2013年05月13日

『真昼の花』(角田光代) ライフログとしての家計簿

『真昼の花』(角田光代・新潮文庫)

『真昼の花』と『地上8階の海』の2つの作品がおさめられている。
『真昼の花』は、外国を旅するバックパッカーの女性が
両替でだまされお金のほとんどをうしなった、という設定だ。
友人に送金をたのみ、それをまつあいだどうやってしのぐか。
彼女はだんだんと、自分はほんとうに日本にかえりたいのか
わからなくなってくる。
舞台となっている国がどこなのか、意図的にあかされない。
タイのようでもあり、インドでもあるような。
いくつかの国の特徴を、まぜこぜにしたようにおもえる。

『地上8階の海』は、よんでいるうちに
角田光代の作品に独特の
「どこへもいけない」という不気味な世界につかまってしまう。
わかれた男からくる手紙と、
職場におくられてくるチラシ。
それと、義理の姉にたのまれると、
主人公の女性はかいもののリストをもって
ちかくのスーパーへでかける。
この作品に、いろんなかたちででてくるメモが、
主人公の女性をしだいにおちつかなくさせる。

2作とも、印象的な作品であるものの、
これまでよんできた角田さんの本のなかでは
エンタメというよりも文学作品であり、
わたしにはそのよさを的確にあわらせない。
ここでは、作品についてふれるのではなく、
角田光代さんが「あとがき」にかかれた
家計簿のことがおもしろかったので紹介してみる。

あとがきによると、角田さんは何年かまえに「冗談ではすまない」ほど
経済的にこまっていた時期があったそうだ。
このときに角田さんがはじめたのが家計簿で、
なんとかしようとするなら、仕事をふやせばよさそうなものなのに、
と自分につっこみをいれながら、
角田さんはかったものをこまごまと家計簿につけはじめる。
そして、その出入欄のしたにはメモ欄があって、
角田さんはそこにその日の夕食をかきいれたのだそうだ。
どんなメニューを、どこで、だれとたべたのかを、
ひとつひとつ具体的に。

あとでその家計簿をながめてみると、
そのときのようすがことこまかくおもいかえせることに
角田さんはおどろいている。

「それにしても、いろんなことがかわる。
よく飲んでいた友達の顔触れがかわり、
好きな男がかわり、
習慣のようにしていたことがかわり、
得意料理がかわり、
もっとも楽しいと思うことがかわり、
抱いている切実の対象がかわり、
あることがらに向き合う姿勢がかわり、(中略)
おそらく家計簿がなければ、
私はそのことすべて、
かわったことすらも忘れて日々暮らしているのだろう」

お金のではいりとメモがいっしょになると、
すぐれたライフログとしての機能をはたすのだ。
へたな日記(もしくはブログ!)に、
自分のこころのうごきを記録するよりも、
だれとなにをたべたのかをかきとめたようが
記憶にひっかかるのだ。
記憶のツボは、お金のうごきと、なにをたべたかにあった。

わたしもやってみたくなったけど、
こまかなお金のではいりと、その日のメモを記録しつづけるのは
そうとうめんどくさそうだ。
角田さんの家計簿がつづいたのは
仕事をふやして経済状況をたてなおすという、
ほんらいとりくむべき「義務」から
目をそらすことができたからだろう。

記録から角田さんがかんじたもうひとつのことは、

「ものごとがかわり続けていくその真ん中に、
かわったりかわらなかったりしつつも自分がいて、(中略)
時間の流れの中にぽつんといる自分というものが唯一、
私に測量不可能のささやかな永遠であるような気がして、
どことなく安心してしまうのだ」

家計簿によって、おおくのことがかわることにおどろきながら、
かわっても、かわらなくても、
自分が永遠であるという感覚がいかにも角田さんらしい。
作品とまったく関係ないことをかきながら、
じつは作品の根っこにある世界観をおしえてくれるという
めずらしい「あとがき」だった。

posted by カルピス at 10:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | 角田光代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする