配偶者の勤務が早番のため、
今朝はわたしがむすこのお弁当をつくることになる。
高校生になったむすこは、
毎朝お弁当をもって家をでるようになった。
今朝は配偶者が早番のためお弁当を用意せず、
コンビニでかうようむすこにはなしていたらしい。
早番のたびにコンビニにいくのは
まちがっているとわたしはおもうので、
今朝はわたしがお弁当をつくると配偶者につたえる。
といっても、お弁当用におかずをつくるのはたいへんなので、
夕ごはんののこりをむすこが自分でつめればいい、
という程度のお弁当づくりだ。
塩サバくらいはやこう。タマゴやきがほしければ
自分でつくってね、とむすこにいう。
やったことがないというのはたいしたもので、
むすこのお弁当づくりは、
わたしのイメージとまったくちがったものだった。
まず、ご飯をお弁当箱にいれてさましたほうがいいよ、とおしえると、
ご飯とおかずの場所をわけるシキリをつかわずに
グジャグジャっとご飯をよそっている。
量もすごくすくない。
おかずは、あたたかいものと、
つめたいものをくっつけない、
とおしえ、塩サバはご飯の側におく。
あとはおかずをいれるスペースに
自分のすきなものをならべなさい、というと、
煮豆と、シリシリをパラパラっといれていた。
ほかにもおかずがあるのに、そのふたつでいいという。
全体にスカスカで、見ばえのしないトホホなお弁当だ。
おいしそうにもりつけよう、とか
すきなおかずをいれて、
おひるがまちどおしいお弁当にしようとかの工夫がない。
いくら自分がたべるお弁当だからといって
かなりなげやりな態度だ。
お弁当づくりをいやがってこんな内容にするのではなく、
ほんとうにこれでいいらいし。
高校生ならコンビニ弁当がよかったかもしれないのに、
なぜむすこはわたしが用意するといったときに同意したのか。
そんなグシャグシャ弁当ではひとといっしょにたべるときに
いやじゃないのか。
友だちとではなく、ひとりでたべるからどうでもいいのだろうか。
親がつくってくれるのを当然だとおもわないほうがいいし、
たとえできているおかずをいれるだけでも
やらないよりはずっといい。
うまくいけば、配偶者が早番のときは
むすこが自分でお弁当を用意するようになれば、とおもっていた。
塩シャケと卵やきがつくれるだけでも
のちのちそのスキルをありがたくおもうだろう。
とにかく「つくった」という体験をもつことが大切なのだ。
でも、今朝のむすこのお弁当づくりをみていたら、
わたしがおもっていたながれとぜんぜんちがっていた。
いつものお弁当をおもいだして、
お弁当らしくもりつけることが
なぜできないのかすごく不思議だ。
体験不足からくる未熟さなのか、
食にたいする要求のひくさなのか。
ほんとうにあんなお弁当でよかったのかどうか、
きょうのお弁当をたべた感想をたしかめたい。