2013年06月30日

『レイヤー化する世界』(佐々木俊尚)これからのシステムで生きのびるには

『レイヤー化する世界』(佐々木俊尚・NHK出版新書)

世界はいまあたらしいシステムの時代にはいろうとしている。
中世はローマ帝国やイスラム帝国といった、
帝国の時代だった。
やがてヨーロッパの国々がちからをつけ、
民主主義が世界システムとなる。
しかし、民主主義は人類のしくみの到達点ではない。

「ヨーロッパという特殊な地域で起きた特殊なシステムが、
ちょっとした偶然で世界に普及してしまっただけのことです。
世界中の人たちにとっての
最善で最高のシステムというわけではないのです」

そして、いまきずかれつつあるシステムは、
コンピューターとインターネットによるものだ。
本書は、これからやってくる世界について、
「場」と「レイヤー」という概念をもちこんで
とてもわかりやすく説明されている。

パソコンとインターネットというテクノロジーは
ひとつの「場」のようなものをつくる。
「場」はまず音楽業界をのみこみ、
書籍や映像へとひろがっている。
自動車もガソリンエンジンからモーターへとかわり、
ソフトウェアによるコントロールになると、
車づくりはおおきくかわっていくといわれている。
政府や自治体も「場」へ移行していく。
「場」に境目はなく、どこまでもつづくひとつの世界だ。

「いまや、国民国家のなかで全員が同じ好みを共有するという文化が
ほとんどなくなってきています。(中略)
だれもが読む本、だれもが観るテレビ番組なんて
もはや存在しません。
そうなると、自分が本当に好きなものをつくって、
それを少しの人たちに買ってもらえばいいいと考える人たちも現れてきます。
数百万人に売るのではなく、数千人、数百人に
売れればいいということなのです」

国ごとの市場はなくなり、国際市場がひとつあるだけ、
という構造になりつつある。
労働力のやすいところでものがつくられ
仕事がうけおわれていく。
日本のテレビメーカーの不振はそのひとつのあわわれだ。
いまやテレビだけでなく、おおくの製品のつくり方がかわってしまった。

「部品は世界中のメーカーがつくり、
組み立ても世界中のあちこちで行なわれています」

それがすすんでいくと、おなじ仕事については
やがては世界中の国々がおなじ給料となる。
そして、そのさきはロボット化だ。
かいもの市場はオンラインショッピングが成長し、
だれもがインターネットでかいものをすませるようになる。
これからアマゾンの倉庫で必要とされるのは、
ベルトコンベアーをながれてきた商品をつかみ、
べつの箱にいれる、という単純作業をするロボットだ。
そのロボットさえあれば倉庫ではたらく人間は
ますますすくなくなる。

そうしたときに、「ロボットが普及すれば人間は知的労働を」
というのは幻想なのだそうだ。

「ロボットにできないような知的な仕事のできる人は限られて」おり、
「たいていの人にはそんな知的な仕事はできず、
ロボットの普及で仕事を奪われて終わるだけ、
というのが冷酷な未来像」という。

「巨大工場が衰退して『場』が台頭してくると、
巨大工場で働いていた人たちの多くは
行き場がなくなってしまいます。
『場』を運営するのには、
ほんのわずかなの人間しか必要ないからです。
その汰のすべての人びとは、『場』を運営するのではなく、
いずれは『場』に参加する側に回るしかありません(中略)

まったくお先まっくらにみえる世界だけど、
そんな世界は、これまでの強者と弱者が逆転する世界でもある。
著者は「レイヤー」という、いくつもの層をかさねあわせたもの
という概念をもちこみ、
「場」の時代で生きのびていく2つの戦略をあげている。

・それぞれのレイヤーごとに他者とつながり、
 そのさまざまなつながりの総体として自分をつくりあげていく
・「場」による収奪を承知のうえで、「場」のテクノロジーを利用していく

本のさいごに
「非正規雇用の中年女性」
「ネット中毒のひきこもり」
「地方の工場で働く若者」
という3人を例にあげ、
さまざまなレイヤーで世界とつながる生き方が紹介されている。
レイヤー化された世界は、

「形のはっきりしない大きなネットワークのようなものです。
だれも覇権を奪えないけれど、
だれもが覇権に参加している。
そういうアメーバみたいな姿が、世界の未来なのです」

レイヤーでさまざまなつながりをもちながら、
自分なりにすきなことをやればいいようだ。
「場」による世界をくらい未来とみても、
もはやあともどりするわけではない。
「場」のなかでレイヤーをいかしながら
自分にたのしい環境をつくっていくしかない。

(おしまいに)
本書はとてもおもしろくよめたけれど、
梅棹忠夫さんファンのわたしからすれば、
帝国の時代やその衰退についてふれるとき、
梅棹さんの学説をまったくとりあげない姿勢は
リスペクトの精神にかけるとおもう。
参考文献のリストにも梅棹さんの著作はあげられていない。

また、著者は「ひとつの民族がつくったひとつの国」として、
帝国以後の国々をとらえている。
しかし、ひとつの民族による国などほとんどないからこそ、
世界中でいつまでたっても民族問題がなくならないのではないか。
中国にしてもソ連にしても、ヨーロッパの国々にしても、
おなじ国に複数の民族をかかえている。
それをあえて「ひとつの民族がつくったひとつの国」と
きりすててとらえることに抵抗をかんじた。

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2013年06月29日

『THE SCRAP』(村上春樹)「『鳥』なんかただの鳥の集会」というとらえ方がおかしい

『THE SCRAP 懐かしの1980年代』(村上春樹・文藝春秋)

スポーツをあつかう雑誌『スポーツ・グラフィック・ナンバー』誌に
1982年から1986年にかけて連載されたエッセイだ。
『ナンバー』誌から村上春樹さんのところに
アメリカの雑誌・新聞がおくられてきて、
その記事のなかから村上春樹さんが
おもしろいとおもったものをスクラップして原稿にまとめる、
というやり方ですすめられている。

おもしろかったのは映画作品『クージョ』について。
『ピープル』誌による批評が、

「この映画に比べれば、『鳥』なんかただの鳥の集会だし、
『ジョーズ』だってはた迷惑な魚の話にすぎない」

というからすごいもちあげかただ。
よんでいてついわらってしまったけど、
「『鳥』なんかただの鳥の集会」、といってしまえば、
たいていのものはありきたりの低俗作品としてカタがつく。
「『ジョーズ』にくらべれば『クージョ』なんて
病気の犬のはなしにすぎない」なんて。

このとらえかたをいかせるのは、
冷静さをとりもどしたいときだろう。
ついのぼせて悪徳商法なんかにひっかかりそうなときは、
深呼吸して「『ジョーズ』なんてはた迷惑な魚の話にすぎない」
ととなえれば、気もちをおちつかせる効果がありそうだ。
反対に、自分のことをこういうふうにポジティブなみかたをするのは、
たとえば仕事にむかうときなどは、絶対にやめたほうがいい。
かんちがいしなければ、やっていけないときがたしかにある。

村上さんは『クージョ』の原作について
「部分的には面白いのだけれど、
いかんせん長すぎて途中でだれてしまうところがあって、
キング・ファンの僕としてもちょっとしんどい」
と紹介している。
わたしにとっての『クージョ』は、
たしかはじめてのスティーブン=キングであり、
どんどんたたみかけてくるリアルな恐怖におどろいたものだ。
とても「病気の犬のはなし」なんていえないこわい世界だった。

『"THE SCRAP"』には「おまけ」として
ロスオリンピック期間中、村上さんがどう東京ですごしたか、
というエッセイと、
東京ディズニーランド見学についてのはなしがついている。
30年もまえの記事なので、村上春樹さんもさすがにわかい。

陸上トラックでゴルフの練習をはじめるおじさんとケンカしたり、
「I ♡原宿」と「好きです、北海道」のどちらが不快か、
とかんがえてみたり。
東京ディズニーランドについては意外にも好意的で、
「だいじょうぶです。面白いから」と紹介している。

「早寝早起きというせいもあって、
夜のデートはあまり好きではない。
九時ごろになるとついうとうとしてしまったりする。
うとうとついでに・・・・なんてことはあまりない」

なんて記述もある。
まだそれほど名前がうれてなくて
(『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』
をかきあげた、というはなしがのっている)、
のんびりと東京でくらしている30代のハルキ青年は
けっこうたのしくやってたみたいだ。

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2013年06月28日

髪の毛がぬけないようにおよいでください

もう20年くらいまえに、
小学校のプールが夏やすみには一般にも開放されていたので
友だちとおよぎにでかけた。
でも、プールは帽子をかぶることがきまりになっていて、
あいにくわたしはそのとき帽子をもってなかった。
けっこうとおいところからそのプールにきたので、
できればなんとかおよがせてもらいたいところだ。

そうしたら、「んー」とプール監視の先生(男性)はすこしかんがえ、
「髪の毛がぬけないように注意しておよいでください」といって
帽子なしでプールにはいるのをゆるしてくれた。

もちろん髪の毛がぬけないように注意しながらおよげるわけがない。
でも、何本ぬけたかもまたはっきりはわかることではない。
「帽子がないとダメです」とはねつけるのではなく、
条件をつけておよぐのをゆるしてくれた
先生の機転をすばらしいとおもった。
「わかりました」とわたしはこたえ、
髪の毛がぬけないように注意しながら
水泳をたのしむことができた。
まだプールでは帽子、というルールが
そんなに徹底していないころのはなしだ。

なんでもこんなふうにゆるやかだったらいいのに、とおもう。
はじまりのころは、たいていこんなふうにルールなんてほとんどなく、
スキマだらけの状態なのに、
つづけているうちに「前例」とか「常識」とかがくっついてきて、
きゅうくつな運用になってくる。
あるべき姿とか、なにが期待できるか、とか、
合理的・論理的にものごとをおっかけていると、
いろんなものがぬけおちて、たのしくなくなっていく。
目にみえる目標の設定や、原因と結果の把握に注目するだけでなく、
なんだかしらないけどこうなっていた、という
「たまたま」や「なりゆき」から生まれおちるものも大切にしたい。
けっきょく「もっとあそびを」ということなのかもしれない。
自由は注意しないと、すぐに不自由になってしまう。

あの先生は、いまもゆるやかな方針でお仕事をされているだろうか。
わたしもできるだけこまかいことはいわず、
「髪の毛がぬけないように」という精神でのぞみたい。

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2013年06月27日

ポロの後釜に初期型フィット

9年間のってきたフォルクスワーゲン・ポロのかわりとして
フィットをえらんだ。
できればポロにずっとのりたかったけど、
車検をとおすにはかなりの修理が必要だといわれた。
とくにフィットがすきだったわけではない。
積極的にのりたい、というより「わるくなさそう」というえらび方だ。
お世話になっている車屋さんが、
白の初期型フィット(2002年)をさがしてきてくれた。

ちょっとのってみただけで、すごく気にいった。
座席はゆったりしているし、荷物置場もひろい。
アクセルのうごきをそのままつたえるはしりは
いかにもホンダのエンジンで、
おもくてしょうがなかったポロとは
まったくちがう加速をたのしめる。
これまでなんでポロにこだわってきたんだろうと、
まったくべつの気もちになるのだから、
わたしのこのみなんて、ほんとにあてにならない。

2002年産というと、フィットのいちばんはじめのデザインだ。
モデルチェンジをするたびにフロントグリルと
うしろのライトの形が、
これみよがしにうるさくなっていくのにくらべ、
初期型はとてもすっきりしている。
これがいいだろう、あれもほしいと、
いろんなものをくっつけていくよりも、
これはいらないんじゃないか、あれもけずろう、という
ひきざんがわたしはすきだ。
フィットのモデルチェンジの歴史には、ひきざんのうつくしさと、
余計なたしざんのみにくさがよくあわれている。

なにがありがたいかといって、
雨もりがしないことと、カギがかかることがうれしい。
この、あたりまえの「機能」がポロにはかけており、
それがどれだけ不自由だったかいまわかった。
ウィンカーが点滅するときの「カッチン・コッチン」という
やすっぽい音にはじめはがっかりしたが、
なれてくると貧乏人のわたしにぴったりな
昭和の音のような気がする。

ポロより30センチながいだけなので、
コンパクトカーとしてのあつかいやすさを
じゅうぶんそなえている。
おしつけがましくないシンプルなデザインと、
どこまでも回転があがりそうなエンジンによるキビキビしたはしり。
ポロだけでなく、これまでのってきた自動車と
運転しているときのたのしさがまったくちがう。
どこにでも気がるにでかけられる自由さを、
このフィットによってはじめて手にすることができた。

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2013年06月26日

W杯で上位にくいこむために必要なこと

コンフェデ杯でのグループリーグ敗退がきまり、
日本代表のサッカーについて
さまざまな意見がネット上にあらわれている。
ザッケローニ監督の解任をもとめるものや、
このままの方向性をつづければいいというものまでさまざまだ。
選手たちもそうとうがっかりきたようで、
すべてにおいてレベルアップが必要だと
なんにんもくちにしている。

よんだなかでいちばん納得できるのは、西部謙司さんの分析である
きれいにまとめられているので
もう結論がでたような気になってしまう。

ブラジルメディアの「感想」もつたえられている。
なかでもいちばん強烈なのは、
スポーツ専門チャンネル「TVフォックス」のものだ。

「現在のレギュラー全員が控えに回るくらいに個の力を上げない限り、
W杯で上位には食い込めないだろう」

Wカップ優勝を公言する日本の選手たちにたいし、
いっけんふつうの意見のようでいて、

あなたたちがいなければ可能かも、

というのだからかなりきびしい。
きびしいけどおかしくもある。
「優勝」をめざしてりきんでいる選手たちは
これをよんだらどうおもうだろう。

ブラジルでのデモが話題になっている。
ブラジルのひとは、けしてサッカーさえしていたらしあわせ、
というわけではないのだ。
これまでの不満がずいぶんたまっていたようで、
来年のW杯までの一年間、いろんなことが表面化しそうだ。
日本はサッカー大国ではないけれど、
治安や公共施設の整備など、客観的にみればすごくととのった国といえる。
ブラジルの辛口なサッカー評論家に、なにかいいかえしてやりたいところだ。

録画しておいたコンフェデ杯のブラジル対メキシコをみる。
まあ、みておくか、ぐらいのつもりだったのに、すごい迫力だ。
コンフェデではこれまでのベストマッチだとおもった。
開始そうそうブラジルが怒濤のせめをみせる。
そしてネイマールのボレーシュートで先制。
しかし、メキシコはその攻撃をうけとめて、
やがて自分たちのパスサッカーを展開しはじめる。
日本はこれができなかった。
メキシコのサッカーは、ほんとうに日本のお手本になるのだろうか。
メキシコはフィジカルもつよく、ブラジルにぜんぜんまけてない。
リズムはずっとメキシコにあった。
もともとメキシコはブラジルと相性がよく、
このところずっとまけておらず、
そこからくる自信がプレーにあわられている。

試合のペースはメキシコがにぎっていたのに、しかし点がはいらない。
ブラジルにじょうずに時間をつかわれたかんじだ。
1-0でよしてして、このまままもりきるのか、とおもっていると、
後半ロスタイムにまたもネイマールのアシストからダメおし点がうまれた。
日本よりも試合はこびがうまかったメキシコの、
さらにそのうえをいくブラジルのつよさが印象的だった。

posted by カルピス at 13:17 | Comment(0) | TrackBack(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月25日

グロープラグみたいな日課の役割

やらなければならない仕事をずっとほったらかしていて、
いよいよ腰をあげなければ間にあわなくなる。
なにがじゃまをして、むかう気になれなかったのかわからない。
机にフォルダーをだしていながらとりかかれなかった。
無意識ながら、なにか理由があるのだろう。

どうやったら腰をあげられるか。
こういうときに、毎日やっている日課があるととりかかりやすい。
わたしの場合は家で床そうじの担当になっているので、
毎日棒ぞうきんをかけ、チリをあつめる。
ネコがいるせいで、冗談みたいにほこりがたまるので、
毎日やらないわけにいかないのだ。

床そうじは、そんなにハードルはたかくないけれど、
ほんとうは、できればやらずにすませたい。
でも、とりくまなければならない仕事にくらべれば、
まだそっちのほうがとりかかりやすいので、
仕事よりもそうじににげる、というかんじでそうじをはじめる。
そのうちに脳がめざめてきて、
なんとなく仕事にむかう気もちになっている。
たかすぎず、ひくすぎずのハードル、というのがミソなのだろう。

車はキーをひねればエンジンがかかる。
しかし、人間のからだはそうかんたんにはうごきだしてくれない。
キーをひねるまえの準備があったほうがうまくいきやすい。
むかしのディーゼルエンジンには、
グロープラグというのがついていた。
このプラグでまえもってピストン内をあたためて、
点火しやすい状態をつくるためだ。
グロープラグをひねったまま何秒かたもち、
そのあとでイグニッションキーをひねるというやり方だった。

人間はつくえにむかったからといって、
とくにひとりの場合は、すぐに仕事にとりかかれるわけではない。
ついだらだらとネットをチェックしたりする。
そんなときに、なにがしかの日課を「儀式」としてすませ、
脳をめざめさせてから本来やるべき仕事にむかうと
意外とスムーズにすすみやすい。
その儀式がグロープラグみたいだとおもった。
日課となっているおなじみの活動をすることで、
脳を仕事仕様にもっていく。

日課をもつことで、スタートをきりやすくなり、
生活にリズムができる。
ピピにくる子どもたちのスケジュールに、
自立課題をとりいれているのは、
「できた」という自信をもってもらうためだけではなく、
こうした活動をもっていたほうが生活しやすいからだ。
毎日おなじことをくりかえす日課は、
たいくつでかっこわるいことではなく、
もういちだんたかいハードルにむかうための
助走としての役割もはたしている。

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2013年06月24日

サッカーの起源

野生のチンパンジーのむれを観察すると、
食料をえるために、べつのグループに攻撃をくわえることがあるという。
あるひとたちは、その攻撃から戦争がなぜおこるのかをかんがえた。
いっぽうべつの学者は、チンパンジーがおたがいにちからをあわせたときに
攻撃が成功したことに注目し、
なぜ人類はおたがいに協力するのかをかんがえた。

このはなしから、
協力しあって相手を攻撃するという遺伝子が、
チンパンジーのころから人類にくみこまれており、
わたしたちがサッカーに熱狂するのは、
この遺伝子と関係があるようにおもった。

サッカーでいちばん興奮するプレーは、
必死にゴールをままろうとする相手にむかい、
なんにんかでパスを交換しながら
スピードにのってゴールにせまり、
ディフェンダーをおきざりにして
シュートをきめる場面だ。
そのときの生理的快感から、
狩猟本能とサッカーとの関係を
わたしはつよくかんじるようになった。

狩猟はひとりでするよりも、グループで協力しながらのほうが効果的だ。
チンパンジー時代からつちかってきたこのスタイルは、
人類の遺伝子にふかくきざまれることとなる。
マラドーナのように、ドリブラーが5人ぬきでゴールをきめるより、
パスを交換して相手の守備陣形をくずしきっての
ゴールに快感をおぼえるのは、
チンパンジーのころからの、
協力しあっての攻撃という遺伝子をうけついだからではないか。

サッカーの魅力についてかんがえるとき、
なぜ人類がこの競技にすさまじい熱狂をしめすかは説明がつかない。
サッカーには、野球やバレーボールといった
ほかのスポーツではえられない快感があきらかにあり、
遺伝子にその理由をもとめるしかないとわたしはおもう。

バレーボールやバスケットボールは、
あたらしいスポーツとして理論的にかんがえてつくりだされている。
サッカーは理論ではない。生理だ。

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2013年06月23日

コンフェデ杯3戦全敗 メキシコに1-2の完敗

コンフェデ杯メキシコ戦

イタリア戦から中2日。
つかれのたまった選手たちと、
消化試合でしかなという位置づけなのに、
ザッケローニ監督はいつものメンバーをおくりだした。
イエローカードの累積で出場停止の長谷部にかわって細貝。
調子のあがらない吉田にかわって栗原。
内田にかわって酒井宏樹と、
3人はかわったものの、キーパーをふくめ
もっとおおはばにあたらしい選手が起用されるのを期待していた。

前半10分までは日本がボールをまわすことができたけれど、
それ以降はメキシコの試合だった。
後半にはいってもメキシコ有利の内容はかわらない。
日本の選手は足がとまり、ボールをたもてない。
ミスもめだつ。本田も機能していない。

ザッケローニ監督がはなった打開策は、
酒井を内田に、そのあと前田を吉田へ、というものだった。
吉田がはいったのは3バックへのシステム変更のためだ。
しかし、その交代の直後にコーナーキックから
エルナンデスが2点目のヘディングをきめる。
交代直後の失点は、いまやおなじみの風景だ。
ついせんじつおこなわれたWカップアジア最終予選のオーストラリア戦では、
前田をさげて栗原をいれた3分後に失点している。
このときも3バックへの変更が機能しなかった。

長友が左ひざをいためたために後半32分に中村憲剛がはいる。
この交代で、日本のシステムはふたたび4バックにもどる。
さきほどあげたオーストラリア戦からずっと、
ザッケローニ監督の選手交代は後手後手にまわっている。
なにをのぞんでの交代なのかが選手につたわらず、
疑問符のつく采配がつづいている。
酒井宏樹のできがよくなかったものの、
かわってはいった内田もいいところがなかった。
PKをもらうファールをおかしたし、
あげたクロスは精度をかいているし、
遠藤のスルーパスにも反応できなかった。
なんのために酒井宏樹を先発させ、
なぜその酒井にかわって内田をいれたのだろう。

憲剛がはいるとまたパスがまわりはじめる。
日本の時間帯がうまれ、後半41分にやっと1点をかえす。
憲剛はいつもチームにリズムをもたらす。
ちょくせつボールにからまないプレーでも
チームにあたえる影響はすばらしい。
エルナンデスがPKをけるとき、
こぼれだまをケアしようとはしりこんだのは
憲剛ひとりだった。

前半9分に岡崎がオフサイドをとられた場面は
微妙な判定だったとおもう。
しかし、メキシコにしても、もっとたくさんの点がはいっても
おかしくない試合だった。
メキシコの試合はこびのうまさがめだったし、
日本選手はコンディションもわるく、
めざすサッカーが機能しなかった。

3戦全敗。
3戦全敗でもいいから日本サッカーのたち位置をしりたいと
たのしみにしていた大会だった。
イタリア戦ではいいところがでて
手ごたえをつかんだとおもったのに、
メキシコ戦ではまたもとにもどって
自分たちのサッカーができなかった。
この方向で1年間しっかり準備すれば
Wカップ本大会はほんとうに日本の大会になるだろうか。
いい経験をつめたとはいえ、日本の限界と、
ザッケローニ監督への疑問符がうまれた大会となってしまった。

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2013年06月22日

「悔いがない、生き方してね」『ツナグ』(辻村深月)

『ツナグ』(辻村深月・新潮社文庫)

いちどだけ、死んだひととあうことができる。
死んだほうも、生きている側にあえるのはいちどだけだ。
その再会をアレンジしてくれるのが使者(ツナグ)。
あいたいという希望を相手が承諾してくれると、
ホテルの部屋でひとばんをいっしょにすごすことができる。
いちどだけ、という条件があるので、
ツナグにもうしこむときは慎重にならざるをえないし、
そもそもツナグに依頼したからといって、
かならず使者との再会をとりもってくれるとはかぎらない。
じっさいにつながるかどうかはすべて「めぐりあわせ」だ。
ツナグのちからは代々うけつがれていくもので、
18歳の歩美は祖母から後継者となる打診をうける。
 
5つのはなしからなる連作長編というスタイルで、
ひとつひとつのはなしはたいしてせまってくるわけではない。
それまでによんだふたつの長編
『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』『ぼくのメジャースプーン』にくらべると
ものたりなさをかんじながらも、なんとかよみつづける。
それが、最後の5話でそれまでのものがたりがひとつにまとっていく。
それまでも、連作長編というかたちがいかされて、
みおぼえのある人物がすこしずつ登場するおもしろさがある。
その「すこしずつ」がうまい、とおもってよんでいると、
5話でその全部がつながった。
それまでの個々の依頼と、
歩美がツナグのちからをひきつごうとする背景があきらかになる。
連作というかたちをとりながら、
しらないうちにひとつのものがたりがかたられていたことに気づく。

わたしだったらだれにあいたいか。
1回だけの機会を、わたしのためにつかってくれるのはだれか。
死んでしまったひとにあえるから、
死のかなしみや、そのときのショックがうすらぐかというとそうではない。
死者とあうことによって、あたらしい一歩をふみだせるひともいるし、
それまでよりもっと自分の人生に背おいこむひともいる。
そのひとが、どんな生き方をしてきたかがとわれてくる。

「悔いがない、生き方してね」

事故により、18歳で死んでしまった御園奈津のことばだ。
この言葉にどんな意味がこめられているかは、
御園にあいたいとツナグに依頼した嵐美砂にしかわからない。
嵐をゆるし、これからのながい人生にエールをおくったようにみえて、
嵐がずっと御園の死をわすれられなくするこわい言葉。
死者にあえるからといって、
かんたんにやりなおしができるわけではない。
わたしたちは「悔いがない生き方」をさぐるしかない。

この作品で吉川英治文学新人賞を受賞したときに
辻村深月さんはこうコメントされたそうだ。

「青春時代に色んな本を読む中で、
自分のために書いてもらったと
幸せな勘違いをさせてもらいながら
続けてきた読書体験がある。
今度は、自分の書いた話に誰かが『自分のため』と
幸せな勘違いをしてくれたら、こんなに嬉しいことはない」

これまでによんだ辻村深月さんの3冊はいずれもおもしろかった。
しかし、まだ「自分のため」という
しあわせなかんちがいまでは体験していない。
それをもたらしてくれる力量をかんじさせてくれるので、
これからよんでいく作品とのめぐりあわせをたのしみにしたい。

posted by カルピス at 21:35 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月21日

コンフェデ杯イタリア戦 3-4とかちきれなかった日本

コンフェデ杯イタリア戦 3-4と惜敗

イタリアを相手に3-4のうちあいになるなんて
予想していなかった。
イタリアがとくにわるかったわけではなく、
日本がめざしてきたサッカーがりっぱに機能したのだ。
日本はほとんどの時間帯でボールを支配し、
せめつづけ、イタリアはそんな日本をあきらかにいやがっていた。

おわってみれば、おしい試合だった。かてた試合でもあった。
試合後のインタビューで、
「手ごたえをかんじたのでは?」
とたずねられた香川が
「いや、かてなければ意味がないです」と、
はきすてるようにいった。
かっこうをつけていったのではなく、ほんとうにくやしかったのだ。
ほかの選手たちも、
イタリアを相手にした健闘をたたえらえても、
いちように「かてなければ」とくちにしている。
そうだ。かちきることがもとめられた試合だった。
2-0とリードし、自分たちのサッカーが通用することがわかり、
予選通過のためにはどうしてもかち点が必要でもあった。
そこをすんなりかたせてくれないところが
さすがにイタリアだったともいえる。

日本のぶあついせめは、終了間際まで迫力があった。
イタリアはカテナチオというよりは
足がとまってまえにでられない。
日本はディフェンスの外側で自由にパスをまわし、
スキをついてペナルティエリアにボールをもちこむ。
後半37分には岡崎のシュートがポストをたたき、
こぼれだまを香川がヘディングすると
それもクロスバーにはばまれる。
43分にはきまったかにみえた吉田のヘディングが
オフサイドと判定される。
17本のシュートをあびせながら、
どうしても4点目をこじあけることができなかった。
「いいサッカーをしたほうがかつとはかぎらない」という、
ひとつの典型のような試合だ。
とはいえ、4失点すればふつうはかてない。
「うちあい」はみていてたのしいけれど、
ディフェンスの課題があきらかになった試合でもあった。

まえのブラジル戦のときにかいたように、
こうした経験を日本はつみたかったのだ。
強豪を相手にたとえ3連敗しても、
自分たちのたち位置をしることができれば参加した意味がある。
ブラジル戦では相手をおそれてしまい、
まったく日本らしさをだせなかった。
あとがなくなったこのイタリア戦では
日本のサッカーが世界に通用することがわかった。
善戦できた手ごたえより、かてなかったくやしさを選手たちが共有した。
セットプレーと、試合開始・終了間際に課題があることもあきらかになったし、
一流国はすこしのミスもみのがさず
点につなげてしまうことも体験できた。
コンフェデ杯に参加できた意義はおおきい。

ザッケローニ監督がここぞというときにおくりだすのは
けっきょくはいつもの11人だ。
このメンバーが、日本のこれまでの到達点ではあったが、
限界点もみえてきていた。
Wカップ本大会にむけて、これからはじまるあたらしいチームづくりでは
Jリーグで活躍中のいきのいい選手たちをとりこんで
またべつのつよみをもった日本となることに期待したい。

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2013年06月20日

倉下忠憲さんの「なんども読んできた本たち」に便乗して

倉下忠憲さんがブログで
「なんども読んできた本たち」
を紹介している。
その全部をわたしもよんでいたのですこしおどろいた。
いちどよんだだけと、くりかえしよんでいることの差はあるとしても、
倉下さんとの相性のよさを確認することになる。
おなじような読書体験をかさねながら
まったく生産性のないわたし、などと
いまさらいってもしょうがないことなので
読書傾向がにていることだけでもよろこぼう。

もっとも、そこにあげられた8冊のうち、4冊が村上春樹の本なので
ハルキファンにとっては全冊一致はそうむつかしいことではない。
そのほかにあげられていたのは
倉下さんとしては当然ともいえる
『知的生産の技術』(梅棹忠夫)で、
これはわたしもなんどもよんでいる。
『初秋』(ロバート=B=パーカー)をあげられているのは
ちょっと意外で、倉下さんはトレーニングもされるのだろうか。

倉下さんに便乗してわたしも
「なんども読んできた本たち」を紹介すると、
村上春樹の長編では『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』
と『遠い太鼓』。
短編では『午後の最後の芝生』『ファイミリー・アフェア』
『納屋を焼く』がすきだ。
『納屋を焼く』では「僕」が7.2キロのコースをつくって
納屋がやけてないか毎日はしってチェックする場面がある。
31分とかなりのスピードで、
道路をそんなにはやくはしっていたらひとさわがせだし、
納屋もじゅうぶんしらべられないのではないか気になってくる。
『世界の終わり』では、おわりのほうで
イタリア料理店でのおしゃべりする場面と、
彼女の家で朝をむかえ、なにげなく朝ごはんをつくるところがすきだ。

梅棹忠夫さんでは『モゴール族探検記』『東南アジア紀行』。
倉下さんは、民族学者としての梅棹さんの著作には関心がないのだろうか。
なんども、はおおげさだけど『アンナ・カレーニナ』は3回よんだ。
レーヴェンとキティーとの恋愛、
レーヴェンが農業に目ざめるところがお気にいりだ。

本も映画もたくさんあるけれど、
すぐれた作品はそうおおくはない。
そのなかで、自分にあった本にであえ、
くりかえしよんでたのしめるのは
とてもしあわせだ。

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2013年06月19日

タヒチの「善戦」にみる小国のサッカーの魅力

コンフェデレーションズカップ タヒチ対ナイジェリア

オセアニア代表のタヒチがコンフェデ杯ブループBに登場し、
ナイジェリアとの試合で6-1と「健闘」したことが話題になっている。

ネットをみてみると、タヒチの人口は18万人なのだそうで、
これはほぼわたしのすむ町の人口とおなじだ。
市の選抜チームが人口1億6000万ちかくの大国と試合をするのだから
なんだかおとぎばなしみたいでたのしくなってくる。
宇都宮さんのレポートによると、
タヒチは「たまたま」オセアニア代表になったといえるようで、
こういうおおきな大会に参加することじたいがはじめの経験だ。

コンフェデ杯は各大陸のチャンピオンと招待国からなる8カ国で
2つのグループがくまれる。
サッカー連盟加盟国数をみてみると、

欧州サッカー連盟  53 
オセアニアサッカー連盟 11
アジアサッカー連盟 46
アフリカサッカー連盟 56
北中米カリブ海サッカー連盟 40
南米サッカー連盟 10

となっているので、11カ国しか加盟国のないオセアニア代表は
あんがいかんたんに参加できそうだ。
このなかでいちばんつよいのがニュージーランド、
つぎがニューカレドニアというから、
タヒチでなくてもほかの参加国からはみおとりする。
それではちからの差がありすぎて試合にならないかというと、
あんがいそうでもないのがサッカーのおもしろいところだ。

スタジアムの観客のおおくは
つよすぎるナイジェリアよりも
小国ながら一生懸命にプレーするタヒチにむけて声援をおくっていた。
まあ、これだけ差があると、だれだって(ナイジェリア人以外は)
タヒチを応援したくなるだろう。
前半で0-3と、ほぼ試合をきめられたものの、
タヒチは後半にえたコーナーキックをいかして
歴史的な1点をいれる。
おかしかったのは、点をいれた選手たちが
いちばんびっくりしていたことで、
やがてそのおどろきがサポーターまでひろがっていく。
まさか点をいれられるとはおもってなかったようで、
あっけにとられたサポーターが、
やがておどろきをよろこびにかえていく。
フットボールネーションの応援にはない風景だった。

試合はその後ナイジェリアが3点をいれ、
タヒチの選手たちは気もちがきれてしまった。
しかし、1-6の大差となったものの、
おもいもかけない1点をとったことがとにかくうれしそうな
タヒチの選手たちだった。

宇都宮徹一さんは
あまりしられていない国や地域のサッカーを紹介されており、
『フットボールの犬』(東邦出版)では
人口4.8万人のフェロー諸島が登場する。
デンマーク本国から飛行機で2時間、時差1時間、
ひとの数よりも羊のほうがおおい島々だという。
そんな地域でもサッカー連盟に加盟すると
W杯の予選に参加できるので、おもしろいことがいっぱいおきそうだ。
本書では、フェロー諸島のチームがユーロの予選で
ドイツチームをむかえたときのようすが紹介されている。
島におけるサッカーがどういう存在なのかがつたわってきて興味ぶかい。
日本代表がW杯優勝とか、ベスト4とかを目標にかかげ、
やっきになっているのをみると、
なんだかべつのはなしをきいているみたいだ。
W杯だけがサッカーの目的ではないわけで、
いろいろなサッカーとのつきあい方をしるためにも、
『フットボールの犬』はおすすめの一冊だ。

posted by カルピス at 13:55 | Comment(0) | TrackBack(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月18日

メモをとらないというかんがえ方

佐々木正悟さんのブログをみていたら、
ブログのネタ用にメモはつくっておらず、
「思いたっていきなり書き始め」る、とかかれていた。
メモ全般について意味をみとめておられず、

「発想をメモするくらいなら、ブログを書いた方が効率的なのだ。
だから今もこうして書いている。これがメモと言えばメモなのだ」

というかんがえ方をされている。
そして、そういうひとは
「おそらく想像以上に多くいるはずだ」といわれる。
本をかくときにはさすがにメモをつかうそうだけど、
それにしても全面的にたよっているわけではなくて、

「一部の発想を抽出してメモにおさめておいて、
それをもう一度まとめ直すというのは無駄が多い」

というかんんじをもっているという。

佐々木さんが引用されている森博嗣さんの本は、

「僕は、メモというものは一切取らない。
これは、研究でもそうだった。
メモをとろうと思った瞬間に、
つまり、言葉にしようとすることで失われるものが多すぎる。
どうせ最後は言葉にするのだ」

というからさらにすごい。
ブログくらいならとくにメモが必要ないにしても、
ちょっとまとまった量の文章になると、
頭のなかでいじくりまわしているだけでは
なかなかかんがえがまとまらないだろうとおもっていたけど、
ひとによってはまったく問題ないらしい。

仕事術についてかかれたおおくの本は、
メモをとることを基本中の基本みたいにあつかっている。
わたしもそれが当然とおもい、
できるだけメモをとるようにこころがけてきた。
しかしそのメモがなにかにやくだつかというと、
かならずしもそうではないのが残念なところだ。
せいぜいブログのネタくらいにしかならず、
そのメモから壮大な発想をえるなんて
経験したことがない。

これはメモがムダというよりも、
わたしの発想術の未熟さに問題がある。
倉下忠憲さんの『ハイブリッド発想術』には
アイデアをみのらせるよい畑をもつためには、
それなりの準備が必要で、
その準備はつまりメモからはじまる、
というふうなことがかかれていて説得力がある。
こういうのをよむと、メモからのひらめきをいちど体験すれば、
コツがわかってくるような気がする。

なんでもメモに、といっても、それがなかなかむつかしい。
すこしまえに、家のネコが綿ぼこりに鼻をつっこみ、
それが鼻にくっついて志村けんの「ヒゲおじさん」みたいになった。
あ、おもしろい、とすぐにメモしたけど、
いってみればただそれだけのはなしだ。
こんなものに「ネコが苦手なこと」なんて第をつけて保存したときは
さすがにむなしかった。
しかし、ひらきなおっていえば、
トホホ感とチープさに価値をおくわたしなのだから、
こんな「発見」こそメモの対象なのかもしれない。

メモをとらないという手があるななんて、
かんがえてもみなかった。

posted by カルピス at 13:07 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月17日

コンフェデレーションズカップ ブラジルに0-3の完敗

コンフェデレーションズカップ、対ブラジル戦。

なんといっても前半3分にいきなりきめられた
ネイマールのミドルシュートだ。
味方が胸でおとしたボールをダイレクトにボレーでたたきこむ。
あの時間に、あんなスーパーシュートがきまったので、
日本のゲームプランはいっぺんにくるってしまった。

ブラジルは、前半はたかい位置からきびしいプレッシャーをかけてくる。
ただ、それはながくつづかず、
いつものように本気かどうかわからないような
ゆっくりとしたリズムになる。
そんなときは日本はせめこむこともでき、
ときおりシュートもはなてたが、
時間帯によってはまったくボールをもてないときもあった。
ブラジルが自由にパスをまわし、
日本はボールをさわることもできない。

そして、後半もまた開始そうそうの3分にミドルシュートをきめられる。
この試合は、点をとられる時間がいずれもわるかった。
前半3分・後半3分、そしてロスタイム。
3点目はまったくよけいな失点で、
ゲームをおわらせようとボールをまわしていたブラジルが、
一瞬のスキをついてカウンターをきめる。

きょねんの秋におこなわれた親善試合は、
0-4とはいえおおくの選手が手ごたをくちにしていた。
リスクをおかしてせめたから失点したのであり、
ボコボコにやられながらも
まったく歯がたたないというわけではなかった。
しかし、今回の敗戦は、本田がいっていたとおり完敗というしかない。
ブラジルのいいところばかりでて、
日本がたとえせめても大事なところはくずせられない。
個々のちからも差があきらかで、
ボールをもっても安心してパスをまわせない。
ブラジルの「ボールがり」に、
いつとられるかヒヤヒヤしながらのプレーだった。

しかし、この経験をつむために日本は参加したのだ。
大切なのは、来年のWカップで結果をだすことであり、
コンフェデはその体験の場だ。
世界のレベルをしり、きびしいスケジュールのなかでも
コンディションをととのえるノウハウを身につける。
必要な体験を、いい時期につむことができたと
まえむきにとらえたほうがいい。

posted by カルピス at 08:52 | Comment(0) | TrackBack(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月16日

『ぼくのメジャースプーン』どうやって復讐するか

『ぼくのメジャースプーン』(辻村深月・講談社文庫)

これは復讐のものがたりだ。
4年生の「ぼく」は、はなした言葉を相手がかならず実行するという
不思議なちからをもつ。
「◯◯しなさい、そうでなければ☓☓になる」とささやけば、
相手はそれにどうしてもしばられてしまう。

ある日、小学校でかわれていたうさぎたちが、
確信的な変質者によってバラバラにころされてしまう。
その現場をいちばんはじめに目にすることになったふみちゃんは、
ショックのあまり声をうしない、こころをとざしたまま
学校にこれなくなった。

ふみちゃんは、『すみれファンファーレ』のすみれちゃんみたいだ。
美人ではないかもしれないけど、
ひとの気もちをおもいやるすてきな女の子で、
学校のうさぎをとてもかわいがっていた。
そのふみちゃんが、虐殺現場をみたときのすさまじいショック。

しかし、うさぎをころしても、
法的には器物破損にしかあたらない。
犯人の大学生は、事件のあともまったく反省する気もちはないし、
へらへらとおなじ生活をつづけることができる。

大切な女の子をひどいめにあわせた犯人にたいして、
「ぼく」は不思議なちからをつかって復讐することにきめる。
「ぼく」はどんなことばをえらんだか。

うさぎたちがくるしむ場面があまりにもいたいたしくて、
とちゅうでよむのをやめたくなる。
犯人によってきりきざまれたうさぎをみたふみちゃんは、
声をうしなってとうぜんとおもえるほどふかいキズをおった。
犯人がしたことは、あまりにもひどすぎた。

わたしだったら、犯人にどうやって復讐をするだろう。
『レザボア・ドッグス』にでてきたみたいに、
イスにしばりつけ、さるぐつわをかませ、
いたぶりながらすこしずつナイフをつかっていこう。
犯人が、生まれてきたことを後悔し、
はやく死にたくなるような
ものすごいくるしみをあたえたいとおもった。
それだけのことをこいつはうさぎにたいして、
そしてふみちゃんにたいしてやったのだ。

もっとも、こういう復讐の方法は本書のなかにもでてきて
はっきりと否定されている。
にくしみにかられての復讐は連鎖するからだ。
それでは、どういう復讐がもっとも効果的なのか。
「ぼく」は、おなじような不思議なちからをもつ先生と対話をかさね、
ちからをつかうときの覚悟や、
命についてのとらえ方を確認していく。

たとえば、蚊ならころされてもしかたないのか。
食用にする動物はどうなのか、
また、動物をつかっての実験はゆるされるのか。
「ぼく」は犯人にどうなってほしいのか。
「ちから」をつかって復讐を実行する日まで、
「ぼく」はいろんなことをかんがえたうえで、
どんな言葉で犯人をしばるのかをきめる。

さいごにどんでんがえしがあり、
とてもあぶない目にはあったものの
犯人にたいしてきわめて効果的な復讐をすることができた。
ただいかりにかられてしかえしをすることしか
頭にうかばなかったわたしにくらべ、
「ぼく」の勇気と、ふみちゃんへのおもいのふかさはすばらしく、
夢中でよみすすめるおもしろい本だった。

しかし、もういちどよみたいか、というと、
ためらってしまう。
うさぎとふみちゃんへの行為があまりにも残酷だった。
また、うさぎごろしの犯人のような悪意をもった人間が、
世の中にはすくなからずいて、
ネット上でもそうしたやりとりをたのしんでいるという現実に、
胸をふさがれるおもいがする。

わたしは、自分が大切にするものをキズつけた人間にたいし、
どうしてもやられたことをやりかえしてしまうだろう。
世界中の民族問題・紛争がしめすとおり、
復讐は問題の解決にはならない。
それがわかっていても、いかりにかられての復讐からさきに
かんがえがすすまない。
この本がしめす問題は、じつはとてもおおきい。

posted by カルピス at 16:38 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月15日

『寅次郎忘れな草』中年期の寅さんはなにをもとめていくか

『寅次郎忘れな草』をみていたら、
寅さんがおばちゃんの老眼鏡をかりて
新聞をよむ場面があった。
この作品は1973年につくられているので、
渥美清イコール寅さんとすれば、
このとき寅さんは45歳だったことになる。
わかいあんちゃんとしての寅さんをイメージしていたけれど、
おおくの作品は中高年の年代にとられていることに気づく。
すいた・ほれたも、なかなかおもうようにはいかなかったのではないか。
まあ、寅さんみたいにプラトニックな恋愛だったら
50だろうが60になろうが、関係なかったともいえる。
中高年の寅さんは、マドンナたちのどこにひかれたのだろう。

『寅次郎忘れな草』はシリーズ第11作、
はじめてリリーが登場した作品だ。
おなじような生き方をしてきたふたりはひかれあい、
リリーみたいな女にこそしあわせになってもらいたいと
寅さんは本気ですきになっていく。
老眼鏡が必要になったとはいえ、45歳の寅さんは男ざかりで、
カタギではないものどうし、どうころんでもおかしくない作品だった。

40年まえの45歳というと、
いまよりももっと大人として位置づけられる年齢だったろう。
「いい歳して」とまわりがもとめ、
そして自分でもなんとかしたかった寅さん。
北海道の開拓農家にすみこみではたらこうとしたのも、
45歳という年齢がもつプレッシャーだったのではないか。
そのすこしまえにリリーとであい、自分たちの根なし草のような生活が
けしてまともではないことを寅さんはつよく意識する。

子ども時代や青年期が大変だというけれど、
中年だって生きのびるのはかんたんではない。
自分がほんとうにやりたいことはなにか、
自問自答するやっかいな歳ごろだ。
旅をしながら、女性にほれながら、
寅さんはなんども自分をかえようとする。
でも、けっきょくもどっていくところは
いつもの自分でしかない。

寅さんシリーズは、ときどきの「本気」をまじえながら、
だんだんと若者たちへの応援だったり、
もしかしたら、とおもいつつも、
じつはどうにもならないことを達観した
「きよい交際」へとうつっていく。
それぞれにおいて、寅さんはいろんな魅力をみせてくれるけれど、
わたしは寅さんが主人公としてうごきまわる作品がすきだ。
リリーが登場するこの『寅次郎忘れな草』は、
初期の寅さんとして、ヒリヒリする本気の恋愛と、
これからどうしていこうかという中年期のあせりがいりまじった
印象的な作品となっている。

posted by カルピス at 16:37 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月14日

山のくらしのリアリティがすばらしい「ハイジ」

フランクフルトからアルムの山にもどり、
ハイジはひさしぶりにペーターと牧場へでかける。
ハイジが町でのくらしをはなし、
ロッテンマイヤーさんからいつもしかられていたとはなす。

ペーター それで、ハイジは町でなにをしていたの?
ハイジ  うーん、なにもしてなかったみたい。
     ペーターは? ペーターはそのあいだなにをしていたの?
ペーター ぼくはヤギかいだから、まいにち山へヤギとでかけていたよ。

ペーターがいった「ぼくはヤギかいだから」
という説明にわたしはしびれた。
まいにちおなじことのくりかえし。
すきとかきらいとかではなく、自分にあたえられた環境のなかで
なんの疑問ももたずヤギの世話をつづけること。
わたしたちは、自分で仕事や生活をえらぶことができるけれど、
だからといって、だれもがおだやかにくらせるわけではない。
現代を生きるわたしが、ペーターの仕事を
一方的にもちあげたくなるのはなぜだろうか。

おじいさんがふもとの村へおりていき、
自分がつくったチーズをパンと交換する。
つづいて、おじいさんはハイジが
パン屋さんにあずけていたカバンをうけとる。
ハイジについてすこし世間ばなしをし、
お礼をいってわかれる。

「ハイジ」にでてくる山でのくらしは、
ゆったりとしたまいにちのくりかえしがえがかれる。
生活とは、こうしたおちついた日々のつらなりをいうのだ。
もちろんわたしがヤギをかい、
その乳からチーズをつくるくらしをつづけられるわけがない。
ペーターみたいにまいにちヤギとすごしていたら、
町であそびたくてたまらなくなるにきまっている。
でも、「ハイジ」はこうしたやりとりを具体的にしめし、
山でのおちつた生活にリアリティをもたせ、
こういう人生もあるということを
くっきりとみるものにつたえてくれた。

「ムーミン」に登場するスナフキンが、
いつも池で魚つりをしながらすごしているのをみて
おさなかったわたしはそんな生き方があるのかと
すごくひかれたのをおぼえている。
でも、仙人のようではあるけど
そこには生活としてのリアリティがない。
スナフキンからは、つった魚を交換して、とか、
じつは親の遺産がたくさんあって、とかの
具体的な背景がかんじられない。

まいにち牧場へでかけるのはペーターの仕事であり、
のんびりしているようにみえても
ややこしいとりきめだってあるだろう。
環境の変化にもよわそうで、
自分の意思とは関係なく生活がかわっていきそうだ。
どこにいたって生きていくのはかんたんではない。
日本にだって自然をあいてにした仕事はいくらでもある。
それでもただ「となりの芝生」があおくみえたのではなく、
ヤギかいのくらしがひとつの到達点にさえおもわせた。
ペーターやおじいさんの仕事をふくめ、
おちついた山でのくらしにリアリティをもたせ、
しずかにすぎていく時間に魅力をもたせたのが「ハイジ」のすばらしさだ。

posted by カルピス at 10:34 | Comment(0) | TrackBack(0) | 宮ア駿 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月13日

「Wカップアジア最終予選対イラク戦」雑感

Wカップアジア最終予選対イラク戦

この試合をまえに本大会への出場をきめている日本と、
この試合にかたなければ予選敗退がきまってしまうイラク。
イラク本国での試合がみとめられていないので、
中立地のドーハ(カタール)でおこなわれた。

イラクというと、2007年のアジアカップで優勝した国だ。
このときも政情が不安定で、
イラク国内では練習ができなかったときく。
決勝戦はサウジアラビアを相手におこなわれ、
とにかくまえにすすもうとする気もちのはいったプレーと、
フィジカルのつよさが印象的だった。
1-0で優勝をきめると、おおくの選手がイラク国民への愛を口にする。
国のためにたたかうということが、
こんなにもチームをつよくするのかと、非常に感動的な勝利だった。

そのイラクが、この予選ではちからを発揮できず、
グループ最下位の5位とくるしんでいる。
監督も、予選をつうじて3人も交代した
(日本でのゲームはジーコ氏が指揮をとっていた)。
もうあとがないこの試合では、
かちたい気もちはつたわってくるものの
ラフプレーがめだち、好感をもつことができない。
34℃というピッチコンディションのせいか、
日本はなかなかペースをにぎれない。
イラク選手とのせりあいにもまけ、コロコロとよくたおれる。

解説の山本昌邦さんは、例によっておなじことをくりかえしてばかりいる。

・チームとしての切符はとったので、
 これからは個人の切符をとるためのほんとうのたたかいがはじまる。
・選手間の競争がとまった瞬間、本大会での勝利はなくなる。
・埼玉スタジアムではかんがられないピッチコンディションだが、
 世界でたたかうときにこうした状況があたりまえである。

これらのことを、場面はかわれどセリフはかわらずで、
なんどもなんどもくりかえしきかされた。
実況アナウンサーは、試合開始前の審判紹介で、
「◯◯さん」ではなく、名前をよびすてする。
サッカーへのリスペクトがない姿勢にセンスをうたがった。
中立地のドーハが会場ということで、
試合はもりあがりにかけ、淡々とすすんでいくようにみえる。
解説・実況への欲求不満もかさなり、
あまりみていてたのしい試合ではなかった。

試合は後半終了間際のカウンターで、
岡崎が遠藤とのパス交換からゴールをきめた。
34℃なんて、サッカーができるコンディションではないのに
(試合のとちゅうで、前半と後半に1回ずつ
1分間の「給水タイム」がもうけられている)、
さいごまではしりぬいた選手たちの健闘をたたえたい。

わたしのひいきする中村憲剛が後半23分に
清武にかわってピッチにはいる。
この番組は、現地で製作された映像をもとに放映されており、
カメラをひいてピッチ全体をうつす時間がおおかった。
そのせいか、憲剛がどこにいるのか
はじめなかなかわかりずらかったが、
あんがいこうしたカメラのつかい方のほうが、
試合のながれをつかむのにはただしいかもしれない。

選手たちは試合のあとコンフェデレーションズカップにむけて
ブラジルへ出発するという。
15時間のフライトなのだそうだ。
34℃のコンディションで試合をしたあとすぐ移動し、
中4日でブラジル戦というのは
そうとうきびしいスケジュールだ。
いい大会になることを期待したい。

posted by カルピス at 10:20 | Comment(0) | TrackBack(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月12日

村上春樹の小説におけるスパゲティーをゆでる量が気になる

村上春樹の小説にはスパゲティーがよく登場する。
そのなかでゆでられているメンの量は
おそらく慎重にかんがえられたすえに、
おなじ場面でもはっきりちがったあつかいとなっている。

おなじ場面、とは、
短編の『ねじまき鳥と火曜日の女たち』が2つと、
長編の『ねじまき鳥クロニクル』のことだ。
『ねじまき鳥と火曜日の女たち』をふくらませて
『ねじまき鳥クロニクル』がかかれており、
その導入の部分はほぼおなじものがたりがかたられている。
いずれも「僕」がスパゲティーをゆでているシーンからはじまる。

短篇集『パン屋再襲撃』(文春文庫・1989年4月10日第1刷)におさめられた
『ねじまき鳥と火曜日の女たち』では
そのとき「僕」がゆでていたのは250グラムのスパゲティーだ。

「僕はラジオの音楽を聴きながら、
その二百五十グラムぶんの麺を一本残さず
ゆっくりと胃の中に送りこんだ」

それが、2005年に発売された短篇集『象の消滅』(新潮社)にはいっている
おなじ『ねじまき鳥と火曜日の女たち』では、
ここがメンの量だけ「百五十グラム」にかわっている。

さらに、『ねじまき鳥クロニクル』(新潮文庫・平成9年10月1日発行)では

「そしてガスの火をとめてスパゲティーをざるにあけた。
スパゲティーは電話のせいでアルデンテというには心もち
柔らかくなりすぎていたが、致命的なほどではない」

と、こんどは量についての記述がなくなってしまった。

料理を中心にした小説ではないのだから、
何グラムのスパゲティーをゆでるかまで
ふれるほうがめずらしいだろう。
そこをあえて250グラムとか、150グラムとかの
はっきりした数字をいれたのは
特別な意味をもたせたかったはずだ。
たとえば、30歳の男性は、250グラムという量を
ふつう1度の食事でたべない。
一般的な一人前の量は90グラム程度なので、
250グラムはものすごいおおもりということになる。

それが150グラムとなると、
まだおおいとはいえ
「だいぶお腹がすいていたんだ」
と納得できる量になってくる。
こうしてメンの量をかえることで、
村上春樹はなにをつたえたかったのだろう。
ただ単純に、わかいころは250グラムを平気でたべていたのが、
歳をとって150グラムが適量になった、
というわけではないはずで、
よんでいるほうとしてはすごく気になる。

そして、『ねじまき鳥クロニクル』のように、
ただスパゲティーをたべただけの記述になると、
「僕」がどれだけお腹をすかせていたかは
あまり重要な情報ではなくなったみたいだ。

たくさん出版されているハルキ本の「よみ方」みたいに
数字やことばをいじくりまわして
裏にかくされた秘密をさぐろうとするわけではなく、
ただ単純に、250グラムのスパゲティーをたべる
「僕」の食欲の意味をしりたい。

posted by カルピス at 11:30 | Comment(0) | TrackBack(0) | 村上春樹 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月11日

「あなたはパスタが好きなのか?」という佐々木正悟さんの指摘

佐々木正悟さんが「シゴタノ!」に
『ビッグ』にはなれなくても『好きなことをして食べていく』
という選択肢もある
」という文をよせている。
佐々木正悟さんのすこしうしろむきなスタンスがわたしはすきだ。
仕事だいすき人間でなくても生きていける気がしてくる。
佐々木正悟さんの指摘が、
もっととりとめがなく、モヤモヤした状態で
ずっとわたしのあたまにあった。
仕事とはいえ、自分の気もちにいつわりながらの
「おもてなし」がわたしは苦手だから。

佐々木さんは、佐々木圭一さんの『伝え方が9割』を例をとり、
「あなたはパスタが好きなのか?」とといかける。

「『デートしてください』
こう言ってみました。
あなたのピュアな気持ちそのままですね。
これだと断られる確率が高いですよね。
ですが、コトバ次第で結果を変えることかができます。
『驚くほど旨いパスタの店が
あるのだけど、行かない?』
こう言ってみました。相手は行っていいかも、
と思う確率がぐんと上がるコトバです。
どちらにしても、実は『デートしませんか?』
という同じ内容なのです」(佐々木圭一『伝え方が9割』)

それにたいして
「私はちがうと思うのです」と佐々木さんはいう。


「『驚くほどうまいパスタの店』に
行きたいと思っているのはお相手であり、
あなたはパスタが好きなのか?ということなのです。
『自分が好きでも何でもないものをネタに使ったり売り込む』
ということに猛然とエネルギーを費やすうちに、
何のために自分が生きているのか分からなくなっ たり、
そこまで行かなくても、労働意欲が完全に失せているのに
徹夜で仕事をするということになっているのではないか、とも思うのです」

「相手の好み(メリット)」を一切に優先させることが「唯一の解」ではない
思えば私達はずっとこう教え込まれてきました。
お相手が、お客様が何が欲しいのか知れ。
それを全てに優先せよ。お相手の、お客様のご不満を知れ。
それを取り除くことを全てに優先せよ。
立派で優れた態度ですが、大きな問題がひとつあります。
やる方がかなり疲れるところです。
演技していることがばれないようにする。
心から相手のことを想う。自分自身はどこまでも消耗する。
なぜならそれが仕事だから。
『それが仕事』になってしまうのは、
多数を相手にしすぎるからだと思います。
自分と自分そっくりな人の好みを押し出せばいいだけなら、
そんなに大変なことをせずに済みます。
米国の広告賞を取ることはできないでしょうが、
その代わり情報収集(他人の好みを知る)も、
情報分析(他人の本当の好みを知る)も、
キャッチコピーの勉強 (他人の好きなことを他人に印象づける)も、
価格競争(他人が好きなものをより安く売る)もいりません。
『僕ってこれが大好き。いいでしょ、これ?』で済 みます。

稚拙かも知れません。安易すぎるかも知れません。
だから『それが仕事だ』と見られないかも知れません。
大多数の人に高い評価をいただくこともできません。
でもそれで食べていくことは、けっこうできるものです。
少なくとも『それが仕事』というほどのことをする多大なエネルギーを、
自分の好きなことに振り向け て、それをスムーズにシェアすればいいので、
軌道に乗せるのが簡単です。
『驚くほどパスタがうまい店』を探しているうちに
消耗しかけているくらいなら、やってみることです。
少なくとも『驚くほどパスタがうまい店』が
唯一の正解ではないと思います」

「驚くほどパスタがうまい店」でいくよりも
「僕ってこれが大好き。いいでしょ、これ?」
のほうがずっとわたしにむいている。
ビックになるつもりはもちろんないので、
たべていけさえしたらいい。
佐々木さんの記事をよみ、すごく気がらくになった。

posted by カルピス at 11:48 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする