大橋 悦夫さんが「シゴタノ!」で
「今年『やらない』ことを決めるための12の問い」をかいておられる。
あたらしくなにかをはじめたくても、
そのための時間は、なにかをやめなくては確保できない。
時間はかぎられており、
おおくのひとがいまの段階でさえ、
すでにギリギリのスケジュールでうごいている。
それでは、どうやって「やらない」ことをきめるか。
おもしろかったのが、いちばんやってはいけないのが
「『何をやらないようにすればいいかなぁ〜?』と漠然と考え始める
です」
とある。
いかにもわたしがやりそうなことで、さきにクギをさされてしまった。
大橋さんが紹介している「12の問い」には
1.今年はどの構想・プロジェクト・活動をやらないことにしますか?
2.今年はどの指標をチェック対象外にしますか?
3.今年はどんな顧客を相手にしないことにしますか?
4.今年はどんな人とつきあわないことにしますか?
など12のリストがあり、
それぞれにたしかに「やめてもいいなー」とおもわせる
要素をふくんでいる。
「なにかをやめる」のはひきざんのかんがえ方だ。
このごろはひきざんよりもたしざん思考でと、
できていないことをマイナスにとらえるのではなく、
いいところをたしていくかんがえ方のほうに人気がある。
しかし、「やらない」ことをきめる場合は
ひきざんでないとうまくいなかい。
あれをやめてもいいんじゃないか、
これもやめれるのではないかと、
これまでやっていたことをどんどんけずっていく。
不耕起栽培でコメと麦をつくる
福岡正信さんの自然農法は、まさにこれだ。
たがやさなくてもコメがつくれるのではないか、
肥料や薬もいらないのではないか、
田うえをしなくても苗はそだつのではないかと、
稲作にくっついているいろんな仕事について、
ほんとうに必要かどうかをうたがい、
それらをできるかぎり「やらない」農法を確立した。
人間がすべてをコントロールできるというかんがえが
そもそもおこがましいのであり、
ほっておけばすべては自然がちゃんとそだててくれる、
という哲学が根本にある。
必要なものはなにもない。すべては無だ、という境地だ。
手をかければ自然はそれにこたえてくれる、というのではなく、
できるかぎにひとはなにもしない。
手間をおしむな、とよくいうけど、
それをもういちどひっくりかえして、
手間をおしむことをおそれるな、というのだから
わたしのようななまけものにはありがたい。
福岡さんの農法では、秋にイネの穂を田んぼにまくだけで、
あとは収穫までなにもしない。
田うえもないし、腰をかがめての草とりも、
農薬散布もなしだ。
それだけきくとすごく簡単そうだけど、
水の管理や、病気がでたときの判断など、
だれにでもできるやり方ではなかったため、
ひろく普及するまでにいたらなかった。
仕事術においても、達人がとる究極のやり方は
きっとできるかぎり「やらない」という方向の先にあるのだろう。
秋にパラパラっと発想の種をまいて、しかるべきときがきたら収穫する。
そのあいだの時間は思考をねかせ、熟成させるための期間となる。
手間をかければうまくいく、なんて
勤勉をありがたがる時代のひとつのクセにすぎないかもしれない。
手間をかけないほうがうまくいく、のほうが
地球全体をかんがえたときにも将来性がありそうだ。
なにもしないことを延々とかんがえることこそ
真に人間らしい行為のような気がして、わたしはすきだ。