2013年01月22日

ピダハンの魅力的な世界観と言語。文化が言語に影響をあたえる

『ピダハン』(D=L=エヴェレット・みすず書房)

本書は『本の雑誌』で2012年のベスト3にえらばれている。
高野秀行さんも絶賛していたのでたのしみにしていた。

著者は、アマゾンの奥地でくらすピダハンの村に、宣教師として赴任する。
しかし、本書をよんでいると、
宣教師というより言語学者のようだ。
30年以上にわたってピダハンの村でくらし、彼らのことばを研究する。
なぜこのひとはこんなにもピダハン語の習得に執着するのか
はじめは不思議におもえる。
これは、ピダハン語に訳した福音書で伝導するのが協会の方針であり、
そのためにまず必要なのがピダハン語の勉強だったからだ。

著者がおおくのページをさいてピダハン語の特徴を紹介するうちに、
ピダハンの文化が言語に影響をあたえていることがわかる。
たとえば、ピダハンはいとことの婚姻に制限がないので、
「いとこ」という単語をもたない。
右・左という単語もなく、数をかぞえる単語もない。
どうやって右・左をつたえるかというと、
ジャングルをあるいているときに
川の上流が右にまがっているときは「上流にいけ」
といういいかたをするそうだ。
数も、ひとつか、それ以上かがわかればいいという文化では、
こまかな数字のなまえは単語として必要ではない。

単語がすくないからといって、
ピダハンがこころをもたない野蛮人であるわけではない。
おしゃべりをたのしみ、家族をあいし、
勤勉な労働から食料をえる。
ただ、かれらのかんがえ方は
わたしたちの価値観とずいぶんちがうものをふくんでいる。
彼らはほかの民族のくらしをうらやまない。
ほかの言葉をはなすつもりはないし、
物質にめぐまれた生活をとりいれようともしない。
なぜだか彼らは自分たちのくらしに満足しており、
いまがじゅうぶんにしあわせであることをうたがわない。

アマゾンの先住民というと、
まえによんだ『ヤノマミ』にも強烈な印象をうけた。
しかし、ピダハンはヤノマミほど物質文明を拒否するわけではないのに、
自分たちの生活スタイルをうたがわず、
結果としてピダハンのくらしは
本質的なところですこしもかわらない。
文明人が便利な道具をもちこめば、
それをつかうことがあっても、
修理したりくみたてたりという技術をしろうとはしない。
なぜピダハンのこころはこんなにゆるがないのだろう。

ピダハンは、自分がみたこと・直接体験したことしかしんじない。
著者はこれを「直接体験の原則」とよび、
いろいろあるピダハン文化の特色も、
せんじつめていえば、この原則が
ピダハンをピダハンたらしめている最大の要因ととらえている。

この本の圧巻は、第17章の
「伝道師を無神論に導く」だ。
著者がいよいよ自分本来の仕事である伝導をはじめても、
ピダハンは自分がみたことのない神をしんじない。
著者はやがてキリスト教への信仰よりも、
ピダハンの世界観に魅力をかんじるようになる。
原始的な生活をおくっている民族のすべてが
ピダハンのような世界観をもっているわけではない。
非常に強固で、自信にみちていながら
おだやかな彼らのくらしは、非常に魅力的だ。

「ピダハンは類を見ないほど幸せで充足した人々だ。
わたしが知り合ったどんなキリスト教徒よりも、
ほかのどんな宗教を標榜する人々よりも、
幸福で、自分たちの境遇に順応しきった人々であるとさえ、
言ってしまいたい気がする」

わたしたちはなぜ心配し、不安になり、
しあわせをかんじられないのか。
ピダハンの世界観をしると、
根源的なといかけをせずにおれなくなる。

posted by カルピス at 22:31 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする