大橋 悦夫さんが「シゴタノ!」で
「今年『やらない』ことを決めるための12の問い」をかいておられる。
あたらしくなにかをはじめたくても、
そのための時間は、なにかをやめなくては確保できない。
時間はかぎられており、
おおくのひとがいまの段階でさえ、
すでにギリギリのスケジュールでうごいている。
それでは、どうやって「やらない」ことをきめるか。
おもしろかったのが、いちばんやってはいけないのが
「『何をやらないようにすればいいかなぁ〜?』と漠然と考え始める
です」
とある。
いかにもわたしがやりそうなことで、さきにクギをさされてしまった。
大橋さんが紹介している「12の問い」には
1.今年はどの構想・プロジェクト・活動をやらないことにしますか?
2.今年はどの指標をチェック対象外にしますか?
3.今年はどんな顧客を相手にしないことにしますか?
4.今年はどんな人とつきあわないことにしますか?
など12のリストがあり、
それぞれにたしかに「やめてもいいなー」とおもわせる
要素をふくんでいる。
「なにかをやめる」のはひきざんのかんがえ方だ。
このごろはひきざんよりもたしざん思考でと、
できていないことをマイナスにとらえるのではなく、
いいところをたしていくかんがえ方のほうに人気がある。
しかし、「やらない」ことをきめる場合は
ひきざんでないとうまくいなかい。
あれをやめてもいいんじゃないか、
これもやめれるのではないかと、
これまでやっていたことをどんどんけずっていく。
不耕起栽培でコメと麦をつくる
福岡正信さんの自然農法は、まさにこれだ。
たがやさなくてもコメがつくれるのではないか、
肥料や薬もいらないのではないか、
田うえをしなくても苗はそだつのではないかと、
稲作にくっついているいろんな仕事について、
ほんとうに必要かどうかをうたがい、
それらをできるかぎり「やらない」農法を確立した。
人間がすべてをコントロールできるというかんがえが
そもそもおこがましいのであり、
ほっておけばすべては自然がちゃんとそだててくれる、
という哲学が根本にある。
必要なものはなにもない。すべては無だ、という境地だ。
手をかければ自然はそれにこたえてくれる、というのではなく、
できるかぎにひとはなにもしない。
手間をおしむな、とよくいうけど、
それをもういちどひっくりかえして、
手間をおしむことをおそれるな、というのだから
わたしのようななまけものにはありがたい。
福岡さんの農法では、秋にイネの穂を田んぼにまくだけで、
あとは収穫までなにもしない。
田うえもないし、腰をかがめての草とりも、
農薬散布もなしだ。
それだけきくとすごく簡単そうだけど、
水の管理や、病気がでたときの判断など、
だれにでもできるやり方ではなかったため、
ひろく普及するまでにいたらなかった。
仕事術においても、達人がとる究極のやり方は
きっとできるかぎり「やらない」という方向の先にあるのだろう。
秋にパラパラっと発想の種をまいて、しかるべきときがきたら収穫する。
そのあいだの時間は思考をねかせ、熟成させるための期間となる。
手間をかければうまくいく、なんて
勤勉をありがたがる時代のひとつのクセにすぎないかもしれない。
手間をかけないほうがうまくいく、のほうが
地球全体をかんがえたときにも将来性がありそうだ。
なにもしないことを延々とかんがえることこそ
真に人間らしい行為のような気がして、わたしはすきだ。
2013年01月11日
2013年01月10日
かるい農作業と畑でのおしゃべりこそがIターンの魅力
しりあいの店がウェブサイトむけの写真撮影をするというので、
サポートスタッフとして顔をだすことになった。
プロの写真家である庄司さんをまねいての撮影で、
わたしはいわれるままに鉢をうごかしたり、
集合写真でならんだりした。
このお店はリアル店舗とネットショップの両方で
ハーブの苗やオイルなどをあつかっている専門店だ。
ネットショップのうりあげをふやそうと、
きょねんの秋からサイトの根本的な再構築にとりくんでいる。
そのひとつとして、サイトにつかう写真もみなおそうと
企画された撮影会だった。
店長の本気がほかのスタッフにもつたわりはじめ、
店全体がいいエネルギーを発散している。
わたしもその本気さにできるだけつきあいたいとおもった。
撮影むけに、数人のスタッフが輪になって鉢の手いれをする。
とぎれることなくおしゃべりがはずみ、
のんびりした雰囲気がここちよい。
まえに野菜の出荷を手つだったことがあり、
そのときとおなじようななごやかさをかんじた。
いまの仕事にないものをひとはもとめるようで、
あたたかなビニールハウスのなかで、
何人かといっしょになって手をうごかすのは
おもいがけずすごくたのしかった。
似たような仕事を部屋のなかでやってもたぶんダメで、
外での仕事というのがわたしのどこかを刺激したのだ。
わたしにむいているのは、
きっとこういうかるい農作業なのだろう。
そして、Iターンで農村や離島にはいるひとたちは、
あんがいこういうなごやかさに
ひかれるのではないかとおもった。
そのうちにお茶の時間になって、
みんなでコーヒーとおかしをつまむ。
こんどはもう本格的におしゃべりだけで、
庄司さんを中心に、地域の話題や
自分たちが子どもだったころのはなしが
ぽつりぽつりといつまでもつづいた。
店をしきる店長さんは大変なのだろうが、
サポートスタッフの気楽な立場で顔をだすぶんには、
冬のビニールハウスくらいくつろげる場所はない。
店長からあとできいたところによると、
いい写真がとれて庄司さんも満足されたという。
店長の本気さに、すこしだけでも協力することができ
どんなサイトにしあがるのか
ますますたのしみになった。
また、農業をからめたわたしの将来像も
すこしみえてきた気がする。
サポートスタッフとして顔をだすことになった。
プロの写真家である庄司さんをまねいての撮影で、
わたしはいわれるままに鉢をうごかしたり、
集合写真でならんだりした。
このお店はリアル店舗とネットショップの両方で
ハーブの苗やオイルなどをあつかっている専門店だ。
ネットショップのうりあげをふやそうと、
きょねんの秋からサイトの根本的な再構築にとりくんでいる。
そのひとつとして、サイトにつかう写真もみなおそうと
企画された撮影会だった。
店長の本気がほかのスタッフにもつたわりはじめ、
店全体がいいエネルギーを発散している。
わたしもその本気さにできるだけつきあいたいとおもった。
撮影むけに、数人のスタッフが輪になって鉢の手いれをする。
とぎれることなくおしゃべりがはずみ、
のんびりした雰囲気がここちよい。
まえに野菜の出荷を手つだったことがあり、
そのときとおなじようななごやかさをかんじた。
いまの仕事にないものをひとはもとめるようで、
あたたかなビニールハウスのなかで、
何人かといっしょになって手をうごかすのは
おもいがけずすごくたのしかった。
似たような仕事を部屋のなかでやってもたぶんダメで、
外での仕事というのがわたしのどこかを刺激したのだ。
わたしにむいているのは、
きっとこういうかるい農作業なのだろう。
そして、Iターンで農村や離島にはいるひとたちは、
あんがいこういうなごやかさに
ひかれるのではないかとおもった。
そのうちにお茶の時間になって、
みんなでコーヒーとおかしをつまむ。
こんどはもう本格的におしゃべりだけで、
庄司さんを中心に、地域の話題や
自分たちが子どもだったころのはなしが
ぽつりぽつりといつまでもつづいた。
店をしきる店長さんは大変なのだろうが、
サポートスタッフの気楽な立場で顔をだすぶんには、
冬のビニールハウスくらいくつろげる場所はない。
店長からあとできいたところによると、
いい写真がとれて庄司さんも満足されたという。
店長の本気さに、すこしだけでも協力することができ
どんなサイトにしあがるのか
ますますたのしみになった。
また、農業をからめたわたしの将来像も
すこしみえてきた気がする。
2013年01月09日
円満な夫婦別寝室の方法
朝ご飯まえのジョギングをはじめたとき、
10時くらいにふとんをしいてもぐりこむと
配偶者から苦情がでた。
そんなに自分のすきかってな時間にふとんをしかれては、
わたしのすごせる場所がない、という。
それはそうだろう。でも、こっちにも
トレーニングのスケジュールがあり、
つぎの日ははやくおきてはしっておきたかった。
「じゃあ、したでねる」と
ふとんをもってわたしは1階の部屋にうつった。
もともとそこはむすこが小学生のときにつかっていた部屋で、
いまはタンスと本棚があるだけだ。
こうして、けんかわかれしたわけではなく、
円満に夫婦別室ということになった。
寝室をどうあつかうかは、
それぞれの夫婦でビミョーな問題になっているのではないか。
睡眠は個人のものであり、
ひとりでねたほうが睡眠の質はたかい。
しかし、結婚し、おなじ家ですむようになったときに、
同時に寝室もおなじにする夫婦が一般的ではないだろうか。
そして、いったん2人の寝室にしてしまうと、
なかなかとちゅうでかえにくい性質の習慣となる。
どちらかにそれ相応の問題があったのなら、
そうきりだされてもしかたがないのだろうが、
あらためて「べつの部屋でねる」ことを提案するのは
それなりのすっきりした理由が必要だ。
ときどきイビキを指摘されるぐらいの
問題のすくない夫であるわたしは、
カゼをひいたときくらいしか
別の部屋でねることがなかった。
年になんどか配偶者が実家にとまるときは、
まくらもとにスタンドをもってきて、
よみたい本とお酒をならべ、
ひとときの独身をたのしんでいた。
ジョギングを理由に、わたしは公然とひとりでねる部屋を確保でき、
いまでは毎晩ねるまえの本とお酒が儀式となった。
さむさが本格的になってからは、
はやおきしてのジョギングをしていないけど、
別の部屋でねるスタイルはたもったままだ。
配偶者もひとりのほうがテレビやDVDを
自分のすきな時間にみることができて快適になったのではないか。
部屋をわけてから、とくにふたりの雰囲気がわるくなったわけではなくて、
ただねる部屋がわかれただけであり、
「夫婦別寝室」が成功だったことをあらわしている。
わかくても、ジョギングをしてなくても、
ねる部屋は別々のほうが快適だ。
年おいていく夫婦は、こうしてだんだんと
ハウスシェアという形態にちかづいていくのだろうか。
10時くらいにふとんをしいてもぐりこむと
配偶者から苦情がでた。
そんなに自分のすきかってな時間にふとんをしかれては、
わたしのすごせる場所がない、という。
それはそうだろう。でも、こっちにも
トレーニングのスケジュールがあり、
つぎの日ははやくおきてはしっておきたかった。
「じゃあ、したでねる」と
ふとんをもってわたしは1階の部屋にうつった。
もともとそこはむすこが小学生のときにつかっていた部屋で、
いまはタンスと本棚があるだけだ。
こうして、けんかわかれしたわけではなく、
円満に夫婦別室ということになった。
寝室をどうあつかうかは、
それぞれの夫婦でビミョーな問題になっているのではないか。
睡眠は個人のものであり、
ひとりでねたほうが睡眠の質はたかい。
しかし、結婚し、おなじ家ですむようになったときに、
同時に寝室もおなじにする夫婦が一般的ではないだろうか。
そして、いったん2人の寝室にしてしまうと、
なかなかとちゅうでかえにくい性質の習慣となる。
どちらかにそれ相応の問題があったのなら、
そうきりだされてもしかたがないのだろうが、
あらためて「べつの部屋でねる」ことを提案するのは
それなりのすっきりした理由が必要だ。
ときどきイビキを指摘されるぐらいの
問題のすくない夫であるわたしは、
カゼをひいたときくらいしか
別の部屋でねることがなかった。
年になんどか配偶者が実家にとまるときは、
まくらもとにスタンドをもってきて、
よみたい本とお酒をならべ、
ひとときの独身をたのしんでいた。
ジョギングを理由に、わたしは公然とひとりでねる部屋を確保でき、
いまでは毎晩ねるまえの本とお酒が儀式となった。
さむさが本格的になってからは、
はやおきしてのジョギングをしていないけど、
別の部屋でねるスタイルはたもったままだ。
配偶者もひとりのほうがテレビやDVDを
自分のすきな時間にみることができて快適になったのではないか。
部屋をわけてから、とくにふたりの雰囲気がわるくなったわけではなくて、
ただねる部屋がわかれただけであり、
「夫婦別寝室」が成功だったことをあらわしている。
わかくても、ジョギングをしてなくても、
ねる部屋は別々のほうが快適だ。
年おいていく夫婦は、こうしてだんだんと
ハウスシェアという形態にちかづいていくのだろうか。
2013年01月08日
作家志望者をめぐる状況が興味ぶかい『売れる作家の全技術』
『売れる作家の全技術』(大沢在昌・角川書店)
作家になりたいひとを対象に、
大沢在昌氏が1年間にわたって講座をひらく。
応募があった64人をさらにしぼり、
12人がこの講座に参加した。
『売れる作家の全技術』というタイトルからわかるように、
これは技術についてのはなしだ。
技術は没個性であり、ある程度の訓練をつめば
だれにでも習得可能なのが「技術」だ。
33年の経験から大沢氏があみだした
最低限必要な技術をつたえながら、
「技術は教えられるが、
才能は教えられない」
ともちゃんとかいてある。
どんなに努力をかさねても、
才能がなければあきらめるしかない。
読者がついて、本がうれなければ、
作家でありつづけるわけにはいかない。
大沢さんは作家になることについての
きびしい現実を受講生につたえる。
200の新人賞があるとして、
それぞれに300人が応募したとすると、それだけで6万人。
そこからデビューしたひとのうち、
何人が5年後に生きのこっているだろうか。
自分がデビューしたころよりもはるかに出版市場は縮小しており、
以前よりも生きのこりをかけた競争がきびしくなっている。
そして、大沢さんはなんどもくりかえして
「作家はデビューすることよりも
あり続けることのほうが
はるかに大変である」
「受賞してからが本番」
とつたえようとする。
デビューしたらもうあとがない。
あとは、のこりの人生をずっと作家でやっていくしか選択の余地はない。
いそいでデビューすることよりも、
じっくりちからをたくわえてからでもおそくはないと
なんども強調されている。
まったく、作家になるのはたいへんそうだ。
それでも、どうしても作家になりたいひとが
たくさんいるのだから、
小説をかく、という仕事はよほど魅力があるのだろう。
自分で作品世界をつくりだし、
それを読者がよろこんでくれ、
出版界からも評価される、というながれは、
しかしよほど実力のある作家でしかのぞめないのが現実だ。
それを覚悟したうえで、
作家をめざすよう大沢さんはもとめている。
小説をかくうえでの技術だけでなく、
「デビュー後にどう生き残るか」という講座も用意されており、
編集者とのつきあい方や「仕事の依頼を断るな」など、
ほんとにきめこまかな点にもふれてある。
これで作家として生きつづけらないようなら、
むいてないとあきらめるしかない。
これまで大沢さんの作品をよんだことがないわたしにも、
この本はすごくよみやすく、わかりやすかった。
大沢さんのことばえらびが適切なせいだろう。
『新宿鮫』をよんでみて、どれだけ読者をたのしませてくれるか
たしかめたくなった。
作家になりたいひとを対象に、
大沢在昌氏が1年間にわたって講座をひらく。
応募があった64人をさらにしぼり、
12人がこの講座に参加した。
『売れる作家の全技術』というタイトルからわかるように、
これは技術についてのはなしだ。
技術は没個性であり、ある程度の訓練をつめば
だれにでも習得可能なのが「技術」だ。
33年の経験から大沢氏があみだした
最低限必要な技術をつたえながら、
「技術は教えられるが、
才能は教えられない」
ともちゃんとかいてある。
どんなに努力をかさねても、
才能がなければあきらめるしかない。
読者がついて、本がうれなければ、
作家でありつづけるわけにはいかない。
大沢さんは作家になることについての
きびしい現実を受講生につたえる。
200の新人賞があるとして、
それぞれに300人が応募したとすると、それだけで6万人。
そこからデビューしたひとのうち、
何人が5年後に生きのこっているだろうか。
自分がデビューしたころよりもはるかに出版市場は縮小しており、
以前よりも生きのこりをかけた競争がきびしくなっている。
そして、大沢さんはなんどもくりかえして
「作家はデビューすることよりも
あり続けることのほうが
はるかに大変である」
「受賞してからが本番」
とつたえようとする。
デビューしたらもうあとがない。
あとは、のこりの人生をずっと作家でやっていくしか選択の余地はない。
いそいでデビューすることよりも、
じっくりちからをたくわえてからでもおそくはないと
なんども強調されている。
まったく、作家になるのはたいへんそうだ。
それでも、どうしても作家になりたいひとが
たくさんいるのだから、
小説をかく、という仕事はよほど魅力があるのだろう。
自分で作品世界をつくりだし、
それを読者がよろこんでくれ、
出版界からも評価される、というながれは、
しかしよほど実力のある作家でしかのぞめないのが現実だ。
それを覚悟したうえで、
作家をめざすよう大沢さんはもとめている。
小説をかくうえでの技術だけでなく、
「デビュー後にどう生き残るか」という講座も用意されており、
編集者とのつきあい方や「仕事の依頼を断るな」など、
ほんとにきめこまかな点にもふれてある。
これで作家として生きつづけらないようなら、
むいてないとあきらめるしかない。
これまで大沢さんの作品をよんだことがないわたしにも、
この本はすごくよみやすく、わかりやすかった。
大沢さんのことばえらびが適切なせいだろう。
『新宿鮫』をよんでみて、どれだけ読者をたのしませてくれるか
たしかめたくなった。
2013年01月07日
ありえないスピードとスタミナでおよぐホッキョクグマ『北極圏3000キロ 白夜の大航海』
1月2日放送の『北極圏3000キロ
白夜の大航海 ホッキョクグマの聖地をいく』について。
ノルウェーのスバールバル諸島周辺をヨットでめぐり、
北極圏にすむ動物を観察していく。
いくつかのめずらしい映像が紹介された。
「その1」
地球温暖化で氷河がとけはじめ、
氷があったところに陸が顔をだして
植物がはえていた。
わたしは温暖化になると、
なんとなく地球がおわってしまうのではないかという
危機感をもっていたけど、
生命はそんな中でもちがう形態をえらんで生きつづけようとする。
氷河がとけるとホッキョクグマはこまるかもしれないが、
その環境をよろこぶ生物もまたかならずでてくる。
地球にいきる生命のけなげさを
意外なところでしることとなった。
「その2」
しとめたアザラシをホッキョクグマがたべている。
つかれはて、うとうとしながらたべるうちに、
ほんとうにねいってしまった。
よほどギリギリの状態での獲物だったろう。
また、たべられるときに、とにかくお腹にいれておこうとする
ホッキョクグマの本能もみごとだ。
「その3」
ホッキョクグマは頭をあげた姿勢をとり、
前足だけをつかっておよぐ。
うしろ足はカジをとるのにつかうのだそうだ。
ホッキョクグマは時速10キロのスピードで
10時間およげると、番組で紹介していた。
どこかにそういうデーターがあるのだろう。
しかし、時速10キロというと、
めちゃくちゃはやいスピードだ。
1500メートルを15分弱という
世界トップクラスのスピードで1時間およげたとしても、
人間は6キロしかすすめない。
あのおおきなホッキョクグマが、
さほどいそいで手をうごかしてるようにはみえないおよぎで、
オリンピックスイマーの倍ちかいスピードを
10時間もつづけられるようにはとてもみえない。
セイウチが時速35キロでおよぐというから、
まわりがはやすぎてホッキョクグマの水泳が目だたないけれど、
時速10キロとは人間からするとものすごいスピードだ。
もっともホッキョクグマの手には水かきがあるので、
人間よりはやいのはあたりまえなのかもしれない。
ネットでしらべると、ホッキョクグマのおよぐスピードとスタミナは
有名なはなしのようだ。
「米地質調査所がホッキョクグマのメス 52 頭を追跡調査したところ、
50 km 以上の遠泳が計 20 頭、合計 50 回観察されたそうだ。
1 回の遠泳の平均は時間にして 3.4 日、距離にして 154 km だった」
ありえない数字におもえるので、
なんにんものひとが人間にたとえて試算している。
人間がせいいっぱい手足をうごかして、
めちゃくちゃ回転をあげておよいでいるよこを、
ホッキョクグマは悠然とその倍のスピードでおいこしていくことになる。
もとスイマーであるわたしの脳は、
すんなりこの事実をうけいれることができない。
ホッキョクグマはなんでまた
こんなにながい距離をおよぐのだろうか。
白夜の大航海 ホッキョクグマの聖地をいく』について。
ノルウェーのスバールバル諸島周辺をヨットでめぐり、
北極圏にすむ動物を観察していく。
いくつかのめずらしい映像が紹介された。
「その1」
地球温暖化で氷河がとけはじめ、
氷があったところに陸が顔をだして
植物がはえていた。
わたしは温暖化になると、
なんとなく地球がおわってしまうのではないかという
危機感をもっていたけど、
生命はそんな中でもちがう形態をえらんで生きつづけようとする。
氷河がとけるとホッキョクグマはこまるかもしれないが、
その環境をよろこぶ生物もまたかならずでてくる。
地球にいきる生命のけなげさを
意外なところでしることとなった。
「その2」
しとめたアザラシをホッキョクグマがたべている。
つかれはて、うとうとしながらたべるうちに、
ほんとうにねいってしまった。
よほどギリギリの状態での獲物だったろう。
また、たべられるときに、とにかくお腹にいれておこうとする
ホッキョクグマの本能もみごとだ。
「その3」
ホッキョクグマは頭をあげた姿勢をとり、
前足だけをつかっておよぐ。
うしろ足はカジをとるのにつかうのだそうだ。
ホッキョクグマは時速10キロのスピードで
10時間およげると、番組で紹介していた。
どこかにそういうデーターがあるのだろう。
しかし、時速10キロというと、
めちゃくちゃはやいスピードだ。
1500メートルを15分弱という
世界トップクラスのスピードで1時間およげたとしても、
人間は6キロしかすすめない。
あのおおきなホッキョクグマが、
さほどいそいで手をうごかしてるようにはみえないおよぎで、
オリンピックスイマーの倍ちかいスピードを
10時間もつづけられるようにはとてもみえない。
セイウチが時速35キロでおよぐというから、
まわりがはやすぎてホッキョクグマの水泳が目だたないけれど、
時速10キロとは人間からするとものすごいスピードだ。
もっともホッキョクグマの手には水かきがあるので、
人間よりはやいのはあたりまえなのかもしれない。
ネットでしらべると、ホッキョクグマのおよぐスピードとスタミナは
有名なはなしのようだ。
「米地質調査所がホッキョクグマのメス 52 頭を追跡調査したところ、
50 km 以上の遠泳が計 20 頭、合計 50 回観察されたそうだ。
1 回の遠泳の平均は時間にして 3.4 日、距離にして 154 km だった」
ありえない数字におもえるので、
なんにんものひとが人間にたとえて試算している。
人間がせいいっぱい手足をうごかして、
めちゃくちゃ回転をあげておよいでいるよこを、
ホッキョクグマは悠然とその倍のスピードでおいこしていくことになる。
もとスイマーであるわたしの脳は、
すんなりこの事実をうけいれることができない。
ホッキョクグマはなんでまた
こんなにながい距離をおよぐのだろうか。
2013年01月06日
移民時代の回想が効果的な『ゴッドファーザー・パートU』
「午前10時の映画祭」で
『ゴッドファーザー・パートU』をみる。
むかしは柳のしたに2匹目のどじょうはいなかったけど、
このゴッドファーザーやエイリアンくらいから
どじょうの生態についての研究がすすんだのか、
2匹目、ときによっては3匹目もみつかるようになる
(というのはでまかせで、2作目があたった映画について
くわしくしっているわけではない)。
パートUではありながら、パートTとはべつの魅力をもつ
すぐれた作品にしあがっている。
イタリアからの移民がどうやってアメリカ社会に根づいていったか、
この作品をみるとものすごくよくわかる。
根づいたといっても根本にはイタリア人社会があり、
そのまた根本が家族への愛だ。
イタリア人だけでなく、ほかの国からの移民も
おおかれすくなかれにたような状況で
アメリカ社会に浸透していったのだろう。
これを、移民時代の回想をいれず、
ただマイケル時代のコルレオーネファミリーに焦点をあてたのでは
パートTのつづきにすぎず、ありきたりのヤクザ映画だ。
作品のふかみが全然ちがったものになっただろう。
つよくて家族を大切にした「父」へのおもいが
ずっとマイケルの頭のなかにはあり、
ファミリーを懸命にささえようとするが
いまや身内すらかためるのがむつかしい。
つよみはよわみでもあるとよくいうけど、
あまりにもゴッドファーザーが偉大だったために、
そのピースがかけるとファミリーのおさえがきかずガタガタになる。
時代もまた変化している。
社会はマフィアに対して寛容ではなくっているし、
女性の意識も以前とはちがう。
マイケルがどう最善をつくしても、
移民時代からきずきあげてきた
社会的な信用がベースになっている父の役割を
つづけるのはむつかしい。
かといって、マイケルがほかの道をすすむのは不可能だったわけで、
兄弟や妻からもみはなされていくマイケルのあせりと失望を理解できる。
移民時代のロバート=デ=ニーロがはまり役だ。
ビトー=コルレオーネが、知恵と度胸をいかしながら
どうやってのしあがっていったのかがよくわかる。
ある意味では社会が彼の役割を必要としていたのだ。
あの笑顔をだされると、だれだって信用するだろうし、
たよりにしたくなる。
イタリア人街のマフィアのボスにおどされても、
すんなりいうことをきかずに時間をかせぐ場面がすきだ。
「拳銃の始末の仕方をしってるか?」
「バラバラにして煙突にほうりこめばいいんだろ」
という軽口をおもいついけど、いかがですか?
有名な場面なので、どこかでパロディになってるのだろうか。
このまえは『タクシードライバー』だったし、
来週は『ディア・ハンター』が上映される。
ロバート=デ=ニーロのファンにはありがたい
今年度の「午前10時の映画祭」だ。
『ゴッドファーザー・パートU』をみる。
むかしは柳のしたに2匹目のどじょうはいなかったけど、
このゴッドファーザーやエイリアンくらいから
どじょうの生態についての研究がすすんだのか、
2匹目、ときによっては3匹目もみつかるようになる
(というのはでまかせで、2作目があたった映画について
くわしくしっているわけではない)。
パートUではありながら、パートTとはべつの魅力をもつ
すぐれた作品にしあがっている。
イタリアからの移民がどうやってアメリカ社会に根づいていったか、
この作品をみるとものすごくよくわかる。
根づいたといっても根本にはイタリア人社会があり、
そのまた根本が家族への愛だ。
イタリア人だけでなく、ほかの国からの移民も
おおかれすくなかれにたような状況で
アメリカ社会に浸透していったのだろう。
これを、移民時代の回想をいれず、
ただマイケル時代のコルレオーネファミリーに焦点をあてたのでは
パートTのつづきにすぎず、ありきたりのヤクザ映画だ。
作品のふかみが全然ちがったものになっただろう。
つよくて家族を大切にした「父」へのおもいが
ずっとマイケルの頭のなかにはあり、
ファミリーを懸命にささえようとするが
いまや身内すらかためるのがむつかしい。
つよみはよわみでもあるとよくいうけど、
あまりにもゴッドファーザーが偉大だったために、
そのピースがかけるとファミリーのおさえがきかずガタガタになる。
時代もまた変化している。
社会はマフィアに対して寛容ではなくっているし、
女性の意識も以前とはちがう。
マイケルがどう最善をつくしても、
移民時代からきずきあげてきた
社会的な信用がベースになっている父の役割を
つづけるのはむつかしい。
かといって、マイケルがほかの道をすすむのは不可能だったわけで、
兄弟や妻からもみはなされていくマイケルのあせりと失望を理解できる。
移民時代のロバート=デ=ニーロがはまり役だ。
ビトー=コルレオーネが、知恵と度胸をいかしながら
どうやってのしあがっていったのかがよくわかる。
ある意味では社会が彼の役割を必要としていたのだ。
あの笑顔をだされると、だれだって信用するだろうし、
たよりにしたくなる。
イタリア人街のマフィアのボスにおどされても、
すんなりいうことをきかずに時間をかせぐ場面がすきだ。
「拳銃の始末の仕方をしってるか?」
「バラバラにして煙突にほうりこめばいいんだろ」
という軽口をおもいついけど、いかがですか?
有名な場面なので、どこかでパロディになってるのだろうか。
このまえは『タクシードライバー』だったし、
来週は『ディア・ハンター』が上映される。
ロバート=デ=ニーロのファンにはありがたい
今年度の「午前10時の映画祭」だ。
2013年01月05日
しずちゃんの日本語授業にみる自分のことばでの説明
しずちゃんがシェムリアップにある日本語学校で、
何日か授業にかかわる番組をみた。
しゃべりなれた日本語といえども、
わかりやすく説明するのは簡単なことではない。
なかなか子どもたちにすっきりとつたえられなくて、
しずちゃんはなやみながら授業にとりくんでいた。
そして、最終日にはしずちゃんが60分の授業を
ひとりでうけもつことになる。
しずちゃんはすごろくをとりいれることをおもいつく。
おおきな線路みたいなマス目を教室いっぱいにかき、
羽子板やけん玉のうようなむかしながらのおもちゃを
それぞれのマス目におく。
サイコロで3がでたらたとえば羽子板のマス目にすすみ、
そこにおいてある羽子板でからだをうごかして
あそびながら数のかぞえかたになじんでいく。
ほかのマスではシャボン玉をふいて、でてきた玉をかぞえる。
ボクシングのスパーリングでも数をかぞえられる。
子どもたちはたのしみながら自然に数を口にしはじめた。
発達障害児の子どもたちに
わたしたちは自立課題としょうして
色や数字のマッチングやかたはめなどの
課題にとりくんでもらう。
自立課題の成果に確信をもち、
系統だてて子どもたちにしめしているかというと
ぜんぜんそのレベルにはなく、
いまはまだ手さぐり、というとかっこいいけど
なんとなくひとのうけいりをしてるだけのような
うさんくささが頭からはなれない。
こんなことをとりいれれば、いちおうかっこがつくという
「なんちゃって支援」でしかない気がする。
アジアにある観光地の町で、
むりをしてメニューにスパゲティやピザをのせているようなかんじ。
おおくの先進的な事業所がとりくんでいるからといって、
わたしたちもおなじものをしなければらないわけではない。
しずちゃんのすごろくのように、
あそびながらいつのまにかできるようになるほうがわたしはすきだ。
ピピにくる方に自立課題の説明をしながらも、
どこか自分のことばではない不自然さをかんじていたので、
すごろくをとりいれたしずちゃんの授業は説得力があった。
もっともらしいことがやりたくてはじめた事業所ではなく、
できることなら自分たちならではの支援のほうが
たのしいにきまっている。
子どもたちのちからをたかめるためには、
どんなしめし方をしたらいいのかについて、
参考になる番組だった。
何日か授業にかかわる番組をみた。
しゃべりなれた日本語といえども、
わかりやすく説明するのは簡単なことではない。
なかなか子どもたちにすっきりとつたえられなくて、
しずちゃんはなやみながら授業にとりくんでいた。
そして、最終日にはしずちゃんが60分の授業を
ひとりでうけもつことになる。
しずちゃんはすごろくをとりいれることをおもいつく。
おおきな線路みたいなマス目を教室いっぱいにかき、
羽子板やけん玉のうようなむかしながらのおもちゃを
それぞれのマス目におく。
サイコロで3がでたらたとえば羽子板のマス目にすすみ、
そこにおいてある羽子板でからだをうごかして
あそびながら数のかぞえかたになじんでいく。
ほかのマスではシャボン玉をふいて、でてきた玉をかぞえる。
ボクシングのスパーリングでも数をかぞえられる。
子どもたちはたのしみながら自然に数を口にしはじめた。
発達障害児の子どもたちに
わたしたちは自立課題としょうして
色や数字のマッチングやかたはめなどの
課題にとりくんでもらう。
自立課題の成果に確信をもち、
系統だてて子どもたちにしめしているかというと
ぜんぜんそのレベルにはなく、
いまはまだ手さぐり、というとかっこいいけど
なんとなくひとのうけいりをしてるだけのような
うさんくささが頭からはなれない。
こんなことをとりいれれば、いちおうかっこがつくという
「なんちゃって支援」でしかない気がする。
アジアにある観光地の町で、
むりをしてメニューにスパゲティやピザをのせているようなかんじ。
おおくの先進的な事業所がとりくんでいるからといって、
わたしたちもおなじものをしなければらないわけではない。
しずちゃんのすごろくのように、
あそびながらいつのまにかできるようになるほうがわたしはすきだ。
ピピにくる方に自立課題の説明をしながらも、
どこか自分のことばではない不自然さをかんじていたので、
すごろくをとりいれたしずちゃんの授業は説得力があった。
もっともらしいことがやりたくてはじめた事業所ではなく、
できることなら自分たちならではの支援のほうが
たのしいにきまっている。
子どもたちのちからをたかめるためには、
どんなしめし方をしたらいいのかについて、
参考になる番組だった。
2013年01月04日
身内の自慢ばなしも、ネコがからむといやみがきえる(かもしれない)
身内のこととなると、とくに子どもについてひとにはなすときは、
つい「ぜんぜんダメですよ」みたいにけなしてしまう。
まあそれが日本の常識みたいなもので、
ヘタにむすこのことを
「そうなんですよ。親のわたしがいうのもなんですが、
すごくいいやつです」とはなかなかいえない。
しかし、わたしはむすこのかくれたよさを
すくなくとも2つしっている。
ひとつはやさしさに関することで、
もうひとつは気のながさについてだ。
家庭訪問なんかの機会があれば、
先生にぜひつたえたいものだとおもっていたのに、
中3の冬になり、つまりもう家庭訪問のチャンスはなくなった。
先生 「家でのむすこさんはいかがですか?」
わたし「ええ、とてもやさしい子ですよ。
うちのネコがあいつの部屋のおしいれでねてると・・・」
先生 「ねてると?」
わたし「顔だけでるように毛布をかけてやります」
先生 「・・・そうですか。
ほかには?」
わたし「それに、とても気のながい子です」
先生 「ほー」
わたし「ネコたちが外にでたくて窓のそばにたつと、
あいつはすぐに窓をあけてやります。
ネコがすぐにでなくても、ずっとまってます」
先生 「またネコですか」
というやりとりを先生としたかったのだ。
わたしは毛布くらいならネコにかけるけど、
彼ほどは気がながくないので、
そとにでなければすぐ窓をしめていまう。
ネコずきのひとなら、きっとむすこのよさをわかってくれるだろう。
チャンスがあればこのはなしをきりだそうと準備してるけど、
なかなか親バカばなしにつきあってくれるひとがいない。
夜おそくまであかりがついているので
むすこの部屋をのぞいていみると、
ネコ(ピピ)とむすこがおなじまくらで
頭をならべてねていた。
わたしをみたピピは「アーン」と声をだす。
これをむすこの3つ目のよさにかぞえてもいいだろうか
(写真をとるまえにピピがうごいてしまった。すごく残念)。
つい「ぜんぜんダメですよ」みたいにけなしてしまう。
まあそれが日本の常識みたいなもので、
ヘタにむすこのことを
「そうなんですよ。親のわたしがいうのもなんですが、
すごくいいやつです」とはなかなかいえない。
しかし、わたしはむすこのかくれたよさを
すくなくとも2つしっている。
ひとつはやさしさに関することで、
もうひとつは気のながさについてだ。
家庭訪問なんかの機会があれば、
先生にぜひつたえたいものだとおもっていたのに、
中3の冬になり、つまりもう家庭訪問のチャンスはなくなった。
先生 「家でのむすこさんはいかがですか?」
わたし「ええ、とてもやさしい子ですよ。
うちのネコがあいつの部屋のおしいれでねてると・・・」
先生 「ねてると?」
わたし「顔だけでるように毛布をかけてやります」
先生 「・・・そうですか。
ほかには?」
わたし「それに、とても気のながい子です」
先生 「ほー」
わたし「ネコたちが外にでたくて窓のそばにたつと、
あいつはすぐに窓をあけてやります。
ネコがすぐにでなくても、ずっとまってます」
先生 「またネコですか」
というやりとりを先生としたかったのだ。
わたしは毛布くらいならネコにかけるけど、
彼ほどは気がながくないので、
そとにでなければすぐ窓をしめていまう。
ネコずきのひとなら、きっとむすこのよさをわかってくれるだろう。
チャンスがあればこのはなしをきりだそうと準備してるけど、
なかなか親バカばなしにつきあってくれるひとがいない。
夜おそくまであかりがついているので
むすこの部屋をのぞいていみると、
ネコ(ピピ)とむすこがおなじまくらで
頭をならべてねていた。
わたしをみたピピは「アーン」と声をだす。
これをむすこの3つ目のよさにかぞえてもいいだろうか
(写真をとるまえにピピがうごいてしまった。すごく残念)。
2013年01月03日
007ほか、お正月番組を断片的にみる
年末年始にかけて、
イマジカBSで「007シリーズ」の22作品を
連続放送していた。
お正月番組があまりおもしろくないので、
チャンネルをコロコロかえているうちに、
何本かの作品を断片的にみることになった。
熱心な鑑賞ではなく、ストーリーもよくわからない。
よくわからないなりに、007とは
カーチェイスの作品であり、
ひたすら町(通行人やレストランで食事中のひと)に
迷惑をかけてきたことがわかった。
ふるいものからあたらしい作品まで、
手をかえ品をかえて相手をおいかけまわす。
船だったりオートモービルだったりするけど、
なんだかんだいって最後には車でまちなかをはしりまわるのが
おきまりになっているし、
出発まえのボンドはかならず
新兵器とか改良した装置などを得意げに説明されている。
はしりまわられる町のほうはいい迷惑で、
わたしがもしあんな車にひかれてケガでもしたら
いかに007とはいえゆるしたくないところだ。
ふるい作品のボンドガールはあまり魅力的におもえない
(ほんとうは、最近の作品も)。
おもわせぶりなほほえみをうかべて
さほどそそらないプロポーションで
ボンドにまとわりついている
ただのケバイひとでしかない。
作品がふるいから、というのは理由にならない。
イングリッド=バーグマンやオードリー=ヘップバーンが
時代をこえて支持されていることからもわかるように、
ある程度うつくしさは普遍的なものだ。
ボンドというと、どうしてもショーン=コネリーをおもいうかべる。
今回みたなかでは、6代目ボンドのダニエル=クレイブがよかった。
なんだかロシアのエリツィン大統領をおもわせる
皮肉げなうすらわらいがにだんだんなじんできた。
けっきょくなれの問題なのかもしれない。
ほかには『めぐり逢えたら』と『ジャッカルの日』を
これまたなんとなくみる。
『めぐり逢えたら』はメグ=ライアンのわるいところがでてしまった作品で、
自分の感情にふりまわされておおさわぎする彼女にぜんぜん共感できない。
『ジャッカルの日』はわりと最近テレビでみたのに、
箱根駅伝のコマーシャルのあいだにチャンネルをうつしたら
こっちのほうがメインになってしまった。
捜査をくぐりぬけ、どんどんパリにちかづいていくジャッカルにわくわくしてくる。
なんだかテレビばっかりみていたお正月だった。
イマジカBSで「007シリーズ」の22作品を
連続放送していた。
お正月番組があまりおもしろくないので、
チャンネルをコロコロかえているうちに、
何本かの作品を断片的にみることになった。
熱心な鑑賞ではなく、ストーリーもよくわからない。
よくわからないなりに、007とは
カーチェイスの作品であり、
ひたすら町(通行人やレストランで食事中のひと)に
迷惑をかけてきたことがわかった。
ふるいものからあたらしい作品まで、
手をかえ品をかえて相手をおいかけまわす。
船だったりオートモービルだったりするけど、
なんだかんだいって最後には車でまちなかをはしりまわるのが
おきまりになっているし、
出発まえのボンドはかならず
新兵器とか改良した装置などを得意げに説明されている。
はしりまわられる町のほうはいい迷惑で、
わたしがもしあんな車にひかれてケガでもしたら
いかに007とはいえゆるしたくないところだ。
ふるい作品のボンドガールはあまり魅力的におもえない
(ほんとうは、最近の作品も)。
おもわせぶりなほほえみをうかべて
さほどそそらないプロポーションで
ボンドにまとわりついている
ただのケバイひとでしかない。
作品がふるいから、というのは理由にならない。
イングリッド=バーグマンやオードリー=ヘップバーンが
時代をこえて支持されていることからもわかるように、
ある程度うつくしさは普遍的なものだ。
ボンドというと、どうしてもショーン=コネリーをおもいうかべる。
今回みたなかでは、6代目ボンドのダニエル=クレイブがよかった。
なんだかロシアのエリツィン大統領をおもわせる
皮肉げなうすらわらいがにだんだんなじんできた。
けっきょくなれの問題なのかもしれない。
ほかには『めぐり逢えたら』と『ジャッカルの日』を
これまたなんとなくみる。
『めぐり逢えたら』はメグ=ライアンのわるいところがでてしまった作品で、
自分の感情にふりまわされておおさわぎする彼女にぜんぜん共感できない。
『ジャッカルの日』はわりと最近テレビでみたのに、
箱根駅伝のコマーシャルのあいだにチャンネルをうつしたら
こっちのほうがメインになってしまった。
捜査をくぐりぬけ、どんどんパリにちかづいていくジャッカルにわくわくしてくる。
なんだかテレビばっかりみていたお正月だった。
2013年01月02日
長友の本気がつたわるか。2014年W杯にむけて
NHKの番組で、2014年ブラジルワールドカップ、
そして2013年のコンフェデ杯にむけた番組をやっていた。
2部構成で、1部がザッケローニ監督へのインタビュー、
2部がヨーロッパでプレーする日本人選手についてのものだ。
ヨーロッパでプレーする選手については、
吉田麻也・清武・長友に焦点をあて、
それぞれに15分ほどかけて移籍してからの変化と、
ブラジルW杯にむけてのいきごみをかたっている。
3人の選択もよかったとおもう。
これが川島や長谷部だと、いいそうなことが予想できて
あまりおもしろみがない。
長友は、こういう企画になんどもとりあげられているけど、
あのひとはどんどん自信をふかめ、
別の次元にいったってるので、
きくたびにあたらしい発言をしてくれる。
吉田麻也は世界最高といわれる
プレミアリーグでプレーするようになった。
このリーグで1年間もまれれば、
自分がどんどんかわっていける予感があるという。
所属したのがサウサンプトンという
昇格したばかりのチームだったのもよかったようだ。
はじめはチームとリーグになじまず、
失点をゆるしてしまう吉田麻也を我慢してつかいつづけた。
そのなかで吉田は自分なりに対応を工夫し、
いまではレギュラーとして
安定したちからを発揮だせるようになった。
対戦するチームのフォワードは、
だれもがトップレベルの選手なので
この環境でえることのできる経験ははかりしれない。
清武はブンデスリーガのニュルンベルクでプレーする。
パスを選択してばかりだった自分に納得せず、
このごろではまずシュートという意識を
たかめるようにしているとはなす。
コメントとしてはでていないが、
このわかいメンバー中心のチームは、
全体よりも個人を主張する選手がおおく、
清武がだすパスがチームプレーとして発展せず、
個人のエゴどまりになるケースがおおかったようだ。
清武はそんなチームで埋没するのをいさぎよしとせず、
自分も積極的にシュートをねらうようになった背景がある。
吉田も清武も、いま自分のいる環境でちからを発揮することが、
自分の生涯において大切になってくる時期であることを自覚しており、
それが日本代表にとってもいい影響をおよぼすと確信している。
長友は別格だった。
インテルでのプレーが4シーズン目となり、
いまでは複数のポジションをこなす、
なくてはならないメンバーとしてチームをささえている。
昨シーズンはとちゅうで監督が2回もかわり、
そのたびにベンチにほされて自信をうしなうこともあったという。
そのときに長友をささえたのは、
自分をみつめなおすことだ。
「けっきょく自分の能力をひきだすのはメンタルですね。
人よりもつよくなりたい。
人よりもうまくなりたい。
という気もちだけです」
きょねんおこなわれたブラジルとの親善試合は、
0−4でやぶれたにもかかわらず
「はじめての感覚だけど、
もえあがるようなものをかんじた。
世界をめざすうえでの光がみえたというか、
あそこにはしっていけば、つかめるんだといことが」
長友は本気でW杯での優勝をめざしている。
それはひとりではできない。
チーム全体で共有しなければならないことで、
その点で、まわりの選手との温度差があることを、
長友はもどかしくおもっている。
インテルにはいったばかりの長友とはぜんぜん別人だ。
おちついて、自信にみちている。
この自信は、なんとかチームにとけこもうと
はったりでみせる自信などではなく、
自分にできていることとできないことを
冷静に分析したうえでの可能性を根拠にしている。
うえをめざしていくことにゴールはない。
かりにブラジルW杯に優勝したとしても、
それはすぐに「すんだこと」になってしまい、
またべつの目標が必要になるし、まわりもまたそれを期待する。
長友は、きっとそれでいいのだろう。
おおきな目標だけでなく、
日々の練習や試合においても
それぞれの目標を設定することができる。
できなくなったときがゴールであり、
それまでは自分にできることを納得いくまでやりつづける。
それは自分へのほこりの問題であり、
それができているからこそ、
いまの長友は自信にあふれ、ほこりにみちている。
こうしたすぐれたモデルがチームにいることは、
日本代表にとってかけがにのない財産だろう。
長友や長谷部たちの本気がほかのメンバーにもつたわり、
2014年にひとつのピークにたっしたときの活躍がたのしみだ。
そして2013年のコンフェデ杯にむけた番組をやっていた。
2部構成で、1部がザッケローニ監督へのインタビュー、
2部がヨーロッパでプレーする日本人選手についてのものだ。
ヨーロッパでプレーする選手については、
吉田麻也・清武・長友に焦点をあて、
それぞれに15分ほどかけて移籍してからの変化と、
ブラジルW杯にむけてのいきごみをかたっている。
3人の選択もよかったとおもう。
これが川島や長谷部だと、いいそうなことが予想できて
あまりおもしろみがない。
長友は、こういう企画になんどもとりあげられているけど、
あのひとはどんどん自信をふかめ、
別の次元にいったってるので、
きくたびにあたらしい発言をしてくれる。
吉田麻也は世界最高といわれる
プレミアリーグでプレーするようになった。
このリーグで1年間もまれれば、
自分がどんどんかわっていける予感があるという。
所属したのがサウサンプトンという
昇格したばかりのチームだったのもよかったようだ。
はじめはチームとリーグになじまず、
失点をゆるしてしまう吉田麻也を我慢してつかいつづけた。
そのなかで吉田は自分なりに対応を工夫し、
いまではレギュラーとして
安定したちからを発揮だせるようになった。
対戦するチームのフォワードは、
だれもがトップレベルの選手なので
この環境でえることのできる経験ははかりしれない。
清武はブンデスリーガのニュルンベルクでプレーする。
パスを選択してばかりだった自分に納得せず、
このごろではまずシュートという意識を
たかめるようにしているとはなす。
コメントとしてはでていないが、
このわかいメンバー中心のチームは、
全体よりも個人を主張する選手がおおく、
清武がだすパスがチームプレーとして発展せず、
個人のエゴどまりになるケースがおおかったようだ。
清武はそんなチームで埋没するのをいさぎよしとせず、
自分も積極的にシュートをねらうようになった背景がある。
吉田も清武も、いま自分のいる環境でちからを発揮することが、
自分の生涯において大切になってくる時期であることを自覚しており、
それが日本代表にとってもいい影響をおよぼすと確信している。
長友は別格だった。
インテルでのプレーが4シーズン目となり、
いまでは複数のポジションをこなす、
なくてはならないメンバーとしてチームをささえている。
昨シーズンはとちゅうで監督が2回もかわり、
そのたびにベンチにほされて自信をうしなうこともあったという。
そのときに長友をささえたのは、
自分をみつめなおすことだ。
「けっきょく自分の能力をひきだすのはメンタルですね。
人よりもつよくなりたい。
人よりもうまくなりたい。
という気もちだけです」
きょねんおこなわれたブラジルとの親善試合は、
0−4でやぶれたにもかかわらず
「はじめての感覚だけど、
もえあがるようなものをかんじた。
世界をめざすうえでの光がみえたというか、
あそこにはしっていけば、つかめるんだといことが」
長友は本気でW杯での優勝をめざしている。
それはひとりではできない。
チーム全体で共有しなければならないことで、
その点で、まわりの選手との温度差があることを、
長友はもどかしくおもっている。
インテルにはいったばかりの長友とはぜんぜん別人だ。
おちついて、自信にみちている。
この自信は、なんとかチームにとけこもうと
はったりでみせる自信などではなく、
自分にできていることとできないことを
冷静に分析したうえでの可能性を根拠にしている。
うえをめざしていくことにゴールはない。
かりにブラジルW杯に優勝したとしても、
それはすぐに「すんだこと」になってしまい、
またべつの目標が必要になるし、まわりもまたそれを期待する。
長友は、きっとそれでいいのだろう。
おおきな目標だけでなく、
日々の練習や試合においても
それぞれの目標を設定することができる。
できなくなったときがゴールであり、
それまでは自分にできることを納得いくまでやりつづける。
それは自分へのほこりの問題であり、
それができているからこそ、
いまの長友は自信にあふれ、ほこりにみちている。
こうしたすぐれたモデルがチームにいることは、
日本代表にとってかけがにのない財産だろう。
長友や長谷部たちの本気がほかのメンバーにもつたわり、
2014年にひとつのピークにたっしたときの活躍がたのしみだ。
2013年01月01日
天皇杯決勝 ガンバACLへののぞみをたたれる
天皇杯決勝 ガンバ対レイソル
きょねんはJ2同士の対戦だったこともあり(FC東京対京都)、
あまり気もちがこもらなかった天皇杯だけど、
ことしはガンバがACLへのさいごののぞみを
この天皇杯の優勝につないでいる。
ガンバとレイソルは2008年大会の決勝であたっており、
このときは延長後半に播戸のかちこしゴールがきまった。
油がのりきっていたころのガンバで、
選手たちもわかく、西野監督の采配もさえていた。
シーズン中あまり調子のよくなかった播戸を延長におくりだしての
劇的な、しかしガンバの貫禄がうわまわった印象がつよい試合だった。
きょうの試合はどうだろうか。
どちらのチームもACLへの意欲をもち、
レイソルは4年前のかりをかえしたいし、
ガンバはいいところのなかった今シーズンに
なんとかいいくぎりをつけたい。
手ぶらでJ2におちるよりも、
J2だけどACLに参加したら、
もしかしたら世界一になれるかもしれない。
前半のガンバはパスがよくまわり、
左サイドからなんどもせめこむけど、
さいごのところでくずしきれない。
ポゼッションでは圧倒的にガンバだけど、
レイソルはうまくまもりきっている。
前半35分にレイソルはジョルジュ=ワグネルのコーナーキックを
渡部が頭であわせる。
前半には1本しかなったセットプレーを
レイソルがそつなくいかしたかたちだ。
得点まえの32分、水野にかえて田中順也をいれたのが
きょうの試合のすべてだった。
それまで機能しなかった澤がひとつさがり、
田中が前線でボールをキープする。
それ移行レイソルにはいきおいがでてくる。
ガンバの攻撃の芽をつんで、
なんどもカウンターにもちこんできた。
反対にガンバはまったくパスがまわらなくなった。
後半にはいってもそのながれはかわらない。
家長や佐々木が投入されても、
ペナルティエリア内になかなかもちこめない。
エリアのそとで、なにをゴニョゴニョやってるの?
というかんじがずっとつづいた。
リーグ戦でもたたかい、
おたがいに手のうちをしっているチームが相手でも、
こんなにせめあぐんでしまうものなのか。
それだけレイソルがじょうずにまもったということなのだろう。
うまくいかないとなると、
さっと作戦をかえるネルシーニョ監督のうまさが印象にのこる。
ガンバ側に得点のにおいがまったくしなくなったまま、
淡々と時間がすぎて1−0のままレイソルのかちにおわった。
ガンバがさいごにみせるであろう「がんばり」に期待しているのに、
今シーズンを象徴するようになにもおこらない。
4年前とはちがい、今回はレイソルが横綱ずもうをとったかんじだ。
ACLへのいきごみを両チームとも口にしていたけど、
レイソルのほうがそれにふさわしい試合をしていたというべきだろう。
これで当分ガンバをテレビではみれなくなることがきまった残念な試合だ。
きょねんはJ2同士の対戦だったこともあり(FC東京対京都)、
あまり気もちがこもらなかった天皇杯だけど、
ことしはガンバがACLへのさいごののぞみを
この天皇杯の優勝につないでいる。
ガンバとレイソルは2008年大会の決勝であたっており、
このときは延長後半に播戸のかちこしゴールがきまった。
油がのりきっていたころのガンバで、
選手たちもわかく、西野監督の采配もさえていた。
シーズン中あまり調子のよくなかった播戸を延長におくりだしての
劇的な、しかしガンバの貫禄がうわまわった印象がつよい試合だった。
きょうの試合はどうだろうか。
どちらのチームもACLへの意欲をもち、
レイソルは4年前のかりをかえしたいし、
ガンバはいいところのなかった今シーズンに
なんとかいいくぎりをつけたい。
手ぶらでJ2におちるよりも、
J2だけどACLに参加したら、
もしかしたら世界一になれるかもしれない。
前半のガンバはパスがよくまわり、
左サイドからなんどもせめこむけど、
さいごのところでくずしきれない。
ポゼッションでは圧倒的にガンバだけど、
レイソルはうまくまもりきっている。
前半35分にレイソルはジョルジュ=ワグネルのコーナーキックを
渡部が頭であわせる。
前半には1本しかなったセットプレーを
レイソルがそつなくいかしたかたちだ。
得点まえの32分、水野にかえて田中順也をいれたのが
きょうの試合のすべてだった。
それまで機能しなかった澤がひとつさがり、
田中が前線でボールをキープする。
それ移行レイソルにはいきおいがでてくる。
ガンバの攻撃の芽をつんで、
なんどもカウンターにもちこんできた。
反対にガンバはまったくパスがまわらなくなった。
後半にはいってもそのながれはかわらない。
家長や佐々木が投入されても、
ペナルティエリア内になかなかもちこめない。
エリアのそとで、なにをゴニョゴニョやってるの?
というかんじがずっとつづいた。
リーグ戦でもたたかい、
おたがいに手のうちをしっているチームが相手でも、
こんなにせめあぐんでしまうものなのか。
それだけレイソルがじょうずにまもったということなのだろう。
うまくいかないとなると、
さっと作戦をかえるネルシーニョ監督のうまさが印象にのこる。
ガンバ側に得点のにおいがまったくしなくなったまま、
淡々と時間がすぎて1−0のままレイソルのかちにおわった。
ガンバがさいごにみせるであろう「がんばり」に期待しているのに、
今シーズンを象徴するようになにもおこらない。
4年前とはちがい、今回はレイソルが横綱ずもうをとったかんじだ。
ACLへのいきごみを両チームとも口にしていたけど、
レイソルのほうがそれにふさわしい試合をしていたというべきだろう。
これで当分ガンバをテレビではみれなくなることがきまった残念な試合だ。