きのうはJリーグ第4節、横浜F・マリノス対FC東京をみる。
ずっとマリノスがおしながら、
さきに点をとったのは東京だった。
前半27分に李忠成がボレーシュートをきめる。
でも、マリノスはぜんぜんあわてない。
後半16分に中村俊輔のフリーキックでおいつくと、
そのあとすぐに藤田のヘディングで逆転する。
FC東京はマリノスのディフェンスをきれいにくずして
ふたたび同点にするが、
試合終了間際に藤田の2点目でかちこした。
すべての時間帯において、
マリノスのふところのふかさが印象にのこる。
自分たちのサッカーをつづけていれば、
そのうちかならずおいつける、
という確信をもってプレーしているのがつたわってくる。
開幕から3連勝中という、いきおいもあるのだろう。
きょねんはおなじ時期にいいサッカーをしながらも
なかなかかち点をのばせなくて、くるしんでいたことをおもうと、
かつことで得る自信は、なにごとにもかえがたいことがわかる。
いっぽうで、川崎フロンターレはまだ1勝もあげていない。
風間監督にかわって2年目となり、
その戦術が浸透するのが期待されていた。
しかし、これまで2敗2分と、結果がでないのが気にかかる。
まだ4節とはいえ、おかしいおかしいと
おもっているうちにずるずるいってしまうのが
リーグ戦のこわいところだ。
きょねんのガンバはまさにさいごまで「こんなはずでは」の
状態からぬけだせなかった。
1勝すればそれをきっかけにかわれるというけど、
あせりがでないうちにはやくぬけだしてほしいところだ。
大宮はまけなしの2勝分で現在4位につけている。
昨シーズンの終盤からかぞえると、
これで15戦まけなしなのだそうだ。
残留あらそいで名前をうった大宮なので、
このままでは「おちない」お守りがうれなくなってしまうと、
いまから余計な心配をしてしまう。
きょうおこなわれたJ2では、
ガンバが札幌あいてに3−1と、リーグ戦2勝目をあげた。
ひいてまもるJ2のむつかしさは以前から指摘されているし、
どのチームも打倒ガンバでがんばってくるだろうから、
うけてたつガンバはそうとうたいへんだ。
その点で、降格チームどおしの札幌が相手だと、
これまで対戦のなかったチームよりたたかいやすいのだろう。
これでリーグ3位と、なんとかかっこがついてきた。
ガイナーレ鳥取は長崎に1−3でやぶれる。
それまで3位につけており、おもわぬ好調ぶりにおどろいていた。
いちばんちかくにあるチームとして、
また松江出身の小村監督になったこともあり、
いつもよりすこしだけガイナーレを気にとめている。
今シーズンはガンバ効果によって、
これまでよりJ2が注目されそうで、
応援にもでかけようとおもっている。
2013年03月31日
2013年03月30日
『東京原発』映画として失敗し、反原発の啓発でも失敗した残念な作品
『東京原発』(2004年・山川元監督)
『東京原発』をみる。
ぜんぜんおもしろくない。
役者はそろっているのだから、
わるいのは脚本と監督だろうか。
燃料テロや利権問題など、
料理のしかたではおもしろくなりそうなのに、
無残に材料がいかされずにみごとにすべっている。
わらいをとりたい場面でも、
会話が不自然でぜんぜんおかしくない。
題名から、東京に原発をつくるはなしなのがわかっており、
その部分におどろきはない。
あとは、どうやってその奇抜なアイデアにリアリティをもたせるかだ。
東京都知事の天馬氏が、
東京に原発をつくれば
いろいろなことがうまくいくと、
局長たちをあつめた緊急会議で提案する。
税金がはいるし、原発からでる熱で
冷暖房にお金がかからなくなる。
もともと、東京でつかう電力を、
とおくはなれた場所にある原発から
もってくることがおかしいのだ。
ものものしいコンクリートのたてものが、
地方の景観をだいなしにするし、
大都市への送電線をはりめぐらすことで、
むだなコストがおおい。
安全面についていえば、
地方につくることをゆるしているくせに、
東京に原発をもってくるのには反対するというのでは、
倫理的にも破綻している。
原発が問題だらけの発電法であることもあきらかだ。
原料のウランや、発電によってうまれるプラトニウムは
環境や人体を広範囲に汚染する。
しかし、日本の政策ではエネルギー研究の9割が
原発につかわれており、
ほかのエネルギーを開発する予算が確保されない。
そういった非常識が、しかし現実にはまかりとおっており、
その矛盾を作品は視聴者に指摘しているかたちだ。
招集した会議のなかで、知事が
原発のメリットと危険性が説明する
(というかたちで、視聴者に説明する)。
会議で議論されているデーターは、おそらくただしいのだろう。
しかし、それを会議で説明する場面がながすぎてたいくつしてしまう。
フランスからおくられてきた再処理ずみのプラトニウムが
「たまたま」お台場につき、それをつんだ燃料トラックが
爆弾マニアの少年に「たまたま」トラックジャックされる。
トラックの運転手のあつかいもおそまつだった。
道にまよった運転手が高速道路をおり、
それに少年が「たまたま」のりこむ。
助手席に銃をもった少年をのせたまま、
その運転手がよいつぶれるまでコップ酒をあおる。
ありえない。
荷物をとめるロープがしっかりかかってないことを
なんどもアップでうつし、
今後の展開で重大な意味をもつであろうことを
親切に観客にしめす。
大昔の作品でもあるまいに、ずいぶん観客をばかにした演出だ。
なぜこんなにずっこけてしまったのだろう。
映画でうったえたかったことはよくわかる。
しかし、反原発のプレゼンテーション的な性格がつよくですぎており、
映画としてなりたっていない。
東日本大震災がおきたあとでこの作品をみると、
地震についてのよさわなど、
会議で議論されていたことがそのまま現実となっており、
そうした意味では反原発についてのすぐれた啓発となっている。
しかし、大震災がおき、原発の不安定さと放射能のおそろしさを
日本中のひとがおもいしったはずなのに、
原発でうるおう勢力は、
2年もたたないうちから再稼働を平気でいいはじめる。
そして、それを支持するたくさんのひとたち。
2004年に『東京原発』がこころみた
原発政策への注意喚起は失敗だった。
それは作品の内容とは関係がなく、
たとえどんなにすぐれた作品であったとしても、
安全にたいする日本人の意識はかえられないのだろう。
『東京原発』は、映画として失敗し、
目的としていた反原発の啓発でも失敗した残念な作品だ。
『東京原発』をみる。
ぜんぜんおもしろくない。
役者はそろっているのだから、
わるいのは脚本と監督だろうか。
燃料テロや利権問題など、
料理のしかたではおもしろくなりそうなのに、
無残に材料がいかされずにみごとにすべっている。
わらいをとりたい場面でも、
会話が不自然でぜんぜんおかしくない。
題名から、東京に原発をつくるはなしなのがわかっており、
その部分におどろきはない。
あとは、どうやってその奇抜なアイデアにリアリティをもたせるかだ。
東京都知事の天馬氏が、
東京に原発をつくれば
いろいろなことがうまくいくと、
局長たちをあつめた緊急会議で提案する。
税金がはいるし、原発からでる熱で
冷暖房にお金がかからなくなる。
もともと、東京でつかう電力を、
とおくはなれた場所にある原発から
もってくることがおかしいのだ。
ものものしいコンクリートのたてものが、
地方の景観をだいなしにするし、
大都市への送電線をはりめぐらすことで、
むだなコストがおおい。
安全面についていえば、
地方につくることをゆるしているくせに、
東京に原発をもってくるのには反対するというのでは、
倫理的にも破綻している。
原発が問題だらけの発電法であることもあきらかだ。
原料のウランや、発電によってうまれるプラトニウムは
環境や人体を広範囲に汚染する。
しかし、日本の政策ではエネルギー研究の9割が
原発につかわれており、
ほかのエネルギーを開発する予算が確保されない。
そういった非常識が、しかし現実にはまかりとおっており、
その矛盾を作品は視聴者に指摘しているかたちだ。
招集した会議のなかで、知事が
原発のメリットと危険性が説明する
(というかたちで、視聴者に説明する)。
会議で議論されているデーターは、おそらくただしいのだろう。
しかし、それを会議で説明する場面がながすぎてたいくつしてしまう。
フランスからおくられてきた再処理ずみのプラトニウムが
「たまたま」お台場につき、それをつんだ燃料トラックが
爆弾マニアの少年に「たまたま」トラックジャックされる。
トラックの運転手のあつかいもおそまつだった。
道にまよった運転手が高速道路をおり、
それに少年が「たまたま」のりこむ。
助手席に銃をもった少年をのせたまま、
その運転手がよいつぶれるまでコップ酒をあおる。
ありえない。
荷物をとめるロープがしっかりかかってないことを
なんどもアップでうつし、
今後の展開で重大な意味をもつであろうことを
親切に観客にしめす。
大昔の作品でもあるまいに、ずいぶん観客をばかにした演出だ。
なぜこんなにずっこけてしまったのだろう。
映画でうったえたかったことはよくわかる。
しかし、反原発のプレゼンテーション的な性格がつよくですぎており、
映画としてなりたっていない。
東日本大震災がおきたあとでこの作品をみると、
地震についてのよさわなど、
会議で議論されていたことがそのまま現実となっており、
そうした意味では反原発についてのすぐれた啓発となっている。
しかし、大震災がおき、原発の不安定さと放射能のおそろしさを
日本中のひとがおもいしったはずなのに、
原発でうるおう勢力は、
2年もたたないうちから再稼働を平気でいいはじめる。
そして、それを支持するたくさんのひとたち。
2004年に『東京原発』がこころみた
原発政策への注意喚起は失敗だった。
それは作品の内容とは関係がなく、
たとえどんなにすぐれた作品であったとしても、
安全にたいする日本人の意識はかえられないのだろう。
『東京原発』は、映画として失敗し、
目的としていた反原発の啓発でも失敗した残念な作品だ。
2013年03月29日
「後悔さきにたたず」はほんとうか
「後悔さきにたたず」ということわざがきらいだ。
「後悔さきにたたず」といって
後悔しているひとにたいして
それみたことかとしたり顔をするひとが
(じっさいに面とむかっていわれたことはないけど)きらいだ。
また、よく耳にすることで、
やらずに後悔するよりも、
やって後悔したほいうがいい、
というのがあって、
なんだかもっともらしいけど、
もっともらしいだけになんだかひっかかる。
どんなタイプの後悔でもかまわないから、どんどん後悔したら、
というのがわたしの立場だ。
「してしまったことは、
あとになってくやんでも
取り返しがつかない」
「すんでいることを後から後悔しても
取り返しがつかないので、
事前に十分注意しなさいという教え」
大切な意味をもつことわざかもしれないが、
後悔しないよりも、したほうがおもしろい人生なのではないか。
あーでもない、こーでもないと
まようのが人生の醍醐味ともいえ、
そうして判断したことをくやむことがあってもいい。
それを、「さきにたたず」なんて、
たかいことろからえらそうにいってほしくない。
わたしはあるときから
あまり後悔しなくなったことに気づいた。
「後悔さきにたたず」と
したり顔でいいはなつひとを
よろこばせたくないのかもしれない。
そうはいってもささいなことで、たとえば
自分が注文した料理より、
ひとのお皿がよくみえるとか、
おかわりをしようか我慢しようかまよったとき、
ついたべすぎてくるしむとか、
そういう「後悔」はしょっちゅうあるけど、
それは生活における調味料みたいなもので、
まちがったからといってたいした実害はない。
もっと深刻な場面での重大な選択において
わたしはこれまで後悔したことがない。
正直にいえば、◯◯したらよかった、というのが
ないことはないけど、すこし時間がたつと
それもまた自分らしいまちがった選択だったと
うけいれており、後悔はしていない。
後悔だらけの人生だから、
いちいち深刻な顔をして
後悔なんかしてられないのかもしれない。
後悔しないように慎重に準備しすぎて
一歩をふみだせないよりも、
おろかなまちがいをするかもしれないけれど、
どんどん後悔しそうなことをすればいいとおもう。
そうやってうごいてみて、
いくらでも後悔したらいいのだ。
死ぬまぎわに◯◯すればよかった、
なんて後悔するのがわたしはすごくおそろしい。
そうならないためにも、
後悔するにちがいないようなおろかなことでも
やりたいことをいまのうちできるだけやっておきたい。
「後悔さきにたたず」といって
後悔しているひとにたいして
それみたことかとしたり顔をするひとが
(じっさいに面とむかっていわれたことはないけど)きらいだ。
また、よく耳にすることで、
やらずに後悔するよりも、
やって後悔したほいうがいい、
というのがあって、
なんだかもっともらしいけど、
もっともらしいだけになんだかひっかかる。
どんなタイプの後悔でもかまわないから、どんどん後悔したら、
というのがわたしの立場だ。
「してしまったことは、
あとになってくやんでも
取り返しがつかない」
「すんでいることを後から後悔しても
取り返しがつかないので、
事前に十分注意しなさいという教え」
大切な意味をもつことわざかもしれないが、
後悔しないよりも、したほうがおもしろい人生なのではないか。
あーでもない、こーでもないと
まようのが人生の醍醐味ともいえ、
そうして判断したことをくやむことがあってもいい。
それを、「さきにたたず」なんて、
たかいことろからえらそうにいってほしくない。
わたしはあるときから
あまり後悔しなくなったことに気づいた。
「後悔さきにたたず」と
したり顔でいいはなつひとを
よろこばせたくないのかもしれない。
そうはいってもささいなことで、たとえば
自分が注文した料理より、
ひとのお皿がよくみえるとか、
おかわりをしようか我慢しようかまよったとき、
ついたべすぎてくるしむとか、
そういう「後悔」はしょっちゅうあるけど、
それは生活における調味料みたいなもので、
まちがったからといってたいした実害はない。
もっと深刻な場面での重大な選択において
わたしはこれまで後悔したことがない。
正直にいえば、◯◯したらよかった、というのが
ないことはないけど、すこし時間がたつと
それもまた自分らしいまちがった選択だったと
うけいれており、後悔はしていない。
後悔だらけの人生だから、
いちいち深刻な顔をして
後悔なんかしてられないのかもしれない。
後悔しないように慎重に準備しすぎて
一歩をふみだせないよりも、
おろかなまちがいをするかもしれないけれど、
どんどん後悔しそうなことをすればいいとおもう。
そうやってうごいてみて、
いくらでも後悔したらいいのだ。
死ぬまぎわに◯◯すればよかった、
なんて後悔するのがわたしはすごくおそろしい。
そうならないためにも、
後悔するにちがいないようなおろかなことでも
やりたいことをいまのうちできるだけやっておきたい。
2013年03月28日
46番目の都道府県として島根にスターバックス
島根県にスターバックスの店ができたことが
今朝の朝日新聞にのっていた。
地方版だけでなく、経済のページでもとりあげられている。
都道府県では46番目ということで、
これまでスターバックスがなかったのは
島根と鳥取だけだったのが、
これでのこるのは鳥取だけということになった。
この両県は、全国チェーンの店が
なかなか出店しないことでしられている。
セブン-イレブンは鳥取にないし、
島根にはサイゼリヤがない。
サブウェイもドトールコーヒーも、
ピザハットもないのに、スターバックスができたことは
島根県民の胸にかすかなあかりがともるできごととなった。
きっと鷹の爪でも話題にするだろう。
きょねんの秋のニュース番組で、
「スタバはないが、スナバ(鳥取砂丘)はある」
と、鳥取県の平井知事が発言すると、
「その日のうちにツイッター上で
約2万件『引用』され、
『スタバがない県=鳥取』が
全国に知れ渡った」
という(朝日新聞)。
たいしてできがいいごろあわせではなく、
いかにもオヤジがいいそうな品のないダジャレだけど、
島根が得意とする自虐ギャグを
鳥取にさきをこされたようなかんじで
なんだかくやしい。
鳥取県は「鳥取は島根の右側」というTシャツを販売するなど
島根県のキャッチフレーズを確信犯的に悪用しており、
自虐ギャグも島根への対抗意識をあからさまにチラつかせている。
今回の平井知事の発言は、どんなにうしろ指をさされようと、
知事みずからが先頭にたって
鳥取の知名度をあげようとする決意のあわられである。
敵は予想以上に必死なので、47番目あらそいに油断は禁物だ。
スタバできた順番が鳥取よりさきだったのは、
島根にとってよかったかとは、単純にはいえない。
46番目の都道府県として島根をえらんだスタバは、
松江駅構内のショッピングセンターにできた。
車での移動が生活になじんでいる松江市民にとって、
駅構内にあるスタバはどんな位置づけになるだろう。
ちかくにあるローソンやミスドがはやっているので、
駅を中心にした、あたらしい集客地となるのかもしれない。
ただ、観光でおとずれるほとんどの名所は松江城周辺にあり、
むこう側にもゆっくりできるスタバがほしいところだ。
2号店・3号店ができてくると、松江らしいつかい方で
スタバがしたしまれていくだろう。
ついに松江にもスタバが、とおもうと感慨ぶかいような
松江が松江でなくなったような。
松江のスタバでいちばんはじめにMacAIRをひろげて
「ノマド」をやるかんちがいのひとはだれだろう。
あんがい店から記念品をおくられるかもしれないので、
はやめにMacAIRをもちこむことをおすすめする。
しばらくは満員がつづき、おちついてすごせないだろうから、
連休あけの平日にいってみよう。
MacAIRと文庫本をもって、おもいっきりかんちがいしながら。
今朝の朝日新聞にのっていた。
地方版だけでなく、経済のページでもとりあげられている。
都道府県では46番目ということで、
これまでスターバックスがなかったのは
島根と鳥取だけだったのが、
これでのこるのは鳥取だけということになった。
この両県は、全国チェーンの店が
なかなか出店しないことでしられている。
セブン-イレブンは鳥取にないし、
島根にはサイゼリヤがない。
サブウェイもドトールコーヒーも、
ピザハットもないのに、スターバックスができたことは
島根県民の胸にかすかなあかりがともるできごととなった。
きっと鷹の爪でも話題にするだろう。
きょねんの秋のニュース番組で、
「スタバはないが、スナバ(鳥取砂丘)はある」
と、鳥取県の平井知事が発言すると、
「その日のうちにツイッター上で
約2万件『引用』され、
『スタバがない県=鳥取』が
全国に知れ渡った」
という(朝日新聞)。
たいしてできがいいごろあわせではなく、
いかにもオヤジがいいそうな品のないダジャレだけど、
島根が得意とする自虐ギャグを
鳥取にさきをこされたようなかんじで
なんだかくやしい。
鳥取県は「鳥取は島根の右側」というTシャツを販売するなど
島根県のキャッチフレーズを確信犯的に悪用しており、
自虐ギャグも島根への対抗意識をあからさまにチラつかせている。
今回の平井知事の発言は、どんなにうしろ指をさされようと、
知事みずからが先頭にたって
鳥取の知名度をあげようとする決意のあわられである。
敵は予想以上に必死なので、47番目あらそいに油断は禁物だ。
スタバできた順番が鳥取よりさきだったのは、
島根にとってよかったかとは、単純にはいえない。
46番目の都道府県として島根をえらんだスタバは、
松江駅構内のショッピングセンターにできた。
車での移動が生活になじんでいる松江市民にとって、
駅構内にあるスタバはどんな位置づけになるだろう。
ちかくにあるローソンやミスドがはやっているので、
駅を中心にした、あたらしい集客地となるのかもしれない。
ただ、観光でおとずれるほとんどの名所は松江城周辺にあり、
むこう側にもゆっくりできるスタバがほしいところだ。
2号店・3号店ができてくると、松江らしいつかい方で
スタバがしたしまれていくだろう。
ついに松江にもスタバが、とおもうと感慨ぶかいような
松江が松江でなくなったような。
松江のスタバでいちばんはじめにMacAIRをひろげて
「ノマド」をやるかんちがいのひとはだれだろう。
あんがい店から記念品をおくられるかもしれないので、
はやめにMacAIRをもちこむことをおすすめする。
しばらくは満員がつづき、おちついてすごせないだろうから、
連休あけの平日にいってみよう。
MacAIRと文庫本をもって、おもいっきりかんちがいしながら。
2013年03月27日
W杯アジア最終予選、対ヨルダン戦。中東の笛はなくてもかてなかった日本
W杯アジア最終予選、日本対ヨルダン戦。
日本がかてなかったという結果をしりながら
録画しておいた試合をみる。
これでW杯出場をきめればと、
たくさんの解説やゲストをよんで
5時間の番組をくむという、
NHKもすごいちからのいれようだ。
ただ、「ぜったいにまけられないたたかい」などとあおって、
はやく出場をきめたいのは
日本がかってにのぞんでいるだけで、
ヨルダンからすれば ぜんぜん関係がない。
両チームともはげしく試合にはいる。
さすがにW杯出場をかけたたたかいで、
ほかの試合とはいきごみがちがう。
会場のグランド状態とか、中東の笛とか、
「アジアのたたかい」が警戒されていたけど、
グランドはともかく、レフリージャッジは適切だった。
よけいな笛はふかないし、
ヨルダンに有利ということもなく
信頼のおける試合さばきだった。
結果としては1−2で日本がやぶれ、
W杯出場をきめることができなかったけど、
グループにおける日本の有利さはうごかないので、
この試合を教訓に、慎重で大胆な試合はこびをやっていくしかない。
ヨルダンはいい試合をしたとおもう。
ドリブルはスピードがあり、日本のディフェンスをきりくずしていたし、
悪質なラフプレーもなかった
(サポーターによるレーザービームはあったみたい)。
ひいてまもるといっても、そう極端なものではなかったので、
このチームをくずせなかったのは、
日本の攻撃に工夫がなかったということだろう。
日本は何本も決定的なシュートをはなつが、
キーパーのファインセーブにあったり、
ポストにきらわれたり、キーパーの正面だったりする。
こういうながれの試合は、かつのがなかなかむつかしい。
結果をしっていながらも、みていていやなかんじで、
そして、心配していたとおりに試合がすすむ。
2−0にされてから、香川のシュートで簡単に1点をかえし、
その直後に内田がPKをもらったので、
これで同点においついたかとおもった。
なにしろキッカーはあの遠藤なので、
はずすことなんてまったく心配してなかった。
それがキーパーのファインセーブにあい、
そのあとの怒涛のこうげきも、
もういっぽのところでとどかない。
まけるときはこういうもの、という
お手本みたいな試合だ。
いつも顔をしかめているキャプテンの長谷部は、
その表情が、なんとなく鷹の爪の吉田くんににているので、
ひそかに応援してるのだけど、
きょうはいつもにまして吉田くんの顔の時間がながかった。
きょうのまけは、だれのせいにもできないだろう。
審判は中立だったし、
ヨルダンの試合はこびはフェアなものだった。
グランド状態や、かたよったジャッジにではなく、
1点はコーナーキックから、
もう1点はディフェンダーが完全にふりきられて
きれいにきめられてしまった。
サッカーにはこういう試合がある。
ほとんどの時間帯でおしながら、
どういうわけか点にむすびつかない。
相手は数すくないチャンスを得点にむすびつけてしまう。
こういう試合を経験することで、
チームやサッカー協会、そしてサポーターが
国全体としてのサッカー力をたかめていくしかない。
この試合にまけたことで、W杯出場をきめるのは
はやくても6月のオーストラリア戦ということになった。
はやくきめられれば、のこりの試合を
いろいろためすことにつかえる。
でもまあ、苦労して出場をきめるのもいいじゃないかとおもう。
20年まえは、W杯に出場するだけでもやっとだったのだ。
簡単に出場をきめられる国なんて、
世界をみわたしてもそうないのだから。
前回の南アフリカ大会では、
監督が4位をかかげてもだれもしんじられなかった。
いまは優勝さえ口にする選手がいる。
憲剛が大活躍する大会になることを、公然とねがっている。
日本がかてなかったという結果をしりながら
録画しておいた試合をみる。
これでW杯出場をきめればと、
たくさんの解説やゲストをよんで
5時間の番組をくむという、
NHKもすごいちからのいれようだ。
ただ、「ぜったいにまけられないたたかい」などとあおって、
はやく出場をきめたいのは
日本がかってにのぞんでいるだけで、
ヨルダンからすれば ぜんぜん関係がない。
両チームともはげしく試合にはいる。
さすがにW杯出場をかけたたたかいで、
ほかの試合とはいきごみがちがう。
会場のグランド状態とか、中東の笛とか、
「アジアのたたかい」が警戒されていたけど、
グランドはともかく、レフリージャッジは適切だった。
よけいな笛はふかないし、
ヨルダンに有利ということもなく
信頼のおける試合さばきだった。
結果としては1−2で日本がやぶれ、
W杯出場をきめることができなかったけど、
グループにおける日本の有利さはうごかないので、
この試合を教訓に、慎重で大胆な試合はこびをやっていくしかない。
ヨルダンはいい試合をしたとおもう。
ドリブルはスピードがあり、日本のディフェンスをきりくずしていたし、
悪質なラフプレーもなかった
(サポーターによるレーザービームはあったみたい)。
ひいてまもるといっても、そう極端なものではなかったので、
このチームをくずせなかったのは、
日本の攻撃に工夫がなかったということだろう。
日本は何本も決定的なシュートをはなつが、
キーパーのファインセーブにあったり、
ポストにきらわれたり、キーパーの正面だったりする。
こういうながれの試合は、かつのがなかなかむつかしい。
結果をしっていながらも、みていていやなかんじで、
そして、心配していたとおりに試合がすすむ。
2−0にされてから、香川のシュートで簡単に1点をかえし、
その直後に内田がPKをもらったので、
これで同点においついたかとおもった。
なにしろキッカーはあの遠藤なので、
はずすことなんてまったく心配してなかった。
それがキーパーのファインセーブにあい、
そのあとの怒涛のこうげきも、
もういっぽのところでとどかない。
まけるときはこういうもの、という
お手本みたいな試合だ。
いつも顔をしかめているキャプテンの長谷部は、
その表情が、なんとなく鷹の爪の吉田くんににているので、
ひそかに応援してるのだけど、
きょうはいつもにまして吉田くんの顔の時間がながかった。
きょうのまけは、だれのせいにもできないだろう。
審判は中立だったし、
ヨルダンの試合はこびはフェアなものだった。
グランド状態や、かたよったジャッジにではなく、
1点はコーナーキックから、
もう1点はディフェンダーが完全にふりきられて
きれいにきめられてしまった。
サッカーにはこういう試合がある。
ほとんどの時間帯でおしながら、
どういうわけか点にむすびつかない。
相手は数すくないチャンスを得点にむすびつけてしまう。
こういう試合を経験することで、
チームやサッカー協会、そしてサポーターが
国全体としてのサッカー力をたかめていくしかない。
この試合にまけたことで、W杯出場をきめるのは
はやくても6月のオーストラリア戦ということになった。
はやくきめられれば、のこりの試合を
いろいろためすことにつかえる。
でもまあ、苦労して出場をきめるのもいいじゃないかとおもう。
20年まえは、W杯に出場するだけでもやっとだったのだ。
簡単に出場をきめられる国なんて、
世界をみわたしてもそうないのだから。
前回の南アフリカ大会では、
監督が4位をかかげてもだれもしんじられなかった。
いまは優勝さえ口にする選手がいる。
憲剛が大活躍する大会になることを、公然とねがっている。
2013年03月26日
新年度をむかえるまえのいそがしさ
3月にはいってきゅうに相談や契約の連絡がはいるようになった。
春やすみと、それにつづく新年度がまぢかにせまったからで、
冬のあいだはうごきがほぼとまっていたことをおもうと
すごいちがいだ。
だんだん予約状況が把握できなくなってきて、
やすみちゅうはいったいなんにんが利用するのか
ヒヤヒヤしながら春やすみをむかえた。
利用人数のデコボコがすくなくなるよう調整した結果、
いちにちあたりの利用者数が10〜12人となる。
ほんのすこしまえまで平均5人台だったのに、
年度がかわるだけでこんなに利用者がふえるのか。
「すくなくてさみしい」状態から
いっきに「すごくいそがしい」へかわってしまい、
その中間というものがなかった。
このごろは、第2事業所が必要なくらい
利用を希望する方からの連絡がおおくなっている。
学校から事業所への送迎がみとめらえているので、
仕事をしている方にとってつかいがってがいいのだろう。
そうした放課後等デイサービス事業の特徴から、
残念ながらサービスの内容というよりも、
どれだけ保護者のニーズにこたえらえるか、
という点が重視されており、
おそくまでみてもらえるのなら
どこだっていい、というのが保護者の本音だったりする。
こうした状況は、かなりの部分
事業所側の実力を反映しているともいえ、
すぐれた実践をつんでいる他県の事業所は、
ちゃんとサービスの内容で顧客をひきつけている。
自分たちの特徴をつよくうちだし、
その点を評価しての利用でなければ
ほかの事業所をどうぞ、という自負がある。
わたしたちも、はやく「ピピだから」という理由で
利用してもらえるように内容をたかめたい。
それは、だれでもつかいたくなるというよりも、
もうすこし「顧客をえらぶ」タイプの事業所かもしれない。
評価するひとはピピをたかくかってくれるだろうけど、
そうでないひともまたでてくるだろう。
これまでは、そうやって特徴を全面にだすだけの
経営的なつよさがなかった。
ある程度の利用者がみこめるようになったいま、
やっとサービス内容を主張しやすい条件をえた。
来年度をおえたころには、
もうすこしピピが提供するサービスについて
理解とニーズがたかまっているはずだ。
来年度は、かなり重要ないちねんになるだろう。
春やすみと、それにつづく新年度がまぢかにせまったからで、
冬のあいだはうごきがほぼとまっていたことをおもうと
すごいちがいだ。
だんだん予約状況が把握できなくなってきて、
やすみちゅうはいったいなんにんが利用するのか
ヒヤヒヤしながら春やすみをむかえた。
利用人数のデコボコがすくなくなるよう調整した結果、
いちにちあたりの利用者数が10〜12人となる。
ほんのすこしまえまで平均5人台だったのに、
年度がかわるだけでこんなに利用者がふえるのか。
「すくなくてさみしい」状態から
いっきに「すごくいそがしい」へかわってしまい、
その中間というものがなかった。
このごろは、第2事業所が必要なくらい
利用を希望する方からの連絡がおおくなっている。
学校から事業所への送迎がみとめらえているので、
仕事をしている方にとってつかいがってがいいのだろう。
そうした放課後等デイサービス事業の特徴から、
残念ながらサービスの内容というよりも、
どれだけ保護者のニーズにこたえらえるか、
という点が重視されており、
おそくまでみてもらえるのなら
どこだっていい、というのが保護者の本音だったりする。
こうした状況は、かなりの部分
事業所側の実力を反映しているともいえ、
すぐれた実践をつんでいる他県の事業所は、
ちゃんとサービスの内容で顧客をひきつけている。
自分たちの特徴をつよくうちだし、
その点を評価しての利用でなければ
ほかの事業所をどうぞ、という自負がある。
わたしたちも、はやく「ピピだから」という理由で
利用してもらえるように内容をたかめたい。
それは、だれでもつかいたくなるというよりも、
もうすこし「顧客をえらぶ」タイプの事業所かもしれない。
評価するひとはピピをたかくかってくれるだろうけど、
そうでないひともまたでてくるだろう。
これまでは、そうやって特徴を全面にだすだけの
経営的なつよさがなかった。
ある程度の利用者がみこめるようになったいま、
やっとサービス内容を主張しやすい条件をえた。
来年度をおえたころには、
もうすこしピピが提供するサービスについて
理解とニーズがたかまっているはずだ。
来年度は、かなり重要ないちねんになるだろう。
2013年03月25日
腰痛とはいったいなんなのだ
きのうの朝日新聞は第一面で「腰痛2800万人」とつたえている。
患者数のおおさとともに、この記事でおどろいたのは、
腰痛の8割が原因不明ということだ。
そして、治療法としてよく耳にする
マッサージや牽引に効果がないというのだから、
わたしがふつうにかんがえていた腰痛とは
いったいなんだったのだろう。
高野秀行さんが著書『腰痛探検家』のなかで、
腰痛の治療法をネットで検索したら、
あまりにもおおくの数がヒットしてしまい
つかいものにならなかった体験をのべている。
腰痛の世界は「密林」であり、
いちどまよいこむと、かんたんにぬけだすことはできない。
『腰痛探検家』はその「密林」にまよいこんでしまった
探検家の記録であり、結果からいうと、
なにがよかったのかわからないまま
いつのまにかいたみになやまされなくなったそうだ。
町のあちらこちらに腰痛治療をうたった
クリニックやら治療院が点在し、
その治療法も「密林」にふさわしく
針や民間療法など、おびただしい数にのぼる。
それらがほんとうのところでは効果に根拠がなかったなんて、
きっと2800万人のうち8割のひとがずっこけたにちがいない。
効果がなくてもワラだろうがなんだろうが
つかまりたいひとにとっては
なんとかいたみをやわらげようと
評判の治療法をたずねないわけにいかない。
安静がいちばん、とある先生がいえば、
運動も大事、というかんがえ方もあるし、
精神的な影響がつよい、とするみかたや、
ストレスが原因です、というひともいる。
それぞれのひとが、それぞれの腰痛になやんでおり、
ある治療法に効果がなくても、
なにか自分にあった治療法があるはずだと
いろいろためしてみるので、
腰痛世界の密林はますますふかくなっていくのだろう。
すこしまえに、英会話とダイエットがよくにていることに気づいた。
いろんな方法があるけれど、
決定的といえるものはまだでていない。
「◯◯週間で効果あり!」
「楽々」
「いちにち◯分でOK」と
英会話もダイエットもおなじようなコピーで宣伝している。
ある方法が自分にあってなくても、
べつの方法ならうまくいくかもしれないと、
たよれる地図をもたずに
おおくのひとが森だか密林だかにはいりこんで
かんたんに遭難してしまう。
いちどまよいこむと、かなりのお金とエネルギーをつぎこむことになり、
だからといって目的をはたせる確率はきわめてひくい。
腰痛もいっしょだ。
魑魅魍魎の世界で、どの方法がただしいかなんて
だれにもわからない。
ひとの数だけそのひとにあった治療法がある(かもしれない)。
いったん森にからめとられると、治療への情熱がさめるまでまつしかない。
熱がさめてしまえば、事態はあんがいそれなりの場所におちついており、
いったいあの試行錯誤はなんだったのかといぶかしくふりかえる。
朝日新聞の記事が目あたらしかったのは、
原因がわからない腰痛がおおいこと、
マッサージの効果は疑問、と
はっきりかいたことだ。
わたしたちが「腰痛」といっているものは
なにか特定のことが原因でおこるいたみではなく、
あらゆることがひきがねになっておこる
ある種の状況なのだろう。
なにしろ8割の原因が不明というのだから
予防も対応もひとすじなわではいかない。
腰痛もまた生活習慣病のひとつみたいだ。
なにしろ、「強く推奨」される治療法が
「考え方の隔たりを直し、
行動の仕方を変える
認知行動療法」
というのだから、腰痛がでなければ気づかなかった
「考え方の隔たり」をなおすには、
いろいろなことを根本からみなおしていくしかないのだろう。
患者数のおおさとともに、この記事でおどろいたのは、
腰痛の8割が原因不明ということだ。
そして、治療法としてよく耳にする
マッサージや牽引に効果がないというのだから、
わたしがふつうにかんがえていた腰痛とは
いったいなんだったのだろう。
高野秀行さんが著書『腰痛探検家』のなかで、
腰痛の治療法をネットで検索したら、
あまりにもおおくの数がヒットしてしまい
つかいものにならなかった体験をのべている。
腰痛の世界は「密林」であり、
いちどまよいこむと、かんたんにぬけだすことはできない。
『腰痛探検家』はその「密林」にまよいこんでしまった
探検家の記録であり、結果からいうと、
なにがよかったのかわからないまま
いつのまにかいたみになやまされなくなったそうだ。
町のあちらこちらに腰痛治療をうたった
クリニックやら治療院が点在し、
その治療法も「密林」にふさわしく
針や民間療法など、おびただしい数にのぼる。
それらがほんとうのところでは効果に根拠がなかったなんて、
きっと2800万人のうち8割のひとがずっこけたにちがいない。
効果がなくてもワラだろうがなんだろうが
つかまりたいひとにとっては
なんとかいたみをやわらげようと
評判の治療法をたずねないわけにいかない。
安静がいちばん、とある先生がいえば、
運動も大事、というかんがえ方もあるし、
精神的な影響がつよい、とするみかたや、
ストレスが原因です、というひともいる。
それぞれのひとが、それぞれの腰痛になやんでおり、
ある治療法に効果がなくても、
なにか自分にあった治療法があるはずだと
いろいろためしてみるので、
腰痛世界の密林はますますふかくなっていくのだろう。
すこしまえに、英会話とダイエットがよくにていることに気づいた。
いろんな方法があるけれど、
決定的といえるものはまだでていない。
「◯◯週間で効果あり!」
「楽々」
「いちにち◯分でOK」と
英会話もダイエットもおなじようなコピーで宣伝している。
ある方法が自分にあってなくても、
べつの方法ならうまくいくかもしれないと、
たよれる地図をもたずに
おおくのひとが森だか密林だかにはいりこんで
かんたんに遭難してしまう。
いちどまよいこむと、かなりのお金とエネルギーをつぎこむことになり、
だからといって目的をはたせる確率はきわめてひくい。
腰痛もいっしょだ。
魑魅魍魎の世界で、どの方法がただしいかなんて
だれにもわからない。
ひとの数だけそのひとにあった治療法がある(かもしれない)。
いったん森にからめとられると、治療への情熱がさめるまでまつしかない。
熱がさめてしまえば、事態はあんがいそれなりの場所におちついており、
いったいあの試行錯誤はなんだったのかといぶかしくふりかえる。
朝日新聞の記事が目あたらしかったのは、
原因がわからない腰痛がおおいこと、
マッサージの効果は疑問、と
はっきりかいたことだ。
わたしたちが「腰痛」といっているものは
なにか特定のことが原因でおこるいたみではなく、
あらゆることがひきがねになっておこる
ある種の状況なのだろう。
なにしろ8割の原因が不明というのだから
予防も対応もひとすじなわではいかない。
腰痛もまた生活習慣病のひとつみたいだ。
なにしろ、「強く推奨」される治療法が
「考え方の隔たりを直し、
行動の仕方を変える
認知行動療法」
というのだから、腰痛がでなければ気づかなかった
「考え方の隔たり」をなおすには、
いろいろなことを根本からみなおしていくしかないのだろう。
2013年03月24日
強化試合カナダ戦は憲剛の試合だった
強化試合として22日にドーハでおこなわれた日本対カナダ。
本田と長友が故障のため招集されておらず、
だれが彼らのかわりをつとめるかが注目されていた。
憲剛にきまってるじゃないか、とわたしはおもっていた。
しかし、先発したのはトップ下に香川、左サイドが乾という布陣だ。
6人の選手交代がみとめられている試合なので、
ザッケローニ監督は選手の体調をチェックしたいとはなしている。
試合開始直後はカナダがペースをにぎる。
日本のスロースターターぶりは
いつものおやくそくというかんじだ。
若手主体のカナダは、すでにWカップ予選から
もれてしまったチームとはおもえないほどまとまりがあり、
スピードも球際のつよさもかねそなえていた。
前半9分に岡崎のゴールで先制したあとも
ながれとしてはずっとカナダ側の試合だった。
後半からやっと憲剛がでてくる。
憲剛がトップ下で、左が香川、右に乾にかわる。
ワントップも前田からハーフナーとなった。
憲剛がトップ下にはいるとボールがうごきはじめ、
香川ともいい連携がみられる。
解説の福西さんは、しきりに
憲剛がはいったことでの改善点を指摘している。
試合は2-1と、あぶなげなく日本がかったものの、
いまひとつピリッとしなかった印象をうける。
この試合について、ネット上では
本田のかわりがいない、という論調の意見がおおくみられた。
そうしたなかで、スポーツナビでは元川悦子氏が
「狂った歯車を整えた中村憲剛の安定感」として
後半から憲剛がはいったことで、
チームがいかに活性化したかについて記事をよせている。
これまで元川氏のコラムについて、
あまりにも些細な点にこだわったどうでもいい内容におもえ
評価してこなかったけど、
この記事はよかった。
はじめてエバーノートにクリップしたくらいだ。
ひとりの選手に着目するあまり、
全体がみえなくなってはならない。
ただし、それは憲剛以外の選手についてであり、
今回の元川氏の記事は
かかれるべくしてかかれたといってよい。
憲剛は、オシムさんが代表監督をつとめていた2006年に
中盤の選手としてチームによばれ、
その後スタメンで起用されるようになった。
残念なことに、オシムさんが
2007年の暮に脳梗塞でたおれチームをはなれると、
とたんにひかえの選手としてあつかわれるようになってしまった。
当時の岡田監督の構想では
中心的な選手としては位置づけられておらず、
でれば決定的な役割をはたすのに、
よばれなかったり、ベンチですごしたりと、
ファンとしてはイライラのつもる試合がつづいた。
カメラは憲剛をよくとらえるし、
どの解説者も憲剛の献身的なプレーと
ひらめきのあるキラーバスをたかく評価するのに、
代表ではいまひとつ試合にでれないことがおおい。
今回も、あくまでも本田の代役であり、
彼がもどってくればまたひかえとして
ベンチにいる時間がながくなるだろう。
年齢も32歳と、もうあとがない。
インテルのザネッティ選手みたいに、
40歳になってもプレーしてくれたらいいけど、
わたしたちはあとどれくらい憲剛のかがやきを
みることができるのだろう。
代表選手として、またフロンターレの中心選手として、
もっともっと憲剛のアイデアにとんだキラーパスをみていたい。
本田と長友が故障のため招集されておらず、
だれが彼らのかわりをつとめるかが注目されていた。
憲剛にきまってるじゃないか、とわたしはおもっていた。
しかし、先発したのはトップ下に香川、左サイドが乾という布陣だ。
6人の選手交代がみとめられている試合なので、
ザッケローニ監督は選手の体調をチェックしたいとはなしている。
試合開始直後はカナダがペースをにぎる。
日本のスロースターターぶりは
いつものおやくそくというかんじだ。
若手主体のカナダは、すでにWカップ予選から
もれてしまったチームとはおもえないほどまとまりがあり、
スピードも球際のつよさもかねそなえていた。
前半9分に岡崎のゴールで先制したあとも
ながれとしてはずっとカナダ側の試合だった。
後半からやっと憲剛がでてくる。
憲剛がトップ下で、左が香川、右に乾にかわる。
ワントップも前田からハーフナーとなった。
憲剛がトップ下にはいるとボールがうごきはじめ、
香川ともいい連携がみられる。
解説の福西さんは、しきりに
憲剛がはいったことでの改善点を指摘している。
試合は2-1と、あぶなげなく日本がかったものの、
いまひとつピリッとしなかった印象をうける。
この試合について、ネット上では
本田のかわりがいない、という論調の意見がおおくみられた。
そうしたなかで、スポーツナビでは元川悦子氏が
「狂った歯車を整えた中村憲剛の安定感」として
後半から憲剛がはいったことで、
チームがいかに活性化したかについて記事をよせている。
これまで元川氏のコラムについて、
あまりにも些細な点にこだわったどうでもいい内容におもえ
評価してこなかったけど、
この記事はよかった。
はじめてエバーノートにクリップしたくらいだ。
ひとりの選手に着目するあまり、
全体がみえなくなってはならない。
ただし、それは憲剛以外の選手についてであり、
今回の元川氏の記事は
かかれるべくしてかかれたといってよい。
憲剛は、オシムさんが代表監督をつとめていた2006年に
中盤の選手としてチームによばれ、
その後スタメンで起用されるようになった。
残念なことに、オシムさんが
2007年の暮に脳梗塞でたおれチームをはなれると、
とたんにひかえの選手としてあつかわれるようになってしまった。
当時の岡田監督の構想では
中心的な選手としては位置づけられておらず、
でれば決定的な役割をはたすのに、
よばれなかったり、ベンチですごしたりと、
ファンとしてはイライラのつもる試合がつづいた。
カメラは憲剛をよくとらえるし、
どの解説者も憲剛の献身的なプレーと
ひらめきのあるキラーバスをたかく評価するのに、
代表ではいまひとつ試合にでれないことがおおい。
今回も、あくまでも本田の代役であり、
彼がもどってくればまたひかえとして
ベンチにいる時間がながくなるだろう。
年齢も32歳と、もうあとがない。
インテルのザネッティ選手みたいに、
40歳になってもプレーしてくれたらいいけど、
わたしたちはあとどれくらい憲剛のかがやきを
みることができるのだろう。
代表選手として、またフロンターレの中心選手として、
もっともっと憲剛のアイデアにとんだキラーパスをみていたい。
2013年03月23日
おもしろそうなのに、平川克美さんの本が理解できない
平川克美さんの
『ビジネスに「戦略」なんていらない』(洋泉社)
をめくっていると、おもしろそうな箇所があちこちにある。
「わたしが言いたいことは、
実は『ビジネスはお金のためだけじゃないよ。
もっと崇高な目的があるはずだよ』
ということではありません(中略)
明確な目的が事前にあるものだとする考え方そのものが、
ビジネスをつまらなくさせている
原因のひとつであるということなのです」
平川さんの文章は、それまで常識だとおもっていることをうたがい、
かんたんにひっくりかえしてしまうおもしろさがある。
仕事やお金について、ふつうにいわえることと、
まったくちがう視点をしめしてくれている気がする。
ただ、こまったことにわたしにはその内容がよく理解できない。
やさしいことばで、とてもわかりやすくかいてあるのに、
全体としては内容が頭にはいらない。
こういう著者が平川さん以外にもわたしにはなんにんかいて、
養老孟司さん・内田樹さん・橋本治さんの本は
よんでいてもすぐに頭のなかをとおりすぎてしまう。
ひとつひとつの文章はむつかしくないとおもうのに、
一冊の本としてはよく理解できず、
不完全燃焼な読書となる。
内田樹さんは平川さんの親友と本書にかいてあり、
あ、やっぱり、とへんなところで納得してしまった。
内田樹さんの本を、わたしは3冊ほどとちゅうで挫折している。
わたしの頭のわるさにくわえて、相性がきっとよくないのだ。
このごろではもうあきらめてしまい、
いくらおもしろそうでも手をださなくなった。
そうしたときにであったのが平川さんで、
本のあちこちにハッとさせられる記述があるのに
よみとおすことができない著者がまたふえてしまった。
やさしい言葉をえらんでかかれているのにうまく理解できない。
このひとたちの本の、どこにひっかかって
わたしの脳はうけいれないのだろう。
『ビジネスに「戦略」なんていらない』(洋泉社)
をめくっていると、おもしろそうな箇所があちこちにある。
「わたしが言いたいことは、
実は『ビジネスはお金のためだけじゃないよ。
もっと崇高な目的があるはずだよ』
ということではありません(中略)
明確な目的が事前にあるものだとする考え方そのものが、
ビジネスをつまらなくさせている
原因のひとつであるということなのです」
平川さんの文章は、それまで常識だとおもっていることをうたがい、
かんたんにひっくりかえしてしまうおもしろさがある。
仕事やお金について、ふつうにいわえることと、
まったくちがう視点をしめしてくれている気がする。
ただ、こまったことにわたしにはその内容がよく理解できない。
やさしいことばで、とてもわかりやすくかいてあるのに、
全体としては内容が頭にはいらない。
こういう著者が平川さん以外にもわたしにはなんにんかいて、
養老孟司さん・内田樹さん・橋本治さんの本は
よんでいてもすぐに頭のなかをとおりすぎてしまう。
ひとつひとつの文章はむつかしくないとおもうのに、
一冊の本としてはよく理解できず、
不完全燃焼な読書となる。
内田樹さんは平川さんの親友と本書にかいてあり、
あ、やっぱり、とへんなところで納得してしまった。
内田樹さんの本を、わたしは3冊ほどとちゅうで挫折している。
わたしの頭のわるさにくわえて、相性がきっとよくないのだ。
このごろではもうあきらめてしまい、
いくらおもしろそうでも手をださなくなった。
そうしたときにであったのが平川さんで、
本のあちこちにハッとさせられる記述があるのに
よみとおすことができない著者がまたふえてしまった。
やさしい言葉をえらんでかかれているのにうまく理解できない。
このひとたちの本の、どこにひっかかって
わたしの脳はうけいれないのだろう。
2013年03月22日
フジフェザーCXを注文する
このまえからネットで自転車のページをよくみるようになっていた。
衝動的にかってしまわないよう注意していたのに、
いつの間にかお気にいりの自転車がみつかり、
きのうとうとうポチッとしてしまった。
注文したのはフジフェザーCXという自転車で、
シクロクロスというジャンルにぞくしている。
わたしはたいして自転車にくわしいわけではなく、
それまで「シクロクロス」ということばをしらなかった。
シクロクロスとは「オフロードで行われる自転車競技」(ウィキペディア)
ということで、ロードレーサーにふとめのタイヤをはかせて
荒地をはしる競技なのだそうだ。
そのための自転車なので、
ふといタイヤをいかして町のりをするのにも、
ある程度のスピードをだしてサイクリングするにも
てきしているという。
ハンドルはドロップハンドルで、
みためにはまるでロードレーサーだ。
いつも自転車を簡単にかいかえるわけではない。
20年まえにかったランドナーをいまもつかっているので、
ものを大切にするほうといっていいだろう。
そう頻繁にサイクリングにでるわけでもないので
ふるい自転車でもとくに不自由はしないけど、
さすがにガタがきてるし、フレームがすこしちいさくて、
なんとなくこぎにくさをかんじていた。
これからそんなにあたらしい自転車をかうこともないだろうから、
さいごにえらぶ自転車として
からだにピッタリあったものがほしくなったのだ。
たいしてのらないくせにこのみはうるさい。
ドロップハンドルで、タイヤは700C✕35のふとさがほしい。
ギアのきりかえはすくなくてもかまわない。
すくないほうがむしろよく、
変速機のない自転車にしようかとすこしまよったくらいだ。
おもさは10キロ以下で、値段は8万円程度。
この条件で自転車をさがすと、
かなりの確率でシクロクロスというジャンルになってしまうのではないか。
以前すこしのあいだクロスバイクというジャンルの自転車にのっていた。
クロスバイクとは、ロードレーサーと
マウンテンバイクのあいのこのような存在で、
両者のいいとこどりをねらった自転車だ。
ロードレーサーのハンドルをフラットバーにしたもので、
町のりにもサイクリングにもよさそうだけど、
なにもかも中途半端な存在で、
のっていてぜんぜんたのしくなかった。
ドロップハンドルでない自転車が、
こんなにもつまらないものかと
ほんとうにおどろいてしまった。
ネットで注文したので、くみたてられた完成品が
1ヶ月ほどでおくられてくる。
連休には間にあうだろうから、
今年の春は自転車でたのしめそうだ。
からだにピッタリの自転車は、
足の回転をむだなくペダルにつたえてくれて、
人馬一体となった快感があじわえる。
かっこよく自転車に身をまかす自分を想像し、
完成品がとどく日をこころまちにしている。
衝動的にかってしまわないよう注意していたのに、
いつの間にかお気にいりの自転車がみつかり、
きのうとうとうポチッとしてしまった。
注文したのはフジフェザーCXという自転車で、
シクロクロスというジャンルにぞくしている。
わたしはたいして自転車にくわしいわけではなく、
それまで「シクロクロス」ということばをしらなかった。
シクロクロスとは「オフロードで行われる自転車競技」(ウィキペディア)
ということで、ロードレーサーにふとめのタイヤをはかせて
荒地をはしる競技なのだそうだ。
そのための自転車なので、
ふといタイヤをいかして町のりをするのにも、
ある程度のスピードをだしてサイクリングするにも
てきしているという。
ハンドルはドロップハンドルで、
みためにはまるでロードレーサーだ。
いつも自転車を簡単にかいかえるわけではない。
20年まえにかったランドナーをいまもつかっているので、
ものを大切にするほうといっていいだろう。
そう頻繁にサイクリングにでるわけでもないので
ふるい自転車でもとくに不自由はしないけど、
さすがにガタがきてるし、フレームがすこしちいさくて、
なんとなくこぎにくさをかんじていた。
これからそんなにあたらしい自転車をかうこともないだろうから、
さいごにえらぶ自転車として
からだにピッタリあったものがほしくなったのだ。
たいしてのらないくせにこのみはうるさい。
ドロップハンドルで、タイヤは700C✕35のふとさがほしい。
ギアのきりかえはすくなくてもかまわない。
すくないほうがむしろよく、
変速機のない自転車にしようかとすこしまよったくらいだ。
おもさは10キロ以下で、値段は8万円程度。
この条件で自転車をさがすと、
かなりの確率でシクロクロスというジャンルになってしまうのではないか。
以前すこしのあいだクロスバイクというジャンルの自転車にのっていた。
クロスバイクとは、ロードレーサーと
マウンテンバイクのあいのこのような存在で、
両者のいいとこどりをねらった自転車だ。
ロードレーサーのハンドルをフラットバーにしたもので、
町のりにもサイクリングにもよさそうだけど、
なにもかも中途半端な存在で、
のっていてぜんぜんたのしくなかった。
ドロップハンドルでない自転車が、
こんなにもつまらないものかと
ほんとうにおどろいてしまった。
ネットで注文したので、くみたてられた完成品が
1ヶ月ほどでおくられてくる。
連休には間にあうだろうから、
今年の春は自転車でたのしめそうだ。
からだにピッタリの自転車は、
足の回転をむだなくペダルにつたえてくれて、
人馬一体となった快感があじわえる。
かっこよく自転車に身をまかす自分を想像し、
完成品がとどく日をこころまちにしている。
2013年03月21日
サッカーにおける人種差別はなぜなくならないか
「欧州サッカー根深い差別」として、
今朝の朝日新聞がヨーロッパサッカー界の人種差別問題をつたえている。
記事の中心は、ACミランのボアテング選手(ガーナ代表)が
差別的なヤジに抗議して、練習試合をとちゅうでボイコットした事件だ。
記事は「なぜ今、スタジアムを差別が覆うのか」として
人種差別問題の背景をさぐろうとしている。
しかし、失業率の悪化と関係づけて
「日ごろの不満の矛先が、
アフリカ系選手らに向かう」と、
まるで20年まえの記事みたいなふかみのない内容で、
たいしてめあたらしい見解がしめされているわけではない。
「根深い」と題されことからわかるように、
サッカーにおける差別問題は以前から問題になっており、
アフリカ出身の選手だけでなく、
おおくの選手が差別の対象だ。
猿のなきごえをまねたヤジをあびたボアテング選手は、
「怒り、失望、悲しみが
一気に押し寄せてきた。
差別を見るのも聞くのも初めてではないが、
うんざりだ」
と地元紙にかたっている。
2006年のW杯決勝でジダンがズツキをして
退場になったのも差別的な発言がきっかけだったし、
すこしまえにもリバプールのスアレス選手が
マンチェスターユナイテッドのエヴラ選手との握手をこばんで問題になった。
ベルギーでプレーする川島選手が、
福島の原発問題がらみの差別的な報道をされたのも
記憶にあたらしい。
サッカー界だけで人種差別がおこなわれているのではなく、
ヨーロッパの日常社会がそのままサッカーの現場でも
表面にでてくるとかんがえたほうが自然だろう。
フランスやギリシャなど、
おおくの国で極右政党の存在感がましているのは
いまにはじまったことではない。
わたしもフランスを旅行してるとき
「シノワ(中国人)」と子どもたちにからかわれ、
腹をたてたことがある。
差別的なあつかいをうけたことがないおおくの日本人にとって、
あからさまに差別されるのはかなり腹がたつし
ショックなできことでもある。
グランドでの差別発言をほっておけば、
精神的に冷静な対応がとれなくなり、
プレーに直接影響をおよぼしてしまうだろう。
相手の挑発にのるな、というのとは別の次元の問題であり、
差別発言はルール違反であることをあきらかにするべきだ。
きびしいペナルティによって
差別発言をふせぐしか方法をおもいつかない。
協会が厳格な方針をしめし、ホームチームがサポータ−や選手たちに
その精神が浸透するよう根気づよくもとめていく。
朝日新聞の記事は、
「根深い差別」としながらも、
なぜそれが改善されないのかについて、
分析がないのでものたりなかった。
「国際サッカー連盟のゼップ・プラッター会長は
3月1日、『差別はあってはならない』と、
対策チームを作ることを明らかにした。
人種差別に対する処分をこれまで以上に厳しくする方針だという」
これまでにもおなじような事件がおきながらも
いっこうに根本的な解決にむかわないのはなぜか。
このままではサッカーにおける人種差別の改善に期待できない。
今朝の朝日新聞がヨーロッパサッカー界の人種差別問題をつたえている。
記事の中心は、ACミランのボアテング選手(ガーナ代表)が
差別的なヤジに抗議して、練習試合をとちゅうでボイコットした事件だ。
記事は「なぜ今、スタジアムを差別が覆うのか」として
人種差別問題の背景をさぐろうとしている。
しかし、失業率の悪化と関係づけて
「日ごろの不満の矛先が、
アフリカ系選手らに向かう」と、
まるで20年まえの記事みたいなふかみのない内容で、
たいしてめあたらしい見解がしめされているわけではない。
「根深い」と題されことからわかるように、
サッカーにおける差別問題は以前から問題になっており、
アフリカ出身の選手だけでなく、
おおくの選手が差別の対象だ。
猿のなきごえをまねたヤジをあびたボアテング選手は、
「怒り、失望、悲しみが
一気に押し寄せてきた。
差別を見るのも聞くのも初めてではないが、
うんざりだ」
と地元紙にかたっている。
2006年のW杯決勝でジダンがズツキをして
退場になったのも差別的な発言がきっかけだったし、
すこしまえにもリバプールのスアレス選手が
マンチェスターユナイテッドのエヴラ選手との握手をこばんで問題になった。
ベルギーでプレーする川島選手が、
福島の原発問題がらみの差別的な報道をされたのも
記憶にあたらしい。
サッカー界だけで人種差別がおこなわれているのではなく、
ヨーロッパの日常社会がそのままサッカーの現場でも
表面にでてくるとかんがえたほうが自然だろう。
フランスやギリシャなど、
おおくの国で極右政党の存在感がましているのは
いまにはじまったことではない。
わたしもフランスを旅行してるとき
「シノワ(中国人)」と子どもたちにからかわれ、
腹をたてたことがある。
差別的なあつかいをうけたことがないおおくの日本人にとって、
あからさまに差別されるのはかなり腹がたつし
ショックなできことでもある。
グランドでの差別発言をほっておけば、
精神的に冷静な対応がとれなくなり、
プレーに直接影響をおよぼしてしまうだろう。
相手の挑発にのるな、というのとは別の次元の問題であり、
差別発言はルール違反であることをあきらかにするべきだ。
きびしいペナルティによって
差別発言をふせぐしか方法をおもいつかない。
協会が厳格な方針をしめし、ホームチームがサポータ−や選手たちに
その精神が浸透するよう根気づよくもとめていく。
朝日新聞の記事は、
「根深い差別」としながらも、
なぜそれが改善されないのかについて、
分析がないのでものたりなかった。
「国際サッカー連盟のゼップ・プラッター会長は
3月1日、『差別はあってはならない』と、
対策チームを作ることを明らかにした。
人種差別に対する処分をこれまで以上に厳しくする方針だという」
これまでにもおなじような事件がおきながらも
いっこうに根本的な解決にむかわないのはなぜか。
このままではサッカーにおける人種差別の改善に期待できない。
2013年03月20日
30年代の帽子屋さんはどうやって生活していたのか
平川克美さんの『小商いのすすめ』(ミシマ社)をよんでいたら
「わたしは、いったい、
帽子屋なんていう商売が
どうして成り立つのか
長いこと疑問でした」
とかいてある。
わたしも、まったくおなじことを不思議におもっていた。
すこしまえの商店街には、
帽子屋とか傘屋とか婦人服店とか、どうかんがえても
そんなにお客さんがきそうにない店が
のきをつらねていた。
おおきなショッピングセンターへ
お客がながれるだろうに、
これらの店のひとは、どうやって生活しているのだろう。
わたしは、なにか補助金制度みたいなものがあって、
生活に必要なお金のいくらかが
町や帽子店組合からお金がもらえるのかとおもっていた。
もちろんそんな制度はなく、
こうしたお店はどんどん商売をやめていったので、
商店街はシャッター街になっていった。
でも、30年代当時は、それで商売がなりたっていたわけで、
『小商いのすすめ』には、昭和30年代における帽子が
社会のなかでどんな存在だったかについてふれられている。
紳士のたしなみとして、帽子なしの大人など
かんがえられなかった、というのが当時の風俗だったようだ。
帽子だけでなく、傘屋さんとか、婦人服店とか、時計屋さんとか、
そんなにしょっちゅうお客さんが
くるわけないようなお店がなりたっていたのは、
ひとびとが必要とするものがそんなに多様ではなく、
かぎられた商品をあつかっていれば商売になったからだろうか。
商店街にいっていたお客さんは、
ショッピングセンターやホームセンターにながれたわけだけど、
それらの店だっていつまでも盤石かというと、ぜんぜんそうではない。
いまみたいにネット販売があたりまえになってくると、
家電のチェーン店が価格競争でくるしむみたいに、
大型店がかならずしも有利なわけではない時代となった。
やり方によっては、個人商店のもつ個性が
またいかされるようになる。
商店街の活性化についてよく耳にするようになったけど、
それはきっとたくさんのお客さんがきてくれるお店を
めざしているのだろう。
商売繁盛でおおいそがしの店よりも、
いちにちに2〜3人のお客さんがおとずれる程度が
わたしにはむいていそうで、
そうやってくらせた時代がうらやましい。
30年代の帽子屋さんは、どんな商売をしていたのだろう。
「わたしは、いったい、
帽子屋なんていう商売が
どうして成り立つのか
長いこと疑問でした」
とかいてある。
わたしも、まったくおなじことを不思議におもっていた。
すこしまえの商店街には、
帽子屋とか傘屋とか婦人服店とか、どうかんがえても
そんなにお客さんがきそうにない店が
のきをつらねていた。
おおきなショッピングセンターへ
お客がながれるだろうに、
これらの店のひとは、どうやって生活しているのだろう。
わたしは、なにか補助金制度みたいなものがあって、
生活に必要なお金のいくらかが
町や帽子店組合からお金がもらえるのかとおもっていた。
もちろんそんな制度はなく、
こうしたお店はどんどん商売をやめていったので、
商店街はシャッター街になっていった。
でも、30年代当時は、それで商売がなりたっていたわけで、
『小商いのすすめ』には、昭和30年代における帽子が
社会のなかでどんな存在だったかについてふれられている。
紳士のたしなみとして、帽子なしの大人など
かんがえられなかった、というのが当時の風俗だったようだ。
帽子だけでなく、傘屋さんとか、婦人服店とか、時計屋さんとか、
そんなにしょっちゅうお客さんが
くるわけないようなお店がなりたっていたのは、
ひとびとが必要とするものがそんなに多様ではなく、
かぎられた商品をあつかっていれば商売になったからだろうか。
商店街にいっていたお客さんは、
ショッピングセンターやホームセンターにながれたわけだけど、
それらの店だっていつまでも盤石かというと、ぜんぜんそうではない。
いまみたいにネット販売があたりまえになってくると、
家電のチェーン店が価格競争でくるしむみたいに、
大型店がかならずしも有利なわけではない時代となった。
やり方によっては、個人商店のもつ個性が
またいかされるようになる。
商店街の活性化についてよく耳にするようになったけど、
それはきっとたくさんのお客さんがきてくれるお店を
めざしているのだろう。
商売繁盛でおおいそがしの店よりも、
いちにちに2〜3人のお客さんがおとずれる程度が
わたしにはむいていそうで、
そうやってくらせた時代がうらやましい。
30年代の帽子屋さんは、どんな商売をしていたのだろう。
2013年03月19日
合格発表とスマホデビューの条件
きのう、県立高校の合格発表があった。
それぞれの学校に結果がはりだされるだけでなく、
このごろはネットでも確認できるのだそうだ。
配偶者からわたしの携帯電話に連絡がはいり、
むすこが合格したことをしらされる。
家にもどってからむすこにおめでとうをつたえ、
どれくらい受験勉強をしたのかたずねた。
ほとんど勉強してなかったのはしっている。
せっかくだから、正確な時間数を確認しておこうとおもったのだ。
「んー、わからん」というむすこに
「たとえばいちにち2時間を10日やったとか」
としつこくたずねる。
しばらくかんがえてから「十何時間かな」というこたえがでた。
すごい。十何時間の受験勉強で高校生となるむすこは、
どんな教訓をこの入試でえるのだろう。
わたしが受験したときに、どれだけ勉強したかはもうおぼえていない。
実力にあった高校をえらんだので、
おちる心配はせず、ほとんどなにも準備しなかったはずだ。
あんがいわたしも「十何時間」のくちだったかもしれない。
今年の入試はほとんどの高校で競争率が1倍をしたまわっている。
それでも県全体では100人くらいおちたということで、
まずはぶじに合格できたことをありがたくおもう。
高校にはいったらスマートフォンがほしいのだそうだ。
それはほしいだろうけど、
利用料が5000円以上するようなものを、
ただ「はいどうぞ」ではおもしろくないので、
なにか条件をつけたいところだ。
毎日のお風呂そうじとか、
毎週日曜日の夕ご飯をつくるとか。
よその家庭では、携帯やスマホの導入について
どう対応してるのか気になってきた。
現実的で、おたがいに気もちの負担がない
すっきりしたなにか契約をむすべないだろうか。
ということを職場の相棒に相談すると、
ゴミの係は?と提案してくれた。
もえるゴミやプラスティック製のゴミなど、
曜日をきめてあつめられるゴミを
きめられた場所にだす役だ。
これならやってもらうとたしかにたすかるし、
やるほうにしても、そんなにエネルギーがかかるわけではない。
いい案なので、そのまま配偶者とむすこにもちかけてみる。
ふたりとも了承したので、
我が家のスマホ問題は、なんとかかたがつきそうだ。
それぞれの学校に結果がはりだされるだけでなく、
このごろはネットでも確認できるのだそうだ。
配偶者からわたしの携帯電話に連絡がはいり、
むすこが合格したことをしらされる。
家にもどってからむすこにおめでとうをつたえ、
どれくらい受験勉強をしたのかたずねた。
ほとんど勉強してなかったのはしっている。
せっかくだから、正確な時間数を確認しておこうとおもったのだ。
「んー、わからん」というむすこに
「たとえばいちにち2時間を10日やったとか」
としつこくたずねる。
しばらくかんがえてから「十何時間かな」というこたえがでた。
すごい。十何時間の受験勉強で高校生となるむすこは、
どんな教訓をこの入試でえるのだろう。
わたしが受験したときに、どれだけ勉強したかはもうおぼえていない。
実力にあった高校をえらんだので、
おちる心配はせず、ほとんどなにも準備しなかったはずだ。
あんがいわたしも「十何時間」のくちだったかもしれない。
今年の入試はほとんどの高校で競争率が1倍をしたまわっている。
それでも県全体では100人くらいおちたということで、
まずはぶじに合格できたことをありがたくおもう。
高校にはいったらスマートフォンがほしいのだそうだ。
それはほしいだろうけど、
利用料が5000円以上するようなものを、
ただ「はいどうぞ」ではおもしろくないので、
なにか条件をつけたいところだ。
毎日のお風呂そうじとか、
毎週日曜日の夕ご飯をつくるとか。
よその家庭では、携帯やスマホの導入について
どう対応してるのか気になってきた。
現実的で、おたがいに気もちの負担がない
すっきりしたなにか契約をむすべないだろうか。
ということを職場の相棒に相談すると、
ゴミの係は?と提案してくれた。
もえるゴミやプラスティック製のゴミなど、
曜日をきめてあつめられるゴミを
きめられた場所にだす役だ。
これならやってもらうとたしかにたすかるし、
やるほうにしても、そんなにエネルギーがかかるわけではない。
いい案なので、そのまま配偶者とむすこにもちかけてみる。
ふたりとも了承したので、
我が家のスマホ問題は、なんとかかたがつきそうだ。
2013年03月18日
発達障害への理解がひろまるために
きょうのピピは、これまでで最高の、10人の利用がある。
ひとりキャンセルがでての10人で、
いよいよ年度末のいそがしい時期にはいったことを実感する。
きょうがはじめての利用という子と、
2度目という子がひとりずついたので、
春やすみの予行練習みたいなかんじだ。
春やすみからの利用では、
普通学級にかよっている子どもたちが3人もピピにやってくる。
発達障害について、まだまだ学校や地域社会に
うけいれる土壌が整備されておらず、
おとなたちの不適切な対応で
子どもたちがキズついてしまったケースだ。
相手の気もちをくみとることの困難さや、
自分の気もちをつたえるのがむつかしいという特性があるときに、
できないことや苦手なことばかりに目をやると
子どもたちにとっていごこちのわるい場所になってしまう。
ほんのすこしでも発達障害の特性に知識と理解があれば、
ぜんぜんちがうみかたができて、子どもたちがすくわれるのに。
こうママのブログに
知多でおこなわれた行動援護従業者研修のことがかいてある。
「定員40名なのですが、かなり超えてしまって
10名以上がキャンセル待ちという状態だったそうです。
すごいな〜。
で、参加者名簿を見て、更にビックリ。
ケアホームの世話人さんや相談支援専門員さんや
生活介護の指導員などが多く、
もしかして、ヘルパー以外の職種の方が多いかも!?の状況。
受講理由をお聞きしたら、
どの方も『行動援護対象の方を支援しているから』と。
行動援護ヘルパーの資格を取得するためではなく、
行動援護対象の方に適切な支援をするために
受講費2万円のこの研修を受講されているのです。
びっくりですよね!!!!」
島根県でおこなわれた今年度の行動援護従業者研修は
18名というさみしい参加者数だった。
行動援護サービスが島根でのびなやんでいること、
発達障害への理解がひろまらない状況が、
この参加者数にもあらわれている。
行動援護従業者研修は
障害特性からアセスメントする方法や、
じっさいに支援するときに配慮する点をまなんでいく。
ひじょうに実用性のたかい研修であるとともに、
自閉症についての基礎講座みたいな内容でもある。
知多のようにヘルパーだけでなく、
行動援護対象者への支援をしているひとのおおくが受講されるのは、
将来をみこした町づくり、地域づくりという意味からもうらやましい。
発達障害という「みたて」をあやまると、
いくら愛情や経験があっても支援がとどかずに、
「無意識の虐待」につながる危険性がある。
それをふせぐには、社会への啓発を
地道におこなっていくしかない。
ピピでの春やすみが、
たのしい体験をたくさんつめる機会となるよう、
あたたかで平凡な日常を提供していきたい。
ひとりキャンセルがでての10人で、
いよいよ年度末のいそがしい時期にはいったことを実感する。
きょうがはじめての利用という子と、
2度目という子がひとりずついたので、
春やすみの予行練習みたいなかんじだ。
春やすみからの利用では、
普通学級にかよっている子どもたちが3人もピピにやってくる。
発達障害について、まだまだ学校や地域社会に
うけいれる土壌が整備されておらず、
おとなたちの不適切な対応で
子どもたちがキズついてしまったケースだ。
相手の気もちをくみとることの困難さや、
自分の気もちをつたえるのがむつかしいという特性があるときに、
できないことや苦手なことばかりに目をやると
子どもたちにとっていごこちのわるい場所になってしまう。
ほんのすこしでも発達障害の特性に知識と理解があれば、
ぜんぜんちがうみかたができて、子どもたちがすくわれるのに。
こうママのブログに
知多でおこなわれた行動援護従業者研修のことがかいてある。
「定員40名なのですが、かなり超えてしまって
10名以上がキャンセル待ちという状態だったそうです。
すごいな〜。
で、参加者名簿を見て、更にビックリ。
ケアホームの世話人さんや相談支援専門員さんや
生活介護の指導員などが多く、
もしかして、ヘルパー以外の職種の方が多いかも!?の状況。
受講理由をお聞きしたら、
どの方も『行動援護対象の方を支援しているから』と。
行動援護ヘルパーの資格を取得するためではなく、
行動援護対象の方に適切な支援をするために
受講費2万円のこの研修を受講されているのです。
びっくりですよね!!!!」
島根県でおこなわれた今年度の行動援護従業者研修は
18名というさみしい参加者数だった。
行動援護サービスが島根でのびなやんでいること、
発達障害への理解がひろまらない状況が、
この参加者数にもあらわれている。
行動援護従業者研修は
障害特性からアセスメントする方法や、
じっさいに支援するときに配慮する点をまなんでいく。
ひじょうに実用性のたかい研修であるとともに、
自閉症についての基礎講座みたいな内容でもある。
知多のようにヘルパーだけでなく、
行動援護対象者への支援をしているひとのおおくが受講されるのは、
将来をみこした町づくり、地域づくりという意味からもうらやましい。
発達障害という「みたて」をあやまると、
いくら愛情や経験があっても支援がとどかずに、
「無意識の虐待」につながる危険性がある。
それをふせぐには、社会への啓発を
地道におこなっていくしかない。
ピピでの春やすみが、
たのしい体験をたくさんつめる機会となるよう、
あたたかで平凡な日常を提供していきたい。
2013年03月17日
絹5本指くつした健康法
10年くらいまえから、
くつしたをかさねてはいている。
一足目に絹製の5本指くつしたを、
そのうえにもめんのごくふつうのくつしたをはく。
冬には、このうえにもう一足、あつでのくつしたをはくので
全部で3枚ということになる。
ひえをふせぐのにいいということをきいたのが
きっかけだったとおもう。
ためしてみるとたしかにあたたかく、
足がよろこんでいるのがわかる。
冬のさむい日でも、ふとんのなかで
足のつめたさになやむことがない。
夏はあつくてたいへんかというと
絹のくつしたを1枚目にはいてるせいか、
ぜんぜんそんなことはなく、
かえって快適なぐらいだ。
かさねてはくのがあたりまえになると、
それまで1枚だけのくつしたでしのいでいたのが
しんじられない。
それだけわかかったということもあるのだろう。
いまや冬にはズボン下が手ばなせないのとおなじように、
3枚のくつしたがわたしの冬をささえている。
絹+もめんというくつしたのかさねばきには、
毒だしという効果もあるのだという。
たしかにはきだしてしばらくは
絹のくつしたのいたみが異常にはやかった。
すぐに親指やかかとの部分がうすくなり、やぶれてくる。
それだけ毒素をだしている証拠、と
絹のくつした健康法では説明されている。
こまるのは、冬に3枚のくつしたをはくと、
それまでのシューズではきゅうくつなことがおおいことと、
ひとまえではだしになるときに、
ちょっとひとさわがせなことくらいか。
このごろは5本指のくつしたをはいているひともおおく、
そのうちあまり気にならなくなった。
洗濯物がふえるのはたいへんそうだけど、
洗濯機がしてくれることなので、
たいした手間ではない。
かさねばきしたときのシューズとして、
アディダスのシューズが、わたしにはぴったりくることがわかった。
くつしたが2枚のときも3枚のときも、
きゅうくつさをかんじさせないで足がおさまる。
みためはおおきくないのに、
冬用のぶあついくつしたをはいていても、
なんとなく足になじんでしまう。
たまたまそのシューズとの相性がよかったのか、
アディダス社の特徴なのかはわからない。
もしアディダスのシューズ全般にいえるのなら、
くつした健康法の実践者にはありがたい存在だし、
アディダス社としてもピーアールできるのではないか。
4枚をかさねてはくというやり方もあるそうで、
さくらももこさんがエッセイのなかで紹介していた。
はじめて4足くつしたという存在をしったときに、
なにかあたらしい宗教をすすめられたみたいな、
気味のわるさをかんじたそうだ。
たしかに4枚のくつしたとなると、かなりものものしく、
健康法というより生き方という域にはいってきそうだ。
くつしたをかさねてはいている。
一足目に絹製の5本指くつしたを、
そのうえにもめんのごくふつうのくつしたをはく。
冬には、このうえにもう一足、あつでのくつしたをはくので
全部で3枚ということになる。
ひえをふせぐのにいいということをきいたのが
きっかけだったとおもう。
ためしてみるとたしかにあたたかく、
足がよろこんでいるのがわかる。
冬のさむい日でも、ふとんのなかで
足のつめたさになやむことがない。
夏はあつくてたいへんかというと
絹のくつしたを1枚目にはいてるせいか、
ぜんぜんそんなことはなく、
かえって快適なぐらいだ。
かさねてはくのがあたりまえになると、
それまで1枚だけのくつしたでしのいでいたのが
しんじられない。
それだけわかかったということもあるのだろう。
いまや冬にはズボン下が手ばなせないのとおなじように、
3枚のくつしたがわたしの冬をささえている。
絹+もめんというくつしたのかさねばきには、
毒だしという効果もあるのだという。
たしかにはきだしてしばらくは
絹のくつしたのいたみが異常にはやかった。
すぐに親指やかかとの部分がうすくなり、やぶれてくる。
それだけ毒素をだしている証拠、と
絹のくつした健康法では説明されている。
こまるのは、冬に3枚のくつしたをはくと、
それまでのシューズではきゅうくつなことがおおいことと、
ひとまえではだしになるときに、
ちょっとひとさわがせなことくらいか。
このごろは5本指のくつしたをはいているひともおおく、
そのうちあまり気にならなくなった。
洗濯物がふえるのはたいへんそうだけど、
洗濯機がしてくれることなので、
たいした手間ではない。
かさねばきしたときのシューズとして、
アディダスのシューズが、わたしにはぴったりくることがわかった。
くつしたが2枚のときも3枚のときも、
きゅうくつさをかんじさせないで足がおさまる。
みためはおおきくないのに、
冬用のぶあついくつしたをはいていても、
なんとなく足になじんでしまう。
たまたまそのシューズとの相性がよかったのか、
アディダス社の特徴なのかはわからない。
もしアディダスのシューズ全般にいえるのなら、
くつした健康法の実践者にはありがたい存在だし、
アディダス社としてもピーアールできるのではないか。
4枚をかさねてはくというやり方もあるそうで、
さくらももこさんがエッセイのなかで紹介していた。
はじめて4足くつしたという存在をしったときに、
なにかあたらしい宗教をすすめられたみたいな、
気味のわるさをかんじたそうだ。
たしかに4枚のくつしたとなると、かなりものものしく、
健康法というより生き方という域にはいってきそうだ。
2013年03月16日
ママ母のようなチャコへのいじわる
2匹のネコ、ピピとチャコといっしょにくらしている。
チャコにいじわるしたり、きびしいことをいったあとで、
なんだかママ母みたいだな、とこのごろよくおもうようになった
(ママ母って、もう死語なのだろうか、最近きかない)。
ストーブのまえで、場所とりのじゃれあいをしていても、
しかられるのはいつもチャコだ。
おなじようなことをしていても、
しかられるのはチャコの役目で、
ピピにその余波がおよぶことはない。
ピピには顔をあわすたびに
「はーいピピ!かわいいねー」とよびかけ、
われながらネコなで声とはこのことだとおもいつつ、
濃厚な愛撫をくりかえすのに、
チャコには「あんたもかわいいね」だけという
ぜんぜんそっけない態度だ。
ご飯をねだっても、
「あんたはデブだからたべなくていいの!」
なんてひどいことをいう。
この差はどのようにうまれたのだろう。
ピピはこれまでなんどもケガや病気で
あぶないめにあってきた。
このあいだ背骨をいためたときも、
ついにピピとのおわかれかとかなしみにくれ、
1周間ほどでげんきをとりもどすと
なんだか人生の第2章がはじまったかのように
目のまえの景色がちがってみえた。
いっぽうのチャコは、圧倒的な体重をいかして、
多少の病気やケガでたとえねこんだとしても、
すぐ回復するだけのじゅうぶんな体力がある。
また、ピピはどこか優等生的なところがあり、
学校でいうと、先生のまえでいじめらえているのを
じょうずにアピールするという
けっこういやらしい性格だ。
チャコはあまり頭がよくなく、
しょっちゅう混乱してワーワーないている。
たべたことをすぐわすれるのだろうか、
いつもご飯を催促し、その結果7.5キロという、
ネコというよりタヌキの体重になってしまった。
ご飯をあげないのは、健康面からの配慮ともいえる。
ほんとうは、教育的指導と体罰がちがうように、
心配よりもいじわるを実感しているけど。
で、そのママ母的な対応をしていると、
ママ母は、その子をきらって
いじわるをしているのではないことがわかってきた。
いじわるというより条件反射であり、
かんがえる間もなく声をかけ、態度にだすのだから
やっているほうは罪の意識はなく、
当然の対応をしているだけという認識しかない。
わたしの配偶者が、むすこのお昼ごはんとして
おかずをどっさり用意するのにたいし、
そのほんのついでにわたしの弁当用を
3分の1ほど小皿にとりわけているのは
おなじような心理なのだと想像する。
かんがえたすえの配慮ではなく、
反射的に差をつけるところがこわいところだ。
チャコがかわいくないわけではなく、
その表現にちがいがある、というのは
かっこつけすぎかもしれないけど、でも本当だ。
チャコはピピ的にかわいがっても
それをどううけとめていいかわからないし
(わからないようにそだてた、ともいえるけど)、
ピピにチャコ的な対応をしたら
きっとふかくキズついて、家をでていってしまうだろう。
個性にあわせた必然のかわいがりかたといえる。
むかしばなしにでてくるママ母は、
なにをおもっていじわるをくりかえしたか。
なにもおもってなかったから、
いじわるをくりかえせたのだろう。
チャコにいじわるしたり、きびしいことをいったあとで、
なんだかママ母みたいだな、とこのごろよくおもうようになった
(ママ母って、もう死語なのだろうか、最近きかない)。
ストーブのまえで、場所とりのじゃれあいをしていても、
しかられるのはいつもチャコだ。
おなじようなことをしていても、
しかられるのはチャコの役目で、
ピピにその余波がおよぶことはない。
ピピには顔をあわすたびに
「はーいピピ!かわいいねー」とよびかけ、
われながらネコなで声とはこのことだとおもいつつ、
濃厚な愛撫をくりかえすのに、
チャコには「あんたもかわいいね」だけという
ぜんぜんそっけない態度だ。
ご飯をねだっても、
「あんたはデブだからたべなくていいの!」
なんてひどいことをいう。
この差はどのようにうまれたのだろう。
ピピはこれまでなんどもケガや病気で
あぶないめにあってきた。
このあいだ背骨をいためたときも、
ついにピピとのおわかれかとかなしみにくれ、
1周間ほどでげんきをとりもどすと
なんだか人生の第2章がはじまったかのように
目のまえの景色がちがってみえた。
いっぽうのチャコは、圧倒的な体重をいかして、
多少の病気やケガでたとえねこんだとしても、
すぐ回復するだけのじゅうぶんな体力がある。
また、ピピはどこか優等生的なところがあり、
学校でいうと、先生のまえでいじめらえているのを
じょうずにアピールするという
けっこういやらしい性格だ。
チャコはあまり頭がよくなく、
しょっちゅう混乱してワーワーないている。
たべたことをすぐわすれるのだろうか、
いつもご飯を催促し、その結果7.5キロという、
ネコというよりタヌキの体重になってしまった。
ご飯をあげないのは、健康面からの配慮ともいえる。
ほんとうは、教育的指導と体罰がちがうように、
心配よりもいじわるを実感しているけど。
で、そのママ母的な対応をしていると、
ママ母は、その子をきらって
いじわるをしているのではないことがわかってきた。
いじわるというより条件反射であり、
かんがえる間もなく声をかけ、態度にだすのだから
やっているほうは罪の意識はなく、
当然の対応をしているだけという認識しかない。
わたしの配偶者が、むすこのお昼ごはんとして
おかずをどっさり用意するのにたいし、
そのほんのついでにわたしの弁当用を
3分の1ほど小皿にとりわけているのは
おなじような心理なのだと想像する。
かんがえたすえの配慮ではなく、
反射的に差をつけるところがこわいところだ。
チャコがかわいくないわけではなく、
その表現にちがいがある、というのは
かっこつけすぎかもしれないけど、でも本当だ。
チャコはピピ的にかわいがっても
それをどううけとめていいかわからないし
(わからないようにそだてた、ともいえるけど)、
ピピにチャコ的な対応をしたら
きっとふかくキズついて、家をでていってしまうだろう。
個性にあわせた必然のかわいがりかたといえる。
むかしばなしにでてくるママ母は、
なにをおもっていじわるをくりかえしたか。
なにもおもってなかったから、
いじわるをくりかえせたのだろう。
2013年03月15日
春やすみをどうすごすか(さいごのしずかないちにち)
春やすみにちかくづいてきたせいか、
このごろきゅうに利用相談や契約がおおくなってきた。
春やすみちゅうの利用予定をうちだしてみると、
10人をこえる日がめずらしくなく、
どうやって調整するか、これからなやまなければならない。
それでいて、きょうの利用者はたった3人だった。
家庭の都合や病気によるキャンセルがはいり、
来週からのいそがしさがしんじられないような
さみしい人数だ。
きょうは、もしかしたらピピさいごの
のんびりした日だったのではないか。
予定表をながめつつ、それではこれまでの長期休暇を
障害をもつ子どもたちとその家族は
どうやってすごしていたのだろうとかんがえてしまった。
なければなかったで、なんとかなっていた、
とはおもいたくない。
ピピにかよえることで、
すごくたのしいやすみだった、と
子どもたちによろこんでもらおう。
ハローワークに求人もだした。
子どもたちが10人もきてくれるなら、
5人の職員でうけいれたい。
ぜんぶのうごきをおとながしきろうとすると
めちゃくちゃたいへんなので、
われわれがするのは必要最小限の支援だけにとどめる。
できるだけ子どもどうしであそんだり、
自分ひとりでやりたいことに没頭してもらおう。
ピピはそのために必要な場所とおもちゃを提供する。
よけいな口ははさまない。
最初からはむりでも、だんだんと
おとなの影をうすくして、
わたしは縁側でねことあそんでいよう。
このごろきゅうに利用相談や契約がおおくなってきた。
春やすみちゅうの利用予定をうちだしてみると、
10人をこえる日がめずらしくなく、
どうやって調整するか、これからなやまなければならない。
それでいて、きょうの利用者はたった3人だった。
家庭の都合や病気によるキャンセルがはいり、
来週からのいそがしさがしんじられないような
さみしい人数だ。
きょうは、もしかしたらピピさいごの
のんびりした日だったのではないか。
予定表をながめつつ、それではこれまでの長期休暇を
障害をもつ子どもたちとその家族は
どうやってすごしていたのだろうとかんがえてしまった。
なければなかったで、なんとかなっていた、
とはおもいたくない。
ピピにかよえることで、
すごくたのしいやすみだった、と
子どもたちによろこんでもらおう。
ハローワークに求人もだした。
子どもたちが10人もきてくれるなら、
5人の職員でうけいれたい。
ぜんぶのうごきをおとながしきろうとすると
めちゃくちゃたいへんなので、
われわれがするのは必要最小限の支援だけにとどめる。
できるだけ子どもどうしであそんだり、
自分ひとりでやりたいことに没頭してもらおう。
ピピはそのために必要な場所とおもちゃを提供する。
よけいな口ははさまない。
最初からはむりでも、だんだんと
おとなの影をうすくして、
わたしは縁側でねことあそんでいよう。
2013年03月14日
ご飯つぶの法則
きのうのブログに、口もとについたご飯つぶのことをかいていて気づいた。
いくつかのことがらは、基本的な路線を
あらかじめ確認しておく必要がある。
そして、それさえしてあればうごきがすごく楽だ。
いっしょにご飯をたべていて、
まえにいるひとの口もとにご飯つぶがついていたら
どう対応するべきか。
ためらわずに、さっと指摘したほうがいい、
というのがわたしのかんがえだ。
だまったままにしておくと、
そのひとがあとではずかしいおもいをするかもしれないし、
いいだせずにためらっていると、そのことばかり気になって
はなしに身がはいらない。
では、だれでもすぐに指摘できるかというと、
ある程度こころがまえがいるひとがおおいのではないか。
「指摘する」という基本路線をもっていないと、
どうしてもためらってしまい、
だんだんといいにくい心境になりがちだ。
逆にいえば、基本路線さえもってさえいると、
あんがいさっと指摘できる。
「あらかじめ確認しておく必要がある」なんて、
もっともらしく冒頭にかいたのは、
そうしておくと無条件に脳が反応するからだ。
「わたしのまえにすわったひとが
口もとにご飯つぶをつけていたら、
すぐに指摘しよう」と
日ごろから脳にいいきかせておくと、
その場面になったときに反射的に反応できる。
長年の脳へのいいきかせによって、
わたしはすぐにご飯つぶを指摘できるようになった。
いい方によってはいやがられるので、
なんの感情もはさまず、気づいた時点で指摘するのがコツだ。
相手がきているシャツをほめるついでに、
なんて余計なことはかんがえないほうがいい。
では、鼻毛がのびているのに気づいたときはどうだろうか。
おなじようにサッと指摘すればいいかというと
こちらはもうすこしデリケートな問題だ。
基本路線をもちにくく、
その場その場での状況判断が必要で、
とおりいっぺんのこころがまえでは対応できない。
基本路線があればすごく楽にうごけることと、
鼻毛のようにいろんな配慮が必要なものがある。
基本と例外というわけで、
例外はかならずあるけれど数はそんなにおおくはない。
例外のために基本方針をたてないよりも、
例外は無視して基本路線をはやくたてたほうが
ほとんどのことは楽にすばやい対応ができる。
これをご飯粒の法則といい、
こうやってシンプルにかんがえる方法をしり、
その習慣を身につければ、
人生はあんがいすいすいおよぎまわれるものである。
いくつかのことがらは、基本的な路線を
あらかじめ確認しておく必要がある。
そして、それさえしてあればうごきがすごく楽だ。
いっしょにご飯をたべていて、
まえにいるひとの口もとにご飯つぶがついていたら
どう対応するべきか。
ためらわずに、さっと指摘したほうがいい、
というのがわたしのかんがえだ。
だまったままにしておくと、
そのひとがあとではずかしいおもいをするかもしれないし、
いいだせずにためらっていると、そのことばかり気になって
はなしに身がはいらない。
では、だれでもすぐに指摘できるかというと、
ある程度こころがまえがいるひとがおおいのではないか。
「指摘する」という基本路線をもっていないと、
どうしてもためらってしまい、
だんだんといいにくい心境になりがちだ。
逆にいえば、基本路線さえもってさえいると、
あんがいさっと指摘できる。
「あらかじめ確認しておく必要がある」なんて、
もっともらしく冒頭にかいたのは、
そうしておくと無条件に脳が反応するからだ。
「わたしのまえにすわったひとが
口もとにご飯つぶをつけていたら、
すぐに指摘しよう」と
日ごろから脳にいいきかせておくと、
その場面になったときに反射的に反応できる。
長年の脳へのいいきかせによって、
わたしはすぐにご飯つぶを指摘できるようになった。
いい方によってはいやがられるので、
なんの感情もはさまず、気づいた時点で指摘するのがコツだ。
相手がきているシャツをほめるついでに、
なんて余計なことはかんがえないほうがいい。
では、鼻毛がのびているのに気づいたときはどうだろうか。
おなじようにサッと指摘すればいいかというと
こちらはもうすこしデリケートな問題だ。
基本路線をもちにくく、
その場その場での状況判断が必要で、
とおりいっぺんのこころがまえでは対応できない。
基本路線があればすごく楽にうごけることと、
鼻毛のようにいろんな配慮が必要なものがある。
基本と例外というわけで、
例外はかならずあるけれど数はそんなにおおくはない。
例外のために基本方針をたてないよりも、
例外は無視して基本路線をはやくたてたほうが
ほとんどのことは楽にすばやい対応ができる。
これをご飯粒の法則といい、
こうやってシンプルにかんがえる方法をしり、
その習慣を身につければ、
人生はあんがいすいすいおよぎまわれるものである。
2013年03月13日
むすこの卒業式
むすこがぶじに中学の卒業の日をむかえられたことを、
ただもうそれだけでありがたいとおもう。
とくに七難八苦の山々をのりかえたわけではないけれど、
交通事故にもあわず、おおきな病気もせず、
ごくふつうに卒業式のいすにすわれたことを感謝する。
むすこについて、まったく心配することのない3年間だった。
勉強してるようすはぜんぜんなかったけれど、
友だちがよくあそびにきてくれたし、
わたしがすすめた本をよんでくれた。
ネコたちをだいじにしてくれたし、
わたしの口もとにゴハンつぶがついてたらおしえてくれた。
わたしはもうむすこがなにをかんがえているかわからない。
りっぱなからだと、それなりの年齢になったのだから、
これからはすすむ方向を自分でかんがえていくだろう。
経済的にはあと3年くらい面倒をみるのが一般的だ。
べつに一般的でなくてもいいから
えらんだ道をすすんでいってほしいとおもう。
卒業式のひとつのデーターとして紹介すると、
むすこの学年は200名で、3年間ずっと5クラスだった。
もうすこしで6クラス、という人数なのだそうだ。
ひとクラス39〜41人ということで、
教室にはいってみると、机とイスが
ぎっしりつまっているようにみえる。
こんな息ぐるしい空間に
中学3年生というエネルギーのかたまりみたいな少年・少女が
よくおさまっていたものだ。
おしえる方もたいへんかもしれないが、
つめこまれる方だって楽ではなかっただろう。
200人のうち、ひらがなだけをつかった名前は9名で、
全員が女の子だった。
いわゆるキラキラネームはすくなくて、
ほとんどの子の名前がよめた。
式のおわりのほうで、卒業歌というのがうたわれた。
いまは『仰げば尊し』ではなく、
『旅立ちの日に』が圧倒的な定番ソングなのだそうだ。
たまたまきょうの午後、仕事のうちあわせでおとずれた
小学校でも、卒業式の練習にこのうたを練習していた。
ゴテゴテと感動をおしつけるのではなく、
卒業をすなおに表現していて、いいうただとおもった。
式がおわってから、「さいごの学活に保護者の方も」、
とうながされて教室へ移動する。
式ではクラスの代表だけが卒業証書をうけとったので、
こんどはひとりひとりに担任の先生が手わたされる。
卒業証書といわれなければしんじられないくらい、
緊張感がなく、ごくふつうの「学活」にみえた。
家ではほとんどはなさないむすこが
教室で友だちにむけては笑顔をみせている。
でも、それ以外のときは、
あんな目でみられたらやりにくいだろーなー
とおもわせる、したしみにくい視線をむける。
うちによくあそびにくる子が、
教室では制服のボタンを2つはずし、
それなりの顔をしてたのがおかしかった。
昇降口の外では、応援団の子どもたちが
「フレー!フレー!」と声援をおくっている。
在校生がベランダにならび、
卒業生をみおくってくれる。
むすこはいつものようになにもしゃべらない。
わたしと配偶者がむすこがのった車は、
なにごともなかったかのように家にむかった。
なにごともなかったのだろうか。
ただもうそれだけでありがたいとおもう。
とくに七難八苦の山々をのりかえたわけではないけれど、
交通事故にもあわず、おおきな病気もせず、
ごくふつうに卒業式のいすにすわれたことを感謝する。
むすこについて、まったく心配することのない3年間だった。
勉強してるようすはぜんぜんなかったけれど、
友だちがよくあそびにきてくれたし、
わたしがすすめた本をよんでくれた。
ネコたちをだいじにしてくれたし、
わたしの口もとにゴハンつぶがついてたらおしえてくれた。
わたしはもうむすこがなにをかんがえているかわからない。
りっぱなからだと、それなりの年齢になったのだから、
これからはすすむ方向を自分でかんがえていくだろう。
経済的にはあと3年くらい面倒をみるのが一般的だ。
べつに一般的でなくてもいいから
えらんだ道をすすんでいってほしいとおもう。
卒業式のひとつのデーターとして紹介すると、
むすこの学年は200名で、3年間ずっと5クラスだった。
もうすこしで6クラス、という人数なのだそうだ。
ひとクラス39〜41人ということで、
教室にはいってみると、机とイスが
ぎっしりつまっているようにみえる。
こんな息ぐるしい空間に
中学3年生というエネルギーのかたまりみたいな少年・少女が
よくおさまっていたものだ。
おしえる方もたいへんかもしれないが、
つめこまれる方だって楽ではなかっただろう。
200人のうち、ひらがなだけをつかった名前は9名で、
全員が女の子だった。
いわゆるキラキラネームはすくなくて、
ほとんどの子の名前がよめた。
式のおわりのほうで、卒業歌というのがうたわれた。
いまは『仰げば尊し』ではなく、
『旅立ちの日に』が圧倒的な定番ソングなのだそうだ。
たまたまきょうの午後、仕事のうちあわせでおとずれた
小学校でも、卒業式の練習にこのうたを練習していた。
ゴテゴテと感動をおしつけるのではなく、
卒業をすなおに表現していて、いいうただとおもった。
式がおわってから、「さいごの学活に保護者の方も」、
とうながされて教室へ移動する。
式ではクラスの代表だけが卒業証書をうけとったので、
こんどはひとりひとりに担任の先生が手わたされる。
卒業証書といわれなければしんじられないくらい、
緊張感がなく、ごくふつうの「学活」にみえた。
家ではほとんどはなさないむすこが
教室で友だちにむけては笑顔をみせている。
でも、それ以外のときは、
あんな目でみられたらやりにくいだろーなー
とおもわせる、したしみにくい視線をむける。
うちによくあそびにくる子が、
教室では制服のボタンを2つはずし、
それなりの顔をしてたのがおかしかった。
昇降口の外では、応援団の子どもたちが
「フレー!フレー!」と声援をおくっている。
在校生がベランダにならび、
卒業生をみおくってくれる。
むすこはいつものようになにもしゃべらない。
わたしと配偶者がむすこがのった車は、
なにごともなかったかのように家にむかった。
なにごともなかったのだろうか。
2013年03月12日
追悼 納谷悟朗氏と銭形警部
納谷悟朗氏がなくなった。
わたしが声優としての納谷氏しかしらなかっただけで
氏は劇団テアトル・エコーに所属されており、
演劇のほうが本職だったのだろう。
とはいえ、わたしにとっての納谷悟朗氏は
どうしても銭形警部の声とかさなってしまう。
映画『カリオストロの城』では、
結婚式の混乱にまぎれて
地下の造幣所までかけおりる。
偶然にニセ札づくりの現場を発見したようによそおって、
「ルパンをおってて
とんでもないものをみつけてしまった。
どーしよー」
というわざとらしいベタな演技がわすれられない。
うまさだけではなく、
たどたどしい棒よみが、この場面ではもっとも効果的だった。
また、銭形警部がわたしたちに「昭和ひとけた」世代という
共通のイメージをうえつけたといってよい。
あそぶことをしらず、公私ともにいつも仕事のことしか頭にない。
時間をおしんで仕事中は仕出し弁当かカップヌードルだし、
あやしいものをみつけると、
そのカップヌードルをほうりだして捜査をはじめる。
世代でいえば、ちょうどわたしの親たちの世代であり、
親戚のおじさんはまさに銭形警部的な滅私奉公の人生を
うたがうことなくあゆんでいた(ようにみえる)。
ルパンのいう「さーすが昭和ひとけた。仕事熱心だこと」は、
そんな世代を代表する銭形警部にこそふさわしいセリフだ。
あまりにもまじめなので、
すべての言動がルパンにはおみとおしだ。
銭形警部くらいその言動を予想しやすいひとはいなかっただろう。
ルパンの軽妙さは、銭形警部がいたからこそよりきわだってみえた。
昭和ひとけたを代表するこうした銭形警部らしさは、
納谷悟朗氏の声なしではかんがえられない。
ルパン三世の人気は、銭形警部だけにおうものではもちろんないが、
銭形警部ぬきではその魅力がずいぶんちがったものになっていただろう。
わたしにとっての『ルパン三世』は、
銭形警部が一生懸命にルパンをおっかけ、
ルパンは余裕しゃくしゃくでにげまわるという、
いつもかわらぬドタバタのストーリーだ。
銭形警部がいてこそのルパンだった、と
納谷悟朗がなくなったいま、はじめて気づいた。
銭形ががんばっておいかけるから、
ルパンは安心してその世界にひたり、
にげまわることができた。
納谷悟朗氏のご冥福をおいのりしたい。
わたしが声優としての納谷氏しかしらなかっただけで
氏は劇団テアトル・エコーに所属されており、
演劇のほうが本職だったのだろう。
とはいえ、わたしにとっての納谷悟朗氏は
どうしても銭形警部の声とかさなってしまう。
映画『カリオストロの城』では、
結婚式の混乱にまぎれて
地下の造幣所までかけおりる。
偶然にニセ札づくりの現場を発見したようによそおって、
「ルパンをおってて
とんでもないものをみつけてしまった。
どーしよー」
というわざとらしいベタな演技がわすれられない。
うまさだけではなく、
たどたどしい棒よみが、この場面ではもっとも効果的だった。
また、銭形警部がわたしたちに「昭和ひとけた」世代という
共通のイメージをうえつけたといってよい。
あそぶことをしらず、公私ともにいつも仕事のことしか頭にない。
時間をおしんで仕事中は仕出し弁当かカップヌードルだし、
あやしいものをみつけると、
そのカップヌードルをほうりだして捜査をはじめる。
世代でいえば、ちょうどわたしの親たちの世代であり、
親戚のおじさんはまさに銭形警部的な滅私奉公の人生を
うたがうことなくあゆんでいた(ようにみえる)。
ルパンのいう「さーすが昭和ひとけた。仕事熱心だこと」は、
そんな世代を代表する銭形警部にこそふさわしいセリフだ。
あまりにもまじめなので、
すべての言動がルパンにはおみとおしだ。
銭形警部くらいその言動を予想しやすいひとはいなかっただろう。
ルパンの軽妙さは、銭形警部がいたからこそよりきわだってみえた。
昭和ひとけたを代表するこうした銭形警部らしさは、
納谷悟朗氏の声なしではかんがえられない。
ルパン三世の人気は、銭形警部だけにおうものではもちろんないが、
銭形警部ぬきではその魅力がずいぶんちがったものになっていただろう。
わたしにとっての『ルパン三世』は、
銭形警部が一生懸命にルパンをおっかけ、
ルパンは余裕しゃくしゃくでにげまわるという、
いつもかわらぬドタバタのストーリーだ。
銭形警部がいてこそのルパンだった、と
納谷悟朗がなくなったいま、はじめて気づいた。
銭形ががんばっておいかけるから、
ルパンは安心してその世界にひたり、
にげまわることができた。
納谷悟朗氏のご冥福をおいのりしたい。