2012年12月31日

『増補版松田聖子論』松田聖子の歌にひめられた時代性

『増補版松田聖子論』(小倉知加子・朝日文庫)

「増補版」というのは、この本がいちばんはじめに出版されたのが
1989年とかなりむかしのことであり、
その最初の原稿に、50歳になった松田聖子、
3度目の結婚がどういう意味をもつのかについてなどを、
あらたにつけくわえられているからである。

「ある日、私の弟が何気なく私にはなした。
『子ども(当時二歳の男児)を車に乗せているときに、
松田聖子の歌が流れてくると、
喜んでおどりだすんだ。
松田聖子の歌には何かあるね・・・』

私語ばかりで講義をきかない短大の女子学生に、
小倉さんは「松田聖子論」のノートをつくって講義をはじめると、
教室がしずまりかえったという。

山口百恵と比較することにより、
松田聖子の本質をあきらかにしたこの本は、
しかし、そうわかりやすいものではない。
行間にこめられた意味を、これでもかとふかくよみとり、
時代のなかでどういう位置づけがあるかを
推察している。
これをきいて教室がしずまりかえるのは、
生徒たちがなんとなくかんじてきた
松田聖子というアイドルが
どんな存在なのかをはっきりとしめしているからだろう。

『両手で聖子』のなかで

「いま、当時の審査員の人に聞いてみると、
『非常に新鮮だった』って。
ほかの人って、オーディションに慣れてるしね、
同じような答えが多いんですよね。
ところが私ときたら、初めてだし、
なんとなく審査に残ってるって感じだから、
おかしかったんでしょうね。
ほんとは楽しんじゃったんですね」

と松田聖子はかたっている。
「私ときたら」なんて、そうとう自意識過剰なことがあらわれており、
よんでいてつよい反発をかんじてしまう。
わたしが絶対にすきにならないタイプの女性だ。
でも、彼女の歌がきらいだったこというと、
あんがい抵抗なく口づさんでもいた。

マレーシアのコタバルという町でなかよくなった
日本人男性の旅行者が、
「松田聖子が日本の歌謡曲にロックをもちこんだ」
とわたしにはなした。
雑多なことをはなしているなかで、
たまたまでてきた話題だったのだろう。
歌謡界にうといわたしには、その意味がよくわからなかったけど、
松田聖子が男の視線だけをかんがえている
ぶりっ子アイドルなのではなく、
それなりの方向性と戦略があることを意識する。

50歳になったいまでも脅威的なわかさをたもち、
女性ばかりではなく男性からの支持もあつめる松田聖子は、
これからもアイドルでありつづけ、
美空ひばりのような国民的歌手となっていくだろう、
と小倉さんは予想している。
1989年にかかれた本の内容のとおりに
その後の松田聖子は世間をおよいできた。
これからも松田聖子は
この本がしめした路線を着実にあゆむのだろう。
芸能人についての考察を
学問にすることに成功した小倉知加子さんの
画期的な一冊である。

posted by カルピス at 18:13 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする