2013年03月11日

「わすれない」約束をまもるいちねんに

「忘れることは罪ではないと思うのです(中略)。
でも、忘れてはいけないことがあります。
『これは忘れてはいけない』と、
じぶんで決めたことは、忘れてはいけないことです」

ほぼ日の「今日のダーリン」
にかいてあったことばだ。
正直にいうと、わたしはこの「忘れてはいけない」と
きめたことをわすれていた。
2年前のきょう、大震災がおこったことはおぼえている。
でも、被害にあったひとたちのことが
あきらかに意識のなかでうすらぎ、他人ごとになっている。
2年前にはあまりにも非現実的な状況に、
息ぐるしいような圧迫感をおぼえた。
わたしたちも、うすくなった空気を
すっているような気がしていたのに。
いろんなひとがいろんなことをいうけれど、
まだ支援が必要なのはまちがいない。

個人としての協力と、職場としての協力の2つを
「わすれないしくみ」として今年からはじめようとおもう。
被災地にある障害関係の事業所への支援がなにかできないか、
いまさらながらだけど行動にうつそう。
「忘れてはいけない」ことをわすれないために、
自分への約束とする。
約束をまもれないような、つまらない人間でないことを
具体的な活動でしめそう。

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2013年03月10日

なんちゃってホットケーキはホットケーキか?

おやつのはなしをしていたら、
きゅうにホットケーキがたべたくなった。
3日まえのはなしだ。
つぎのやすみの日につくろうとおもっていたのを
けさおもいだした。

せっかくのホットケーキなのだから、
ホットケーキミックスなんてつかいたくない。
うちにはちゃんと飯島奈美さんの『LIFE』があり、
そのなかにホットケーキのレシピがのっているのだ。
3枚分の材料として、小麦粉120グラムをきちんとはかる。
「粉ものは、カンに頼ると、ちょっとむずかしいので、
ここであいまいにしないでおきましょう」と
とうぜんな注意がきがのっている。
それでなくても飯島奈美のレシピは
ふつうそうにみえてすごくデリケートだ。

・まずは、じぶんなりの工夫なんかやめて、
 レシピそのままつくってみてください。
・自分と、好きな人につくって、
 いっしょに食べてください。

と糸井重里さんが大切なコツとして
本の「はじめに」にあげている。
『LIFE』にのっているレシピは
ハンバーグやオムライスだったりと、
だれでもつくれる料理ばかりなので、
つい自分流にやってしまいがちだから
わざわざこんなことがかいてあるのだろう。

で、小麦粉はちゃんと120グラムはかった。
つぎはベーキングパウダーを小さじ1だ。
でも、こまったことにはやくもここからつまずく。
あてにしていたベーキングパウダーがなかった。
ドライイーストはあるけど、
さすがにこれではだめだろう。
外はつよい雨と風で、コンビニにいくのはめんどうだ。
そもそもベーキングパウダーって、
コンビニにおいてあるのだろうか。

すこしまよってから、ベーキングパウダーなしでつくることにする。
頭と体がホットケーキをほしがっていて、
きゅうにトーストやご飯とみそ汁への変更では
納得してくれそうにない。

「小麦粉とベーキングパウダーをふるいにかける」
という工程もパスした。
ふるいがないからだ。
でも、そのほかはちゃんとレシピをまもる。
卵をよくかきまぜ、砂糖をくわえてさらにまぜ、
牛乳をくわえてよくまぜ、
とかしたバターをくわえて、さらにまぜる。

フライパンにうすくあぶらをひいて弱火にかける。
フタをして2~3分そのままおくけど、
おなじみのホットケーキらしい表面にはならず、
ゴツゴツとかたそうなやけぐあいだ。
スコーンのような、といえなくもない。
3枚分とレシピにはあったのに、ふくらまないから
すこしおおきまな1枚のホットケーキとなる。
そのうえにはちみつとバターをのせれば
とにかくみかけはホットケーキになるだろう。
はちみつは、かたまったのがすこしのこっていたので、
容器をはさみできってサジでこそぎだす。
できあがりの姿は、
日曜の朝、はちみつとバターをたっぷりのせて
いいにおいをたてながらテーブルにおいてある
手づくりのホットケーキ、
というイメージからずいぶん距離がある。
できあがりの写真をアップする勇気はなかった。

もちろん味にも問題がある。
そもそもホットケーキをたべている気がしない。
ネパールでのトレッキングちゅうに
朝ごはんとしてたべた揚げパンをおもいだした。
おなかにはたまるけど、
ホットケーキをもとめていた
わたしの頭をごまかす実力はない。

たべおわってからかたづけようとすると、
ボールについたタネがすごくあらいにくいことに気づく。
これもベーキングパウダーがないせいだろうか。
あとでクックバッドをみると、
ベーキングパウダーをつかわないホットケーキのつくり方も
ちゃんとのっていた。
いろんなやり方がかんがえられているものだ。

レシピどおりにつくることが
わたしはどうも苦手だ。
というか、材料さえちゃんとそろえられない。
ついこのまえも牛肉なしのビーフシチューという失敗で
こりたはずなのに。
ホットケーキをつくりだすとき、
まだテーブルで朝ごはんをたべていたむすこに
「ホットケーキたべる?」と
たずねなかったことだけが
今回のすくいだった。

posted by カルピス at 09:27 | Comment(0) | TrackBack(0) | 料理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月09日

中国の大気汚染と人間のぼんのうについて

中国の大気汚染が日本にも影響をおよぼすようになった。
まったくこまったことだけど、
中国だけを非難したらいいというと、
どうもそれだけではおさまらない問題のようだ。

宮崎駿さんがいぜん環境問題や、
飢餓・病気・老い・死からのがれたいという
人間のぼんのうについてはなしておられた。
『ナウシカ』が映画になったときだから、
もう25年もまえのはなしだ。

「日本がいまのようになるために、
世界中から資源をかきあつめ、
石油もたくさん輸入し、
日本の国じゅうが公害だらけになった。
中国や韓国など、おおくの国々は
これからおなじ道をたどろうとしており、
どんな結末をむかえるかはだいたい想像できる。
しかし、日本やほかの先進国は
それをやめさせるわけにはいかない」

というような内容だ。
日本にすむ1億人がいまの生活水準にたどりつくために、
地球にどれだけ負担をかけたか。
日本の10倍の人口をもつ中国が、
おなじような発展をのぞめば
どんな結果をまねくかはあきらかだ。
でも、中国のひとだって自動車にのりたいし、
家には冷蔵庫と洗濯機があったほうが便利だし、
先進国みたいに肉を毎日たべたいとおもうだろう。

中国の環境問題は以前から指摘されていたし、
大気汚染もいまにはじまったことではなく、
おおかれすくなかれ、いまのような状況になるのはわかったことだった。
それを承知で世界中の自動車会社が
中国を優良な市場とかんがえ
いけいけドンドンでセールスしてきたのではなかったか。
中国の環境政策を非難すればいいはなしではない。

人口がどんどんふえ、ひとりひとりが
おおくのエネルギーを消費すれば、
地球環境はわるくなるいっぽうだ。
また、飢餓・病気・老い・死からだれもがのがれたい。
その本能を追求すると、あらゆる病気をなおし、
だれもがながいきする社会が到来する。
しかし、それで人間はしあわせになれるだろうか。

「日本で全員が半分だけ貧乏になろうと、もし決められたら、
日本の国土は確実によみがえるでしょう。
それから、七十歳まで生きるのをやめよう。
五十で死のうと決める。
乱暴な言い方をすると、
病気も運命として甘受しようという考え方さえある(中略)
どうして体を健康にしてむりやり八十歳まで
生きなきゃいけないのか、
なぜ人が死ぬのをくいとめなきゃいけないのか、
というところに突き当たってしまうんじゃないか(中略)
ちゃんと自然にサイクルがあるように、
人間も一定の寿命を受け入れよう、
それは、老衰で眠るがごとくに寝るだけじゃなく、
癌やコレラで死んだりするかもしれないけど、
それも自然のサイクルなんだという
考え方を受け入れられるかどうかという問題になると
僕はおもってるんです」

と宮崎さんはある対談ではなしている。
こうしたかんがえ方は、
なかなか共感を得にくいかもしれない。
しかし、宮崎さんのいわれたこのことばは
わたしの人生観におおきな影響をあたえた。
死を宣告されたらジタバタ悪あがきもするだろう。
それでも野生動物のように
自然の一部としての死をうけいれて、
淡々とした最期でありたい。

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2013年03月08日

研修会「障がい児支援における相談支援の役割について」で田畑寿明さんのおはなしをきく

ひさしぶりに研修会に参加する。
タイトルは「障がい児支援における相談支援の役割について」
といかめしいが、内容はとてもたのしいものだった。

わたしがすむまちの相談支援はまだ軌道にのっておらず、
自立支援協議会も機能していない。
そんなうらみつらみをブツブツぐちりたくなったり、
先進地の実践がうらやましくなるだけの会だったら
つまらないな、と警戒していたけど、
予想はよいほうにうらぎられた。
とても興味ぶかいおはなしで、
これからいろんなことができそうな、
まえむきな気もちで会場をあとにする。
からだのなかを、さっといい風がふきぬけたような
すがすがしい気分だ。

講師は宮崎県からこられた
「障害児・者そうだんサポートセンターはまゆう」の田畑寿明さんで、
「つかみ」がとてもうまい。
宮崎県を紹介するときに、
全国高校サッカーで優勝した鵬翔高校をあげ、
「ロングボールをけりあうのではなく、
中盤からしっかりつないだサッカーのほうが
選手たちもおもしろい」という松崎監督のコメントを引用された。
まるでサッカー解説みたいなはなしだけど、
「これこそが相談支援事業所の仕事です」、
と田畑さんは2つをきれいにむすびつけてしまう。

相談支援事業所の仕事は、
まさに各機関をつなぐことにあり、
鵬翔サッカーはぴったりのたとえだった。
優勝校をひきあいにだすだけでなく、
サッカーずきをよろこばしながら、
戦術としての鵬翔の特徴をまとめる。
それが相談支援の仕事とおなじエッセンスだとは
うまくできすぎてるみたいだけど、
田畑さんのおはなしのおおくはそんなかんじだ。
いろいろなジャンルに目くばりがきいていて、
サービス精神にあふれている。

「ビフォー&アフター」
「お宝鑑定団」
「朝の連続テレビ小説」
「バルセロナのサグラダファミリア」
など、相談支援に関係ないようなものまで
みごとに引用される名人芸だ。
きのうは山口県で講演があったそうで、
そのときには山口のご当地有名人の金子みすゞをあげるし、
きょうのように島根こられると、
島根についての基本的な情報を適切につかんで講演にいかされる。
田畑さんのたくみな話術は、参加者から島根県民らしからぬ積極性を生みだし、
演習でのグループ発表では自発的に手があがっていた。

これからやってくる社会をどう予測するかで
相談支援もかわってくる。
田畑さんは進化の歴史をたどりながら
「人類は得意分野を活用して生きてきた」といわれる。
そこからみちびきだされたのが、
苦手なことをやらなくても、
得意なことをいかせる社会になればいい、
というかんがえ方だ。
これはなにも夢物語なのではなく、
50年さきの社会を想像してみるだけで
あきらかです、と田畑さんはいわれる。
50年さきの社会では、
車いすなんて不便なものはなくなっているだろうし、
自動車は人間が運転するものではなく、
セットするだけで自動的に目的地へ
つれていってくれるようになっているだろう、
高度な科学技術が不便さをかるくする社会だ。
50年さきの社会から2013年をおもいだすときに、
「むかしは障がい者っていたねー、となってますよ」、
という想像力いっぱいの田畑さんのはなしを
わくわくしながらきいた。

午後におこなわれたグループ演習では、
じっさいにおこなわれる相談支援のながれを
イメージすることができた。
「サービス等利用計画」をたてるまでにも
こまかな支援のつみかさねが必要で、
わたしがすむ町でもこんな相談支援がおこなわれていたら、と
どうしてもうらやましくなってくる。
全体の方向性をおおくの機関が共有し
それぞれの機関がそれぞれの役割をはたしながら、
子どもたちの成長におうじた支援を提供したい。
ロングボールのけりあいは、わたしの美学にあわないのだ。

すばらしい研修だったのでお礼をいいたくなり、
パソコンやプロジェクターをかたづけておられた
田畑さんのところへむかう。
「ありがとうございました」というと、
「がんばってくださいね」と
念をおされてしまった。
田畑さんはさいごまですぐれた講師だった。

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2013年03月07日

「かてない場所でたたかわない」よわみをつよみにかえるかんがえ方

「シゴタノ!」で大橋悦夫さんが
「戦う場所を間違えると
戦わずして負けることになる」
という文をよせている。

『小さな会社・儲けのルール』という本に、
ある女性が「偏差値40以下の中学生」をターゲットに
家庭教師をはじめた事例が紹介されているそうだ。
ほとんどの学習塾が「できる子」・
「有名な学校をめざす子」ばかりを相手にしているなかで、
「偏差値40以下の中学生」と対象をしぼりこみ
他社との競合をじょうずにさけている。

きょねんうけたwebサイトの研修でも
おなじかんがえ方で戦略をねっていった。
そうしたときに、ただ頭をひねっているだけで
かんたんにいいアイデアがわいてくるわけではない。
大切なこととして大橋さんがあげているのは
「自分のことが分かっている」ことだ。
自分の特徴をよくしり、
「弱みが強みに変わるための条件を見つけ」ることで
自分のつよみをいかせるすきまを
突破口とすることができる。

この女性は短大卒という学歴だったので、
「基礎から親切に教えてくれそう、
苦労しているから弱い人の気持ちが分かる」
というイメージにうったえることで
よわみだった学歴をつよみにかえている。

自分のつよみはなにか、ということは
だれもがあんがい気づきにくいけれど、
よわみはコンプレックスでもあるので
すぐにあげられる。
でも、それをまさかつよみにかえることができるとはおもわなかった。

「努力は大切ですが、『血のにじむような努力までしなくても
結果が出せる場所』を選ばないと、
血みどろになったうえに惨敗する、
という残念な結果になります」

「大した努力をしなくても勝てる場所で、努力をしなさい」

こういうかんがえ方がわたしはだいすきで、
そういわれると、なんだかそこらじゅうに
ビジネスチャンスがころがっているようにおもえてくる。
たとえば島根県は過疎の村・町がおおいという
よわみは財産でもあるわけだし、
あんまり仕事がすきではないというわたしは、
そんな人間にもできる生き方を発信すれば
それもある種の貴重な情報だ。
そういえば、このまえよんだ
『弱くても勝てます』の開成高校野球部は
まさに「よわみをつよみに」というかんがえ方で勝負していた。
「大した努力をしなくても勝てる場所」でわたしも努力したい。

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2013年03月06日

むすこの高校入試に、父親はどうふるまうのか

ゆうべむすこの友だちから電話がかかってきた。
きょうの入試にどうやっていくかの確認だったようだ。
そのあとしばらくしてから配偶者がむすこにたいし、
つよい口調でしかっているのがきこえてきた。
内容がよくわからないのに
へたに介入しないほうがいいだろうと、
そのままほっておく。
推測するに、むすこは友だちといくという案
(または友だちのおうちの方がおくっていってくれるという提案)を了解し、
いっぽう配偶者は配偶者でむすこのことをいろいろ心配するなかで、
けさはできれば入試会場までおくろうと、
彼女なりのこころづもりがあったのではないだろうか。
試験の前日につよくしかるなんて、
むすこの気もちをかんがえると
さけたほうがいいにきまっている。
ただ、配偶者はきっとすごくむすこのことをあんじたうえで
おもわず激怒したのだろう。

こういうとき、妻の不満は
だいたいにおいて夫の無理解にあることがおおい。
父親のくせに、わたしがむすこの入試をぜんぜん心配しないので、
配偶者にしてみると、じぶんひとりが
むすこの身をあんじている心境だったのではないだろうか。
よくできた夫だったら、もうすこしはやい段階で
配偶者へのケアがあったのだろうが、
残念ながら我が家においてはなんのサポートもされなかった。
間がわるいことに、ピピの調子がわるくなったので(いいわけ)
わたしの意識はよけいに
そっちばかりにむかったようにみえたのだろう(事実)。

きょうの試験をむすこはつつがなくおえただろうか。
夕べ地雷をふんだのが影響しなかったらいいけど。
レッズサポーターの杉江さん(「本の雑誌社」)が、
「ほんとうの修羅場はグランドなんかにない、
家庭にあるのだ」
と喝破している。
いい言葉だなー、とはんば他人ごとのように感心する。

家にかえってからむすこに「できた?」ときくと、
「うん、まあ」という。
さらに「かけた?」とたずねると
ほんとに(ある程度は)答案をうめられたみたいだ。
ふつうだったら、かなり自信がなければ
「うん、まあ」とはいわないけれど、
むすこの場合はまじりっけなしの
「うん、まあ」かもしれないので、安心はできない。

配偶者に「試験場までおくったの?」ときくと
「うん」といい、そのあとわたしがなにもいわないと
むこうから「なんで?」ときいてきた。
そのいい方が、「あ、このひとは夫がどうこうはぜんぜん意識にない!」、
ということがわかる「なんで?」だったので、
安心するというか、さみしいというか。

うまく合格していたら、
やきにくをたべにいくぐらいは提案しよう
(ピピの快気いわいもかねて)。

posted by カルピス at 21:10 | Comment(0) | TrackBack(0) | 家族 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月05日

『自転車旅行にでかける本』中高年サイクリストとして再出発

『自転車旅行にでかける本』(一条裕子・アテネ書房)

20年ちかくまえに、一条さんがかいた1冊めの本『自転車キャンピング』にであい、
自転車をつかっての旅行をやってみたくなった。
それまでも世界一周などをしたはなしはよんだことがあったが、
一条さんのものはもっと身の丈サイズだ、
勇気や根性がないわたしにも
自転車旅行をたのしめそうにおもえた。

『自転車キャンピング』は、
一条さんがなんとなく東京から下関までの
自転車旅行にでかけたのをきっかけに自転車にめざめ、
大学を卒業した翌年に、
カナダのバンフからアラスカのアンカレッジまでを
はしったところでおわっている。
今回よんだ『自転車旅行にでかける本』はそのつづきだ。
北米大陸から南にくだるのをライフワークにした一条さんは、
何回かにわけてアメリカからメキシコ、グァテマラへと旅行をつづける。
歴史的な大冒険ではないけれど、
日常生活のすぐさきにあるような旅行が
かえって新鮮でうらやましい。
一条さんのふつうさがわたしをひきつける。
ガケからおちておおけがをしたときもあるし、
つんである荷物ごと自転車をぬすまれたこともある。
さみしくてなきそうになっても、
国境をこえるのがこわくてびびっていても、
それでも一条さんは気もちをたてなおして旅行をつづけている。

わたしは『自転車キャンピング』に影響をうけ、
タイからマレーシアへの旅行にでかけた。
それがとんだへっぴりごしのサイクリストで、
車がおおすぎるタイの交通事情にまいってしまい、
自転車をたたんでふつうの旅行者として移動することがおおかった。
自転車旅行に勇気は必要ないけれど、
根性はあったほうがいいようで、
合計でも10日くらいしか自転車にのらなかったとおもう。
自転車ではしるのに、気もちのいい道路ばかりではないことがわかった。

なぜ自転車旅行をするかについて、
一条さんはこうかいている。

「自転車で旅をしていると、
ときおり急にとても幸せな気分におそわれて、
涙がでそうになる。そのときそこに、自転車という
ちっぽけな乗り物に頼ってやって来たことが、
嬉しくてどうしようもなくなる。
自己陶酔かもしれない。
でもそんな気持ちは、ほかのことでは味わえなかった」

一条さんの本をよむと、へたれのわたしでも、
また外国を自転車ではしりたくなってくる。
根性をつけてから、なんていっていたら、
いつまでたっても実行できないので、
わたしでもはしれる国とコースを厳選し、
中高年サイクリストとして再出発をはたしたい。

posted by カルピス at 22:10 | Comment(0) | TrackBack(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月04日

わたしにとってのカラーボックスと衣装ラックはなんだったのか

ふと自分の部屋をみわたしたとき、
なんて子どもっぽい部屋かとがっかりすることがおおい。
いい年になったおとながつかう部屋として
あまりにもやすっぽくて品がない。
あらためて確認するまでもないことなので、
なるべくかんがえないようにしているものの、
わたしのお金とセンスのなさが露骨にあらわれている。

ホームセンターでかったぺらぺらの本棚と、
高校生がつかうような電気スタンド。
障子はネコたちのツメとぎでひどいありさまだし、
むすこがつかっていたおもちゃがならべられた棚もある。
こんな部屋がゆるされるのは
せいぜい高校生までで、
それ以上の年齢になったら
いかにお金がとぼしくても、
もうすこしみばえをかんがえるべきだろう。
お金の問題ではなく、まともなおとなとしての
最低限のマナーといえるかもしれない。
背のびをしてでも成熟したおとなのふりをするためには、
いつまでも子ども時代をひきずった部屋ではいけないのだ。

以前よんだ遥洋子さんの本に、

「カラーボックスと衣装ラックを部屋からしめだしたら
大人の部屋になった」

みたいなことがかかれていた。
収納に便利なので、つい部屋におきたくなるけど、
この2つがあると、部屋全体がいかにもやすっぽくなってしまう。
いつまでも子どものポジションにあまえているのではなく、
はやいうちにこの2つと決別したほうがいい、
という趣旨だったとおもう。

わたしの部屋にカラーボックスと衣装ラックはないけれど、
全体の安っぽさはかなりの線をいっており、
遥洋子さんのいわんとすることがよくわかる。
お金のあるなしとは関係なく、
まともな大人になりたかったら
安物ばかりにたよっていてはいけないのだ。
そうした美意識や価値観があってこそ
すぐれた仕事やものに対して敬意をはらうことができる。

以前はある年齢になれば、
だれでもおとなになるのだとおもっていた。
おとなになればそれなりの服をきて、
それなりの部屋に身をおくのだ。
そんなふうにジタバタしないでおとなになることが
ちょっとまえ、わたしの親世代までは可能だったとおもう。
まだ価値観に多様性がなく、シンプルな時代だったのだろう。
でもある時期に、わたしはそうした生き方がつまらなくおもえ、
おとなになるのを否定的にかんがえるようになった。
おとなとか、成熟ということが、きっとごっちゃになっていたのだ。

いつまでもジーンズをはいているのは
きっとなにかにあまえているのだ。
ひとづきあいや、冠婚葬祭がにがてだなのも、
ずっとはたすべき責任からにげてきたからだろう。
そうしたツケが中年になったいままわってきて、
いつまでも高校生みたいにしか部屋をつかいこなせない。
その年代にするべきことをしておかないと、
あとになったらどうしようもないことがよくある。
わたしはなにをすてるべきだったのだろう。

posted by カルピス at 23:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月03日

『「弱くても勝てます」開成高校野球部のセオリー』10点とられても15点とる

『「弱くても勝てます」開成高校野球部のセオリー』(高橋秀実・新潮社)

ものすごくよわいチームが、
甲子園にいくためにはどうしたらいいか。
よわいチームでも、彼らなりの野球をすることで、
うまくいくとうちかつことができる。
ただ、それにはかなり特殊な戦術、というか
かんがえ方のもとに練習や試合をする必要があった。
この本は、開成高校野球部が、
彼らのスタイルでかつために、
どんな野球をめざすようになったのかについての
興味ぶかいルポルタージュだ。
よんでいるうちに、はたしてこれは野球についての本なのか、という
根源的な疑問がうかんできて、
最高にたのしい読書となった。

はじめに開成高校について説明しておくと、
毎年200人ちかくが東京大学に合格するという
ものすごい進学校だ。
東京大学に進学することを目的に、
明治4年に創立された学校であり、
いまもその伝統がうけつがれている。
そこから予想されるのは、テストや勉強づけの
ギスギスした学校生活だけど、
学校自体が受験体制を敷いているわけではないそうだ。

「東大に進学した卒業生たちにたずねてみたところ、
彼らもそれほど勉強していた様子でもない」

という。
これぐらいできる生徒があつまる学校だと、
猛勉強したから東大に合格する、というのではなく、
「なんとなく勉強ができて」
という雰囲気が校風となっているようだ。

そんな開成高校に硬式野球部があり、
平成17年の東東京大会でベスト16までかちすすんでいる。
最後にやぶれた国士舘高校が優勝したので、
もうすこしのところで甲子園、
というところまでいったともいえる。

ただ、開成高校の野球は
ふつうわたしたちがイメージする高校野球とは
ずいぶんちがったかんがえ方による「野球」がおこなわれている。
ものすごくヘタだからだ。

「ゴロが来ると、そのまま股の間を抜けていく。
その後ろで球拾いをしている選手の股まで抜けていき、
球は壁でようやく止まる。
フライが上がると選手は球の軌跡をじっと見つめて構え、
球が十分に近づいてから、
驚いたように慌ててジャンプして後逸したりする。
目測を誤っているというより、球を避けているかのよう」

しかし、開成の青木監督にいわせると、
むしろ開成の野球が普通なのだという。
甲子園にでるようなチームが異常すぎるのだ。
彼らはちいさなころから野球ばかりやってきて、
専用のグランドで毎日のように練習している。

「ある意味、異常な世界なんです。
都内の大抵の高校はウチと同じ。
ウチのほうが普通ともいえるんです。
常連校レベルのチーム同士が対戦するのであれば、
『チーム一丸となる』『一生懸命やる』『気合を入れる』
などという精神面での指導も有効かもしれませんが、
これぐらい力の差があると、
精神面などではとてもカバーできません」

「普通の高校が異常な世界で勝つには、
普通のセオリーではダメ」と
青木監督はいう。
ここでいう普通のセオリーとは、
たとえば1番に足のはやい選手、
2番にバントのできる選手、という打順であり、
こうした確実に1点をとりにいくというセオリーを
開成高校はとらない。
なぜなら
「1点取っても、その裏の攻撃で10点とられてしまうから(中略)
ですから『10点取られる』という前提で
一気に15点取る打順を考えなければいけないんです」。

もうひとつ、開成高校は守備を重視していない。
なぜなら

「すごく練習して上手くなっても
エラーすることはあります。
逆に、下手でも地道に処理できることもある。
1試合で各ポジションの選手が処理する打球は大体3〜8個。
そのうち猛烈な守備練習の成果が生かされるような
難しい打球は1つあるかないかです。
我々はそのために少ない練習時間を割くわけにはいかないんです」

「10点取られる」という前提があるので、
多少のエラーでは動揺しないのだそうだ。

この超合理的な判断が開成野球の真髄である。

生徒もまた彼らなりの、ヘタが野球をするのに必要なかんがえ方をおさえている。

「大事なのは、反省しないってことだと思うんです」
藤田くんが真剣な面持ちで言った。
ー反省しない?
「反省してもしなくても、
僕たちは下手だからエラーは出るんです。
反省したりエラーしちゃいけないなんて思うと、
かえってエラーする(中略)」
「勉強と違って、野球の試合は真面目である必要はないと思うんです(中略)
一生懸命やろうとすると、それだけ緊張しちゃうんで、
むしろ不真面目がいいんじゃないでしょうか」

もちろん開成野球にはサインプレーもない。

「『バントしろと指示をしたって、そもそもバントできないですからね。
それに、サインを見るというのは一種の習慣でして、
ウチの選手たちは見る習慣がないから、
出しても見落とすんですよ』とのこと。
指示を出しても意味がないということだが、
いずれにしても大量得点にサインは要らないのである」

打席では小細工しないでつねにフルスイングだ。
ものすごいからぶりをつづけていると、
相手のピッチャーはいったい開成チームが
なにをねらっているのかわからずに、
びびってくるのだという。
開成よりもましとはいえ、相手だってそんなにしっかりした技術をもっているわけではないので、
なにかのひょうしに開成がチャンスをつくると
バタバタっとエラーがつづいたりする。

わたしも島根県予選の2回戦を球場でみたことがある。
ほんのちょっとしたことからガタガタっとくずれるのは、
高校野球によくあることだ。
そうした場面は甲子園でもみかけるけど、
地方大会レベルではそれに輪をかけて
しんじられないようなプレーがみられる。
開成高校がねらっているのはこのくずれであり、
そうしたドサクサにまぎれて15点とれば
かつ可能性がうまれる、というのが開成高校のセオリーである。

わたしはサッカーばかりに関心があり、
プロ野球にしろ高校野球にしろ、
野球というのをかなりみくだしてきた。
精神論がはばをきかせており、
土日や盆・正月まで長時間の練習にとりくむのが
あたりまえの世界なんてとてもなじめない。
でも、開成高校の野球はまるで『がんばれベアーズ』みたいだ。
こんな野球なら、わたしもやってみたいとおもう。
選手としてではなく、監督としてもおもしろそうだ。
10点とらえても15点とればいい野球が、
地区予選ではむしろ一般的というのがすてきだ。

本書は開成野球の紹介からはじまり、
翌年におこなわれた夏の大会予選までという、9章からなっている。
はじめの章は圧倒的におもしろいけれど、
よむほうもなれてくるので、だんだん多少のことではおどろかなくなる。
野球を意識して、むりして9章までひっぱる必要はなかったようにおもう。
結果からいってしまえば、
取材の年も、けっきょく開成高校は甲子園にでられなかった。
でも、いつか、なにかのひょうしに
開成高校が東東京の代表になる可能性も、なくはない。
これはこれで、彼らなりのセオリーにもとづいた
ひとつの立派な野球であることが
ひろくしられる日がくることをねがう。

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2013年03月02日

Jリーグ開幕 なぜか広島を無視する朝日新聞の予想

Jリーグ開幕

今朝の朝日新聞に、「『赤の時代」到達の予感』として、
きょう開幕するJリーグの優勝あらそいについてふれている。
「赤」というのは浦和・鹿島・名古屋であり、
きょねん優勝した広島については、
まったく無視された紙面となっている。

「サッカー担当記者18人による優勝予想」では
浦和が最多の9票をあつめ、次が鹿島の3票、
以下、柏が2票で、仙台・横浜・名古屋・東京が
1票ずつでつづく。
浦和がたかく評価されているのは、
ペトロビッチ体制の2年目で、
戦術がチームに浸透するであろう点と、
興梠・関口・森脇の新加入という、補強に成功したからだ。
18票のうち9票をあつめたのだから、
ダントツの優勝候補といえる。
マイナス材料としてはACLに参加するため
きびしい日程でたたかわなければならないことで、
その点では鹿島と名古屋の日程のほうが有利にはたらく。

それにしても、18人の記者のだれひとり、
広島の優勝を予想していないのはどうしたわけだろう。
広島に失礼な紙面になるとわかっていながら、
それでもあえて広島を完全にはずしたのは、
ほんとうにだれも優勝するとおもっていないのだ。
J1のチーム力が均衡しており、
どこが優勝してもおかしくはないけど、
さくねんの王者が候補にもあがらないのは
広島にとっておもしろくない予想だろう。

「ダークホース」も予想されている。
磐田・大阪・新潟が3票ずつ、
その他に9チームが1票ずつあつめた。
広島はもちろん「ダークホース」という存在ではないので、
ここでも名前はあがっていない。

きょうの開幕戦は、
その広島と浦和という、2年つづけておなじカードがくまれた。
きょねんはペトロビッチ監督が就任して間がなかったこともあり、
おなじタイプのサッカーをするもの同士の試合として
やりなれている広島がかっている。
ただ、シーズン後半におこなわれたおなじカードでは、
浦和がリベンジをはたした。
ことしもまたこの2チームはおたがいがつよく意識しあっており、
兄弟対決としてたのしみなカードになりそうだ。

きょうの試合では、浦和の攻撃がスムーズにすすみ、
1-2で広島がやぶれた。
2年目のペトロビッチ体制がどう花ひらくのか、
浦和もたのしみだけど、
さくねん優勝しながらことしはまったく評価されていない
広島を応援したくなった。

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2013年03月01日

『ブラッカムの爆撃機』対ドイツ戦でイギリス空軍がやったこと

『ブラッカムの爆撃機』(ロバート=ウェストール・岩波書店)

『バンド・オブ・ブラザース』をみていると、
イギリスの爆撃機についてかかれた
『ブラッカムの爆撃機』をおもいだした。
この本のはじめとおわりに、
宮崎駿さんがマンガをかいていて、
そのなかで宮崎さんと作者のウェストールさんが
対戦中の爆撃についてはなしている(架空の対談)。

『バンド・オブ・ブラザース』は
アメリカの空挺師団についての作品であり、
この『ブラッカムの爆撃機』は
イギリスがドイツにおこなった爆撃についてかかれたものだ。
爆撃機ウェリントンはアルミ管の骨ぐみに布をはってつくられており、
当然ながら敵の戦闘機や対空砲火にはめっぽうよわい。
イギリスは、このウェリントンやランカスターなどの爆撃機を主力に、
一晩に1000機という、ものすごい数を、
6年間くる日もくる日もおくりだしつづけた。

マンガのなかでウェストールさんが宮崎さんにたずねる。

「あなた達のKAMIKAZEで若者達は
何人死んだのでしょうか?」

宮崎さんが
「4000千人ときいています」

とこたえると、
ウェストールさんは

「4000・・・
・・・いや・・・
充分すぎるが・・・
私達の爆撃機のクルーの死者は
公式でも5万5千名です。
心的障害、負傷、病気、
様々な後遺症・・・
ドイツへの爆撃でこの国は
合計10万の若者を失ったともいわれています」

「・・・・
私達の国には
そんなに飛行機がなかっただけですよ」

宮崎さんは正確をきすべく
自分の発言をおぎなっているが、
イギリスがはらった犠牲のおおきさをしり
おどろいている。

旅客機にのって離着陸するだけでもおそろしいのに、
空には敵の戦闘機が、
地上からはもうれつな弾幕をはる対空砲火が
自分たちののった飛行機をおそってくる。
しかも、その飛行機が布でできているなんて、
かんがえただけでもおそろしい。
脆弱な飛行機を設計し製造した責任者をのろいながら
イギリスのわかものは空にちったのだろうか。
一晩に1000機を6年つづけるなんて、
ひとの命をぜんぜん大切にかんがえてないからできることだ。
7人のりのランカスターがおちれば
それだけで7人が死ぬ。

『バンド・オブ・ブラザース』のなかで
「ちきしょー、ドイツ野郎め、
おれの人生をだいなしにしやがって」
とウェブスターがさけぶシーンがある。
ハーバード大学の学生であるウェブスターは
戦争なんかなければ、というおもいがなおさらつよいのだろう。
ウェブスターだけでなく、おおくのわかものが
戦争によって人生をめちゃくちゃにされた。
勇気とか国への忠誠とかでおだてられ、
布でできた爆撃機にのせられたわかものたちの無念。

「少年達の勇気は、
本来悲劇的なのです。
しかし、この世界の重要な一部です」

とわかれぎわにウェストールさんがかたり、
宮崎さんは、

「ぼくの勇気はいつだって出口がなかっただけだ。
ゲアリーのように反吐まみれになっていたか・・・
ブラッカムのクルーになって
下品でイヤな奴になってたか・・・」

とひとりごちる。

『ブラッカムの爆撃機』のものがたりはわすれてしまったけど、
ウェストールさんと宮崎さんの対談がいつまでも頭にのこる。

posted by カルピス at 22:55 | Comment(0) | TrackBack(0) | 宮ア駿 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする