『東京原発』(2004年・山川元監督)
『東京原発』をみる。
ぜんぜんおもしろくない。
役者はそろっているのだから、
わるいのは脚本と監督だろうか。
燃料テロや利権問題など、
料理のしかたではおもしろくなりそうなのに、
無残に材料がいかされずにみごとにすべっている。
わらいをとりたい場面でも、
会話が不自然でぜんぜんおかしくない。
題名から、東京に原発をつくるはなしなのがわかっており、
その部分におどろきはない。
あとは、どうやってその奇抜なアイデアにリアリティをもたせるかだ。
東京都知事の天馬氏が、
東京に原発をつくれば
いろいろなことがうまくいくと、
局長たちをあつめた緊急会議で提案する。
税金がはいるし、原発からでる熱で
冷暖房にお金がかからなくなる。
もともと、東京でつかう電力を、
とおくはなれた場所にある原発から
もってくることがおかしいのだ。
ものものしいコンクリートのたてものが、
地方の景観をだいなしにするし、
大都市への送電線をはりめぐらすことで、
むだなコストがおおい。
安全面についていえば、
地方につくることをゆるしているくせに、
東京に原発をもってくるのには反対するというのでは、
倫理的にも破綻している。
原発が問題だらけの発電法であることもあきらかだ。
原料のウランや、発電によってうまれるプラトニウムは
環境や人体を広範囲に汚染する。
しかし、日本の政策ではエネルギー研究の9割が
原発につかわれており、
ほかのエネルギーを開発する予算が確保されない。
そういった非常識が、しかし現実にはまかりとおっており、
その矛盾を作品は視聴者に指摘しているかたちだ。
招集した会議のなかで、知事が
原発のメリットと危険性が説明する
(というかたちで、視聴者に説明する)。
会議で議論されているデーターは、おそらくただしいのだろう。
しかし、それを会議で説明する場面がながすぎてたいくつしてしまう。
フランスからおくられてきた再処理ずみのプラトニウムが
「たまたま」お台場につき、それをつんだ燃料トラックが
爆弾マニアの少年に「たまたま」トラックジャックされる。
トラックの運転手のあつかいもおそまつだった。
道にまよった運転手が高速道路をおり、
それに少年が「たまたま」のりこむ。
助手席に銃をもった少年をのせたまま、
その運転手がよいつぶれるまでコップ酒をあおる。
ありえない。
荷物をとめるロープがしっかりかかってないことを
なんどもアップでうつし、
今後の展開で重大な意味をもつであろうことを
親切に観客にしめす。
大昔の作品でもあるまいに、ずいぶん観客をばかにした演出だ。
なぜこんなにずっこけてしまったのだろう。
映画でうったえたかったことはよくわかる。
しかし、反原発のプレゼンテーション的な性格がつよくですぎており、
映画としてなりたっていない。
東日本大震災がおきたあとでこの作品をみると、
地震についてのよさわなど、
会議で議論されていたことがそのまま現実となっており、
そうした意味では反原発についてのすぐれた啓発となっている。
しかし、大震災がおき、原発の不安定さと放射能のおそろしさを
日本中のひとがおもいしったはずなのに、
原発でうるおう勢力は、
2年もたたないうちから再稼働を平気でいいはじめる。
そして、それを支持するたくさんのひとたち。
2004年に『東京原発』がこころみた
原発政策への注意喚起は失敗だった。
それは作品の内容とは関係がなく、
たとえどんなにすぐれた作品であったとしても、
安全にたいする日本人の意識はかえられないのだろう。
『東京原発』は、映画として失敗し、
目的としていた反原発の啓発でも失敗した残念な作品だ。