ふと自分の部屋をみわたしたとき、
なんて子どもっぽい部屋かとがっかりすることがおおい。
いい年になったおとながつかう部屋として
あまりにもやすっぽくて品がない。
あらためて確認するまでもないことなので、
なるべくかんがえないようにしているものの、
わたしのお金とセンスのなさが露骨にあらわれている。
ホームセンターでかったぺらぺらの本棚と、
高校生がつかうような電気スタンド。
障子はネコたちのツメとぎでひどいありさまだし、
むすこがつかっていたおもちゃがならべられた棚もある。
こんな部屋がゆるされるのは
せいぜい高校生までで、
それ以上の年齢になったら
いかにお金がとぼしくても、
もうすこしみばえをかんがえるべきだろう。
お金の問題ではなく、まともなおとなとしての
最低限のマナーといえるかもしれない。
背のびをしてでも成熟したおとなのふりをするためには、
いつまでも子ども時代をひきずった部屋ではいけないのだ。
以前よんだ遥洋子さんの本に、
「カラーボックスと衣装ラックを部屋からしめだしたら
大人の部屋になった」
みたいなことがかかれていた。
収納に便利なので、つい部屋におきたくなるけど、
この2つがあると、部屋全体がいかにもやすっぽくなってしまう。
いつまでも子どものポジションにあまえているのではなく、
はやいうちにこの2つと決別したほうがいい、
という趣旨だったとおもう。
わたしの部屋にカラーボックスと衣装ラックはないけれど、
全体の安っぽさはかなりの線をいっており、
遥洋子さんのいわんとすることがよくわかる。
お金のあるなしとは関係なく、
まともな大人になりたかったら
安物ばかりにたよっていてはいけないのだ。
そうした美意識や価値観があってこそ
すぐれた仕事やものに対して敬意をはらうことができる。
以前はある年齢になれば、
だれでもおとなになるのだとおもっていた。
おとなになればそれなりの服をきて、
それなりの部屋に身をおくのだ。
そんなふうにジタバタしないでおとなになることが
ちょっとまえ、わたしの親世代までは可能だったとおもう。
まだ価値観に多様性がなく、シンプルな時代だったのだろう。
でもある時期に、わたしはそうした生き方がつまらなくおもえ、
おとなになるのを否定的にかんがえるようになった。
おとなとか、成熟ということが、きっとごっちゃになっていたのだ。
いつまでもジーンズをはいているのは
きっとなにかにあまえているのだ。
ひとづきあいや、冠婚葬祭がにがてだなのも、
ずっとはたすべき責任からにげてきたからだろう。
そうしたツケが中年になったいままわってきて、
いつまでも高校生みたいにしか部屋をつかいこなせない。
その年代にするべきことをしておかないと、
あとになったらどうしようもないことがよくある。
わたしはなにをすてるべきだったのだろう。