性があったのに、
1-2でやぶれている。
試合開始から積極的にボールにからんでいったのは
むしろジュビロの選手たちで、
どうしてもかちが必要なガンバなのに、
前半5分というはやい段階に失点してる。
結果論だけど、どうしてもまけてはいけない試合に
ゆるいはいり方しかできなかったガンバは、
おちるべくしてJ2におちるのであり、
ガンバという顔で判断せずに
シーズをとおしての試合内容からふりかえれば、
よわいからおちたとしかいえないのだ。
J2におちるガンバが、ダントツにつよさを発揮できるかというと、
否定的なみかたがつよいようだ。
J2はまもりを基本にしているチームがおおいこと、
よくはしるチームがおおいこと、
そしてチームの高齢化、というとらえかたからだ。
J2からあがりたてのチームが
J1でいい成績をのこすことからわかるとおり、
J2のレベルはけしてひくくはない。
なによりも、どんなメンバーで
ガンバは開幕にのぞめるかがはっきりしていない。
年俸のたかい選手が
この先の交渉でどういう判断をするだろうか。
ガンバ側も経営的にくるしいと、
これまでのような補強はむつかしくなる。
とはいえ降格がきまってしまったのだから
ピンチはチャンスとかんがえて
あたらしいチームをつくりあげるしかない。
あんなことがあった、となつかしく2012年をおもいかえせるときが
かならずくる。
2012年12月08日
『オレンジと太陽』児童移民というかくされてきた政策
『オレンジと太陽』(2011年イギリス・ジム=ローチ監督)
第二次大戦後に、
国の政策として13万人の子どもたちが
イギリスからオーストラリアへおくられた。
孤児だけでなく、親からひきはなし、
ゆきさきもおしえずにつれていかれたケースもおおい。
おくられてから40年たち、
大人になった彼らは、自分がいったいなにものなのかになやむようになる。
自分はだれで、親はどこでなにをしているのか。
まだ生きているのか。
ソーシャルワーカーのハンフリーズのもとに
自分のおいたちについてしらべてほしいという女性があわられる。
彼女は子どものころに船でオーストラリアにおくられたという。
しかも、親とはなれ子どもたちだけで。
ありえないはなしに半信半疑だったハンフリーズは、
おなじようなケースがほかにもあることに気づき調査をはじめる。
児童移民はボランティア団体や教会が組織し、ふかくかかわっていた。
事件の真相があきらかになってくると、
しだいにハンフリーズへ非難がむかうようになる。
調査をやめるように圧力がかかり、
ことをあらだてたくない側から
ちからずくの妨害もうける。
彼女はつよいストレスにくるしみながらも活動をつづける。
おさない子どもたちが、身内からひきはなされ
なにもしらされずにオーストラリアにつれてこられてから、
どんなおもいでこれまで生きてきたか。
過酷な労働をおしつけられ、
虐待やレイプに身をさらされてきた彼らのつらさをおもうと、
けしてうやむやにはできないという
つよい使命感が彼女をささえている。
移民としておくられた子どもたちは、
自分は無だ、いなくなってもだれもなんともおもわない、
自分なんてなんの存在意味もない、と
アイデンティティの欠如にくるしんでいる。
自分をしんじることができず、
自分はいったいなにものなのかを
切実にしりたいという。
彼らがハンフリーズにのぞむのは、
社会への糾弾ではなく、自分がどこからきて
親はだれで、いまなにをしているか、ということだ。
印象にのこるのは、
調査をすすめるハンフリーズにたいし、
移民としてつれてこられた彼らが
家族という意識をもつことだ。
これまで自分に親身になってくれるひとはいなかったし、
しんじられるひともいなかった。
ハンフリーズだけが親のように
自分たちのちからになってくれる。
彼女なら信頼できるという、
しだいに「家族」への意識となる。
もうひとつ、
熱意だけで調査にとりかかろうとするハンフリーズに、
まず財源を確保し、寄付もつのるよう上司がアドバイスする。
そうやって仕事をつづけられる条件をととのえることが、
こういう運動にとりくむときには大切なのだろう。
仕事って、やり方をこころえていたら、なんだってできる。
要はやりたいことがあることだ。
仕事術として感心したこの場面をみていた。
ハンフリーズはやがて財団をたちあげ、
個人としてではなく組織として
元孤児たちを支援していく。
タイトルの『オレンジと太陽』は、
むこうにいったらオレンジをたくさんたべれるぞ、
というかどわかしのセリフからきている。
「太陽」がごちそうなのはいかにもイギリス的だ。
うまいというかずるいというか。
それにしても、児童移民の目的はなんだったのだろう。
労働力めあてに子どもを移民するなんて
まともな人間がかんがえるだろうか。
どんな意図から児童移民がはじまり、
なぜ1970年という、わりと最近までそれがつづいたのか。
無力な子どもたちはいつまでも犠牲者のままで、
かかわった大人たちは責任をとわれることがない。
ハンフリーズがうごかなかったら、
永遠に闇にとざされたままだったかもしれない不幸で悪質な事件だ。
なんの責任もない子どもたちが、
ながいあいだ自分の存在を否定されながら生きてきた。
彼らはそのつらい過去をかんがえると
しんじがたいほどまっすぐにそだったようにみえる。
しかし、彼らは絶望をくりかえし体験している。
その体験が影響をあたえないわけがない。
母親と再会できた女性が、
ハンフリーズにお礼をいおうと家におとずれる。
「自分も、母親も、これで人生が完成された。
いまは最高にしあわせだ」
とハンフリーズに感謝する。
過去はもうとりもどせない。
元児童移民の子どもたちが
これからの自分の人生を、
どうかしあわせに生きてほしいとねがう。
第二次大戦後に、
国の政策として13万人の子どもたちが
イギリスからオーストラリアへおくられた。
孤児だけでなく、親からひきはなし、
ゆきさきもおしえずにつれていかれたケースもおおい。
おくられてから40年たち、
大人になった彼らは、自分がいったいなにものなのかになやむようになる。
自分はだれで、親はどこでなにをしているのか。
まだ生きているのか。
ソーシャルワーカーのハンフリーズのもとに
自分のおいたちについてしらべてほしいという女性があわられる。
彼女は子どものころに船でオーストラリアにおくられたという。
しかも、親とはなれ子どもたちだけで。
ありえないはなしに半信半疑だったハンフリーズは、
おなじようなケースがほかにもあることに気づき調査をはじめる。
児童移民はボランティア団体や教会が組織し、ふかくかかわっていた。
事件の真相があきらかになってくると、
しだいにハンフリーズへ非難がむかうようになる。
調査をやめるように圧力がかかり、
ことをあらだてたくない側から
ちからずくの妨害もうける。
彼女はつよいストレスにくるしみながらも活動をつづける。
おさない子どもたちが、身内からひきはなされ
なにもしらされずにオーストラリアにつれてこられてから、
どんなおもいでこれまで生きてきたか。
過酷な労働をおしつけられ、
虐待やレイプに身をさらされてきた彼らのつらさをおもうと、
けしてうやむやにはできないという
つよい使命感が彼女をささえている。
移民としておくられた子どもたちは、
自分は無だ、いなくなってもだれもなんともおもわない、
自分なんてなんの存在意味もない、と
アイデンティティの欠如にくるしんでいる。
自分をしんじることができず、
自分はいったいなにものなのかを
切実にしりたいという。
彼らがハンフリーズにのぞむのは、
社会への糾弾ではなく、自分がどこからきて
親はだれで、いまなにをしているか、ということだ。
印象にのこるのは、
調査をすすめるハンフリーズにたいし、
移民としてつれてこられた彼らが
家族という意識をもつことだ。
これまで自分に親身になってくれるひとはいなかったし、
しんじられるひともいなかった。
ハンフリーズだけが親のように
自分たちのちからになってくれる。
彼女なら信頼できるという、
しだいに「家族」への意識となる。
もうひとつ、
熱意だけで調査にとりかかろうとするハンフリーズに、
まず財源を確保し、寄付もつのるよう上司がアドバイスする。
そうやって仕事をつづけられる条件をととのえることが、
こういう運動にとりくむときには大切なのだろう。
仕事って、やり方をこころえていたら、なんだってできる。
要はやりたいことがあることだ。
仕事術として感心したこの場面をみていた。
ハンフリーズはやがて財団をたちあげ、
個人としてではなく組織として
元孤児たちを支援していく。
タイトルの『オレンジと太陽』は、
むこうにいったらオレンジをたくさんたべれるぞ、
というかどわかしのセリフからきている。
「太陽」がごちそうなのはいかにもイギリス的だ。
うまいというかずるいというか。
それにしても、児童移民の目的はなんだったのだろう。
労働力めあてに子どもを移民するなんて
まともな人間がかんがえるだろうか。
どんな意図から児童移民がはじまり、
なぜ1970年という、わりと最近までそれがつづいたのか。
無力な子どもたちはいつまでも犠牲者のままで、
かかわった大人たちは責任をとわれることがない。
ハンフリーズがうごかなかったら、
永遠に闇にとざされたままだったかもしれない不幸で悪質な事件だ。
なんの責任もない子どもたちが、
ながいあいだ自分の存在を否定されながら生きてきた。
彼らはそのつらい過去をかんがえると
しんじがたいほどまっすぐにそだったようにみえる。
しかし、彼らは絶望をくりかえし体験している。
その体験が影響をあたえないわけがない。
母親と再会できた女性が、
ハンフリーズにお礼をいおうと家におとずれる。
「自分も、母親も、これで人生が完成された。
いまは最高にしあわせだ」
とハンフリーズに感謝する。
過去はもうとりもどせない。
元児童移民の子どもたちが
これからの自分の人生を、
どうかしあわせに生きてほしいとねがう。
2012年12月07日
角田光代の旅行エッセイ『恋するように旅をして』
『恋するように旅をして』(角田光代・講談社文庫)
こういう本をよむと、元バックパッカーの血がさわぐ。
効率よく旅行するには、
たとえ個人旅行のときでも
バックパッカー御用達の旅行会社に
チケットやツアーをもうしこむと、
ミニバスで現地につれていってくれたり、
駅までのピックアップトラックがあったりして
とても楽だ。
でも、それがたのしいかというと、
なんだかながれ作業にのっかっただけみたいで
味気なかったりする。
せっかく外国旅行にでているのだから、
現地にどっぷりつかった気分にひたりたい。
角田光代は、まさにそういう旅行をしているようにみえる。
目的とか日程がかたまっていないので、
そのときの気分でいきさきがきまる。
外国人旅行者がつかうルートではなく、
ローカルバスや電車でうごき、
必然的に土地々々のおあ兄さん・おあ姉さんがたとまじわる
寅さんみたいな旅行となる。
スムーズに移動できないこともおおく、
効率はわるいけれど、記憶にのこるのはきっとそういう旅行だ。
モロッコでは、マラケシュのメディナでまよったはなし。
それと、休憩所でやすんだときに、
荷物をのせたバスがさきにいってしまったはなし。
本人にしてみたらありがたくないトラブルなのに、
いい旅行をしてるなー、となんだかうらやましくなる。
「ベトナムのコーヒー屋」もよかった。
ベトナム中部にあるニャチャンという町が気にいって、
しばらく滞在していたとき、
屋台のコーヒー屋としたしくなる。
はなしている言葉をおたがいに理解していないのに、
あれこれはなしてげらげらわらう。
町をはなれるときには駅までみおくりにきてくれた。
彼らの店でのんだあまいベトナムコーヒーをときどきおもいだす。
わたしが旅行にあこがれるのは、
きっとこんな体験をしたいからだ。
角田さんがかくと、ひなびた田舎町での
のんびりした風景をおもいうかべるが、
ニャチャンはビーチリゾートの町なので、
そうぞうしい面もあるところだとおもう。
そんな町でも季節はずれの避暑地みたいに
しずかでいごこちのいい場所にしてしまうところが
角田さんの旅行スタイルだ。
ネット検索でいろんな情報がかんたんに手にはいるようになり、
できるだけいい条件で、失敗なくまわろうと
「おすすめの場所は?」とか
「どんな服装が?」とたずねるのがあたりまえになっている。
ガイドブックだっておなじようなもの、といえなくもないけど、
ふるいタイプの旅行者としては、
そんなことなら旅行するな、といいたくなってくる。
角田さんは、ぜんぜんりきまむことなく
まちがえやすい旅行をしているから、
記憶にのこる体験につながっている。
このまえわたしが外国にいったのは、
ちょうどいちねんまえに
タイのチェンマイマラソンに参加したときだ。
レースのあと5日ほど観光したけど、
角田さんの旅行のようなすごしかたではない。
なんといってもみじかい日程だし、
角田さんのスタイルにあこがれながらも
わたしはどうしてもしゃかしゃかうごきまわってしまう。
このごろおもうのは、
ほとんどのことにこたえはないということだ。
どっちをえらんでも正解であり、失敗でもある。
旅行にもこたえがない。
どんな旅行をしてもまちがいではないわけで、
それだけにそのひとの全人格があらわれる。
角田さんの本をよんで、
しらない国のしらない町にでかけたくなった。
こういう本をよむと、元バックパッカーの血がさわぐ。
効率よく旅行するには、
たとえ個人旅行のときでも
バックパッカー御用達の旅行会社に
チケットやツアーをもうしこむと、
ミニバスで現地につれていってくれたり、
駅までのピックアップトラックがあったりして
とても楽だ。
でも、それがたのしいかというと、
なんだかながれ作業にのっかっただけみたいで
味気なかったりする。
せっかく外国旅行にでているのだから、
現地にどっぷりつかった気分にひたりたい。
角田光代は、まさにそういう旅行をしているようにみえる。
目的とか日程がかたまっていないので、
そのときの気分でいきさきがきまる。
外国人旅行者がつかうルートではなく、
ローカルバスや電車でうごき、
必然的に土地々々のおあ兄さん・おあ姉さんがたとまじわる
寅さんみたいな旅行となる。
スムーズに移動できないこともおおく、
効率はわるいけれど、記憶にのこるのはきっとそういう旅行だ。
モロッコでは、マラケシュのメディナでまよったはなし。
それと、休憩所でやすんだときに、
荷物をのせたバスがさきにいってしまったはなし。
本人にしてみたらありがたくないトラブルなのに、
いい旅行をしてるなー、となんだかうらやましくなる。
「ベトナムのコーヒー屋」もよかった。
ベトナム中部にあるニャチャンという町が気にいって、
しばらく滞在していたとき、
屋台のコーヒー屋としたしくなる。
はなしている言葉をおたがいに理解していないのに、
あれこれはなしてげらげらわらう。
町をはなれるときには駅までみおくりにきてくれた。
彼らの店でのんだあまいベトナムコーヒーをときどきおもいだす。
わたしが旅行にあこがれるのは、
きっとこんな体験をしたいからだ。
角田さんがかくと、ひなびた田舎町での
のんびりした風景をおもいうかべるが、
ニャチャンはビーチリゾートの町なので、
そうぞうしい面もあるところだとおもう。
そんな町でも季節はずれの避暑地みたいに
しずかでいごこちのいい場所にしてしまうところが
角田さんの旅行スタイルだ。
ネット検索でいろんな情報がかんたんに手にはいるようになり、
できるだけいい条件で、失敗なくまわろうと
「おすすめの場所は?」とか
「どんな服装が?」とたずねるのがあたりまえになっている。
ガイドブックだっておなじようなもの、といえなくもないけど、
ふるいタイプの旅行者としては、
そんなことなら旅行するな、といいたくなってくる。
角田さんは、ぜんぜんりきまむことなく
まちがえやすい旅行をしているから、
記憶にのこる体験につながっている。
このまえわたしが外国にいったのは、
ちょうどいちねんまえに
タイのチェンマイマラソンに参加したときだ。
レースのあと5日ほど観光したけど、
角田さんの旅行のようなすごしかたではない。
なんといってもみじかい日程だし、
角田さんのスタイルにあこがれながらも
わたしはどうしてもしゃかしゃかうごきまわってしまう。
このごろおもうのは、
ほとんどのことにこたえはないということだ。
どっちをえらんでも正解であり、失敗でもある。
旅行にもこたえがない。
どんな旅行をしてもまちがいではないわけで、
それだけにそのひとの全人格があらわれる。
角田さんの本をよんで、
しらない国のしらない町にでかけたくなった。
2012年12月06日
『梅棹忠夫「知の探検家」の思想と生涯』生粋のパイオニア
『梅棹忠夫「知の探検家」の思想と生涯』(山本紀夫・中公新書)

2010年に亡くなった梅棹忠夫氏の生涯をふりかえった本だ。
梅棹さんが亡くなってから、たくさんの本が出版されたものの、
生涯全体についてふれたものはこれまでなかった。
こういう本がいつ出版されるのか、
たのしみにまっていたところだ。
著者の山本氏は学生のころから梅棹さんとしたしくしされており、
「みんぱく」の教授としてもながねん梅棹さんと仕事をともにしている。
膨大な梅棹さんの業績を、ときには主観のはいった解説をまじえながら
できるだけ客観的に、わかりやすくまとめることは
たいへんな作業である。
本書では、「文明の生態史観」「妻無用論」などの
おもだった論文が紹介されているほか、
アジテーターとしての梅棹さんの一面、
また、研究経営者としてのきびしい要求など、
梅棹さんがかかわってきたおおくの分野における業績と生涯が、
ひじょうにわかりやすくしめされている。
この本にかいてあるように、
おおくのことがらに関心をむける梅棹さんの生涯は
いっけん「うつり気」にもみえる。
しかしそれは中途半端に研究対象をかえたからではない。
「うつり気に見えるのは、梅棹が、
なしとげた仕事に対して厳しい反省と吟味をくわえ、
つぎつぎのあらたな展望をきりひらいたいったからにほかならない」(P206)
盤をいっぱいにつかってあちこちに石をおき、
おおくの局面に展開する碁をうっているようだと、
梅棹さんご自身がたとえている。
それらはおたがいに無関係に存在する石ではなく、
すて石にみえる局面もあとから意味をもってきて、
やがては壮大な作品としての全体像をしめす。
この本にかいてあることは、梅棹さんをしるものにとって
とりわけ目あたらしい内容があるわけではない。
でありながら、こうした本が出版され、
梅棹さんの全体像が理解されやすくなったことは
たいへん意味があることだとおもう。
梅棹さんは、けっきょく生涯をつうじてのパイオニアだった。
「わたしたちにとって、意味をもつのは、
ファースト・トレースだけである。
二番せんじは、くそくらえ、だ」
「開拓者としていきることにのみ、
真のいきがいをもとめえたのであった。(中略)
われわれは、なによりも、未知の領域を欲していたのだ」
「未知のものと接したとき、つかんだときは、
しびれるような喜びを感じる。
わが生涯をつらぬいても、
そういう未知への探求ということが、すべてや。
こんなおもしろいことはない」
わかいころから、そして生涯をとじる時期になってもなお、
梅棹さんの好奇心と持続力はおとろえることがなかった。
梅棹さんがのこしてくれた巨大な知の山脈をあがめつつ、
パイオニアであれとする梅棹さんのアジテーションにこたえることが、
梅棹さんの業績にたいする最大の花むけとなる。

2010年に亡くなった梅棹忠夫氏の生涯をふりかえった本だ。
梅棹さんが亡くなってから、たくさんの本が出版されたものの、
生涯全体についてふれたものはこれまでなかった。
こういう本がいつ出版されるのか、
たのしみにまっていたところだ。
著者の山本氏は学生のころから梅棹さんとしたしくしされており、
「みんぱく」の教授としてもながねん梅棹さんと仕事をともにしている。
膨大な梅棹さんの業績を、ときには主観のはいった解説をまじえながら
できるだけ客観的に、わかりやすくまとめることは
たいへんな作業である。
本書では、「文明の生態史観」「妻無用論」などの
おもだった論文が紹介されているほか、
アジテーターとしての梅棹さんの一面、
また、研究経営者としてのきびしい要求など、
梅棹さんがかかわってきたおおくの分野における業績と生涯が、
ひじょうにわかりやすくしめされている。
この本にかいてあるように、
おおくのことがらに関心をむける梅棹さんの生涯は
いっけん「うつり気」にもみえる。
しかしそれは中途半端に研究対象をかえたからではない。
「うつり気に見えるのは、梅棹が、
なしとげた仕事に対して厳しい反省と吟味をくわえ、
つぎつぎのあらたな展望をきりひらいたいったからにほかならない」(P206)
盤をいっぱいにつかってあちこちに石をおき、
おおくの局面に展開する碁をうっているようだと、
梅棹さんご自身がたとえている。
それらはおたがいに無関係に存在する石ではなく、
すて石にみえる局面もあとから意味をもってきて、
やがては壮大な作品としての全体像をしめす。
この本にかいてあることは、梅棹さんをしるものにとって
とりわけ目あたらしい内容があるわけではない。
でありながら、こうした本が出版され、
梅棹さんの全体像が理解されやすくなったことは
たいへん意味があることだとおもう。
梅棹さんは、けっきょく生涯をつうじてのパイオニアだった。
「わたしたちにとって、意味をもつのは、
ファースト・トレースだけである。
二番せんじは、くそくらえ、だ」
「開拓者としていきることにのみ、
真のいきがいをもとめえたのであった。(中略)
われわれは、なによりも、未知の領域を欲していたのだ」
「未知のものと接したとき、つかんだときは、
しびれるような喜びを感じる。
わが生涯をつらぬいても、
そういう未知への探求ということが、すべてや。
こんなおもしろいことはない」
わかいころから、そして生涯をとじる時期になってもなお、
梅棹さんの好奇心と持続力はおとろえることがなかった。
梅棹さんがのこしてくれた巨大な知の山脈をあがめつつ、
パイオニアであれとする梅棹さんのアジテーションにこたえることが、
梅棹さんの業績にたいする最大の花むけとなる。
2012年12月05日
「ブログとはなにか」かんがえだすとややこしいブログの意味
ブログをかくことについて、
はじめはなんの問題意識もなかった。
おもったこと、かきたいこと、やったことをかけばいい。
よんでくれるひとはそんなにいないだろうから、
日記みたいなものという、気らくなスタートだ。
ちかい将来に、介護事業所をはじめようとおもっていたので、
そこのサイトをたちあげたときの
コンテンツになればいい、というねがいもあった。
7月になんとか事業所がたちあがり、
そのサイトに自分のブログをリンクしたので、
はじめにかんがえていた目的は、はたすことができた。
そのうちに、「自分のブログとはなにか」について
かんがえるようになる。
なんでもありの雑多なブログに、
なんの意味があるのか、という問題意識だ。
児童デイや読書に、テーマをしぼったほうがいいのだろうか。
「シゴタノ!」の佐々木さんは、総合ブログというスタイルはおかしいという。
「好きなことが格好悪くても中途半端でも、
テーマをとりあえず1つピックアップして、
あとは見せ方で実験したらいいいと思うのです」
というかんがえ方だ。
わたしのブログなんかまさにそれで、
どれもが中途半端なかかわりしかないことから
テーマをひとつにしぼることができず、
日記だかなんだかわからないものになっている。
それでいい、とひらきなおって1年ほどつづけてきたけれど、
最近になってまよいがでてきた。
サイトのコンテンツとしてどうあるべきか、
また、自分はブログでなにをかきたいのか、ということだ。
いちどはじめてしまうと、
なんだかやすむのがもったいなくなり、
毎日の更新をこれまでつづけてきた。
では、これからさきわたしはどうしたいのだろう。
スタートしたときに、目標の設定がはっきりしてなかったので、
いまになってわけがわからなくなってきたのだ。
「シゴタノ!」には
「どんな情報にも需要はある」ともかいてあった。
かくほうがいろいろとかんがえたところで、
よむほうは検索の結果そのページにたどりついたわけであり、
その意味では雑多なブログも需要をみたしている、ということができる。
ブログをかくたのしさ、つづけるよろこびというのがたしかにあるので、
いまさら目標がどうのと頭をかかえこまず、
これまでのように、かきたいことをかこうとおもう。
また、ブログはできればたくさんのひとに
よんでほしいのはもちろんだけど、
将来の自分にむけてかく、という意味あいもある。
このまま死ぬまでつづけることができれば、
それはそれでいい冥土のみやげになりそうだ。
はじめはなんの問題意識もなかった。
おもったこと、かきたいこと、やったことをかけばいい。
よんでくれるひとはそんなにいないだろうから、
日記みたいなものという、気らくなスタートだ。
ちかい将来に、介護事業所をはじめようとおもっていたので、
そこのサイトをたちあげたときの
コンテンツになればいい、というねがいもあった。
7月になんとか事業所がたちあがり、
そのサイトに自分のブログをリンクしたので、
はじめにかんがえていた目的は、はたすことができた。
そのうちに、「自分のブログとはなにか」について
かんがえるようになる。
なんでもありの雑多なブログに、
なんの意味があるのか、という問題意識だ。
児童デイや読書に、テーマをしぼったほうがいいのだろうか。
「シゴタノ!」の佐々木さんは、総合ブログというスタイルはおかしいという。
「好きなことが格好悪くても中途半端でも、
テーマをとりあえず1つピックアップして、
あとは見せ方で実験したらいいいと思うのです」
というかんがえ方だ。
わたしのブログなんかまさにそれで、
どれもが中途半端なかかわりしかないことから
テーマをひとつにしぼることができず、
日記だかなんだかわからないものになっている。
それでいい、とひらきなおって1年ほどつづけてきたけれど、
最近になってまよいがでてきた。
サイトのコンテンツとしてどうあるべきか、
また、自分はブログでなにをかきたいのか、ということだ。
いちどはじめてしまうと、
なんだかやすむのがもったいなくなり、
毎日の更新をこれまでつづけてきた。
では、これからさきわたしはどうしたいのだろう。
スタートしたときに、目標の設定がはっきりしてなかったので、
いまになってわけがわからなくなってきたのだ。
「シゴタノ!」には
「どんな情報にも需要はある」ともかいてあった。
かくほうがいろいろとかんがえたところで、
よむほうは検索の結果そのページにたどりついたわけであり、
その意味では雑多なブログも需要をみたしている、ということができる。
ブログをかくたのしさ、つづけるよろこびというのがたしかにあるので、
いまさら目標がどうのと頭をかかえこまず、
これまでのように、かきたいことをかこうとおもう。
また、ブログはできればたくさんのひとに
よんでほしいのはもちろんだけど、
将来の自分にむけてかく、という意味あいもある。
このまま死ぬまでつづけることができれば、
それはそれでいい冥土のみやげになりそうだ。
2012年12月04日
「ほっこり」「がっつり」がきらい。「紡ぐ」もいやだ
「そうなんですね」とあいづちをうたれるのがゆるせない、という
三浦しをんさんの語感が「WEB本の雑誌」で紹介されている
(『お友だちからお願いします』)。
たとえば自分の失敗を説明したときに、
三浦さんが期待するあいづちは「そうですか」または「そうですね」なのに、
「そうなんですか」といわれると、つかみかかりたくなるそうだ。
たしかに「そうなんですね」はなんとなく責任があいまいでイヤなかんじだ。
「WEB本の雑誌」には「そうなんですね」がオトナ語であり、
円滑なコミュニケーションのためのいいまわしということも紹介してある。
と、三浦さんの発言をもちだしたのは、
もちろん自分の語感を正当化したいまえおきのためだ。
わたしは「ほっこり」「がっつり」がいやでしかたがない。
それに「つむぐ」もきらいだ。
ふるいところでは「リアルタイム」にもイライラする。
「ほっこり」「がっつり」は、まあはやりことばみたいなもので、
イメージはわかるがそれにすぐのっかって
すぐに「ほっこり」といいだす感覚がすきではない。
「つむぐ」からは、なんだか倫理的なかんじをうける。
情緒的にうったえて、反論をうけつけないこざかしさがある。
「リアルタイム」はずいぶんまえから耳にすることばだ。
でも、ほんとはなんのことだろう。
わかったようでじつは意味不明なこのことばをきくと、
とたんにその文章への信頼がゆらいでしまう。
わざわざ「リアルタイム」なんて、かっこうつける必要があるのか。
まえから気になっていたことばに「いやし」があり、
この10年で、ずいぶん繁殖したようにかんじている。
みんなそんなにいやされたいのか。
「いやし系」とか「いやされますねー」なんて
ひどくうすっぺらなことばが、
なんでこんなにはびこったのだろう。
三浦さんに登場してもらい、いいわけするまでもなく、
わたしの語感はかなり許容範囲がせまく、
すき・きらいがすぐにわかれてしまう。
趣味の問題でしかないので、きらいなことを、
ただきらいだといいはなつだけでは
中年オヤジのはなつ、アブクみたいなものだ。
いろいろと理由をつけても、けっきょくは生理的なことなので、
どちらがただしいというはなしではない。
ただ、自分のつかうことばに制限をかけ、
たとえば「ほっこり」に反応してしまう語感をだいじにして、
何年かさきによんだときにも賞味期限がきれない文章でありたい
(「地球にやさしい」もきらいだった。
ほかにもまだたくさんありそう)。
三浦しをんさんの語感が「WEB本の雑誌」で紹介されている
(『お友だちからお願いします』)。
たとえば自分の失敗を説明したときに、
三浦さんが期待するあいづちは「そうですか」または「そうですね」なのに、
「そうなんですか」といわれると、つかみかかりたくなるそうだ。
たしかに「そうなんですね」はなんとなく責任があいまいでイヤなかんじだ。
「WEB本の雑誌」には「そうなんですね」がオトナ語であり、
円滑なコミュニケーションのためのいいまわしということも紹介してある。
と、三浦さんの発言をもちだしたのは、
もちろん自分の語感を正当化したいまえおきのためだ。
わたしは「ほっこり」「がっつり」がいやでしかたがない。
それに「つむぐ」もきらいだ。
ふるいところでは「リアルタイム」にもイライラする。
「ほっこり」「がっつり」は、まあはやりことばみたいなもので、
イメージはわかるがそれにすぐのっかって
すぐに「ほっこり」といいだす感覚がすきではない。
「つむぐ」からは、なんだか倫理的なかんじをうける。
情緒的にうったえて、反論をうけつけないこざかしさがある。
「リアルタイム」はずいぶんまえから耳にすることばだ。
でも、ほんとはなんのことだろう。
わかったようでじつは意味不明なこのことばをきくと、
とたんにその文章への信頼がゆらいでしまう。
わざわざ「リアルタイム」なんて、かっこうつける必要があるのか。
まえから気になっていたことばに「いやし」があり、
この10年で、ずいぶん繁殖したようにかんじている。
みんなそんなにいやされたいのか。
「いやし系」とか「いやされますねー」なんて
ひどくうすっぺらなことばが、
なんでこんなにはびこったのだろう。
三浦さんに登場してもらい、いいわけするまでもなく、
わたしの語感はかなり許容範囲がせまく、
すき・きらいがすぐにわかれてしまう。
趣味の問題でしかないので、きらいなことを、
ただきらいだといいはなつだけでは
中年オヤジのはなつ、アブクみたいなものだ。
いろいろと理由をつけても、けっきょくは生理的なことなので、
どちらがただしいというはなしではない。
ただ、自分のつかうことばに制限をかけ、
たとえば「ほっこり」に反応してしまう語感をだいじにして、
何年かさきによんだときにも賞味期限がきれない文章でありたい
(「地球にやさしい」もきらいだった。
ほかにもまだたくさんありそう)。
2012年12月03日
電子書籍と紙の本。ポイントは「どちらが便利か」
電子書籍元年といわれながら、
いまだに決定的にはひろまらない電子書籍。
わたしも、ちかぢかかうだろうとおもいながら、
これまで一冊も手をだしたことがない。
末端については、楽天やアマゾン、それに朝日新聞までも新商品をだし、
値段がじゅうぶんこなれてきたのに、
肝心の電子書籍がうれないのはなぜか。
けっきょく、佐々木正美さんが「シゴタノ!」にかいておられる
「便利ならみんなが使う」につきるとおもう。
地図や辞書は、すでにあたりまえのこととして
電子書籍にうつっている。
電子辞書と紙の辞書をくらべてみて、
などとあらためていうまでもなく、
携帯性において電子辞書が圧倒的に便利だからだ。
そして、ほかの分野では便利さを強調できないのでひろまらない。
「このなかに何千冊はいります」といわれても
アドバンテージにかんじるひとばかりではない。
ぶあつい本をもちはこぶ必要がないといわれても、
それが本にせっするよろこびというひともいる。
紙の本がこんなにも強敵だったとは、
電子書籍業界も手をやいているのではないか。
このまま本と電子書籍が併存していれば、
そのうちすみわけがすすんで、
おさまるところがきまってくるのだろう。
小説は紙で、新書は電子書籍、というかんじでの
ジャンルによるすみわけだ。
マンガ(コミック)はいかにも電子書籍にむいていそうだし、
参考書やマニュアルも、すぐに辞書をひける電子書籍のほうがよさそうだ。
そんなことはまえからわかっていたはず、ともいえる。
それがなかなか流通しないのは、
出版界の事情が左右しているのだろう。
いまはあまりにもコンテンツがすくないので、
この状態で電子書籍のメリットを主張しても
消費者としては賛同することができない。
圧倒的なメリットとなるのは
値段よりも便利さだろう。
いちどその快楽をしったら、もうあとにはもどれない、
くらいの便利さを体験させてもらいたい。
個人全集なんかどうだろう。
村上春樹の関係書籍が全部はいってます、というキンドルが
5万円でうりださたらほしくなりそうだ。
そうやってユーザーのこころをつかむ商売をまずやってみればいいのに。
いまだに決定的にはひろまらない電子書籍。
わたしも、ちかぢかかうだろうとおもいながら、
これまで一冊も手をだしたことがない。
末端については、楽天やアマゾン、それに朝日新聞までも新商品をだし、
値段がじゅうぶんこなれてきたのに、
肝心の電子書籍がうれないのはなぜか。
けっきょく、佐々木正美さんが「シゴタノ!」にかいておられる
「便利ならみんなが使う」につきるとおもう。
地図や辞書は、すでにあたりまえのこととして
電子書籍にうつっている。
電子辞書と紙の辞書をくらべてみて、
などとあらためていうまでもなく、
携帯性において電子辞書が圧倒的に便利だからだ。
そして、ほかの分野では便利さを強調できないのでひろまらない。
「このなかに何千冊はいります」といわれても
アドバンテージにかんじるひとばかりではない。
ぶあつい本をもちはこぶ必要がないといわれても、
それが本にせっするよろこびというひともいる。
紙の本がこんなにも強敵だったとは、
電子書籍業界も手をやいているのではないか。
このまま本と電子書籍が併存していれば、
そのうちすみわけがすすんで、
おさまるところがきまってくるのだろう。
小説は紙で、新書は電子書籍、というかんじでの
ジャンルによるすみわけだ。
マンガ(コミック)はいかにも電子書籍にむいていそうだし、
参考書やマニュアルも、すぐに辞書をひける電子書籍のほうがよさそうだ。
そんなことはまえからわかっていたはず、ともいえる。
それがなかなか流通しないのは、
出版界の事情が左右しているのだろう。
いまはあまりにもコンテンツがすくないので、
この状態で電子書籍のメリットを主張しても
消費者としては賛同することができない。
圧倒的なメリットとなるのは
値段よりも便利さだろう。
いちどその快楽をしったら、もうあとにはもどれない、
くらいの便利さを体験させてもらいたい。
個人全集なんかどうだろう。
村上春樹の関係書籍が全部はいってます、というキンドルが
5万円でうりださたらほしくなりそうだ。
そうやってユーザーのこころをつかむ商売をまずやってみればいいのに。
2012年12月02日
箇条がきにするとわるくない男なのに
角田光代の『薄闇シルエット』をよんでいたら、
いっしょにくらしている男が、
家事を全然やらないのでわかれた、という箇所にさしかかった。
そういう例をきくたびに
「わたしならなんでもやるのに」と歯がゆくおもう。
もしわたしが仕事をしていなければ、
専業主夫として炊事・洗濯・掃除をぜんぶやってもいいし
(やしなってくれるなら)、
ふたりともはたらくのなら
できることを分担というやり方でもいい。
家事や身のまわりのことができない男なんて、
角田光代の本みたいに、ほっとけばいいのだ。
以前からうすうすかんじていたことだけど、
自分の特徴を箇条がきにすると
わたしはすごくいい男のような気がする。
・タバコをすわない
・お酒はたしなむ程度
・かけごとをしない
・家事しごとをいとわない
・ネコをかわいがるのがじょうず
・あまりこまかいことをいわない
でも、それらは女性にとってあまり重要でない項目のようで、
これまでの人生でたかい評価をうけたおぼえがない。
そんなことよりも、「高収入」という条件が
なによりも強力なカードとなっているのだろう。
以前ほとんど初対面のひとから、しかも2人に、
「おみあい」みたいなことをもちかけられたことがある。
しりあいの女性に紹介したい、というもので、
けしてあやしいひとからの提案ではなかった。
町をあるいていても、道をきかれることがおおいので、
きっとわたしは「わるいひとではない」
という雰囲気をにじませているのだろう。
そして、だんだんわたしの実情をしるにつれて
マイナスにみえる部分がふえるのだと分析している。
また、いい情報だけでなく、わるい面を箇条がきにすると
魅力がいっきになくなっている可能性もある。
・あまりあかるい性格とはいえない
・なんだかんだいって自分のことを大切にしすぎ
でも、もちろん程度問題だけど、
どちらもそう極端ではないとおもってはいる。
客観的にいって、決定的にかけているのは
安定した高収入と長期的な将来展望だ。
すぐに仕事をかえるわけではないが、
かといってずっとつづける根気づよさもない。
突然「仕事をやめる」なんていいだしかねないあぶなっかしい男は
女性にとってパートナーの対象外なのかもしれない。
ただ、わたしはおおくの女性にたかい評価をうけたいわけではない。
なかにはわたしのよさ(あるいは「わるくなさ」)に
もうすこしたかい点をつけるひとがいてもいいだろうに、
というささやかなねがいをもっているだけなのに。
ありえるのは、
本人が気づいていないだけで、家事や悪癖うんぬんよりも
じつは人間的にぜんぜん魅力がない、という残念な事態だ。
もしそうなら、いまさらどうしようもないので
あきらめるしかない。
「人生はトータルだ」と
かのオシムさんがおしえてくれた。
人生のおわりにはちゃんと勘定があうように、
これからのわたしはジワジワと
「わたしのよさ」をみとめられるようになるだろうか。
いっしょにくらしている男が、
家事を全然やらないのでわかれた、という箇所にさしかかった。
そういう例をきくたびに
「わたしならなんでもやるのに」と歯がゆくおもう。
もしわたしが仕事をしていなければ、
専業主夫として炊事・洗濯・掃除をぜんぶやってもいいし
(やしなってくれるなら)、
ふたりともはたらくのなら
できることを分担というやり方でもいい。
家事や身のまわりのことができない男なんて、
角田光代の本みたいに、ほっとけばいいのだ。
以前からうすうすかんじていたことだけど、
自分の特徴を箇条がきにすると
わたしはすごくいい男のような気がする。
・タバコをすわない
・お酒はたしなむ程度
・かけごとをしない
・家事しごとをいとわない
・ネコをかわいがるのがじょうず
・あまりこまかいことをいわない
でも、それらは女性にとってあまり重要でない項目のようで、
これまでの人生でたかい評価をうけたおぼえがない。
そんなことよりも、「高収入」という条件が
なによりも強力なカードとなっているのだろう。
以前ほとんど初対面のひとから、しかも2人に、
「おみあい」みたいなことをもちかけられたことがある。
しりあいの女性に紹介したい、というもので、
けしてあやしいひとからの提案ではなかった。
町をあるいていても、道をきかれることがおおいので、
きっとわたしは「わるいひとではない」
という雰囲気をにじませているのだろう。
そして、だんだんわたしの実情をしるにつれて
マイナスにみえる部分がふえるのだと分析している。
また、いい情報だけでなく、わるい面を箇条がきにすると
魅力がいっきになくなっている可能性もある。
・あまりあかるい性格とはいえない
・なんだかんだいって自分のことを大切にしすぎ
でも、もちろん程度問題だけど、
どちらもそう極端ではないとおもってはいる。
客観的にいって、決定的にかけているのは
安定した高収入と長期的な将来展望だ。
すぐに仕事をかえるわけではないが、
かといってずっとつづける根気づよさもない。
突然「仕事をやめる」なんていいだしかねないあぶなっかしい男は
女性にとってパートナーの対象外なのかもしれない。
ただ、わたしはおおくの女性にたかい評価をうけたいわけではない。
なかにはわたしのよさ(あるいは「わるくなさ」)に
もうすこしたかい点をつけるひとがいてもいいだろうに、
というささやかなねがいをもっているだけなのに。
ありえるのは、
本人が気づいていないだけで、家事や悪癖うんぬんよりも
じつは人間的にぜんぜん魅力がない、という残念な事態だ。
もしそうなら、いまさらどうしようもないので
あきらめるしかない。
「人生はトータルだ」と
かのオシムさんがおしえてくれた。
人生のおわりにはちゃんと勘定があうように、
これからのわたしはジワジワと
「わたしのよさ」をみとめられるようになるだろうか。
2012年12月01日
ガンバついにJ2降格
ガンバ降格
第34節ガンバ大阪対ジュビロ磐田。
こんなに緊張して試合開始をまったことはない。
試合まえのインタビューで遠藤は、
「まあ残留しておわりたいとおもいます」と
いつものように淡々とはなす。
ほんとにそうなればいいけど。
ガンバはもう自力残留はないので、
この試合にかったうえで、他会場の結果まちというつらい状況だ。
こんな地位にガンバがいることをだれもが不思議がるのに、
とうとう最終節まで降格圏からあがることがなかった。
ACLに優勝し、マンUとまでたたかったチームが
J2におちようとしてるなんて。
磐田も開幕当初こそいい位置につけていたものの、
この8試合かちなしとげんきがない。
ガンバとしたら対戦相手にめぐまれたというべきだろう。
ガンバ・ジュビロとも、2人ずつのA代表がいながら
下位に低迷しているへんなチームだ。
前半5分にあっけなくジュビロが先制点をあげる。
なんとなくゆるいまもりになったところに、
ボールが不運なころがり方でゴールにはいる。
今年のガンバを象徴するような失点だ。
ジュビロはなんでこんなにがんばるんだ、と
不思議なくらいまえからのプレッシャーをかけてボールを支配する。
ガンバはボールをまえにはこべない。
ジュビロの山田大記がさえてるのにくらべ、
遠藤にパスミスがおおい。
「このままいくとガンバは降格です」と
アナウンサーがなんどもくりかえすのがいやなかんじだ。
駒野が精度のたかいクロスをあげてくる。
代表のときの駒野のクロスはこころづよいが、
この試合での精度のたかさはこまったものだ。
それでも後半8分に倉田がゴールまえでねばったすえ、
角度のないシュートをみごとにきめる。同点。
それをきっかけにガンバの攻撃が機能しはじめる。
しかし、それ以降なかなかゴールをわれない。
おしいシュートがなんどもはずれる。
34分にレアンドロのヘディングシュートがクロスバーにあたる。
その直後に、ぶあついせめで
何本もたてつづけに決定的なシュートをはなつが、
どうしても得点にむすびつかない。
遠藤のヘディングシュートがきまった、とおもったら、
オフサイドだった。
この攻撃がきまらなかったのがすべてだった。
その直後にジュビロの小林が、ちょうど倉田のゴールとおなじように
角度のないところからみごとにきめる。2−1とジュビロのかちこし。
そのあとのガンバは、ロングボールをいれるだけのいただけないせめになる。
最後の最後にガンバらしくない攻撃しかできなかったのも、
今年のガンバを象徴しているというべきだろうか。
ロスタイム4分がすぎ、審判の笛がふかれる。
ガンバがJ2でどんな活躍をするかたのしみ・・・、なわけはなく、
まさかとおもっていたわるい予感が
現実になってしまったことにボー然となる。
けっきょく今年のガンバは、
開幕からずっと下位に低迷し、最後までちぐはぐさをのこしたままだった。
開幕当初は、いくらまけがこんだとはいえ、
そこはなんといってもガンバなので、
いつかはたてなおしてくるだろうと、
おおくのひとが本気では心配していなかったはずだ。
それなのに、すっきりしない試合がいつまでもつづき、
ズルズルと下位にとどまったままでうえにあがれない。
やっと元気がでたかとおもえる試合があっても、それがつづかない。
そうしてだんだんと、ほんとうに降格の危機がささやかれるようになり、
蟻地獄みたいにどうやっても降格圏からあがれなくなった。
そして、ほんとうに降格してしまったのだ。
負のスパイラルにはいってしまったのは、いつだったのだろう。
残留あらそいの渦にまきこまれると、
こんなにもぬけだせないものなのか。
あのメンバーがJ2で試合をしたらどんなことになるだろう。
ガンバの試合をまさか鳥取でみれるようになるとは。
もうひとつの降格チームはヴィッセル神戸となる。
サンフレッチェ広島に0−1でやぶれた結果だ。
ヴィッセルの大久保がしばらくまえのインタビューで
「ガンバの残留はくるしい」なんてエラソーなことをいっていたので
ざまーみろ、という気になる。
前節まで17位だった新潟は、4−1で札幌にかったため、
するするっとうえにあがり、なんと残留という結果をえた。
ガンバがまけたばっかりに、
新潟としてはねがってもないかたちで
いきのびることができた。
ガンバの降格は、おおきな波紋をうむだろう。
メンバーがばらばらになったりすると、
ガンバらしいカラーを発揮できなくなる。
とはいえ降格したチームはどこもおなじようなきびしい状況を経験してきたわけで、
ガンバも頭をきりかえて状況をたてなおしていくしかない。
J2のガンバって、なかなかなじめそうにないけど、これからも応援するしかない。
第34節ガンバ大阪対ジュビロ磐田。
こんなに緊張して試合開始をまったことはない。
試合まえのインタビューで遠藤は、
「まあ残留しておわりたいとおもいます」と
いつものように淡々とはなす。
ほんとにそうなればいいけど。
ガンバはもう自力残留はないので、
この試合にかったうえで、他会場の結果まちというつらい状況だ。
こんな地位にガンバがいることをだれもが不思議がるのに、
とうとう最終節まで降格圏からあがることがなかった。
ACLに優勝し、マンUとまでたたかったチームが
J2におちようとしてるなんて。
磐田も開幕当初こそいい位置につけていたものの、
この8試合かちなしとげんきがない。
ガンバとしたら対戦相手にめぐまれたというべきだろう。
ガンバ・ジュビロとも、2人ずつのA代表がいながら
下位に低迷しているへんなチームだ。
前半5分にあっけなくジュビロが先制点をあげる。
なんとなくゆるいまもりになったところに、
ボールが不運なころがり方でゴールにはいる。
今年のガンバを象徴するような失点だ。
ジュビロはなんでこんなにがんばるんだ、と
不思議なくらいまえからのプレッシャーをかけてボールを支配する。
ガンバはボールをまえにはこべない。
ジュビロの山田大記がさえてるのにくらべ、
遠藤にパスミスがおおい。
「このままいくとガンバは降格です」と
アナウンサーがなんどもくりかえすのがいやなかんじだ。
駒野が精度のたかいクロスをあげてくる。
代表のときの駒野のクロスはこころづよいが、
この試合での精度のたかさはこまったものだ。
それでも後半8分に倉田がゴールまえでねばったすえ、
角度のないシュートをみごとにきめる。同点。
それをきっかけにガンバの攻撃が機能しはじめる。
しかし、それ以降なかなかゴールをわれない。
おしいシュートがなんどもはずれる。
34分にレアンドロのヘディングシュートがクロスバーにあたる。
その直後に、ぶあついせめで
何本もたてつづけに決定的なシュートをはなつが、
どうしても得点にむすびつかない。
遠藤のヘディングシュートがきまった、とおもったら、
オフサイドだった。
この攻撃がきまらなかったのがすべてだった。
その直後にジュビロの小林が、ちょうど倉田のゴールとおなじように
角度のないところからみごとにきめる。2−1とジュビロのかちこし。
そのあとのガンバは、ロングボールをいれるだけのいただけないせめになる。
最後の最後にガンバらしくない攻撃しかできなかったのも、
今年のガンバを象徴しているというべきだろうか。
ロスタイム4分がすぎ、審判の笛がふかれる。
ガンバがJ2でどんな活躍をするかたのしみ・・・、なわけはなく、
まさかとおもっていたわるい予感が
現実になってしまったことにボー然となる。
けっきょく今年のガンバは、
開幕からずっと下位に低迷し、最後までちぐはぐさをのこしたままだった。
開幕当初は、いくらまけがこんだとはいえ、
そこはなんといってもガンバなので、
いつかはたてなおしてくるだろうと、
おおくのひとが本気では心配していなかったはずだ。
それなのに、すっきりしない試合がいつまでもつづき、
ズルズルと下位にとどまったままでうえにあがれない。
やっと元気がでたかとおもえる試合があっても、それがつづかない。
そうしてだんだんと、ほんとうに降格の危機がささやかれるようになり、
蟻地獄みたいにどうやっても降格圏からあがれなくなった。
そして、ほんとうに降格してしまったのだ。
負のスパイラルにはいってしまったのは、いつだったのだろう。
残留あらそいの渦にまきこまれると、
こんなにもぬけだせないものなのか。
あのメンバーがJ2で試合をしたらどんなことになるだろう。
ガンバの試合をまさか鳥取でみれるようになるとは。
もうひとつの降格チームはヴィッセル神戸となる。
サンフレッチェ広島に0−1でやぶれた結果だ。
ヴィッセルの大久保がしばらくまえのインタビューで
「ガンバの残留はくるしい」なんてエラソーなことをいっていたので
ざまーみろ、という気になる。
前節まで17位だった新潟は、4−1で札幌にかったため、
するするっとうえにあがり、なんと残留という結果をえた。
ガンバがまけたばっかりに、
新潟としてはねがってもないかたちで
いきのびることができた。
ガンバの降格は、おおきな波紋をうむだろう。
メンバーがばらばらになったりすると、
ガンバらしいカラーを発揮できなくなる。
とはいえ降格したチームはどこもおなじようなきびしい状況を経験してきたわけで、
ガンバも頭をきりかえて状況をたてなおしていくしかない。
J2のガンバって、なかなかなじめそうにないけど、これからも応援するしかない。