2013年02月28日

ピピとの「あたりまえな生活」をのぞむ

ブログに脳天気なことをかいていたら、
きのう家にもどったとき、ピピのようすがおかしいと配偶者がいう。
コタツのなかをのぞいてみると、
たしかにおちつきがなく、
ネコ同士がけんかするときみたいに
威嚇するようなうなり声をときどきあげる。
からだをさわろうとすると
どこかいたいのかひどくいやがる。
とにかく次の日に病院へつれていこうと
そのままそっとしておく。

ケンカをしてケガをしたのだろうか。
あんなようすのピピはみたことがない。
ほんのいちにちまえ、というか、
朝まではふつうにすごしていたのに。
いつもなら夜はわたしのうでまくらでねるのに、
ゆうべはチャコだけが毛布にくるまり、
ピピはずっとコタツですごす。

こういうときはよくないことばかりが頭をめぐる。
あのおちつきのなさ、むこうの世界にいったようなかんじは、
ネコエイズかもしれない。
もうピピをまえみたいに、ほおずりすることができないのだろうか。

わたしは質問されるのが苦手で、
たとえば「あなたがいまほしいものは?」なんてきかれると、
簡単にこたえられず、うーん、とかんがえこんでしまう。
でも、ピピのようすがふつうでなくなったいまなら
すぐにこたえがわかる。
ほしいのは、もちろんピピがいつまでもげんきでいることだ。
こんな状態にならないと、ほんとうに大切なものがわからないなんて、
わたしはなんて気のきかないまぬけなのだろう。
げんきでいてほしいのは、ピピのためというよりも、
むしろわたしのためだ。
ピピがいなくなったときにどんな精神状態になるか
かんがえただけでおそろしい。

三谷幸喜さんが朝日新聞に連載している「ありふれた生活」で、
いっしょにくらしていた「とび」という犬がなくなったことにふれている。
「ひとごと」とはいえ、よんでいるだけでもつらいのに、
当事者の三谷さんはどんなかなしみのなかにいるだろう。
まったく、なぐさめることばもない。
三谷さんによると、とびは自分のことよりも、
のこされる三谷さんのことを心配する目をしていたという。

動物は、自分の病気や死をそのままうけいれるようにみえる。
まえに死をみとったネコは
死をおそれているようすはなく、
かといってなげやりになっているわけではなく、
さいごまで生きようとしていた。
いたみやくるしさにたえ、淡々と死とむかいあい、
死ぬまで生きつづけようとするつよさがあった。

病院でピピをみてもらっても、はっきりした原因がわからなかった。
オスネコによくある症状で、おしっこがでにくくて
いたがっているのかもしれない、といわれる。
注射をうたれてそのまま家にもどる。
仕事からかえってコタツをのぞくと、
きようよりすこしはおちついたようすだ。
ご飯もすこしたべ、わたしの指をなめてくれた。
ピピとあたりまえのようにいっしょにねて、あそび、だきしめたのが
どれほどしあわせなことだったか。
わたしにとって大切なのは、まちがいなく平凡な日常生活だ。

posted by カルピス at 22:37 | Comment(0) | TrackBack(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月27日

夜型のネコたち

もちろんネコは夜行性の動物としてしられている。
わたしがここでいう夜型とは、
夜になると元気にあそびはじめる、
という意味でいっているのであり、
これが「夜行性」といういい方だと、いかにも野生の動物が
闇にまぎれて獲物をねらうためのシビアな性質におもえる。
夜行性は生まれもった本能で、
夜型は生活習慣がもたらす行動様式というのがここでの定義だ。

たとえば、わたしが家にもどり、
ほかの家族がたべおえたテーブルにつき
ひとりで夕食をたべていると、
ネコたち(ピピとチャコ)がやってくる。
それまではべつの部屋のあたたかい場所でくつろいでいたのに、
その時間になるとわざわざ台所にきてくれる。

おおくの動物がそうであるように、
ネコもまた習慣によってうごく性質があり、
行動がパターン化することがおおい。
玄関よこで自転車をしまう音がすると
わたしがかえったと気づいてくれるから、
きっと毎晩でむかえてくれるのだ。
ほかの例では、わたしがリュックをもってたちあがると、
サッと玄関にはしって戸があけられるのをまち、
外にでるであろうわたしをあそびにさそおうとする。
おかげでなんど仕事におくれてしまったか
(これはいいわけ)。
食事がひととおりおわってわたしがたちあがると、
ピピは階段のとちゅうにすわって
やがてやってくるわたしをまちうける。
あそびながら2階にむかうのがすきなのだ。

いっしょにあそぶようなクセだと実害はないが、
パターンがこうじると、人間にとって迷惑なうごきがふえてくる。
わたしがお風呂にはいるまえにピピは外にでていき、
ちょうどわたしが湯船につかってあたたまっているときに
風呂場の外からないて、いれるようにせがむ
(さむいから窓をあけたくないのに)。
なぜわたしがお風呂にはいるまえに
外にでなければならないのかわからない。
いちど風呂場の外でないたらなかにいれてくれたので、味をしめた、
としか解釈しようがなく、
いつしかそれが習慣になってしまったみたいだ。

わたしがふとんにもぐりこんで本をよもうとするときは、
ネコたちにとってストーブのまえでくつろぐ時間だ。
2匹がいれかわりにやってくるのはいいけど、
もちろんぜったいにあけた戸をしめてはくれない。
おちついてストーブのまえにずっといるわけではなく、
なにかにつけ用事をおもいだし、そのたびに部屋からでて、
またしばらくするともどってくる。
そのではいりごとに戸をしめるのはわたしの役割だ。
わたしには、夜になるときゅうにげんきがでて
どんないたずらをしてあそびにさそうかに余念のないネコたちが
昼夜逆転でねるまえにさわぎだす子どもたちにみえる。

ほんとは人間が夜になるとゴソゴソはじめ、
ネコたちはそれにあわせていっしょにあそぼうと、
げんきにうごきまわるのだろう。
朝おきしなの人間たちは、それぞれ自分のことにせいいっぱいで、
愛想がないこともネコたちは経験ずみだ。
彼らにとって、あそぶのは夜しかない。

そして、うちのネコたちの朝は、人間とおなじように
ねむくてたまらない顔をしている。
よばないと毛布にくるまったままおきてこないのは、
人間よりももっと人間らしい。
夜型のネコ、といってもけしておおげさではないとおもう。
DSCN1230.JPG

posted by カルピス at 21:50 | Comment(0) | TrackBack(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月26日

鷹の爪カレンダーがめくれない

われながらケチで貧乏性だとおもったのは、
せっかくかった鷹の爪の壁かけカレンダーを
つかえないことだ。
2ヶ月が1枚になっており、2月がおわったら、
ベリッとはがして3・4月をださなくてはならない。
もったいなくて、それがなかなかできない。
というか、じつは表紙もはぐってないので、
2月のおわりごろになったいまも
「妖怪が多いのが鳥取で、
神様が多いのが島根です」という表紙のままになっている。
予想してはいたものの、
このままだとコレクションというか記念品というか、
実用としてのカレンダーの役をはたさないまま1年がすぎそうだ。
takanotsume_cal1301.jpg
あわせてかった卓上版は
おわった月をうしろにまわせばいいので、
ケチなわたしにもつかうことができる。
2月は「広島に近くて便利」で、
これは島根県にすんでいるものが
ほんとうによくかんじることでもある。
広島まで車でも3時間あればいける、なんて
本気でありがたいとおもっていた。
植民地でもないのにそんないやしい精神だったなんて、
島根県民の自虐性はどこまでふかいのだろう。
鷹の爪団には、世界征服のまえに広島をなんとかしてもらい、
広島のひとに「島根に近くて便利」くらいいってほしいものだ。
ちなみに、今年のカレンダーでわたしがいちばんすきなのは、
7月の「時差、ありません」で、
表紙の「島根は日本の領土です」も気にいっている。

このまえひさしぶりに3作目の映画『鷹の爪THE MOVIE』をみて、
わたしがどれだけ鷹の爪のゆるい世界を大切にしているかがわかった。
むこうの世界になれしたしんだ結果、
リアルな世界で不適応をかんじることがおおい。
わたしが鷹の爪団にはいりたいといっても、
名字がおなじなので、吉田くんはきっといやがりそうだし。
よくマンガや映画を逃避の場にしてる、みたいなことがいわれるけど、
リアルな世界にあまり比重をかたむけるのもいただけない。
地球環境にとって、実害のあるのはむしろそっちのほうだろう。
ガスぬき程度の人畜無害な存在ではなく、
世の中をほんとうにかえていく希望として
鷹の爪の世界観がひろくしられることをねがっている。

posted by カルピス at 19:12 | Comment(0) | TrackBack(0) | 鷹の爪 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月25日

一生かけてもあそびきれない数のゲームソフト

ずいぶんまえによんだ記事だけど、
ゲームソフトのわかいプログラマーが、

いま自分のすきなソフトが◯本あり、
攻略するのに1本あたり◯日かかるので、
すでに一生ゲームをたのしめる数だけのソフトがある。
これまでのプログラミングの仕事で、
そこそこのお金もすでにえている。
このさきずっとゲームをやってもおえられないほど
たのしいソフトがたくさんあるので、
これ以上お金をかせいでも意味がないと気づいた、

みたいなことをかいていた。
わたしはゲームのおもしろさがぜんぜんわからないので、
ソフトの本数×攻略時間で自分の充実した時間を計算するという、
そんなかんがえ方があるのかと感心したものだ。
人生と時間について、かなり極端に表現してはいるものの、
かんたんにはきりすてられないわかりやすさがある。
ゲームについてはまったく共感できないけど、
本だっておなじことがいえる。

いまわたしの家には(かっておきながら)何百冊のよんでない本と、
何百冊のよみかえしたい本と、
これから出版されるたくさんのおもしろい本と、
図書館には無料でかりられる膨大な蔵書がある。
一生かかってもよみきれないだけの本が、
わたしのまえに確実にあるわけで、
もっと本へのエネルギーをかたむけないと、
死ぬまでにとてもよみきれない。
いつかながいバカンスにでるだろうと、
ある棚には旅行用のミステリーをあつめてるのに、
それに手をつけないで一生をおえる可能性のほうがたかい。
ラッフルズホテルのプールサイドにねそべって、
優雅に本をひらいている自分を想像してたのに。
ぜったいによみきれない数の本、というがわかったとき、
人生は無限ではないことをさとった。

あそびきれないソフトや、
よみきれないだけの本があるのは
はじめからわかったことで、
問題はどう優先順位をつけるかだ。
人生は有限であり、有限であるからこそ
のこり時間を計算しなければならなくなる。
わたしの時間のつかい方は、
まちがっていないだろうか。
冒頭にあげたわかいプログラマーは、
いまどんな生活をおくっているのだろう。

posted by カルピス at 20:01 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月24日

フジゼロックススーパーカップ2013 いよいよあたらしいシーズンがはじまる

フジゼロックススーパーカップ2013
サンフレッチェ広島対柏レイソル。
昨シーズンのJ1優勝チームと、
天皇杯優勝チームとの試合だ。
今シーズ最初の公式試合であり、
いよいよ2013年のシーズンがはじまった。

今年のJリーグは、
J2からあがってきた甲府・湘南・大分の3チーム、
そして、J2におちたガンバはどんなたたかい方をするだろうか。
風間体制のフロンターレと、クルピ監督のセレッソも2年目をむかえ、
やり手の監督がどうチームをかえていくのかたのしみだ。
また、ACLに出場するチーム(広島・仙台・浦和・柏)の成績も気になってくる。
今年は開催国枠がないので、
モロッコでおこなわれるクラブワールドカップに参加するためには
優勝するしかない。
個人的にも、もしいろんな偶然がかさなって
モロッコへいくことができれば、と
ほんのすこしのぞみをもっている。

また、3バックをとるチームがふえていることに注目したい。
きょねんまでは広島と浦和(つまりペトロビッチ監督のサッカー)
くらいかとおもっていたら、
今年はレイソルもジュビロも3バックをとりいれるという。
昇格した湘南と大分も3バックなのだそうだ。
いっぽう日本代表はなんども3バックをためしていたけど、
このところ話題にならなくなった。
チームによってそれぞれちがうおもわくで3バックを採用しており、
今シーズンをとおしてどうチームとリーグに定着するだろうか。

試合は前半29分に佐藤がスーパーゴールをきめて広島が先制し、
そのままにげきった。
印象にのこったのは、レイソルに新加入したキム=チャンス。
韓国人選手らしく、いかにもからだがつよそうだ。
両チームの選手とも、最初の試合とはおもえないうごきをしており、
来週からの開幕がたのしみになった。

夜には「Jリーグタイム」もみる。
開幕直前特集ということで、
全18監督がインタビューにこたえている。
そのなかで、グランパスのストイコビッチ監督が
今シーズンの目標にあげたのは集中力だ。
グランパスは昨シーズンにアディショナルタイムにおおくの失点をした。
それは集中力がかけていたからだ、というすごくベタな発想だ。
どうしたら集中力をたかめられるのだろう。
はしりこみを去年より2割ふやした、と
番組のなかでいっていたけど、
そんなことで集中力がたかまるのだろうか。
グランパスの集中力がどう改善されるのか、
ストイコビッチ監督の発言をシーズン中もおぼえておこう。

解説の山本さんが
「継続しなければ
つみあげられないものがある」
といっていた。いいことばだ。
今季のJ1は、18チームのうち鹿島をのぞく17チームが
きょねんとおなじ体制をつづけることになった。
どれだけ監督の意図が浸透し、
戦術がつみあげていくのかをたのしみにしたい。

posted by カルピス at 17:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月23日

ピピのサイトが検索順位の1ページ目に

グーグルがやっている無料のサービスのひとつに
「グーグルアナリティクス」というのがある。
ウェブサイトにどれだけのひとがおとずれ、
平均の滞在時間が何分で、
どういうキーワードで検索をかけてきたかなどを分析してくれるものだ。
無料とはいえ、すごくこまかな情報をえることができるそうで、
せっかくだからピピのサイトも登録してみた。

それが半月ほどまえのことで、
このまえたまたまピピの事務所をたずねてくれた
わたしのパソコンの師匠が、
解析の結果について説明してくれた。

新規訪問数がいちにちあたり20人ほどで、
トップページの直帰率が36%。
平均ページ滞在時間が1分ちょっとで、
それぞれそんなにわるくない数字なのだという。
不思議なのは、「おすすめサイト」というページにおとずれたひとの、
ほとんど全員が師匠のやっているハーブショップのサイトをたずねていることで、
結果としてしめされなければ、しんじられないはなしだ。
児童デイとハーブとは、なにか相関関係があるのだろうか。

なによりもうれしかったのが、
「放課後等デイサービス」というキーワードで検索をかけると、
ヤフーの1ページ目にピピのサイトがきたことだ。
ほかの業種で「1ページ目」をたっせいしようとすると、
いろんなことに配慮したサイトをつくる必要があるのに、
放課後等デイサービスは、まだ本気で(すくなくともサイトについては)
集客についてかんがえている事業所がすくないのだろう。
あとで確認すると、「放課後等デイ」というキーワードでは
もっとうしろのページに順位がさがってしまうので、
まだまだ検索エンジン対策を工夫しなければならないようだ。

でも、検索順位が1ページ目にきたのは
しみじみとうれしいことで、
もっとサイトを充実していこうという
意欲をかきたてられた。
ピピの特徴であるおもちゃのこと、
放課後等デイサービスを事業としてどうとらえるか、など
これからとりくんでいきたい。

posted by カルピス at 17:45 | Comment(1) | TrackBack(0) | 児童デイサービス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月22日

ハーブショップの勉強会に参加する

しりあいがやっているハーブショップの勉強会に参加する。
店長は、ウェブサイトをととのえて、
ネット販売を活発にする研修会にきょねん参加された。
それをふまえて、これまでのサイトを
全面的にみなおしているさいちゅうということだ。
わたしがその会にさそわれたのは、
サポートスタッフという立場で、
外部からの意見をとりいれて、
風とおしをよくしようとおもわれたためだ。

3回目の今回は、送料についてどうかんがえるか、が議題だ。
ヤマト運輸が値段をさげたみつもりをもってこられたので、
さがったぶんをどうとりあつかうかをはなしあう。
いまどういう状況にあり、これからどうしたらいいのかという
問題意識をもったことがない議題なので、
ほとんどききやくという存在でしかなかった。

そのあとショップの短・長期計画について
B4版の資料をくばられてこまかな説明がある。
ビニールハウスをどう改善していくか、とか
賃金アップや福利厚生をどう計画していくかなど、
勉強会というより職員会というかんじだ。

店長という立場は、店の経営だけでなく、
必然的にいろんなものを背おわなければならないことに気づく。
家族をやしない、スタッフとその家族の生活を保障するという重荷が、
店長の肩にかかっている。
売上をふやし、スタッフの処遇を改善するのは店長の役目だ。
やらなければならないことはいくらでもでてきて、
それぞれへの対応がいそがれる。
まったく、気のやすまるときがないようにみえる。

わたしはネットの改修がうまくいき、販売が劇的にふえれば、
いっきょに収入がふえるのだろうとおもっていたけど、
そう簡単にはいかないようだ。
注文がふえたときに、それに対応できる栽培体制ができていないと、
せっかくの注文にもこたえられない。
商品をしいれる販売ではなくて、
自分たちがそだてた苗をうるむつかしさは、
生産と販売のバランスをとることにある。
苗をそだてるにはビニールハウスが必要で、
ハウスにはじゅうぶんな水を確保しなければならないし、
ハウスの補修も定期的にくまなければならない。
梱包をどうするか、送料をどうするか、
スタッフの勉強会をどう組織するか。
やればいいことはたくさんある。
それにどう優先順位をつけ、計画をたてていくか。

いい苗をそだてるだけでもむつかしいのに、
それを販売にむすびつけるには
またべつの手間をかけなければならない。
いい苗ができたからといって、
それがすぐうれるようなら苦労はない。
サイトでの集客率をたかめ、必要におうじてファイルを更新していくのは
とても地道で根気のいる仕事だ。
いい苗をそだてて販売するという、
いっけんあたりまえにみえることが、
こんなにたいへんだとはおもわなかった。

わたしがやってる障害者介護の仕事は、
いいサービスを提供することが、ほとんど仕事のすべてであり、
あとはそれに付随するたいして重要ではないことばかりだ。
同業他社が全国にたくさんあり、
どうやってお客さんにえらんでもらうかが
たいへんなハーブショップと、
競争のはげしさがぜんぜんちがう。

サイトのみなおしによって、
注文が劇的にふえることをわたしは期待しているし、
なんだかそんな予感がする。
でも、それが限度をこえた注文となると、
それはそれで、またべつの問題がうまれてくる。

さぬきうどんがブームだったころ、
四国を旅行したことがあり、
有名店には平日でも行列ができていた。
お客さんがたくさんきてくれたら
お店はもうかるだろうからわるい気はしないだろうけど、
おちついて対応しきれないほどのお客となると、限度をこえている。
はたらくたのしさというよりも、
どうお客をさばいていくかにせいいっぱいのようで、
ぜんぜんたのしそうにはみえなかった。

ハーブ販売がそんなことにならないためには、
よほどしっかりとした計画がたってないと、
注文がふえることを単純にはよろこべない。
適度ないそがしさの範囲内で販売と栽培のバランスをとるのは
そう簡単ではないようだ。
商品をしいれてうる仕事にくらべ、
ちいさな規模のハーブショップは
一攫千金にもうけるのがなかなかむつかしい。

posted by カルピス at 22:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月21日

『学問』(山田詠美)心大たち4人の世界にひかれる

『学問』(山田詠美・新潮文庫)

山田詠美の文章のうまさは、
『本の雑誌』では別格あつかいだ。
目黒考二さんが以前『風味絶佳』を絶賛していたのでよんでみた。
たしかにうまいなとおもうものの、
わたしには無縁な完成度のたかさときめつけていた。
でも、この『学問』は、子どもの気もちをそのまま文章にしてあるだけ、
山田詠美の力量がずばぬけているのがわたしにもわかる。

どこに魅力があるのかわからないような心大なのに、
大人も子どももなぜか彼にひきつけられる。
先生も上級生も、もちろんおなじクラスの子どもたちも、
心大にみとめらえたくて、なにかとかかわろうとする。
心大はそれをあたりまえのようにうけとめ、
だからといっていばったり調子にのったりしない。
もう、すごく人間がおおきいのだ。
その心大を中心に、幼なじみの4人が成長していくようすを、
ずっと子どもたちの視線でおっている。

社宅の盆おどり大会をみて、
いなかそだちの心大は

「だって、これ、本物の秋祭りと違うじゃん。
秋祭りみたいなもん、金かけて、
丸ごと作っちゃったって感じじゃん」

と都会からやってきた会社がつくる「おまつり」の
本質をさらっといいあてる。

「心大のいる日常から、ひとたび抜けだしてみると、
世界は案外つまらないものだということが解るのです」

「その内に、麻子さんは煙草をくわえました。
その煙草は、それまで仁美が知っている嗜好品とは、
まるで違うものに見えました。(中略)
夜の空気を溶かす必需品のように思えたのです」

どの表現も、やさいい言葉をつかいながら、
状況をピタリといいあてている。
これはもう、だれにでもできる芸当ではなく、
「うまい」としかいいようがない。

4人はだんだんと成長し、それぞれが自分の価値観から、
すきなひとへのおもいをそだてていく。
大切にするがゆえに、とくにすきでもないひとと
簡単にくっついたりするのがわたしにはない感覚だ。
そして、あんなに泰然とした魅力のあった心大が、
高校生になるとふつうの男子生徒とおなじように
性欲をもてあますただのガキになってしまう。
でも、いったんフツーの高校生になりながら、
そのあとまたひと皮むけさせるのが、
この作品の構成のうまさで、
各章の冒頭にのせられた週刊誌の記事から、
4人がそれぞれにまっとうな人生をおくったことがしらされる。
よみおえたあと、あたたかくてしあわせな気もちになった。

村田早耶香さんの解説がいい。
解説というよりファンレターのような文章で、
これだけ作品の世界をよみとくことができるのは、
村田さんが4人がつくる世界、そして仁美の心情を
ほんとうに自分が必要としていたからだろう。
本をたのしんだあと、解説でまたその本のよさを再確認できるものはそうおおくない。
解説になにか賞があるとしたら、
この解説こそ大賞にふさわしい。

posted by カルピス at 23:41 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月20日

メシはまだか

体調がいいのか、このごろ毎晩のように
ねるころになるとお腹がすいてきて、
つぎの日の朝ごはんをどうくみたてようか作戦をねる。
もちろんとくにかわったごちそうが用意してあるわけではなく、
ご飯にみそ汁を基本形に、
卵かけご飯にしたり、
納豆ご飯にしたりというくらいだ。
卵やきもメザシもないし、
ベーコンエッグなどもちろんつかない。
ご飯のあとにバターをたっぷりぬった食パン1枚をたべるのが
あまり一般的でないくらいで、
あとはごくふつう、というか、むしろ質素な朝ごはんだ。

わたしがなにをたのしみにしてるかというと、
たきたてのご飯やら脂いっぱいのトーストを、
空腹のおなかにつめこむことだ。
夕ごはんをたくさんたべても、
ねるころになるとまたおなかがすいてきて、
我慢できないほどではないが、
朝ごはんがまちどおしい程度には
からっぽのお腹になっている。
そんなときに、つぎの日の朝ごはんをおもい、
卵をかけようか、納豆にしようか、
すごくお腹がすいてるので両方にしようか、とか、
じつにささいなことをたのしみにねむりにつく。

くい意地がはってるのは子どものころからで、
いつまでたっても食事をちゅうしんに生活がくみたてられている。
旅行にいっても、関心があるのはその土地でなにがたべられているか、だし、
本をよんでも、なにをどうたべたかの箇所にすぐ反応する。
かといって、ごちそうがすきなわけではなく、
むしろめずらしくて高価な品には反感をもってしまう。
こういうのを貧乏人のほこり、とでもいうのだろうか。

スタインベックの短編に『朝めし』というのがあり、
文学にあかるくないわたしも、
この物語はすぐだいすきになった。
舞台は大恐慌時代のアメリカで、
仕事をえて、じゅうぶんな食事にありつくことが、
簡単ではなかった時期のはなしだ。
ある家族が10日以上つづけて綿つみの仕事につき、
そのお金で服をあたらしくしたり、
やきたてのパンとベーコンという、
しっかりした朝ごはんを毎日たべられるようになった。
彼らのことばのはしばしから、労働への感謝がつたわってくる。

「若い女はベーコンの皿や、褐色の分厚いパンや、
肉汁を入れた鉢や、コーヒーポットをならべ、
それから自分も箱のそばにすわりこんだ。(中略)
私たちは、めいめいの皿にとりわけて、
パンにベーコンの肉汁をかけ、
コーヒーに砂糖を入れた。
老人は口いっぱいに頬張って、
ぐしゃぐしゃとかんでは、のみこんだ。
それから彼は言った。
『こいつはうめえや』そして、また口いっぱいに頬ばった」

しっかりはたらき、うんと腹をへらせてからガツガツ咀嚼する。
ベーコンの脂をたっぷりとパンにしみこませて
あつくてにがいコーヒーとともに
腹いっぱいになるまでつめこむ。
『朝めし』をよんで以来、
こうした食事がわたしの理想とする朝ごはんとなった。
労働・空腹・脂っこい食事をガツガツ咀嚼・感謝、というのが
充実した朝ごはんにはかかせない。

posted by カルピス at 22:50 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月19日

観光バスに旅行欲を刺激される(でも、2泊3日のソウル旅行をあきらめる)

仕事で、市内を循環する観光バスにのる。
いぜんつとめていた会社でヘルパーをしていたときは、
毎週のようにのっていたバスだ。
ほば2年ぶりにのると、運転手さんがかわっていたり、
まちあい所があたらしくなっていたりと
なつかしさと新鮮さの両方をあじわえて感慨ぶかかった。

平日の観光バスなので、わたしたち以外のお客さんは
すべて観光にきているひとたちだ。
女性2〜3人のグループがいちばんおおく、男女のカップルもすこし、
不思議なのは男性ひとりというお客さんをよくみかけることだ。
なにかの取材にはみえないけど。
午前10時10分に駅を出発する。この段階で満席だ。
観光スポットにつくと、ほとんどのお客がおりてしまうので、
ずっと満席というわけではないけど、
平日にこれだけお客さんをあつめていれば
成功しているといっていいだろう。
観光気分をたのしんでいるひとをみると、
こっちまで観光しているみたいな気がしてくる。
はじめは観光気分があじわえていいなー、
というあたたかな気もちだったけど、
そのうちやっぱり自分だって旅行したい、という欲望にかわってきた。
ホテルにとまって、おなじみのバイキング朝食をたべ、
はじめておとずれる町を仕事なんかわすれて
のんびりまわれたらどれだけたのしいか。

旅行のことをかんがえるとたまらなくなり、
きゅうに2泊3日のソウル旅行をおもいたった。
米子空港からのアシアナ便をつかえば、
1時間もかからずソウルにとべる。
いちばんやすいチケットをさがせば
3万円ほどでなんとかなるはずだ。
3年前に社員旅行でいったソウルは、
料理はおいしいし、マッサージもうけれたし、
手がるな海外旅行をたのしめた。
たった3日間とはいえ、気分転換にはちょうどいいかもしれない。
かんがえはじめると、どんどん気もちがもりあがってくる。
職場にもどるとさっそく相棒に旅行のことをはなし、
年度内に1日やすみをとることにする。
とにかく旅行にいくヤツ、という認識をまわりにもってもらえば、
これからもあまり負担におもわず休暇を申請できるだろう。

問題は配偶者だ。
まえにカンボジアとタイにさそったとき、
仕事でやすみがとれないと、
両方ともつれない返事でことわられた。
吟味したうえでの却下ではなく、
ことわるのがたのしい、みたいな即答だった。
でもまあ今回はたった3日だし、彼女も韓国はすきだからと、
あまり障害はないとおもっていたら、
わたしが候補にだした日は、
むすこの合格発表のまえだからダメ、という。
まえならよさそうなものなのに、発表まえにあそびにでるのは
配偶者の気もちがゆるさないみたいだ。
わたしは合格発表のことなんか
ぜんぜんあたまになかった。
無神経さを指摘されたようでなんだか気まずい。

ひとりでソウルにいってもたのしくないので、
今回はおながれになりそうだ。
1週間くらいならひとりでまわれるけど、
リゾートや短期間の旅行になると
だれかいっしょにいってくれるひとがいないとかっこがつかない。
男2人では絵にならないし、
女性だと、簡単にさそうわけにいかない。
こんなときに適切なあそび相手を確保しておくことが
充実した老後には必要なのかもしれない。
2泊3日というみじかい旅行は、気分転換にはよくても
意外と同行者がかぎられてくるようだ。

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2013年02月18日

『本の雑誌』3月号「安倍晋三の『き』が気になる!」(渡邉十絲子氏)

『本の雑誌』3月号に、渡邉十絲子氏が
「安倍晋三の『き』が気になる!」
という記事をよせている。

渡邉氏が問題にするのは、
安倍総理の発音だ。

「安倍晋三はかって、お腹が痛いと言って総理をやめた。
総理の職場放棄であるから、この時点で失脚していなければおかしい。
この人を許せない理由はほかにもある。
それは彼の滑舌が絶望的に悪く、
なかでも『き』の発音が幼児発音のままだからである。
幼児語を話す男が一国の代表になっていいもんか」

渡邉氏によると、

「『き』は口蓋に舌の後ろの部分を密着させ、
そこにせきとめた空気を破裂敵にまっすぐ前方に出すことで
発音する強い音である。
しかし、多くの幼児は筋力が未熟なためこれができず、
舌の左右どちらかの側から頬っぺたの内側に空気を漏らしてしまう。
結果的に、『ち』に近いような軟弱な『き』になる。
安倍晋三と釈由美子の『き』は
この『幼児のき』である」

わたしは政策うんぬんではなく、
どこか甘ったれた安倍総理のはなし方が以前から気になっていた。
無責任(元)総理という先入観がよくないのだろうとおもっていたら、
「き」の発音にその原因があったのだ。
ただ、背のひくさや顔のつくりなど、
肉体的な部分をあげつらえば差別だけど、
「き」の発音のように矯正が可能なことについてなら
このようにつよい批判をくわえてもいいのだろうか。

渡邉氏は、
「総理以前に一政治家として、
発音矯正はほとんど義務なのでぜひ早急に」
として、篠原さなえ氏の『「魅せる声」のつくり方』
(講談社ブルーバックス)を紹介している。

発音はほんとうに矯正可能なのだろうか。
可能だとしても、かなりの労力をかけなければ達成できないのであれば、
生まれながらのハンディといってもいいのではないか。
言葉は「母語」といわれるように、母親からくちうつしで
まなんでいく。
発音もイントネーションも、その過程で自然に身につけていくものだ。
安倍氏にしても、すきこのんで幼児発音の「き」をおぼえたわけではなく、
ほとんど生まれつきにこの「き」を獲得し、
それ以降も発音しつづけてきたのだろう。

方言は矯正可能だろうか。
わたしはいぜんごくふつうにはなしたつもりのことを、
ひどくわらわれたことがある。
方言だったからだ。
いなかもののわたしは、そのことで傷つき、
サッとカーテンをひいたように
自分をおもてにださなくなった。
うまれながらのことをわらわれるのは、
わらわれる側からすると、どうしようもないことだけにひどくこたえる。
方言と発音とはべつのことかもしれないが、
わたしは「き」の発音について、安倍氏をわるくいう気になれない。
たしかに、一国の総理として矯正をこころみる価値はあるだろう。
しかし、それでもなお顔をだしてしまうのが
生まれもっての発音ではないだろうか。

わたしは安倍氏の発音が生理的にきらいだし、
政策にも共感しないけれど、
「き」の発音をもって、だから安倍氏はダメとはいわないでおこう。
順序としては、わたしがすきになれない政治家の安倍氏は
「き」の発音もおかしい、といういいかたになる。
発音がわるいので人気のない政治家がいても不思議ではないけど、
発音と人格まではむすびつけたくはない。

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2013年02月17日

『鷹の爪THE MOVIE3 鷹の爪.jpは永遠に』3年まえの作品だけど、いまがちょうどみごろかも

『鷹の爪THE MOVIE3 鷹の爪.jpは永遠に』

『バンド・オブ・ブラザース』をかりにレンタルビデオ店にいったとき、
5本以上かりたら1本100という日だった。
『バンド・オブ・ブラザース』は録画した回もあるので
4本しかかりなくてもいい。
で、5本にするためにえらんだのがこの『鷹の爪The Movie3』だ。
関係者もファンも、まさか3本目ができるとはおもってなかったのではないか。

『鷹の爪THE MOVIE3 鷹の爪.jpは永遠に』は
2010年1月に公開された作品で、時代背景としては、
オバマ大統領が就任して間がないということ、
サブプライムローン問題が世界じゅうに影響をあたえていること、
おおくの国が核兵器を開発し、核の抑止力がよわまっていること、などがある。
北朝鮮が3回目の核実験をしたばかりという
3年後のいまみても、まだ賞味期間はすぎておらず、
現在の問題としてかんがえることができた。

アメリカのオババ大統領が、
すべての核兵器を放棄することを宣言する。
世界平和のためをよそおいながら、
じつは、核兵器をはるかにこえる(『未来少年コナン』みたいだ)
「博士の動く城」をひそかに開発し、
あらたな世界秩序をつくろうとしているのだった。

アメリカが核兵器を手ばなすことで
パワーバランスがくずれ、各国はその対応にせまられる。
ロシアも中国も、オババ大統領の真意をはかりかね、
首脳陣が緊急会議をひらいているなか、
日本のおえらがたは「アニメの殿堂」がなんたらかんたらとはなしている。

今回の主役はレオナルド博士と島根県だ。
伏線がいろいろはってあるので、
鷹の爪のファンでなければ前半は
しょうしょうみるのがつらいかもしれない。
わたしはこの作品を、誕生日プレゼントとして
ふるくからの友だちにおくった。
彼は小学生のむすこさん2人といっしょにみてくれて、
やはり前半ははなしにはいりこめなかったといっている。

ただ、ラストの画像は圧巻だ。
「博士の動く城」や潜水艦のうごきは超リアルで、
生理的な快感をおぼえる
(そのぶん予算をくいつめてしまい、
総統はへのへのもへじでえがかれることになるけど)。

鷹の爪の団員が、それぞれふるさとにかえり、
骨やすみをしてもどってくる。
吉田くんがいうには、
島根県がなくなっていたので、
かわりに鳥取にいっていたそうだ。
吉田くんが島根へのチケットをもとめようとすると、
係のひとが「島根なんてありませんよ」という。
「島根だよ島根。鳥取の左にあるだろ」
でも、ほんとうに島根県がなくなっていた。
これがじつは重要な伏線で(というほどでもないか)、
ラストでは島根県が世界をすくうことになる(ネタバレ注意)。

3作目としての工夫に「バジェット・ゲージ」がある。
制作費をどれだけつかいこんでいるかが視覚的にわかるゲージで、
ずっと画面の右側にうつっていた。
しかしじつは粉飾決算で、とうのまえに赤字になっていたため、
バジェット・ゲージが何本もたまっていた。
のちにこれが弾頭として使用される。
この「怒りの不良債権魚雷」をうちこまれた敵艦は
みるみるうちに手ぬきの画像になっていった
(「ワーキングプアをなめんなよ!」という吉田くんのセリフあり)。

へりすぎていく予算をなんとかするために、
作品のなかでスバルのレガシーとフォレスターが登場し、
その性能を吉田くんが絶賛している。
宣伝が露骨であるほどバジェット・ゲージのめもりが
回復するというしくみだ。

もうひとつの工夫として、
映画のとちゅうでねてしまったひとのために
「あらスジタイム」がもうけられた。
作品のなかで、はなしが佳境をむかえたときに、
じっさにこの「あらスジタイム」が登場したが、
ぜんぜんちがうはなしをはじめるので、
残念ながら役をはたさなかった。

島根県が主人公、という意味は、
「博士の動く城」が開発された研究所はじつは島根県にあったからだ。
日本一しられていない島根県なら、
世界じゅうのひとがその存在をしらないだろうからと、
ここにつくられた。
鷹の爪団が敵にとらわれたときにすくいだしたのは、
吉田くんのふるさとの老人たちのグループで、
温泉をさがしてさまよっているときに
「たまたま」この研究所にはいりこんできた。
映画のラストでは、「核兵器では」たおせない「博士の動く城」を
吉田くんのおじさんが運転する島根県が、
たいあたりでこわしてしまう
(「県は剣よりもつよし」という吉田くんのセリフあり)。
まあ、めちゃくちゃなわけだけど、
島根県の場所をおぼえる意味でもおすすめの作品なので、
ぜひおおくのかたにみていただきたいとおもう。

エンディングは当時話題だったスーザン=ボイルがうたっている。
どんなコネでこんなことができたのだろう。

posted by カルピス at 21:59 | Comment(0) | TrackBack(0) | 鷹の爪 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月16日

2月にチェンマイですごす「ランニング」さんがうらやましい

高野秀行さんのブログに、
元たまのランニング氏のライブをみにいったことがかいてある。
「ランニング」こと石川浩司さんが高野さんのファンであり、
石川さんのライブにツイッターでよばれたのだという。

石川さんは、日本のさむさをのがれて
毎年2月はチェンマイですごしているそうだ。
こういう記事にわたしはよわい。
すごくうらやましくなって、
自分でもそんなサイクルですごしたいとおもう。
ひとの生活をうらやましがってもしょうがないのに、
この手のはなしには、どうしても敏感に反応してしまう。

夏は日本ではたらいてお金をかせぎ、
冬の半年をあたたかい場所ですごすというスタイルは
わりとよくみみにする。
わたしはほんとうにそんな生活にあこがれているのだろうか。

以前はバラ色の老後を夢みてたけれど、
だんだんと年齢をかさねていくうちに、
老後の生活をむかえられたとしても、
快適な環境を獲得しているかどうかは
かなりふたしかであることがわかってきた。
健康とお金に不安のないひとは、そうおおくないだろう。
退職してから隠居をスタートさせていては、
のんきな生活がおくれないこともじゅうぶんにありえる。

というわけで、このごろは退職してから
がらっと生活をかえるのではなく、
基本的には現役のときから老後にかけて、
おなじスタイルですごしたいとおもうようになった。
仕事を引退してから老後がはじまるのではなく、
仕事をしているときから、
それからさきの生活をとりいれていくということだ。
わたしが大切にしたいのは
運動・旅行・農的生活・読書なので、
いまから半分隠居の生活をさきどりすることが、
ふたしかな人生をくいなく生きる方法ではないか。

いまは午前中がだいたい自由になるので、
本をよんだり運動をする時間にあてられる。
つぎはこれにお米や野菜つくりをとりいれたい。
とにかくうごきだせばつぎの課題がみえてくるはずだ。
数年先には、2月のチェンマイで
石川さんとおしゃべりする日がくるかもしれない。

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2013年02月15日

『バンド・オブ・ブラザース』バストーニュが兵士たちにのこしたトラウマ

『バンド・オブ・ブラザース』(6話・衛生兵)

冬のさむさは服をきこめばがまんできる、
なんてわかったようなことをこれまでいってたけど、
今年のさむさはジワジワとからだにひびいてくる。
さむい朝はおきにくいし、おきても身がるにはうごけない。
こんなときには、ここがバストーニュの森でなくてよかったと
自分にいいきかせる。
ここにはストーブがあり、ヒートテックがあり、
あたたかいたべものがある。
なによりも敵にねらわれることがない。

『バンド・オブ・ブラザース』の6話と7話は
バストーニュでのたたかいがえがかれる。
「たたかい」の相手は、ドイツ兵だけではない。
氷点下をきるさむさのなか、
数ヶ月のあいだ森のなかにタコツボをほってたてこもる。
弾薬も食料も防寒着も不足し、
ドイツ軍の砲撃にもさらされながら、
いつおわるともしれぬ状況で森をまもる。
なにかはっきりした状況をまつのではなく、
ただタコツボにたてこもることが
精神的にもどれだけつらいことか。
冬のホームレスたちのくらしを
わたしはよく気のどくがるがるけれど、
さらにきびしいさむさのベルギーの冬を、
貧弱な防寒着だけで何ヶ月も野外ですごすなんて、
どうかんがえてもわたしにはできない。

6話は衛生兵のユージーンが主人公だ。
森でたてこもるうちに、薬はそこをついてくる。
兵士のあいだをまわって
モルヒネやハサミなどをたのんで提供してもらう。
ケガをした兵士には、応急処置をしたのち
町の医療所までつきそう。
ただでさえやせたユージーンが、
たいした防寒着もつけずにタコツボをめぐり、
ケガをした兵士の手あてをし、こごえながらただ朝をまつ。
なにをこころのよりどころに
兵士たちはこの状況をたえているのだろう。

おおくのたたかいを経験してきた古参兵も、
バストーニュの森の消耗戦では
精神的にまいってくる。
部下おもいのコンプトン中尉は
ついにこころがおれてしまった。
かたいきずなでむすばれていたE中隊においてさえ、
バストーニュを経験したかどうかによって、
隊員どうしの意識がまるでちがってくる。

8話では、古参兵のウェブスターが病院から復帰し、
E中隊にもどってきたものの、
彼をみる兵士たちの視線はつめたいという場面がある。
ウェブスターがバストーニュでのたたかいを共有していないからだ。
おなじように病院から復帰してきたポパイを
仲間としてあたたかくむかえるのとぜんぜんちがう。
バストーニュでの経験は、兵士たちにおもいトラウマをのこす。
バストーニュをいっしょにたたかったかどうかで、
ほんとうの仲間かそうでないかをとわれている。
いい、わるいではなく、それほど兵士たちのこころに
おおきな影響をおよぼしたたたかいだった。
「バンド・オブ・ブラザース」(きずなでむすばれた兄弟たち)は
このような、ながくくるしいたたかいを共有したことで
より強固なものになっていった。

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2013年02月14日

『バンド・オブ・ブラザース・9話』ユダヤ人強制収容所と、侵略軍としてのE中隊

『バンド・オブ・ブラザース』(9話・なぜ戦うのか)

9話の冒頭のシーンは、爆撃で廃墟となった町で、
住民が瓦礫をかたづけるているのを
E中隊の連中がながめている。
ある兵士が
「ドイツ人はきれいずきでいいよなー」
とつぶやく。
みている側は、はじめなんのことかわからない。
かなしいときにでも、かたずけにとりかかる
国民性のことをいっているのかとおもった。

つぎの場面は、そのときから1ヶ月さかのぼる。
森を偵察していた兵士たちが、
とんでもないものをみつけた、と
おおあわてでウィンターズ大尉に報告にもどる。
なにをみつけたのかたずねても、
兵士は自分がみたものを理解できず、
とにかくきてくれ、としかいえない。

それは、ユダヤ人を隔離するキャンプだった。
鉄条網のむこう側には、
やせほそったユダヤ人たちが、
ただぼうぜんとつったっている。
アメリカ兵に開放されても、
あまりにも衰弱しきっていて、
よろこぶこともできない。
そこらじゅうにボロきれみたいになった死体が
山づみでほったらかしにされている。
ならんでいる小屋をあけると、
うなぎの寝床みたいな窮屈なスペースに
ぎっしりとユダヤ人がおしこまれている。
ハンカチを鼻にあてないとがまんできないほどの悪臭。
ここがなんなのか、アメリカ兵たちは理解できない。
囚人かとたずね、そうではなく、いっぱん市民であること、
ただ、ユダヤ人であることをつたえられても、
目のまえの光景はあまりにも異常であり、理解をこばむ。

米軍の指揮官は、町の住民にこのキャンプのかたづけを命令する。
アメリカ兵たちは、こんなひどいキャンプをゆるしてきた住民たちにたいし、
しんじられないおもいからきびしくあたる。
しかし、住民たちはこのキャンプの存在をまったくしらなかった。
彼らもまたあまりの惨状におどろきながら、
ハンカチで鼻をおおい、死体の山をかたづける。

ドイツ領内のあちこちで、
このキャンプとおなじような場所がみつかっていること、
この10倍規模の最悪のキャンプをソビエト軍が発見したと、
作品のなかでかたられている。
番組のさいごには、
大戦をつうじて、500万人の少数民族と、
600万人のユダヤ人が虐殺されたことが報告される。
ソビエトも、ドイツ軍の侵略によって2000千万人の犠牲者をだしている。
ナチスドイツがやったことは、桁はずれに異常だ。

冒頭の「ドイツ人はきれいずきでいいよなー」は
やりはじめると徹底的に破壊しつくしてしまう
ドイツ人たちのすさまじさについて
皮肉ではなくおもわず口にでたことばだった。

9話は、2つのはなしからなる。
米軍が侵略軍となること。
そしてこのユダヤ人収容所だ。

あれだけ士気がたかく、規律のまもられていたE中隊なのに、
ドイツ人の家にはいりこむと、めぼしいものを物色する。
ほっておいてもどうせあとの部隊にとられるからと、
ウィンターズ大尉ですら略奪に加担する。

軍隊にはこうした一面がかならずある。

以前よんだ『あの年の春は早くきた』
(クリスティーネ=ネストリンガー・岩波書店)には、
ソビエト兵たちが解放軍としてウィーンにはいってくる、という状況で
町のひとたちがおおあわてでにげだしていく場面がある。
自分たちが侵略軍として、どれだけひどいことを
ソビエトのひとたちにしてきたか、
よくわかっているからこそ、
しかえしをおそれてにげだすのだ。
戦争を、日常生活のなかの
非日常的なできごととしてたのしむ子どもたちと、
ひごろえらそうにいっているくせに、
うろたえてしまう大人たちのうごきが対照的だった。

ナチスドイツがやったユダヤ人虐殺と、
解放軍である米兵たちの暴力性について、
この9話ではとりあげられている。
戦争はおわりがみえてきた。
しかし、そうした事態になってはじめて
あきらかになってくることがある。

posted by カルピス at 22:30 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月13日

『バンド・オブ・ブラザース』マニアックなまでのリアリティ

『プライベート・ライアン』がよかったので、
ネットをしらべていると、
その続編というかサイドストーリーというか、
『バンド・オブ・ブラザース』という作品をしることになった。

『バンド・オブ・ブラザース』は10話からなるシリーズもので、
ノルマンディー上陸から、終戦までのアメリカ陸軍101空挺師団
(とくにそのなかのE中隊)のたたかいをおっている。
第1話はDデイの前夜からはじまるものの、
2年間の訓練が回想としてとりあげられているので、
あしかけ3年にわたって対ドイツ戦がえがかれることになる。

10話それぞれに完成度がたかく、
ひとつひとつのはなしについてふれてみたくなる。
今回は、『バンド・オブ・ブラザース』全体についての印象だ。

なんて金をかけた作品なんだと、まずはおどろかされる。
C47輸送機の大編隊が離陸する場面など、
どうやって撮影したのだろう。
でてくる車両もこれまでにみた戦争映画のなかでは
圧倒的にそれっぽくつくられている。
わたしは以前タミヤの35分の1模型で
ドイツ陸軍をもっぱら専門にしていたことがあり、
タイガーT型やU型、それにW号戦車がすきだった。
戦争映画をみるときには(『バルジ大作戦』など)、
ドイツ軍戦車のできをたのしみにしていたのに、
なんだかへんてこに仮装させられたものが
かわりにつかわれており、いつもがっかりしたものだ。
『バンド・オブ・ブラザース』では、
タイガー戦車はまさにタイガーそのもので、
特殊効果による映像もあるのだろうが、
うまく処理されていて、わたしにはみわけがつかない。
ドイツ軍の戦車や米軍のジープ・シャーマン戦車・
イギリス軍のマチルダ戦車など、ちゃんとそれらしくつくってある。
戦車というとなにかといえばタイガー戦車ばかりもちあげられるけど、
第2次大戦をつうじてドイツでいちばんつくられた戦車は
W号戦車であり、
それが『バンド・オブ・ブラザース』にはちゃんとでてくる
(V号突撃砲なんてのまででてきたのにはおどろいた)。

軍事車両だけでなく、町のセットや
膨大な数のエキストラと、その服装など、
こだわりにおどろかされることがおおい。
兵士の装備などを再現しようとしたら、
銃や手榴弾、それに軍服など、それぞれに
生産工場が必要だったのではないか。
圧倒的なリアリティは、
まさに1944年のヨーロッパ戦線を再現させることに成功した。

これだけこった作品をつくるのに、
どれだけお金がかかったことだろう。
あまりにもお金がかかるので、その資金を回収しようと、
『バンド・オブ・ブラザース』のあとに
おなじセットで別の作品をつくろうとした。
それが『プライベート・ライアン』だ、という説明をおもいついた。
しかし、事実は逆で、『プライベート・ライアン』の3年後に
『バンド・オブ・ブラザース』がつくられているので
両者の作品はそれぞれべつのそろばんがはじかれた、
とみたほうがよさそうだ。
日本ではかんがえられないお金のかけかただろう。

これだけ細部にこだわった作品が、
内容ではずっこけました、ということはまずない。
神は細部にやどるのであり、
そこをマニアックにおさえた『バンド・オブ・ブラザース』は、
みごとなシリーズとして
それぞれのストーリーで興味ぶかい人間像をしめしてくれる。

posted by カルピス at 22:51 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月12日

意外と革新的な保守王国

法事のため、配偶者の実家がある掛合へ。
お坊さんがこられるまで、
こたつにあたっておしゃべりをしてまつ。
お客は60歳以上の方ばかりで、
わたしはひたすらきいているだけだ。

話題は健康のはなしから政治へとながれる。
意外とあついはなしがかたられるので、おもわずききみみをたてた。
480ある国会議員の議席が、なんで300までへらないのか、とか
老人にだけ年金を手あつくしていたら、
わかい世代がとてももたないとか、
安倍さん(首相)がお札をどんどんすってるけど、
そんなのつづくわけない、とか、
老人の会話というよりこれからの若者がはなしているようだ。
掛合というと竹下元総理のお膝元であり、
いまも竹下亘氏をおくりだしているバリバリの保守王国だ。
そこの老人たちが、こんな革新的な意識をもっていることにおどろいた。
3年くらいですぐに結果がだせるわけがない、と
民主党の肩をもつ意見もでるし、
いまの政治はだれがやってもおなじだ、と
あきらめきったようにだれかがいえば、
「でも共産党がやればちがうだろう」と、
ぜったいに掛合ではきかれないとおもっていた発言がある。
「いや、共産党でもいっしょだ」と
すぐにねじふせられたけど。

これからの日本について、ここの老人たちはほんとうに危機感をもっている。
彼らの目からみて、よほどいまの日本は
がけっぷちにたっているようにみえるようだ。
自分たちはもういいおもいをさせてもらったから、
これからはわかいひとがやる気のもてる国にならないとダメだという。
こうした議論において、掛合の老人たちが意外なほど情報通で、
数字をあげて状況を判断していることにおどろいた。

おひるすぎに各家庭にひかれている有線がなった。

「こんにちは。
ひるの放送です。
この時間のおしらせはありません」

というものだ。
「おしらせがない」というのがすごく新鮮にきこえた。
「おしらせがない」のにもっともらしく
ニュースをながそうとするから番組がおかしくなってくる。
ないときは、「ない」でいいんだ。

まえによんだ本に、
記事がないときにある地方の新聞では

「そろそろ熊をだすか」

というのが
ほんとうにおこなわれていたそうだ。

「◯月◯日、午後◯時◯分ころ、
◯◯地区のだれだれさん宅付近に熊がでました」

とやれば、紙面がうまるし、
そのことによってだれがこまるわけでもない。

そんなことをするより、
きょうはニュースがありません、と
平気でいえるゆるさのほうがここちいい。
いなかは保守的、とはかんたんにきめつけられない
意外な掛合の一面をしった。

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2013年02月11日

『プライベート・ライアン』オマハビーチでの戦闘シーンにショックをうける

『プライベート・ライアン』(1998年・アメリカ)

オープニングのノルマンディー上陸では
これでもかというほど無残な戦闘シーンがつづく。
映画の『史上最大の作戦』では、
連合軍のはなばなしい活躍がえがかれており、
いけいけドンドンの楽勝の作戦かとおもいこんでいた。
この『プライベート・ライアン』はすごくリアルだ。
上陸艇のとびらがひらかれたときから
兵士たちはドイツ軍から猛烈な機関銃掃射をあび、
大規模な被害をうける。
ちぎれおちた自分のうでを、
呆然とさまよいながらひろう兵士とか、
さっきまで通信していた兵士が、
つぎの瞬間には被弾して顔がえぐられているとか、
自分のはらわたがあふれでて、
なすすべもなくなきさけぶ兵士とか、
海におちてもまだ機関銃のタマがふりそそぎ、
水中で死んでいく兵士とか、
これが戦場なのだと、わたしはショックをうける。
これまでの戦争映画とは、はっきり一線をかくする戦闘シーンだ。
海岸にいてはねらいうちされるだけで、
でも状況が正確につかめずに、
つぎにとるべきうごきが兵士たちもわからない。
ミラー大尉の小隊は、ようやく砂丘にとりつき、
ドイツ軍のトーチカを攻略する。

このごろしょっちゅう戦争のシュミレーションゲームをしているむすこに、
戦争の悲惨さをおしえる意味で、
この冒頭のシーンをみせたくなった。
わたしがじっさいの戦争を体験したわけでもないのに、
えらそうに「これが戦争だ」なんていえるはずないけど、
このシーンをみてなにかをかんじてほしいとおもった。

これは、スカパーが特定の期間を無料で放映した番組だ。
これまでなんどもみているので、
オマハビーチのたたかいを、ほんのすこしだけ、とおもっていた。
しかし、すぐれた作品のおおくがそうであるように、
『プライベート・ライアン』もいちどみはじめると
とちゅうで目がはなせなくなった。
ながい作品なので、こまったなー、とおもいつつ、
けっきょく全部みてしまう。

おびえてうごけずに、仲間をみごろしにしたアパムにいらつくけど、
きっとあれがよくある反応で、
アパムは戦争での自分の姿だとおもったほうがいいだろう。
恐怖にこおりつき、戦闘のはげしさにパニックにならないほうがどうかしている。
とはいえ、あそこまでふつうにビビってしまう兵士は、
これまでの戦争映画ではみられなかった。
この作品におけるアパムの存在意義について
くわしくかかれているブログがあり、
とても参考になった。

ミラー大尉がオマハビーチで
味方が用意しているサンドイッチをじっとみるシーンがある。
チーズとベーコンがたっぷりはさんである
ごっついサンドイッチだ。
ポットからはコーヒーがそそがれ、
米軍の物資のゆたかさが印象にのこる。
はじめてこの作品をみたときは、
かなりながい時間このサンドイッチがアップになるので
不思議におもったものだ。
今回あらためて注意してみると、
「凝視」というほどではなく、
ちょっとこだわってみてしまった、というシーンにすぎなかった。
豪勢なサンドイッチに意識がいってしまい、
わたしの記憶にのこっただけなのだろうか。

ミラー大尉がなににこだわったのか。
自分たちが苦労して確保したこの浜で、
当然のようにゆたかな物資にかこまれている兵士たちへの違和感と、
でも、いまさらそんなことをいってもどうしようもない、という諦観か。
戦争とはなんなのか、
なんのために自分はたたかっているのかを、
ミラー大尉はずっとわたしにかんがえさせる。

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2013年02月10日

『ミッドナイト・イン・パリ』(2011年・アメリカ)

『ミッドナイト・イン・パリ』

ふるい時代のパリにあこがれるアメリカ人の脚本家(ギル)が、
フィアンセといっしょにパリをめぐる。
ある日、まよいながら夜の町をあるいていると、
プジョーのビンテージカーにひろわれ
芸術家たちのパーティにまねかれる。
パーティー会場は1920年のパリで、
スコット=フィッツジェラルドと妻のゼルダがいた。
いつの間にかギルはタイムスリップしており、
べつの店にいくとそこにはヘミングウェイがいて、と
当時のパリにいた芸術家にのきなみであうことになる。
ピカソ・ダリ・T=S=エリオットと、
わたしでも名前ぐらいはしってる有名な芸術家が
それっぽい雰囲気で登場する。
現代から20年代に場面がかわっても、
ぜんぜん違和感がないのは、さすがにパリだ。
東京では絶対にああはいかない。

ギルは20年代と現代をいききするうちに、
いつの時代にいてもむかしにあこがれるひとがいることに気づく。
あこがれていた20年代のパリにのこるのではなく、
現代のパリでくらすことにきめる。
婚約者との関係がギクシャクしてきて、
けっきょくギルはアンティーク店ではたらく
セレブでもなんでもないフツーの女の子(ガブリエル)にひかれていく。

もっともらしい顔をした歴史上の有名人が、つぎつぎとでてくるので、
客席からときどきわらいがおこる。
フィッツジェラルドたちは、
ほんとうに毎日ああやってあそんでいたのだろう。
『グレート・ギャツビー』にでてくる
パーティーの雰囲気がわかったのが収穫か。
ストーリーは単純で、ただおもしろがってみていればいい。
ふるいパリの雰囲気もよくでていて、
みているだけでもたのしかった。
へたにいじくるとやりすぎになるギリギリのラインをじょうずにまもって
いやみのないおしゃれな作品にしあがっている。
へんに教訓をからめないのもよかった。
ほとんど起伏がなく、みおわってからふりかえると、
いったいなんだったのだこの作品は、というかんじだ。
ギルとおなじように、夢のなかをさまよっていたような気がする。

posted by カルピス at 20:56 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月09日

豚ももきりおとしでは、もちろんビーフシチューはできません

ビーフシチューをつくる。
テキストは栗原はるみさんの『ごちそうさまが、ききたくて。』だ。
ビーフシチューというと、手がかかる料理におもえて
これまで敬遠してきた。
はるみさんは「わたし流に簡単にしたレシピ」とかいているし、
ざっとレシピをみても、すくない材料でなんとかなりそうなので、
生まれてはじめてつくってみる気になった。

材料のかいものにでかける。
牛の肩ロース500グラムを
4センチ角にきる、とかいてある。
スーパーには、そもそもそんなかたまりの肩ロースはなかった。
しかたないので豚もものきりおとしで代用する。
はやくもこの時点で「ビーフシチュー」に黄色信号、というより、
どう強弁しても「ビーフシチュー」ではなくなった。
うすぎりにした玉ねぎを15分ほどいため、
そこに小麦粉をいれてまたいため、
赤ワインやらスープをいれる。
トマトピューレもないので、
かわりにトマトの水煮だ。
それを1~2時間にる、とかいてある。
これもみおとしていた。

今回にかぎらず、料理のレシピは不思議なほど頭にはいらない。
つくりながらテーブルにひろげた本をなんどもみなおす。
全体像を理解してからとりかかればいいのに、
いつも料理しながらレシピをたしかめる。
確認できるのはいちどにひとつのことだけだ。

煮こんだスープのなかにジャガ玉ニンジンをいれ、
やわらかくなったら塩コショウで味をととのえる、
というのは料理の常識であり、いつもならそうするのに、
今夜はなぜか逆上してしまい、
塩コショウで味をきめてから野菜をいれた。
当然ニンジンがなかなかやわらかくならない。

ビーフシチューをビーフシチューたらしめるコアな部分は、
きっと牛肉(肩ロースのかたまり)と
長時間の煮こみにあるのだろう。
それを両方ともスキップしたわたしの料理は
もちろんビーフシチューとよべるものにはできあがらず、
トマト味のシチューとでもいうべき
別のものができあがった。
にたような食材をつかっているので、
たべられないものにしあがったわけではないが、
すくなくともビーフシチューでないことは
わたしにもわかる。
あえて表現すれば、ハヤシライスをうすめたようなスープ、
とはよべそうだ。
やすみの日にはちょっと時間をかけて
ふだんできない料理を、という計画はよかったけど、
お金をけちっては目的をはたせない。

栗原はるみさんとしたら、
せっかくだれにでもつくれるレシピを提案したつもりなのに、
豚肉をつかわれたり、煮こみを省略されたりして
別のものができあがれば不本意だろう。
1~2時間の煮こみはまだしも、
4センチ角の牛肩ロースをつかう料理は
ケチなわたしにはつくれそうにない。
さすがビーフシチューだ。

posted by カルピス at 21:16 | Comment(0) | TrackBack(0) | 料理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする