2013年04月30日

『25時』24時間をすごしたあとに、どんな1時間がまっているか

『25時』(デイヴィッド=ベニオフ・新潮文庫)

よんでいて、なかなかはなしにひきこまれない。
でも、あの『卵をめぐる祖父の戦争』をかいた
ベニオフのデビュー作だ。
そのうちドッカーンとはまるだろうと、我慢してよみつづける。

何人かの主要な人物が、章をおってすこしずつ登場してくる。
いったいなにがおきたのか、これからなにがおこるのか、
よくつかめないままはなしがすすんでいく。

ようやくこの本は、主人公であるモンティが、
つぎの日から刑務所に7年間はいるという、
その前の晩のできごとをえがいているのがわかる。
刑務所といっても、日本の刑務所とちがい(くわしくはしらないけど)、
リンチとレイプが公然とおこなわれるような、まったくべつの世界だ。
ぶじに7年をおえられない場所であることを
だれもが理解している。
「7年」という限定された期間とはいえ、
刑務所をでたからといって、
もとの状態にもどることはぜったいにない。
7年間は、そのまま人生の「おわり」を意味する。

そんな世界であすから7年をすごす男を
どうなぐさめればいいのかだれにもわからない。
ましてや、モンティは麻薬の売人であり、
だれかにはめられて罪をかぶったとはいえ、
自業自得であることもまちがいない。
モンティはなんどもなんども、くりかえし
25時間目をかんがえる。
どうすればこんな目にあわずにすんだのか。
いまからでも、なんとか刑務所ゆきのバスにのらないですむ
いい方法はないのか。
しかし、モンティはながく裏の世界で生きてきた人間だ。
いまさら仕事仲間やボスをうらぎることはできない。
どうにもならない状況にいらだちながら、
だれもが25時間目をまつしかない。

さいごの朝、家をでるときに
モンティは恋人のナテュレルとしずかにわかれる。

「彼は彼女に自分をつかんでほしいと思う。
ふたりが隠れられる、誰にも見つからない場所を知っていると
囁いてほしいと思う。
彼のあとを追い、オーディスヴィル(刑務所のある町)で仕事を見つけ、
毎週面会に来ると約束してほしいと思う。
七年など一夜の悪夢みたいなもので、
ふたりの新たな人生はすぐそこまで来ており、
気がついたときはわたしの腕に抱かれている、
と言ってほしいと思う。
しかし、ナチュレルは何も言わない。
モンティも何もいわない。
最後に彼はうなずき、彼女に背を向けると、
うしろ手にそっとドアを閉める」

さみしすぎるわかれだ。

冒頭からいっきに読者をひきつけた
『卵をめぐる祖父の戦争』とちがい、
この作品はじわじわとはなしをすすめ、
おわりごろになってようやく主要な人物の
ひととなりがつかめてくる。
デビュー作でながら、新人作家がよくここまで全体をみとおした構成を
かきおおせたものだ。
本のまんなかあたりからストーリーにひきこまれ、
なんとかうまくいってほしいとねがいながらラストをむかえた。

この作品は、スパイク=リー監督のもとで
映画にもなっている。 
ラストシーンが映画ではどうあつかわれたかを
しりたくなった。

posted by カルピス at 23:10 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月29日

日本にも、もっと橋を

ゴールデンウィークの前半ということで
ゆっくり家ですごします。

これまでの連休は、
連休ちゅうでも仕事があったり、
無職状態だから連休のありがたさが
実感できなかったりと、
世間はなにをうかれているのか、みたいな
第3者感覚でせっしていました。
今年のように、仕事をもち、
そのなかでやすめるありがたさは、
ひさしぶりにかんじる「ゴールデン」な期間です。

きのうはかかりつけの病院へ、
チャコの予防注射にいきました。
いいお天気の連休ちゅうということで、
お客がだれもおらず、すぐにみてもらうことができました。
きょういった本屋さんも、
いつもの休日よりひとがすくなく
ゆっくり棚をみてまわれます。
村上春樹の新作が、いろんなところにつみあげてありました。
ようやく供給がまにあうようになったみたいです。
連休ちゅうによむのもいいか、とおもったけど、
なんとなくきょうは別の本だけかいました。

何日かまえにラジオできいた
『小さな恋のうた』が気になっていました。
ユーチューブでうたい手を確認してから
CDレンタルでさがします。
もともとは「MONGOL800」の曲なのだそうで、
それをいろんなひとがカバーしています。
どのひともそれぞれ印象にのこるうたい方だけど、
はじめてきいたのが新垣結衣だったので、
彼女のアルバムにしました。
わたしのジョギングをたすけてくれるでしょうか。

連休ちゅうはどこへいっても
ひとがいっぱいかとおもっていたのに、
場所(店)によっては
かえってすごしやすいことをしりました。
ちいさな子どものいる家庭でなければ
どこへいっても渋滞にまきこまれ・・・
という連休ではないようです。

以前すこしのあいだすごしたフランスでは、
「faire le pont(橋をかける)」といって、
休日にはさまれた平日は
オセロみたいに休日にかわりました。
やすみの日は、あたりまえながらやすみのお店がおおく、
旅行者としてはあまりありがたくない連休です。
これがときどきではなく、
やたらに「橋をかける」ものですから、
おもわぬところでやすむことを大切にする
フランスの価値観をしることになりました。
夏に4〜5週間のバカンスをとるというのも、
彼らにしたら当然の感覚なのでしょう。
労働者として連休のありがたさにひたった今年は、
日本も「振替休日」なんて中途半端なものではなく
ぜひ何本も「橋をかけ」てほしいとおもいました。

posted by カルピス at 18:10 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月28日

『常識を疑うことから始めよう』「思い込み」をほどいてくれる24の名言

『常識を疑うことから始めよう』
(ひすいこたろう×石井しおり・サンクチュアリ出版)

「『常識を疑うのは、もっと自由に人生を創造するためです』」

「常識は『思い込み』にすぎない」

この本は、「思い込み」をほどいてくれる
24の名言とエピソードからなっている。
それぞれの名言に線をひきまくってよんだので、
どこが重要なのかわからないという
嘉門達夫の「小市民」状態の読書となった。
わたしがブログで本を紹介すると、
自分の感想よりも引用だらけという
かっこわるいものがおおい。
今回もまた、というか、ひらきなおって、当然というか、
引用ばかりになってしまった。

「稼ぎたければ、働くな」として、
常識はずれな会社として有名な、未来工業の創業者、
山田昭男さんが紹介されている。

未来工業の社内ルールがすごい。

「報告、連絡、相談禁止。
残業禁止。
ネクタイ禁止。
上司は部下に命令禁止。
ノルマ禁止。
携帯電話禁止。
年間休日140日(正月休みは20日間など、休日数日本一)。
育児休暇3年」

日本の会社で経常利益が4000万円以上ある会社は、
わずか3%しかないのだそうだ。
山田さんは、常識どおりにやったら
もうかる会社はたった3%というなら
「ならば、常識の逆を行こうじゃないか」
ときめたという。

「他の会社は当たり前のように残業をするらしい。
ならば、未来工業は残業禁止」

「未来工業は、現在、営業所が28ありますが、そのうちの25ヶ所は、
山田さんが知らない間に営業所ができたといいます。
なぜなら、ホウ・レン・ソウ禁止だからです」

「未来工業の本質はどこにあるのか?
常識の逆を行くことが本質じゃないんです。
未来工業では、社員がやりたいと思ったことは、
すぐにやることができます。
相談、報告禁止だからです。
やってみてダメならやめればいい。
それは逆に言うと、
自分でちゃんとひとつひとつ考え抜けということです」

未来工業のライバル企業はパナソニックで、
「そんな強敵としのぎをけずりながら、
未来工業は休日数日本一のうえ、残業も禁じられている。
こんな不自由な環境(笑)のなかで、
勤務時間内にどうすれば能率をあげらえるのか、
社員一人ひとりが考えぬくわけです」

「失敗がこわくて
無難な選択をしてしまうあなたへ」という章では

「何百万枚も売れるロックなんて、
あんましロックじゃない。」

という、清志郎のことばが紹介されている。

「おもしろい居酒屋があるんですけど
行きませんか?」と

ひすいさんがつれていかれた居酒屋は、
「お客さんに見つからないように
全力でがんばっている」店だった。

「その店は・・・。
なんと、入り口がなかった!
入り口がないんだから、入りようがありません。
そこには壁しかない。店なのかすらわかりません。
ただし、横に細い通路があるんです。
でも、普通、建物の通路に勝手に踏み入れるなんてできません。
まさか、ここ?
そこでした。
その通路を15メートルほど歩いて右折すると、家の表札があります。
『岡村昇』
どう考えても、ここは、岡村昇さんの家です。
でも、勇気をもって扉をあけると、重っ!」
扉が妙に重いのです。
なかなか開けられないように
わざと鉄の重い扉なのです(笑)
なんとか、扉をあけると、
100人くらい入れる居酒屋が超満員で、
僕らは入るまでに15分ちかく待ちました。
この居酒屋、『岡村昇』という名前の店だったんです。
メニューには、こう書かれていました。
『ビルとビルの狭い路地
そして重い鉄の扉を勇気を出してあけてくれて
どーもありがとう
元気しか取柄の無い僕たちなのですが
今日も一笑懸命顔晴(がんば)ります』
これで僕の心は、ノックアウトです。(中略)
岡村さんはこういいました。
『どうやったらたくさんのお客さんに
来てもらうかは考えていない。
それより、来てくれた方に、いかに喜んでもらうか、
そこばっかり考えている』
何百万人の心をうつことを目的にしなくていいんです。
たったひとり、あなたの友達のハートを真に打ち抜くことができたら、
あなたの人生は、ロックンロールになる」

「環境が良くないから
100%の力を発揮できないと思っているあなたへ」では、

「なにかのせいにしている限り、あなたは自ら、
自分の可能性をとざしています。
環境が現実ではない。起きた出来事が現実ではない。
そのどこを見るか、どう受け止めたかが、
あなたの現実をつくっています」

「損になることはやりたくないあなたへ」では、

「自分を良くしたかったら、
自分を良くすることを目指すのではなく、
他人を良くしろ、というのです。
行き詰まっている人は、
自分のことしか考えられなくなっています」(中略)
日本資本主義の父といわれた渋沢栄一が気づいたのも、
まさにそこです。(中略)
お金に困っている人たちに共通する特徴は・・・
『常に自分の都合だけを考えている』
普通、自分だけよければいいと思っていたら、
自分のことくらいは真っ先に良くなりそうです。
しかし、それが逆だったのです。
自分だけよければいいと思っていると、
自分すらよくならない。
自分ひとりすら養っていけなくなってしまうのです。(中略)
自分を思いやり、相手を思いやる。
これはふたつでひとつ、セットです」

「味方は多ければ多いほどいいと思いこんでいるあなたへ」では

「何かを成し遂げたいとき、
みんなを味方につけなければいけないと考えるのが常識です。
でも、そうではない。大切なのは、
たったひとりを味方にすることです。
そのたったひとりとは、自分です。(中略)
自分を味方につけると、
『努力』の世界から、
『趣味』の世界へ移行できます。
趣味は好きでやっているので、
やるなと言われても、やっちゃいます。
もう、そこで十分だといわれてもやっちゃいます。
だって趣味だから。
自分のハートに火をつけるためには、
まず自分を感動させることです」

「コネや人脈がなければ
何もできないと思いこんでいるあなたへ」では

「まず、そうすると決める。(中略)
『今日は何があっても楽しむって決めよう。
決めたらそうなります!』(中略)
どうしたいのか、まず決めよう。
意識で決めると、現実が動き始めます」

「自分の性格だけは一生変えられないと
思っているあなたへ」では

「性格とは、他人との関係性で生まれるものです。
あなたの本質ではなく、あなたが着ている服のようなもの。
だから、服はイチイチ捨てなくていい。
その都度その都度、そのときの気分に応じた服に着替えるだけ」

「ものごとを真剣に対処しなければいけないと
思っているあなたへ」では

「規則6を思い出せ」という。
規則6がなにかというと、

『あまりくそまじめになるな』

「くそまじめにやるからといって、
いい結果がでるとは限りません。
むしろ、その逆のことが多い」

「夢や希望のない人生はつまらないと
思っているあなたへ」では
心理学博士の小林正観さんのことばが紹介されている。

「夢や希望を持つということは、
もっと欲しいものがあるということ。
もっと欲しいということは、
今は不足だということになります。
その不足の心を抱いているうちは、
どんなにたくさんのものを手に入れても、
本質的には幸せや豊かさはやってきません。
幸せや豊かさは、今すでに満たされていることに気づき、
感謝できる心があってはじめて、
感じることができるものだからです」

「夢や希望が悪いってわけじゃないんです。
恵まれていることに、気づいたうえで、夢がなるなら、
大いにそこに向かえばいい。
不足から出発するか、感謝から出発するか、
これでたどり着く先が大きく違います」

これに関連することばとして
みさきよしのさんの

『いま、ここで心が満足していれば、
どこへも行く必要はない。
で、そういう人が行きたい場所に行けるんです』

「生き方を変えるのは大変だと
思いこんでいるあなたへ」では

「これまで様々な常識を疑ってきましたが、
気づいたのではないでしょうか。
いま、いるところに可能性があったことに。
いま、持っているものに可能性があったことに。
あとは、ただ『できることをするんだ』
とはいえ、『人生を変えるのは大変だ』という
思い込みもまだあることでしょう。
その思い込みも外しちゃいましょう。(中略)
大リーガーのイチロー選手が言ったとおり、
『小さいことを重ねることが、
とんでもないところへ行くただひとつの道』なのです」

「ホスピタリティが定評のリッツカールトンの
元日本支社長の高野登さんは、
今日着た背広を、1日の最後に『今日もご苦労様』と
声をかけて洋服ダンスにかけることを続けていくだけでも、
全く違う存在になるとおっしゃっています。(中略)
そんな小さな行動パターンでいいので、
自分の習慣にできると、
今度は、まわりにも気が配れるようになるといいます。
そういう些細なことを意識しているホテルマンが20人いるのと、
していない人が20人では、
ホテル全体の雰囲気が全く違ったものになるのだとか」

「明日から生きる自信を持てないあなたへ」では

「『事実』が人生を決めるんじゃない。
あなたがどう思っているのかが、
あなたの現実をつくります。
そして、どう思うのか、どう受けとめるのかは、
あなたが自由に選び取ることができるのです。
常識があなたじゃないから。(中略)
これまでのことをいうならば、
あなたが選びとってきた『常識』が、
いまのあなたの『現実』を生み出しています。

すべてはこころのもちかたでどうにでもなる、
みたいなかんがえ方はだいきらいだけど、
この本にかかれている「常識を疑うこと」は
わたしのからだにすんなりしみこんだ。
自分がいかに常識的すぎ、つまらない面ばかりみている人間
ということがよくわかった。

今回の引用があまりにもおおいのは常識的ではないけど、
すくなくともこの本についてだけはゆるされるだろう。
いいときにいい本にであえたことを感謝する。

posted by カルピス at 20:19 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月27日

Jリーグ第8節。なかなか波にのれないフロンターレ

Jリーグ第8節、FC東京対川崎フロンターレ

前節でフロンターレはやっと初勝利をあげ、
このままいきおいにのれるかと、
たのしみにしていた試合。
FC東京も前節で連敗をとめており、
こちらもどうしてもかちたい試合だ。
フロンターレは中村憲剛がケガのためベンチいりしていない。

どちらのチームもパスをつないで攻撃をくみたてていくスタイルで、
おたがいに相手を自由にさせないよう、
攻守のきりかえがはやい。
攻撃だけでなく、まもりの意識もたかかった。
なかでもFC東京の米本のうごきがさえる。
相手にしつこくくっついてボールをうばうし、
パスもカットし、フロンターレの攻撃を、
だいじなところでぜんぶつみとってしまう。

FC東京が前半22分、後半も20分と、
いい時間に得点をあげる。
フロンターレの攻撃が機能したのは前半だけで、
後半にはいるとFC東京に一方的にボールをまわされる。
ルーカスがいいところでボールをうけるし、
渡邉千真・東・長谷川・高橋と、
FC東京には役者がそろっているかんじだ。
そのうえに守備では米本がきいているので、
フロンターレはなかなかボールをつなげない。
終了間際になると、FC東京は李忠成と石川をいれてくる。
ケガによる欠場がおおいフロンターレにくらべ、
FC東京は選手層もあつく、交代にだれをだしても納得できる。
結局2−0のまま、あぶなげなくFC東京が試合をおわらせる。
フロンターレは、前節の勝利をいきおいにのせるだけの選手層がなく、
いいところなくやぶれてしまった。

その他の試合では、
ジュビロ磐田が湘南を相手に4−0と、
やっと初勝利をあげている。
ジュビロの攻撃が爆発した試合で、
90分をとおしてぶあついせめをつづけていた。
フロンターレとはちがい、
ジュビロはこのままいきおいにのれそうな気がする。

それにしても去年のガンバといい
ことしのジュビロやフロンターレといい、
実力のあるチームでも勝利からとおざかると
どんどん負のスパイラルにおちいるのが
リーグ戦のこわいところだ。
なにかが決定的にわるいわけではないのに、
かてないと自信をうしなって
おもいきったプレーができなくなる。
そんなときにかぎって運もまたわるいほうにはたらき、
調子のいいチームとあたったりする。

今シーズンは、湘南・磐田・大分・鳥栖がスタートにつまずいた。
はじまったばかりのようにおもっていたのに、きょうでもう8節だ。
負のスパイラルからはやくぬけださないと、
これからは降格あらそいのプレッシャーが
どんどんきびしくなってくる。
きょうの試合をみていると、フロンターレの不調が心配だ。

posted by カルピス at 23:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月26日

目の検査で総合病院へ

左目がみえにくくなったので、総合病院の眼科へ。
本をよむのが趣味、というより生活そのものであり、
活字をおわない人生などありえないわたしとしては、
目の健康はとても大切だ。

病院で検査ということから、
わたしなりにかんがえて荷物を準備した。
文庫本と単行本を各1冊、キンドルペーパーホワイト、
MacBook Air11インチ。
iPodもカバンにはいっているけど、
名前をよばれたときにわからないとこまるから、
今回は出番がないだろう。

受付をすませると、すぐ検査がはじまる。
視力からはじまり、ゆがんでみえるかどうか、とか
目に風をあてたり、眼圧をしらべたり、
白い点がみえたらブザーをおしてください、
なんていうのもあった。
まぶしいひかりをあてて写真をとられたり、
造影剤をいれて写真をとったり。
目の検査だけにこんなにたくさんの種類があるのかと
おどろいてしまう。
検査をする側のひとは、ほんとうに
この複雑な装置を理解してあやつっているのだろうかと
うたがいたくなるぐらい、
検査ごとにたくさんの機械がつかわれている。

目の複雑なつくりをしればしるほど、
神の存在をしんじたくなる、と
なにかでよんだことがある。
進化の過程でだんだんととのってきたと理解するには
目はあまりにも完璧で複雑な構造なのだそうだ。
そのややこしい部分が医学の進歩によって
どれだけ神のかわりをはたすようになっているのだろう。

検査のために目薬をいれられると、
やがてキンドルの文字がみえにくくなってきた。
とおくのものはよくみえるのに、
手元の文字はぼんやりして、とても読書にならない。
こんなときこそキンドルの文字サイズ調整機能だ。
活字をおおきくして、ぼやけた文字に対応する。
検査にそなえて周到な準備をしてきたかいがあった。
けっきょくこの検査のあいだに
よみかけていたキンドルの本をよみおえ、
べつの単行本を半分くらいまでよめた。
まち時間を覚悟して病院へいったので、
予定していたとおりに読書がはかどった。

検査はいつまでもおわらない。9時すぎにいったのに、
12時をすぐてもまだいくつものこっているみたいだ。
あまり仕事に熱心とはいえないわたしでも、
午後からの送迎にまにあわないのではないかと心配になってきた。
受付にいって、検査のみとおしをおしえてほしいこと、
1時半には病院をでたいので、
まだ時間がかかるようならべつの日に
つづきをやりたいことをはなす。
そのはなしをだしたとたん、検査がうごきだした。
あと3時間くらいかかりそう、とおもっていたのに、
バタバタッといくつかの項目をかけあしでとおりぬける。

病院は、ひとをまたせることにためらいがない。
病院の「ちょっとまっててくださね」くらい
あてにならない「ちょっと」はないのではないか。
きょうもいったいどれだけ「ちょっと」をきいたことか。
また、患者が全体のみとおしをもてるようにという工夫がかけている。
「これだけの検査をするので、最低◯時間かかります」と
なんではじめにおしえてくれないのだろう。

診察の結果は眼底出血だった。
糖尿病や高血圧でなくても、
またさほど高齢でないひとでも
出血をおこすことがあるのだそうだ。
眼底出血には2つのタイプがあり、と
説明されたけど、むつかしい病名なのでおぼえきれない。
あまりいいみとおしのはなしではなかった。
いまのうちはそう視力がおちてないけど、
これからどうすすむのかわからないので、
注意してみまもる必要がある、ともいわれる。
目は2つあるので、そのうちの1つくらい、
とはとてもおもえない。
命にかかわることもないだろうけど、
だからといってかるくうけとめる気にはなれない。
よくみえるうちにやりたいことを全部すませておこう、と
とっさにおもった。

posted by カルピス at 21:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | 健康 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月25日

『僕らの時代のライフデザイン』人生を、どう自分らしくデザインするか

『僕らの時代のライフデザイン』(米田智彦・ダイヤモンド社)

いろんなひとの例を紹介しながら
人生をどう自分らしくデザインするかについてかかれている。
自由な発想と行動力があれば、
人生はどうにでもうごかしていける。
よんでいるうちにだんだん気がらくになってきて、
自分もはやいうちにつぎのうごきをはじめたくなる。
大切なのは

「たった一回の自分の『ライフ』を、
いかに自分らしく『デザイン』するか」

クラウドやカフェをどうつかうかといった
ハウツウではなく、
なぜ「ライフデザイン」を必要とするのかについての
基本的なかんがえ方をしることができる。

米田さんは「ノマド・トーキョー」という実験を
1年間おこなっている。
「家もオフィスも持たず、トランク一つで東京を遊動し、
都市の機能をシェアしながら『旅するように暮らす』を目的とした
生活実験型プロジェクト」だ。
米田さんは「ノマド」を

「カフェワークをするといったスタイルではなく、(中略)
なるべくコストをかけずに、小さなスケールであっても、
自分で稼げる仕事を一つ一つつみあげていく。
そして、チャンスや依頼があればどこへでも行く」

ととらえている。
そうした生活をするうちに、
米田さんは、自分とおなじようなこころみをしている
おおくの仲間とであう。

「彼らは決して特殊な才能の持ち主でも、
飛び抜けた出目を持っているわけでも、
社会的な成功者でもありあません。(中略)
彼らは、僕から見ると、困難な状況にあっても、
飄々としてしなやかに生きる
”ライフデザイナー”とも呼ぶべき人たちです」

引用ばかりでもうしわけないけど、
ライフデザインに必要な精神がよくわかる箇所なので
かきうつしておく。

「スタインベックの言葉に
『天才とは山の頂上まで蝶を追う少年である』
というものがあります。
夢を持ちなさい、夢を見ることを忘れないように、
と大人はつい子どもに言ってしまいます。(中略)
けれど、スタインベックが語った『少年』は、
努力して山を登ったのではなく、
目の前の蝶に『夢中』になっていたのです。
遠くにある夢に憧れていたのではなく、
『夢の名に入って』いた」(中略)

努力は時に残酷に人を裏切ることがありますが、
夢中は決して人を裏切らない。
まだ見ぬ未来というのは、
誰にとっても不安に感じられるでしょう。
けれど、フロー状態における根拠のない自信こそ
最大の武器です。
それは未来におびえて備えることより、
今に夢中になることで生まれます。(中略)
根拠のない自信とクランボルツの言う
『好奇心』『持続性』『柔軟性』『楽観性』『冒険心』
で突き進んでいきながら、
少しずつ可能性を現実にしていくこと。
それこそ人生をデザインすることだと思います。
これまで紹介したライフデザイナーたちは、
突出した才能やスキル、お金ではなく、
『選択』と『意志』があれば
自分だけの人生をつくれることを
証明しています」

たのしくて、げんきのでる本だ。

posted by カルピス at 23:47 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月24日

『仕事をするのにオフィスはいらない』はじめてKindleで本をよむ

はじめてキンドルをつかった読書として
『仕事をするのにオフィスはいらない』(佐々木俊尚・光文社新書)をよむ。
本の内容ではなく、キンドルをつかった感想をかいてみる。

『仕事をするのにオフィスはいらない』をさがしに
本屋さんにいくけど、棚にみあたらない。
おいてある検索用のパソコンでしらべても
検索条件にひっかからなかった
(だいたいにおいて、この検索機はあまりあてにならない)。
家にかえってアマゾンでしらべると、
紙の本で798円、Kindle版では600円だ。
200円ちがえば、わざわざ紙の本を注文するより
キンドルでよもうという気になる。

ダウンロードはとてもかんたんだ。
いつものアマゾンでのかいものとおなじアカウントで
しはらいをすませるとすぐに配信される。
あんまりはやすぎて、「かった」という気がしないほどだ。
配信された本はネット上の「My Kindle」で管理されるので、
もっているどの末端でもひらくことができる。
パソコンはもちろん、iPadもキンドルのアプリをいれたら
すぐにみられるようになる。iPodもおなじ。
ただ、いろんな末端でひらけることが
そんなにありがたい機能というわけでもない。
よむのは電子書籍をよむのは基本的にキンドルとなり、
あとは紙の本を何冊か同時期によむというのが
わたしのいまのスタイルで、
パソコンやiPadでよむ必要性をかんじたことはない。

これまでは、本をよみながら
気にいった箇所に線をひいていた。
キンドルではそれが「ハイライト」とよばれる作業で、
線をひきたい頭の文字をながおしすると反転するので、
それをそのままおしまいの文字までひっぱっていく。
ただ、ハイライトできる量は本によって制限があるそうで、
いくらでも線をひくというわけにはいかない。

ページをめくるタップは、動作そのものは簡単でも、
すすみすぎたり、もどりすぎたときに、
自分がよんでいた箇所がすぐわからなくなってしまう。
ちがう箇所をタップしたり、
なれないうちはへんなボタンをおして、
ぜんぜんちがう章へとんだりと、けっこうイライラさせられた。
このへんは紙の一覧性にはかなわないところで、
何百ページの本をペラペラっとめくって
全体を把握するというわけにはいかない。

キンドルはかるいので、ねるときにもうえをむいて
よみつづけることができる。
電気スタンドのひかりのむきを調整しなくても、
キンドル自体があかるいので目がつかれない。

バッテリーは、いちにち30分の読書をするとして
2ヶ月もつ、と公表されているけど、
じっさいにはそれほどながくはなかった。
まあ、毎日充電するほどではないのだから、
じゅうぶんに実用となるレベルとはいえる。
また、パソコンにつなげばかんたんに充電できるので、
わざわざ充電器をかう必要はない。

けっきょくあつかいにくさのおおくは不なれからくるもので、
つかううちにだんだんとなじんでいきそうな予感がある。
はじめてのキンドルでの読書に
『仕事をするのにオフィスはいらない』をえらんだのは、
小説よりもこういうジャンルの本が
キンドルむきのような気がしたからだ。
それもおそらくわたしの偏見で、
なれていくうちになんでもキンドルでよめるようになるだろう。
キンドルでの読書は、おもっていたよりも特別なものではなかった。
実用となるレベルまで、じゅうぶん成熟しているというのがわたしの感想だ。

posted by カルピス at 22:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月23日

副業ではなく複業

先日ピピのスタッフであつまり
春やすみのうちあげと歓迎をかねて
夕食会をひらいた。
3人ではじめたピピも、
いまはほかにも5人の方にはたらいてもらっている。
かぞえてみると、8名のうちわたしと
もうひとりをのぞく6名が
複数の仕事についていることに気づいた。

先日よんだ『ぼくらの時代のライフデザイン』
(米田智彦・ダイヤモンド社)にも
「副業ではなく複業」ということがかかれている。
ひとつの職場にだけちからをそそぐのではなく、
いくつかの仕事をかけもちするほうが
たのしそうだし、かっこいい。
ピピは6人のフリーランスと契約をむすんでいる、
とかくとスカしてるみたいだけど、ほんとうのことなのだ。

じつはわたしも「野宿野郎」に「社員のようなもの」として
席をおかせてもらっている(はず)。
半年ほどまえに「野宿野郎」の「名刺のようなもの」に応募したので、
「社員のようなもの」といえなくはない、とおもっている。

「野宿野郎」のサイトに、最近の活動として、
大阪へ野宿遠征にでかけたときの報告がのっている。
場所と時間をネットでしめし、参加者を募集する。
野宿をしてみたいというひとがあつまって、
なんとなくおしゃべりしたりお酒をのんだり、そして野宿をする。
「野宿野郎」の、野宿へのおさそいはいつもこんなやり方だ。
朝になれば、ちらかった身のまわりをかたづけて、
それで解散となる。
もしかしたら、これは究極の社会参加型複職ではないかとおもった。
あらゆるとりきめがなく、ただあつまって野宿し、
朝にはそれぞれがまたちらばっていく。
こんなことをしていて、なにになるんだ、と
かとうさんはおもわない(はず)。
野宿がすきだから彼女はこうしたあつまりを企画しているのであり、
それによって社会をかえようとか、
お金をもうけようとかは全然かんがえていない。
それでもつづけているうちに
きっとなにかおもしろいうごきにつながっていくのだ。

わたしはまだ会社の面接(野宿)に参加したことがなく、
あんがい会社から「社員のようなもの」として
みとめられていないかもしれない。
わざわざ東京へ面接にでかけるのはめんどうなので、
それじゃあわたしのすむ町に支社をつくって、なんていうのは
きっと社長はよろこばないだろう。
それはそれで、そっちで自由にやってね、といわれそうだ。

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2013年04月22日

『蝶々の纏足・風葬の教室』『ぼくは勉強ができない』

山田詠美さんの『蝶々の纏足・風葬の教室』『ぼくは勉強ができない』を、
ほとんどつづけてよむ。

『風葬の教室』は『学問』から
のんびりしたおとぎばなしの部分をとったような作品だ。
いかにもその年代(中学生や高校生)の子がかきそうな
まだるっこしい文章がすごくうまい。
子どもの感想文をよんでるような気分でいると、
だんだんと表現のするどさとおもしろさに気づいてくる。

「もしも、驚くような事件が教室で起こった場合、
その事件と同じ分量だけ驚くのでした」

「もしも、彼女たちが年齢を取った時、
これらの言葉を覚えているでしょうか。
いいえ、そんなことはないと思います。
覚えていたら、恥ずかしさに生きてはいけないでしょう。
もしも、恥を知った大人に成長出来ればの話ですが」

「私は、リボンのことを思うと泣けてきてしまいます。
ああ、人生って疲れます」

子どもがかいたようによませながら、自由自在に
小学生や中学生になったりする、山田詠美ならではのうまさをたのしむ。

『ぼくは勉強ができない』は、まるで村上龍の『69』を
1991年というあまり政治性をかんじない時代にもってきた作品だ。
高校3年のとき、時田秀美くんはクラスの自己紹介で

「最初に言っとくけど、
ぼくは勉強が出来ない」

と挨拶をする。
勉強ができなくても、そのことをなんともおもっていない。
いってることはあんがい子どもっぽいのに、
年うえの桃子さんという女性とつきあってるし、
いっしょにくらすお母さんとおじいさんは
恋愛こそすべてという、あまり「ふつう」ではない家族だ。
妻夫木聡がえんじるには、『69』の矢崎くんよりも
時田秀美くん役のほうがはまっている。
矢崎くんは女の子にもてることばっかりかんがえていたけど、
秀美くんはもうじゅうぶんいろいろ体験してしまってるので、
そのぶんのびのびとそだったかんじだ。
よんでいるとつい妻夫木くんの顔があたまにうかんできた。

「おじいちゃん、うちって貧乏だね」
「ふん、貧乏ごっこをしているだけだ」
「それを一生続けるのを貧乏って言うんだぜ」

『69』にはまともな先生がでてこなかったけど、
『ぼくは勉強ができない』には桜井先生という、
あまり先生らしくない「いい奴」がでてくる。
先生なのに、秀美くんをラーメンにさそって
なんとなくおしゃべりをしたり、
高校生の秀美くんといっしょに
桃子さんがはたらく店へお酒をのみにいったりする。

「おまえ、そりゃちょって極端な発想じゃないか?」
ラーメンを啜りながら桜井先生が言った。
「そうですか。でも、先生だって女の子にもてるでしょ」
「そうでもないぞ。先生はセックスがあまり強くないからな」
「強いって長時間できるってことですか?」
「うん、まあ、そうだな」
「でも、うちの母の言うことには、
時間が長いか短いかってのは、
あまり関係なんですって」
「いいお母さんだな。彼女美人だし」

どうかんがえても、先生と生徒の会話ではない。

お母さんはいつも恋愛をしていて、
服や靴にお金をかけるから秀美くんの家はたいていお金がない。
でも秀美くんをほったらかしにしているのではなく、
そうした自分の生き方をみせながら
いい男にそだてようとしている。

「世の中、そんなに、おもしろい教師が
溢れてる訳はないじゃないか。
どちらかと言うと、つまらない教師の方が多いぞ」
とおじいさんが秀美くんにいいきかせようとすると、
「でも、前の学校には、結構いたよ」
「そうよ。清水先生なんか、素敵だったわ」
「母さん、あの先生とできてたでしょ」
「できてたなんて言葉を使わないでよ、いやあね、秀美ったら。
そういう時は、おつき合いしてたって言うのよ。
うちで、品のない言葉を使うの許しませんよ」

つまりは、そいういうお母さんだ。

秀美くんが小学生のときの担任は、
頭がかたくて「あなたのような考えの母親を持つと、
子供は、ぐれますよ」
なんて本気でいうようなひとだった。
秀美くんのお母さんにしたらあまりにも価値観がちがい
ぜんぜんはなしにならないのに、
たまたま本屋さんでその先生をみかけたら、
お酒をのみにさそい、だんだんと先生のよさをひきだしたりする。
このひとはだめ、ときめつけるのではなく、
どんなひとでもうけいれてはなしができるすてきな女性だ。
秀美くんはお母さんのねがいどおりに
いい男にそだちつつある。
勉強はできないけれど。

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2013年04月21日

『ソーシャル・ウェブ入門』ソーシャル・ウェブの理解はこの本から

本棚にあった『ソーシャル・ウェブ入門』
(滑川海彦・技術評論社)をなんとなく手にとる。
まだグーグルという企業の実態が
そんなにはしられていなかった時代に、
ソーシャル・ウェブやブログの本質について
正確に紹介してくれた本だ。
ひさしぶりに本書をめくってみると、
6年まえにこれだけソーシャル・ウェブというあたらしい現象を
わかりやすく説明してくれていたことにおどろかされる。
インターネットが一般的になっていたとはいえ、
そこでなにかあたらしいうごきがおきつつあることを、
この本、そして梅田望夫さんの
『ウェブ進化論』がおしえてくれなければ
わたしにはぜんぜん理解できなかったろう。
そうはいっても出版されたのが2007年と6年まえなので、
さすがに賞味期限がつきかけている。
これにつづく滑川さんの本がよみたくなった。

2007年というと、SNS(ソーシャルネットワークサービス)としては
MySpaceが紹介されており、その他のSNSとして
やっとフェイスブックの名前がでてくる。
ツイッターについての記述はなく、
スマホもまだ一般的でなかった。
ドッグ・イヤーというだけあって、
6年前はひとむかしだけど、
その6年前に本書が存在をおしえてくれたあたらしいうごきが、
いまではIT技術の本流となっている。

『ソーシャル・ウェブ入門』をしったのは、
ほぼ日で糸井重里さんがおしえてくれたからだ。
ほぼ日の座談会で、糸井さんと著者の滑川さん、
そして日経ビジネスオンラインの山中さんが
「ソーシャル・ウェブ」についてはなしている。

糸井 「2.0」まわりの話には、
    これでだれが得するのか、という部分が
    どうしても見えちゃうんですけど、
    この『ソーシャル・ウェブ入門』には、
    妙に、それが「ない」。

    タイトルに「入門」とありますが、
    「入門して、遊ぼう!」としか
    読めないんですよね(笑)。

山中  こうすると儲かるぞ、
    なんて書いてないわけですね。
滑川  やっぱり
    「道具としてのおもしろさ」っていうのが、
    いちばん根っこのところにあります。

梅田さんの本でロングテール理論をしると、
ネット販売ではしっぽにあたる商品もこれからはうれていくんだ、
とわたしが興奮していたときに、
滑川さんは

「これからの時代は『2.0』で、ロングテールで、
より民主的な経済構造が‥‥なんて
うたわれていますけれども、本当はぜんぜんちがう。
ますます「集中寡占」が進んでいくんですよ。

とグーグルとアマゾンがネットをしきっていく世界を
予想されていた。
そうしたときに、糸井さんは「オンライン化できないおもしろさ」
について関心をしめし、
「ふだんの暮らしの『具体性』のなかに、可能性がある」
といっている。
ソーシャルウェブというあたらしいうごきをおもしろがりながらも、
それで社会がかわるとはぜんぜんおもっていない。

『ウェブ進化論』のサブタイトルにある
「本当の大変化はこれから始まる」は
じつはまだはじまってないのかもしれない。

posted by カルピス at 18:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月20日

レジではるテープはいったいなんの意味があるのだ

鷹の爪の吉田くんがポスターでよびかけているように、
スーパーではレジ袋をつかわないかいものがひろまっている。
レジにならぶと「袋はおもちですか?」ときかれ、
もってなければ有料になるけどかまわないか、または、
そのままでいいかを(袋なしでもいいかを)確認される。

レジ袋にたよらないかいものは、
もちろんエコロジー運動のためであり、
袋にお金がかかるとすれば、無駄づかいがへるという
意識改革を期待してのことだろう。
スーパーとしては袋代がうくことにもなり、いいことづくめだ。
でも、お店が本気でエコロジー運動をするつもりというよりも、
エコ運動への形式的な参加であり、
実質的な無駄づかい防止ではないような気がする。

たとえば、肉や魚のトレイには、うすい袋をかならずいれるし、
蚊とり線香みたいににおいがつよいものはわかるとしても、
ライターひとつかってもこの袋にいれられる。
もうひとつ、わたしはレジではられる
あかいテープがだいきらいなのに、
2.3点の商品をかおうとレジにならぶと、
お店のひとはかならずこのテープをはろうとする。
あのテープはいったいなんのつもりなのだろう。
商品にテープがはってあるとうつくしくないし、
あとではがそうとすると意外に手間がかかる。
テープをふせごうと、はられるまえに
商品をカバンにいれようと競争するのは、
お金を用意するのがかなりいそがしい。

商品を1つもってレジにならぶと、
カバンにいれるから袋はいらないといっても、
「このままでいいですか?」とかいって
あかいテープをはろうとする。

「なんでカバンにいれるのにテープをはるのですか?」
「たとえば商品を10個かったときに、
あなたは全部にテープをはりますか?」

とたずねたこともある。
はっきりとこたえてはくれなかった。
レジにたつひとにとってみると、
マニュアルどおりにやってるだけなのに、
へんな客がうるさいことをいう、というかんじみたいだ。

あかいテープをはることにより、
ちゃんとお金がしはらわれていることをしめしているのだろう。
でも、もしうたがうひとがいたとしても、
そんなことはレシートをみせればわかることで、
こまめにテープをはる意味はまったくない。

さすがに本屋さんで本にテープをはろうとするひとはあまりいない
(いちどはられそうになったことがある)。
袋にいれる必要はないとレジでいえば、
本にレシートをはさんで
「店をでるまではレシートをはさんだままでおねがいします」といわれる。
本とスーパーでかう商品とのちがいはなんだろうか。
テープだって資源なわけで、不必要なことに
テープをはって浪費するなんて全然エコではない。
はじめからはならければなにも問題ないのだ。

ホームセンターは、スーパーよりももっとてごわい。
ホームセンターではレジ袋がいまも無料でつかわれており、
なにもいわなければお店の袋にかった商品をいれられる。
ゴミをふやさないためにも
「このままでいいです」というと、
店員さんは「ありがとうございます」といいつつ
かならずあかいテープをはろうとする。
「テープはきらいだからはらないでください」というと、
袋にいれない商品はテープをはることになっている、
というふうなことをいわれる。
スーパーよりも、もっとうるさいマニュアルがあるのだろう。
「お金をはらっていないひとをチェックしたければ、
レシートを確認すればいい」と説明すると、
納得してというよりも、
うるさい客にはさかわらないほうがいい、みたいな顔で
テープをあきらめるレジのひとがほとんどだ。

客がカバンをもってきているのに、
反射的にテープをはろうとする対応とは、いったいなんなのだ。
店員さんにいちいち指摘するのにこのごろはつかれてきて、
「テープをはらないで」とたたかう気力がなくなってきた。
吉田くんのポスターがもう一歩ふみこんで、
「テープもはりません」と
あのおこった顔でいってくれないだろうか。

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2013年04月19日

ピピの「今年度事業計画」のようなもの

2年目のピピは、今年度を
自分たちの方向性をある程度かためる年としたい。
「これがピピの支援です」といえるものをつみあげ、
外部にもアピールしていく。

開設準備のときから、発達障害の子どもたちが
安心して利用できるように、
という気もちで準備してきた。
しかし、じっさいにサービスを提供しはじめると、
理論のあまさと経験の不足から
自立課題でとりくむべき内容や、
スケジュールをどれだけ重視するかなど、
わたしたちには判断がつきかねることがつぎつぎとでてきた。
いちにちいちにちをなんとかのりきるうちに、
だいぶ板についてきたとはいえ、
10人の子どもたちがすいすいうごくほどには
おさえらていない。
この1年間で、ピピのスタイルの大枠をかため、
スタッフ全員がおなじ方向をむいて
サービスを提供できるようになりたい。

ただ、日本のサッカーが日本らしさを確立するまでに
おおくの時間が必要だったように(いまだに進行形だ)、
ピピらしさを身につけるのは、
そんなにかんたんではないだろう。
子どもたちの多様性をうけとめ、
ピピがめざすスタイルとすりあわせていきながら、
だんだんとつくりあげていくことになる。
型がさきにあるというかたいものではなく、
子どもたちの「いまの姿」をうけとめる柔軟が必要だ。

ピピの基本方針はかわらない。
・たのしい放課後をすごしてもらう
・おもちゃで発達を支援する
の2点だ。
なんといっても、学校がおわったあとにきてくれるのだから、
放課後ならではのわくわくする開放感をたのしんでほしい。
おもちゃを有効につかった支援も、
ピピという事業所の特色としてはずしたくない。

支援についても
これまでやってきた構造化と個別化をつづけていく。
スタッフの力量をたかめるために、
障害特性とおもちゃについて所内での研修を定期的にもうける。

安定した経営のためには、
いちにちの利用者が、平均で9名以上を確保したい。
ピピのよさをわかったうえで利用してほしいので、
ただ定員わくをうめるのではなく、
ピピを必要としている子どもたちに
サービスをとどけたいとおもう。
そのうえで、管理者をのぞいても
5人以上のスタッフが対応できるような職員体制をとる。

できるだけ具体的な数字をもりこみ、2年目として
たしかな実力をつけたピピとなる一年としたい。

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2013年04月18日

『眼・術・戦』遠藤保仁選手はどんなふうにサッカーをみているか(下)

『眼・術・戦 ヤット流ゲームメイクの極意』
(遠藤保仁✕西部謙司・株式会社カンゼン)

W杯南アフリカ大会をめぐるはなしもおもしろかった。
大会直前となって調子をおとした日本代表は、
ほかの国とはべつのプレッシャーがかかっていた。

「選手たちが恐れを感じたのは、
日本サッカーの未来に対してだ。
負ければ日本のサッカー人気が低迷し、
ダメになってしまうのではないかという恐怖である」

と西部さんは分析している。
そして、大会の直前にそれまでのポゼッションのサッカーから、
守備的なスタイルへときりかえて、
ギリギリのところで結果をのこすことができた。

しかし、遠藤選手はたとえ3敗してもいいから
「普通に戦いたいんですよ」とはなしている。

「スタイルを変えてまで勝ちたいかといえば。
僕は、貫いてボロ負けしたほうがいいと思っている
ほうなんですよ」(遠藤)

2008年のクラブW杯で、
遠藤選手のいたガンバ大阪は、
マンチェスター=ユナイテッドと準決勝でたたかい、
3−5という「うちあい」を経験している。
ガンバ大阪のサッカーをしんじて
そのスタイルをつらぬいたからこそ、
「あの」マンUから3点がとれた。

「せっかくW杯に行っても、
毎回守備的にやっていたら上にはいけないとおもうんですよ。
そもそも、W杯で戦い方をガラリと変えてしまうのでは、
それまで何のためにやってきたのかと」(遠藤)

わたしもまったくこの意見に賛成で、
それだけに南アフリカ大会は
複雑なおもいで日本の「勝利」と「グループリーグ突破」を
みていたものだ。

では、どうしたら日本のサッカーとよべるスタイルが根づくのか。
西部さんはネルシーニョ監督へのインタビューを引用している。

「相手がアジアでもヨーロッパでも、
日本は自分たちの基準を変えるべきではない。
良い成長をするには大事な要素です。
日本人は大きな目標を持つべき時期に来ています」

日本はまだサッカーの歴史があさく、
南アフリカ大会で、スタイルをかえた代表チームを
肯定するひとがおおかった。
まだ日本のスタイルとよべるものがないからこそ、
内容よりも結果に満足したのだろう。
もしブラジルがおなじことをやったら、
国じゅうのサッカーファンからめちゃくちゃたたかれるはずだ。

ポゼッションサッカーが日本のスタイルだ、とするなら、
アジア予選だろうが、本大会だろうが、
基準をかえずにプレーする時期にきているという
ネルシーニョ監督の指摘は、
遠藤選手の気もちともかさなっている。

2012年の秋におこなわれたヨーロッパ遠征で、
日本はフランスに1−0、ブラジルに0−4という結果をのこしている。
ブラジル戦では、ボコボコにされながらも、
自分たちのサッカーがつうじる手ごたえをえた選手がおおい。
いまの日本は、ブラジルが相手だからといって、
ひいてまもろうとかんがえる代表チームではなくなっている。
わたしがすきなのも、そんなサッカーだ。
W杯ブラジル大会での日本代表が、これからあゆむべき
日本サッカーの基準をしめしてくれることを期待している。

posted by カルピス at 09:14 | Comment(0) | TrackBack(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月17日

『眼・術・戦』遠藤保仁選手はどんなふうにサッカーをみているか(上)

『眼・術・戦 ヤット流ゲームメイクの極意』
(遠藤保仁✕西部謙司・株式会社カンゼン)

西部さんは、遠藤選手の特殊な「眼」に目をつけた。
遠藤選手は、ピッチにたちながら、
まるで記者席から俯瞰しているように
ゲーム全体をみわたしている。
もちろんどの選手も目にするものから
情報をあつめているわけだけど、
遠藤選手の場合はその量と質が
ほかの選手と比較にならないほどぬきんでている。
中学生のころからそうやって眼をつかってきたので、
いつのまにか意識しないでもいろんなものをみて
情報をあつめるようになっていたのだそうだ。
なんとなくみえている、というのではなく

「より、明確に、その意味がわかるように見る。
見えた風景を切り取るように、
写真に撮るように、
見るというより、見抜く」

というレベルで、なんだか修行により特殊な能力を身につけた
忍者のはなしをきいているみたいだ。

「特殊な眼を持っている遠藤保仁にとって、
サッカーはどういうふうに見えているのだろう」

という視点から、本書はヤット流のサッカーを分析し、
なぜ遠藤選手のプレーはほかの選手とちがうのかをあきらかにした。
理づめの部分もあるが、感性の領域のはなしもおおく、
いっけんとらえどころがない遠藤選手のはなしを
わかりやすい形で読者に提供している。
遠藤選手のサッカー観がどうやしなわれたか、
W杯南アフリカ大会の直前に守備的なスタイルにきりかえたことを
どうとらえているか、
遠藤選手が監督をしたら、どんなサッカーをめざすのか、など
遠藤選手の魅力を西部さんがじょうずにひきだした本となっている。

西部さんは、遠藤選手の発想を

「ちょっと手がつけられない感じがするぐらい強気」

と表現している。
たとえば、遠藤選手はボールをとられるとおもってプレーしていない。
一方は「とられたらあぶない」といい、
遠藤選手は「とられないでしょ」なのだから、議論がかみあうわけがない。

「意図はわかった。アイデアは素晴らしい。
だが、多くの監督はこれを認めないとおもう。
実際、ガンバ大阪では当時の西野朗監督から
注意されていたという。
『注意されましたね。まあ、無視してやってましたけど(笑)』」

数的優位についても遠藤選手は認識がちがう。

「一般的に守備は数的優位が前提で、
逆にいえば攻撃は数的不利な状況からどうやって
チャンスを作るかが課題である。
一方、遠藤が数的優位を力説するのは攻撃面で、
守備は『同数でいい』なのだ。

「その結果、もしフリーでいる相手にパスをつながれても、
『だされたら、相手をほめます』
いかにリスクを冒さないかではなく、
いかにリスクを冒すか。
どうも、そういうことらしい」

posted by カルピス at 20:13 | Comment(0) | TrackBack(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月16日

高校生のむすこにどんなお弁当をつくってほしいか

配偶者の勤務が早番のため、
今朝はわたしがむすこのお弁当をつくることになる。

高校生になったむすこは、
毎朝お弁当をもって家をでるようになった。
今朝は配偶者が早番のためお弁当を用意せず、
コンビニでかうようむすこにはなしていたらしい。
早番のたびにコンビニにいくのは
まちがっているとわたしはおもうので、
今朝はわたしがお弁当をつくると配偶者につたえる。

といっても、お弁当用におかずをつくるのはたいへんなので、
夕ごはんののこりをむすこが自分でつめればいい、
という程度のお弁当づくりだ。
塩サバくらいはやこう。タマゴやきがほしければ
自分でつくってね、とむすこにいう。

やったことがないというのはたいしたもので、
むすこのお弁当づくりは、
わたしのイメージとまったくちがったものだった。

まず、ご飯をお弁当箱にいれてさましたほうがいいよ、とおしえると、
ご飯とおかずの場所をわけるシキリをつかわずに
グジャグジャっとご飯をよそっている。
量もすごくすくない。

おかずは、あたたかいものと、
つめたいものをくっつけない、
とおしえ、塩サバはご飯の側におく。
あとはおかずをいれるスペースに
自分のすきなものをならべなさい、というと、
煮豆と、シリシリをパラパラっといれていた。
ほかにもおかずがあるのに、そのふたつでいいという。
全体にスカスカで、見ばえのしないトホホなお弁当だ。
おいしそうにもりつけよう、とか
すきなおかずをいれて、
おひるがまちどおしいお弁当にしようとかの工夫がない。
いくら自分がたべるお弁当だからといって
かなりなげやりな態度だ。
お弁当づくりをいやがってこんな内容にするのではなく、
ほんとうにこれでいいらいし。

高校生ならコンビニ弁当がよかったかもしれないのに、
なぜむすこはわたしが用意するといったときに同意したのか。
そんなグシャグシャ弁当ではひとといっしょにたべるときに
いやじゃないのか。
友だちとではなく、ひとりでたべるからどうでもいいのだろうか。

親がつくってくれるのを当然だとおもわないほうがいいし、
たとえできているおかずをいれるだけでも
やらないよりはずっといい。
うまくいけば、配偶者が早番のときは
むすこが自分でお弁当を用意するようになれば、とおもっていた。
塩シャケと卵やきがつくれるだけでも
のちのちそのスキルをありがたくおもうだろう。
とにかく「つくった」という体験をもつことが大切なのだ。

でも、今朝のむすこのお弁当づくりをみていたら、
わたしがおもっていたながれとぜんぜんちがっていた。
いつものお弁当をおもいだして、
お弁当らしくもりつけることが
なぜできないのかすごく不思議だ。
体験不足からくる未熟さなのか、
食にたいする要求のひくさなのか。
ほんとうにあんなお弁当でよかったのかどうか、
きょうのお弁当をたべた感想をたしかめたい。

posted by カルピス at 10:30 | Comment(0) | TrackBack(0) | 家族 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月15日

Jリーグ第6節セレッソ対アルディージャ。3得点がいずれもスーパーゴール

Jリーグ第6節、セレッソ大阪対大宮アルディージャ。

ここまで3勝1敗1分のセレッソと、
3勝2分のアルディージャ。
好調のチームどおしの、みていておもしろい試合だった。

開始直後にアルディージャの金澤が
ハーフラインをちょっとこえたところからの
超ロングシュートをはなつ。
キーパーがのばした手の、ほんのちょっとうえをボールがとおりすぎる。
このシュートをふくめ、
得点にからむ3本のシュートはいずれもスーパーゴールだった。

大宮はそのあとずっとせめつづけるけど得点にむすびつけられない。
ゴール前でのアイデアにとぼしく、
精度のないクロスを相手キーパーへのパスのように
やみくもにあげるだけで、
ぶあついせめのわりに迫力がない。
そのせめをしのいでいるうちに、
前半終了間際に柿谷が同点ゴールをきめる。
サイドからのロングバスをまえをむいたままトラップし、
スピードをおとさないではしりこむ。
キーパーの逆をつくうつくしいシュート。
センスのかたまりみたいな選手だ。

後半19分に、アルディージャの高橋が
イエローカード、その直後に審判への抗議で
2枚目のカードで退場となる。
ながれは完全にセレッソとなり、
波状攻撃をしかけるものの、
セレッソのほうも単調なせめで
ほうりこまれるクロスにうけての選手が反応しない。

後半39分にズラタンの、これもまたスーパーなかちこしゴールがうまれる。
右足でボールをうかせて茂庭のディフェンスをはずし、
そのままダイレクトに左足でのシュートをゴール左すみにつきさした。
ズラタンはロビン=ウィリアムズにそっくりのこまったような笑顔をみせる。
ズラタンのプレーをみていると、
ガープががんばってはしりつづけているようでへんな気がしてくる。

放送の解説は早野宏史さんで、
ダジャレをききのがさないよう集中してみる。
早野さんのダジャレのほとんどは
名前にからんだもので、
アルディージャの攻撃にからめて
きょうもダジャレがとびだした。

早野「ボールがまわるようになってきましたねー」
アナウンサー「まわってますねー」
早野「シンプリシオが、シンプルにしよ、
といったのかもしれませんね」
アナウンサー「でましたねー」

きょうのアナウンサーは早野宏史のダジャレをスルーせず、
ちゃんと反応していた。
1回の放送で、ダジャレはひとつと早野さんはきめているようで、
というか、ひとついえば気がすむのか
それからは解説に専念される。
いちどはいわなければならないという、病気みたいなものなので、
はやい時間帯でダジャレを披露してもらうほうが
みているほうも安心して試合に集中できる。

この試合にかったことで、アルディージャは
17試合連続で無敗という、
鹿島のもつJリーグ記録にならんだ。
降格候補の常連として有名なチームが、
6節の段階で3位という立派な成績をのこしている。
まけない自信というのはすごいちからをチームにあたえるようだ。
上位チームが好調をたもついっぽうで、
まだ1勝もあげていないチームが4つもあり、
上下の差がいっそうひらいてきた。
試合の内容がよくても結果がともなわなければ
どんなチームでもつらいところだろう。
今シーズンでは川崎フロンターレとジュビロ磐田が
予想外の苦戦をしいられている。
90分をたたかったすえに試合にかつことが、
いかにたいへんなのかが
きょうの試合をみているとわかる。
かちたいのは自分たちだけではなく、
相手もまた必死なので、
歯車がくるってくると、わるいほうへわるいほうへと
チームがむかっていく。
次節こそ、下位のチームは調子をとりもどす
きっかけになることをねがっている。

posted by カルピス at 22:45 | Comment(0) | TrackBack(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月14日

ハルキ台風が本屋さんを直撃

よくいく本屋さんへ。
村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』
が発売されたばかりだ。
うり場には「うりきれのおことわり」がはってあり、
ハルキコーナーがもうけられていた。
今回の新刊は、発売までの秒よみや、
三省堂のフリーペーパーと「村上春樹堂」への改装など、
前作の『1Q84』に輪をかけた「事件」となっている。
本屋大賞を受賞した百田尚樹氏の『海賊とよばれた男』も
特設のコーナーがつくられているものの、
せっかくのおまつりとしての本屋大賞が
『多崎つくる』の発売とかさなってしまい、
直撃をうけたのではないか。
おまつりも、台風にはちあわせてしまうとダメージがおおきい。
本の雑誌社別冊の『本屋大賞2013』と、
『本の雑誌』のバックナンバーがならべられているけれど、
それでも目をひくのはどうしてもハルキまつりのほうだ。

『本の雑誌5月号』の特集は
「やっぱり人情ものが好き!」で、
とくに人情ものに関心のないわたしとしては
どうでもいい企画だ。
でもまあとにかく、とよんでみるかと
これがおもしろかった。
人情小説を時代小説と時代小説の2チームにわけ、
柔道の団体戦方式で先鋒からたたかうというばかばかしさが
『本の雑誌』らしくて好感がもてる。
時代小説チームが次鋒に
宮部みゆきの『桜ほうさら』をだしてくると、
現代小説チームが「宮部みゆきでそれだけ
(人情が)入ってたら勝てないわ」
とあっさり「もうまいりました」というのがおかしい。
現代小説チームの副将としてでてくるのが
重松清の『とんび』で、

「現代の感涙テクニシャンと呼んでもいい
重松清の、言ってみれば最も成功した作品だと思う。
ただ、なんていうかな、悪くいえばあざとい。(中略)
目の前でこう、タマネギを刻むような。
無理やり泣かされてるっていう。
しかも一章に一回は入ってるの、タマネギ剥くシーンが」

という感想がうまい。わたしが重松清にかんじている
「うまいけど、もういい」という気分はこれだったのだ。
というわけで、「あまりにもタマネギ切り刻みすぎ」たため
『とんび』は1勝もしないまま敗退してしまう。
時代小説チームは大将に絶対的なエース、山本周五郎をかつぎだし、
その別格なつよさで優勝するのだった。
直木賞や芥川賞も、おまつりだとわりきって、
これくらいちからをぬいてえらばれたらいいのに。

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2013年04月13日

『別離』にえがかれる現代イラン社会の普遍性

『別離』(2011年・イラン・ファルハーディ監督)

離婚の調停から映画がはじまる。
妻のシミンはむすめの教育環境のためにも
外国へ移住したがっており、
夫のナデルは認知症の父親を介護するために、
外国へなどいけないとかんがえている。
夫が暴力をふるうとか、養育費をいれないとかの
あきらかな非がなければ離婚はみとめられず、
シミンは別居をえらんで実家へもどる。

ナデルは父親の介護のために家政婦をやとって仕事をつづける。
ある日、家政婦が父親をベッドにしばったまま家をあけ
もうすこしで大事故につながるところだっため、
ナデルはおこって家政婦を強引に家からおいだした。
家政婦は、このときのいさかいがもとで流産したと
ナデルを裁判にうったえる。

シミンに共感できず、ずっといらいらさせられた。
彼女にしてみれば、認知症がすすんでいく義理の父の介護をまかされ、
このままでは以前からねがっていた
外国への移住ができなくなるというあせりがある。
でも、娘の安全のためとかいいながら、
ぜんぶお金で解決しようとするし、
家政婦が流産したのは夫のせいだときめつけ、
ナデルをぜんぜんしんじようとしない。
いっぽうナデルは、認知症の父親を大切におもい、
むすめの教育にも熱心で、
裁判になっても相手への敬意をうしなわない。

イランの中産階級は、こんなくらしをしているのかと、
とても興味ぶかく映画をみることができた。
家は豪華ではないけれどじゅうぶんひろく、りっぱなつくりで、
夫婦それぞれが外国製の車をもち、
仕事にもむすめの教育にも熱心にとりくんでいる。
イラン社会が日本とものすごくかけはなれた
別世界としてあるのではなく、
おなじ価値観で生活しているようにかんじる。
裁判は民主的におこなわれ、
宗教がひとびとの良心をささえている。
養育権は父親にもみとめられ、
どちらといっしょにくらしたいかの判断は
むすめにゆだねられる。
イスラム社会だからといって
とくに女性の権利がひくくみられているふうでもない。
日本よりもよっぽど人権意識がたかいようにおもえる。

裁判がすすむにつれ、
必要であれば証人がよばれ、
現場検証もおおくのひとがたちあっておこなわれる。
だれもがコーランをおもんじて、
コーランにはじない言動をとろうとする
(家政婦の配偶者はかなり短気だったけど)。
ナデルとシミンの別離をえがいた作品というよりも、
現代のイラン社会では、ひとびとがなにをおもい
どうくらしているかという風俗としてたのしめる。
親の介護とむすめの教育になやみ、
夫婦で共通の認識をもてずにいいあらそう。
アラビア文字やコーランなどがでてこなければ、
アメリカやヨーロッパでつくられた作品とおもえるほど
わたしたちのくらしぶりと同質なくらしぶりだ。
これが韓国やタイの作品であるなら
おどろきはない。
これらの国が、日本とおなじように
民主的なかんがえ方を大切にしていることが
すでにひろくしられているからだ。
イランについて、わたしはほとんど知識がなく、
とくに中産階級のひとびとのくらしをなにもしらない。
イランの現代社会ばかりに意識がむかい、
ドキュメンタリーをみているようだった。

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2013年04月12日

10年目となる本屋大賞と、これからの方向性

今年の本屋大賞が発表された。
本屋大賞は、書店員がお客さんにすすめたいとおもう本を投票する、
というやり方でえらばれており、
数人の選考委員がはなしあいできめるほかの賞とは
そのえらび方からしてまったくちがう。
プロの書店員が熱心にすすめる本だからと、
いまでは直木賞よりもうれる賞になっているのだそうだ。

今年の受賞作には、百田尚樹さんの
『海賊とよばれた男(上下)』(講談社)がえらばれた。
今年で10回目となる本屋大賞は
だんだんと世間の話題をあつめるようになり、
今年は朝日新聞でもおおきくとりあげられた。
本屋大賞の仕掛け人のひとりである
「本の雑誌社」の杉江さんは、
朝日新聞の記事について

「あれだけ時間を取り、一生懸命伝えたにも関わらず、
『サイゾー』と変わらないレベルにがっかりする。
ただでさえ、本屋大賞を作ったばかりに
ゲラやらなにやらで
書店員さんの仕事を増やしてしまったことに
申し訳ない気持ちでいっぱいのところに、
このような誤解と偏見に満ちた記事を全国紙に掲載されてしまい、
書店員さんに迷惑をかけてしまったこと、
どう謝っていいのかわからない」

ブログにかいている。
そんなにひどい記事だったかと、
よみかえしてみると、
すでにうれている本がえらばれる傾向がでてきたと、
本屋大賞がかかえる問題点を指摘してあった。

杉江さんががっかりしたのは
「我々の賞も直木賞への不満から始まった。
不満がある人がまた新しい賞を作って
出版業界全体が盛り上がればいい」
といかにも新聞がやりそうな
むりやりな要約で杉江さんの発言が紹介されている点だろう。
そもそも「本屋大賞10年の貫禄」という
記事の表題が直江さんにとってはおもしろくないのだろう。
権威をもたないよさを杉江さんは大切にしているのに、
社会現象になるにつれて以前のような
自由さがうしなわれてきている。

本屋大賞とわたしの相性はあまりよくない。
第1回目の受賞作『博士の愛した数式』(小川洋子)以外は
どれもすべっている。
『夜のピクニック』(第2回)
『東京タワー』(第3回)
『天地明察』(第7回)
はよみだしたものの
とちゅうであきらめたし、
『謎解きはディナーのあとで』は
本屋さんでめくってみて、
わたしにはたのしめない「わらい」だとおもった。
それ以来、本屋大賞を受賞した本は
わたしにあわないときめて、手をださなくなった。

小川洋子さんの『博士の愛した数式』は、
本屋大賞が創設されたときの受賞で、
この賞を受賞しなければあまり注目をあつめなかったはずで、
このすばらしい本がひとの目にふれなかったらとおおうと、
本屋大賞ならではのタイムリーな受賞とたかく評価したい。

去年の受賞作は三浦しをんさんの『舟を編む』で、
これならまちがいなくおもしろいだろうけど、
なにも本屋大賞を受賞しなくても
いずれは手にとる本だとおもってまだよんでいない。
この点については朝日新聞の記事が指摘しているとおりで、
本屋大賞でつよくおさなければ
うもれてしまうような本が受賞すればまだしも、
三浦さんのようにすでに直木賞をとっているひとへ
本屋大賞をおくるのはもったいないとわたしもおもう。

それについては杉江さんたち
賞の関係者もじゅうぶん認識しているはずだ。
とはいえ本屋大賞もひとつの賞であるにすぎないので、
これひとつで出版業界の救世主になれるはずはないし、
回数をかさねるうちに
必然的にいろいろくっついてくるものがあるだろう。
うもれた本の発掘に焦点をしぼるなら、
◯万部以上うれた本は対象外、という規定をつくればいいけど、
書店側からすれば受賞作があまりうれないのでは
商売としてうまみがないわけで、
できるだけリスクをおかしたくない気もちもあるだろう。

世間の注目をあつめ、
いまや一大イベントとよべるまでに成長したのだから、
「書店員がうりたいとおもう本」という
本屋大賞のコンセプトをおさえながら
いろいろ問題をふくみながらもつづけていくしかない。
おもいがけずおおきなイベントになったのだから、
これはこれでおまつりとしてたのしめばいいとおもう。
受賞作について、なにがどうよかったかは
「本の雑誌」増刊の『本屋大賞』でくわしく紹介される。

posted by カルピス at 22:49 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月11日

「ソロモン流 川島永嗣」なぜ川島選手のことばはつうじるのか

録画しておいた「ソロモン流 川島永嗣」をみる。
どや顔が有名で、ピッチでは
いつも目をつりあげてどなっている川島さんは、
私生活では(あたりまえだけど)ものしずかなひとだ。
川島さんというと、どや顔のほかに、
何カ国語もはなせることでしられており、
番組でもその外国語会話の能力に
おおくの質問をあてていた。
日常会話としては英語・イタリア語・フランス語
スペイン語・ポルトガル語・オランダ語をはなせるというから、
だれでもうらやましくなるのだろう。
よく「日常会話程度」なんていうけど、
日常会話がはなせたら、それはもうすごいことだ。

ラテン系のことばはおたがいに
にかよった文法のものがおおく、
親戚みたいなものだとはいっても、
フランス語やオランダ語となると、
「方言」ではすまされないほどしくみがはなれている。
キーパーは選手たちに指示をださなくてはならないので、といいながら
川島さんは当然のこととして外国語をはなせるようになろうとする。
番組をみていると、
わからないことをわからないままにしておきたくないという
まけずぎらいな性格と、
サッカーのために必要ならば、なんでもとりくもうとする
まじめな性格が、
外国語の勉強についてもいいほうにプラスして
川島さんをかりたてているようにみえる。

そんな川島さんが『本当に「英語を話したい」キミへ』
という本をだされた。
はじめから語学の才能にめぐまれていたのかとおもっていたのに、
川島さんも以前はぜんぜんはなせなかったというから、
この本を参考に外国語をはなせるようになりたいというひとはおおいだろう。
わたしも、タイトルはそんなにいいとはおもわないけど、
川島流外国語学習の秘訣をしりたくなった。

川島さんがはなされているのをきくと、
さほど発音に気をつかっているふうではないし、
ジェスチャーもなしに、ただボソボソっと
単語をつなげているようにみえるのに、
あいてにはちゃんとつたわっている。
ひとつ特徴的なのは、
はずかしそうにはなしていながらも
わからないことをそのままにせず、
相手のいうことをききながら、自分の要求をしっかりつたえる、
という点をおさえていることだ。
コミュニケーションとはそういうものだとはいえ、
外国語をはなしていると、わたしは
どうしてもいいかげんなところできりあげたくなり、
相手の主張を全面的にみとめたり、
こっちのいいぶんを半端なところでひきさげたりする。
そこらへんが一流になるか、二流のままでおわるかの
おおきなターニングポイントだとわたしはおもう。
川島さんはどうどうと対等に相手とむきあっている。
その真剣な態度が相手からの尊厳をひきだしている。

もうひとつは、キーパーというポジションの特殊性なのか、
自分のまあいに相手をひきこみ、
川島さんのいっていることを理解せずにはおれない雰囲気をつくるのが
じょうずなのではないかとおもう。
なんとなくつったっているようでいて、
すごい気あいが相手にむけてとびかっているはずだ。

だれでも外国語をはなせるようになれる。
いちにち10時間の勉強を3ヶ月集中すれば
だれでもはなせる。
でも、10時間の勉強を3ヶ月つづけるのは
だれにでもできることではない。
やるかやらないかは、個人の判断だ。
川島さんは当然のこととして実行されたのだろう。

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