2013年05月31日

『人生のこつあれこれ2012』時間を細かく割る

『人生のこつあれこれ2012』(よしもとばなな・新潮文庫)

ものごとのつらさは、たとえばインフルエンザにくるしむときは、
純粋な熱のつらさだけではなく、

「『ああ、起きなくちゃ、体が重くても、皿を洗わないと(中略)』
などという『予想そのもの』の重さなのだ」

とかいてあった。
そして、「〜しなくては」とおもわないですます方法として
「時間を細かく割るのがこつだと思っている」。

「細かく割るとますます忙しさが大変になるような気がするが、
なぜかそうではないのだ。
大きくするのは簡単だ。果てしなく大きくしたら
『生まれる、育つ、死ぬ』でおしまいだ。
大きくするほどなぜか余地がなくなるのだ。
これと同じ感じで『どうせまた使うのになぜ片付ける』
『またすぐ洗うのになぜ洗濯する』
『お茶をいれて急須を洗ってまたお茶をいれるのはめんどくさい』など、
大きく見ると逆にどんどんタイトになる。
実は、割っていくほどそのわずかな余地に、
なにかが生まれる可能性がいつだってあるのだ。
人はそれを信じるとか希望とは呼ぶんだと思う」

これはたしかに人生の真理で、
よく目先のことばかりかんがえるな、みたいなことをいうけど、
目先のことこそがじつは大切なようにおもえてきた。
ながいスパンで人生計画などをたてるときは、
そのあいだの時間がスカスカになってしまわないよう
気をくばる必要がある。
いま、目のまえにあることを大切にすること。

ずいぶんまえのことで、アルバイトさきの職人さんが、
仕事の過程でたまってくるゴミを
なんどもなんども掃除してかたづけるのが不思議だった。
「どうせまたゴミがでるから、まとめてやればいいのに」とおもったのだ。
でも、じっさいに自分もいっしょにうごいてみると、
そのつどめんどくさがらずに掃除したほうが
圧倒的に気もちよくうごけることがわかった。
「時間を割る」ということと、こまめに掃除をするのは、
おなじ意味をもっているような気がする。

サッカーでも選手同士の距離感について、
コンパクトなポジショニングがこのごろ注目されている。
間のびしないコンパクトさが人生のキーワードだ。
「生まれる、育つ、死ぬ」だけにならないよう、
細部にこそ目をむけたい。

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2013年05月30日

『アルプスの少女ハイジ』第34話「なつかしの山へ」

たまたま『ハイジ』を録画したら、もっともなかせる第34話だった。

ハイジのものがたりをおおきくわけると、
4つの状況があり、2つの出来事が起点となって
あたらしい場面にうつる。

1 ハイジが山の生活になれる
・フランクフルトへつれさられてしまう
2 ゼーゼマン家でのくらし
・ハイジが山にかえってくる(第34話)
3 ふたたび山でのくらし
4 クララが山にやってくる

フランクフルトへつれられていってしまう回と、
ふたたびやまへかえってくる第34話は、
場面転換として決定的な意味をもつ。

第34話では、
フランクフルトでの生活になじめず、
しかしクララのことをおもうと
自分だけ山にかえるわけにもいかないし、と
とうとう病気になってしまったハイジが、
お医者さまの適切な判断で、
ふたたびアルムの山にもどれることになった。

ハイジがフランクフルト駅から汽車にのって
アルムの山へむかう(つきそいはセバスチャン)。
一夜を汽車のなかであかし、いちどのりかえて、
だんだんとマイエンフェルト駅がちかづいてくる。

デルフリ村でハイジはセバスチャンとわかれ、
ひとりでおじいさんの山小屋へむかう。
ハイジが「おじーさーん!」とさけんだ瞬間、
山のおもいでが、ハイジの頭におしよせてくる
(パンとチーズの食事・わらのベッド・水のみ場)。
ハイジの声を耳にしたヨーゼフが
おおよろこびでハイジにかけより、めちゃくちゃなめまわす。
さわぎをききつけたおじいさんが、ハイジのいることに気づく。
ハイジはおじいさんにかけより、
大ジャンプでおじいさんにとびつく
(わたしの記憶では、5メートルくらい
「とんだ」ようにおもっていたけど、
注意してみるとほんの2メートルほどのジャンプだった)。

ふたりともなにもいえない。
ハイジはおじいさんにだかれて
なきじゃくるだけだ。
ハイジがいなくなってから、
「オンジ」はますます気むずかしくなったと
村のひとがうわさしている。
おじいさんは、ハイジがなにもしらないまま
フランクフルトへつれていかれたことをしらない。
ちいさな女の子が、こんな山のなかでの生活を
よろこぶわけがないと自分をせめていた。
そのハイジが、また自分のところにかえってきたことを
おじいさんはしんじられない。

みるまえからヤバイかも、とおもっていた。
第34話は、まちがいなくハイジのなかで
いちばんこころをふるわせるはなしだ。
これにくらべれば、クララがたちあがったことは、
オマケみたいのものだ。

ハイジは、ゼーゼマン家からぬけだしたのではない。
ゼーゼマン氏やお医者さまが、
クララに対するハイジのやさしさをありがたくおもい、
それでもハイジにはアルムでのくらしが必要なことに気づいた。
みんながハイジのしあわせをねがい、
アルムへかえることをみとめてくれたのは、
みんながハイジをだいすきだったからだ。
ハイジは堂々とおじいさんのもとにかえってきた。
おじいさんとアルムの山が、
自分にとってどんな存在であるかをしったハイジ。
おじいさんにだかれ、
安心してなきじゃくるハイジのしあわせを
ねがわずにはおれない。

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2013年05月29日

愛車のポロを手ばなす

ながくのってきたフォルクスワーゲン・ポロを
手ばなすことになった。
9年間お世話になり、愛着がある。
できればこのままのりたいけれど、
ずいぶんガタがきてるので、車検をとおさないほうがいいと
自動車整備会社の方にいわれる。

平成10年の5月に初期登録された車で、
わたしがのりはじめたのが平成16年の3月だ。
赤のポロに車種と色をかぎってさがしてもらい、
80万円ほどで手にはいった。
そのときに走行距離が3万4000キロだったこの車は、
メーターを確認すると、まだ6万キロいってない。
平均で1ヶ月に240キロしかはしっていないことになるので、
もうすこしかわいがればよかったなんておもえてくる。

いちばんとおくへでかけたのは、
友だちのいる金沢までで、
往復1000キロをあぶなげなくはしってくれた。
それ以外はちかくの場所ばかりだ。
いちばん役にたつのがネコを病院へつれていくときで、
でもこれはべつにポロでなくても用はたりる。

ポロのいちばん初期の型で、
角目のライトとシンプルなデザインが気にいっていた。
ちいさな車なのに重量が1325キロもあり、
うごきだしがすごくおもい。
おまえは2号戦車か、とつっこみたくなる。
ぶつかったときに真価を発揮してくれるタイプだろう。
軽自動車なみのちいさな車体なのに燃費はわるく、
市内ではリッター8キロ程度だった。

排気量は1.6ℓで、自動車税が4万3500円もする。
雨もりがして、床がベチョベチョになったことがあるし、
ワイパーがうごかなくなったり、
メーターがきゅうにクルクルまわりだしたこともあった。
よくいわれるとおり、電気系がよわいみたいだ。
雨もりをする車は湿気がこもるせいで、
ガラスがくもりやすい。
冬には視界が極端にわるくなり、
かなりあぶない状態で運転することになる。
天井にはってある布がめくれはじめ、
かなり残念な状態だ。

こうかくと、ろくでもない車みたいだけど、
これらはすべて愛着のうらがえしでもある。
そうしたトラブルがあったから、よけいに
自分の車という気もちになってくる。
メカにくわしいひとならこまめにして整備して
ポロにのりつづけることもできるだろうが、
わたしにの手にはあまる。
消費者としてかかわるしかない。

かわりの車はまだきめていない。
ポロ以外の車にのるのは、
率直にいってかなりさびしい。
わたしのしょぼい40代は、
ポロとともにあったことをわすれないだろう。

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2013年05月28日

おおきくなりすぎた脳とどうつきあうか

野菜をたべろとか
老人になったらむしろ肉をとか、
食や栄養をめぐる情報がかまびすしい。
生活習慣病や認知症の予防とも関連づけられ、
なにがただしいのだかすごくわかりにくくなっている。

700万年という人類のながい歴史をかんがえたときに、
あるべき食生活はどうとらえたらいいだろう。
穀物をつねにたべられるようになったのは、
たかだかこの数千年まえからにすぎず、
そのまえの圧倒的にながい期間を
人類は狩猟・採集によって食料を手にいれていた。
穀物を主食にするという食生活は
ごく最近からはじまったにすぎない。
朝・昼・晩という、いちにち3回の食事の歴史だって
たかだか数百年(あるいはもっとみじかい)のことだろう。
でありながら、伝統的な食生活とか、
日本型の食事がいちばんなどということが
なぜいえるのだろう。
乳がんや大腸がんなどの増加を
食の欧米化にもとめる意見をよくきくけれど、
どれだけの根拠があってそういえるのか。
現代人の食生活は、700万年からみれば
ほんのついこのまえからはじまったばかりといえる。

NHK特集で、人類は進化するにあたって病気の起源を背おいこんだ、
という番組をみた。
ガンや脳卒中、それに認知症など、
おおくの病気は脳がおおきくなったことと関係があるようだ。
おなかをへらしたくない、
おいしいものをたべたいというねがいを、
おおきくなった脳で人類がおいもとめていくと、
どうしてもそれまで適応していた食生活からはなれていく。
からだをうごかすこと、
満腹するだけの食料がないことを基本に
人類のからだはつくられているのに、
現代人はそこからいちじるしく逸脱してしまった。
からだをうごかさずにおいて、
おいしいものをたべつづければ、
いろいろな病気をひきおこす。

おなかいっぱいたべたい、
脂肪をとりこみたいというのは、
すべて脳がもとめていることだ。
おおきくなりすぎた脳は、
肉体を傷つけても欲望をみたそうとする。
この矛盾は、おおきくなりすぎた脳があるかぎり
かならずうまれてくる。

おなかをすかせたくない・ながいきしたい・
病気になりたくない・死にたくない
という煩悩をおいもとめていくとどうなるか。
おおきくなってしまった脳は、かんがえることをやめない。
進歩とか発展とか、人類がよかれともってすることは、
ながい目でみれば人類の首をしめているかもしれない。
脳は個体を生きのびさせるよりも、
みずからを発展させることを目的にしているようにみえる。
脳のこうした進化は矛盾でしかないけれど、
とめることはできないので、
人類はこれからも生物として
どんどんいびつな姿になっていきそうだ。

posted by カルピス at 09:57 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月27日

よくきくけど、なんとなくおっかないピリン系の薬

歯がいたくなる。
わすれたころにやってきて、
3日くらいくるしむことになる。
虫歯ではなく、つかれだとおもっているけど、
ほんとうのところはわからない。

どこがいたくても、いたみというのはいやなもので、
歯のいたみもまた独特のつらさがある。
もちろんいたくてものがかめなくなるし、
ズキズキしたいたみにねむれなくなることもある。
今回のいたみもかなりいやらしいので、
たまらなくなってドラッグストアによって薬をさがした。
正露丸はさすがになんだ原始宗教のおまじないみたいだし、
かといってバファリンではきかないことが経験ずみだ。

お店の棚をみてみると、歯のいたみを専門とした薬はおいてない。
頭痛や生理痛むけの薬の効果のひとつとして
歯のいたみがあげられている。
そのなかでは「セデス・ハイ」という薬がいちばんおおきく
「歯の痛み」をうたっていた。
気になるのはピリン系とかいてあることで、
熱や関節のいたみでお世話になるバファリンは非ピリン系だ。
へんな副作用があるとおっかないけど、
いたみにはかえがたいのでけっきょく「セデス・ハイ」をえらぶ。

1錠のむと、すぐにいたみがやわらいだ。すごいききめだ。
あとで説明書をみると、1回2錠とかいてある。
まあ、よくきいたのだから、すくなくてもいいだろうと、
夕方と、ねるまえの2回1錠ずつのんだ。

ネットでピリン系についてしらべると、
いたみをおさえる薬にはピリン系と非ピリン系があり、
非ピリン系はききめがつよいけど、
アレルギーの反応がでるひとがある、とかかれている。
いたみと、それをおさえるしくみを理解してないので、
どんなときになにをのべばいいのか
けっきょくのところよくわからない。

アレルギー反応がでるとしり、心配になる。
背中がきゅうにかゆくなり、ビクッとしたけど、
蚊がさしたのだった。
鼻血がツツツーとこぼれた、とおもったら、
ただの鼻水だった。
日頃あまり薬をのまないので、
はじめてのむ薬はなんだかおっかない。
ききめがつよいのはありがたいけど、
それだけ副作用がつよいのではないだろうか。
なんだか劇薬依存の世界へ一歩ふみこんだような気がする。

さいわい薬を2回のんだだけで
たえられないいたみはおさまった。
経験的にいって、これでしばらくはふつうにくらせるはずだ。
なぜ定期的に歯のいたみがやってくるのだろう。
きっと原因はつかれだけではなく、
気圧配置とか、応援しているサッカーチームの成績とか、
いろんなことが複雑にからまっているのだ。
なにかの前兆がわかればそれなりに対処できるのに。
複雑な要因をまえにしたときは、
シンプルにかんがえるにかぎる。
けっきょく「よくやすむ」「無理をしない」
ということなのだろう。
あんがい歯みがきをもっと丁寧に、だったりして。

posted by カルピス at 08:28 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月26日

グランパスの不調は、昨シーズン森脇がいれた「ありえないゴール」からはじまった

Jリーグ第13節 名古屋グランパス対セレッソ大阪

圧倒的にセレッソがせめながら
グランパスがよくまもっていた試合。
前半は0-0でおわったものの、
ながれはセレッソだ。
ただ、グランパスの守備への意識はつたわってくる。
ここまで4連敗中9失点と、守備が安定していないので、
セレッソに自由にボールをまわさせないように
中盤からはげしいプレッシャーをみせる。

後半にはいってからもセレッソはパスをまわし、
グランパスのスキをつこうとする。
エジノと柿谷がきめ、そのあとも
パスをまわしてくずしつづける。

こうなるとグランパスはたかさにたよるしかなく、
トゥーリオをまえにあげ、
ヤキモフスキー、矢野貴章を前線にならべてくる。
後半終了間際には、このパワープレーがきいて、
フリーキックをケネディが頭であわせて2-1へ。
そのあともながくたかいボールをどんどんほうりこんでくる。
まるで代表のオーストラリア戦みたいだ。
クロスバーにあたったり、キーパーの正面だったり、
グランパスにはつきもなく、
けっきょく2-1のまま試合をおえる。

たかさをいかした(たよった)せめは、
迫力があり効果的でもあった。
しかし、リスクをおかしながらの攻撃でもあり、
もっとはやくからやれば、というものではないのだろう。
グランパスはこれで5連敗。
2-0になるまではテクニカルエリアに
ずっとはりついていたストイコビッチ監督も、
柿谷に2点目をきめられるとベンチにすわりこみ
「おちつきはらって」ゲームをみていた。
ケネディのシュートにもまったくよろこびをみせない。
たかさにしかたよれないチームを
ストイコビッチ監督はどうたてなおしていくのだろうか。

今シーズンのグランパスの不調を、
わたしはきょねんのサンフレッチェ広島戦で
ありえないまけ方をしたときから
はじまったとみている。
後半ロスタイム、さいごのプレーで
石原のあげたクロスにやっとおいついた森脇は、
頭にあてるのがせいいっぱいだった。
しかしそのボールは冗談みたいにゴールにすいこまれていき
サンフレッチェの劇的な勝利となる。
グランパスはその試合から元気をなくし、
優勝あらそいからもACL枠からも
ズルズルと後退していった。
ひとつのプレーがあたえる影響のおおきさを
まざまざとみせつけられた。

サッカーは実力だけでなく、運や神様も味方につけなければ
もとめている勝点をあげるのはむつかしい。
それにともなって「◯◯の呪い」だの「◯◯伝説」が
まことしやかにささやかれることになる。
森脇の「はいってしまったゴール」は、
グランパスに強力な負の遺産を手わたしたようにみえる。
グランパスがチームの状態をたてなおすためには、
戦術がどうのではなく、ありえない劇的なラッキープレーから
「ごっつぁん勝利」がころがりこむのをまつしかない。
原因は自分たちにないのだから、
グランパスの選手たちはくさらずに
もうしばらくまえをむいたプレーをつづけてもらいたい。

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2013年05月25日

草かりはなんちゃって方式にかぎる

きゅうにおもいたってピピの庭の草かりをした。
あつさが本格的にならず、
まだ蚊がでないうちに、というわけだ。

ピピにの庭はりっぱな日本庭園で、
しっかり管理すればみごとは風景になりそうな
松や石がおかれている。
ただ、半年以上ほったらかしにしているので、
草原はおおげさにしても
日本庭園とはいえないくらい草がのびている。

草かりをするにあたって、わたしが採用しているコンセプトは
「必要にしてじゅうぶん」だ。
このさきひどくならない程度に草の成長をおさえればいい。
パパパッとカマでなぎはらうだけだから、
今回の草かりはほんの10分でおわった。
草かりをしたかしなかったのか、
わからないくらいがちょうどいいという
節度をたもった遠慮がちな草かりだ。

道路や公園にはえている草を、
1本のこさず徹底的にとりさろうとしている
作業をときどきみかける。
仕事だからしょうがいないとはいえ、
ほんのちいさな草が、どんなわるさをするわけでもないのに、
いろんな道具をつかってほじくられているのをみると胸がいたむ。
美意識のちがいは、うめがたいほどの断絶がある。

場所によってはボンベをせおい、
消毒のようなかっこうで除草剤をふきかけるひともいる。
石だたみやアスファルトの境目から、
すこしの植物もはえてこないようにと、几帳面な仕事ぶりだ。
薬で茶色くなった草を、きちんと管理しているとみるか、
毒をばらまいているとみるかでずいぶんちがう景色になる。

その点ピピの庭にはえている草はしあわせで、
のびた分をかりとられるだけですから
おたがいにウィン・ウィンの状態といえるだろう。

5日あとに庭をみてみると、
草かりをしたことなどぜんぜんわからないほど
もとにもどっていた。
さすがに草たちへの配慮がすぎたようで、
もういちどカマをふりまわさなければならなかった。
とはいえ、ほんの10分を秋までに数回やればいいのだから、
やっぱり草かりはなんちゃって方式にかぎる。

posted by カルピス at 14:06 | Comment(0) | TrackBack(0) | 児童デイサービス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月24日

『夜をゆく飛行機』かわらなさそうで決定的にかわっていく家族。でもほんとうは結局かわらない

『夜をゆく飛行機』(角田光代・中公文庫)

ふるくからの商店街で酒屋をいとなむ両親と、
4姉妹のものがたり。
毎日おなじようなことをくりかえし、
変化なんかなさそうな生活なのに、
すこしずつなにかがかわっており、
もうあとにはもどれないことにだれもが気づく。
でも、生活にゴールはないので、
形をかえながらもいつまでもつづいていく。
その「かわらなさ」と、かわらなさそうで
ある地点でじつは決定的にかわってしまっているのを
角田さんはかくのがとてもうまい。

4女の理々子は2階の縁側にあるベンチにすわり
ひとりでよく空をながめる。
生まれなかった弟のぴょん吉とはなしをかわす。

急死したおばのミハルちゃんと、
流産で生まれなかった弟のぴょん吉が、
ものがたりにしょっちゅう顔をだす。
ふたりは死後と現世の「中間みたいな場所」にいて、
理々子は「私は去年まで、そんな場所に、
実際にいたのかもしれない」とおもう。
「なんとなくなつかしくなって戻ろうとしても、
けれどもう、戻れない」

長女の有子は高校のとき「的場のヤロー」とかけおちするし、
三女の寿子は家族のことをそのまま小説にかいてしまうし、
次女の素子は自分のことばっかりかんがえているし、
理々子はいつまでも夢みる少女だ。
基本的にみんなおもったことをすきかってにやっている。
おたがいにわがままなことをいいはなっているけど、
そのやすっぽさ、気らくさが家族のよさにおもえてくる。
「的場のヤロー」にさえも愛着をかんじるようになる。

角田さんはこの作品をたのしんでかいたのだとおもう。
高校生で、やがて受験に失敗し、予備校生になり、
バイトさきの男をすきになり、でも相手にされず、
さいごのページでも縁側のベンチで空をみている理々子がすごくかわいい。

近所にすむ大学生の松本健が理々子にプレゼントをもってくる。

松本健はちいさな堤を差しだした。
黄色いリボンがかけられている。
松本健を見ると、照れくさそうに笑い、
「合格祝い」という。
「どこの大学か教えてくれなかったけど、
きっと受かってるだろうと思って、買っといたんだ」
「落ちた」松本健の手のなかにある堤を見おろして私は言った。
「えっ?」
「全部落ちた」
「えっ」
松本健は私と紙包みのあいだであわただしく視線を動かし、
「卒業祝い!」と素っ頓狂な大声で言った。
「卒業祝い、って言おうと思ってたんだった」
耳が赤くなっている。
「落第決定。留年すんの」すこし愉快な気持ちになって
私はそう言ってみた。
「えっ」松本健は絶句する。
髪のあいだからのぞく耳はさらに赤くなる。
「ごめん、嘘」ふきだしてしまう。
なんだか松本健が救世主に思えた。

文学賞にまつわるはなしもおもしろい。
受賞をめぐる作家の心理や関係者のうごきなど、
この世界に身をおく角田さんには
どうにでも料理できるなれしたしんだ世界なのだろう。

「このような小説が受賞作品となるのは大変残念なことだ。
目新しさがなく、魅力にも乏しい。
『私』から見える、安っぽく奥行きのない世界を
だらだらと書いてあるだけ。
私の目線をたどりその狭苦しい世界を描き出すことを私小説だと
勘違いしているのではないか。
私にはただただ退屈な、小学生の作文である。
あるいはそれ以下である」

いかにもありそうな批評であるとともに、
角田さんがおもしろがって
わるぐちをつらねたようでもあるし、
谷島家のいとなみそのものともいえる。
そして、家族とは、生活とは、
ほんらいそういう「安っぽく奥行きのない世界」を
だらだらとつづけることかもしれない。

もっともらしいことはいくらでもいえそうな本だけど、
「あーおもしろかった」でじゅうぶだともいえる。
角田さんがつくりだすものがたりの魅力が
とてもよくあらわれている作品だ。
表紙には、縁側のベンチにすわり、
空をながめている理々子がえがかれている。
作品の世界をかんじさせるすてきな表紙だ。
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posted by カルピス at 11:16 | Comment(0) | TrackBack(0) | 角田光代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月23日

鈴木万由香さんの本気DJがいいかんじ

毎週水曜日の午後4時からはじまる
『ミュージックプラザ』(東京FM)をたのしみにしている。
司会の鈴木万由香(まゆこ)さんがいい。
視聴者からのおたよりをよみ、
自分の感想をのべる。
あたりさわりのないことではなく、
自分がかんじたことを
自分のことばではなしてくれる。

きょうの放送では、
彼のひとりごとが気になるという
「わたしの彼はメキシコ人」さんからのお手紙が紹介された。
「彼」はスペイン語でよくひとりごとをいうそうで、
なにをいっているのかあとで辞書でしらべてみると、
女性蔑視のスラングだったという。
この女性は、「彼」との関係を
これからどうしていけばいいのかなやんでいる。

・彼がひとりごとをいう
・もっとわたしはさぐりをいれたほうがいいだろうか

という手紙の内容から
ふたりはおたがにむきあってないんじゃないか、
と鈴木さんは指摘している。
いわれてみればそのとおりだけど、
でも、そっちの方向でかんがえなければ
延々となやみがこんがらがっていきそうだったので、
鈴木さんのコメントは的をいていた。

ラジオ(もちろんテレビもだ)の司会者で、
自分のかんがえをちゃんといえるひと、
はなそうとしているひとが、どれだけいるだろう。
いえばいいというものではなく、
「いいかんじ」でさらっとつたえなければならない。
鈴木さんの回答は、ときには
むつかしくかんがえなくていいんじゃないか、だったり、
それはもうひとそれぞれですよ、
と質問者を安心させたりと、
いつも現実的で、効果がありそうなアドバイスだ。

番組のはじめには、季節の話題や
この一週間に自分が体験したことを
簡単に紹介してからリクエストにうつる。
そのわずかなはなしから
彼女のひとがらがつたわってくるのだ。
「いいかんじ」をうけるかどうかは
このみの問題なので、
きくひとをえらぶ面があるかもしれない。
状況のゆるすかぎり本気でかたろうとする彼女のスタイルを
わたしはここちよくかんじ、あつく支持する。

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2013年05月22日

わたしの宝物『未来少年コナン』の特集本について

『未来少年コナン』の特集本をわたしはもっている。
まっくろな表紙で(通称「黒本」というらしい)、
タイトルに「未来少年コナン」とかかれているだけだ。
表紙全体に、宮崎さんの絵コンテによる登場人物やメカが
しろい線でうかびあがっている。
1979年12月1日に初版第1刷発行、
1980年4月15日に第2刷が発行されたもので、
発行はアニドウ(FILM1/24編集室)となっている。
裏側には、かった当時の3800円という値札がはってある。
A4版328ページのぶあつい本だ。
コナンのテレビ放送にうちのめされ、
コナンについてならなんでもしりたいとおもっていたわたしが、
たまたま本屋で手にとったのがこの特集だ。
なんというありがたいであいだったろう。
わたしはこの本によって宮崎駿をしったのだ。
185.jpg
内容は、宮崎さんをはじめとするスタッフへのインタビューであり、

演出  :宮崎駿
作画監督:大塚康生
プロデューサー:中島順三
原画:森やすじ・河内日出男・篠原征子・富沢信雄・村田耕一・才田俊次
   友永和秀・山内昇寿郎・大島秀範・北島信行
美術 :山本二三
色指定:保田道世
音楽 :池辺晋一郎
声優 :小原乃梨子・吉田理保子・山内雅人・家弓家正・信沢三恵子
    青木和代・永井一郎

という方々へのインタビューがおさめられている。
人気にとびついたメディアが
適当にこしらえた「特集」などではなく、
どうにかしてコナンと宮崎さんのすごさを
世の中にしらしめたい、というスタッフのおもいがみちている。
なかでも32ページにわたる宮崎さんへのインタビューが圧巻だ。
質問する側のスタッフは、宮崎さんとコナンにたいしての
おもいいれがつよく、
宮崎さんのかんがえ方をうまくひきだしている。

発行人の富沢洋子さん(当時)は、
このコナン特集についてつぎのようにふりかえっている。

 『コナン』の特集をやろうというのは
NHKで第1話の試写を見た時から漠然とありましたが、
設定を見、絵コンテを読み、レイアウトを見、
原画とその修正 画や参考ラフを見、動画を描き、
TV放送が回を重ねるうちに、それは確信になっていました。
全てのものからあふれてくる宮崎さんの熱い思いに触れると同時 に、
今までずっと好きだった『ホルス』や
『長靴をはいた猫』や『どうぶつ宝島』、
面白さに夢中になって見た『[旧]ルパン』や『赤胴鈴之助』、
その世界そ のものに憧れた『パンダコパンダ』と『雨ふりサーカス』、
場面設計やレイアウトの見事さに驚嘆した
『ハイジ』『三千里』『赤毛のアン』等々で
小出しにされ ていた宮崎駿という才能の点と線が、
『コナン』によってひとつに繋がったのです。

わたしもまたここにあげられた作品がだいすきだった。
『長靴をはいた猫』『ルパン三世(旧)』『アルプスの少女ハイジ』の
どこがわたしをとらえるのだろう。
これらの作品のすべてに、
宮崎さんは中心的な存在としてかかわっているのをしったのは
ずっとあとになってからだ。
そして、宮崎さんがはじめて監督をつとめられたコナンをみて、
疑問は確信となった。
わたしは宮崎さんの演出にこころをうごかされてきたのだ。
黒本『未来少年コナン』のなかで宮崎さんは

「誰もが、やさいい心になれて、
この人のために一生懸命になってあげたいな、
という人に出会いたいと願っているんじゃないかなぁ。
チャップリンの映画は全編それですね」

「(チャップリンの映画は)憧れの女性が現れたら
その女に尽くす事によって
自分が高められるというあの人の願望の表れで、
それが映画全部を貫いてるんですよ。
あの映画は女の子に対するひたすらな
憧れと優しさを描いているとおもうんです」

とはなしておられる。
わたしがコナンにひかれるのは、
どうやらチャップリンとおなじ気もちが関係しているみたいだ。

この本にうつっている宮崎さんは
まだ40歳にもなっておらず、
髪はくろく、ひげものばしていない。
青年ともいっていいこの人物が、
それからどんな作品をつくっていったか。
コナンは、いくつかあるおおきな節目のうちのひとつだ。

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2013年05月21日

リハビリ水泳のたのしさ。サビつかせない努力は無駄だ

8月におこなわれるスイムランにむけて
水泳の練習をはじめる。
できれば年間をつうじておよいでおきたいところだけど、
冬にはどうしてもプールから足がとおざかる。
今回も、半年ぶりの水泳になってしまった。

これくらいあいだがあくと、
筋肉がおよぎをわすれてしまい、
ながくつづけておよげなくなっている。
およぎだしはあんがいなんとかなったので
そのままずっとおよげるかと期待したら
そうはうまくいかない。100メートルでとまる。
競泳でいえば「うかんでいる」状態で、
ぜんぜん水にのってないけど、でもすごくたのしい。

しばらくしてから、これはリハビリなのだと気づいた。
はやくおよいだり、きれいなフオームをめざしたりするちからが
いまのわたしにはない。
ないことでかえって気らくに練習にむかえることがある。
つねに上をめざしたり、タイムを気にするのではなく、
ただおよぐだけでもう満足な状態だ。
10から11にするのはたいへんだけど、
0から1にするにたいしたちからは必要ない。
練習はつみかさねなので、わずかなとりくみをつづけることで
すこしずつうまくなっていく。
スタートしたばかりのときは、進歩がすぐにみえるので、
わずかなエネルギーでおおきな変化を実感できる。
そして、すでに体験ずみの道すじなので、
これからどうなるかに不安がない。
もともとのレベルがたいしたことないので、
何回かプールにかよえばすぐにカンをとりもどせるはずだ。

まじめに練習するにはひとりで1コースを占領したくなるけど、
リハビリなので、ひとがなんにんいてもOKだ。
プールがすいていそうな時間帯をねらう必要がない
(というときにかぎって利用者がすくなかった)。
休憩をふくめて45分ほど水につかっていたら
もうそれでじゅうぶんという気になった。

梅棹忠夫さんが外国語の勉強について、
「つかわないのにサビつかせないようしようとすると
たいへんだ。必要になったときに
サビをおとせばいい。なんどでもサビつかせたらいい」
とはなしておられた。
いちど身につけた能力を、
必要でないのにたとうとするのは無駄なことだ。
サビはすぐにおちる。
安心してほかのあそびにエネルギーをそそげばいい。

posted by カルピス at 09:46 | Comment(0) | TrackBack(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月20日

ブックスキャンに登録し、25冊分を依頼する

ブックスキャンに会員登録し、25冊分を依頼した。
これは、もっている本の自炊をかわりにやってくれるサービスで、
1冊あたり100円(350ページをこえると、200ページごとにさらに100円)で
電子書籍末端でよめるようにデジタルデーター化してくれるというものだ。
ネットでみると、自炊業者はいくつもあり、値段もさまざまだ。
そのなかから信頼できそうなブックスキャンをえらんだ。

キンドルペーパーホワイトをいかすには、
電子書籍をかえばいいわけだけど、
再読したい本の電子書籍化もまえからやってみたかった。
ある程度ながい旅行をするときに、
なんどでもよめる本があるのはとてもこころづよい。
わたしの場合には、村上春樹の本を
キンドルでよめるようにしておけば
かなりの期間でも安心だ。

今回25冊分にしたのは、代行スキャンのながれと、
どんなかたちにしあがってくるかをしりたかったからだ。
ブックスキャンには「チューニングラボ」というサービスがあり、
どんな末端(機種)でもよみやすいかたちに最適化してくれるという。
わたしがもっているふるい文庫本が、
ほんとうによみやすい形でとどけられるかを
まず25冊でためしてみる。
紙の本になれたわたしとしては、
デジタル化され物理的な形がなくなることにまだ抵抗があり、
どうしても用心ぶかくなってしまう。
期待どおりのできならこれからも依頼していくつもりだ。
依頼したうちわけは、
村上春樹13冊、ミステリー4冊、その他7冊にした。
ブックスキャンには2ヶ月かかるというのが
すこしもどかしいところで、
ある程度計画的に「蔵書」を電子化していくことになる。

ブックスキャンのコンセプトは
「『蔵書の電子書籍化+廃棄処分する』お手伝い」であり、
自炊ということばはつかわれていない。
自炊は著作権について法的な問題をかかえているようで、
ブックスキャンでも電子書籍化した本は廃棄処分することを強調している。
5月17日の『web本の雑誌』には
ブックスキャンが「日本蔵書電子化事業所協会」を設立したことが
とりあげられていた。
これからも自炊をつづけられるように業界ルールをさだめ、
合法的なしくみをととのえようとするのだろう。

ある程度まとまった数になると、自分で蔵書をスキャンするのは大変なので、
どうしても代行業者にたのみたくなってくる。
1冊100円でやってくれるのなら
おねがいしたいひとはおおいだろう。
わたしがもっている本でも、
ふるいものは活字がちいさかったり、
黄ばんだりしてよみにくくなったものがおおい。
これらの本がブックスキャンですくわれるなら、
旅行でも入院でも棺桶でも、
キンドルペーパーホワイトさえあればどこへでもいけるようになる。

posted by カルピス at 09:50 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月19日

カニグズバーグさんの死をいたむ

ピピのスタッフから、カニグズバーグさんがなくなったことをしらされる。
カニグズバーグさんは、わたしがいちばん「お世話」になった児童文学作家だ。
清水真砂子さんの本に紹介されていたのをきっかけに、
カニグズバーグさんの作品をよむようになった。

カニグズバーグさんは
すぐれた児童文学作品におくられる
ニューベリー賞を2回受賞している。
1回目は1968年に『クローディアの秘密』で、
2回目は1997年に『ティーパーティーの謎』で。
1回目の受賞では、
おなじ作者の本(『クローディアの秘密』と『魔女ジェニファとわたし』)が
受賞をあらそっためずらしい事件として有名だという。

清水真砂子さんのようなふかいよみかたができなくても、
カニグズバーグさんの本は独特な魅力があって、
なんどかよみかえすことになる。
わたしがすきなのは『800番への旅』と『ドラゴンをさがせ』。
『800番への旅』は翻訳についてあまり評判がよくなく、
2005年に改訳版がでている。
でも、指摘されなければわたしはぜんぜん気にならなかった。
訳のよしあしが作品にあたえる影響はもちろんおおきいだろうが、
それがすぐれた作品であれば、決定的に魅力をそこなうわけではないという
例かもしれない。
ラクダをつれて旅をするお父さんに
しばらくのあいだあずけられることになった少年が、
はじめは父親をうっとおしくおもいながら、
だんだんとだいじなことはなにかに気づいていく。
こうかくとすごくベタだけど、
旅先でであう父親の仲間がまたすばらしく、
仕事と生活との関係は、なんてかんがえたくなってくる。

すてきな大人がでてくるのもカニグズバーグさんの本の特徴で、
わたしがとくに気にいっているひとは
『Tバック戦争』にでてくるバーナーデットだ。
自分のところにあずけられたクロエという少女にたいし、
うわべだけの親切なうけいれはしない。
いっけんつきはなすような態度をとりながら、
生活することの大変さやたのしさを
自分の仕事をつうじてつたえていく。
つたえよう、とバーナーデットが親切におもうわけではない。
クロエのほうにそれをくみとるちからがあれば、
バーナーデットの生き方がクロエに影響をあたえる。
親がはたすことのできない役割をになってくれる、
こんな大人がまわりにいれば、
子どもたちはずいぶんすくわれるだろう。

むすこがちいさかったころのよみきかせで、
『クローディアの秘密』をよんだことがある。
クローディアと弟のジェイミーが、
メトロポリタン博物館へ家出するはなしだ。
はじめて「家出」という冒険をしったむすこは、
そのあとしばらく家出に関心をしめし、
学校の先生にも家出がしたいとはなしていたそうだ。
わたしもまたいっしょに家出をする相棒としてさそわれたから、
むすこのかんがえる家出はなんだったのだろう。

清水真砂子さんは、実用書として
カニグズバーグさんの作品を評価しておられる。
生きるすべとして役にたつ、というよみかただ。
たしかに、わたしにはカニグズバーグさんの本によって、
いくらか楽に生きられるようになった。
ふだんの生活のなにげない場面で
カニグズバーグさんの作品をおもいだす。
料理をしていて、あれもこれもとあわたたしくうごいてしまうときには、
いちどにひとつのことしかしない家政婦さんのおちつきを(『13歳の沈黙』)、
いやな相手にしかえしをするときには
『魔女ジェニファとわたし』にでてくるささやかないじわるをおもいうかべ、
自分のいたらなさを肯定させてもらう。
こざかしい知識をひけらかしたくなると、
『800番への旅』にでてくる少年をおもいだして
自分をいましめる。
こうしたほんのちょっとした生き方のコツを
カニグズバーグさんの本はおしえてくれた。

posted by カルピス at 12:14 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月18日

原作のほうをつよくすすめる『探偵はBARにいる』

テレビでやっていた『探偵はBARにいる』(2011年・橋本一監督)をみる。
いや、みはじめたのだが、あまりにもつまらないので、
15分ほどでやめてしまった。
大泉洋が「俺」で松田龍平が高田という配役で、
ふたりともわたしが原作からイメージしていた人物と
かけはなれている。
最後までみていないので、作品全体の感想はかけないし、
基本的にブログには肯定的なかんがえをのせたいとおもっている。
しかし、とてもおわりまでみつづける気にはなれなかったし、
これからもまずなさそうなので、
映画化された作品をくさすのではなく、
原作のよさをかいてみたい。

原作者の東直己氏は、
「ススキノ探偵シリーズ」である『半端者』のあとがきに
映画作品の『探偵はBARにいる』をみたことがきっかけで
この作品をかいた、とあかしている。
映画をみた影響で、シリーズのスタート地点となる
「俺」の学生時代をかきたくなるというのは、
キャラクターのひととなりを、
はっきりおさえておきたかったのだろうか。
『半端者』にでてくる「俺」は、
わかさゆえのおろかさをもちつつも、
大泉洋がえんじる「俺」のおもかげはまったくない
(もちろん『探偵はBARにいる』のなかにもないけど)。

このあとがきのなかで東氏は、
映画『ロング・グッドバイ』を例にあげ、
原作と映画についてかたっている。
東氏のかんがえを整理してみると、

・映画『探偵はBARにいる』のできについてひとこともかいていない
・「小説と映画は全く別のもの」とかんがえる
・映画の『ロング・グッドバイ』はマーロウファンに評判がわるいが、
 しかし傑作である。
・おなじチャンドラーの作品である『さらば愛しき女よ』は
 「時代背景を丁寧に描き、プロットもほぼ原作通りであっても、
 映画としては『ロング・グッドバイ』に遠く及ばない」
・「ミステリを原作にして作られた映画には、
 傑作は意外に少ない。
 (『ロング・グッドバイ』は「原作と拮抗するか
  場合によっては原作を乗り越えている」稀な作品である)

こうしてチャンドラーの作品を例にあげることにより、
直接の評価はさしひかえながら、
そしてミステリの映画化はむつかしいとみとめながら、
『探偵はBARにいる』についての
残念なおもいがにじみでている。
原作者としては「小説と映画は全く別のもの」
というほかにないのだろう。
原作のファンのわたしにとっては、
旧作のルパンと新ルパンくらい、そのちがいはおおきい。

「ススキノ探偵シリーズ」は、
ハードボイルド特有のへらず口
(ワイズクラックというのだそうだ)に特徴がある。
日本人がやると、自然な会話になりにくいのかもしれない。
あたりはずれがなく、どの本も
気のきいたセリフがあちこちにちりばめられていて、
小市民のわたしがハードボイルドの世界にここちよくひたれる。

仲間でないひとにせっするとき、
「俺」はすごくていねいにはなす。
のみ屋のマスターやタクシーの運転手にたいして、
「○○をおねがいします」
というのが基本的な「俺」の態度だ。
これは『半端者』のころから『旧友は春に帰る』まで
かわることがない。
「俺」が世間とのあいだにとる距離感であり、
主人公のひととなりをかたるときに
重要な要素となっている。

映画作品のほうは『探偵はBARにいる2』が公開されているから
1作目はわるくない興行成績だったのだろう。
この作品については、原作をよまないことが、
映画作品をたのしむコツなのかもしれない。
映画がおもしろいとおもったひとには、
ぜひ原作のほうもよんでいただきたい。

posted by カルピス at 16:53 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月17日

『ル・アーヴルの靴みがき』凛として生きるル・アーヴルの人々

『ル・アーヴルの靴みがき』(2011年フランス・アキ=カウリスマキ監督)

いい映画だった。
ただしずかに生きているようにみえる靴みがきのマルセル。
貧乏でも、人生をあきらめたりぐちったりはしない。
ホームレスあつかいをされ、
靴みがきの仕事をさげすまされても、
ちゃんとはたらいてくらしていることをほこりにおもっている。
自分が靴みがきをつづけていることについて、

「靴みがきと羊かいが、人々に最も近い職業であり、
主の山上の垂訓に従えるのは我々だけだ」

とマルセルが妻のアルレッティにかたる。
このことばにすがって生きているのか。
それとも、ほんとうにそうしんじているのか。

靴みがきで日銭をかせいでいるマルセルが、
不法入国してきた少年イドリッサを当然のようにうけいれる。
マルセルの友だちたちも、
マルセルをしんじているからマルセルのたのみを
すこしのためらいもなくききいれる。
そのひぐらしで、お金がないのに
マルセルは少年の世話をやき、
とおくの町に、彼の家族の居場所をたずねる。
妻のアルレッティは体調をくずし入院する。
マルセルはアルレッティがいないとどうにもならないのに、
おちこんだところはみせず、
それまでどおりのくらしをつづける。
マルセルは、かんたんにはひとをたよらない。
ほんとうにこまったときは、だれもがマルセルに協力する。

印象にのこるのは、アルレッティが用意した夕食を
マルセルがひとりでたべる場面だ。
アルレッティはからだが食事をうけつけなくなっている。
夕食はいかにも質素で、
マルセルはパンでお皿をきれいにぬぐい、
メインディッシュをおわらせる。
食事のおわりには、ちいさなチーズのかけら(とパン)がでてくる。
とくに会話がはずむわけではない。
はたらいたお金で妻をやしない、
食事をとることのできる生活を
マルセルは大切におもっている。
まっとうな食事とは、メインディッシュがあり、
最後にはチーズをたべるものなのだという
ささやかなきまりごとをまもるところに
マルセルとアルレッティの人生観がみえる。

マルセルは、ただ状況をうけいれるだけのひとではない。
役人にむかって自分はイドリッサの祖父の弟だといい、
「ご冗談でしょ」(黒人のイドリッサのおじが
白人のマルセルということはありえないので)
と相手にされないと
「わたしがアルビノなんです」なんて
めちゃくちゃなでまかせもいってしまう。
自分はジャーナリストで、人種差別をするなら、と役人をおどし、
どんなことをしてでもイドリッサをたすけようとする。
映画はマルセルとその友人たちの生活を淡々とえがきながら、
時間はどんどんすぎていく。
マルセルは、イドリッサをロンドンまでの船にのせることができるか。
病気のアルレッティはどうなってしまうのか。

凛として生きるとは、
この作品にでてきたようなひとたちをいうのだろう。
マルセルもアルレッティも、
パン屋のおかみさんも、バーの女主人も、
雑貨屋の主人も、密航してきた少年イドリッサも
ベトナムからきたチャングも、モネ警部も、みんなよかった。
もちろん犬のライカも。
こんなひとたちのなかでくらしたいとおおもう。
img_04.png
これくらいハッピーエンドをねがった作品はない。
さいわい、きれいに「予想」をうらぎられ、
最高のラストとなった。
みおわってしばらくいい気分にひたる。
おとぎばなし、ということばをひさしぶりにおもいだした。

カルバドスで乾杯したくなった。
ル・アーヴルの港町をおもいださせてくれるだろうか。

posted by カルピス at 09:23 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月16日

英語をつかわないスピッツの曲づくりを評価する

スピッツの『チェリー』をきいていて、
ふと、この曲はカタカナをつかってないことに気づいた。
歌詞をしらべてみると、「ズル」ということばはあるが、
これはなんらかの意図によりカタカナにしたわけで、
とくにいじらなければ「ずる」でよかったところだ。
もっているベストアルバムについて、ほかの曲もみてみると、

・君が思い出になる前に 0
・空も飛べるはず (ナイフ・ゴミ)
・青い車 (シャツ)
・スパイダー (ピアノ・スパイダー・ブラウス)
・ロビンソン (レコード・エピソード・ルララ)
・涙がキラリ (コウモリ・カギ・キラリ・バレないように)
・チェリー (ズル)
・渚 プライド (ギリギリ)
・スカーレット (コーヒー)
・夢じゃない (リズム・ブランコ)
・運命の人 (バス・コンビニ・アイニージュー・ユートピア)
・冷たい頬 (シャワー・シロツメクサ・ストーリー)
・楓 (トゲ・タマシイ・ガラス)

というように、ほんのわずかしかカタカナがみられない。
そして、それらのほとんどは
日本語といっていい言葉だ(「ナイフ」「シャツ」等)。
『ロビンソン』の「ルララ」はスピッツ語であり
とくに外国語ではない。
さきほどあげた「ズル」のように、
日本語をあえてカタカナであらわすことがときどきある
(「カギ」「タマシイ」)。
『君が思い出になる前に』は、
カタカナさえ歌詞にみあたらないからみごとなものだ。
まえにのべたように、『チェリー』は「ズル」だけだ
(じゃあ「チェリー」とはなにか、なんてつっこまないように)。

まちがいない。スピッツは確信犯として、
外国語をつかわない方針でうたをつくっている。
唯一の外国語である『運命の人』の「アイニージュー」も、
「I Need You」ではなく「アイニージュー」だから、
なにかふかい意味がかくされているのかもしれない。
「アイニージュー」があまりにも人口に膾炙しているため、
スッピツのメンバーは日本語だとかんちがいしていたと
強弁することもできる。

ふるい曲だけではない。
きょうたまたまラジオのリクエストでかかった
『僕はきっと旅に出る』も、じっくりきいていると
みごとに日本語だけをえらんだ歌詞だった。
日本語だからきいてわかるかというと、
ところどころ理解できない歌詞があるのはご愛嬌だ。
とにかく、外国語をつかわないというスピッツの方針はすばらしく、
わたしはあつく支持することにした。

わたしは、外国語を勉強するのはすきだけど、
英語が世界共通語みたいにあつかわれたり、
歌詞に英語がバラバラとちりばめられた曲をきくと
おだやかでなくなる。
なにがかなしくて、日本語のうたに英語をまぜるのだ。
言語帝国主義に反抗するため、
ローマ字はヘボン式ではなく訓令式をつかうし、
(Yoshida Jun ではなく Yosida Zyun)、
日常会話のなかではできるだけ外来語をつかわない。
スプーンではなくサジで、コーンスープはとうもろこし汁。
ご飯のことをライスなんて絶対にいわない。

歌詞に英語をちりばめる心理が理解できないわたしにとって、
スピッツの曲づくりはとても新鮮だ。

posted by カルピス at 09:17 | Comment(4) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月15日

「正解」さがし対策には「間違う力」

すこしまえの『ほぼ日』にこんなことがのっていた。
なんだか、たくさんの人の、とても多くの時間が、
「正解」を探すことに費やされているように
思えてなりません。
いや、遠慮なく言えば、
「正解」探しばかりで人生終っちゃう人ばかりじゃない?(中略)
レストランでメニューを見ている
‥‥どれを注文するのが正解だろうか?
どう生きたいのか問われてしまった
‥‥どう生きたいのが正解だろうか?
こんなことばっかりのような気がするんです。
「正解」じゃないことを選ぶと、損? 悪? 迷惑?
「正解」病ってのが、いまの時代病のような気がする。
(『今日のダーリン』)

ほんとうに。
なんで「正解」ばかりさがしてしまうのだろう。
いちどきりの人生で、どう自分らしく生きるかが大切だと
だれもがわかっているはずなのに、
やっていることは「正解」さがしだ。

高野秀行さんの『間違う力』にも
おなじようなことがかいてある。
この本の趣旨は「間違ったほうがたのしい」というもので、
わたしはこの本がだいすきなのに、
やっていることは常識的な範囲をこえられない。
「正解」をおいもとめてばかりではつまらないとおもいながら、
自分もまたまちがいなく「正解」がだいすきな側だ。

高野さんの行動パターンを、10ヶ条のなかからいくつか紹介すると
・他人のやらないことは無意味でもやる
・長期スパンで物事を考えない
・過ぎたるは及ばざるよりずっといい
・楽をするためには努力を惜しまない

世の中なんだかんだいってもやったものがちだ。
理屈をいくらこね、論理武装しても
じっさいに行動にうつすひとにはかなわない。
「ちゃんとしてなくてもいい。気軽でもいい。
てきとうでもいい。でも今、はじめる」(高野)

高野さんのかんがえ方の根本にあるのは
「どっちがおもしろいか」であり、
そのことをつきつめてかんがえると、
「まちがったほうがおもしろい」になる。
正体のわからないことに手をだすから、
どうしてもまちがってしまうのだ。
自分がおもしろいとおもったことは、
なんでもやればいいわけであり、
それがただしいか・ただしくないかはまったく関係ない。

ちいさいころからのしつけや教育が
「正解」をもとめることを大切にしているので、
「正解」からの自由はなかなかむつかしそうだ。
高野さんの10ヶ条を座右の銘に、
「間違う力」をやしないたい。

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2013年05月14日

『魅惑のツルスベ』「むだ毛処理 欧州男子の常識」をどうよむか

すこしまえ(5月3日)の朝日新聞に
『魅惑のツルスベ』「むだ毛処理 欧州男子の常識」という記事がのった。
「『なぜ』を訪ねて」というシリーズの企画で、
世界でおきているいろんなできごとを紹介している。
日本の常識が、そのまま世界でも通用するわけではない。
今回は男性のむだ毛をどうとらえるか、だ。

ロンドンオリンピックの男子体操で
金メダルをとった日本の内村選手は、
処理しないままのわき毛がめだったのにたいし、
銀メダルのドイツのグエン選手のわきの下は
ツルツルだったことが、ネット上で話題になっていたという。
玉川記者がグエン選手に取材してみると、
「わきだけじゃなく手も脚も全部そってるよ。
欧州では常識じゃないの」
というこたえだったそうだ。
そして、これはスポーツ選手に特有な現象ではなく、
一般的にも男性のむだ毛処理が、
ヨーロッパでは、とくにわかい世代において
あたりまえにおこなわれつつあることがデーターでしめされている。
ライプチヒ大学の調査によると

「18〜24歳の男性の約35%が
体毛を定期的に手入れすると答えた。
そのうち、わきと局部がいずれも約75%」

ただし、民族による差がおおきく、
わき毛についていえば、むだ毛処理の実施率が
日本では10%、ドイツが62%、インドはなんと85%だ。
インド人は日本人のわき毛をどういう目でみているのだろう。

30年くらいまえにも、日本の男性が胸毛を気にするようになり、
なかには処理するひともでてきたと、雑誌でとりあげられたり、
脱毛クリームが雑誌の広告にのったりした。
その時代には、「そんなことを気にするなんて
男らしくない」と批判的なとらえ方が主流だったようにおもう。
わたしもまた、胸毛を気にするわかい男性を
軟弱なやつらだときめつけ、
自分のむだ毛はまったく気にしないでほっておいた。
それがいまでは
局部をふくむ全身のむだ毛処理が
常識となりつつあるとは。
女性はたいへんだなー、なんて
のどかな感想はもはや通用しない。

わたしはあまり毛ぶかいほうではないのに、
なぜかひょろひょろと胸毛がはえており、
そういわれると「清潔感がある」とはいえない状態におもえてきた。
ショーン=コネリーみたいなゴワゴワの胸毛だと、
それはそれでたくましさをかんじるけど、
わたしみたいなたよりなげな胸毛では
ないほうがかえっていさぎよくおもえる。
男がからだにクリームをぬる、
という行為に抵抗をおぼえるのは、
もはやふるい価値観なのだろう。

わたしはわかいころ競泳をやっており、
大学4年のときにむかえたわりにおおきな大会で、
手足の毛をそってのぞんだことがある
(髪の毛はそらずに帽子をかぶっただけ)。
どうしても1位になりたかったので、
効果がありそうなことはなんでもやってみようとおもったのだ。
水泳において、これはわりと一般的におこなわれていたことで、
水の抵抗をへらすことよりも、
心理的な影響がつよいともいわれていた。
しかし、自分がじっさいに毛をそっておよいでみると、
たしかに「ツルッと」抵抗をなく水のなかをすすんでいる気がする。
そのかいもあってか、わたしはめざしていた競技で1位となり、
タイムも自己ベストを何秒も更新した。

手足の毛をそったことの副産物は、
「毛のはえていないあしはうつくしい」と気づいたことだ。
モモやスネに毛がはえているからゴツゴツしてみえるのであり、
それさえなければ、まるで女性のような
スベスベで形のいいあしがそこにはあった。

この経験からも、ヨーロッパの男性、
そしてそのパートナーである女性が
むだ毛を処理したがる気もちはよく理解できる。
いまや男性の胸毛やすね毛は男らしさの象徴ではなく、
たんなる「むだ」な毛でしかない。
むだ毛を処理する心理は女性化ではなく、中性化ととらえるべきであり、
そうすれば「男のくせに」クリームむやカミソリで
むだ毛を手いれする自分の行為を肯定できる。
むだ毛を処理するのは女性だけにもとめられる義務ではなく、
男女とも、とうぜん気をくばるべきマナーとなりつつあるのかもしれない。

これから水泳のシーズンをむかえるにあたり、
わたしもまた胸毛を処理してプールにでかけるべきべきだろうか。
むだ毛処理はめんどくさいけど、エチケットの問題となれば
「ありのままの姿」を公衆にさらすのは野蛮な態度におもえる。
文化とは、それぞれの民族がもつ価値観の体系だ。
あるべきところに「ない」ととらえるか、
ないはずのところに「ある」とみるか。
プールサイドをよく観察し、
今シーズンをとおしてかんがえてみたい。

posted by カルピス at 10:22 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月13日

『真昼の花』(角田光代) ライフログとしての家計簿

『真昼の花』(角田光代・新潮文庫)

『真昼の花』と『地上8階の海』の2つの作品がおさめられている。
『真昼の花』は、外国を旅するバックパッカーの女性が
両替でだまされお金のほとんどをうしなった、という設定だ。
友人に送金をたのみ、それをまつあいだどうやってしのぐか。
彼女はだんだんと、自分はほんとうに日本にかえりたいのか
わからなくなってくる。
舞台となっている国がどこなのか、意図的にあかされない。
タイのようでもあり、インドでもあるような。
いくつかの国の特徴を、まぜこぜにしたようにおもえる。

『地上8階の海』は、よんでいるうちに
角田光代の作品に独特の
「どこへもいけない」という不気味な世界につかまってしまう。
わかれた男からくる手紙と、
職場におくられてくるチラシ。
それと、義理の姉にたのまれると、
主人公の女性はかいもののリストをもって
ちかくのスーパーへでかける。
この作品に、いろんなかたちででてくるメモが、
主人公の女性をしだいにおちつかなくさせる。

2作とも、印象的な作品であるものの、
これまでよんできた角田さんの本のなかでは
エンタメというよりも文学作品であり、
わたしにはそのよさを的確にあわらせない。
ここでは、作品についてふれるのではなく、
角田光代さんが「あとがき」にかかれた
家計簿のことがおもしろかったので紹介してみる。

あとがきによると、角田さんは何年かまえに「冗談ではすまない」ほど
経済的にこまっていた時期があったそうだ。
このときに角田さんがはじめたのが家計簿で、
なんとかしようとするなら、仕事をふやせばよさそうなものなのに、
と自分につっこみをいれながら、
角田さんはかったものをこまごまと家計簿につけはじめる。
そして、その出入欄のしたにはメモ欄があって、
角田さんはそこにその日の夕食をかきいれたのだそうだ。
どんなメニューを、どこで、だれとたべたのかを、
ひとつひとつ具体的に。

あとでその家計簿をながめてみると、
そのときのようすがことこまかくおもいかえせることに
角田さんはおどろいている。

「それにしても、いろんなことがかわる。
よく飲んでいた友達の顔触れがかわり、
好きな男がかわり、
習慣のようにしていたことがかわり、
得意料理がかわり、
もっとも楽しいと思うことがかわり、
抱いている切実の対象がかわり、
あることがらに向き合う姿勢がかわり、(中略)
おそらく家計簿がなければ、
私はそのことすべて、
かわったことすらも忘れて日々暮らしているのだろう」

お金のではいりとメモがいっしょになると、
すぐれたライフログとしての機能をはたすのだ。
へたな日記(もしくはブログ!)に、
自分のこころのうごきを記録するよりも、
だれとなにをたべたのかをかきとめたようが
記憶にひっかかるのだ。
記憶のツボは、お金のうごきと、なにをたべたかにあった。

わたしもやってみたくなったけど、
こまかなお金のではいりと、その日のメモを記録しつづけるのは
そうとうめんどくさそうだ。
角田さんの家計簿がつづいたのは
仕事をふやして経済状況をたてなおすという、
ほんらいとりくむべき「義務」から
目をそらすことができたからだろう。

記録から角田さんがかんじたもうひとつのことは、

「ものごとがかわり続けていくその真ん中に、
かわったりかわらなかったりしつつも自分がいて、(中略)
時間の流れの中にぽつんといる自分というものが唯一、
私に測量不可能のささやかな永遠であるような気がして、
どことなく安心してしまうのだ」

家計簿によって、おおくのことがかわることにおどろきながら、
かわっても、かわらなくても、
自分が永遠であるという感覚がいかにも角田さんらしい。
作品とまったく関係ないことをかきながら、
じつは作品の根っこにある世界観をおしえてくれるという
めずらしい「あとがき」だった。

posted by カルピス at 10:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | 角田光代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月12日

Jリーグ20周年記念試合 原口元気がみせたゴールへの執念

Jリーグ20周年を記念するアニバーサリーマッチ。
浦和レッズ対鹿島アントラーズの試合が
埼玉スタジアムでおこなわれた。
両チームのサポーターがつめかけ、
スタジアムは赤一色にそまる。

この試合を象徴したのが
原口元気のすばらしいゴールへの執念だ。
ディフェンダーからはげしいチェックをうけながら
ゴールちかくでボールをキープし、
さいごはヨレヨレになって
たおれながらも味方へのパスをとおす。
そのパスをうけた宇賀神がおしくもシュートをはずすと、
原口はピッチに大の字にたおれこみ、
両手でピッチをたたいてくやしがった。
くやしがるだけでなく、宇賀神におこっていた。
どうしても、なにがなんでも、
このひとはボールをゴールにいれたいのだ。
こんなプレーをみせられると、こっちまであつくなってくる。

このプレーに象徴される気迫を、
両チームの選手たちがみせてくれた。
攻守がめまぐるしくかわり、
どちらも決定的なチャンスをなんどもつくる。
かつこと、ゴールをきめることに、
どれだけこだわっているかが、
両チームの選手たちのはげしいプレーからつたわってくる。
記念の試合にふさわしい迫力のある内容となった。

番組は6時からはじまり、
Jリーグがはじまってからの20年をふりかえる。
ジーコがJリーグ20周年について
「サポーターのみなさんに感謝しています。
Jリーグの成功は、みなさんのちからがあってのものです」
とはなしていた。
どんなスポーツでも、ファンの存在が大切なのは当然とはいえ、
Jリーグにおけるサポーターは、
ほんとうの意味でリーグをささえている。
野球はただのファンだけど、
サッカーはサポーターというしかない存在なのだ。
Jリーグの関係者のおおくが(ジーコみたいなスーパースターまでも)、
このことに感謝しているのがすばらしい。

試合の解説は早野宏史さんで、
早野さんもJリーグが20年もの歴史をもてたことを
しみじみとよろこび、
選手・フロント・サポーターがいったいとなって
リーグをささえてきたことがほこらしそうだった。
ゲームではこの日に26歳の誕生日をむかえる
槙野選手に注目されている。
前半はあまり目だたなかった槙野選手が
後半になって攻撃に参加するようになると
「とうとう我慢できなくなってきましたか、槙野くんは」と、
「お祭り男」の槙野選手がみせる
闘志をむきだしにしたプレーがうれしそうだった。
こういうときの早野さんは、ことサッカーに関しては
ご自身もそうとうお祭り男なことがわかる。

試合は3-2と、レッズの逆転勝利でおわった。
ここ3試合で勝利がなかったレッズにとって
大切な勝点3だったし、
Jリーグの20周年記念という意味でも
すばらしい内容の試合だった。

Jリーグタイムでは、レッズから山田暢久選手、
アントラーズから中田浩二選手がゲストによばれていた。
山田暢久選手は20年をレッズとともにすごしている。
この2人にくわえ、小笠原・本山・曽ヶ端といったベテランが
チームとリーグの歴史をつくり、
それを原口元気や柴崎岳といった若手がひきついでいく。
このようにしてJリーグが20年の歴史をきずいてきたことを、
ミーハーファンでしかないわたしも感謝したい。

Jリーグ20周年をおいわいするシリーズは、
Jリーグのこれまでの歴史をふりかえり、
どんなひとたちがリーグをささえてきたか、わたしにおしえてくれた。
日本のサッカーがいまどんな場所にたっているかを確認し、
さらに将来につなげるという意味においてもすぐれた企画だった。

posted by カルピス at 10:15 | Comment(0) | TrackBack(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする