2013年04月13日

『別離』にえがかれる現代イラン社会の普遍性

『別離』(2011年・イラン・ファルハーディ監督)

離婚の調停から映画がはじまる。
妻のシミンはむすめの教育環境のためにも
外国へ移住したがっており、
夫のナデルは認知症の父親を介護するために、
外国へなどいけないとかんがえている。
夫が暴力をふるうとか、養育費をいれないとかの
あきらかな非がなければ離婚はみとめられず、
シミンは別居をえらんで実家へもどる。

ナデルは父親の介護のために家政婦をやとって仕事をつづける。
ある日、家政婦が父親をベッドにしばったまま家をあけ
もうすこしで大事故につながるところだっため、
ナデルはおこって家政婦を強引に家からおいだした。
家政婦は、このときのいさかいがもとで流産したと
ナデルを裁判にうったえる。

シミンに共感できず、ずっといらいらさせられた。
彼女にしてみれば、認知症がすすんでいく義理の父の介護をまかされ、
このままでは以前からねがっていた
外国への移住ができなくなるというあせりがある。
でも、娘の安全のためとかいいながら、
ぜんぶお金で解決しようとするし、
家政婦が流産したのは夫のせいだときめつけ、
ナデルをぜんぜんしんじようとしない。
いっぽうナデルは、認知症の父親を大切におもい、
むすめの教育にも熱心で、
裁判になっても相手への敬意をうしなわない。

イランの中産階級は、こんなくらしをしているのかと、
とても興味ぶかく映画をみることができた。
家は豪華ではないけれどじゅうぶんひろく、りっぱなつくりで、
夫婦それぞれが外国製の車をもち、
仕事にもむすめの教育にも熱心にとりくんでいる。
イラン社会が日本とものすごくかけはなれた
別世界としてあるのではなく、
おなじ価値観で生活しているようにかんじる。
裁判は民主的におこなわれ、
宗教がひとびとの良心をささえている。
養育権は父親にもみとめられ、
どちらといっしょにくらしたいかの判断は
むすめにゆだねられる。
イスラム社会だからといって
とくに女性の権利がひくくみられているふうでもない。
日本よりもよっぽど人権意識がたかいようにおもえる。

裁判がすすむにつれ、
必要であれば証人がよばれ、
現場検証もおおくのひとがたちあっておこなわれる。
だれもがコーランをおもんじて、
コーランにはじない言動をとろうとする
(家政婦の配偶者はかなり短気だったけど)。
ナデルとシミンの別離をえがいた作品というよりも、
現代のイラン社会では、ひとびとがなにをおもい
どうくらしているかという風俗としてたのしめる。
親の介護とむすめの教育になやみ、
夫婦で共通の認識をもてずにいいあらそう。
アラビア文字やコーランなどがでてこなければ、
アメリカやヨーロッパでつくられた作品とおもえるほど
わたしたちのくらしぶりと同質なくらしぶりだ。
これが韓国やタイの作品であるなら
おどろきはない。
これらの国が、日本とおなじように
民主的なかんがえ方を大切にしていることが
すでにひろくしられているからだ。
イランについて、わたしはほとんど知識がなく、
とくに中産階級のひとびとのくらしをなにもしらない。
イランの現代社会ばかりに意識がむかい、
ドキュメンタリーをみているようだった。

posted by カルピス at 23:11 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする