
2010年に亡くなった梅棹忠夫氏の生涯をふりかえった本だ。
梅棹さんが亡くなってから、たくさんの本が出版されたものの、
生涯全体についてふれたものはこれまでなかった。
こういう本がいつ出版されるのか、
たのしみにまっていたところだ。
著者の山本氏は学生のころから梅棹さんとしたしくしされており、
「みんぱく」の教授としてもながねん梅棹さんと仕事をともにしている。
膨大な梅棹さんの業績を、ときには主観のはいった解説をまじえながら
できるだけ客観的に、わかりやすくまとめることは
たいへんな作業である。
本書では、「文明の生態史観」「妻無用論」などの
おもだった論文が紹介されているほか、
アジテーターとしての梅棹さんの一面、
また、研究経営者としてのきびしい要求など、
梅棹さんがかかわってきたおおくの分野における業績と生涯が、
ひじょうにわかりやすくしめされている。
この本にかいてあるように、
おおくのことがらに関心をむける梅棹さんの生涯は
いっけん「うつり気」にもみえる。
しかしそれは中途半端に研究対象をかえたからではない。
「うつり気に見えるのは、梅棹が、
なしとげた仕事に対して厳しい反省と吟味をくわえ、
つぎつぎのあらたな展望をきりひらいたいったからにほかならない」(P206)
盤をいっぱいにつかってあちこちに石をおき、
おおくの局面に展開する碁をうっているようだと、
梅棹さんご自身がたとえている。
それらはおたがいに無関係に存在する石ではなく、
すて石にみえる局面もあとから意味をもってきて、
やがては壮大な作品としての全体像をしめす。
この本にかいてあることは、梅棹さんをしるものにとって
とりわけ目あたらしい内容があるわけではない。
でありながら、こうした本が出版され、
梅棹さんの全体像が理解されやすくなったことは
たいへん意味があることだとおもう。
梅棹さんは、けっきょく生涯をつうじてのパイオニアだった。
「わたしたちにとって、意味をもつのは、
ファースト・トレースだけである。
二番せんじは、くそくらえ、だ」
「開拓者としていきることにのみ、
真のいきがいをもとめえたのであった。(中略)
われわれは、なによりも、未知の領域を欲していたのだ」
「未知のものと接したとき、つかんだときは、
しびれるような喜びを感じる。
わが生涯をつらぬいても、
そういう未知への探求ということが、すべてや。
こんなおもしろいことはない」
わかいころから、そして生涯をとじる時期になってもなお、
梅棹さんの好奇心と持続力はおとろえることがなかった。
梅棹さんがのこしてくれた巨大な知の山脈をあがめつつ、
パイオニアであれとする梅棹さんのアジテーションにこたえることが、
梅棹さんの業績にたいする最大の花むけとなる。