2013年06月10日

なんどよんでもおかしい『負け犬の遠吠え』

『負け犬の遠吠え』(酒井順子・講談社)

ちょっと参考に、とよみはじめるととまらない。
この本について、もうなんどもかいてきたけど、
よむたびにわらえるので、また紹介したくなる。
この本が画期的だったのは

・「負け犬」という、ふるくてあたらしい生物の発見
・結婚としあわせは関係ないことをあきらかにした

という2点にしぼることができる。
おもに都会でふえつつある負け犬の存在を、
それまで社会はどうとらえていいか判断しかねていた。

「かつ」とか「まける」ということばに
ひとは敏感に反応するので、
この「負け犬」というネーミングは
出版当初おおくの拒否反応をうんでいる。
「結婚してないけどわたしはまけてない」
というやつだ。
そこをあえて「まけました」とお腹をみせることで
「勝ち犬」たちを議論のテーブルにつかせ
「負け犬」現象を整理するのに成功している。

この本の構成は
・本書を読まれる前に
 で「負け犬」の定義と、この本のルールをあきらかにしたのちに、

・負け犬発生の原因
・負け犬の特徴
・負け犬の処世術
・負け犬と敗北

と負け犬の心理と生態にふかくせまっている。

そして
・負け犬にならないための10ヶ条
・負け犬になってしまってからの10ヶ条
という予防と対応までついているという
ほんとうにいたりつくせりの入門書であり実用書だ。

なんといってもわらえるのが
「負け犬にならないための10ヶ条」で、

・不倫をしない
・「・・・っすよ」と言わない
・腕を組まない
・女性誌を読む
・ナチュラルストッキングを愛用する
・長期的視野のもとで物事を考える

等々、「不倫をしない」以外は
酒井さんでないとおもいつきそうにない。
負け犬がこれ以上繁殖しないために、
わたしのすきないくつかを紹介したい。

まず、なぜ腕をくんではならないのか。

「腕組は、『相手を警戒している』『自分のことは自分で守る』
といった意思を感じさせる行為です。(中略)
勝ち犬を目指す人は、
『誰か、この腕をつかんでどこかに連れて行って〜』
という意思が明確に伝わるように、
腕は常にフラフラとさせておかなくてはなりません」

「女性誌を読む」は
もちろん「JJ」「VERY」「STORY」といった
光文社系でなければならない。

「勝ち犬女性誌が世の女性達に教えようとしている最も重要な問題は、
『疑うな』
ということ。
『私はこのままでいいのか?』
『本当の自分って?』
などという、自分以外の人間には何ら意味を持たぬ疑問を抱いて
うしろをふりかえったり考え込んだりせず、
『夫と子供とお金とおしゃれ』を得ることイコール幸福、
ということを信じて疑わない姿勢を持つ。
何でも欲しがる現代女性に、ある意味で『足るを知れ』
ということを教えようとしているのが、
勝ち犬系女性誌なのです。(中略)
娘を持つ親御さん達は、高校生くらいから『JJ』などを与え、
危険な負け犬思想に汚染されないようにするのが
望ましいでしょう」

「ナチュラルストッキングを愛用する」は

「『私は普通の人間です』ということを、
世に知らしめてくれるのです。
その普通さというのは、エロさでもあります。(中略)
女の普通さ・エロさは、日本男児にとって
米のメシのようなものなのです。(中略)
ナチュストファッションは、
しかし決してラクなものではありません。(中略)
それらの気持ち悪さや身体の変形にも
耐えるくらいの気概がなくては、
勝ち犬になどなれないのです」

「長期的視野のもとで物事を考える」
はまとめにもなっている。

「何とかして結婚しようとする女性は、
時にその手練手管ぶりばかりが悪目立ちしてしまうものです。
が、彼女達は人間として当然のことをしているまで、
と言うこともできる。(中略)
良い相手と結婚をするためにどんな手練手管を使おうと、
それは経営者が企業戦略を練るのと同じ。(中略)
成功した経営者は、やっていることが汚いわけではありません。
ただ、現状と未来とは見据えて冷静に戦略を立てただけ。
『あっ、今はコレが流行ってるからコレを仕入れよう!』
と、せいぜい一ヶ月くらいのことしか考えられないダメ経営者とは、
大きく異るのです。
つまり勝ち犬とは、安定した老後を得るために、
ナチュラルストッキングをはき続けることができる人のことなのです。
『今すぐラクしたい』『明日、楽しいことをやりたい』
『日々を刺激的に』という子供のような欲望のままに生きるのではなく、
いかに遠くまでを見渡すことができるか」

「負け犬になってしまってからの10ヶ条」
ですきなのは

・落ち込んだ時の大処方を開発する
・突き抜ける

の2つだ。

「落ち込みは周期的なものであり、
そう長くはつづかないことを
経験を積んだ負け犬は知っている。
しかし頭痛と同じく、いずれ去るとはわかっていても、
落ち込みを放置しておくのは嫌なものです。
バファリンのように即効性のある落ち込み対処法を、
自分なりに開発しておくと、
イザという時に安心です」

「突き抜ける」もまた
まとめともいうことができる。

「もう、ここまできたら下手に何かを変えるより、
行くところまで行くしかないじゃん。
突き抜けた先にはきっと、
別の世界が広がっているハズ!
さらに上を目指せ!(中略)
突き抜けた先には、もしかしたら何も無いかもしれません。
が、せっかく負け犬になったのだから、
たとえ奇人変人と言われようと、
途中で力尽きて倒れようと、
勝ち犬には決してできない突き抜け方をしてもいいのではないか」

この本の世界をなによりもよくあわらしているのは
表紙の「負け犬」氏だ。
知的でおっかなそうで、
なにやらいろんなことをかんがえていそうで。
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posted by カルピス at 10:59 | Comment(0) | TrackBack(0) | 酒井順子 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月09日

悪質なプレーには、もっと厳格な処罰を

サッカーをみていると、選手たちのケガがある程度
「しょうがない」と認識されているようにおもえる。
危険をしょうちで頭からつっこんだ選手を
「勇気のあるプレー」とたたえ、
だいじな試合で相手とのせめぎあいでまけると
「もっと球際のつよさを」とかいう。
しかし、ケガが当然という危険なプレーや、
やられたらやりかえす、
けずられたらけずりかえす、という
「サッカーらしい」迫力のあるプレーは
選手たちをケガにまきこみ、
数ヶ月もプレーできなくなることがめずらしくない。
選手生命にもかかわる危険なプレーが
「あたりまえ」におこなわれるのはおかしくないか。

チームによってはケガを予防ために、
専門のトレーナーをおくところもある。
どうしたらケガをしない選手生活をおくれるか、ということや、
ケガからはやく復帰するためのコンディショニングは
もちろん大切だろう。
わたしがかんじるのは、
危険なプレーのおおくが「サッカーだから」と
暗黙の了解のうちにみのがされ、
すこしぐらいのケガはあたりまえ、という
前提条件がそもそもおかしくはないか、ということだ。
相手の足をめがけてすべりこんでいき、
審判には危険なプレーでなかったこと、
わざとではなかったことをアピールし、
たおれこんだ選手に形式的にあやまり、
頭をポンポンとたたいておわるというのが、
「サッカーだから」ゆるされていいのだろうか。

ルールによってプレーはかわってくる。
たとえば、すね当てが義務づけられたのは
1990年からだというし、もっとさかのぼれば、
パブリックスクールでサッカーがさかんにおこなわれていた時代には、
シューズのさきに金具をつけて相手をけることが
あたりまえのプレーとしてみとめられていた。
それ以前は、そうやってケガをさせるのがみとめられていたわけだし、
そのプレーをふくめて「サッカー」としてとらえらえれていた。
いまではスパイクのウラをみせるプレーは
危険であると禁止されているし、
ケガをさせることを目的とした金具もゆるされていない。
ルールによって競技をより安全な方向性にみちびくことができる。
悪質なプレーには、もっと厳格な処罰をとるべきだとわたしはおもう。

ぜったいに相手にまけないという気迫で試合にのぞみ、
1対1の場面ではからだをはってボールを死守する勇敢さを
わたしも評価する。
しかし、勇敢さと危険なプレーとのあいだには
もっと厳格な線がひかれるべきではないだろうか。
女子サッカーは男子ほど危険なプレーはみられないし、
男子でも日本と中国ではずいぶんちがう。
試合の内容をたかめるために、
そして選手たちが質のたかいプレーをながくつづけるためにも、
ケガがあって当然という認識をあらため、
ルールの厳格化をもとめたい。

posted by カルピス at 10:05 | Comment(0) | TrackBack(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月08日

『すーちゃん まいちゃん さわ子さん』きのうにつづいて負け犬作品

『すーちゃん まいちゃん さわ子さん』(2013年・御法川修監督)

34歳のすーちゃん・まいちゃんに、
39歳のさわ子さん。
どまんなかをゆく負け犬作品だ。
キャストはそれぞれ柴咲コウ・真木よう子・寺島しのぶで、
3人ともうつくしく、でありながら3人とも自分の人生にまよっている。
34歳と39歳いう微妙な年齢の設定がきいている。
30代前半ではまだ余裕のある負け犬たちも、
後半になるとまったく別の心理状態になることは、
『負け犬の遠吠え』にくわしい。
そして、40歳というと、子どもをうむためには
タイムリミットともいえる。
男にとって、34歳と39歳の独身女性の気もちは
あまりにも複雑だ。

わたしはすーちゃんのちかくについていたくなった。
あんなにきれいな柴咲コウが、
作品のなかではすごく地味なすーちゃんになりきっている。
質素な部屋にすみ、たのしみは料理をあれこれ工夫すること。
マネージャーの中田さんにおもいをよせ、
いいかんじかも、とおもっていたのに、
彼はすーちゃんの同僚を結婚相手にえらんでしまう。
まいちゃんと写真館で記念撮影をしたかえり、
すーちゃんはまいちゃんとわかれて反対方向にあるいていく。
きゅうに歳をとってほんとのおばさんになってしまったような、
たよりげなあるきかただ。
わたしがそばにいたら、
「あなたはとてもすてきなひとだ」とすーちゃんの丸ごとを肯定し、
だいすきなことをなんどもくりかえしてつたえ、
ぜんぜん心配しなくていいからとだきしめるのに。

カフェのオーナーが、
「なににむいているか、まわりのひとが気づかせてくれる」
といってすーちゃんに店長になることをすすめる。
すーちゃんは、自分が店長にむいているとはおもっていないが、
オーナーはすーちゃんのちからをみとめていた。
すーちゃんは、まよいながら
あたらしい自分に挑戦することにきめる。
店長になったからといって、
なにかがガラッとかわるわけではない。
しかし、そうしたすこしずつの変化が生きるということであると
すーちゃんはわりきれるようになっている。

それにしても、あんなにきれいで、すてきな女性たちなのに、
負け犬であることをなんであんなになやまなくてはならないのか。
適齢期になっても結婚しない生き方もある、という状況は、
そんなにもむつかしいものなのか。

ここで、くしくもきのうのブログにかいた内容を
またきょうもくりかえすことになる。
ここはやはり「突き抜ける」しかないのではないか
(『負け犬の遠吠え』P273)ということだ。
わたしたちはまだ、負け犬という生き方を
自分たちのものにできていない。
つい、これではよくないのでは、と罪の意識をもってしまう。
つまらないことだとおもう。
深刻にならず、もっとかるくとらえられる術を
いいかげん身につけたいものだ。
『負け犬の遠吠え』が出版されてから10年。
負け犬のポジションと、このあたらしい価値観がはたしたやくわりを、
いまいちど肯定的に確認する時期ではないだろうか。

posted by カルピス at 20:59 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月07日

『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ』(辻村深月)地方の負け犬のむつかしさ

『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ』(辻村深月・講談社文庫)

地方の負け犬についてのはなしだ。
わたしがそうきめつけているのではない。
本書のなかになんども負け犬についての記述がある。
主要参考文献としてあげられているのも
『負け犬の遠吠え』と『結婚の条件』であり、
この2冊を愛読書とするわたしにとって、
地方にすむ負け犬の心理と生態は興味ぶかいものだった。

山梨県の甲府でそだったみずほは、
東京の大学にいき、いったんは甲府にもどったものの、
結婚にあわせてまた東京へでていく。
みずほのおさななじみのチエミは、
甲府の短大をでて地元で就職し、
キャリアがつみあげられることのない
事務職についている。

甲府という町の規模は
わたしがすんでいる町とおなじみたいだ。
都会こそが負け犬の繁殖地であり、
ちいさな地方都市における「30代・独身・子どもなし」へのまなざしは
当事者でなければわからないきびしさがあるのだろう。

結婚し、子どもが生まれたからといって、
順風満帆の人生がひらけるわけではない。
地元企業の若手専務と結婚した政美は、
専務婦人として嫁ぎ先や世間からの
無言の圧力のなかでくらしている。

酒井順子さんがかいた『負け犬の遠吠え』は、
「負け犬ですが、なにか?」という
お腹をみせてのひらきなおりが特徴で、
いま日本にこうした犬たちがふえつつある現象を
かろやかにおしえてくれた。
しかし、いかにかるく・あかるく表現しようとも、
負け犬として生きるのは、とくに地方都市においては、
けしてなまやさしいわけではない。
わたしたちは、『負け犬の遠吠え』から10年たっても、
これまでの価値観から自由になれず、
けっきょくまだこの生き方を肯定しきれていない。

おおくの負け犬が幼稚園のころからその資質をみがいた結果なのにたいし、
じつは、チエミの価値観はもっとも負け犬からとおいものだった。
チエミがおかしてしまったあやまちは、ただひとつだ。

酒井さんの『負け犬の遠吠え』にはちゃんと
「負け犬にならないための十ヶ条」が用意されていて、
そのいちばんはじめに
「不倫をしない」とおさえてあるのに、
チエミはこのマニュアルをいかすことができなかった。
そのほかの点では、いかにも男に肉じゃがをつくって
さっさと結婚してしまいそうななのに、
なぜ大地みたいな男をすきになってしまったのか。
ここが地方にすむ負け犬の、もっともむつかしい点かもしれない。

対処法がないわけではない。
おなじく『負け犬の遠吠え』にある
「負け犬になってしまってからの十ヶ条」
の10番目は「突き抜ける」だ。
どうか地方にすむうつくしい負け犬たちが
つまらないしがらみや男にからめとられずに、
「突き抜け」たあかるい負け犬人生をおくってほしい。

辻村深月さんの本ははじめてだった。
女性の会話のおそろしさになんどもドキドキする。
女性はこんなきびしい人間関係のなかで生きているのか。
角田光代さんの本も、女性のこわさをおしえてくれるけど、
辻村深月のこの本は会話でたたみこんでくる。
女友達との会話、母とむすめの会話。
その迫力に、わたしはとおぼえもできず、
キャンキャンなきそうになる。

500ページちかくの大作でありながら、
こまかな伏線をはりめぐらし、
コントロールしきった力量がすばらしい。
もっと辻村さんの本をよみたくなったので、
まえから本棚にあった『ぼくのメジャースプーン』を手にとった。

『負け犬の遠吠え』も、もういちどよんでみたくなった。

posted by カルピス at 11:38 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月06日

「自分でえらんだ人生」だけど、どうえらんでもじつは正解

しりあいとはなしていたら
「自分でえらんだ人生」ということを、ないげなくいわれた。
ベタな表現ではあるけれど、
ほんとうに人生は自分でえらんできたことの結果といえる。
いまさらながらすごく新鮮にきこえた。
自分がやっているすべてのことは、
自分がえらんできたことなのだ。
職業も、進路も、いまの生活も、なにをたべたかさえ、
きめたのは自分だ。
Wカップブラジル大会へ、応援にいくのも、
テレビ観戦でがまんするのも、きめるのは自分だ。
そして、自分できめたという責任がある。

あらためておもいかえしてみると、なにかの目標をたて、
長期的にコツコツとめざした体験はスポーツだけで、
あとはみんななりゆきといえる。
「やめる」判断は自分でしてきたけれど、
「やる」ことにかんしては
なんとなく、とか、まきこまれて、みたいなものばかりだ。
それで後悔しているかというと、そうでもないし、
あんがいほかのひとのおおくも
なりゆき型がおおいのではないかとおもう。

ただ、自分できめることのできるしあわせをおもった。
国によっては政治的な条件で
選択肢がないところもあるし、
生まれた環境によっても、
すべてを自分ではきめられないひとがいる。
戦争はそのさいたるものだろう。
『バンド・オブ・ブラザーズ』をみていたとき、
ドイツ兵にむかってアメリカ兵が
「おれの人生をめちゃくちゃにしやがって」とののしっていた。
政治的なことをいえば、「おたがいさま」ともいえる戦争も、
徴兵され前線でたたかう兵士にとっては
こんな目にあわせやがって、とたまらないおもいだろう。
大震災にしたって、個人のちからではどうにもならない
運命としかいえない(そこに原発などがからんでくるからややこしい)。
いまという時代にうまれ、自分でえらべる環境にある(あった)ことが
どれだけしあわせなことか。

それにしても、いまわたしがこうしているのも、
自分でえらんだ結果だとおもうとすごく不思議だ。
こうやってパソコンにむかうこともできるし、
本をよむ選択もあった。
べつの仕事をはじめようと
ゴソゴソうごきまわることもできる。
もちろん、やろうとおもえばなんだってできる自由は、
失敗し、おなかをすかせる自由でもある。

このごろよくのこされた時間についてかんがえる。
わたしが自由につかえる時間はあとどれだけあるのだろう。
年をとってくると、ますます「自分でえらぶ」ことが切実になってくる。
家族や自分の健康など、えらべる範囲がせまくなるせいだろうか。
手もちのカードはすくないし、
とびきりのエースなんかもうのこっていない。
それでも「おりる」わけにはいかないので、
きょうもきのうとおなじような時間をすごす。
もしかしたら、どう選択しても
おなじような人生をおくるのかもしれない。
きのうとおなじ日をおくることは、
それはそれでしあわせなことかもしれない。

posted by カルピス at 09:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月05日

Wカップ出場決定おめでとう! 遠藤の「みなさん、アリガトー!」がこころにひびく

ザッケローニ監督のベストメンバーは、
けっきょくこのひとたちなんだな、ということがよくわかる11人。
前田・香川・本田・岡崎・長谷部・遠藤・内田・吉田・今野・長友・川島。
ザッケローニ監督は大切なこの試合に、ケガや体調が心配されていた
岡崎・本田・長友をピッチにおくりだした。
ヨルダン戦で消極的な試合をしてしまった反省からか、
この試合ではゲーム開始から気迫がつたわってくる。
しかしオーストラリアもよくまもり、
最後のところは自由にさせてくれない。

オーストラリアはロングボールをあまりいれてこない。
それでいてケーヒルにいやなパスが何本もはいるのだから、
日本対策をしっかりねってきたのだろう。
それにしても、あいかわらずラグビーとかんちがいしてるみたいなサッカーだ。
さいわい審判がへんな笛をふくことはなく、
選手も、みているほうも、試合に集中することができる。
後半はずっと日本のペースで試合がすすむ。
それでもときどきスキをついて
オーストラリアはゴールにせまってくる。
30分には決定的な場面を吉田がふせいだ。

ザッケローニ監督は、前田をさげて栗原をいれてくる。
センターバックに栗原、今野をサイドバックにして、
長友をまえにだしたかたちだ。
それまでのバランスがくずれそうで、
選手交代のむつかしいタイミングだった。
その直後にオーストラリアが左サイドからクロスをあげ、
それがそのままゴールにすいこまれてしまった。
シュートではなく、くるしまぎれのクロスにみえたのに、
川島がのばした手のうえをボールがとおりすぎる。
サッカーによくあるありえないゴールだ。
こういう点がはいるときは、
ながれが相手にかたむいてしまうので
いやな予感が頭をかすめる。

そんななかで後半ロスタイムに本田のシュートが相手のハンドをよびPKへ。
本田がいつものようにゴールのまんなかにけりこみ、
劇的な同点ゴールとなる。
このときにすでにロスタイム3分のうち2分をつかっていた。
そして、歓喜のどよめきがおさまらないうちに試合終了。
Wカップ出場をきめることができた安心感とよろこびが、
じわじわと場内をつつんでいく。

かんたんそうでいて、やっぱりそれなりの苦労があった出場決定。
これまでの3回とくらべると、ずいぶん余裕があったのに、
ヨルダン戦できめきれなかったプレッシャーが
だんだんとチームをかたくしていった。
冷静にかんがえれば、日本の絶対的有利はうごかないものの、
それでもながれやいきおいは、チームの状況をいきもののように左右する。

試合後のインタビューには、ザッケローニ監督・PKをきめた本田
・長谷部キャプテンなど、なんにんもよばれる。
みんなホッとひといきつき、素直な笑顔をみせる。
遠藤でさえいつもとちがっていた。

司会 「しびれる試合でしたね」
遠藤 「みなさん、アリガトー!」
司会 「さいごにひとことおねがいします」
遠藤 「みなさん、アリガトー!」

めずらしくおおきな声で、ほえるようにいう。
半分冗談で、半分本気だったとおもう。
なんだかんだいっても、チーム全体に
ものすごいプレッシャーがかかっていたのだ。
出場をきめることができたのは、
この日も6万人以上つめかけてくれた
サポーターのおかげでもあった。
選手のおおくがその感謝をくちにする。

香川もすがすがしい表情でインタビューにこたえていた。
前回の大会では、ベンチにもはいれなかった香川が、
いまでは攻撃の中心選手として、絶対的な存在にそだっている。
それに、本田はいつからこんなに存在感を発揮するようになったのだろう。
あれから3年しかっていないのに、
サッカーではおどろくほど状況がかわっている。
ブラジル大会までの1年間に、
まだまだ選手の顔ぶれはかわっていくだろう。
ながい期間にわたる予選をとおして、
すばらしい姿勢をしめしてくれた選手たちに感謝し、
これからのさらなる活躍に期待する。

posted by カルピス at 08:31 | Comment(0) | TrackBack(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月04日

公安のとりしらべがおかしい『西南シルクロードは密林に消える』(高野秀行)

NHK特集でミャンマーにおけるカチン独立運動について
「潜入・カチン戦闘地域」をやっていた。
番組じたいはあまりよく整理されていない内容で、
たいしておもしろくない。
ただ、カチンつながりで、高野秀行さんがこの地域について
本をだしていたことをおもいだした。

中国からカチンをとおってインド領までぬける
『西南シルクロードは密林に消える』(高野秀行・講談社)だ。
ビルマ北部では少数民族のゲリラと政府軍による
紛争がながくつづいていた。
高野さんはゲリラのしりあいをつてに
カチン独立軍を紹介してもらい、
このルートを陸路で走破するための協力をとりつける。

高野さんは日本人カメラマンとともに、
カチン軍兵士2人と運転手という編成で出発する。
ふたりの日本人とも、もちろんカチン人になりすましての密行だ。

それなのに、しばらくいくと、
あっけなく中国の公安につかまってしまう。
カメラマンの荷物にあった大量のカメラ機材と
高野さんがもっていた手紙に「日本の友人へ」
とかかれた手紙がみつかり、

「こいつらはカチン人じゃないぞ」
「日本から来たみたいだ」

と身元がばれて、高野さんははやばやと観念する。

しかし、ばれなかった。
カチン軍兵士は徹底的にしらばっくれる。

「『彼とは話ができません。カチン語をしらないんです』
『は?カチン人がカチン語を知らない?そんなわけないだろう』
ここの時点でおとぼけも限界だと私は思った。
公安の連中もそう思ったはずだ。
しかし、カチン人のゲリラはしぶとい。
「いや、長いこと日本に行ってたんで忘れちゃったんですよ』
と中尉がとんでもないことを言い出した。
『旅行じゃないのか?』
『留学してたんです』運転手が答えた。
『留学?何年間?』
『5年か6年』
『何を習ってたんだ?』
『写真の撮影です』
『それで、カチン語を忘れたって?5年か6年でか?』
『いや、子どものときに行ったんですよ』と急に中尉が口をはさんだ。
『子どもって、何歳くらいのときだ?』
『う〜ん、10歳くらいかな』
『今、彼らは何歳なんだ?』
『30歳です』
『てことは20年間、日本へ行ってたのか?』
『そう、そう。20年も行ってればふつう忘れますよね』(中略)

『彼らはカチン軍が幼少のときに日本へ送り込んだ人間です。
大学を卒業し、一人前のカメラマンになった今、
祖国の独立のため、撮影兵士として帰還したんです!』
私を含め、全員が呆気にとられているなか、
中尉と運転手の合作アドリブはどんどんエスカレートしていった」

らちがあかないので、そのあと高野さんたちは
おおきな町にある警察署へつれていかれる。
こんどはさらにきびしい尋問にあうのだが、
それさえもウソをならべてのらりくらりとはぐらかす。

「『おまえたちはあいつらと何語で話してるんだ?
まさか言葉が通じないで一緒に行動しているわけもないだろう』
これまで公安側の誰も気づかなかった盲点である。
カチン人たちはまたヒソヒソと相談している。
きっとろくな相談じゃない。
『英語ですよ、英語』と中尉が当たり前のような顔をして言った」

けっきょく証拠不十分ということで、
高野さんたちはおとがめなしで釈放される。
中尉がメチャクチャをいってねばったのは、
中国はまがりなにりも「民主国家」だから、
決定的な証拠がなければ処罰されない、という確信をもっていたからだ。
中国を「民主国家」と評価するカチン人もすごいが、
ほんとうにそのとおりになったのだから、
国と国(カチン国としてみとめられていないが)のちから関係やバランスは
国境の最前線にいる彼らのようなひとが
いちばんよくしっているのかもしれない。

高野さんたちの一行は、その後もインドをめざしての密航をつづけ、
とうとうゴールであるインド領の町にたどりつく。
高野さんのルポものでは、
わたしはこの『西南シルクロードは密林に消える』と、
アヘン栽培をじっさいに体験し、
自分もアヘン中毒になってしまうという
『アヘン王国潜入記』(高野秀行・集英社文庫)
がわたしはすきだ。
だれもいかないところへいき、
だれもやらないことをするという、
高野さんのよさがよくいかされている。
そして高野さんの語学力も。
『西南シルクロードは密林に消える』には、
高野さんがビルマ語をはなしてきりぬける場面がある。
たしかにビルマ語ではあるけれど、
ぜんぜん関係のないことを高野さんがいうと、
例の中尉がしっかり中国語に翻訳してくれる。
とはいえ、それでもビルマ語っぽくはなせるなんてすごい。
「そう、そう。20年も行ってればふつう忘れますよね」という
調子のいい中尉のいいわけとともに、
なんどよんでもわらわせられる。

高野さんのブログをよんでいたら、
「高野本の未知なる領域」として、
あたらしい「間違う力」のつかい方がかかれていた。
精神をやみ、会社をやすんでいるひと10人に
高野さんの著書『間違う力』をおくったら、
8人のひとが仕事にもどれたという。
「オンリーワンの10ヶ条」のなかの
「長期スパンで物事を考えない」が
いちばんうけいれられたそうだ。
高野さんの本の魅力はまだまだ奥がふかそうだ。

posted by カルピス at 13:23 | Comment(0) | TrackBack(0) | 高野秀行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月03日

三振だらけでも、「とにかく打席に立つ」勝間和代さん

整理していないエバーノートをよみかえしていたら、
「とにかく打席に立つ」というノートがあった。
勝間和代さんのブログをクリップしたものだ。
よみかえすと、以前クリップしたときに感心したのをおもいだした。

これは、勝間さんの友人である広瀬香美さんが
ツイッターでつぶやいたことを
勝間さんがブログにとりあげたものだ。
広瀬さんは、とにかく「打席に立」とうとする勝間さんを
みならうようになったという。

「私が和代さんを尊敬するところは、挑戦の数です。
和代さんは私が1つ挑戦する時、5つ挑戦します。
打席数が多いんです。RPGの練習時間が多いんですよね。
ですから和代さんだけが特別能力があり、
どんどんびゅーんと人生の成功へ向けて
駆け抜けているように見えるかもしれませんが、
実はそうではないです。
和代さんは成功への速度も速いですが、
私より失敗=空振り三振の数も多いと言うこと。打席数が多いんです。
和代さんはためらわずどんどん沢山挑戦するから、どんどん進む」

「とにかく打席に立つ」ことの大切さとともに、
そうしたパワフルなひとのもつ共通点にひかれた。

「パワフル人間の共通は、『明るく、元気』です。とにかく、前向き!
笑っちゃうほど前向き!これが、特徴です。(中略)
さらにパワフル人間の共通は、他人を憎まない。足を引っ張らない。
妬まない。皮肉らない。意地悪しない。です。
彼らはむしろ、敵をも家族とみなし、良くなるように助けようとする。
心にまったく悪意がないんですよ。(中略)
人生まさに、本番まっただ中!他者を気にして、
他者との距離を心配して足を引っ張っている場合じゃないですよね」

「明るく、元気」「とにかく、前向き」はいまさらどうしようもないけど、
それ以外については、自分のことをかかれているようではずかしくなる。
ひとのことをどうこう批判するエネルギーがあるなら、
それをもっとちがうことにつかったほうがたのしいだろう。
「人生まさに、本番まっただ中!」なわけだから、
自分の人生を生きるしかない。
やらなかったことを後悔してのさよならは、とてもおそろしい。

勝間さんは
「とにかく、何か行動を起こして、失敗しないと、前に進めないのです」
ともかいておられる。
成功の影には三振の山がきずかれている。
成功ばかりのぞむのはおかどちがいなのだ。
失敗をおそれず打席にたつ。
なにが「打席にたつ」ことかはひとによってことなる。
きっとうまくいくから、きょうも打席にたとう。

posted by カルピス at 10:27 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月02日

倉下忠憲さんの「今日の一言」に感心している

倉下忠憲さんのブログに
「今日の一言」というのがあって(でどころはツイッター)、
人生の真理をおしえられる。
まいにちよくこんなに気のきいたことを
おもいつくものだと感心している。

・火事場で人を評価しないほうがよいかもしれない。
 (火事場の馬鹿力って、やっぱり火事場だから出るんですよ)
・当たり前のことを、当たり前じゃないようにやる。
 (やるべきことは基本的なことでいい。
 それを驚くぐらい心を込めて行う)
・孤独であるからこそ、つながることができる。
 (どこかに癒着していると、他とのつながりが作れないですね)
・どうしようもないことは、基本どうしようもない。
 (どうしようもないことを、どうにかしようとすると、何かが歪んできます。
 どうにかできることに、全力で向かう、というのがよいでしょう)

なるほどなー、とおもう。
火事場の馬鹿力がないひとについて、
「いざというとき」はあんまり役にたたないけど、
いざというとき以外の場面で、
地道にとりくめるつよさを評価したいとおもっている。
わたしもあきらかにこのタイプで、
いざというときにはまるでたよりない。
「いざというとき」ではない時間のほうが
ずっとおおいのだから、
こういうひとの存在もみとめられたほうがありがたい。

「当たり前のことを、当たり前じゃないようにやる」のも
いわれてみればそのとおりだ。
なれてくると、とかく惰性にながされやすい。
どんなことにもはじめてのようにこころをこめて、
ていねいにむかいたい。
なれてるような顔でスカしているより、
なんどもやったことにでも
こころをときめかせたほうが、ずっとたのしい。

「ほぼ日」の「言いまつがい」にもいいことばがのっていた。

私が帰宅すると、夫がテレビでサッカーを観ていました。
「どこ対どこ?」と聞くと、「日本対コロッケ」
見ると夫はコロッケ弁当を食べていました。本当は「日本対トルコ」。

いい関係のご夫婦なのだろうとおもう。
もしかして、日韓ワールドカップの決勝リーグで
日本がコロッケにやぶれた試合だろうか。

posted by カルピス at 09:20 | Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月01日

キリンチャレンジカップ、日本対ブルガリア

6月4日のWカップアジア最終予選、
対オーストラリア戦をまえにおこなわれた親善試合。
日本は前半に3バックをひさしぶりにとりいれる。
0-1で前半をおえると、後半からは4人の選手をかえ、
4バックにもどしている。結果としては、0-2と完敗した。

失点した前半3分のフリーキックのとき、
壁としてたつ遠藤がマークの確認をしていた。
だれがどの選手をみるのかを指さししている。
これが遠藤のジェスチャーかとうたがうほど
自信なさげだ。
別の場面でも、今野がなさけない顔をして
なにかをうったえているところが画面にうつった。
3バックとは関係ないことだったかもしれないけど、
この2つのできごとは、
この試合の日本チームを印象づけるものだった。

後半から4バックにもどした日本は
15分まで圧倒的にボールを支配する。
ながれからブルガリアの守備陣をくずし、
なんどもチャンスをつくるが
得点をあげることができない。
23分に中村憲剛がはいってきた。
憲剛を起点にしてボールがよくまわりはじめる。
これをつづけていればいずれ得点が、
とおもっていた25分にブルガリアのフリーキックから
また失点してしまう(長谷部のオウンゴール)。
このあとは試合がおわるまで
日本は不安定になりボールがおちつかない。
ボールを支配できるときと、
自信をうしなったときの両面がみれた後半で、
印象にのこるのはオフサイドをいくつもとられたことだ。
うまくまもられてしまった、というかんじ。
課題といわれていたセットプレーでも
もろさをみせる。
つぎのオーストラリア戦で、
たかさをいかしてどんどんほうりこまれたときのことが心配だ。

親善試合であり、戦術や選手の体調を確認するためには
さほど結果が重要な試合ではなかった。
しかし、手ごたえのある内容だったかというと
そうでもない。
ジーコ監督のときのようにつみあげ感がなく、
岡田監督のときのように自信なさげな代表戦だった。

posted by カルピス at 13:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする