2013年01月31日

ハイジの切手をどうつかうか(つかわないか)

郵便局にいったとき、カウンターにハイジの切手シートがおかれていた。
みかけは「ハイジ」でも、絵が雑な商品がめずらしくないのに、
この切手シートのハイジはほんものだ。
ハイジが、ハイジらしい表情で
ユキちゃんといっしょに花をつんでいたり、
家のまえでヨーゼフとねっころがっていたりする。
かってあついおもいでハイジをみていたもののこころにささる
しあがりになっているのだ。
すぐに1枚もとめ、
すこしまよってから職場用にも1枚かうことにした。
h250123_sheet.jpg
よくかんがえてみると、できがいいだけに、
あまりハイジにたいしておもいいれがつよいと
この切手はつかい方がむつかしい。
つかえば記念品の価値がなくなるし、
つかわない切手はコレクターでなければ意味がない。
「あ、ハイジだ」「かわいい!」くらいにとどめておけるひとでないと、
せっかくもとめても、つかえない種類のかいものだった。
この切手がはられた手紙をうけとったひとは
きっととてもうれしいだろうから、
この切手をつかうぐらい大切な相手、という
つよいメッセージ性があるかもしれない。

この切手シートは
「アニメ・ヒーロー・ヒロインシリーズ」というらしく
ハイジが第19集にあたるそうだ。
これまでに発行された「アニメ・ヒーロー・ヒロインシリーズ」をみると、

1 ポケモン
2 ガンダム
3 銀河鉄道999
4 名探偵コナン
5 エヴァンゲリオン
6 未来少年コナン
7 日本昔話
8 機動警察パトレイバー
9 ゲゲゲの鬼太郎
10 名探偵コナン2
11 NARUTO疾風伝
12 ケロロ軍曹
13 鋼の錬金術師 
14 ちびまる子ちゃん
15 ONE PIECE
16 ベルサイユのばら
17 ドラゴンボール改
18 あらいぐまラスカル
19 アルプスの少女ハイジ

となっており、あまりにも一貫性がないのが気になってくる。
ネットにも「どういう基準でこの切手につかう作品がえらばれているのか」という
質問がのっていた。
「ベストアンサー」として

「以前文化庁のメディア芸術100選に選ばれた作品ばかりなので
そこから人気順とか・・・。」

という解答が紹介されている。
それにしてもあまりにもバラバラな作品群であり、
そう説明されてもすんなり納得できる解答ではない。
ポケモン・ガンダム・999ときて、なんでつぎがエヴァンゲリオンなのか。
そしてそれがまたつぎにコナンにもどるからわけがわからない。
アニメにまったく関心のないひとが、
気まぐれにえらびつづけているシリーズ、というのがわたしの仮説だ。
しかしよくみると、ひろいジャンルから適切にえらばれているような気もしてくる。
シリーズ50集くらいになって
ようやく選考者の意図がみえてくるという
いわば壮大な碁がうたれているのかもしれない。

せっかくかったハイジの切手シートを
わたしはどうつかおうか(あるいは、つかわないか)。
この切手をつかいたくなるような相手があらわれたら、
相手はおかえしにどんな切手をつかってくるだろう。

posted by カルピス at 09:52 | Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月30日

ヨーロッパサッカーにたすけられながら、配偶者にかわって夕食をつくる

配偶者がこおった道でころび、右手首の骨をおった。
4週間まえのことだ。
ぽっきりと、完全におれたわけではないが、
手首周辺のどこかの骨をおったことにはちがいなく、
全治5週間といわれギブスをつけることになった。
たいへんだろうなー、とわたしはおもった。
たいへんだった。わたしも、だ。

ギブスで右手がつかえないので、
料理はぜんぶわたしが担当することになる。
これまでも交代でやってはいたけれど、
配偶者がやすみの日だろうが、
仕事からはやくかえった日だろうが、
わたしがつくらなければならない。
こんなときこそむすこが手つだけばいいや、とはじめはおもった。
うでがつかえない配偶者が、むすこにさしずして、
時間がかかってでも料理をさせたらいいのだ。
たしかに数回はそういう日もあった。
でも、たのむほうも、たのまれるほうも
めんどくさくなったみたいで、
けっきょくはわたしが家にかえるまで
夕食の準備がすすんでいないようになった。

材料は配偶者がかってきてくれる。
まえの晩にわたしがメニューと必要な材料をメモし、
つぎの日の朝配偶者にわたす。
わからないことがあると、仕事中にも確認の電話がかかってくる。
きょうも、ナポリタンにつかうトマトジュースは無塩のものか、
塩をふくんだものがいいのかをきいてきた。
塩がはいっていないほうがいい、とわたしはこたえた。
料理をつくるときも、配偶者にたいしてわたしが指示をだす。
右手がつかえなくても、ヘラでフライパンをかきまぜたり、
味つけしたりと、やれることはたくさんある。
彼女は栄養士で、職場では調理師にむかって
きびしいことをいっているであろう彼女に、
なんちゃって料理しかできないわたしが指図するというのは
あんがい気分のいいものだ。
料理はたしかにつくるひとのこのみが反映されるので、
ふたりがそれぞれ自分流にやるとうまくいかない。
どちらかがリーダーになるほうがよくて、
いまはそれがわたしの役割だ。
このまえクリームシチューをつくるとき、
彼女にホワイトソースをまかせたらうまくいかなかった。
小麦粉がすくなすぎたのだそうだ。
なんだか牛乳スープみたいなクリームシチューができあがり、
これだったら自分ひとりでつくればよかった、とおもった
(配偶者はよんでないだろうな}。
今夜のハンバーグも、いつもだったらもっとパン粉をいれるのに、
配偶者の存在がなんとなくわたしにパン粉の追加をためらわせたので、
「ん?」と首をかしげながらたべるハンバーグになってしまった
(ほんとうに彼女はよんでないだろうか?)。
配偶者の名誉のために補足すると、
仕事としてつくる料理と、
家で家族がたべる料理をつくるのとは、ぜんぜんべつのようだ。
わたしがネコたちに愛想をふりまくくせに、
家族にはほとんどその笑顔をむけないのとよくにている。

食事づくりではメニューをきめるのがたいへんだ、とよくいうけど、
あんがいそういうことはなく、
そのときどきのわたしがつくりたいものをつくる。
すきなものをたべれるのは、それはそれでわるくない。
たいへんなのは、仕事をはやくきりあげなければならないことだ。
仕事から7時にもどって45分ほどで準備し、家族4人で食卓をかこむ。
いまどきどれくらいの家庭で、
家族そろって夕ごはんをたべているだろう。
週2回とかでなく、毎晩というのは、
ほとんどありえないぐらい絵にかいたような団欒風景だ。

しかし、我が家は極端に会話がすくなくて
(なんだかおしゃべりしてはいけないルールがあるかのように)、
団欒にならない。
沈黙にたえかねてわたしはテレビをつける。
このごろはヨーロッパサッカーを
毎日のように放送してるのでとてもたすかる。
わたしはサッカーがすきなので、興味がないわけではなく、
みればそれなりにおもしろい。
とはいえ、プレミアリーグやブンデスリーガの順位や選手について、
とくに知識があるわけではない。
いかにも「ぜったいにみのがせない」みたいに
チャンネルをあわせるのは「沈黙よりまし」だからだ。
試合のもりあがりとともに、なごやかな雰囲気になればいいけど、
そういうわけでもなく、ただ沈黙におしつぶされるのをさけることはできる。
せっかくつくった料理をだまりこくってたべるよりもずっとましで、
2013年の冬を、ヨーロッパサッカーとくっつけて、
わたしはなつかしくおもいだすだろう。
いまブンデスリーガには、なんと10名の日本人選手が所属するようになった。
プレミアリーグでは香川と吉田麻也が活躍しているし、
セリエAにはもちろん長友がいる。
かれらのおかげでどれだけ我が家の夕食がたすけられたことか。
配偶者が手首をケガしたことと、
ヨーロッパサッカーへの日本人選手の大量加入が、
まさか関係するとはおもわなかった。

posted by カルピス at 21:41 | Comment(0) | TrackBack(0) | 配偶者 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月29日

ガンダムにみる資源の重要性

朝日新聞に連載されている
「リレーオピニオン・ガンダムに学ぶ」で、
山田真哉さんが「カネより資源で世界は動く」をよせている。
この企画は、監督論とか交流論とかの、
いろんな視点から「ガンダム」をみていくものだ。
山田さんは経済というきりくちからガンダムをとらえ、

「(ジオンとの)戦争の勝敗を決したのはガンダムの活躍ではなく、
資源の争奪戦でした」

と喝破している。

「戦争の長期化がさけられなくなった時、
ジオンが真っ先に行ったのが、
地球に軍隊を降下させ、
地球の鉱物資源地帯を占領することでした」

というのだから、目のつけどころがさすがにちがう。

いまから35年もまえにつくられた作品が、
すでに資源の欠乏を予測していたなんて、ぜんぜんしらなかった。
でも、ほんとうだろうか。
番組のなかではっきりそうした意図の説明があったわけではなく、
あとからこじつけることはいくらでもできる。

「ガンダムの世界はお金の問題を無視しているのではなく、
本質的には重要でないから描かないだけなのです」

といいきっているところなど、
あんがい山田さんはそうとうなオタクなのかもしれない。

わたしがはじめてガンダムをしったのは
大学1年のころだ。
大阪からきていた同級生が、
むこうですごい人気だったことをおしえてくれた。
こちらでははじめての放映であり、
毎週日曜日の朝7時という、
大学生にとってはしんじられない時間だったのに、
なんとかおきだしてほとんどの話をみたものだ。
ガンダムに特有のいいまわしでふざけたりする、
いまおもえば気もちわるくなるオタクそのものだった。

わたしがガンダムにひかれたのは、
ただ単純にそれまでのロボットものにはない
リアルなうごきがすごかったからだ。
ガンダムとシャーザクという、
これまでみたことがない本物っぽい戦闘シーンにまいったわけで、
資源の争奪戦などにはもちろんまったく気づかず、
セイラさんとかマチルダ少尉とかの、
すきなキャラクターについてはなすにすぎない
無邪気すぎる大学生だった。
そういえば、あのころはニュータイプとはなにかについて
ああだこうだいわれていたのに、
このごろはまったくきかなくなった。
ニュータイプについてふれるのがタブーになったのか
(発達障害の関係とかで)、
それともニュータイプがもはやおどろきでもなんでもない
ふつうの存在になったからなのか。

さいごに山田さんは「アベノミクス」にもふれている。
というか、「アベノミクス」をはじめとする金融よりも、

「原発や代替エネルギーの方がはるかに大事」であり
「ガンダムはそんなことまで私たちに考えさせてくれます」

というから、「アベノミクス」なんてぜんぜん相手にしていない。
ガンダムはすでに35年というある一定の年月をかけて
さまざまな点からチェックをうけてきた実績がある。
きっと「アベノミクス」なんてすぐにずっこけて
歴史のかなたにおきざりにされるのだろう
(日本という国をぼろぼろに疲弊させて)。
ジオン公国は、資源の重要性を認識していたからこそオデッサに手をだした。
35年後にでた「アベノミクス」は、いまなお金融が大切だという。
結果はすぐにあきらかになるだろう。

posted by カルピス at 22:12 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月28日

『卵をめぐる祖父の戦争』レニングラード包囲戦という舞台を、うまく冒険小説にいかしている

『卵をめぐる祖父の戦争』(デイヴィッド=ベニオフ・ハヤカワ文庫)

「つかみ」がすごくうまい。
祖父母の魅力的な人柄をさりげなくかたり、
読者の関心をふたりの過去にむける。
祖父がわかかったころの戦争、
レニングラード包囲戦をめぐっての体験をかたりはじめる。
祖父は、生きのびるためには、
5日以内に1ダースの卵をあつめなければならないという
奇妙な状況においこまれた。
どこかへんだけど、当時のレニングラードでは、
この命令を実行することがどれだけ不可能にちかいかを
読者は冒頭からの状況説明でよく理解しているのでリアリティがある。
よんでいる側はどんどんものがたりにひきこまれる。
ここまでわずか68ページしかかかっていない。

1941年のレニングラード。
ドイツ軍の包囲網にかこまれ、
もう半年も必要な物資がはいらなくなっている。
なにもかもたりない。武器も燃料も、そしてもちろん食料も。
すべての市民がおそろしく腹をすかし、
毒にさえならないのならなんでも口にいれる。
本の背表紙をとめているノリをとかしてつくったキャンディ
(図書館キャンディというのだそうだ)なんてものさえでまわっている。
配給されるパンはいろんなものがまぜてあり、
パンはおろかたべものらしい味さえしない。
ペットはずいぶんまえにたべつくしてしまったし、
いまや人肉にも手をだすひとがではじめている。

そんな状況のレニングラードで、
17歳の少年レフ(わかいころの祖父だ)は
窃盗罪で兵士につかまり、つぎの日にも処刑されそうになる。
おそるおそる朝をまっていると、
脱走の罪で20歳の青年コーリャがおなじ牢獄にはいってきた。
このコーリャがすばらしい。
勇敢な兵士なのに、いつも女のことばかりかんがえている。
17歳のレフを女のことでからかいながら冗談ばかりいう。
ふたりはだんだんいいコンビになってくる。

朝になると、ふたりは軍の大佐のところへつれていかれた。
大佐のむすめが次の週に結婚式をあげる。
そのおいわいにはケーキがどうしても必要で、
ケーキづくりには卵がいる。
大佐は、卵を1ダースもってくることができれば
ふたりの命をたすけるという条件をだした。
大佐の権力をもってしても、
いまのレニングラードでは、卵は手にはいらない。
ほとんど可能性のない命令ではありながら、
それでも2人は卵をさがしにでかけるしかなかった。

絶望的なさむさとうえにくるしむレニングラードをしると、
あたたかな部屋であたたかい酒をのみながら
ねるまえの読書をたのしむことが
どれだけありがたいことかをおもう。
あすの朝がくれば、かならず朝ごはんがまっていて、
なんでもすきなだけたべることができる。
これは、ドイツ軍の包囲戦に
なんとかもちこたえているレニングラードからすれば、
ありえないほどしあわせなことなのだ。
たべものを大切に、と道徳的なことがいいたいのではない。
やせようとダイエットをするひとたちを批判したいわけでもない。
生きる本能として、人間のからだがどれだけ脂をもとめるるかが
このものがたりの前提条件であり、
わたしはみごとにそれにひっかかった。

脂こそが生きのびていく鍵なのだ。
レニングラードの徹底的な飢餓状態は、
町にすむひとの意識をどうかえていったのだろう。
わたしはこの本をよみはじめてから
カロリーのことが頭からはなれない。
本をよみはじめたつぎの朝には、
脂を摂取しようとベーコンエッグをつくり、
そのつぎの日には、バターをたっぷりのせたベイクドポテトをたべた。
脂がすべてだ。生きるためにはなんとしてもカロリーを胃袋にいれるのだ。

2人はどうやって卵を手にいれるか。
そこがまたじょうずにくみたてられていて、
絶対できそうにないこの作戦を2人はやりとげる。
ありえないはずなのにリアリティをもたせているのは、
この小説が飢餓状況という設定をじょうずにいかしているからだろう。
すべてが1941年のレニングラードでしか成立しなかった。
そして、くらく悲惨な戦争という舞台を、それだけにとどめないで
かるさとわらいをもちこむことに成功している。
卵をさがすというメインストーリだけでなく、
そのあいだにはさまれる2人のおしゃべりもよかった。
軽口ばかりたたいているコーリャがいとおしい。
わたしはひさしぶりにミステリーのたのしさをぞんぶんにあじわった。
田口俊樹さんの訳もよく、安心して物語の世界にひたることができた。
おもしろくてチャーミングで若者らしくすがすがしいものがたり。
これはすばらしい小説だ。

posted by カルピス at 22:24 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月27日

ポール=ニューマンよりジョージ=C=スコットがいい味をだしている『ハスラー』

『ハスラー』(1961年・アメリカ)

映画をみていると、おもいついたことや
いいセリフをメモにとりたくなることがある。
まっくらな館内で、どうすればメモができるだろう。
いつももちあるいているメモ帳をひらいて、
てきとうなページにかくしかなく、
かいてあるうえから、またかきこんだり、
めちゃくちゃな字をかいてあとでよめなかったりする。
ボイスメモをつかうわけにもいかない。
ほかのひとはどうやっているのかしりたいものだ。

『ハスラー』をみていておもいついたのは、
たまつきやポーカーにいりびたっているひとの人生観についてだ。
映画のなかで彼らはたいていタバコをくわえ、
ウィスキーをのんでいる。
健康についての意識がたかまっている現代からみると、
いかにもからだにわるそうな生活をつづけているわけで、
そういうひとはどういう人生観をもって
生きているのかをしりたくなった。
健康なんてかんがえたことないし、
おとなの男はそうやって時間をつぶすものだ、
となんの疑問ももっていないような気がする。
「そんなにタバコと酒にひたってると、
あとでツケがまわってきますよ」
なんて忠告してもききいれるようなひとたちではなさそうだ。
現在でも、暴力団などの裏社会で生きるひとたちは
酒とタバコというスタイルをつづけているのだろうか。
あんがい兄貴分のヤクザがわかいのにむかって
「タバコもいいかげんにしないとからだにわるいぞ」とか
「おまえ今年の健康診断はもううけたのか?」なんてきいてたりして。
出世しようとしたら健康はだいじだけど、
でもあんまり健康のことをいう「兄貴」は
あちらの社会ではういてしまいそうだし。

作品についてはあまり印象にない。
ポール=ニューマンは『ハスラー』みたいにわかいころよりも、
『スティング』のゴンドルフくらい
おじさん役のほうが魅力がでるようにおもう。
ゴードン役の俳優がいい味をだしているので、
だれかとおもったら『パットン大戦車軍団』のジョージ=C=スコットだった。
相手を自分のペースにひきこむのがほんとうにうまい。
いるだけで場の中心になってしまうすごい存在感だ。
サラにたいする間のとりかたがみごとで、
10代のころ、あんなふうに女性にせっすることができたらと、
あこがれていたことをおもいだした。
ジョージ=C=スコットがいなかったら、
ずいぶんちがった作品になっていたのではないか。

キューでつかれた球が、しずかに台のうえをすべり、
あらかじめきめられていたみたいに
ポケットにおちるのがすごくセクシーだ。
職場と家と、トレーニング場の三角形だけで生きているわたしは
なんて退屈な人生なのだろう。
映画の影響をうけ、かっこよく球をつく自分を想像しながら
背筋をのばして映画館をでた。

posted by カルピス at 14:10 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月26日

アルジェリア旅行のおもいで

20年まえにアルジェリアにいったことがある。
いった、といってもオランという町に2泊しただけだ。
このときはモロッコ旅行がメインで、
まあせっかくだから、となりのアルジェリアにもいっておこうか、
というノリだったようにおもう。
友だちと2人でラバトにあるアルジェリア大使館にいってビザをとり、
モロッコ側の国境の町ウジダから陸路でアルジェリアにはいった。

旅行者はわたしたちだけなのに、
イミグレーションで2時間くらいまたされる。
わたしの友だちは短気だったので、
まつのにイライラして
「もういくのをやめてかえろう」といいはじめる。
でも、とりやめるにはもったいないほど
ながい時間をすでにまっていた。
その発言からさらにずいぶんたまたされたあとで、
なんとかぶじに国境をこえた。

のりあいタクシーでオランの町にむかう。
オランはまるでマルセイユについたかのような、
うつくしい港町だった。
ホテルをきめてからちかくを散歩する。
港をあるいていたら、兵士がいてすぐにパスポートをチェックされた。
当時はイスラム救国戦線(FIS)が台頭していたころだけど、
内乱はおわっていたし、こんな西のはずれにある町だから、と
治安については全然心配してなかった。
パスポートコントロールはこのときの1回だけだった。

アルジェリアにはいるまえに、
闇両替でモロッコディルハムから
アルジェリアのディナールにかえた。
当時モロッコの通貨ディルハムが
アルジェリアのディナールにたいしてつよく、
闇で2倍くらいに両替してくれた。
2倍のお金があれば、ずいぶん豪遊できるのではないかと期待していた。

でも、アルジェリアにはいってお金をつかってみると、
2倍に換金してくれてやっとふつうのレート、というかんじで、
闇で適正レートに調整しているようなものだった。
ホテルも、モロッコの2倍はらうとおなじランクのホテルになる。
はらわなければ、つまりモロッコにいるつもりで
おなじような料金のホテルにとまったら、
モロッコでの安宿ランクのホテルでしかない。
しらずにはいった1泊目のホテルは、
トイレがつまってながれないし、
ベッドもひどいクッションで、
まともなホテルとはいえないサービスだ。
それにこりて、2泊目はいかにも外国資本がはいってるかんじの(たしか5つ星)
近代的なホテルにうつった。
サービスはいいけど、もちろん値段はたかく、
闇両替をしてないとはらいたくない金額だ。

オランついては、
ハマム(アラビア式公衆浴場)にはいったことと、
「砂漠のバラ」をおみやげにかったことくらいしか
印象にのこっていない。
わざわざアルジェリアにきてまでハマムにいくこともないのに、
よほどすることがなかったのだろう。
モロッコのハマムよりも健康ランド的で、
地元のひととはなしができてたのしかった。
「砂漠のバラ」は友だちがおみやげにほしがったものだ。
日本でかうと、というか、アルジェリア以外でかうと、
かなりたかくつくおみやげだけど、
ここではいろんな形・おおきさのものを
ずいぶんやすくかえる。
とはいえ石みたいなものだから(石そのものか)、
おもたいのでそんなにたくさんかうわけにはいかない。

オランで夕ごはんにはいった食堂は、
旅行者に開放されたばかりの中国をおもわせる、
おおきくてうすぐらいところだった。
ほとんどローストチキンとブライドポテトしかえらぶものがなく、
赤ワインのボトルを注文しても殺風景なテーブルで、
豪遊からはほどとおいディナーだ。
中国を連想したのは、えらぶことができない品ぞろえのわるさからで、
ほかのお店にしても、まるで社会主義国みたいに
色気のない展示のしかただった。

旅行していてあまりたのしい町ではなく
(オランはたしかカミュの『ペスト』の舞台となった町だ)、
けっきょく2泊しただけでモロッコにもどる。
税関で、イスラエル人の女性がはたらいていたことと、
モロッコにはいったときの開放感しかおぼえていない。
アルジェリアをかたるには、
あまりにもふるく、断片的でしかない記憶だけど、
旅行にはあまり魅力のないところだったようにおもう。
ただ、今回の人質事件でアルジェリア全体が
無法地帯みたいにとらえらえるのは残念だ。
いろんなことがはやくおちついて、
人々が安心してくらせる国になることをねがう。

posted by カルピス at 21:27 | Comment(0) | TrackBack(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月25日

たよりの編集にとりくむ

職場でつくる「たより」の編集にとりかかる。
隔月でだそうとしており、今回が3号目だ。
そんなに目あたらしいことばかりがおこるわけではないので、
記事の中心は毎日の活動のようすと、
事業所の特徴としているおもちゃや部屋の紹介となる。
どこになにをかくのか、ある程度きまっており、
そんなになやまなくてもカレンダーがすすめば
自然とできてくる・・・・、
ということはもちろんなく、
毎回それなりに想定外なことがおきて、
発行予定日どおりにいかないのが実情だ。

わたしがきらいな記事に、職員紹介と編集後記があり、
どんなに記事あつめにこまっても、
この2つにはたよらないようにしている。
職員紹介は、ほんの数行のあたりさわりのない「紹介」がほとんどで、
よんでもおもしろくないし、スペースがもったいない。
どうせかくなら腰をすえて紹介してほしいものだ。
編集後記のおおくは「発行日をなかなかまもれなくて・・・」と
いいわけにおわっているものがおおいし、
なんとかたよりができあがった安心感からか、
ひとりよがりでいわずもがなになりやすい傾向がある。
そんなものにわざわざスペースをさくのなら、
本筋とはぜんぜん関係ないことでも、
興味がもてる内容のほうがいいんじゃなか、というのが
職員紹介と編集後記をさける理由だ。

というわけで、今回はあいたページをうめるのに、
放課後デイサービスとはほとんど接点のない
仕事術についてかくことにした。
本業と関係ないといっても、その記事によって
事業所の雰囲気がなんとなくつたわれば、
それはそれで意味がでてくる(ような気がする)。

わたしがすごいとおもった記事に、
『本の雑誌』が創刊されて間がないころの企画がある。
文庫本をビルの屋上から地面にむけてなげ、
どの出版社の本がいちばんつよいかをくらべる、というものだった。
そんなことをして本の価値がきまるわけではないし、
くらべるものさしもはっきりしないので、
そもそもはじめから意味はないのだ。でもおもしろい。
こんな企画がとおるような、
すきまがいっぱいあって自由な事業所だったら、
保護者は安心してわが子をかよわせることができる、
なんておもうわけないか。

本業のかたてまにたよりをつくるのだから、
そんなにエネルギーをかたむける余裕はない。
あんまり気あいをいれすぎずに
サラッとつくってしまうのがひとつのコツだ。
こりすぎて、つかれはてると、なかなかつづかなくなる。
いちねんにたよりを6回だしたとしても、
30号をむかえるのに5年かかるわけで、
わたしがたよりを担当できるのは何号までになるだろう。
ほんの4〜6ページからなるささやかなたよりでも、
そうおもうと、できるだけのことはしておこう、という気になる。

posted by カルピス at 21:42 | Comment(0) | TrackBack(0) | 児童デイサービス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月24日

コリンチャンスのサポーターからなにをまなぶか

『サッカー批評・60号』のコラム
「僕らはへなちょこフーリガン」では、
去年の12月におこなわれた
クラブ・ワールドカップがとりあげられている。
大会の決勝戦では、3万人ともいわれるコリンチアーノ
(コリンチャンスサポーター)が日本におとずれた。
コリンチャンスが世界一になるチャンスはそうないだろうからと、
仕事をやめたり、家や車をうったりして
日本にきたひともいるということだ(あくまでもウワサだけど)。

コラムでは、

「真のMVPは(中略)横浜国際総合競技場を
サンパウロの飛び地にしてしまったあのサポーター」

と、半分本気で応援のものすごさにおどろいているし、
迫力だけでなく、サッカーをみる成熟した目を評価している。

余談ながら、

「それにしても2万とか3万とかって数字も異常すぎる。
ジャンボジェット機100機分だぞ。
ほんとにそんなに飛んだのか?
空港の出国カウンターは大混乱だろ」

という指摘もおもしろい。
ほんとうだ。民族の大移動がおきたこの大会では、
旅行会社や空港など、いつもとちがう状況に
おどろくひとがおおかったのではないか。
2014年のW杯ブラジル大会は、
いったいどんなもりあがりをみせるのだろう。

「チャンスやピンチの歓声も、
目の肥えたサポーターだと
歓声が上がるタイミングが早いんだよな。
なんだかザワザワし始めて、
それが客席に波紋みたく広がって、
歓声や悲鳴になった瞬間、
はっきり目に見えるチャンスやピンチに発展して、
歓声がピークに達した直後、
初めて決定的瞬間がおとずれる・・・」

この点からいえば、日本のサポーターは
まだ運動会の見学レベルだ。
とくに代表戦になると、
サッカーをよくしらない観客がふえるせいか、
まるで「8時だヨ!全員集合」(ふるい!)の
オープニングのコントをおもわせる。
加藤茶や志村けんの一挙一動をみまもる子どもたちみたいに、
わかりやすくはでなプレーにたいして
「わー!」「キャー!」と歓声があがる。

「サポーターも百戦錬磨なんですね」
ということばがしめすように、
ブラジル人のサポーターは年季がはいっている。
サッカーがよくもわるくも
リアルに生活にむすびついているひとたちであり、国なのだ。
たかだかJリーグ20年の歴史しかもたない日本と、
そもそもくらべるほうが失礼というものだろう。

テレビ局についても注文がつく。

「サッカー先進国のTV中継は、
どこかの民放みたいな無駄な前フリ番組がないかわりに、
試合後の再現や分析や論議をするための
後フリ番組にたっぷり時間をかける」

しかし、テレビ局にいくら注文をつけても無駄なので、
サポーターやファンがテレビにたよらずに(SNSなど)
サッカーをたのしむ次世代のサッカーメディアをそだてよう、
というのが「へなちょこフーリガン」の提案だ。

「(お笑い芸人にたよる)ノイズだらけのTVばっかり観てないで
スタジアムにもっと足を運んで、
僕らもサポーター修行に励みましょう」

がいいまとめになっている。
わたしはJリーグのリーグ戦でさえ
まだ1回しかみたことがないささやかなサッカーファンだ。
自分の問題としてとらえられるほど、
特定のチームを熱心に応援したことがなく、
わたしの人生にかけているものがあるとしたら、
それはサポーターとしてのよろこびやかなしみだという予感がある。
運命のチームと、いつ、どんなかたちでであうのだろう。

posted by カルピス at 22:33 | Comment(0) | TrackBack(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月23日

15歳の受験生とどうせっするか

高校受験をひかえたむすこは、
とくにおいこみにはいったようすもなく
いつもとかわらず規則的で怠惰な生活をつづけている。
どうやら「勉強をしない」ときめたようで、
友だちとTVゲームにふけることもおおい。
わたしも「勉強しなさい」とはいわない主義なので、
ここまでなにもいわなかったのだから、
受験だからといって、いまさら勉強についてふれたくはない。

このまえの土曜日には
台所で夕食の準備をするわたしのまえで、
むすことひとりの友だちがずっとTVゲームをしていた。
食事ができあがるまで、
すごくたのしそうにおしゃべりしながらゲームに没頭する。
外国が舞台のシューティングゲームで、
あとからむすこにきくと
「コールオブデューティー」というシリーズのゲームだとおしえてくれた。
「コールオブデューティー」といわれても、
なんのことかわからないので説明をもとめる。
「コールオブデューティー」には
BOシリーズとMWシリーズがあって、と
若干の補足をきいても、やったことがないわたしには
あいかわらず意味不明だ。
ガンダムにたくさんのシリーズがあるように、
そのゲームにもバージョンによっていろいろあるのだろうと、
とりあえず理解することにする。
銃の選択で、レミントンがなんとか、といっていたので
カラシニコフはあるのかたずねると、
いまのシリーズではつかわれておらず、
ただAKの改良型がMWシリーズにはあるのだそうだ。
リアルなシューティングゲームで、たとえゲームのなかでも
ひとをうちころすなんてたのしんでほしくないが、
いまさらそれをいうのもヤボすぎるだろう。

この時期には、家族に受験生がいると、
はれものにさわるようなとりあつかいが必要、とか
夜食をどう工夫しましょうとかが、
以前は社会的な話題になったような気がする。
家族までがそんなに神経をつかわなくても、
と子どもながらにおもったもので、
わたしが受験生のときにはそんな特別あつかいをされたおぼえはないし、
もちろんもとめもしなかった。
いま、むすこがそうした年齢をむかえ、
わがやもいつのまにか「受験生をかかえる家族」だ。
志望校の公立高校にうかるには、
むすこの成績はギリギリなのだそうで、
もしおちたらどうするかと配偶者がきくと
「はたらく」といったのだそうだ(わたしには相談なし)。
さすがに中卒で「はたらく」のは現実的でないので、
すべりどめに私立をうけることにしたようだ(わたしに相談なし)。

合格がむつかしそうなら勉強すればいいとおもうけど、
冒頭にかいたように「勉強しない」ときめたむすこは
これまでとまったくおなじリズムの生活をつづけている。
放課後ははやく家にかえり、テレビかマンガで時間をつぶす。
夜は11時すぎにはあかりがきえており、
受験勉強のけはいはまったくない。
試験はいつかたずねると、「えーと、たしか1月のおわり」と
首をひねりながらむすこはこたえた。

小学校に入学してから中学3年のいままで、
おおむね健康にすごしてきたし、不登校にならなかった。
友だちがあそびにくるし、ネコもよくかわいがってくれるので、
これ以上のことをのぞむのは、親のよくばりだとおもうことにした。
志望校にうからなくても、それは彼がのぞんだことであり、
親がどうこういうべきではないだろう。

わがやはどんな春をむかえるだろう。
できれば健康に、たいくつもふくめて
おもいでぶかい青春期をすごしてくれることをねがう。
あんまりリアルなシューティングゲームにはまらず、
さらっととおりすぎてくれたらいいけど。

posted by カルピス at 21:34 | Comment(0) | TrackBack(0) | 家族 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月22日

ピダハンの魅力的な世界観と言語。文化が言語に影響をあたえる

『ピダハン』(D=L=エヴェレット・みすず書房)

本書は『本の雑誌』で2012年のベスト3にえらばれている。
高野秀行さんも絶賛していたのでたのしみにしていた。

著者は、アマゾンの奥地でくらすピダハンの村に、宣教師として赴任する。
しかし、本書をよんでいると、
宣教師というより言語学者のようだ。
30年以上にわたってピダハンの村でくらし、彼らのことばを研究する。
なぜこのひとはこんなにもピダハン語の習得に執着するのか
はじめは不思議におもえる。
これは、ピダハン語に訳した福音書で伝導するのが協会の方針であり、
そのためにまず必要なのがピダハン語の勉強だったからだ。

著者がおおくのページをさいてピダハン語の特徴を紹介するうちに、
ピダハンの文化が言語に影響をあたえていることがわかる。
たとえば、ピダハンはいとことの婚姻に制限がないので、
「いとこ」という単語をもたない。
右・左という単語もなく、数をかぞえる単語もない。
どうやって右・左をつたえるかというと、
ジャングルをあるいているときに
川の上流が右にまがっているときは「上流にいけ」
といういいかたをするそうだ。
数も、ひとつか、それ以上かがわかればいいという文化では、
こまかな数字のなまえは単語として必要ではない。

単語がすくないからといって、
ピダハンがこころをもたない野蛮人であるわけではない。
おしゃべりをたのしみ、家族をあいし、
勤勉な労働から食料をえる。
ただ、かれらのかんがえ方は
わたしたちの価値観とずいぶんちがうものをふくんでいる。
彼らはほかの民族のくらしをうらやまない。
ほかの言葉をはなすつもりはないし、
物質にめぐまれた生活をとりいれようともしない。
なぜだか彼らは自分たちのくらしに満足しており、
いまがじゅうぶんにしあわせであることをうたがわない。

アマゾンの先住民というと、
まえによんだ『ヤノマミ』にも強烈な印象をうけた。
しかし、ピダハンはヤノマミほど物質文明を拒否するわけではないのに、
自分たちの生活スタイルをうたがわず、
結果としてピダハンのくらしは
本質的なところですこしもかわらない。
文明人が便利な道具をもちこめば、
それをつかうことがあっても、
修理したりくみたてたりという技術をしろうとはしない。
なぜピダハンのこころはこんなにゆるがないのだろう。

ピダハンは、自分がみたこと・直接体験したことしかしんじない。
著者はこれを「直接体験の原則」とよび、
いろいろあるピダハン文化の特色も、
せんじつめていえば、この原則が
ピダハンをピダハンたらしめている最大の要因ととらえている。

この本の圧巻は、第17章の
「伝道師を無神論に導く」だ。
著者がいよいよ自分本来の仕事である伝導をはじめても、
ピダハンは自分がみたことのない神をしんじない。
著者はやがてキリスト教への信仰よりも、
ピダハンの世界観に魅力をかんじるようになる。
原始的な生活をおくっている民族のすべてが
ピダハンのような世界観をもっているわけではない。
非常に強固で、自信にみちていながら
おだやかな彼らのくらしは、非常に魅力的だ。

「ピダハンは類を見ないほど幸せで充足した人々だ。
わたしが知り合ったどんなキリスト教徒よりも、
ほかのどんな宗教を標榜する人々よりも、
幸福で、自分たちの境遇に順応しきった人々であるとさえ、
言ってしまいたい気がする」

わたしたちはなぜ心配し、不安になり、
しあわせをかんじられないのか。
ピダハンの世界観をしると、
根源的なといかけをせずにおれなくなる。

posted by カルピス at 22:31 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月21日

「どうつくる?あしたの商店街」事業所づくりは町づくり

きのうの番組で
スカイツリーのおひざもとにある商店街に
どうやって活気をとりもどせるか、というのをやっていた。
スカイツリーの工事中から商店街をとおるひとがふえ、
完成後のいまはいちにちに数万人がとおっているという。
しかし、そのひとたちはただスカイツリーへいくだけで、
商店街ではなんのかいものもしない。
シャッターをおろした店もおおく、
うりあげがゼロ円の日もめずらしくない、と
インタビューにこたえる店主もいた。

参考にと紹介されたのがイタリアのボローニャと、
アメリカ北東部にある町で、
具体的にそこでおこなわれたとりくみよりも、
すんでいるひとを大切にするという基本的なかんがえ方が
スタジオにあつまった商店街の方々に共感されていた。
観光客がふえればいいというのではなく、
そこでくらすひとたちがしあわせであることが
なによりも大切になってくるという。

わたしだって、たのしい町にすみたいとおもう。
おおきなショッピングセンターばかりにひとがあつまっては
さきのことをかんがえると、
自分たちのいごこちのよさをまずしくしてしまう。
気がるにおしゃべりをのできるお店があったほうが
ぜったいにたのしいので、
自分のすきな店がながくつづけてくれるように
できるだけお客さんになろうとしている。
そのお店があるおかげで、自分の生活もたのしくなっており、
わたしのためにもつぶれてもらってはこまる。

わかいころは古本屋さんをひらきたいと
なんとなくかんがえていた。
古本とカフェをあわせたような店があれば
いごこちよくすごせそうだ。
シャッターをおろした店がめだつふるい商店街に
そんな店ができた。
観光客がとおるような商店街ではなく、
かといって町のひとが頻繁におとずれるような雰囲気でもないので、
すぐにつぶれはしないかと、その存在が気になっている。
できてから10年ちかくになるので、
もう安定した経営になっただろうか。
こういうよくわからなくてややこしそうな店があることは、
自分のため、そして町のためにも意味があるとおもい、
ほんのときどきだけどのぞいてみる。

フェイスブックやツイッターは、こういうときに
おおきなちからを発揮するのではないか。
いい店ならすぐにつぶやいてもらえるし、
「いいね!」があつまってくる。
内容がよくなければ、すぐにわすれられるだろうけど。

商店街にかぎらず、町全体をすみよくするという意味では、
特色があって質のたかい福祉事業所がたくさんあることが
すんでいるひとたちにとって大切になってくる。
事業所としても、自分たちのやりたいことをなんとなくわかってもらえ、
町のひとと日常的にはなしができる関係があれば、仕事にとりくみやすい。
事業所づくりは町づくり、地域づくりが大切といわれるのは
そういう意味がこめられている。
ひとつの事業所ができることはたかがしれているので、
町全体の意識がたかまっていかないと、
障害者がくらしやすい町はそだたない。

ピピみたいなところがあってよかったと、
町のひとからおもってもらえるような事業所になりたい。
事業をはじめるのはあんがいかんたんにできる。
これからは、つづけるための基盤づくりだ。

posted by カルピス at 22:22 | Comment(0) | TrackBack(0) | 児童デイサービス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月20日

表記法の多様性から黒田夏子さんの受賞をよろこぶ

第148回芥川賞を黒田夏子さんが受賞された。
75歳という年齢と、めずらしい文体が話題になっている。
人物名・カタカナ・固有名詞をつかわず、
全文がよこがきという表記法だという。

わたしはまだ黒田さんの作品をよんだことがなく、
どういうかんがえでこの表記法をとりいれられているのかわからない。
ネットで紹介されている受賞作の『abさんご』は

「a というがっこうとb というがっこうのどちらにいくのかと,
会うおとなたちのくちぐちにきいた百にちほどがあったが,
きかれた小児はちょうどその町を離れていくところだったか ら,
a にもb にもついにむえんだった.
その,まよわれることのなかった道の枝を,
半せいきしてゆめの中で示されなおした者は,
見あげたことのなかったてんじょう,
ふん だことのなかったゆか,出あわなかった小児たちの
かおのないかおを見さだめようとして,
すこしあせり,それからとてもくつろいだ」

というかきだしだ。

わたしは梅棹忠夫さんの影響で
できるだけ漢字をつかわずに、
耳できいてわかることばをえらんでかくようになった。
漢字をつかわないのは
漢字がなければいまよりもたくさんのひとに
日本語をつかってもらえるようになるためだ。
そのために、原則として訓よみとなる漢字は
ひらかなでかくようにしている。

あくまでも表記法にかぎってみたときに、
梅棹さんがつくりあげた表記法と、
黒田さんのものがとてもにているのがおもしろい。
ただ、文体としては梅棹さんの文章はひとつひとつがみじかく、
よんでいてとてもわかりやすい。
黒田さんのものは、小説であるために、わかりやすさよりも、
自分の世界をあらわしやすい文体をえらばれるのだろう。
また、ひらがなのつかい方も梅棹さんとはまったくちがうので、
ひらがなのおおい文章になれているわたしでもよみにくい。
漢字をつかわない表記といっても、
これだけのちがいがでることをしらされた。
75歳という年齢から、
敗戦直後のひらがな運動やローマ字運動にかかわられたのかとおもったが、
どうもそうではないようで、文学的な効果からえらばれた表記法のようだ。
梅棹さんと黒田さんという、まったくちがうそだちのおふたりが、
どんなとおまわりをしておなじような表記法をもつにいたったのだろう。

わたしには黒田さんの作品を小説として評価するちからがなく、
今回の受賞については、日本語のかきかたとして、
こうした表記もありなのだ、と
表記法の多様性をおおくのひとに気づかせてくれた点でよろこんでいる。
ひらがなをおおくつかおうが、ローマ字でかこうが、
日本語にはかわりがないことが理解されるようになれば、
これまでのものとはちがう表記法が
あたりまえのものとして市民権をえるかもしれない。

また、こうした表記を、芥川賞の選考委員がよくえらんだものだと感心もした。
漢字がすくない特殊な表記として黒田さんの文章を排除するのではなく、
文学的な魅力という点で公平に評価されたことがすばらしい。

posted by カルピス at 21:36 | Comment(0) | TrackBack(0) | 表記法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月19日

西村賢太氏の「ケダモノの舌」4回目に期待する

朝日新聞の土曜日版に
「作家の口福」というコラムがあり、
ひとりの作家が4回ずつ
食にまつわるエッセイをかいている。
いまは西村賢太氏が「ケダモノの舌」というタイトルで連載中だ。

西村氏のイメージからいっても、
グルメな内容はそぐわない。
1回目は「エサはエサとして」の題で、

「結句食べ物とはその場、その場の
空腹をみたすエサの感覚なのであろう」

というからいかにも西村さん的だ。
西村さんなら、ぜったいにふつうの食エッセイのほうにはむかわないだろうから、
どんな連載になるのかたのしみにしていた。

2回目は自身の日常における食生活の紹介されている。

「外で食べるときは、大抵中華屋で
ラーメンに炒飯か餃子ライス。牛丼屋では特盛乃至カレー。
あとは立ち食いの、不味い天ぷら を載せたお蕎麦(中略)
と云うのがそのローテーションであり、
家における場合はコンビニその他 の弁当、
惣菜パン、インスタントラーメン、
カップ焼きそばを主食にした日々を経てている」

こうした食生活でも、「ショージ君」のように
詩心のあるエッセイをしあげることは不可能ではないが、
西村さんは「そうした”味覚エッセイ”が、私は鼻につくと云うのである」
とはなから否定している。
しかし、量を重視したまずしいローテーションにおどろきはなく、
グルメではないかもしれないが、
いまの日本ではごくふつうの食事といえる。

連載の3回目では
17歳のときにバイトをした洋食店で
まかない食としてだされた白米とみそ汁をおもいだしている。

「味噌汁は、作り立てのものであるだけに、
まだ十分に香り高くて食欲をそそった」

となると、なんだかふつうのグルメエッセイにちかづいてきたかんじだ。
たべものについてかくということは、
いかに「ケダモノの舌」をもってしても
”味覚エッセイ”からぬけだすのはむつかしいのだろうか。
なにをどのようにたべるかは
生理的な欲求をみたすだけにはおさまらず、
かならず文化としての面が顔をだす。
西村さんがいかにグルメからはなれた食をかたろうとしても、
よむほうは、それもまたひとつの食のスタイルとしてからめとる。
なんだかんだいいながら、西村さんだって
けっこうふつうにおいしいものをたべてるじゃない、とわたしはおもった。
4回目は最終階だ。
どれだけ”味覚エッセイ”からはなれられるのかを期待したい。

posted by カルピス at 21:31 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月18日

ストレスの威力

新聞のきりぬきを整理していたら、
「森羅万象みんなストレス因」という記事が目についた。
おもしろそうだとおもうからきりぬいたわけだけど、
内容はすっかりわすれていた。
あらためてよんでみると、ずいぶん興味ぶかいことがかかれている。

記事は、朝日新聞・東京・社会部長である山中季広氏によるものだ。
ストレスを簡単にはかれる装置をかりてきて、
ご自分の日常生活におけるストレスをはかってみると、
いちばんたかい数値をだしたのが
「上司とのやや骨の折れる折衝」だったという。
工事の騒音や退屈な会議よりもたかかったというから、
まったく、仕事ほどストレスなものはない。

記事は、つづいて鹿児島市の内科医である納光弘さんを紹介している。
ご自身が通風になられたことをきっかけに、
なにが尿酸値をあげるのかを納さんは徹底的にしらべられた。
通風というと、プリン体のおおいビールやたまごがわるものにされるけれど、
納さんが自分のからだをつかっての実験によると、
ストレスもそれらにおとらず影響をあたえていたという。
いわゆるストレスだけでなく、
「あすはゴルフ」というわくわく感でさえ
ストレスとなって尿酸値をあげたということだ。

からだにいいとおもわれてきたものもストレスであり、
わるいとおもわれてきたものが、
ストレスよりもまし、ということは、
たとえばタバコもおいしくすえばストレスではないし、
ジョギングや散歩もかえってストレスとなる場合もでてくる。

まったくストレスがないのもまたよくない、
というかんがえ方をよくきくけどほんとうだろうか。
たしかに喜怒哀楽のすべてがストレスとなると
つきあい方がむつかしいけれど、
それはそれでひとつのスタイルでもある。
「適度なストレス」なんてありはしないのだから、
ストレスを徹底的にさけて
なやみもすべてとおざけて生きるのは
人種や性格によってすでに実践しているひともいるはずだ。

「ストレスの威力を知った納医師は、
翌年秋、入院を堺に生き方を変えた。
仕事で無理はしない。無理に断酒もしない。
毎朝、静かに絵筆を動かすようになった」

と記事はむすばれている。

わたしはいま職場でつくるたよりの編集にとりくんでおり、
巻頭をかざる記事があがってこないので、
この1週間あしぶみ状態がつづいている。
なんど催促しても担当者はあやまるばかりで
原稿はできあがらないようだ。

わたしとしては、なんとかはやいことしあげたいけれど、
ちょっと距離をおいてかんがえると、
たかだか発行部数が70部ほどのささやかなたよりであり、
血まなこにとりくむほどのものではないともいえる。
あがってこない原稿のことをかんがえても、
わたしにはどうしようもないことであり、
そんなことをなやみにかかえていては
自分からストレスをもとめるようなものだ。

『ポニョ』をつくるときに、
ラストシーンのあつかいに宮崎さんがいきづまってしまい、
なんにちも作画がすすまないときがあった。
プロデューサーの鈴木さんは、宮崎さんをつつくのではなく、
ただまつことで宮崎さんのアイデアがかたまるのをまっていたという。
もし映画のしあがりがおくれたら、
シャレにならない損害がでるかもしれず、
まつほうとしてはそうとうくるしい時間だったとおもう。
そんなことにくらべれば、
わたしたちのたよりなんてふけばとぶようなものであり、
発行日にこだわってイライラするのは
どうかんがえてもばかげている。

わたしはもう原稿をまつのをあきらめ、
ほかの記事にかえて発行しようときめた。
そうやって、自分がすきなように、たのしいように、
内容をいじれる程度のたよりなのだし、
もともとは原稿をあげないほうがわるいのだから
かなりひどいことをやってもとがめられないだろう。
そうおもうと、こんどはテキトーなたよりづくりがたのしみになってきた。

◯◯でありたい、が、しだいに
◯◯でなければならない、とかわってくると、
そうならないときにイライラがつのってくる。
まわりの環境や、ひとのすることに影響をうけていては、
どうしてもストレスの餌食となりがちだ。
わたしもまた納さんをみならうことにする。
よろこびもかなしみもほどほどに。
とにかく無理をせずにこころをたいらに生きる。
たいそうな目標はたてないし、休肝日なんてつくらない。
そんなことしてたのしいか、ときかれたら、
そうです、すごくたのしい、と
にっこりこたえられるようになろう。

posted by カルピス at 22:31 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月17日

「いきものがかり」にさえなれなかった又吉直樹の『第2図書係補佐』

『第2図書係補佐』(又吉直樹・幻冬舎よしもと文庫)

『おすすめ文庫王国』のベスト6にえらばれている。
又吉直樹という芸人のことも、
「ピース」というおわらいコンビのこともわたしはしらなかった。
しらなくてもこの本はたのしめるし、
とりあげられている本のことをしらなくてもおもしろい。
「ピース」のことも、本のことも、
なにもしらなくてもたのしめるというのは
ものすごいほめことばではないだろうか。
「いきものがかり」にもなれずに、
図書係の、そのまた第2で、しかも補佐、というところから、
著者のもうしわけなさがにじんでいる。

又吉さんがすきな本を紹介したエッセイであるとはいえ、
ほんとうは、「すきな本について」かいてあるといいきれない
微妙な内容だ。
ぜんぜん関係のないはなしだったり、
その本をめぐるおもいでだったりして、
めったに本の内容にはふれてない。
本文のあとに【あらすじ】として、
とりあげた本のあらすじがあらためて要約してあり、
本文がいかに紹介としては役だってないかがわかる。

わたしがすきなのは
『サッカーという名の神様』と『異邦人』についてかかれたものだ。

『サッカーという名の神様』は、
又吉さんが子どものころから
サッカーとどうかかわってきたかにふれてある。
又吉さんは西ドイツのマチウスという選手のプレーにあこがれ、
左足だけでボールをけりつづける。
チームメイトに非難されても、
自分にとってのかっこいいプレーをやめない。
コーチのいうことを素直にきいたほかの友だちより、
自分のやりたいプレーをやりつづけた又吉さんのほうが
結局はサッカーをたのしんでいる。
技術的なうまさよりも、自分の欲望に貪欲なほうが
(なんていうと村上龍的だけど)重要なのだ。

「『サッカーという名の神様』は
サッカーに纏わる写真とエッセイで綴られた本だ。
ページをめくる度に球が蹴りたくなる。
ドリブルで駆け上がりたくなる。
ゴールネットを揺らしたくなる。
減免でシュートを止めるとこ見せたくなる。
鼻血たらたら垂らしながら、
根性なしの僕にそうさせるのは
サッカーという名の神様だ」

こんなことをかかれると、『サッカーという名の神様』にあうために、
この本をめくりたくなる。

『異邦人』といえば「不条理」にふれないわけにいかず、
この本ではどう料理するのかたのしみにしていたら、
「なんで俺の金でパン買ってくるんだよ〜」
という現代日本の吉本的な不条理だった。

そうやってわらわせながら、

「僕は予定調和なことよりも
不条理なことにリアリティと人間味を感じてしまうことが
往々にしてある」

と、異邦人的な不条理の本質を
ちゃんとおさえているところがさすがにするどい。

もうひとつ、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』もよかった。

「奴の財産の半分、二千円を奪いバイクに乗ってビリヤード場に戻った。
店員は読みかけの本を置き笑顔で迎えてくれた。
何を読んでいるのか尋ねると、
店員はうれしそうに本の表紙を僕に向けた。
そこには『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』とあった」

『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』について
ぜんぜんふれてないのに、
なんとなく村上春樹の小説っぽい雰囲気がただよっている。
「はじめに」にあるとおり、
解説や批評ではないけれど、
どのはなしもなんとなく紹介してある本をよみたくなってくる。
あたらしいタイプのエッセイといっていいのではないか。

posted by カルピス at 21:54 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月16日

『生きていてもいいかしら日記』芸の域にたっした赤裸々報告

『生きていてもいいかしら日記』(北大路公子・PHP文芸文庫)

『おすすめ文庫王国』の第9位。
40代・独身・女性のトホホな生活が、
これってあんがいありかも、と
すこしは肯定的にながめられるようになる。

女性の日常生活を、
ふつうここまで赤裸々にあかさないだろう、
ということまでなんでもかく。
お腹をきる手術をしたら
パンツをさげて傷口を男性の友だちにみせてしまうし、
よっぱらったときにかきかけたメールに
「あまのにゅう」とあり、
記憶をこまかくたどるとそれが
「安馬(現日馬富士)」の乳輪についての
ちいさな発見であったりとか、
脱力系のどうでもいいはなしが延々とつづられている。

「そうよ私は四割減」では体脂肪率が40%をこえた報告をする。

「しかし、四割が脂って。
どうしてこんなことになったのか。
私だって悪い人間じゃないんですよ。
挨拶はするし、ゴミも分別するし、税金もおさめてる」

これが北大路公子を象徴するノリだ。
公子さんはかんじたことをそのまま正直にかいている。
おおげさに表現したりすると、この手の話題は
いっきょにしらけてしまうけど、
あるがままをなんの加工もせずに
そのまま読者のまえになげだしてくるから、
よむほうはあまりの無防備さにおどろき感心するしかない。
なんという正直な女性だろう。
ここまでくればたしかに芸といってよい。
やせたいとか、親といっしょにくらしていてたのしくない、とか
もっとまえむきに生きようだとかの
白々しいウソはどこにもかいてない。

公子さんは着実にふとりつつあり、
ひるからの酒がすきで
運動なんてぜんぜんしない。
公子さんのいまにはあんまり関心をもたないが、
10年、20年さきにどういうひとになっているかはしりたいとおもう。
やってることはメチャクチャながら、
いかにもストレスのなさそうな生活なので、
あんがいいいかんじで年をとってるかもしれない。

でも、これが「おすすめ文庫本」の全体の9位というのは
あまり収穫のない年だったということか、
なんてこまかいことをいわずに、
酒をのんでよっぱらってねてしまおう、というのが
この本をよんだあとのただしい反応だ。

きょうは、ブログ更新が500回という
わりと記念すべき日だったのに、
こんなトホホ本を紹介することになるとは、
皮肉でいじわるな運命にすこしがっくりきた。

posted by カルピス at 22:05 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月15日

『おすすめ文庫王国』を参考に本をえらぶ

『おすすめ文庫王国』(「本の雑誌社」)で
とりあげられた本をかおうと本屋さんへ。

すすめられている本のなかから
わたしの関心とかさなるものをえらんでリストをつくり、
かいものにそなえた。

何日かまえに、1時間ほど時間をつぶさなければならなくなったとき、
ちょうどいい機会なので、おすすめ本をさがすことにする。
『おすすめ文庫王国』にざっと目をとおしたあとだったので、
印象にのこっている本をさがしだすのは
そうむつかしくないだろうとおもっていた。

それが、1冊もみつけられない。
いくら『おすすめ文庫王国』でとりあげられていても、
リストをみながら、書名や著者名を確認しながらでないと
わたしにはさがしだせないことがよくわかった。
『おすすめ文庫王国』がなければ、
わたしがふつうに本をえらんでいるぶんには、
そこにとりあげられている本と
であうことはまずなかったわけで、
『おすすめ文庫王国』のありがたさがよくわかった。

リストにそって10冊をえらぶ。
どの本もわりとぶあつく、それぞれが1000円ちかくする。
だれかが熱心にすすめてくれなければ
絶対にかわなかった本ばかりだ。

リストつくりには、全体のベスト10のほか、
ジャンル別のベスト10も参考にした。

・卵をめぐる祖父の戦争(ベニオフ)
・学問(山田詠美)
・フランクを始末するには(マン)
・東京骨灰紀行(小沢信夫)
・第2図書係補佐(又吉直樹)
・生きていてもいいかしら日記(北公次公子)
・ルポ資源大国アフリカ(白戸圭一)
・ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ(辻村深月)
・みんな邪魔(真梨幸子)
・私を知らないで(白河三兎)

店頭にはおいてなかったので
かえなかったのが

・どうして僕はこんなところに(チャトウィン)
・三十三本の歯(コッタリル)
・平成よっぱらい研究所(二宮知子)

で、角田光代さんの
『森に眠る魚』は、
いまかわなくても、いずれよむ機会があるだろうと判断した。

かったばかりのおもしろそうな本10冊を
テーブルにつみあげる。
もしなにかの異変がおきて、
家にたてこもる状況になっても
本についてはしばらく大丈夫、とおもった。

posted by カルピス at 09:45 | Comment(0) | TrackBack(0) | 本の雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月14日

「フルマラソンを3ヶ月で」あんがいなまけても大丈夫みたい

フルマラソンを3ヶ月ではしれるようになる、
という番組をやっていた。
4月から9回にわけて放送したものを、
一挙に再放送したものだ。
金哲彦さんの指導をうけ、
タレントの野々村真さんと時東あみさんが
フルマラソンを体験する。
時東さんははじめてのマラソンで、
野々村さんはずっと以前に挑戦し、
そのときは5キロでリタイヤしたという。

すこしずつはしることになれていくメニューで、
時速6〜8キロとすごくゆっくりのペースだ。
その日の練習をおえると、次回の練習日までの課題として、
金コーチから2人に宿題がだされる。
だいたい3回の練習にとりくむというもので、
そのうちの2回は1時間走、
1回は90分のLSDのことがおおかった。

この宿題をけっこう2人ともいいかげんにしかやってこない。
とくに野々村さんは確信犯で、
番組中は調子のいいことをいってるくせに、
なんだかんだいって宿題をやってこない。
金コーチがしぶい顔をして、そして残念そうに、
「こんどはぜったいやってきてくださいよ」と念をおされるのに、
あいかわらずこりない。
やる気がありそうなことをいうけど、
調子ばかりよくて実行がともなわない。
でもまあ、こんなひとでも大丈夫、という意味ではいい生徒だ。
きちんときめられたメニューをはしるひとばかりだと、
優等生でないとフルマラソンを完走できないことになり、
番組をみているひとがつらいだろう。
「やりませんでした」はかっこわるいから、
やったことにして
練習記録表を提出することもできるのに、
ふたりともわるびれずにスカスカの記録表をだす。
皮肉でなしに、ほんとうにエライ。

2時間走(15キロ)にとりくんだ練習日には、
野々村さんがつかれはててヘロヘロになる。
感想をきかれて

「本番はまだまだこれよりずっとながい距離をはしるのだとおもうと、
すごく不安がひろがってきました」

というのが正直でいい。
あなたが宿題をずっとなまけてきたからでしょ!、
とつっこみたくなる。

番組みているうちに
はしるのがたのしそうでうらやましくなる。
お天気の公園を、すぐれた指導者のもとで
いっしょにはしりたい。

本番は、4月におこなわれる徳島マラソンだ。
当日ははげしい雨と風で、
最悪といってよいコンディションとなる。
野々村さんは5時間、時東さんは6時間を目標にスタートした。
調子がいいとおもっても、20キロまではおさえるように、
2人ともQちゃんからアドバイスをもらっている。

番組では、雨と風のなかをはしるふたりを
カメラがずっとおっている。
折り返し点で時東さんの右ひざがいたくなってきた。
野々村さんは前半おさえていたぶんまだちからがあり、
後半からペースをあげてくる。
後半からはむかい風になった。暴風だ。
まえにすすむのがいかにもくるしそうにみえる。

「苦しまなければ、
よいことは絶対に起こらない」

というカズのことばをおもいだす。

40キロまではしったとき、
アナウンサーが、

「2人ともからだは限界。あとは気力しかない」
とはなす。
よくきくセリフだけど、マラソンでここまでくると、
ほんとにそうなってくる。
そうやって、フラフラになりながらもゴールをめざす2人がうらやましかった。

野々村さん4時間54分、
時東さん4時間55分と、
悪天候のなか、りっぱなタイムで2人ともぶじ完走した。

「マラソンをはしれば
人生が変わります」

と、金さんがきっぱりと視聴者によびかける。
あれだけなまけても(失礼)
3ヶ月でフルマラソンができたのだから、
みてるひとはかなり勇気づけられたのではないか。
わたしもみていてたのしかったし、
いっしょにはしりたかった。

わたしがチェンマイマラソンをはしったのは1年まえで、
それからつぎの目標を設定できずにいる
(パリマラソンへの参加をいつにするか、
まだきめていない)。
どんなレースでもそれなりにくるしくて、
そしてよろこびをあじわえるのだから、
こまかいことをいわずに
手ごろなレースに参加すればいいんだ、という気になった。

posted by カルピス at 17:59 | Comment(0) | TrackBack(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月13日

3回目でようやくわかった『ディア・ハンター』

2回目に『ディア・ハンター』をみたときには、
記憶にのこっている作品とあまりにもちがうので、
映画は(本も)2日目からがほんとうの鑑賞、
みたいなことをかいた。
おどろいたことに、3回目をみたきょうも、
おなじような感想をもつ。
こんな作品だったっけ?、と
いくつものあたらしい気づきがあった。

なんどみても、あの結婚式はすごい。
1時間かけて延々とロシア系の式をおいかける。
なぜあんなに延々と結婚式をえがく必要があったのか。

ロシア系住民がおおくすむペンシルバニア州の町で、
製鉄所ではたらくわかものたち。
やすみの日にはグループでシカがりによくでかけるという日常生活。
結婚式では自分たちの所属するロシア系の協会で、
おおぜいのしりあいがあつまって盛大にいわう
(ロシア系と、あとからでてくるロシアン・ルーレットとを
からませた、なんてことでなければいいけど)。

アメリカという国にすむおおくのわかものにとって、
これらがどういう意味をもつのかをイメージできないと、
この作品の理解はむつかしい。
ふつうにかんがえれば、おおくの日本人には
わからないのがあたりまえなのであり、
雰囲気にまどわされてたかく評価してしまうのを
警戒したほうがいいだろう。

場面がベトナムにうつるとリアリティがうしなわれ、
いっきょに退屈になる。
印象的なロシアン・ルーレットは、
おちついてみるとただのはったりで、
捕虜を相手にあんなことがおこなわれるわけがない。
スチーブだけを軍の車にあずけたのは、
マイケルのどんな感傷だろう。
ニックが退院したあとで、銃声にひかれてはいった賭博場に、
なぜマイケルがいるのか。
サイゴン陥落の混乱をきわめている時期に、
ニックの遺体をアメリカにつれてかえるのは、
さぞかしたいへんだったのではないか。

この作品がたかい評価をうけるのはまちがいだ、と
3回目のきょうで確信する。
ベトナム戦争のえがき方が
アメリカ側からの視点でしかない。

この作品がつくられた1978年は、
ベトナム戦争がおわってまだ3年しかたっておらず、
そのなかでこんな作品ができてしまったのは
ある意味でしかたのないことかもしれない。
しかし、それはもうむかしのはなしだ。
この作品は、ありえないロシアン・ルーレットをもちこむことで、
ベトナム戦争と、解放軍へのイメージを決定的にわるくした。
ふるさとの町からとおくはなれたベトナムで
たいへんな目にあったアメリカ人のわかものたち。
しかし、ベトナムのひとたちからみれば、
わざわざとおくからきて
自分たちの国をめちゃくちゃにしたのは
アメリカ人なのだ。

ニックの葬儀に参加したかってのなかまたち。
なじみの酒場にあつまり、だれかれともなく
『ゴッド・ブレス・アメリカ』をうたいはじめる。
そのとき彼らがなにをおもったのかは
日本人のわたしにも想像できる。
しかし、そこにいたるまでが
あまりにもメチャクチャすぎた。
1978年と、時代を限定すれば◯かもしれない。
しかし30年以上たったいま、賞味期限はもうきれてしまった。

posted by カルピス at 15:45 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月12日

フェイスブックとのつきあい方がわからなくなった

先日の新聞に、インドネシアではフェイスブックがさかんで、
友だちが何百人のひとがめずらしくない、という記事がのっていた。
さみしがりやの国民性が反映しているのかも、
という分析がされている。

フェイスブックがどうつかわれているかは、
年代や職業、それに国民性によって
おおきなちがいがありそうだ。
ちょっとまえまでは、日本とブラジルだけ
利用率がひくいといわれていたのに、
いまではブラジルが世界第2位(1位はアメリカ)になっている。
なぜきゅうに利用されるようになったのかはしらないが、
ブラジルの例からは、なにかがひきがねとなって、
状況が一気にかわる可能性があることがわかる。
日本でもずいぶんひろまってきて、
いまは900万人が利用者しているという。
わかいひとたちにとって、
フェイスブックはすでになくてはならないツールなのだろう。

わたしは1年ほどまえにフェイスブックをはじめた。
しばらくは友だちがゼロの状況がつづき、
フェイスブックがどういうものなのか、ぜんぜんわからなかった。
数ヶ月たって、やっと数人とのやりとりがはじまる。
やりとりといっても、わたしの場合は
毎日かいているブログを、そのままフェイスブックにながしこむだけだ。
それでも友だちが5〜6人のころは
フェイスブックのおもしろさが
なんとなくわかってきた気がして、
毎日ひらいてみるのがたのしかった。

しかし、ある勉強会に参加したとき、
グループでの利用がメンバー内でおこなわれたため、
友だちがいっぺんにふえた(といってもまだ19人)。
とくにしたしくないひととも「友だち」になり、
ニュースフィードにはいろんなかきこみでにぎやかだ。
それについて何十人ものひとが「いいね!」といっており、
コメントもたくさんついている。
こうなってくると、あまり積極的な姿勢で生きていないわたしは
かく気がまったくうせてしまった。
もともと「いま◯◯をしています」みたいなことは
かいたことがない。
ブログをながしこむのもやめた。
みじかいメッセージがとびかっているなかに、
かたぐるしくてながったらしいブログは
いかにも場ちがいだ。
いまではときどき「いいね!」をおすぐらいの、
なんちゃってユーザーでしかない。

「みんなたのしそーだなー」と
もりあがるメッセージのやりとりから
完全にとりのこされている状況だ。
自意識過剰なだけで、かるい気もちでかきこめばいいのだろうけど、
それが簡単にできるようならこんなことはかかない。
仕事に関係する「友だち」とはべつに、
気楽にかきこめるようなグループがあれば
参加しやすいかもしれない。
でも、それではなんだかフェイスブックのよさをけしてるような気もするし。

フェイスブックでももてあましているくらいだから、
ツイッターにはぜんぜん関心がない。
やらなければおもしろさはわからないだろうけど、
ためしてみる気にもならない。
わたしには、ブログでおもったことを
すきなようにかくのがむいているみたいだ。

フェイスブックがある状況というのは、
だれにとってもまだはじまったばかりだ。
どんなつきあい方がそのひとにとってたのしいかは、
これからまだかわっていくのだろう。
いじけてないで、わたしにあったつかい方をさがしてみよう。

posted by カルピス at 22:21 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする